愛国心とは、情である。理ではない。
 愛国心は、情であり、思想ではない。理屈ではない。子供が、親を慕うような、親が、子供を慈しむような、夫が妻を労るような、妻が夫を愛おしむような、自然の情だ。だから、愛国心のない奴は、変革を口にするなと俺は言う。
 愛国心は、国民の国家への思いである。
 愛国心は、国家に対する国民の思いによって形成される。だから、民主主義の源は、愛国心である。戦後の日本人は、この点を理解していない。
 民主主義国の宗旨国であるアメリカは、アメリカ人にとって、所与、既に与えられている国ではない。自分達が作り上げていく国であり、自分達が選んだ国なのである。つまり、アメリカ人は、アメリカ人になるのである。
 アメリカ人の定義には、人種や民族、宗教は、基本的に関係ない。アメリカ人の定義は、アメリカ人、一人一人の意志なのである。だから、アメリカ人は、自分が、アメリカ人であることを、常に、主張しつづけなければならない。
 アメリカ人にとって愛国心は、情と言うより意志なのである。だから、国民が国家を護るのは、義務と言うより、権利なのである。
 日本人である事に、何の、疑問もいだかず。生まれた時には、日本という国が、既に存在していた、日本人との違いがそこにある。日本人とって国家は、親のような存在であり、アメリカ人にとって子供のような存在である。護られる存在ではなく、護る存在なのである。
 戦後の日本人は、愛国心を軍国主義や独裁主義に結びつけて否定する。とんでもない事である。洗脳教育や強制された愛国心は、真の愛国心ではない。偽の愛国心に踊らされたからといって愛国心そのものを否定するのは、愚かな事である。真実を見抜けなかった己の責任である。国に帰すのは、卑劣だ。
 だいたい、義務で愛情なんて生まれない。愛を知らない者の戯言である。愛するが故に、ただし。愛するが故に、改革するのである。愛するが故に戦うのである。
 愛情も怨念も源は、想いである。思いが強ければ強いほどそれが、前向きであれば愛に、後ろ向きであれば憎しみになる。
 戦後の日本人の中には、特に、知識人と自称する人達の中には、日本人を差別している人達がいるようだ。
 戦前、日本人は、国を想う気持ちが、強かった。それが、戦後は、国家への恨みになっているように思える。それは、自虐である。
 気をこめれば思いとなり、思いをこめれば、心となり、心を込めれば、命(魂)となり、命(魂)をこめれば神が宿る。
 国民の想いが結集した時、民主主義国家には、神が宿る。愛国心こそが、民主主義の源である。

                        国を想うと言う事

I’m proud to be an American.
私は、アメリカ人であることを誇りに思う。
これは、「アメリカ人の国民性がよくわかる英語」と言う本の中の一節です。
著者は、アメリカ人が、この言葉をよく使うといっています。
また、先年行われた大統領選挙で
ブッシュ大統領、ケリー候補、
二人とも最後の演説で口にしたのが
God bless America.
アメリカに神の祝福あれです。

同時多発テロ後のアメリカの状況を見て
日本の知識人の多くは、周章狼狽しました。
なぜならば、愛国心というのは、
右翼、軍国主義者の専売特許だと言ってきたからです。

民主主義国ほど愛国心はつよい。
ケネディの就任演説で、
国民は、国家に対して何をして欲しいかではなく。
何ができるかを問えと演説したのです。

カサブランカという映画をご存知でしようか。
ドイツ支配下のカサブランカで
ラ・マルセイエイズ。
フランス国歌が歌われた時、
フランス人が、全員立ち上がり。
街の女までが、涙を出し、誇り高く、国歌を歌ったシーンがあります。
私は、そのシーンが忘れられません。

イギリスもフランスもアメリカも愛国心が強い。
それなのになぜ、日本だけ愛国心を持てないようにされたのか。
愛国心は、思想とは違います。
それなのに、日本だけは、軍国主義と結びつけて教えられます。

残念ながら、我が社の社員の中にも日章旗にアレルギー反応を起こす者がいます。
しかし、イギリス、フランス、アメリカ、いずれの国の国歌も国旗をうたったものです。
なぜ、日の丸を掲げてはいけないのでしょう。

静岡の三十四連隊は、最も勇猛に戦った。
それだけに、犠牲者も多かったのです。
なぜ、それほどまでして、何を護ろうとしたのか。
彼等は、馬鹿だったのでしょうか。

スマトラ沖の地震で多くの犠牲者がでました。
しかし、日本は、たった一発の爆弾で同じくらいの犠牲者がでたのです。

戦うには、戦うだけの意味がある。
馬鹿だった、
世間知らずだったと片づけるのは、
あまりにも哀しいではないか。
我々の今日があるのは、彼等の貴い犠牲のお陰なのです。

先の大戦でなくなった人達を
今日出席した方々の中で、誰が、
犬死にの、死ぬ者貧乏と嘲り、侮辱する事ができようか。

しかし、我々の生き方はどうか。
彼等を愚弄しているのではないでしようか。

会長が戦争から帰ってきた時、
両国駅から永代橋が見えたと言います。
一面の焼け野原から立ち上がり
今日の日本を築き上げてきたのです。
文字通り、裸一貫からはい上がってきたのです。
それを会長にさせたのは、何だったのか。
私利私欲だけだったというのか。

なぜ、愛国心なのか。
我が身の問題、
会社の抱える問題、
社会の問題、
そして、この国に起きている諸々の問題、
それらの根っ子が同じに思えるからです。

愛社精神という言葉が聞かれなくなって久しいです。
日本の経済が悪くなった頃と
愛社精神という言葉が聞かれなくなった時期が、
重なっていると考えるのは、穿った見方でしょうか。
会社は、悪し様に言われてきました。
社畜になるな。会社人間になるな。
しかし、今日、会社ほどありがたい物はありません。
会社ほど、我々を愛し、守り続けてくれる存在が他にあるでしょうか。
病気になれば、面倒を見てくれ。子供が産まれれば、共に祝ってくれます。老後の心配までします。
だのに、会社の誕生日を会社の為に祝ってくれる社員はごくわずかです。景気が悪くなるのは当たり前です。

なぜ、今愛国心なのか。
我が国は、大変に危機、曲がり角に立たされています。
我が社や皆様の会社にも無縁ではありません。
その危機の根源が、我が国の歴史や文化、
伝統にあるからだと思うからです。

戦前は、道徳といわず修身といいました。
その修身という言葉いつの間にか消され。
道徳という言葉に置き換えられたのです。
修身を否定し、道徳に置き換えた上に、
道徳という言葉を非難しているのです。
なぜ、修身という言葉を抹殺しなければならなかったのか。
我が身を修める。
それが日本人の根本精神です。
それは、全体主義者に、唯々諾々と
従ったわけではないことを意味します。
だから、全ての罪を、
日本の為政者にかぶせようと言う者にとって
都合が悪いのです。

なにもアメリカや外国を敵視し、
国粋主義者になれというのではありません。
我々が、世界に対してその責務を果たそうとするのならば、
独立の気概、日本人と誇りがなければならない
凛とした佇まいが必要なのです。

我々には、二つしか選ぶ道はありません。
尊重され、敬意をもって迎え入れられるか
隷属するかの、いずれか一つしかないのです。
自由と独立か。
それとも奴隷になるのか。
今我々は、それを、我々の手で
決めなければならない。
だからこそ、今、愛国心なのです。
愛社精神なのです。

 
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