金融の仕組み


 貨幣的市場を考える上で重要なのは、貨幣が流通する経路である。どの様にして、貨幣は、生じ、どの様にして市場に流れていくのかの仕組みである。

 金融制度の役割とは何か。
 第一に、貨幣の役割の本質は、交換手段だと言う事である。市場の問題は、交換機能が上手く機能しなくなることで生じるのである。
 そして、市場経済では、生活に必要な物資は、市場から調達せざるをえないという事である。また、交換に必要な貨幣が、市場に流通していることが前提となる。そして、貨幣を分配する仕組みの存在が前提となり、また、貨幣の持つ価値が市場の信認を得ていることが前提となる。

 また、貨幣的(金的)市場は、金融市場を土台にして成立している。金融制度は、貨幣的(金的)市場のインフラストラクチャー、基盤である。つまり、金融制度の目的は、貨幣の働きを目的にそって正常に発揮させることである。

 金融市場が成立する為には、第一に、一定量の貨幣が、市場に流通している事。第二に、貨幣が市場に循環している事。第三に、貨幣が、消費者に行き渡っている事。第四に、貨幣価値が信認されている事。第五に、貨幣価値が安定している事である。

 故に、金融制度の役割は、第一に、貨幣を発行し、市場に一定量の貨幣を流通させる事。第二に、貨幣を市場に循環させる事。第三に、貨幣を生活者に万遍なく行き渡らせる事。第四に、貨幣価値の信認を維持し、貨幣が有効に機能するような環境を整える事。第五に、貨幣価値を安定させる事である。

 金融制度の役割を果たすためには、貨幣が流通し、循環する過程が重要となる。貨幣が市場で働く個々の過程の局面で、いかに、貨幣の量と働きを制御するかが、金融制度の役割を有効たらしめるかを決めるからである。つまり、金融制度は、貨幣の流通する過程と、貨幣を流通させる仕組み、そして、貨幣の働きが鍵を握っているのである。

 貨幣が流通する過程は、第一に、発券がある。第二に、市場に対する供給がある。第三に、配分がある。第四に、循環がある。第五に、回収がある。第六に消却がある。
 そして、貨幣市場を構成する要素には、第一に発券機関がある。第二に、供給機関がある。第三に、配分機関がある。第四に、貯蔵機関が必要となる。第五に、消費機関がある。第六に、回収機関がある。第七に、消却機関がある。

 重要なことは、金融制度の基幹的な部分である金融機関や財政機関は、実体的、直接的生産手段を持たないという事である。金融機関や財政当局は、サービス機関だと言う事である。

 金融危機は、金融市場が正常に機能していない事が原因である。金融市場が正常に機能しないのは、目的と手段、当事者の現状認識の不整合にある。貨幣を流通させるどの局面、また、仕組みのどの部分で、貨幣の流量や貨幣価値の水準をどの様な手段で制御するかが重要なのである。また、通貨の状態をどの様に、何を基準にして監視するかが鍵を握っているのである。

 金融制度では、貨幣が決定的な役割を果たしている。金融制度が成り立つためには、基本的な前提がある。
 故に、貨幣の本質と金融制度を成り立たせている前提に基づいて金融制度の役割を明らかにする。

 また、貨幣の働きを引き出す要素として、金利が重要な役割を果たしている事を忘れてはならない。

 貨幣には、交換手段以外に、支払手段、受取手段、貸付手段、借入手段、決済手段、分配手段、貯蓄(保存)手段と言った手段がある。

 金利は、交換、支払、貸付、借入、決済、分配、貯蓄(保存)の各局面で重要な働きをしている。

 金利の働きには、第一に、資金循環の促進。第二に、投資の誘因。第三に、決済の促進。第四に、貯蓄の動機付け。第五に、時間的価値の形成がある。これらの働きは、金融市場の本質的な働きを支えている。金融市場は、金利によって成り立っているとも言える。

 市場を構成する者は、貨幣を介して交換手段や支払手段、受取手段、決済手段、貸付手段、借入手段、分配手段、貯蓄(保存)手段を所有することができる。

 貨幣の最終受取手の多くは、市場から直接、貨幣を受け取るわけではない。何等かの機関や組織を介して貨幣は、所得として、分配されるのである。故に、市場だけが貨幣や財の分配を行っているわけではない。
 最終消費者は、むしろ、貨幣は組織を通じて、財は市場を通じて、調達している場合が多い。

 近代的貨幣経済は、初期段階において戦争、税制、国債、体制の変革と言った要素が、複雑に絡み合って成立した。それは、貨幣の市場に対する供給や浸透が社会や国家構造と密接な関係があることの証左である。
 そして、社会的混乱が伴って貨幣制度は確立された事を忘れてはならない。

 貨幣は、貨幣の量と価値を制限することによって市場に信認される。故に、貨幣は、貨幣の量と価値を制限するために、何らか裏付けとなる物、担保する物が必要となる。
 担保する物として有名なのは金である。金の他には、国債、公債(鉄道債のような事業債等)、徴税権、土地、権利(特許権)、預金などがある。明確に、担保する物が示されていない場合は、国債か徴税権が担保されているとして仮定される。

 貨幣は、空気のような存在では市場では機能しない。貨幣は、それ自体が交換価値を持つ必要がある。その為には、貨幣は有限でなければならない。貨幣が有限であるためには、貨幣には、何等かの制約が働き、その上に、何等かの保証と強制力が働かなければならない。

 「お金」というのは、湧いてでるものではなく。作る物である。
 価値は、本来、必要性を測る基準である。市場経済が確立されるに従って市場の働きが価値を形成するようになる。市場の働きの第一は、需要と供給を調整することである。

