社会構造
人間は、社会的動物である。人間は、社会生活の中で、その本領を発揮する。社会がなければ、人間は、自己の存在すら認識することができない。それ故に、人間にとって社会の在り方は、自己の存在、つまりは、生き方に関わる重要な問題なのである。
しかも、民主主義社会においては、社会の在り方は、国民一人一人の意志が反映されて形成される。故に、なお一層社会に在り方に関心がなければならない。しかし、不思議な事に、日本人の多くは、社会の在り方に無関心である。恵まれている者は、恵まれているが故に、幸せな事に、無頓着である。大切なものは、失わなければ解らない。
社会とは、人間関係である。しかし、高度に発達した社会である日本において、最近、人間関係が希薄になっている。そして、国家が共同体であるという意識も薄れている。今日の日本の病根がそこにある。
近代的合理精神における要は、一般、普遍から特定、特殊へのプロセスである。そして、特定、特殊化されるに従って重層、複合化されていく。この様な集合論的関係によって世界観は、形成されていく。
社会的場は、普遍的、一般的な場から、特殊、特定の場への過程で生じる。
物理的場の上に、生物学的場、動物学的場、人類学的場、そして、その上に、人種的場、民族的場、宗教的場、言語的場が乗っかり、それらの上に地理的場、国家的場、政治的場、経済的場、社会的場、組織的場、家族的場がのっかている。
社会構造を考察する場合、この様な集合論的世界観が、必要である。
この様に世界を形成する重層的な場は、大きく三つの空間に区分する事ができる。第一が物理学的空間、第二に、社会的空間、第三に、内的空間の三つである。
経済的価値の総量と市場に流通する貨幣の総量とは、一致していない。
それぞれの場は、独立していて、相互に直接影響を及ぼすことはなく、自己の肉体を媒介にして影響を及ぼしあう。
社会は、幾層にも重なった場からなる。社会構造は、この様に幾層にも重なった場を跨って存在する。この様に社会構造は、重層的な場の上に成り立っている。
重層的な場と言っても物理的空間を除くと一意的に優先順位が定まるのではない。優先順位は、個人の意識が定めるものであり、意識は、自己の支配下にある。一般に意識は、普遍性、一般性が高い順に位置付けていくが、されも相対的なものであり、絶対的な基準に基づくわけではない。
物理学的な場の原理は、真偽をベースとしている。社会的な場は、善悪を原理としている。内的な場は、美醜をベースとしている。また、宗教観は、倫理の源である。
この三つの場から個人に作用する力が調和した時、自由な世界が実現する。社会構造は、物理的空間と内的空間の中間にあって二つの空間は、調整する働きをもっている観念的空間に存在する。この事が社会構造の性格を決定付けている。
この様に世界を形成する重層的な場は、大きく三つの空間に区分する事ができる。第一が物理学的空間、第二に、社会的空間、第三に、内的空間の三つである。
経済的価値の総量と市場に流通する貨幣の総量とは、一致していない。
それぞれの場は、独立していて、相互に直接影響を及ぼすことはなく、自己の肉体を媒介にして影響を及ぼしあう。
この三つの場から個人に作用する力が調和した時、自由な世界が実現する。社会構造は、物理的空間と内的空間の中間にあって二つの空間は、調整する働きをもっている観念的空間に存在する。この事が社会構造の性格を決定付けている。
人間が作り上げたものが起こした不都合を神の責任に帰すことはできない。人間の社会の構造物に、自然発生的に出きるものはない。全て人間の意志が作り上げるものである。国家体制は、都市計画のようなものである。経済学者は、経済制度を、政治学者は、政治体制哲学者は、人々の行動規範を設計できてこそ本物である。
我々は、世界を旅すると多くの壮麗な建造物に圧倒される。しかし、その建造物には、一つとして同じ物はない。国家もまた、無形の構築物であることを忘れてはならない。国家こそ人間が生み出した最も巨大な構造物の一つである。
中でも国民国家は、広範囲の国民的合意に基づかなければならない。自然発生的に国家ができるというのは、間違いである。もし、多くの日本人がそのような錯覚に基づいているとしたら、敗戦国で戦勝国から与えられた国家だからである。借り物なのであり、日本人の負け犬根性の為せることである。日本人は、国家理念を我がものとして誇りと自立を手に入れなければならない。さもないと、日本は、強国の属国となり、国民は、奴隷的に生活を強いられることになる。つまり、自らの運命も決められない国民に成り下がる。
