思想や哲学に関する誤った認識の一つに、思想や哲学は、難解な物で、一部の専門家にしか理解できない。自分は、思想や哲学に無縁だという考え方である。

 現代社会は、人間不信の上に成り立っている。人間は、放っておけば悪いことをするものである。人を見たら泥棒と思えである。だから法によって監視する。それが現代社会の基本的考えである。それに対し、人間、根からの悪はいないと言う考え方もある。それは、人間の善性に信を置くのである。人間を信じるためには、人間の本性が信じられなければならない。
 しかし、現代人は、人間を信じてはいない。現代人が信じているのは、人間の理性ではない。法に対する恐怖心である。現代社会は、人間不信を前提にしている。ところが、現代社会の基盤は、信用制度である。人間が信じられないという事を前提としながら、信頼を基盤としている。これ程、皮肉な話はない。
 現代は、神なき世なのである。ある意味で呪われた時代でもある。科学が神を葬り去った。しかし、それは、科学が悪いのではない。本来科学は、神の摂理を現したものにすぎない。それは神の恵みなのである。それを人間は、あたかも自分が産み出し、作り出しているかのごとく錯覚しているだけなのである。科学が悪いのではない。人間が傲慢なだけなのである。だから、神の恵みであるはずの科学に報復されている。それが現代社会の環境問題である。
 現代社会の根本は性悪説である。人間は、基本的に悪事をする。だから、悪事を働けないようにするというのが、性悪説である。それに対し、人間には、倫理がある。人間を信頼する。しかし、それでも悪事をする者がでてこないと言う保障はない。だから、悪事をした者は、取りしまらなければならないと言う考え方もある。性善説である。ただ、性善説と言っても生まれついてと言うのではなく。環境や教育を前提している。本性が、善とか悪というのではなく。幼児期の環境や教育によって形成されると言う考え方である。
 もし、人間の本性を悪だし、人間不信に陥れば、即ち、人間そのものが信じられないという事になると、人間社会の基盤である信用制度が成り立たなくなる。人間の全盛、つまり、道徳や倫理観が信じられなくて、どうやって信用制度を成り立たせるのか。今日の信用制度は、人間の道徳や倫理ではなく。契約や貨幣制度と結びつくことによって成り立っているとされる。つまり、金によって信用制度は維持されているのである。突き詰めると、金しか信用できない社会だと言える。そして、契約を守らないものは、暴力によって制裁する。それが法治国家である。
 しかし、この様な社会に限界が生じるのは、自明である。なぜならば、例え、金銭であろうと、契約であろうと、決め事、約束事は、守らなければならないと言う倫理観を前提としていなければならないからである。人間か信じられなくなれば人間の社会はお終いである。そして、人間を信じられるのは、最終的には、その人の人としての本性、人間性、人間らしい心、モラルである。金が全てではない。金だけしか信じられないような社会になったらお終いである。

 人間不信の世だから、当然、疑りの目は、指導者に向けられる。指導者とは、悪の権化であり、私利私欲の塊で、志など無縁な存在だという考え方である。この考え方は、反体制、反権力、反権威主義者の考え方の中に強くある。つまり、経済的指導者にしろ、政治的指導者にしろ、下卑た人間ばかり、最も信用のおけない人間だという思想である。
 確かに、権力というのは、闘争によって勝ち取る側面があり、また、権力特有の誘惑によって多くの権力者は堕落した。しかし、経済的、政治的指導者の全てが、自分の私利私欲のためだけに、権力を奪取しようとしたと考えるのは、あまりに、短慮、浅はかである。後に、独裁者暴君と言われる者でも、その多くは、若い頃何等かの志を持っている者である。さもなければ、困難な状況を乗り越えられるものではない。権力闘争というのは過酷な試練なのである。その過程で多くの人間が堕落してしまうだけである。逆に、それだけ過酷な戦いだとも言える。

 人の世に指導者は必要である。そして、指導者は、指導者以外の人間とは違う。少なくとも、役割が違う。その差を認めなければ、社会は成り立たない。人間の個人差を認めないから、結局、目に見えない差別に振り回されるのである。人間の基本的な差を認めないのは、差別である。現実を直視すべきなのである。人間には、個人差がある。指導者には、人一倍、自分は、他人とは違うと思いたいというその感情が働くのである。自分は、他の人間とは違うと言う事を認めて欲しいという感情が政治や経済を動かす原動力となるのである。それを頭から否定すれば、指導者のなり手はいなくなる。

