場の理念


消費の場


A 消費の場



 消費は文化の源である。食文化が好例である。食の多様化が食の文化を生み出し、人々の生活に潤いをもたらした。食は、単なる餌から、嗜好品になった。食事は、喜びに変じたのである。そして、食が文化になった。その根底には、消費経済がある。
 消費が経済を牽引し、生産が、経済を推進する。

 本来、消費者が一番力を持っていなければならないのに、生産者、市場から見ると今、一番、力をなくしている。その現れが家内労働の軽視と、それに端を発した家庭労働である。また、介護や育児、家事の外注化も家庭崩壊に拍車をかけている。つまり、消費の場の崩壊が根底にある。

 経済には、消費の場があり、消費経済がある。労働にも、生産的労働の他に、消費的労働がある。そして、消費の場は、消費的労働の場である。
 消費的労働の代表的なものは、掃除、洗濯、料理と言った家事、それから、育児、教育、介護、医療、福祉、政治、司法、行政、治安、防災、国防と言ったものである。
 また、消費の場は、家計、財政といった共同体内部に多くが占められている。つまり、家庭の内、家内である。

 消費の場には、人的な場、物的な場、貨幣的な場がある。

 狭い意味の仕事や働くという言葉の中には、生産的な仕事という意味に限定されている場合がある。それが問題なのである。所得を得る労働だけが仕事や働きなのではない。家事も立派な仕事であり、働きである。
 また、政治や行政というのは、消費的労働に含まれる。
 家計から見ると生産的労働は、外在的労働であり、消費的労働は、内在的労働である。
 働きに出るとか、稼いでくると言った表現に外の労働を暗に高く評価している響きがある。しかし、生産労働と消費労働は、表裏を為す労働であり、どちらか一方が優れているというわけではない。
 ただ、労働の評価を、所得によって計る傾向がある。その為に、仕事というと、専ら家の外の仕事、職業を指すような風潮が強くなった。それが、家事労働の社会的地位が確立されない原因の一つである。
 しかし、家計から見ると家事が主であり、職業は従である。

 消費の場は、生活の場である。生活の場であるから、住む場である。職場というのは、所得を得る仕事の場である。

 家事というのは、複合的、総合的、一般的、内向的、自己完結的労働である。それに対して、職業というのは、単一的、専門的、特殊、外向的、組織的な仕事である。つまり、家事に要求されるのは、総合的能力であり、職業に要求されるのは専門的能力である。

 現代では、稼ぐことばかりが経済の主要問題だが、使い方も重要なのである。例えば、公共事業として景気浮揚策は、専ら予算ばかりが問題にされ、使い道は、あまり斟酌されない。しかし、景気に対する影響、効果は、むしろ使い道に左右される場合が多い。使い方を間違うと景気を良くするどころか、かえって悪化させてしまう。財政問題の主要な部分は、公金の使い方である。何に公金を使うかである。
 稼ぎ方も重要だが、使い方も重要なのである。職業は、所得に関わる労働、生活は、支出に関わる労働である。

 無駄遣いという考え方がいつの間にか忘れられた。しかし、無駄遣いは、いろいろな弊害をもたらす。
 無駄遣いの最たるものが戦争である。戦争は、人類最大の壮大な無駄遣いである。例え、その様な無駄遣いが景気を浮揚させたとしても何の益もない。戦争でしか景気が、よくならない経済体制があったとしたら、それは、経済構造のどこかに欠陥があるのである。

 消費の場は消費の構造によって形作られる。

 原初、経済は、自給自足を旨とした。その時代の経済は、専ら共同体内部の現象だったのである。
 自給自足の時代には、市場は必要とされなかった。つまり、生産と消費が分離していなかったのである。生産の場と、消費の場が分離する過程で市場が生じ、市場が成立する過程で貨幣が流通した。貨幣が流通することによって社会的な分業が促進されたのである。この段階で経済を構成する場は、生産の場、市場、消費の場である。ただ、自給自足体制が混在する社会では、生産と消費は、同じ共同体内部に存在していた。即ち、経済の場は、共同体と市場からなっていたのである。そして、仕事には、共同体内部の仕事と共同体外部、即ち、市場的仕事に分類することも出来る。

