場の理念


消費の場

B 消費経済


 消費は、長い間、経済とは思われてこなかった。
 例えば労働が良い例である。労働というと、生産労働をさし、消費に労働は、関係していないと決め付けられていた。
 それが消費労働の社会的地位を低めてきた。そして、消費労働の重要な部分を女性が占めてきた。それが、女性の社会的地位を低くしてきた原因の一つでもある。よく外に働きに出る、又は、女性の社会進出と言う事が話題になるが、労働は、外にあるものだけとは限らないのである。生産労働と消費労働は、本来社会的分業の範疇で考えられなければならない問題である。そして、また、文化の問題でもある。
 また、労働は、所得の源泉でしかなく、支出を生み出す元だとは考えられてこなかった。しかし、生産だけで経済は成り立っているわけではない。需要と供給と言い。市場においては、需要が供給以上に重視されてきたというのに、供給の素である生産ばかりが取り上げられて、需要の素である消費は忘れられてきた。そして、消費に関わる労働は、蔑まれ。衰退の一歩を辿っている。
 経済を推進するのは、専ら生産力であり、消費力は無視され続けてきたのである。それが大量生産型経済を作り上げ、人類に壮大な無駄を強いているのである。お客様は神様などと言いながら、結局、お客様である消費者をどこかにやってしまったのである。しかし、消費は利益の源泉なのである。
 また、所得に関しても、現在の経営主体には、消費に基づいた給与体制はなく、生産に基づいた給与体制しかない。ただし、生産性だけでは、給与体系は成り立たないので、生活給のようなものが導入されている。しかし、それはあくまでも補助的、補完的なものにすぎない。
 それは、経営主体の共同体としての在り方を真っ向から否定している。本来、経営主体というのは、生活共同体であった。その原形は家族主義である。江戸時代においては、生活は、即、仕事であった。生計、生活費を稼ぐことを目的として仕事は位置付けられていた。現在は、生活費や生計という発想がどこかにとんで、仕事場は、所得を得るだけの場に堕している。かつても武士は、家に殉じたのである。そして、代々、家に忠勤を励んだのである。家とは、生活共同体である。この家という発想がなくなった為に、職場から生活感が失われたのである。

 現代人の多くは、経営主体から得るのは、貨幣収入だけだと思い込んでいる。しかし、実際には、多くのフリンジベネフィトをえている。フリンジベネフィットとは、給与外給付とか、給与外報酬というもので、給与として支払われ以外にえる給付を指して言う。必ずしも貨幣として支払われるとは限らない。そして、その部分こそ、経営主体の共同体的な部分を色濃く残している部分なのである。生活に直結し、密着しているから共同体のとしての意義がある。
 生産の場から見ると、賃金というのは、労働の対価、労働の値段だが、消費の場から見ると賃金は、生活費であり、生計であり、所得である。それは、家計に直結したものである。生産効率を上げるためには、賃金に格差を付けて仕事に対する、モチベーション、意欲を上げる事がいいが、生活設計をするためには、極力、格差を少なくし、一定の収入を保証された方が良い。問題は、両者の均衡にある。
 唯一つ言えることは、賃金、給与を生産性という側面だけで捉えるべきではないという事である。報酬は、共同体の一員として支払われるべき性格のものであり、収益を生み出した者、全員に分配されるべき性格の物である。特定の者が独占すべき者でもない。また、共同体の経営、経済状態には、その企業に携わった者、全員が責任を負うべきなのである。そうでなくても、結果において責任をとらされるのである。過激な組合の中には、自分達の権利と会社の経営とは無縁だと豪語する者もいる。しかし、会社が倒産すれば、組合も無事ではすまないのである。また、高額な報酬を受けるのは、当然だと考えている経営者もいる。しかし、利益を独占するのは、組織そのものを否定する事に繋がる。
 良い例が、NFLである。NFLは、リーグ全体の収益と球団の収益、個人の収入、そして、チームの戦力を調和させるための仕組みを構築している。それは、経済の在り方の一つの方向性を示しているのである。