 反体制的な人間は、指導者の人間性を否定し、人間不信を土台にしたから、結局、個人崇拝に陥ったのである。これ程、喜劇的で、かつ悲劇的な事はない。権力者が自分以外全ての人間を信じられなくなった時、個人崇拝が生じる。それが反体制、反権力、反権威の究極的な姿である。

 会社も国家も公器である。私物ではない。故に、会社や国家は誰の物かと言われれば、当然、本質を見失う。会社や国家は、誰のために、何の目的であるのかを問うべきなのである。故に、国家も会社も合目的的な存在である。
 それでしか、経済的指導者や政治的指導者の有り様を評価する基準はない。国家・産業に対し、その指導者がどの様に志し、何を為したかである。だからこそ、私的な価値観ををかつては度外視したのである。それが、許容範囲を越えない限りである。その許容範囲とは、それが国家国民の生活に直接影響を及ぼさない範囲である。いくら潔癖な人間でも、人間の生活に悪影響を与えれば、それは、糾弾、指弾されるべきなのである。

 会社の国家も人の世の仕組みである。世の為、人の為になってこそ存在意義がある。今は、世の為、人の為など死語である。偽善的だという。所詮人間は、エゴイストでしかないと刷り込んでいる。

 会社が人の物でなく。市場という仕組みに対してのみ忠実になれば、効率化すればするほど、経済は衰退する。なぜならば、経済は、人の社会の仕組みに過ぎないからである。つまりは道具なのである。自動車がひたすら性能ばかりを追求し、なぜ、何のために、自動車を必要とするのかを忘れれば、自動車という産業が成り立たなくなるようにである。自動車は、自動車レースのためにだけがあるわけではない。自動車は、必要とする人によってその姿や性能を買えるのである。市場や企業も同様である。

 今、日本のメディアの人間は、何でも、反体制を気取っていれば良いと思い込んでいる。しかし、それは、日本のメディアの人間の保護であり、保身に過ぎない。体制側であろうと、反体制側であろうと、自分の主張をもって世に問うのがメディアの言論の世界に住む人間の最低限のモラルである。なぜならば、言論界に住む者は、自らの発言に責任を持つことが、職業倫理だからである。大衆を楯にとって、自分の立場を明らかにせず無責任な発言を繰り返すのは、大衆を愚弄する行為である。言論に中立、公正な立場というのはないのである。あるのは、自分が依って立つ立場である。経済的指導者、政治的指導者を糾弾する立場にある者が、自分がよって経つ立場を明らかにしないのは、それだけで卑怯なことである。

 つまり、経済にせよ。政治にせよ。その指導者がよって立つ立場、思想こそが問題なのである。

 結局は、モラルの問題に行き着く。例えば、民営化問題もしかりである。民営化すれば何でも片づくと思っている。しかし、それならばなぜ、社会主義や共産主義のように民間企業、同族企業を否定するような考え方が産まれたのか。以前は、何かというと資本家が悪いとされてきたのである。
 無駄な公共事業や利権かが問題になっている。一度決めたら、止められない。この変化の激しい時代に、硬直的な石頭では対応できるはずがない。反面、長期的構想や戦略もなく、予算は、単年度で使い切らなければ、次年度削られると意味もなく浪費される。公共事業なのだから、赤字なんてかまわないと労使共に無責任体質が染みついている。また、最近、高級官僚のタクシー券の濫用が問題にされている。年金処理のずさんさが問題になっている。
 正論を称える者は、固いことを言う奴と倦厭される。いつの間にか、悪いと知りながら体制に迎合する阿諛追従、郷原(きょうげん)のような輩ばかりになる。佞臣が蔓延る国は、滅びると言ったのは、孔子だが、現代の社会でも変わらない。
 かつて、資本家は、全ての悪の根源のように言われ、国営化が進められた。それなのになぜ今、民営ならば良くて、公営は駄目だと言え割れるようになってしまったのか。
 それは、責任感の欠如というか、根本的な行動規範の問題である。公は、権力と一体化しやすい。つまり、御上意識である。
 民間では許されないが、公権力では許される。本来、逆であるべき発想、つまり、民間では許されるが、公に尽くす者は許されないと言う崇高なる精神、倫理、ノーブレス・オブリージュが求められるべき公共官僚が、金の問題にだらしなくなると国は乱れ、規律は保たれなくなる。
 公に尽くしているのだから許されるだろうと言う発想こそが元凶なのである。そして、経済を軽んじる発想こそが問題なのである。戦略や政略という言葉はよく聞かれるが、経略という言葉はあまり聞かれない。しかし、戦争や革命のは以後には、経済、即ち、金の問題が見え隠れするのである。
 事業に失敗すれば、民間では、全財産を失い、身ぐるみ剥がれるというのに、公営事業で、失敗したからと言って責任を問われた者はいない。ただ、賄賂、賄(まいない)、横領だけが悪いとされるのである。それでは、事業そのものに対するモラルハザードは防げない。民営企業の経営者は、破産と隣り合わせだから、厳しく自己を律せざるを得ないのである。その点を見逃してはならない。また、生活がかかっているから、真剣にならざるをえない。経済とは均衡なのである。結果が、自分のやったことと結びつかないのならば、人は、自己の行動を改めたりはしない。人の物を盗んでも、罰せられなければ、盗みはなくならない。行動規範の根本にあるのはこの因果関係であり、その因果関係に対する認識の問題である。
 所詮、故に、モラルの問題なのである。政治的には、潔くても、金の計算に疎くては、政治家も、軍人も許されない。それでいて、金銭に潔癖であることが求められる。それは、民間企業に勤める者には、今は、当たり前なのである。しかし、民間企業の経営者も金にだらしなくなる。言い換えると金の背後にある誘惑(俗に、酒と女と博打と言われるが・・・。)にだらしなくなれば身を滅ぼすことになるのである。
 その誘惑に打ち勝つために必要なのは、高い志と強い信念である。