 発生の要因から見ても解るように、市場は、貨幣的空間であり、交換の場である。市場の仕事は、一般に取引を基調とした仕事である。
 共同体は、生産の場であり、消費の場である。共同が作り出す場は、共同の場であり、生活の現場である。共同体は、非貨幣的空間であり、倫理的、また、掟によって成り立つ空間である。故に、共同体内部の仕事は、人間関係を基礎とした 仕事である。
 つまり、市場では取引に拘束され、共同体では、人間関係に束縛される。
 その為に、生産的労働、消費的労働、市場の労働は、質、量、密度が違う。また、その労働とその労働に対する考え方、評価の仕方が違う。この点を念頭に置いておく必要がある。市場と共同体では、価値観の基盤が違うのである。市場では、損得が価値観の基盤となり、共同体では、善悪が価値観の基盤となる。

B 消費経済


 消費は、長い間、経済とは思われてこなかった。
 例えば労働が良い例である。労働というと、生産労働をさし、消費に労働は、関係していないと決め付けられていた。
 それが消費労働の社会的地位を低めてきた。そして、消費労働の重要な部分を女性が占めてきた。それが、女性の社会的地位を低くしてきた原因の一つでもある。よく外に働きに出る、又は、女性の社会進出と言う事が話題になるが、労働は、外にあるものだけとは限らないのである。生産労働と消費労働は、本来社会的分業の範疇で考えられなければならない問題である。そして、また、文化の問題でもある。
 また、労働は、所得の源泉でしかなく、支出を生み出す元だとは考えられてこなかった。しかし、生産だけで経済は成り立っているわけではない。需要と供給と言い。市場においては、需要が供給以上に重視されてきたというのに、供給の素である生産ばかりが取り上げられて、需要の素である消費は忘れられてきた。そして、消費に関わる労働は、蔑まれ。衰退の一歩を辿っている。
 経済を推進するのは、専ら生産力であり、消費力は無視され続けてきたのである。それが大量生産型経済を作り上げ、人類に壮大な無駄を強いているのである。お客様は神様などと言いながら、結局、お客様である消費者をどこかにやってしまったのである。しかし、消費は利益の源泉なのである。
 また、所得に関しても、現在の経営主体には、消費に基づいた給与体制はなく、生産に基づいた給与体制しかない。ただし、生産性だけでは、給与体系は成り立たないので、生活給のようなものが導入されている。しかし、それはあくまでも補助的、補完的なものにすぎない。
 それは、経営主体の共同体としての在り方を真っ向から否定している。本来、経営主体というのは、生活共同体であった。その原形は家族主義である。江戸時代においては、生活は、即、仕事であった。生計、生活費を稼ぐことを目的として仕事は位置付けられていた。現在は、生活費や生計という発想がどこかにとんで、仕事場は、所得を得るだけの場に堕している。かつても武士は、家に殉じたのである。そして、代々、家に忠勤を励んだのである。家とは、生活共同体である。この家という発想がなくなった為に、職場から生活感が失われたのである。

 現代人の多くは、経営主体から得るのは、貨幣収入だけだと思い込んでいる。しかし、実際には、多くのフリンジベネフィトをえている。フリンジベネフィットとは、給与外給付とか、給与外報酬というもので、給与として支払われ以外にえる給付を指して言う。必ずしも貨幣として支払われるとは限らない。そして、その部分こそ、経営主体の共同体的な部分を色濃く残している部分なのである。生活に直結し、密着しているから共同体のとしての意義がある。
 生産の場から見ると、賃金というのは、労働の対価、労働の値段だが、消費の場から見ると賃金は、生活費であり、生計であり、所得である。それは、家計に直結したものである。生産効率を上げるためには、賃金に格差を付けて仕事に対する、モチベーション、意欲を上げる事がいいが、生活設計をするためには、極力、格差を少なくし、一定の収入を保証された方が良い。問題は、両者の均衡にある。
 唯一つ言えることは、賃金、給与を生産性という側面だけで捉えるべきではないという事である。報酬は、共同体の一員として支払われるべき性格のものであり、収益を生み出した者、全員に分配されるべき性格の物である。特定の者が独占すべき者でもない。また、共同体の経営、経済状態には、その企業に携わった者、全員が責任を負うべきなのである。そうでなくても、結果において責任をとらされるのである。過激な組合の中には、自分達の権利と会社の経営とは無縁だと豪語する者もいる。しかし、会社が倒産すれば、組合も無事ではすまないのである。また、高額な報酬を受けるのは、当然だと考えている経営者もいる。しかし、利益を独占するのは、組織そのものを否定する事に繋がる。
 良い例が、NFLである。NFLは、リーグ全体の収益と球団の収益、個人の収入、そして、チームの戦力を調和させるための仕組みを構築している。それは、経済の在り方の一つの方向性を示しているのである。