 同一労働同一賃金と機械的に計算するのは、労働者の意欲を削ぐことになる。また、能力だけで評価をすれば、偏りが生じる。
 働く者は仲間なのである。運命や目的を共有する仲間なのである。
 目に見えた数字に現せない、実績や功績もある。二軍、三軍で将来のために自分達の才能を磨いている者もいる。試合にはでなくともコーチやフロントとしてチームを支えている者もいる。社会の水面下にいる人々をいかに評価するか、それが、経営主体の重要な役割でもある。ただ、実績や成果だけで報酬を決める事は、分配という、本来の役割を喪失されることにもなる。分配の本質は、共同体の論理に基づく必要があるのである。分配の原点は、助け合い、分かち合いの精神なのである。

 また、経済を決定付ける物価は、半分の分野を消費に依拠している。
 今こそ、消費経済の確立を確立する必要がある。
 経済は、所得だけで成り立っているわけではなく。消費も反面を担っているのである。
 収入ばかりが経済をになっているわけではなく。支出も重要な要素である。収入と支出は、表裏の関係にある。金は儲けるだけが能ではない。使い方も大事なのである。

 ただ、誤解してはならないのは、消費経済というのは、消費者運動のようなものを指しているわけではない。消費構造が経済に与える影響を明らかにすることによって成立する経済である。つまり、鍵は、消費の仕組みにあるのである。

 現代経済の欠点の一つは、消費という場を設定していないことである。どこまで行っても生産が主導であって消費は二の次にされる。
 その為に、あらゆる基準が生産を土台として計算される。そして、生産や生産の効率性が最大の基準となる。

 しかし、景気は、消費によって支えられている。消費が減退すれば景気も減退する。
 生産と消費は、経済の両輪である。そして、生産と消費は、労働と分配に結びついてはじめてその効果を発揮する。
 消費を置き忘れていては、経済は成り立たないのである。

 消費経済がない経済は、蓋のない圧力鍋のようなものである。鍋として機能はしても本来の圧力鍋としての機能は果たせない。

 消費は、市場の半分を形成している。消費の形態は、生産の形態を規制し、生産の形態は、消費の形態を創造する。
 大量生産型産業は、大量消費型社会を前提とし、多品種少量生産体制は、多様な社会を前提とする。

 消費の場は、生活の場である。市場的な部分があるが共同体的要素が強い場である。消費の場は、企業や財政にもあるが、中でも家計によって形成される場の働きが大きい。

 生産と消費の周期のズレは、市場に疎の状態と飽和状態を作り出す。それが、需要と供給の均衡を乱し、物や金の流れを阻害するのである。

 生産側の都合から見ると消費は、一定であるべきである。しかし、消費にも限界はある。その消費の限界が景気に波を持たせる。一日の中にも人間の生理的欲求に従った周期的な波がある。つまり、食欲が起こす景気の波動である。また、夜と昼の生活パターンが作り出す生活の波である。それは、人間の勤務体系にも影響を及ぼしている。

 人は、満腹になるのである。そして、欲望が満たされると、次ぎに、空腹になるまでどんなに美味しいものを見せられても食欲がわかない。逆に空腹な時は、何を食べても美味しく感じる。即ち、空腹な時と、満腹な時では、食事に対する価値が違うのである。また、人間が食べられる量には限界がある。その限界を超えて食事を摂取することは出来ない。

 満腹なのに更に食欲を喚起しようとする。ある意味で、今の経済は、餓鬼道である。
 それは大量生産型経済だからである。大量に生産することで市場経済は成り立っているからである。そして、それは、常に市場の拡大、即ち、消費の拡大を前提としている。

 市場が飽和状態になる。つまり、人々の欲求が満たされることを前提としてはいない。それが現在経済である。

 また、空気のように必要不可欠な物でも無尽蔵にある財は、経済的価値を持たない。つまり、必需品だからと言って価値があるとは限らないのである。
 何が生活をする上で、また、生きていく上で必要不可欠かは、本来、消費の場で決められていく。生産者の都合によって決められるべき事ではない。
 ところが現在の産業の仕組みは、消費者の嗜好、選好は、産業、即ち、生産者側に決定権があるような仕組みになっている。それが経済を不安定にしているのである。