 経済上の行動規範を問題にするならば、経済における悪とは何か。善とは何かを明らかにすることである。元々、経済では何を悪い事としていたのか、善としていたのかがわからなければ、論理が成り立たないのである。ところが、それが常に曖昧なままにされてきた。
 村上ファンドの村上世彰が、世間の糾弾を受けた時、「金を儲けることは悪いことですか。」と叫んでいたが、結局、ファンドは解散に追い込まれた。ライブドアの堀江貴文も然り。一時は、マスコミの寵児であったが、一気に潰された。エンロンも然り。それは、どこかしらに、金儲けに対する後ろめたさがつきまとうからであろう。清貧という言葉が日本人は好きである。だから、土光敏光的な生き方を良しとする風潮がある。守銭奴的な生き方は、大っぴらには容認されないという事も意味している。これも価値観であり、思想である。

 最近の日本では、何かというと、企業のトップがでてきて、謝罪する。一時は、連日のように大手企業の社長がテレビカメラに向かって頭を下げるシーンが放映されていた。とにかく頭を下げる。原因や責任の所在がハッキリしなくても、とりあえずは頭を下げておく必要がある。日本以外では、謝罪は、罪を認めることになるので、安易に頭を下げたりはしない。しかし、日本では、とりあえず謝罪しないと許されない。誰が、何のために、誰に対してかは、問題にならない。世間をお騒がせしたと言う理由でマスコミに謝罪するのが恒例になった。

 では、何が悪いのであろうか。先ず、嘘は駄目である。船場吉兆という老舗が倒産に追い込まれた。その発端は、賞味期限の虚偽記載であった。耐震強度偽装事件も同じである。
 手抜きも許されない。災害が起こるたびに、手抜き工事が問題となる。建築物の手抜き工事は、災害か起こるか、立て替えをしなければならないときに発覚する。しかし、その影響は、人命に関わる問題だけに深刻である。乱開発や公害、欠陥商品、薬害も同様である。その影響は、長く、博く、深刻である。
 分不相応に儲けるのは良くないが赤字は駄目。まして、倒産は、犯罪行為に等しい。山一証券が倒産した時、当時の社長が泣きながら謝罪をした。
 首切りも酷(ひど)い。贅沢も駄目。不道徳なことも駄目。猥褻な表現は良いが、淫らな行為は犯罪である。搾取も悪い事。脱税のような違法行為は当然駄目。買い占めや売り惜しみも悪い。乗っ取りも道義に反する。便乗値上げもいけないこと。公害を起こすのは、社会的に許されない。談合やカルテルも違法行為である。
 しかし、これらも思想なのである。経済思想なのである。自明で所与の法則、原理とは違う。競争の原理も同様である。

 日本で、問題になるのは、社会的責任、道義的責任。世間を騒がせた。迷惑をかけたと言う事が問題になる。誰に頭を下げるのか。被害者と言うより、マスコミである。マスコミは、自分達さえよければいい。被害者の気持ちなどどうでも良い。社会的責任、道義的責任というかぎり、これもまた思想である。ただ、社会思想であり、経済思想とは、異質な思想である。