 同一労働同一賃金と機械的に計算するのは、労働者の意欲を削ぐことになる。また、能力だけで評価をすれば、偏りが生じる。
 働く者は仲間なのである。運命や目的を共有する仲間なのである。
 目に見えた数字に現せない、実績や功績もある。二軍、三軍で将来のために自分達の才能を磨いている者もいる。試合にはでなくともコーチやフロントとしてチームを支えている者もいる。社会の水面下にいる人々をいかに評価するか、それが、経営主体の重要な役割でもある。ただ、実績や成果だけで報酬を決める事は、分配という、本来の役割を喪失されることにもなる。分配の本質は、共同体の論理に基づく必要があるのである。分配の原点は、助け合い、分かち合いの精神なのである。

 また、経済を決定付ける物価は、半分の分野を消費に依拠している。
 今こそ、消費経済の確立を確立する必要がある。
 経済は、所得だけで成り立っているわけではなく。消費も反面を担っているのである。
 収入ばかりが経済をになっているわけではなく。支出も重要な要素である。収入と支出は、表裏の関係にある。金は儲けるだけが能ではない。使い方も大事なのである。

 ただ、誤解してはならないのは、消費経済というのは、消費者運動のようなものを指しているわけではない。消費構造が経済に与える影響を明らかにすることによって成立する経済である。つまり、鍵は、消費の仕組みにあるのである。

 現代経済の欠点の一つは、消費という場を設定していないことである。どこまで行っても生産が主導であって消費は二の次にされる。
 その為に、あらゆる基準が生産を土台として計算される。そして、生産や生産の効率性が最大の基準となる。

 しかし、景気は、消費によって支えられている。消費が減退すれば景気も減退する。
 生産と消費は、経済の両輪である。そして、生産と消費は、労働と分配に結びついてはじめてその効果を発揮する。
 消費を置き忘れていては、経済は成り立たないのである。

 消費経済がない経済は、蓋のない圧力鍋のようなものである。鍋として機能はしても本来の圧力鍋としての機能は果たせない。

 消費は、市場の半分を形成している。消費の形態は、生産の形態を規制し、生産の形態は、消費の形態を創造する。
 大量生産型産業は、大量消費型社会を前提とし、多品種少量生産体制は、多様な社会を前提とする。

 消費の場は、生活の場である。市場的な部分があるが共同体的要素が強い場である。消費の場は、企業や財政にもあるが、中でも家計によって形成される場の働きが大きい。

 生産と消費の周期のズレは、市場に疎の状態と飽和状態を作り出す。それが、需要と供給の均衡を乱し、物や金の流れを阻害するのである。

 生産側の都合から見ると消費は、一定であるべきである。しかし、消費にも限界はある。その消費の限界が景気に波を持たせる。一日の中にも人間の生理的欲求に従った周期的な波がある。つまり、食欲が起こす景気の波動である。また、夜と昼の生活パターンが作り出す生活の波である。それは、人間の勤務体系にも影響を及ぼしている。

 人は、満腹になるのである。そして、欲望が満たされると、次ぎに、空腹になるまでどんなに美味しいものを見せられても食欲がわかない。逆に空腹な時は、何を食べても美味しく感じる。即ち、空腹な時と、満腹な時では、食事に対する価値が違うのである。また、人間が食べられる量には限界がある。その限界を超えて食事を摂取することは出来ない。

 満腹なのに更に食欲を喚起しようとする。ある意味で、今の経済は、餓鬼道である。
 それは大量生産型経済だからである。大量に生産することで市場経済は成り立っているからである。そして、それは、常に市場の拡大、即ち、消費の拡大を前提としている。

 市場が飽和状態になる。つまり、人々の欲求が満たされることを前提としてはいない。それが現在経済である。

 また、空気のように必要不可欠な物でも無尽蔵にある財は、経済的価値を持たない。つまり、必需品だからと言って価値があるとは限らないのである。
 何が生活をする上で、また、生きていく上で必要不可欠かは、本来、消費の場で決められていく。生産者の都合によって決められるべき事ではない。
 ところが現在の産業の仕組みは、消費者の嗜好、選好は、産業、即ち、生産者側に決定権があるような仕組みになっている。それが経済を不安定にしているのである。

 市場はあらゆる面で、必ずしも、合理的、効率的とは限らない。市場には不合理で、不条理、非効率な部分がある。特に、消費が絡むと嗜好の問題が大きく作用するからである。

 経済や景気は、生産の側からだけ見ていたら理解できないのである。
 生産と消費は、供給と需要を引き起こす。生産力は、供給の裏付けとなり、消費力は、需要を喚起する。
 需給という言葉が示すように、本来は、需要が供給を引っ張らなくてはならない。しかし、現在は、供給側の都合が優先される傾向が強い。それが、経済を不安定にさせる要因の一つである。