 通貨量の制御が問題なのである。通貨量が生産力を上回らないように制御する必要があるのである。

 市場に流通する貨幣の量は、発行された貨幣の量を超えることはない。市場における貨幣価値の総量は、供与された信用の総量である。即ち、債務の量の和である。
 例えば、企業の総資産、総資本の量は、負債と資本の和だと言うのと同じである。

 商品券、プリペイドカード、手形、譲渡可能な預金、小切手なども、表象貨幣の一種、或いは、変形した表象貨幣といえる。その証拠に、商品券、プリペイドカード、手形、譲渡可能な預金、小切手などは、補助貨幣として使用される事が往々にしてある。
 故に、紙幣の仕組みは商品券やプリペイドカード、譲渡可能な預金、小切手などを観察するとよくその特徴が現れている。
 商品券を例にとると、商品券を発行すると、商品券を介して同量の債権と債務が発生し、発行元は、同量の現金(紙幣、或いはコイン)を手に入れることができる。これらの債務、及び、債権は、商品と商品券が交換され、実際の取り引きが実現し、また、取り引きが完了して、商品券が商品券の発行元に回収されることによって解消される。
 商品券が担保しているのは、商品券の発行元が保証している商品取引の対象商品である。そして、商品券の発行元と顧客との関係を成り立たせているのは、商品券の発行元に対する顧客の信用である。更に、商品券の発行元に対する顧客の信用関係は、契約によって保証されている。
 ただし、商品券は、表象貨幣としての機能が制約されている。商品券の機能が制約を受ける原因の一つは、商品券の発行主体と取り引き主体が同一だという点である。発行主体と取り引き主体が同一な場合、流通する範囲や効用の範囲が特定され、限定的になる。
 商品券を介した取り引きが通常の取り引きと違うのは、商品券を発行することによって手に入れた現金を運用することができることである。
 この点が商品券を発行する動機である。動機であると同時に責務でもある。つまり、運用益が充分に得られない場合は、負担だけが増加するのである。そして、その運用益をもたらす最大の要素が時間なのである。時間の運動の一部は、金利や回転として表現することができる。
 運用の範囲と責務の範囲が商品券の発行量を制約する。運用の範囲と責務の範囲は、時間の関数で表される。
 この様な商品券の特性は、表象貨幣の特性をよく反映している。

 金融制度の役割には、第一に、貨幣の発行、発券がある。第二に、貨幣の流通の促進、循環がある。第三に、貨幣価値の維持、保証がある。第四に、貨幣価値の蓄積、貯蔵がある。第五に、貨幣の流通量の調節がある。第六に、貨幣の貸与、即ち、与信管理がある。第七に、貨幣の出入管理がある。

 支払手段は、消費を、受取手段は、所得を決済手段は、取り引きの完了を意味する。
 取り引きによって同量の債権と債務が派生し、それを仲立ち、仲介するのが現金である。故に、取り引きが成立した時点では、貨幣価値は、常に均衡している。利潤は、時間的差や地域的差と言った市場に派生する格差によってもたらされる。

 貯金、預金、貯蓄とは、支払手段を保存、貯蔵すると同時に、支払手段の権利を貸与する行為でもある。
 銀行を他の金融機関と区別する特徴の一つに預金の受け入れがある。それは、預金が銀行の本源的機能、業務の一つだからである。つまり、預金とは、市場を通じて消費的部分から資金を吸い上げ、それを生産的部分に環流する手段だからである。そして、銀行は、消費的部分から生産的部分に資金を環流する装置、機関なのである。

 貨幣制度を確立するためには、貨幣を市場に循環させる必要がある。その為には、貨幣をどの様にして市場に供給し、どの様にして貨幣を市場から回収するかが重要となる。貨幣は、財政施策、即ち、国家の支払によって市場に供給され、納税によって市場から回収される。その為に必要とされるのが公共事業や行政費用、福祉政策である。つまり、国家事業、行政、所得の再分配といった事業を通じ貨幣は市場へ供給される。
 市場に存在する貨幣価値の総量は、民間の債務の総量である。民間の債務の総量は、銀行の借入、即ち、預金の総量である。預金の総量は、財政期間における通貨の回転数によって決まる。

 貨幣が流通するためには、貨幣を発券したところから、市場に何等かの形で放出される必要がある。
 そして、貨幣は、回収されることによって環流する。また、回収を前提としたところで信認される。ただ、出しっぱなしでは、貨幣は、環流しないし、また信認されない。つまり、貨幣の流通、管理に関して、貨幣を発行したところが、責任を持つから貨幣は信認されるのである。その為には、貨幣の一部は回収される必要がある。

 貨幣の回収において税制度の働きがある。税の働きは、税の仕組みや性格に左右される。税を課す対象、税の構造、税の回収手段などが貨幣の働きに及ぼす影響によって市場の有り様、経済現象に違いが生じるのである。 

 税の働きは、単に、財政上の支払手段を得ると言う事だけではなく。貨幣を市場に循環させるという働きも重要な働きの一つなのである。その為に、所得の再分配という働きを忘れてはならない。この点から見ても貨幣の分配は組織的要素が強い。

 先ず、紙幣は、支払手段として市場に放出され、受取手段として市場に浸透し、交換手段として流通する。
 また、支払手段の一部は、受取手段に転化する段階で、日本では、税として回収される仕組みになっている。受取手段は、更に、支払手段と貯蓄手段になる。
 貯蓄手段は、貨幣価値を保存すると同時に、金融機関に対する貸付手段をも意味する。貸付とは、支払手段を貸与することによって金利を得る行為である。