 マスコミは、視聴率やヒットすれば、社会は容認したと曲解し、自分行為を正当化する。その為に、テレビ番組は劣悪化する。メディアこそ、表現の手段であり、自らの言動に対して社会的責任がついて廻るというのに、公正中立を建前にして、自分達の立場を曖昧にし、都合が悪くなると言論自由を楯にする。悩ましげに人を誘惑していながら、ちょっかいを出すと乱暴されたと喚き立てて、金をせびるような者である。

 最終的に問題となるのは、経済的な問題ではなく、倫理的な問題である。倫理的故に、絶対的に駄目となり、あげくに、悪い事は悪いとなる。
 しかし、経済上の犯罪は、強盗や盗み、詐欺、ペテンと言った刑事的なものを除き、相対的な理念によって成立するものである。絶対的基準ではない。その根本は、経済思想である。つまり、思想上の問題である。

 思想上の問題なのであるから、ただ良いとか、悪いとかを主張するだけでなく。なぜ、何が良くて、何が悪いかの根拠をあげて主張する必要がある。その時、前提となるのは、市場の状況と経済環境であり、同時、どの様な状態、環境を前提とすべきなのかである。

 経済上の規範は、殺人や強盗、傷害、詐欺、ペテンと言った刑法ではない。むろん根本は、強盗も詐欺も、ペテンも経済的犯罪であり、刑事事件にも民事的な要素、経済的な要素はつきまとう。しかし、今日の経済的犯罪というのは、そう言った根本的、刑事的な犯罪ではなく。法による犯罪。契約に基づく犯罪を指す場合が多い。そして、その様な犯罪は、基本的に民事であり、相対的な犯罪である。つまり、根本理念が重要なのである。そして、刑事事件でも民事的な部分は区別して審議されるのである。

 経済上の問題は、根本に、どの様な経済状態を是とするのかの問題である。カルテルや規制は、一概に悪いと決め付けるようなことではなく。どの様な状況を前提としているかの問題である。

 確かに、スポーツをルールを知らない者が観察したら、何等かの法則性を見出すであろう。しかし、その法則性は、スポーツのルールを前提としているのであり、スポーツのルールは合意を前提としているのである。
 一夫一婦制に基づく婚姻制度も経済である。それは、自然の摂理のような類の法則ではない。国民的合意を前提としている。
 現代の市場経済の問題点は、根本思想として確立されていないし、自覚もされていないという事なのである。それでありながら、競争の原理と言ったように原理化されている。それが大問題なのである。競争の原理は思想であり、哲学である。思想であるからこそ、国民的合意を必要とするのである。

 ただ。金儲けを主としてしまうと、結局、違法行為すれすれにまで至る。つまり、そこには、客観的な基準が貨幣価値しか存在しなくなるからである。しかし、経済で重要なのは、どの様な市場環境、経済状況を望むのかである。それがなければ、ただ、利益を追求する以外に目的がなくなるからである。本来、利益は、手段に過ぎない。真の目的は、豊かで安定した社会、生活を築くことなのである。

 手段が目的化することの弊害であり、手段が目的化することを防ぐような仕組みを充分に用意しておく必要があるのである。

 利益、利益と、利益に群がるのは、ボールに群がる下手なサッカーのようなものである。なぜ、その様な事態を招くのか、それは、利益の持つ機能を正しく理解していないからである。利益は、尺度、目安であり、目的にはなりえない。

 近代資本主義は、所有と経営の分離し、究極的には、サラリーマンと資本家による社会を構築することにある。それは、資本主義の思想なのである。思想ならば、思想として認識すべき事である。それが暗黙の了解事項、合意のように作用することが問題なのである。

 自由主義国の人間は、自由主義や資本主義は、所与の原則として、また、自明な事と言う前提に立つ。自由や資本主義を自明な事としながら、それ自体を明確にしない。それが、問題なのである。
 なぜ、カルテルはいけないのか。なぜ、規制を緩和すべきなのかは、資本主義の根本理念から導き出される要件である。自由主義の根底、資本主義の根本を明らかにしないで、カルテルはいけない、規制は駄目だというのは、不合理である。
 特に、世襲や個人事業の是非は重要な問題である。暗黙に、特定の為政者、特に、一官僚が世襲や個人事業は良くないとして制度の中に、世襲や個人事業ができなくなるような仕組みを織り込むのは、民主主義に反する行為である。制度は、それを制定改廃するにあたってその根拠を明らかにする義務がある。

 よくメディアの人間は、現代社会は、価値観が多様だという。しかし、本当にそうであろうか。価値が多様化しているというのは、欺瞞である。価値が多様というのは、価値観を多様にしたい者が言うのである。価値が多様だという者にかぎって価値を多様にしたいだけなのである。