 この様に、景気や経済は、消費者の都合によって左右される部分がある。景気や経済は、消費を源として現れる事象だとも言える。

 生産量が増えれば、消費の形態が変わり。消費量が変われば、生産の形態も変わる。大量生産は、消費の在り方も変えてしまうのである。しかし、それは必ずしも、消費者が望んだ状態とは限らない。

 生産の在り方は、産業の在り方に反映し、消費の在り方は、家計の在り方に反映する。故に、産業の在り方が家計・消費を変革し、家計は、産業を規定する。家計は、産業を規定する。

 産業の在り方は、個々の企業の経営の在り方を確定し、利益を構成する。企業の投資活動に影響する。
 家計は、個人の生活の在り方によって決まり。生活の在り方は、個人の価値観による。個人の価値観は、家庭環境や社会環境、教育、文化によって形成される。

 生産は消費の、消費は生産の鏡である。
 ここにも、三面等価の原則が働いている。即ち、分配(所得)と生産と消費は、経済現象を三つの側面から捉えている。

 消費は、物価を構成する。物価には、一般物価と個別物価がある。一般物価と個別物価が消費の仕組みを形成していく。それが消費の構造である。

 消費には、質がある。量がある。速度がある。そして、周期がある。故に、消費の量と質と速度が問題なのである。そして、消費の速度は、周期に関係する。
 消費の質と量は、消費の密度である。
 消費に周期があるように、生産にも周期がある。生産の周期と消費の周期のズレが経済に及ぼす影響が市場に歪みを生み出すのである。その歪みは、利益の源泉であると伴に、景気の流れを乱す原因にもなる。

 大量生産、大量消費型経済下では、消費は美徳で、使い捨てが消費の形態の基本となる。しかし、消費の形態は一つではない。使い捨てだけでなく、使い廻し、改造、修理・修繕、交換、貸借と言った消費の形態もある。基本的に生産に過程があるように、消費にも過程があるのである。自然界では、この消費の過程と生産の過程が結びあって大きな循環運動になっている。ところが人為的世界では、個々の過程が分断され、循環運動にならないのである。財を循環させるためには、回収、分解、再生という過程も必要になる。つまり、リサイクルである。捨てるだけでは、経済は歪むのである。

 建設業界を例にとると、新築、増築、改築、解体、建て替え、買い換え、交換、再建などがある。
 これらの消費の個々の局面において市場が形成される。新築には、新築市場が、増築には、増築市場が、改築には、改築市場がと言う具合に成立する。そして、買い換え、交換には、中古市場が成立するのである。更に、用途の違いによって、持ち家や賃貸という形式の違いも生み出す。

 自動車にも、新車の市場だけでなく、中古車の市場、改造車の市場、修理・修繕市場、車検市場、オーダーメードの市場、アクセサリー市場、部品市場と言うように多様な市場が存在する。そして、それらの市場そのものが人的仕組み、物的仕組み、貨幣的仕組みを固有に持っている場合が多い。つまり、一律に市場を語ることは出来ないのである。
 そして、市場は、生産経済、消費経済双方からの働きによって形成される。生産側と消費側の均衡が保たれなくなると市場は、破綻する。つまり、経済の仕組みは構造的なのである。

 また、消費の形態が、市場価値や借金・金融の形体、支払形態にも差が生じる。市場や労働の質も変化させる。

 そして、この様な消費の形態が市場を通じて生産形態に影響を及ぼし、産業を変化を促していく。消費と生産は、経済の両輪であり、生産と消費の相互作用によって市場は形成されていく。どちらかが硬直的になると、市場は機能しなくなり、経済は、破綻する。

C 消費的負債


 借金にも、生産的な借金と消費的な借金がある。即ち、金融にも消費者金融がある。投資は、生産的な借金を貸す側から見たものである。それに対し、住宅ローン、自動車ローン、消費者ローン、カードローン、割賦販売、クレジットカード、プリペイドカード、電子マネー、ポイント制度、商品券、小切手、掛け売りのようなものは、消費的な借金である。
 そして、証券化によって借金の形態は、更に高度化した。サブプライムローンに端を発した金融危機の背後には、高度化した消費者金融がある。
 そして、消費の借金の在り方が生産の在り方にも影響を与える。