 支払手段として支出された紙幣は、預金となって銀行に蓄積される。この預金が、貸出、即ち、信用を供与する根拠となる。

 金融機関に蓄えられた貨幣は、経営主体や家計、企業に貸し出されて生産手段や生活手段に費やされる。

 貨幣その物は、生産手段や生活手段を持たない。貨幣は、生産手段や生活手段を得る手段なのである。

 金融機関に貯められた貨幣は貸付手段として経営主体や家計へ供与される。ただし、この際、貨幣が現金という形で直接、経営主体や家計へ供給されるのではなく。銀行から見て貸付金と言う債権、受けてから見て借入金という債務として証書ないし、帳簿上において処理され、貨幣は、金融機関内部に留められる。実際には、大部分は、一定の期間が経過した後、銀行間において決済され、一部は現金として引き出され、消費にまわされる。
 そして、会計上においては、借入側、即ち、受け手側は、貸方側に名目勘定として計上され、借方に実質的勘定として計上される。

 実物資産と言っても現金があるわけではない。売れば、その時点の現金価値に相当する資産があると言うだけである。そして、実質的価値は絶えず変動している。

 時価会計というのは、内在的価値を顕在化する手法であるが、それは実体のない取り引きを前提とすることになる。また、内在的な時間価値にも限界がある上に、ストックの価値の上昇を前提として成り立つことになる。そのため、一度、ストックの価値が下降しはじめると逆効果になる。

 貸付には、設備投資のような長期資金と運転資金のような短期資金がある。家計にも住宅資金のような長期資金と生活費のような短期資金がある。
 長期資金と短期資金は、性格を異にする。長期資金は、債権と債務を形成し、ストック部分を形成するのに対し、短期資金は、主として消費に使われ、フローの部分を形成する。 ストック部分の動きは、貸借上に現れ、フロー部分の動きは、損益上に現れる。

 長期資金というのは、社会資本や経営資本を形成する資金であり、通常、流動性が乏しく、表面に現れてこない資金である。それに対して、短期資金というのは、日常的経済活動の原動力となり、流動性の高い資金である。長期資金が流動化すると短期資金の流動性が低下するという関係にある。

 フローというのは、主として金利によって構成され、ストックの部分の名目的価値が実在すると仮定して成立しているのである。ストックの部分の名目的価値が既存している、或いは、実在しないという事になると途端に成立しなくなる。その場合は、ストックの部分にまで返済圧力がかかることになる。元々流動性というのは、フローの部分を指して言うのであるから、ストックの部分まで含めて流動性を求められれば、即、資金は涸れてしまう。

 金利は、金融制度がその働きを発揮する個々の局面において重要な役割を果たしている。故に、金融機関の役割は、金利の管理といっても過言ではない。

 金利の働きの中で重要な働きの一つが、財に、時間価値を附加することである。

 金利によって付加価値が生み出され、時間価値が貨幣価値に附加される。故に、金利は時間の関数として表される。金融機関は、借入、貸出の金利差を活用し、また、金利の時間的働きを利用して、貨幣の流通を促進する。そして、金利を制御する事によって金融機関は、収益を生み出すことが可能となる。

 また、景気を占う上では、投資先や投資の構成が重要となる。投資には、設備投資、住宅投資、公共投資、在庫等していった実物投資の他に、株や債権、不動産、商品相場と言った投機的投資がある。投機的投資というのは、名目的資産に対する投資である。この様な投資は、名目的価値に対する投資、貨幣に対する投資を意味し、過剰流動性の原因となる。つまり、実体を伴わない投資となりやすい。

 もし、景気の回復を計りたいのならば、実体のない投資や予測のつかない投資、つまり、博打のような投資は、避けるべきである。原則は、既存の基幹産業の収益を改善するような投資を優先すべきであり、予測がつかない新規産業への投資は、慎重にすべきなのである。

 貸付というのは、一般に、原則として現金取引でないことに注意する。つまり、銀行間取り引きである。その為に、銀行間の内部決済市場の存在が前提とならなければならない。
 金融危機は、この内部決済市場の流動性が喪失することによって起こる場合がある。内部決済市場の流動性の喪失を防ぎ金融制度を維持するためには、内部決済市場の流動性が低下したときに資金を供給する仕組みが必要となる。内部決済市場で資金が不足した時を想定した場合には、銀行間の決済取り引きを保護する機関を予め設置しておくことが有効である。それは、中央銀行の役割の一つとすることも可能である。

 金融機関には、預金と同量の現金が、常に、蓄えられているわけではない。金融機関は、資金を環流させるための装置に過ぎない。故に、金融機関に蓄えられている現金の量は、預金量に比べてごく僅かである。

 貨幣の回転が市場価値を増幅し、取り引きの量が市場における貨幣価値の量を決定する。
 預金は、資金の回転によって発生する残像であり、名目的価値を形成する。それが乗数効果を派生させる。
 銀行の貸借対照表上の預金と言う科目に記載されている金額の現金が、銀行にあるわけではない。

 現金取引でないという事は、信用取引だと言う事を意味し、実際に必要とされる通貨量(貨幣量)は通常、限定的だという事である。ただ、信用不安が発生すると大量の現金通貨が必要とされる場合があり、決済資金が不足する危険性がある。その様な場合は、貨幣の発行権を持つ機関が直接資金を供給する様な処置を講ずる必要がある。

 銀行の不良債権が処理されても銀行の名目的債務が減少しない、言い換えると実質的勝が減少しても名目的価値が減少しないのは、銀行の借入金、すなわち、預金が減少しないからである。つまり、銀行の貸付金と預金とは連動しているわけではないからである。銀行の不良債権を貸付先が処理しても、損益に計上され、預金が減額されるわけではない。
 銀行から見て貸付先、つまり、借り手にとって銀行の不良債権は、不良借入であり、不良資産でもある。この様な不良資産、例えば不動産を処分してもそれを購入した先は、通常、預金を取り崩すのではなく。新たな借入をして購入することになる。いずれにしても預金が減少するわけではない。むしろ増加するくらいである。しかも不況は、それでなくとも消費を控えて預金を増やす傾向が高くなる。
 重要なのは、銀行預金と貸付金は連動していないという事である。この点を理解しておかないと資産価値が下落して引き起こされる、つまり、実質的価値の下落によって引き起こされる金融危機に対する対処の仕方を間違うことになる。つまり、いくら不良債権を処理しても資産価値が下落し続けている限りは、実質的価値と名目的価値は乖離幅が増大し続けると言う事である。しかも不良債権を処分すればするほど資産価値の下落に拍車がかかることになる。