 もし仮に、いろいろな民族や宗教が混じり合って価値観が多様だというならば、何も今にはじまったことではない。なぜならば、宗教や民族ほど長い歴史をもつものはないからである。宗教や民族が多様性の原因だとしたら、有史以来ずっと多様なのである。風俗や習慣も然りである。現代社会は、歴史や伝統に否定的である。だから、モノカルチャー、単一化、標準化されていると考える方が妥当である。その証拠に言語がある。地方の訛(なまり)は、標準語によって失われつつある。どこが多様化していると言えるのであろうか。現代社会は、多様化するどころか、平準化、標準化されているのである。

 ではなぜ価値観を多様だと言いたいのか。なぜ多様化したいのか。それは、社会や国家の基盤をバラバラに分裂させたいと思っているからである。
 社会や国家の価値観や行動規範が、分裂し、バラバラであれば、法や秩序は保てなくなる。つまり、統一国家は成り立たなくなる。つまり、国家としての統一を失わせたい、社会を混乱させたいと思う勢力が、価値は多様だと民衆に思い込ませたいのである。

 国家、社会が成立するためには、何等かの暗黙の合意事項、共通の価値観を基礎としていなければならない。特に、国民国家では、この合意事項や共通の価値観が重要なのである。
 合意事項や共通の価値観を明文化したものが憲法であり、法である。
 この事は、建国の前提として少なくとも法治主義に則っていることを意味している。これはれっきとした価値観であり、合意事項である。
 この価値観が多様であったり、合意されていなければ、国民国家は成り立たない。価値観とは、そういうものである。
 そして、人を殺してはならないというのは、傷つけてはならない人命の尊重を意味している。また、人の物を盗んだり、壊したりしてはならないというのは、私的所有権を認めていることを意味する。また、約束は守らなければならない。人を欺いたり、嘘をついたりしてはならないというのは、信義を重んじていることを意味し、契約主義の前提でもある。
 この様に価値観というのは、その社会の人間が当たり前だと考えていることを指して言うのであり、相違している箇所を取り上げて多様だというのは、お門違いである。そうなると、現代社会というのは、広範囲な合意と共通認識に基づいて構築されていることとなる。ただ、広範囲な合意が成立するに従って、相違点がより鮮明になり、見かけ上価値が多様化しているように見えるだけなのである。また、相違点が明らかになればなるほど、その対立点も明らかになり、問題点が先鋭化してより深刻度を増すのである。

 これが現代社会、特に国民国家において問題の溝を深め抜き差しならない問題へと発展させているのである。だから、逆に、ある程度の価値観の多様性を許容できる社会、国家制度を構築していく必要があるのである。それが民主主義の前提でもある。

 資本主義か発達するためには、公の思想がなければならない。つまり、自分を超えた世界、存在、共同体である。その公の世界と自分の利害とが一致し時、公と私が両立するのである。どちらか一方だけでも、資本主義の基礎的理念は、形成されない。
 滅私奉公という思想では、資本が形成されないのである。なぜならば、私を滅してしまえば、蓄財、私的所有という発想が生まれないか、否定されてしまうからである。資本は、財の蓄積、即ち、私的所有という概念があってはじめて成立する。滅私奉公という発想は、一見、公に殉じるというふうに聞こえるが、実際は、個対個の関係、私的な契約関係に基づいているのである。真の公的関係の中には、全体としての公の中に個としての私が包含されているのである。つまり、全体と部分が自律的に構造的に成り立たなければならないのである。

 国家社会というのは、共同体である。この共同体の範囲が、国家や社会の枠組みを作り出す。資本主義の危機は、公の存在を前提としながら、共同体としての必要要件が欠落してきたことにある。つまり、部分と全体との調和が崩れ、公という関係が崩壊しつつあることである。
 世の為、人の為、それが、翻って考えれば自分の為になると言う考え方、倫理観、行動規範である。つまり、公に尽くすと言う事は、自分を滅することではなく。自分を生かすことにある。それ故に、譲るべき事は譲らなければ成り立たない。権利と義務は、同じ働きが作用反作用として現れたに過ぎないのである。公に対する私的権利は、公に対する義務を同時に負担することなのである。

 公と言う概念には、国家、社会、民族、人類などがある。また、象徴的な概念としては、神がある。

 一神教徒の契約は、根本が、神と人との関係の延長線上にある。それに対し、多神教徒の日本人は、人と人の関係の延長線上にある。これは、一神教徒における神と人との関係は絶対的なものであることによる。それに対し、人と人との関係は、相対的であり、人物本位になり、日頃の人間関係、付き合いとか交際範囲や即物的な関係、地縁、血縁によらざるをえなくなる。

