普遍主義・一般化


普遍、一般から特殊、個別へ


 人間というと我々は、良く知っていると思い込んでいる。しかし、改めて人間とは何かと言われると答えに窮する。
 人間とは何かを定義してみようとすると、これが、なかなか難しい。また、具体的に、考えるとなると自分が良く知っている人を思い浮かべてみたりもするが、だからといって、自分が思い浮かべた人が、人間の持つ全ての要素を兼ね備えているかとなると極めて頼りなくなる。つまり、我々は、漠然と人間という者を認識していると言える。
 現実に出逢う人間は、個性的である。よく似た人間はいるが、全く同じという人はいない。つまり、個人というのは特殊、特別な人間である。こう考えてみると人間という概念は、抽象的な概念なのである。
 現実には、人間という人間はいないとも言える。それでありながら、我々は、人間と言う認識を瞬時にする。直観的に一般化、普遍化して人間というのを見分ける判別するのである。その上で、個体を識別する。プラトンは、ある種の人間の本質、イデアがあると考えた。イデアの是非はともかく、人間が瞬時に人間を識別することだけは確かである。
 つまり、人間は、経験的に多くの対象から共通項を識別し、対象を幾つかの集合に類別し、名前を付けて抽象化するのである。この様な認識の仕方を帰納法という。そして、一般化した概念から、対象を推論し、あるいは、将来を予測して結論を導き出し、自分の行動を決断する。
 この様に、人間の認識は、帰納法的抽象化と演繹法的推論を繰り返しながら、一定の分別を行っているのである。

 認識は、不変的ではなく、また、固定的でもなく、無常で、流動的なものである。つまり、絶え間なく、揺れ動き、変化している。即ち、相対的である。故に、前提が重要となる。つまり、立ち位置が問題となるのである。人間は、自分の立場で物事を認識し、判断する。その前提を忘れてはならない。自分の立ち位置を確認し、何を前提としているかを明らかにする必要がある。
 その根源にあるのは、神である。つまり、不変、絶対な存在である。不変、絶対な存在と自分とを結ぶ延長線上、認識の上に我々の世界がある。

 現実の世界は、多様な世界である。単一的な世界ではない。複雑で、多様な世界を識別するために一般化、単純化するのである。
 それが科学である。対象が一般的で普遍的、単一的なのではない。
 識別するためには、単一で単純な方が便利だからといって、自分の認識上の都合に合わせて対象や世界を単一化しようと言うのは乱暴な話である。
 なぜ、認識上、対象を単一化した方が良いのかという自己という存在が唯一の存在だからである。つまり、認識主体は唯一な存在だからである。また、対象も唯一の存在だからである。認識や観念が多様なのであり、自己や対象は、唯一の存在である。故に、単一的、統一的に捉えた方が理解しやすい。しかし、それは、認識の問題であり、観念の上の問題である。つまり、自分の都合の問題である。
 現実は、絶え間なく認識の修正を求め続ける。それは、存在は絶対的であるのに対し、認識は相対的であるからである。言い換えると、対象はそれ自体で存在するのに対し、認識は、他との比較の上で成り立っているからである。この事は大前提である。

 現実の世界は多様な世界である。単一な世界ではない。人は、皆、違うのである。その違いによって自分は存在する。また、他との識別も可能なのである。
 他と自分が全く同じであるとしたら識別することは困難である。また、自分の立ち位置を確認することも難しい。人と人が違うから人を見分けることも可能であり、また、自分の役割や居場所も明らかにできる。それが大前提である。その前提の上に人間の社会や文明は成り立っている。男と女は違うのである。ただ、全てが違うのではなく。共通したところもある。そこが人間だと言う事である。
 男と女は、人間として平等だが、男と女としては違う。この様に、共通したところと違うところを識別することによって社会も科学も成り立っている。そのうえでの平等である。つまり、何が同じで何が違うの中を明らかにしていく過程で、認識が深まっていくのである。オール・オア・ナッシングではない。

 全ての存在は、何も変わらない。だから、あらゆる扱いは、同等にすべきだというのは、あまりにも短絡的で、野蛮、無謀な認識である。逆に、違いを優劣に結び付け、はじめから扱いに差を付けるのも乱暴で、暴力的である。それは差別である。

 現代社会は、どちらにしても単一的な方向に向かっている。多様性を受け付けないのである。また、それを科学的だとしている。
 科学は、一般と特殊を峻別しているに過ぎない。普遍的に存在は、普遍的な存在。特殊なものは、特殊なものとして扱っているのである。

 神は、神。人間は人間なのである。

 単一化は、効率化ではない。効率というのは何を持って効率的とするのかによって違ってくる。効率的に生産するのか、効率的に分配するのかは、効率化の前提が違う。その点を履き違えると経済に対する見方、考え方を見誤ることとなる。
 生産の効率化も大量生産、大量消費を前提とするのか、それとも、多品種少量生産を前提とするのかによって、効率化の意味も違ってくる。
 問題は何を前提とするのかである。

 経済の本質は、労働と分配である。生産と消費ではない。ならば、雇用を優先すべきなのである。効率の良い雇用である。それは、生産性とは必ずしも一致しない。生産性を犠牲にしても雇用を優先しなければならない状況もあり得るのである。
 これは、何を前提とするかによって違ってくる。人間の幸せを優先すべきなのか、生産性を優先すべき釜問題である。この答えは、自明であるように思える。人間の幸せを優先すべきであることは明確であると思う。しかし、現実の社会では、往々にして、生産性のために、人間の幸せが犠牲にされている。
 これは、前提の間違いによって生じている。そして、それは、人間の認識を普遍化する、絶対化することによって派生している。つまりは、人間の傲慢さに依るのである。
 普遍、絶対は、神の領域、人間の認識は、相対的なものである。それを前提として人間は、対象を便宜的に一般化しているのである。

 人間の傲慢さが高じると、人間の認識に対象を合わせようとする。つまり、単一化しようとする。それが独占を生み出す。

 違いがあるからこそ意味がある。違いがわかるからこそ意味がわかる。

 貨幣は、価値を単一化する。単一化することによって違いを際立たせる。反面、個性を貨幣価値の中に、埋没もさせる。それは制服の作用にも似ている。同じ、制服を着せた時、個別に見ると人間本来の個性が際立つ。しかし、それを全体で見ると個性が埋没してしまう。貨幣経済には、その様な、一見、相反する作用がある。数値化にも同様な作用がある。しかし、その弊害は、貨幣や数値化の持つ意味を正しく理解をすれば避けられる。問題は、貨幣や数値化の持つ一般化という意味を正しく理解していない、また、正しく活用していないことから派生している。

 自分の立ち位置や前提によって対象の捉え方は違ってくる。大切なのは、何が普遍的で、何が相対的なのかそれを見極めることである。そして、それが何によって変わるのかである。

 人間は、その存在において平等であるというのも真理ならば、人は、また、一人一人違う。同じ人間はいないし、同じ人生もない。これもまた一つの真理なのである。

 普遍と個別、一般と特殊は背反的な概念ではなく、相互に補完的な概念なのである。






                    


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