 金融市場というとどうしてもその入り口にある企業貸付に目がいってしまう。しかし、金融市場においては、その出口である消費も重要な働きをしている。中でも消費者金融は、金融制度の半面を形成している。それでありながら、消費者金融の概念すら確立されているとは言い難い。しかも、消費者金融は、家計に直結している。
 景気の動向を云々する時に、消費の動向は、常に問題とされながら、経済学において、消費の仕組みは問題にされる事は少ない。それでは、景気の抜本的な解決はできない。

 家計は、消費を主導すると同時に、銀行に預金として資金を供給する。預金は、銀行にとって借入金であるから、預金量に応じて資金を運用しなければならない。つまり、預貸率が銀行にとって重要な指標となる。また、運用先が問題となる。
 故に、家計の動きは、銀行の経営を左右する重要な動きの一つである。特に、インフレーション時、デフレーション時の家計の動きと構成には、充分留意する必要がある。

 物の生産と消費、それに対する通貨の市場への供給、そして、消費者の欲求、必要性、それが景気を決定付ける要因である。これらの要素の均衡が崩れると景気が変調する。
 例えば住宅市場である。サブプライム問題の本質は、住宅問題であり、それに関連した住宅ローン、消費者金融の問題である。
 住宅市場においてどの様な過程、仕組みによって不良債権、不良債務が発生したか、発生しているかが鍵を握っているのである。
 その背景には、住宅市場の状況がある。住宅市場を改善しない限り、サブプライム問題は解決できない。そして、住宅市場の環境は、住宅市場の成熟度の問題という側面も持つ。
 住宅も着工件数が一巡すればストックが蓄積され、新規の住宅需要は低下するるのである。必然的に、新規の住宅需要開拓は難しくなる。だからといって既存の住宅を壊してしまえという発想は乱暴である。既存の住宅があるから市場の拡大が阻害されているのだから、戦争によって既存の住宅を焼き払ってしまえと言う事になりかねない。市場が成熟したら仕組みや規制、ルールを変える必要があるのである。

 いずれにしても、住宅に対する国家構想であり、社会的合意である。一体、国民生活における住宅をどの様な状態にしたいのかと言った構想や思想が、前提になければ住宅問題は解決できないのである。

 そして、消費者の嗜好が家計の構成、動向を決め。景気に対して決定的な影響を及ぼすのである。根本にあるのは、消費者の思想であり、行動規範である。それが金融制度の在り方の方向性を決める。

 貨幣制度は、国家を単位とするのが基本である。貨幣単位が国家を単位とする事によって金融制度も国家を単位として形成される。その為に、国家間の貨幣価値の変動や金融制度の違いを調整する必要が生じる。

 金融機関には、国際間を調整する機能と機関が設定されている。また、国家間の決済を取り仕切る国際決済制度が確立されている必要がある。
 この様に、世界が一定の条件で交易を継続するためには、国際的な共通基盤を必要とする。必然的に超国家的な機関の存在を前提とせざるを得なくなる。そうしないと金融単位内の仕組みの整合性が保てなくなる。

 紙幣による貨幣制度が成立するためには、一定量の紙幣が市場に流通していることが前提となる。
 
 一定量の紙幣が市場に流通した後は、銀行の債務、即ち、預金を担保とした貸出、借入の量を調整する事によって通貨の流通量を調整する。その手段とし使われるのが金利と国債である。

 一定量の紙幣を市場に流通させる為には、何等かの貨幣制度が成立していることが前提となる。
 表象貨幣である紙幣を基盤とした貨幣制度が成立する為には、実物貨幣が市場に浸透していることを前提とする。

 注意しなければならないのは、金貨、銀貨の様な実物貨幣を基礎とした貨幣制度と、紙幣のような表象貨幣を基礎とした貨幣制度では、貨幣制度の本質が違うということである。 第一に、実物貨幣というのは、貨幣その物が、物としての価値を持っており、それ自体が価格を形成するのに対し、表象貨幣は、貨幣その物には価値がなく、その時点その時点の貨幣価値を指し示す指標に過ぎないという点である。つまり、表象貨幣は、貨幣としての信認を失えば、無価値な物になってしまうのである。それは、表象貨幣というのは、貨幣と言う機能に特化した物だと言うことである。
 第二に、実物貨幣は、物理的な制約があるのに対し、表象貨幣は、物理的な制約を受けないという点である。表象貨幣は、物理的制約を受けない変わりに、市場の信認を前提とせざるをえない。

 表象貨幣が市場の信認を受けるためには、初期の段階では、表象貨幣は、何等かの物や権利を担保する必要がある。それが兌換紙幣である。
 担保する物や権利には、金、銀と言った貴金属や国債や徴税権といった将来の所得を得る権利等がある。
 金を担保した制度を金本位制という。

 現代の貨幣制度は、金銀本位制、金貨本位制、金地金本位制、金為替本位制、不兌換制度(変動為替制度)と変遷してきている。

 通貨は、権力である。通貨の発行権は、国家主権の一つである。通貨の発行権が複数に分散することは、権力の分散を意味する。ただし、通貨の発行権が権力を形成する点を忘れてはならない。