 宗教が経済に与える影響は、重大である。それは、一神教徒の倫理観は、神と人間との関係の上に成立しているからである。

 山本七平は、近代の契約思想の根本は、人と神との契約関係の上に成り立っていると述べている。(「聖書の常識」山本七平著 文藝春秋社)神に対する誓約、契約を絶対とし、個としての個人を信じるのではなく。神に対する信仰を信じる事によって資本主義を築き上げ発展させた、ユダヤ教徒やキリスト教徒は、契約の民なのである。山本七平は、「法治」と言う概念の根本にも宗教法、即ち、神との契約があると論じている。
 故に、例え、民族、宗教が違っても神との誓約を遵守すると言う事は、間違いない。それが、宗教や民族を超えて契約が成り立ち前提である。だから、彼等は、やたらと宣誓をする。裁判をするにせよ、結婚式でも、スポーツの祭典でも、神に宣誓をしてから始めるのである。神への誓いは絶対的なのである。
 その結果、宗教が違っても、神に対する信仰があれば信用がおける。むしろ、無神論者こそ問題なのである。日本人は、意味もなく、宣誓をする。それが信用されないのである。
 ところが日本人は、なぜ、自分達が信用されていないのかがわからない。信用されていないことすら理解できていない。平気で無神論者であることを公言する。それは、日本人に、この契約の観念、根本にある神との関係が、理解されていないからである。その点は、日本人を、世界で極めて特殊で異質な存在にしている。この点に関する理解がいつまでも日本人に欠けていると、日本人は、現在の世界経済で起こっている出来事、現象を理解することができないし、国際社会の中で孤立してしまう事になる。

 今、資産規模120兆円とも言われるイスラム金融が話題に乗ることが屡々(しばしば)ある。イスラム教では、金利が禁じられている。金利が禁じられているのは、イスラム教ばかりではない。多くの宗教が金利を禁じている。しかし、何等かの口実を与えて金利の問題を解決してきた。現在のイスラムもその過程にあると思われる。しかし、それでも、イスラム教の教義は厳格なものがある。それを前近代的というのは、傲慢なことである。人間にとって経済が全てではない。また、思想や信条を曲げてまで経済的要請に妥協するのは、経済効率から見て正しくても、人間の生き方からして正しいとは言い切れない。なにが正しいか、善悪と損得とは別の次元の基準である。
 イスラム社会の税は、喜捨(ザカート)に発すると言われる。ザカートは、持てる者から、持たざる者へ財産を分け与えると言う考えに基づく。(「イスラム金融」糠谷英輝著 かんき出版)この事は、税の性格を考える上で重要である。多くの国の税は、権力者や支配者の家政上、軍事上の必要性に基づく。それ以外に所謂(いわゆる)所得の再分配という発想があるのである。
 この様に、イスラム社会では、宗教的な要請が重要な役割を果てしている。しかし、この様な傾向はイスラム社会だけではない。

 国家という概念は、比較的新しい概念である。国家と民族という概念は違う。国家という概念は、近代においてフランス革命やアメリカ独立戦争を契機として発生したものであり、理念的、観念的なものである。それに対し、民族とか宗教は、より実生活に根ざした実体的な概念である。
 ところが、近年、この国家主義と民族主義とが結びついて、国家の持つ本来の概念を歪めてしまっている。国家というのは、一つの契約に基づいて結びつけられた共同体の総称である。

 一家一族という発想からも資本は生まれない。なぜならば、資本というのは、広く資金を調達することを意味するからである。
 また血縁主義、血族主義、氏姓制度、大家族主義は、共同体主義でもある。共同体には、内と外の別がある。と言うよりも共同体主義というのは、共同体の内と外を明確に区分し、そのうちとそとでは行動規範も別の体系にする。この様な共同体主義は、共同体の内部に向かう思想である。市場は、共同体と共同体の境界線に存在する。故に、共同体の外部を認めない思想は、市場経済が入り込めないのである。故に、市場経済を土台とする資本主義は、なかなか共同体主義的社会では定着しない。
 血縁主義や血族主義、大家族主義は、現実に存在する人間関係を前提とする。つまり、既存の人間関係を土台として形成される思想である。
 それに対し、近代的な国家というのは、血縁のような既存の人間関係を乗り越えたところに、共通の価値観、規範をもって共同体を構築していこうとする思想である。故に、根本の理念とその根本理念に基づく契約が重要となる。そして、その契約は、何等かの共同体の一員としての契約ではなく、個人としての契約でなければならない。その好例が、近代の婚姻制度である。従来の婚姻制度は、家と家との間、即ち、共同体間で取り交わされるものであったが、今日の婚姻は、個人と個人との間の契約によって成り立っている。

