76、統計とは(統計を考える)


統計や確率は尤もらしさの上に成り立っている。


確率や統計なんて尤もらしさの上に成り立っている。

統計や確率が扱っている事象というのは、本来あやふやな事なのである。
不確かな事から将来を予測したり、関係を割り出したり、原因を明らかにしたり、要因を分析したりする事なのである。
統計や確率は、演繹的な手段ではなく、帰納法的手段である。
だからこそ、統計や確率を学問として確立するのに、信頼を得るのに苦労したりもしたのである。
それが反面、統計とか、確率とか、数値分析が独り歩きし、権威になってしまった。
何でもそうだが権威になるとろくなことをしない。
科学者は、真の権威は神のみにしかなりえない事を常に忘れてはならない。
己の限界をわきまえる事こそが、信仰こそが科学者を科学者として保つ唯一の手段なのである。

科学者は人間のそして己の愚かしさを常に自覚しなければならない。
己の愚かしさを忘れたら狂気しか残されていないのである。

よく西暦何年の何月、何日に世界の破滅が訪れるなんて予言されていて、それが外れると一遍に預言者の信頼が失われる。
些細な事でも、予言が偶然に的中すると逆に神の如く崇拝される。
予言を信じるか信じないかは、その人次第である。人類滅亡なんて信じない者にとっては馬鹿馬鹿しい世迷言なのであっても信じた者は、人生を変える、時には自殺してしまうほどの確言なのである。
しかし、予言だけが未来を予測しているわけではない。統計や確率だって未来を予測する。人々の多くは、予言は非科学的であり、統計や確率は科学的だという。
予言と統計、確率のどこが違うのか。統計や確率は、科学的根拠に基づくというのがその答えのように思われているが、予言だって何の根拠もないという訳ではない。根拠を信じるかどうかの問題であって科学的根拠だから信じられるというのもおかしな話である。
結局、予言と統計や確率の違いは、統計や確率は、絶対的な事でなく、相対的であり、外れる事もあるという事を前提としているという事である。つまり、正直なのである。だから信じられる。突き詰めてみると、いい加減だという事を前提としているから、統計や確率というのは成り立っている。
それに対して予言というのは、絶対的だから、疑わしいのであり、怪しいのである。
統計や確率は、曖昧さやあやふやな事の上に成り立っている。だから、統計や確率を絶対化する事は、統計や確率を自己否定している事になるのである。いい加減で、あやふやだという事を否定したら統計や確率は成り立たない。少なくとも科学的でなくなる。
要は、確率なんて外れる事を前提としている。あたる方が不思議なのである。だから、外れたところで確率だからと言い切れるのである。

地震予知なんてその好例である。向こう何十年間に何十%の確率で地震が起こると言ったって西暦何年の何月何日何時何分に大地震が起こるなんて予知しているわけではない。要するにいい加減なのである。じゃあいい加減だから意味がないと結論付けるのは、短絡的である。
いい加減だから確率や統計は、意味があるのである。それが予言とは違う事である。

どんなに突き詰めても不確かであいまいなところが残る。それを前提としているのが確率であり、統計である。厳密な手続きに従おうが従うまいが、そんな事とは、統計や確率が、不確かな現実の上に成り立っているという前提に何の影響も与えはしない。

統計や確率は、いい加減な事だという前提を忘れてはならない。

統計や確率は判断のための材料を用意してくれる。しかし、最終的に決断するのは人間なのである。
故に、統計や確率は、最初から最後まで主観的なものである。
統計や確率を頼りにし過ぎては統計・確率を活用することはできない。いわんや統計・確率を絶対するのは危険極まれない事である。
最終的に決断をするのは自分なのである。その事を自覚していれば統計や確率程頼りになるものはない。




ベイズ統計
確率と統計
確率と統計(教育)



参照
「道具としてのベイズ統計」 涌井良幸著 日本実業出版


       

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