 貨幣の発行、発券は権利であり、貨幣の発券、発行の権利は、権力を生じさせる。

 貨幣は、市場の信認を得ると、同時に、貨幣取り引きに関して何等かの強制力を付与する必要が生じる。

 紙幣を市場に流通させる手段は、一つではない。しかし、その手段や手続が重要な意味を持っている。

 紙幣が成立した初期の段階では、金や国債を担保にして中央銀行や市中銀行が預かり証として紙幣を発行した。

 その他に、市場に貨幣を供給する手段は、国家が、支払手段として直接紙幣を発行する場合などがある。

 また、武力を背景にして支払手段として強制させる例もある。

 貨幣の発券、発行の権限を何処におくのか。第一に、国家がある。第二に、中央銀行がある。第三に、民間銀行がある。第四に、軍のような何等かの公的機関がある。第五に、国家権力以外の外部権力がある。

 アメリカでは、1913年に連邦準備制度が発足するまで、国法銀行が銀行券を発行していた。国法銀行といっても民間銀行である。(「アメリカの金融制度 改訂版」 高木 仁著 東洋経済新報社)

 現在、世界的に見ると基本的に、中央銀行制度を採用している国が多い。
 それは、通貨の発行主体が分散した場合、第一に、通貨の価値を安定が損なわれる危険性があるからである。第二に、通貨の量を管理ができなくなる可能性があるからである。第三に、第一と第二の結果、複数の民間銀行や軍のような機関、国家権力以外の外部権力が発行権を握ると貨幣制度の統制がとれなくなる危険性があるからである。

 なぜ、国家が直接、貨幣を発行しないのか。
 一つは、財政を司る部署と通貨を司る部署が同一だと、財政と通貨政策・金融政策のけじめを付けることが難しくなるからである。

 政府に発券、発行権があると通貨量が、政治的な影響を受けやすい。また、国家が直接市場に通貨を放出した場合、通貨の流量を管理し、通貨のを循環を維持させることが難しくなる。即ち、通貨の働きを維持するためには、通貨の発行権の独立性を保つことが重要になる。

 国債を基に紙幣を流通させようとした場合、国債の発行元には、国債という債務と紙幣という債権が生じる。紙幣の発行元には、国債という債権と紙幣という債務が生じる。つまり、国債の発行元と紙幣の発券元とは、債権と債務がお互いに均衡している仕組みを作るのである。それが中央銀行という仕組みである。

 通貨の発行に関しては、政治的中立性を保つ必要がある。通貨の量と価値を維持するためには、通貨の発行権の独立が保証される必要がある。それが政府と別の機関に発行権を持たせることの根拠となる。

 そのもの自体が物としての価値を有さない表象貨幣は、取引上の決済行為や交換行為を国家権力によって強制されなければ、貨幣として成り立たない。

 印刷物としての価値しか、本来ない紙幣を貨幣として通用させるためには、国家権力が、紙幣による取引上の決済行為を強制する必要がある。その為には、通貨の発行権は、国家権力による何等かの統制が必要とされる。その為には、貨幣を発行する部署は、なんらかの国家機関ないし、国家機関に準ずる機関である必要がある。

 この様な機能を果たすには、中央銀行制度が現時点では最も適切と考えられるので、基本的に中央銀行制度を採用している国が多いのである。

 アメリカの連邦準備制度(Federal Reserve System)は、中央銀行の中でも異色な存在である。

 国債を使って中央銀行が紙幣を市場に流通させる手段には、以下のようなものがある。
 国家が国債を発行すると同時に、中央銀行が、何等かの財を担保に紙幣を発行して市中銀行に貸し出し、その紙幣をもって市中銀行が、購入する国債を担保に国債を購入する。国家は、国債を貸し付けた資金で支払を行い、紙幣を市場に流す。
 この様な複雑な手続によって紙幣を市場に流通させるのは、貨幣を金融機関を通じて市場に供給することによって金融機関の組織化と機能化を計るためである。要は、発券手続を通じて中央銀行とその他の銀行を組織化することである。
 また、国家が国債を発行し、その国債を中央銀行が直接、購入する手段があるが、現在日本では、法的に禁じられている。なぜ、日本において法的に禁じられているかというと国債を日本の中央銀行である日銀が直接引き受けることは、財政の規律が失われ、通貨の供給量を制御できなくなる危険性があると考えられているからである。通貨の供給を制御できなくなれば、景気を制御する事ができなくなると考えられる。
 故に、通貨の発行権や供給権の政治的独立が叫ばれるのである。

 財政赤字は国の借金によって発生する。故に、財政、赤字の問題は、基本的には国債の問題である。国債は、紙幣制度の根源に存在する問題である。なぜならば、国債は、紙幣の発生源、原因であり、紙幣の流通は結果だからである。
 つまり、国債の問題で一番重要なのは、実は、紙幣の流通量なのである。紙幣の実質的流通量をどの様に制御するのかが、国債の最大の課題である。そこから、国債の残高の影響と、国債の償還率を考えるべきなのである。借り換えのための国債の資金をどこに求めるかによって市中に流通する紙幣の量は違ってくる。そこに、中央銀行の国債の直接引き受けの問題点が隠されている。

 紙幣の発行は、歴史的に見ると、原則、国の借金による。高木仁氏は、その著書で、「連邦準備券は連銀が発行する負債だが、同時に国民に対する合州国の負債であると、法律は規定している」(「アメリカの金融制度 改訂版」高木仁著 東洋経済新報社)と述べている。
 国家の借金という意味では、紙幣は、国債の発行が端緒となる場合が多い。その場合、紙幣を直接国家が発行するのではなく。一旦、国家が国債を発行し、その国債を担保として中央銀行が紙幣を発行する事例が多い。それは、国の資金が不足することを動機として、銀行から借り入れる形式をとることによって紙幣を発行する権利と根拠を明らかにし、紙幣の信認を受けるのである。
 また、金融機関を経由することで、金融制度の基礎を確立することにも繋がる。つまり、銀行を一つの体系にまとめ上げることを可能とするのである。
 中央銀行の基本的機能は、紙幣の発券し、国家に必要な資金の提供する。そして、資金を提供することによって貨幣を市場に流通させることである。
 それに対して、中央銀行以外の銀行の機能は、預金によって、貨幣を回収すると同時に、貸付によって、貨幣を市場に環流することである。もう一つ、中央銀行以外の銀行の重要な役割は、取り引きの決済と信用の創造である。この事によって発行された通貨が強要する貨幣価値以上に貨幣価値、信用を市場に生み出すことが可能となる。そして、市場は、金融制度が生み出した信用、貨幣価値の範囲で取り引きを実現するのである。

