家庭的空間を劇的に変化させたのは、産業革命である。産業革命は、生産革命でもあった。産業が合理化されるに従って生産性が向上された。そして、社会の価値観が生産性を核にして形成されるようになる。その結果、必要性や消費は二の次になる。生産性や効率が生活を支配するようになり、経済は、生産性や効率性の代名詞のようになる。
 産業革命は、生産と消費の分離を引き起こし、更に、職住の分離を引き起こす。そして、生産と消費との間をつなぐ市場経済と貨幣経済の拡大を促す。この変化が、家族の在り方を決定的に変革する。

 生産と消費の分離、職住の分離は、急速な都市化を招いた。都市は、一大消費地としての性格を濃厚に持つようになった。つまり、生産と消費の分離は、物理的空間にもおよび。生産労働と消費労働、職場空間と生活空間を明確に分けてしまったのである。それは、家庭を消費空間に押し込める結果を招いた。そして、家庭内労働を分離し、孤立させてしまったのである。
 家庭内の労働が孤立する以前は、家庭内も組織化されていた。しかし、家庭内の労働が孤立化するとそれは、家庭内労働の担い手、主として、主婦一人に全ての負担がのし掛かることになる。その結果、主婦は過重な責任に押し潰されていくのである。しかも、家庭内労働は、社会的に評価されにくい仕事である。かくて、主婦は、社会的に孤立し、疎外されていくことになる。

 産業革命以前の共同体は、自給自足体制を保持していた。むろん、完全な自給自足体制ではないが、必需品は、極力自給自足しようと言う考え方が支配的であった。その名残として、日本には、食料安全保障の考え方が戦後まで続き、食糧の自給率を高めようと試みた。しかし、最終的には、自由貿易体制、つまり、市場経済に身を委ね、共同体的考え方と決別することになる。

 前工業社会における生活基盤、基本的に農業共同体である。農業共同体は、完全に自給自足体制ではなくても、それなりに自足的体制である。(「産業革命と民衆」角山栄・村岡健次・川北稔著 河出書房新社)生産と消費の分離される前段階は、家内工業の時代である。家内工業は、まだ、職住の分離までは至っていない。しかし、生産と消費分離の萌芽はある。この段階で、家庭内分業は、より進化する。そして、家内工業が更に進むと生産と消費は、明確に分離され、更に、職住の分離へと発展する。このことは、家族の在り方を決定的な変えてしまう。

 消費労働は、本来、女性だけが担う仕事ではなかった。共同体内部での分業が成り立っていた。子供の教育や家事についても男も分担していた時代もある。また、大家族主義自体が家庭内労働の組織化である。しかし、産業革命、生産革命が進行し、生産と消費が分業されるにつれ、また、それにつれて職住の分離が進むにつれて、家内労働に従事する人間に、家庭内の労働は、仕事が専業化していった。また、生産的仕事が合理化されるにつれて、生産と消費の労働に不均衡が生じた。それに伴って、生産的労働の社会的地位が高まり。生産的労働の社会的地位の高まりに比例して、消費的労働は、相対的に社会的地位が低下しることになる。同時に、孤立化することにもなる。この消費空間の孤立化と相対的地位の低さが、今日の問題を引き起こす原因となっている。

 成果物のない、生産を伴わない労働を非生産労働という。軍隊、警察、教育などは、この典型である。また、家事労働は、消費労働の最たるものである。
 消費労働は、成果物や生産を伴わないから本来市場経済にそぐわない。

 広い意味では、サービス産業全般を非生産労働と見なしてもおかしくない。ただサービス産業は、市場性が与えられてきた。そこから、サービス産業の質も変化してきているのである。その為に、純然たる消費産業といえなくなりつつある。しかし、サービス産業の本質は、消費労働である。

 消費労働の代表的なものが家庭内労働である。そして、消費経済の中でも家内労働は、特異な性格がある。
 家庭内労働の特徴は、第一に、日常的・生活空間で行われる。第二に、二十四時間フルタイム操業だという事である。第三に、私的領域に属している。これらの特徴から家内労働は、合理化しにくい、組織化しにくい、目に見えにくいと言う性格がある。家内労働というのは、合理化しえない仕事、つまり、手作りな仕事だと言うことに価値がある。
 労働の特徴としては、第一に、必需的労働である。第二に、消耗的労働だと言う点である。即ち、生活に欠くことのできない労働だと言う事である。
 問題点としては、評価されにくい労働だと言う事。その為に、達成感が得られにくい。市場的価値が少ないか、ないと言う点である。
 反面に喜びがある労働だと言う事、楽しめる労働だと言う事、付加価値の多い労働だと言う事も言える。つまり、複合的、総合的労働だと言う事である。

 反対に職場による仕事は、第一に非日常的空間である。第二に、時間が限定された労働である。第三に公的領域に属している。そして、合理化、組織化しやすい労働であり、成果が目に見える形で提示される。貨幣価値で換算される労働だと言う事である。組織化されているために、一人一人の仕事は、生活になくてはならない、絶対必要な仕事ではない。また、生産的仕事である。
 どちらの仕事が大切で、どちらの仕事が優れているかという議論は、成り立たない。ただ、どちらの仕事に向いているかが、重要なのである。適正の問題である。