国民的合意に基づいて国家を再構築するためには、構造を明らかにする必要がある。
構造を明らかにするためには、任意の座標軸を想定して空間を特定する。その上で、ここの対象の位置と運動を解析し、運動を支配する法則性を解明する。その上で、対象間に働く力と関係を明らかにし、その場の法則を仮定して方程式化する。明らかにした方程式を基に全体像を再構築し、明らかにした法則を再現することによって、方程式の信憑性を検証する。そのとき、前提となるのが、構造である。
社会構造を設計するためには、先ず、相対的空間を想定する必要がある。
その上で、相対的空間を支配する法則を明らかにする。または、原理、原則を設定する。
その法則が、空間に、作用する働きを明らかにする。この様に特定の働きを持つ法則に支配された空間を場という。
構造とは、複数の要素が、お互いに一定の関係によって結びついた集合である。
場とは何か
自己の行動規範は、環境と自己との関わり合いによって形成される。人間は、個人の内面の場の働きばかりでなく、社会構造に働く場の働きの影響を強く受ける。経済的な価値観、損得勘定は、人間生活の奥底まで浸透し、人間生活を支配している。金持ちになれるかどうかは、生きる目的にすらなって、人の一生を左右している。この事実から目をそむけたら、真の人生の目的を見極めることはできない。その是非を論じる前に、その働きが、自分に対しどのような作用を及ぼし、どのような影響を与えているかを、見極める事が重要である。
我々は、知らず知らずのうちに犯罪に加担したり、犯す危険性がある。望んでいないのに狂信者に仕立て上げられ、多くの人を不幸に陥れ、自滅的行動をしていたりする。気をつけなさい。何が自分を幸せにし、何が、自分を不幸にするのか。それを見極める目を養うのです。
そのためには、自分の人生、行動に影響を与えている場の力、作用を知ることです。
先ず、物理的場がある。物理的場の原理は、存在に関わる法則である。そして、物理学的原理に則いて物理的構造世界が存在する。
次に、生物学的場がある。生存が、生物的場の原理である。生存するために、何が必要なのか。どう行動をすべきなのかが、そこでは、重要な要素になる。そして、その場を支配するのは、生理的法則、動物学的な自然の掟、集団の論理、自然の摂理である。
ここまでが普遍的な場である。自分だけ、物理的法則の外にあったり。生病老死、生き物としての定め、宿命から逃れるというわけにはいかない。普遍的な場は、物理学的空間に拘束されている。
その上に、人的場がある。人的な場を支配している原理は、観念である。
人的場は、内的な場と外的な場に分かれる。内的な場は、宗教的場である。神は、内的実在、自己の存在がそれを証明している。神は、自己の存在を裏付ける絆。内的な場は、自己の存在と内的精神世界が作り出す場、観念的な場である。そこでは、倫理観や行動規範が支配している。人間は、倫理的存在である。そして、自己の倫理観や宗教観に従って内的構造が構築される。内的構造は、論理的世界である。
人的な場にあって外的な場は、人的場と普遍的な場の中間にあって人的な場と普遍的な場とを結びつける場である。しかし、この場は、基本的には、人的な場に属していて観念的な場、観念が生み出した場である。観念の場である人的な場は、物理学的場に拘束されていない。国境というのは、観念的境界線であり、物理学的な境界線ではない。日本を飛ぶ飛行機も、アメリカを飛ぶ飛行機も同じ法則に従って飛んでいる。しかし、飛行機を運航する方は、日本とアメリカでは違う。
人的な場は、物理的空間に拘束されていないために、必ずしも重なり合っていない。同じ国でも地域によって宗教や人種が違ったり、混在していてもおかしくない。国と宗教の論理がどちらが強いかは、地域によっても、時間によっても違う。元々、場の重なり問いのは、重層的なものであり、階層的なものではない。つまり、場に、上下の区別はないのである。あるとしたら、より普遍的であるか、否か。一般的であるか、特殊であるかの違いだけであり、重要なのは、対象がどのような場に属していて、その場から、どのような働きを受けているかである。
人的、外的な場は、先ず、社会的場である。社会的存在、人間関係から生まれる掟や風俗、慣習が、原理である。人種や民族、宗教、公共道徳、親族、言語が原理である。そのうえに、家族制度、身分制度、階級制度、儀式、伝統、典礼といった社会構造が成り立つ。