 また、通貨の発行には、シニョリッジseignorage 、即ち、通貨発行益が生じることも忘れてはならない。シニョリッジの解釈は一様ではない。ただ、解釈や会計処理の仕方では、莫大な利益にもなる。つまり、シニョリッジをどの様に会計的に処理するかが重要になる。
 また、シニョリッジをどこに帰属させるかも金融制度を設計する上で決定的な鍵になる。シニョッリッジは、貨幣の発行元に原則発生する。
 政府が直接、貨幣を発行するとこのシニョリッジが政府に帰属することになる。その為に、財政不足が生じた時、紙幣を濫発する動機にものなる。それ故に、通貨の発行権を中央銀行に置き、シニョリッジを通貨の運用益に限定する事によって紙幣の濫発を防ぐのである。そして、原則、シニョリッジは国民に帰属させると言う思想である。
 つまり、紙幣は、国家の国民に対する負債であると同時に、資産でもあるのである。

 問題なのは、中央銀行をどの様な機関の支配下に置くのかである。また、中央銀行をどの様に性格付けするかである。完全な独立を確保するために、政府や議会から独立した機関とすべきだとする思想と、行政の支配下におくべきだという考え方と議会の支配下におくべきだという考え方が存在する。いずれにしても、どの様な制度を採用するかは、思想的問題である。そして、これは世界中央銀行に繋がる思想である。
 世界経済は、統一的な金融制度の統合されない限り安定しない。これは思想である。

 金融制度というのは、金融機関が相互に連携することによって成り立っている。その為に、一つの金融機関の破綻が連鎖的に金融制度全体に波及する危険性がある。この様な危険性を回避するためには、個々の金融機関だけを対象にするのではなく。金融制度全体を何等かの形で統御する必要性がある。中央銀行は、金融機関の中枢となる機関である。中央銀行が発券銀行となることによって、貨幣が必ず中央銀行を経由しなければならない体制が確立されるのである。中央銀行が市中銀行に連結されていないと、金融機関を組織化し、統制することができなくなる。結果的に、システミック・リスクを阻止できなくなる。

 今日の金融制度というのは、個々の金融機関が単独で独立して機能する体系ではなく。全ての金融機関が連結され、連携することによって成立している。
 今日の貨幣制度を考える上で、先ずこの前提を認めるか、否かが重要なのである。そうしないと金融機関の役割について理解することができなくなる。
 それは、なぜかというと、金融制度というのは、その背景として信用制度が確立されていなければ成り立たないと言う事を意味しているからである。
 つまり、金融制度というのは、信用制度を基盤として貨幣を供給する仕組みなのである。言い換えると、貨幣を必要とするところに、必要とするときに、必要とするだけの量を供給できなくなったら金融制度は成り立たなくなるのである。

 そして、金融制度の役割は、資金の量と水準を制御する事である。市場の流通する通貨の量を調節することによって物価や所得の水準を一定に保つのが金融制度の重要な役割なのである。

 また、金融機関は、資金の引き出しに対して一定の資金を準備しておく必要がある。貨幣は、市場における交換手段である。この交換手段を絶えず供給することは金融機関の使命でもある。

 金融機関の働きは、資金の供給と信用の供与である。

 金融機関同士で資金を融通し合うための市場と仕組みが必要となる。この内部市場に対する金融機関からの資金の供給が滞ったことが、1997年の日本の金融危機や2008年リーマン危機の原因の一つと見なされている。

 貨幣経済を基盤とした市場経済下では、貨幣の供給が絶たれると生活に必要な物資を手に入れられなくなる。また、自分の財産の所有権も維持できなくなる。この様に貨幣経済を基盤とした市場経済においては、通貨は、生活を営む上での大前提となる。この様な通貨を供給するのが金融機関の重大な役割の一つである。

 金融独裁を怖れるあまり、金融制度全体の統制を軽視する考え方が、一般に、強くある。確かに、金融独裁は危険なことである。しかし、通貨の量を制御し、流動性を確保するためには、金融機関を全体して管理、制御する中央機関は、不可欠な存在である。独裁がなぜ、悪いか。独裁のどこが悪いのか。独裁は、どの様な仕組みによって成立するのか。問題は、独裁の弊害と、その弊害をいかにしてなくすかである。それは、あくまでも構造的な問題と人間の能力の限界の問題であり、個人の資質や道徳の問題ではない。
 金融制度が統制を欠き、無政府な状態であることを放置することが、一番、危険なのである。金融制度は、信用を基盤とした制度である。無秩序な状態にあっては、信用そのものが成り立たなくなるのである。

 特定の機関に権力が集中することを防ぐためには、個々の金融機関の経営基盤を確立することである。金融制度を構成する個々の金融機関の独立性が維持されてはじめて金融独裁は防げる。その意味では、金融機関の経営基盤が重要となる。

 金融制度で重要なのは、金融機関の収益構造である。金融機関の経営は、金利収入だけに依拠すべきなのかである。それは、金利のみに収益を依存していると、どうしても金融機関は、権力機関化する危険性を拭い去れないからである。
 金融機関自体が自己目的化し、権力機関となると、金融機関の暴走を抑止することが困難になる。そうなると、金融機関は、貨幣市場を擁護する事のみを目的とする機関になってしまうのである。