 消費者は、債権者でもある。つまり、金融市場においては、消費者は、有力な資金の出してでもある。

 サラ金、高利貸し、街金、質屋と言ったように、借金というとあまり良い印象がない借金には、取り立てや、夜逃げと言ったくらいイメージかまとわりつく。
 借金というと預金が、典型的なものだというと以外に想われるかもしれない。しかし、預金は、借入金であり、貸付金である。
 つまり、預金というのは、預金者が金融機関に資金を貸し付けることなのである。ところが、預金者のほとんどは、自分が金融機関に貸し付けていると自覚していない。預金者の多くは、融資しているといは想っていない。預金という言葉から見ても解るように、多くの預金者は、お金を預けているという感覚だと思う。
 借金のことを考える上で、預金の事を考えるといい。
 預金という言葉は、貯金、貯蓄と言う意味合いが強い。それは、お金を預けている。そして、銀行は、貯めている(プール)しているところという認識である。
 しかし、預金は、現実には、金融機関への融資を意味しているのである。つまり、貸付金が減り預貸率が下がると金融機関は、借入の負担が高まるのである。だから、金融機関には、預金をされて困る時もあるのである。運用先、即ち、優良な貸出先が見つからないのに、むやみやたらに預金を集めるという行為は、使い道もない癖に、むやみやたらに借金をする行為を意味するのである。その上、高利で預金を集めるという行為は、高利貸しから借金をすることと変わりないのである。
 もう一つ重要なのは、借入を立てた時、金融側から見ると貸し付けた時、つまり、融資が実現したときに一番、信用の度合いが強い時、つまり、信用枠が大きい時である。そして、回収、即ち、返済が始まるとその信用枠は、収縮していくのである。
 貸す側から見て返して欲しくない借金もあるのである。返して欲しくないどころか、返されたら困る場合すらある。それを理解しておかないと、金融危機時における、不良債権の持つ意味が理解されない。
 金融市場というのは、貸し手だけでも成り立たず。借り手だけでも成り立たない。金融機関も借り手がいなければ成り立たない。金融不安の根本には、貸し手の論理ばかり、つまり、金融側の論理ばかりが重視され、借り手側の論理が軽視されていることがある。その結果、優良な借り手が金融市場からいなくなってしまったのである。その為に、蛸が自分の足を食べるような結果を招いてしまった。それが、投資銀行を破綻させた原因の一つである。

 返済とは、融資との関係から捉えるべきなのである。それは、元本の返済と利払いの違いにも表れる。会計的に見て元本と金利は、本質が違う。故に、会計上の処理の仕方も違てくる。会計上、元本は、負債であり、金利は費用である。この区分には、本質的な意味が隠されている。

 また、借りた側にも返したくても返せない借金もある。また、返しても得にならない借金もある。
 例えば、操業中の工場の敷地を担保に借金をしている場合、地価が下がったからと言って借金を無理矢理回収すれば、その工場が、高業績を上げてる場合でも経営が継続できなくなる事がある。
 あるいは、借金を返したことで、儲かっているのに、資金繰りがつかなくなり、倒産する。即ち、黒字倒産してしまうことがある。
 それは、元本の返済は、費用として見なされないからである。それでも、償却資産の原資は、減価償却費によって確保されるが、非償却資産の返済は、利益処分の中から為されなければならない。それが内部留保である。ところが内部留保の持つ意味もわからずに、内部留保は、余剰利益だから、従業員や株主、あるいは国家に還元すべきだと考える者がいる。そうすると非償却資産に対する元本の返済が滞り、場合によっては資金繰りがつかなくなって倒産することもあり得るのである。
 何が、何でも、借金は返せばいいとは限らないのである。多くの金融危機は、借金を回収することによっひきおこされる。不良債権というのは、借金を回収することによって作られてしまう場合もあるのである。金融行政に携わる者は、その点をよく理解しておく必要がある。

 また、預金が貸付金だとすると、預金の種類の数だけ貸付金の種類があるといえるのである。例えば、普通預金、定期預金、積立金、定期積立金等、これらの仕組みは、即ち、貸し付けの仕組みでもあるのである。だから、借金のことを考える場合、預金を考える事は、いろいろと含蓄があるのである。

 金融機関からの借入金と支払に充てた現金とが全く同じだと仮定した場合、金融機関が現金を支払って購入し、借り手側が使用料を支払っているという解釈も成り立つ。ただ、その場合、最終的所有権の問題が発生するが最終的に資産の所有権も移転するとなると、実体は、融資と変わりない。その実例が、ファイナンスリースである。この様なリースや分割も貸し付けの手段である。また、手形も、貸し付けの手段として有効な物の一つである。有価証券も貸出の道具として有効な手段である。