士農工商は、身分制度である。同時に、これは、一種の社会構造を現している。社会構造を、血縁といった、属人的なものに結びつけ、そこから、格差や特権といった差別を生み出しているから、身分制度なのである。属人的な結びつきを絶ち、格差や特権といった差別を除けば、そこには、社会構造しか残らない。本来場は、階層的なものではない。重層的なものである。階層をつけるのは、人間の意識である。だから、階層が悪いと言って構造を否定する必要はない。意識の方を改めればいいのである。
次に、政治的場である。政治的場とは、共同体の場である。ここを支配するの、法や規則といった共同体の原理である。基本的には、契約によって成り立っている。政治的場の典型は、国家である。しかし、国家だけが政治的な場ではない。宗教団体や企業、クラブといった組織的な場は、政治的な場である。この場の上に、国家制度、宗教組織、企業組織、家庭、学校組織といった制度、構造が成り立っている。
そして、経済的場である。経済的な場とは、生活の場である。経済的自立が原理である。そこで働く行動規範、法則は、損得勘定である。そして、近代社会の中で、会計的論理が重要な役割を果たしている。経済的な場の上に、市場や産業、家計、貨幣制度、金融制度、税制度、商法といった構造が成り立っている。
近代国家は、理念的空間と物理的空間が、一体となった空間である。
国家とは、運命共同体である。運命共同体としての機能を失っていたり、運命共同体として国民に意識されていない国家は、すでに国家ではない。構成員が、運命共同体としての意識が強ければ、強いほど、国家は強力となり、薄ければ薄いほど、バラバラになる。
近代国家は、何らかの国家理念の力が働いて形成されている。故に、運命共同体としての意識を共有する国民が多ければ、多いほど、国家の求心力が強くなる。近代国家において、国家の求心力は、国力の源泉である。
国家の中核は、武力である。武力は、平時は、警察によって、非常時・戦時は、軍隊によって実現する。
日本は、平和憲法においてこの武力を放棄した事になっている。しかし、武力を放棄したら、国家、社会は一日も持たない。結局、日本は、非常時・戦時の武力を米軍に肩代わりしてもらっているにすぎない。
しかし、平時の武力である警察を放棄したら。一日たりとも国家の秩序が保てないことは明白である。この事実を直視しないかぎり、国家の本質は見えてこない。
戦後の日本では、
愛国心というと、何でもかんでも、否定的に捉える。その理由は、軍国主義に結びつくからである。そういう人間に、では国家とは、何かを、聞くと、大概、曖昧な答えか、独善的な答えしか、返ってこない。
国家といっても一意的に決まるものではない。愛国心、即、軍国主義というのは、短絡的な考え方である。
我が祖国といっても、時の権力、体制を指す時もあり、ジス・ランド、大地、土地を指す時もある。徳川家のような一族を指すこともある。明治維新の時は、牧夫の側に立つ者も、倒幕の側に立つ者も愛国心を口にした。軍国主義者だけが愛国心を言うわけではなく。アメリカ国民も社会主義国の北朝鮮国民も愛国心を誓う。フランス人民選線は、愛国心を鼓舞した。
国家は、何も、時の政権だけを指すわけでもない。国境に囲まれた地理的なものを指す場合もある。また、歴史や風俗、伝統といった文化的な繋がりを指す場合もある。国土、自然環境を指す場合もある。時には、民族的、言語的なものを指す場合もある。法的な拘束力の及ぶ範囲を指す場合もある。
また、政権や体制を指すにしても、政権や体制が余って立つ理念が違えば、愛国心の有り体も必然的に変わる。それこそ、軍国主義と民主主義とを一緒くたにしてしまって、何でもかんでも悪いというのは、道理が通らない。肝心なのは、何を護るかである。君主国と独裁主義国、全体主義国、封建主義国、民主主義国では、国家に対する考え方、守るべきものが全然違う。
大体、革命や変革を口にするものほど愛国心を標榜する。
愛国心というのは、自然な情である。理ではない。親が子を慈しむように、子が親を慕うように、夫が妻を労り、妻が夫を愛おしむような自然な情である。その情があって理が成り立つ。愛国心がない者は、国の変革を口にすべきではない。なぜなら、それは、単なる破壊に過ぎないからである。
国家をどのように定義するかによって、愛国心の有り様も変わる。それを一概に、愛国心は、軍国主義的だから悪だというのは、あまりに、短絡的すぎる。