 銀行という商売は、端で考えられているほど割りの良い商売ではない。また、よくなくなってきている。それは、銀行という商売の在り方に原因がある。
 銀行は、元来が、金利差を基礎とした商売である。市場が成熟してくると金利はは縮小する傾向がある。更に、金利の低下も追い打ちをかける。長期資金、短期資金の金利の変動も影響する。また、長期的な金利の均衡も収益を圧迫する。
 大体、取り引きの均衡によって銀行の収益源である在来の産業の収益が低下する。

 企業業績と直結していない経済対策など意味はない。金融行政は、金融機関の業績と密接な関係がある。金融機関の経営業績が悪化すれば、必然的に、金融行政に影響がでる。逆に、金融行政の在り方は、金融機関の経営に重大な影響を与える。税効果基準や不良債権の判定基準のような会計基準を変更しただけでも、金融業界の再編を促す結果をもたらす例さえあるのである。

 預金は、運用を前提とした銀行の借入である。故に、銀行は、常に、資金を運用として金利相当の利益を上げ続けることを前提としている。ところが、市場が成熟すると成長を前提とした仕組みで、既存の産業は収益をあげられなくなる。
 その為に、資本市場や金融市場、不動産市場、商品市場に資金を投入し、相場の格差を利用して利益を上げざるを得なくなる。
 その上に、レバレッジを効かせて見かけの利益を嵩上げする必要が生じるのである。その行為が過剰流動性を発生させるのである。

 金融機関、本来の役割は、余剰の資金を持っているところから資金が不足しているところへ、資金を融通することである。ところというのは、空間的な意味だけでなく時間的な意味がある。つまり、余剰の資金を持っている時から資金が不足している時に資金を供給するという意味である。
 ところが、現実には、資金が不足している所から資金を回収し、余剰の資金を持っているところに資金を融通したり、資金が余っている時に融資を進められ、資金が必要な時になると資金が引き揚げられると言うようなことが頻繁に起こる。
 不況、不景気、恐慌になると、貸し渋りや化し剥がしが、横行するのが典型的な例である。金融機関の使命は、市場に資金が不足した時、市場に資金を供給することにある。また、優良な事業なのに、一時的に資金が不足した企業に対して資金を融通することにある。ところが現実には、逆の事を金融機関はしている。何が原因でその様な現象が起こるのか、それを明らかにしない限り、抜本的な解決はできない。それを、金融機関の企業論理、金融機関に携わる人間の道徳観にだけ求めるのは、短絡的である。よしんば、企業論理や金融機関に携わる人間の道徳を問うにしてもその企業論理や道徳観がどの様にして形成されたのかを明らかにしない限り、それは個人の問題の領域内の問題に過ぎないのである。つまり、特殊な問題であって一般的、普遍的問題にはなりえない。

 貸し渋りや貸し剥がしといった投資時や融資時における金融機関の判断の問題は、個々の金融機関の問題と言うより、構造的な問題、市場の歪みや市場の仕組み、金融機関や経営主体の収益構造に問題があるといえる。
 投資するにも融資するにもその基となるデータ、情報が前提となる。情報と判断基準が鍵を握っているのである。

 その顕著な例は、投資や融資基準に現れている。現行の投資や融資の基準は、短期的実績を基礎としている。その為に、短期資金需要が基本になる。しかし、事業の基盤は、長期的投資である。
 結果として現れる経営実績が悪ければ、金融機関は、投資や融資が抑制され、場合によってはできなくなる。しかも、法や規制によって強制な制約を受けている事例すらある。
 短期実績と、長期見通しの調和がとれなければ、投資や融資はできない。その点を考慮して、利益構造や会計基準は設定される必要がある。
 ちなみに、利益構造は作られるものであり、会計基準は設定されるものである。しかも、利益構造や会計基準は、法や規制、制度によって実現されるため、強制力を持つことになる。

 融資や投資の基準として増収増益を前提としている傾向がある。それは、経済成長や市場の拡大を前提としてい事を意味するのである。増益増収を前提としている事自体が問題なのである。企業経営上、黒字であれば少なくとも問題ではないはずである。また、赤字であっても原因が明らかならば問題にならない。増収増益を常に前提とした経済というのは、成長を目的化した経済である。成長を目的化した経済は、成長が止まった時、破綻してしまう。

 いくら大手企業の見かけ上の収益が改善しても景気は上向かない。なぜならば、消費を拡大するのは、国民の可処分所得だからである。人員を削減し、下請けを整理すれば収益は上がっても国民の所得は、上昇しない。しかも、輸出関連産業が主力だとなると国内の市場に影響を及ぼさないからである。
 景気を好転するのは、人員削減や経費削減によらない収益の改善なのである。

 収益の健全化を計るには、競争を抑止し、規制を強化して市場の規律を取り戻すことである。私は、競争を否定するつもりはない。競うべきところは競うべきである。品質やサービス合戦は望むところである。ただ安易な乱売合戦や採算を度外視した安売り合戦は、市場を荒廃させるだけである。

 無駄な競争、無意味な競争ができないから、合併するしかなくなるのである。それはかえって独占、独裁を招く。一人では競争はできないのである。
 未来社会を描く映画やドラマ、漫画に出てくる社会は、なぜに、着ている服も、食べる物も、街も、建物も一様に描かれるのであろうか。それは、現代社会が知らず知らずに単一な世界に向かっているからではないだろうか。
 かつては、多様な世界があった。服装も多彩であった。地域や、文化、歴史、伝統の違いによって多様さが保たれてきた。現代社会は、男女の違いすら頑なに、認めようとしない。違いを認めることと、差別することとは違う。むしろ、差を認め合うからこそ差別はなくなるのである。差を認めないことこそ、ある意味で差別を生み出すのである。
 人間には、一人一人、違う顔があるのである。その違いを認めるからこそ、人間の社会は成り立っている。将来、人間の顔を、皆、同じ顔に付け替える技術が発達するかもしれない。しかし、その様な技術は本当に人間を幸せにするであろうか。