 先にも述べたように、近代的な国民国家においては、この契約という思想が重要な意味を持つ。

 契約とは、絶対的権威を介して行われる取り交わしである。契約というのは、個人と個人との間に行われるのではなく。絶対的権威に対する服従を前提としている。近代以前では神である。つまり、神に対する信仰が、契約を守らせるのである。そして、それは、個人の価値観の裏付けとなる。
 国家は、象徴であり、制度である。国民国家においては、この国家に絶対的な権威をおく。それが法治主義である。国民国家は、価値観を、個人に根ざしている。国家の絶対性というのは、絶対的な権威の象徴としてである。実体化するのは、制度である。制度は、個人の価値観に根ざしているのである。

 砂漠の真ん中で信号が赤になっても、かつての日本人は、止まるであろう。人が見ていないからと言ってもお天道様はどこかで見ていると。一見不合理で、愚かに見えるかも知れないが、そうしなければ、モラルは成立しない。道徳というのは、内面の規律である。外面を取り繕うものではない。

 近代で言う婚姻とは、制度的なものである。しかし、結婚は、個人の問題である。個人の価値観に基づいている。何人もこの領域を侵すことができない。その個人の意志を前提として婚姻制度は成立している。つまり、婚姻制度を成立させているのは、婚姻を認める絶対的権威と個人の意志である。個人の神に対する誓約と制度としての結婚、この二つが一つの儀式、結婚式に集約される事によって婚姻制度は成り立っている。これが国民国家の基盤でもある。

 また、資本主義には、契約という思想が必要である。
 儒教な倫理にはこの契約という思想が稀薄だと言われる。儒教では、契約よりも信義を重んじる風潮がある。

 行動規範での重要な要素の一つにグループ化があり、その現れの一つに派閥がある。派閥を作ることは、弊害のように思われるが、外ばかりではない。有益な面もあることを忘れてはならない。

 その国や国家の行動規範は、経済的行為の基礎となる。経済的行為を支配する。

 該当国や地域がどの様な価値観を共有し、どの様な価値観を基準として賃金体系を構築しているかによってその国や地域の人件費が下方硬直的になるか、どうかが決定的になる。

 労働は、苦役であろうか。労働を苦役だとする思想が、欧米にはある。労働は苦役であり、働く者は、奴隷である。これは、奴隷制度を下敷きにした社会だから成り立つ発想である。

 労働は苦役か、自己実現か。その考え方の違いで、仕事に対する姿勢が変わる。苦役だとすれば、なるべく休みを多く取り、早く仕事から退くことが人生の目的になる。

 以前、中東専門の研究者の話を聞いたことがある。彼が言うには、中東の人間から見るとなぜ、日本人は、あんなに、汗水垂らして働くのか解らないと言う。かつて、彼も同じ質問をされたことがあるという。しばらく考えて、彼は、「日本人は、後で楽しむために、今、一生懸命働くのだ」と応えたのだそうである。そうすると相手は、ますます解らないという風に、「なぜ、楽しみを後回しにするのか。我々は、今、楽しんでいる。」と言ったそうである。
 どちらが正しいかではない。価値観の相違なのである。そして、その価値観が、その国、その地域、その民族の生き方や文化の違いなのである。問題となるとしたら、その価値観が経済に対してどの様な影響を与えているかである。
 人は自分が所属している社会の価値観を絶対視する傾向があるが、価値観も社会も絶対、不変的なものではない。今、上手く機能しているから、将来も、上手く機能するとは限らないのである。
 日本人は、勤勉や節約を美徳としてきた。確かに、それが今日の繁栄を築き上げた。しかし、今言われているのは、消費は美徳であり、楽して儲けることである。そして、その価値観こそが現実の経済行動を左右しているのが現実なのである。価値観が悪ければ、価値観を変えればいい。しかし、一国の価値観を変えるためには、三世代かかるとも言われている。そんなに悠長なこと入ってられない。また、価値観を変えるにしても、今行動を起こさない限り。何も期待できないのである。
 だから、先ず見極めるべきは、どんな影響がでるかなのである。

 労働に対する価値観は、重要である。ウェバーは、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で世俗的な禁欲主義の上に、職業を天職として勤勉に励み、富をその結果だとする規範が、資本主義的合理性信徒適合し資本主義を生み出したとしている。