 急速な信用収縮は、金融機関の貸付金の毀損が原因となり、これは、借り手側の債務の毀損より生じる。借り手側の債務の毀損とは、貸し手が担保としている債権の毀損である。この事は、金融機関の債権の毀損を意味する。金融機関の債権を圧縮しても、金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の持つ債権を健全化したことにはならない。つまり、何等かの形で金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の経営は健全化されないことを意味している。必然的に、預金の価値を圧縮することも含まれる事を意味するのである。

 金利にも、生産的金利と消費的金利がある。生産的金利は、貸出金利であり、消費的金利は預金金利である。貸出金利は、金融機関にとって出口にある金利だとすれば、預金金利は入り口にある金利である。預金というと、金を預けるという受け止め方が一般だが、経済学的に見ると金融機関に対する融資なのである。これは、消費金融を考える上で重要な意味がある。
 消費者の投資先がどこに向かうかは、経済構造を決定するほどの大事である。預金というのは、将来的価値の蓄積を意味する。また、金融機関の貸出の裏付けでもある。金融不安は、預金の取り付け騒ぎに始まるのである。負債の消費構造は、経済の基盤を形成している。

 消費者向けの金融商品は、消費者の返済能力を担保として成立している。消費者金融が担保しているのは、将来の収入と財産である。将来の収入は、一定期間の定収入を基礎として成り立っている。ある時払いの、催促なしでは成り立たないのである。所有権と所得を前提として消費者金融は成り立っていると言える。それは、安定した長期雇用が保障された社会を前提としている。その前提が崩壊すると、忽ち、消費経済は、信用制度の基盤が崩壊し、破綻してしまうことを意味している。
 経済危機は、実際のところ、常雇いと言う雇用形態が失われ、労働の流動化した時点で始まっていると言ってもいい。

 消費にとっていいのは、安定か、変化か、それが重要なのである。消費にとって重要なのは、安定である。収益や技術革新というのは、不確実であり、変動的である。しかし、人の一生には、一定の周期がある。資金需要にも計画性がある。つまり、一定の収入が確保されることによって生活は安定するのである。それは、長期借入の条件でもある。
 また、借入金の返済は、固定的である。つまり、一定である。そして、消費的負債は、月々の返済が原則、即ち月賦が一般的である。
 その為に、収入が中断し、貯金が底をつくと忽ち返済が滞るようになる。つまり、借入金というのは、支出と時間の関数なのである。借金は、月々決まった収入を前提して成り立っている。借金というのは、「バイ・ナウ ペイ・レイター、今買って、後で払う。」という事なのである。(「金融資産崩壊」岩崎日出俊著 詳伝社新書)つまり、借金というのは、将来の貨幣価値の先取りを意味する。
 また、地代、家賃、リースと言った物的賃貸契約も長期の定収入を前提としている。収入の総額よりも大きな変動、波がない事が借金の前提となるのである。そして、長期的借入が可能になることで、収入や所得が時間の関数になるのである。また、市場価値、貨幣価値の座標軸に時間軸を加えることが可能となるのである。
 消費経済が確立された背景には、長期的に保証された定収入がある。それは、長期常雇用制度にある。その背景にあるのは、共同体思想である。今は、否定されつつあるが家族主義的経営である。
 つまり、消費的負債は、雇用形態にも影響される。その雇用形態が、崩壊しようとしている。重要なのは、失業だけでなく。常雇いという雇用形態の崩壊がもたらす影響である。つまり、安定した長期の定収入の保証が失われると消費的負債、借入に支障が生じ、成り立たなくなるのである。

 返済力は、財産の担保力と月々の支払い能力を加算した貨幣的価値である。重要なのは、月々に予め決められた一定額の支払い能力を前提していると言うことである。そして、これは支払実績を基として、本来、評価されるべきものである。月々の支払が滞ると、この支払い能力に対する信用は失われ、財産の担保価値の残高しか残らなくなる。そして、月々の支払い能力は、月々の定収を根拠とする。故に、長期のローンを組む時は、仕事内容、勤務内容を確認されるのである。そうなると個人事業、自由業、派遣や、季節工、パート、アルバイトのような臨時雇いは、圧倒的に不利になる。一時的にいくら臨時収入があったとしてもそれは評価、査定の対象にはならない。継続的、かつ一定の収入があるか否かが、鍵を握っているのである。
 これが、消費者金融の最大の問題点である。この様な経済体制では、失業は、全ての信用を喪失することに直結しているのである。
 消費経済の崩壊は、生産経済を崩壊させる。その鍵を雇用の形態が握っていることを忘れてはならない。派遣問題は、根の深い問題なのである。