 保護主義にも市場を保護するという考え方と産業を保護するという考え方があり、両者の考え方は、結論において全く違ってくる。重要なのは、市場を保護することであり、産業を保護することではない。それも、市場の規律を保護することである。それが引いては、産業を保護することに繋がる。

 大資本と弱小資本が、同じ場、同じ条件で競争するのならば、大資本に何等かの制約、ハンディキャップを付けるのが公平なのである。ところが現代は、逆である。弱小資本に制約が付けられてしまっている。そして、中小企業や個人事業者は、行き場を失い。大資本に呑み込まれているのである。その結果、世界中どこへ行っても変わりばえのしない空間である。

 度重なる金融危機によって銀行の印象が悪くなった。なぜ、金融機関の評判は悪化したのであろうか。信用を基盤とした貨幣制度において、貨幣の動きを仕切る金融機関の信用が低下するのは、貨幣制度その物の基盤を揺るがしかねない大事である。
 貨幣経済下で貨幣を司る者が、ある程度の権力を掌握することは、必然的帰結である。それが悪徳だというわけではない。悪いのは、権力を濫用して私腹を肥やしたり、私利私欲のために、他人の権益を侵すことである。
 しかし、それは制度や仕組み、法を整備すれば、防げるものである。

 現在の金融危機の背景には、金曜機関の信用の失墜がある。土台、金融制度は、信用制度を基礎としている。その金融機関への信用の失墜は、信用制度という基盤をほり崩してしまう危険性がある。
 金融機関が信用を失墜させた背景には、反権力主義や反権威主義の影響が見て取れる。権力に迎合するのも問題だが、何でも、かんでも、経営者や、行政官、為政者、政治家を悪役に仕立てて、世の中の不具合の責任をとらせようというのは、悪しき習慣である。いずれも公平さに欠けている。
 しかし、昨今の金融機関の人間の行状には、世の風評を裏付けるような言動があることも否定できない。李下に冠を正さずと言う。金融機関に働く者は、信用を土台にして成り立っていることを肝に銘じ、自らの行状を慎まなければならない。

 金融機関の人間が金の亡者の様に思われがちなのは、「お金」の役割を見失い、貨幣価値を絶対視することに起因している。しかし、金融機関の人間が「お金」を上手に使っているとは思えない。「お金」は、使われることによって価値を持つのである。

 100人分の食べ物を与えられても、一遍に食べきれやしない。この世の全ての土地を与えられたとしても無意味だ。必要以上な物はないに等しい。
 愛する人は、一人で良い。何万人もの伴侶を得たら生きていけなくなる。いくらもてたところで、愛する事を知らなければ、ただ虚しいだけである。
 所詮人間に与えられた時間には限りがある。限りある人生だから充実もする。「お金」は所詮「お金」なのである。全てではない。価値を表象した物にすぎないのである。
 「お金」を仕切ることで、何等かの独占が生じたとしても無意味である。独占そのものが経済を停滞させるからである。金融機関が市場を独占したところで、市場を死滅させるだけである。市場は相対的な価値によって動かされる。絶対的基準を持ち込もうとする独占は、市場を機能させなくなるからである。
 金融独裁と言うが金融機関が産業を支配したとしても意味がない。金融は、所詮、物を生産する力がないのである。経済の実体は、実物の経済にある。

 独裁がなぜ、悪いか。それは、あくまでも構造的な問題と人間の能力の限界の問題であり、個人の資質や道徳の問題ではない。
 しかし、独裁は、人を孤独にし、人の心をも蝕むものである。真の豊かさは心の中にある。「お金」では得られない。

 問題は、金融を司る者の心であり、心を蝕む動機である。そして、その根源にあるのは、金融機関の収益の悪化である。

 自動車のような多くの機械・装置がそうであるように、金融機関というのは、扱い方を間違うと凶器となる。だからといって金融機関は、悪いと決め付けていたら人類の進歩は止まる。自動車同様に、上手に活用することを考えるべきなのである。

 貨幣的市場は、放置すると均衡に至る。それは、市場を構成する一つ一つの取り引きが取り引きが成立した時点・時点において均衡しているからである。市場の活力を維持するためには、人為的に変化や格差をつくり出す必要がある。ただ、変動は、戦争のような破壊的な変化では、物的な経済や人的な経済に壊滅的な打撃を与える。また、固定的な格差は、市場の活力をかえって削いでしまう。変化は、建設的なものでなければならないし、格差は流動的なものでなければならない。

 俗に、戦争景気と言うが、それは、戦争に巻き込まれていない国の事である。第一次大戦後のドイツ、フランス、ロシアを見ても、まだ第二次世界大戦後のイギリス、フランス、ドイツ、中国、日本を見ても、ベトナム戦争がアメリカに与えた影響を見ても解るように、生産手段を徹底的に破壊し尽くす戦争の惨禍は、何世代にもわたって経済に壊滅的な打撃を与え続ける。それは国民の精神、道徳、文化に対しても癒すことのできない傷を負わせ。しかも、国家、国民の間に何世代にもわたる怨恨を残すことになる。
 戦争は、戦争当事国にとって戦争をしていない他国を利するだけである。戦争によって、経済を活性化しようなどと言う馬鹿げた考えは起こさないことである。

 極端な格差や戦争は、不経済である。兎に角、非生産的な事は、実物経済から見て、基本的に不経済である。実物経済こそ、経済の実体である。ゆえに、格差や戦争は不経済である。金融制度は、故に、格差や戦争をなくすように働く必要がある。つまり、貨幣が市場に偏りなく、潤滑に流れるようにすることが、金融制度の使命なのである。貨幣が循環する途中で滞留したり、閉塞すると、途端に経済は壊死してしまう。金融機関は、役割とは、貨幣を市場に絶え間なく循環させ続けることなのである。





                    


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