 市場はあらゆる面で、必ずしも、合理的、効率的とは限らない。市場には不合理で、不条理、非効率な部分がある。特に、消費が絡むと嗜好の問題が大きく作用するからである。

 経済や景気は、生産の側からだけ見ていたら理解できないのである。
 生産と消費は、供給と需要を引き起こす。生産力は、供給の裏付けとなり、消費力は、需要を喚起する。
 需給という言葉が示すように、本来は、需要が供給を引っ張らなくてはならない。しかし、現在は、供給側の都合が優先される傾向が強い。それが、経済を不安定にさせる要因の一つである。

 この様に、景気や経済は、消費者の都合によって左右される部分がある。景気や経済は、消費を源として現れる事象だとも言える。

 生産量が増えれば、消費の形態が変わり。消費量が変われば、生産の形態も変わる。大量生産は、消費の在り方も変えてしまうのである。しかし、それは必ずしも、消費者が望んだ状態とは限らない。

 生産の在り方は、産業の在り方に反映し、消費の在り方は、家計の在り方に反映する。故に、産業の在り方が家計・消費を変革し、家計は、産業を規定する。家計は、産業を規定する。

 産業の在り方は、個々の企業の経営の在り方を確定し、利益を構成する。企業の投資活動に影響する。
 家計は、個人の生活の在り方によって決まり。生活の在り方は、個人の価値観による。個人の価値観は、家庭環境や社会環境、教育、文化によって形成される。

 生産は消費の、消費は生産の鏡である。
 ここにも、三面等価の原則が働いている。即ち、分配(所得)と生産と消費は、経済現象を三つの側面から捉えている。

 消費は、物価を構成する。物価には、一般物価と個別物価がある。一般物価と個別物価が消費の仕組みを形成していく。それが消費の構造である。

 消費には、質がある。量がある。速度がある。そして、周期がある。故に、消費の量と質と速度が問題なのである。そして、消費の速度は、周期に関係する。
 消費の質と量は、消費の密度である。
 消費に周期があるように、生産にも周期がある。生産の周期と消費の周期のズレが経済に及ぼす影響が市場に歪みを生み出すのである。その歪みは、利益の源泉であると伴に、景気の流れを乱す原因にもなる。

 大量生産、大量消費型経済下では、消費は美徳で、使い捨てが消費の形態の基本となる。しかし、消費の形態は一つではない。使い捨てだけでなく、使い廻し、改造、修理・修繕、交換、貸借と言った消費の形態もある。基本的に生産に過程があるように、消費にも過程があるのである。自然界では、この消費の過程と生産の過程が結びあって大きな循環運動になっている。ところが人為的世界では、個々の過程が分断され、循環運動にならないのである。財を循環させるためには、回収、分解、再生という過程も必要になる。つまり、リサイクルである。捨てるだけでは、経済は歪むのである。

 建設業界を例にとると、新築、増築、改築、解体、建て替え、買い換え、交換、再建などがある。
 これらの消費の個々の局面において市場が形成される。新築には、新築市場が、増築には、増築市場が、改築には、改築市場がと言う具合に成立する。そして、買い換え、交換には、中古市場が成立するのである。更に、用途の違いによって、持ち家や賃貸という形式の違いも生み出す。

 自動車にも、新車の市場だけでなく、中古車の市場、改造車の市場、修理・修繕市場、車検市場、オーダーメードの市場、アクセサリー市場、部品市場と言うように多様な市場が存在する。そして、それらの市場そのものが人的仕組み、物的仕組み、貨幣的仕組みを固有に持っている場合が多い。つまり、一律に市場を語ることは出来ないのである。
 そして、市場は、生産経済、消費経済双方からの働きによって形成される。生産側と消費側の均衡が保たれなくなると市場は、破綻する。つまり、経済の仕組みは構造的なのである。

 また、消費の形態が、市場価値や借金・金融の形体、支払形態にも差が生じる。市場や労働の質も変化させる。

 そして、この様な消費の形態が市場を通じて生産形態に影響を及ぼし、産業を変化を促していく。消費と生産は、経済の両輪であり、生産と消費の相互作用によって市場は形成されていく。どちらかが硬直的になると、市場は機能しなくなり、経済は、破綻する。






                    


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