 ここで注意しなければならないのは、財産と資産は違うと言う事である。財産は、実体的価値を有する者であり、資産は会計上の概念である。財産は、実体的な取引を前提とするが、資産は、会計上の取引を前提としている。

 消費者金融を成り立たせている要素は、負債の平準化であり、その負債の平準化を成り立たせるためには、収入、即ち、所得の平準化が必要とされる。

 その典型が住宅ローンや分割払いである。住宅ローンは、住宅ローンが設定されたが、一番、与信枠が拡大した時である。そして、非償却資産である土地の価格が上昇している時は、元本の保証は、土地の価格によって為されるのである。
 そうなると、金融機関は、金利さえ、確実に払ってもらえるのならば、借金を返してもらうことよりも、借金をしつづけていてもらう方が得なのである。
 問題は、担保不足が生じた時、最初の前提が忘れられてしまうことである。返済に問題があった場合は、返済を見直すべきなのであって、担保不足は、そのうちの一つの要素でしかない。担保不足が生じたり、返済が一時的に滞ったからと言って借金の全額を回収したり、担保を回収しようとすれば、信用制度そのものを破綻させてしまう。銀行、ひいては、信用制度を維持するためには、返されては困る借金もあるのである。無理な借金の取り立てが、金融不安を引き起こす場合があることを忘れてはならない。

 サブプライム問題の根底には、負債に対する間違った捉え方が隠されている。負債の在り方が、現代の経済の根幹にある原理である点を理解してないと、今の金融危機や財政の本質が見えてこない。貸す側は、借金を返されると信用枠が収縮するのである。その為に、あらゆる金融機関が、一斉に資金を回収しようと動き出すと、急激な信用収縮を引き起こすのである。それが金融危機の根本原因である。
 逆に言うと、貸付金によって信用枠は拡大する。この信用枠が紙幣の流通の根拠となるのである。
 金融機関は、金を借りてもらわないとなりたたない。また、金を借りてもらわないと、信用量、即ち、紙幣の裏付けも拡大しないのである。
 同様なことは、国債にも言える。国債も返されては困る部分があるのである。

 消費という観点から見て借金というのは、決して、社会、国家に対して負の作用だけをしているわけではない。
 預金も債務の一つだと考えると、負債には、第一に、資金を貯めておく、貯蔵しておくという働きがある。第二に、信用を生み出し、貨幣の裏付けをするという働きがある。第三に、支払を準備するという働きがある。
 この様な点を考えると、元本の保証である債権が急速に収縮したからと言って不良債権の回収を急ぐと急激な信用の収縮が起こり、信用制度を根本から瓦解させてしまう危険性があるといえる。
 むしろ、借金があるから、市場は成り立っているのだとも言える。国債は、通貨の量を決定付ける重要な要素なのである。表象貨幣の根源には、国債があるとも言えるのである。故に、国債は、残高水準が重要なのである。

 市場経済が成り立つためには、価値の総額を時間的価値に置き換えることであり、それは、単位時間あたりの価値を計算可能であることが前提となる。そして、それは、価値総額の長期間にわたる繰延が可能であることを前提とする。長期間にわたる支払を前提として負債が組まれていながら、短期間における変動に対応できないのが、現代の債務の最大の欠陥なのである。

 また、収入や所得の平準化を前提として成り立っている制度は、消費者金融だけでなく。保険、中でも社会保険、年金、税制などがある。

 また、計画的に組まれなければならない資金需要に、住宅資金、結婚資金、育児資金、教育資金、老後資金などがある。
 また、消費財には、ライフサイクル、消費周期があり、更に、新規、更新、買い換えなどの需要がある。

 生産の側からすると市場や経済の成長と拡大が続くことが望ましいが、消費の側からすると成熟し安定した、変化の少ない市場や経済が望ましいのである。この生産者側と消費者側の根本的な姿勢の差が景気の変動の源にある。つまり、経済政策の要諦は、生産者側の都合と消費者側の要求をどの様に調整し、整合性を持たせるかにある。

 労働にも生産的労働と消費的労働がある。生産的労働は、所得を形成し、消費的労働は、支出の元となる。取得は、収益に還元され、支出は費用に還元される。生産は価値を創出し、消費は、価値を実現する。