 必要な物をえるだけ働いて、それ以上働くことは、意味のない事、むしろ、他人から職を奪う悪い事だという従前の考え方では、資本主義は成立しないという事である。

 「三月危機」と言う言葉が日本の証券市場にはあるそうである。同じ様に「十月危機」言葉がアメリカにもあるそうである。なぜ、十月かというと、アメリカの税制上に問題があるからで、十月末に投資信託が損益通算をするために、保有銘柄の益出しやタックスロスセリング(節税のための損失確定売り)等、持ち株高調整に一斉に動くからでそうである。(日本経済新聞 2008年3月27日夕刊)

 制度は、行動規範を支配し、行動規範は、制度を変革する。

 京都の町屋の家屋の間口が狭いのは、徳川家光の時代に間口税がかけられ、家の間口の広さによって税が掛けられたからである。それが、京都の町の整然とした景観を生み出したのである。

 上場会社の経営者と非上場会社、もっとハッキリ言えば、同族会社の経営者とでは、行動規範が違う。上場会社の経営者は、株価を維持するために、収益を上げる事に汲々とするのに対し、同族会社の経営者は、節税対策と銀行対策を両立させることに頭を悩ます。その結果、可能な限り、つまりは、赤字にならない程度に収益を圧縮して内部留保を積み増そうとする。表面に現れる行動は、正反対なものになる。それでも経営は、成り立つのである。なぜならば、いずれにしても資金が廻れば、経営は成り立つのであるから、資金源を確保するという目的は共通していて、その資金源の性格が違うからである。つまり、経営者の行動は、合目的的であり、その目的を形成するのは、社会の基盤、制度なのである。故に、社会の制度が人間の規範を支配していると言えるのである。そして、社会制度は、経営者の行為によって現れた結果によって制定、修正、改廃される。この様に、制度が規範を支配し、規範が制度を変革するという関係が成り立つのである。

 戦後は、学校給食にパンが多く出されるようになった。そのことで日本人の食文化がかわり、農業や産業も変化したのである。

 この様に、社会の基盤となる経済制度によって規範は形成され、規範が経済体制に重要な影響を与えているのである。

 人は、自分の価値観や常識を普遍的なものだと錯覚する傾向がある。そして、自分の価値観をおしなべて相手の行動を理解しようとする。しかし、人の価値観は千差万別である。特に、国家や地域、文化、風俗習慣、民族、宗教が違うとまったく違う価値観を持っている者である。だからといって、一つ一つの価値観に優劣を付けてみたところで意味はない。それぞれの価値観が経済に対してどの様に影響し、作用を及ぼすのかを見極めて、一番適合する仕組みを築き上げることなのである。
 日本人は、勤勉や節約を大事にし、今日の繁栄を築き上げてきた。しかし、それが高度成長を経て、バブルにいたり、公害や環境破壊、家族の崩壊と言った問題を引き起こしてきた。
 従前の経済社会は、共同体としての特徴を兼ね備えてきた。しかし、今日、会社組織から、その共同体としての要素が欠落しろも抜け落ちてきた。それが深刻な問題を引き起こしているのである。経済的効率は、何も、貨幣価値で換算できるものばかりとは限らない。モラルの問題である。そのモラルが崩壊しようとしている。
 会社から社会性が脱落し欠けているのである。会社という熟語は、社会という言葉をひっくり返したものである。それは、象徴的なことである。会社は社会の縮図である。会社というのは、本来一種の社会でなければならない。ところがその会社から社会性が欠落しつつあるのである。社会というのは、貨幣だけで成り立っているわけではない。貨幣で換算できない部分を多く含んでいるのである。社会というのは、日々の営みである。そして、多様な人間の集まりである。その中には、いろいろな障害を持った者や年寄り、子供のような弱者が含まれている。そう言った弱者を切り捨ててしまったら社会は成り立たなくなる。むしろ、弱者を擁護することこそ社会的機能の重要な要素の一つである。そこに、経済的規範がの基礎が隠されているのである。

 節税行為をとることは、税制からくる当然の帰結である。法は、節税行為を妨げない。制度は、規範を規制する。ところが税制が会計を歪める効果があるとしたら、それは問題である。また、倫理観まで圧(お)し曲げたらそれは人間性の問題にまで影響を及ぼしてしまう。金は、人の人生を狂わせる。しかし、それは金が悪いわけではない。人間の社会の問題である。重要なのは、税制の理念と会計の理念の整合性なのである。そして、それが本来の目的を逸脱してはならないということなのである。基礎となる経済思想こそが問われているのである。
 税と会計と商業道徳、それが均衡した時、正しい経営が行われるのである。
 

行動規範

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