 労働を共同体の外、即ち、市場化することは、労働の量化、即ち、単元化を招く。
 労働の量化というのは、労働を時間と単位賃金の積に還元する。つまり、還元主義を意味する。単一労働単一賃金という発想は、単純反復作業には当て嵌まるが、付加価値の高い労働には、当て嵌まらないのである。
 労働の市場化は、労働から創出する価値を交換価値に特化させてしまう。この事は、労働の質的部分を削ぎ落とすことになる。この事を労働運動が取り込めば、労働運動は、致命的な欠陥を背負い込むことになる。
 労働の質的部分は、個人の属性に依る。個人の属性とは、能力や経験、知識、技倆、資格、年齢、家族構成と言った要素である。この様な属性は、人間性でもある。つまり、労働の質的な部分を否定する労働運動は、人間性を喪失してしまう。

 今の企業は、景気が悪くなれば簡単に人員削減に走る傾向がある。景気が悪いときこそ雇用の確保を一番に考えなければならないのが企業である。
 現代の雇用体系で問題になるのは、給与体系が生産性のみに立脚しているという事である。今日は体系は、消費という視点からも考えられるべきものである。一部に生活給という部分があるにしても、共同体本来の持つ機能という点から、分配の仕組みが考えられてはいない。例えて言えば内部留保の在り方や使い道である。

 経済主体が獲得した収益は、収益を獲得するのに関係した人や機関によって分配されるべきものである。損益に対しては、経済主体を構成するもの全員が責任を負うべきものであり、分配は、経済主体との合意や契約によって為されるべきものである。経営者だけが責任を負うべき性格のものでなければ、経営者だけが、独占するものでもない。

 単一労働単一賃金をスポーツに例えれば、ポジションによって一律に賃金を決める事を意味する。単一労働単一賃金によって選手達のモチベーションを維持することが可能であろうか。私には疑問に思える。

 経済危機の背景には、雇用の崩壊がある。過剰流動性は、資金だけでなく、労働にも言える。何でも、過剰なのがいけないのである。固定性が過剰になれば、物量は停滞する。しかし、過剰な流動性は、社会の基盤を不安定にするのである。

 2008年の秋口から急速に景気が悪化し、それに伴って雇用情勢の厳しさを増した。そこで問題になったのは、臨時雇い労働者が真っ先に切られたのである。所謂(いわゆる)、派遣社員問題である。正規社員と非正規社員の処遇問題にまで発展した。
 しかし、この問題は、何も、今、始まったことではない。終身雇用、年功序列型雇用体制が崩壊した時点から予測しえた事態なのである。

 消費の場は、主として、共同体内部にある。共同体内部は、非貨幣的空間である。そこには、道徳的規範が働いている。経済の根本的目的は、競争力や効率にあるのではなく。この共同体内部の分配機能の維持にある。なぜならば、労働と分配を司っているのは、共同体だからである。共同体内部の市場化は、共同体の外生化である。それは、共同体の形骸化、あるいは解体を意味する。
 企業において、極端な話し、正社員、常雇い社員を全て止めさせ、臨時雇い、日雇い、一時雇用、季節工、パート、アルバイト、派遣社員だけにしてしまうという発想である。つまり、内的人間関係のない経済体制である。

 終身雇用や年功序列というのは、共同体の論理である。共同体の論理を否定すれば、必然的に市場の論理が取って代わるのである。それは、人間の持つ質的部分を否定し、人間をただの統計的な存在にしてしまうことである。
 それは、人的な関係が物的関係や貨幣的関係に変質することを意味するのである。それは、人間性や人道、文化への挑戦以外の何ものでもない。

 現代の経済というのは、奪い合いの経済である。市場を奪い合い、利益を奪い合い、市場を独占し、利益を独占しようとする。結局、そのあげくに何もかも失っているのである。奪い合いは、結局、何も生み出さない。
 奪い合う経済から与え合う経済への転換が必要なのである。助け合いの精神であり、譲り合いの精神である。助け合い、与え合う。それは、消費の経済である。つまり、必要な物を必要なだけ分かち合う精神なのである。必要でもないのに、相手から奪おうとするから、奪い合いになるのである。
 分業に依って成り立っている社会は、本来、お互いを必要としあう事によって成り立っているのである。
 男と女、国と国がお互いを必要としている。そこから、与え合う精神も奪い合う精神も生まれる。しかし、その結果は、一方は、助け合いに、他方は、争いに発展する。対極に別れるのである。
 必要性というのは、消費から導かれる。必要性の根本は、使用価値である。つまり、本来は、使用価値こそが交換価値に優先すべきなのである。使用価値が忘れられ、交換価値だけが全てになったことが、市場経済を堕落させてしまったのである。
 必要性、つまり、消費から生産計画は立てられるべきなのである。消費から生産の仕組みは考えられるべき物なのである。






                    


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