 消費の場は、労働力の供給の場であり、また、投資や貯金という形で資金を供給する場だと言う事を忘れては成らない。家計の場は、資産運用の場である。社会進出だけが自己実現の場ではない。むしろコンピューターが発達した今日では、自宅で仕事をすることが可能になった。つまり、家計と社会が直結することが可能になってきたのである。資産運用を通じて、社会に積極的に参画することが可能となった。しかも、多くの成功者を輩出し始めている。単純に、家内労働を軽視する時代は終わりつつある。内助の功どころか、主役にすらなりうるのである。

 プロとアマという区分がある。つまり、職業人か素人かの区分であるが、通常我々が何処でそれを見分けるかというと、金を取っているか否かである。つまり、それを生業としているか否かである。つまり、貨幣価値、市場価値でプロかアマかを区分している。そうなると、消費労働は、プロになりにくいことになる。プロとして評価してもらうためには、貨幣価値に換算されなければならない。それは、ジレンマである。自分の仕事を金に置き換えられるのは、面白くない。しかし、金に換算されないと評価されない。よく主婦を娼婦と変わりないと卑しめる論法の背後には、この錯誤がある。もともと、消費労働は、市場価値にそぐわないのである。

 現代社会では、家庭内労働を私的なものとして捉える傾向がある。この事も家庭内労働の社会的地位を脆弱なものとする原因の一つである。しかし、厳密な意味で家庭内労働というのは、私的な労働であろうか。

 休日を公的なものと見るか、私的なものと見るかに関し、休日は、私的なものだとする意見が大多数であろう。それは、生産偏重社会だからである。消費中心から見れば、休日は、むしろ公的な領域にはいる。この対立は、生産的社会に属している夫と消費型社会にいる妻との決定的な意識差になる。夫は、休日は、ゆっくりしたいと言い。妻は、子供の相手をしてと言う。それは、夫から見れば休日は、自分の時間であるのに対し、妻から見ると休日は、公的な時間だからである。しかし、休日は、公的な時間である。

 元々私的か公的かの判断の基準は、視点にある。子供の世話や地域住民との交流は、どちらかと言えば公的な仕事である。ところが、それを私的な労働としてしまっている。その為に、家庭内労働が地方行政や政治との接点を失ってしまっているのである。家庭内労働に従事する者の社会性が創出する決定的原因がそこにある。消費経済というのは、本来公的労働である。その典型が都市問題である。都市の抱える問題の多くは、消費に直結している。

 消費経済を確立する必要がある。消費経済の公的な部分は、公共経済である。即ち、家計は、公共経済、特に、地方行政に直結している。公共経済が家計の延長線上で考えられない事が現代社会の問題点なのである。
 消費労働の本質は、政治にある。政治を志す者は、一端は、主婦主夫を経験した方がいい。つまり、政治には、生活者としての視点が不可欠である。生活実感に乏しいから、景観を無視した公共事業をするのである。住む人間の立場・視点で見ることができない。行政は、使う者の身になって考えていない。だから、住環境が殺伐としたものになる。

 行政サービス、則ち、財政は消費的傾向が強い。財政の本は、王家の家計である。故に、財政は、産業の延長線上ではなく。家計の延長線上で捉えるべきものであり、計画的な性格を持つのである。

 行政は、消費者である市民が直接管理するのが望ましい。つまり、家庭内労働者が、地域の政治や行政を監督、鑑査、管理すべきなのである。どんな学校にするのか、何を教えるべきかは、地域住民や保護者が話し合って決める事である。行政や学校関係者が勝手に決めるべき事ではない。地域住民や保護者、生徒は、学校建設に設計段階から関わるべきなのである。教師の任免に関して採用段階から携わるべきなのである。
 公園や広場、道路、市役所の建設といった環境整備は、住民が管理監督すべき事である。その意味では、都市計画こそ、家庭内労働者、生活者、住民の仕事であるはずなのである。ところが、そのような仕事から、家庭内労働者達、住民を排除している。それでは、真の民主主義は実現できない。民主主義の基礎はコミュニティにあるのである。生活実感があってはじめてコミュニティは建設できる。

 消費計画は、巨大組織にそぐわない。なぜならば、消費者の欲求を吸収しきれないからである。計画経済の多くが生産計画を基礎としてきた。それが計画の本来の機能を損なってきたのである。そして、消費計画は、消費者の必要性を幅広く吸収しなければ有効にならない。

 地方政治の主役は、住人であるべきである。今の行政の問題点は、住民の意志をきめ細かく吸収しきれないことにある。結局、行政機構の肥大化がある。その結果、当事者が疎外されることになる。学校教育を必要としているのは、その地域の住民である。ところが、その地域の住民は、学校建設に直接関われない。巨額の予算は、結局利権となり、住民の意志とは無縁の所で浪費される。道路に代表される公共事業は、生産者や資本主義経済の都合に基づいて発注される。そこには、地域社会の未来に対する理想や信念、洞察力はない。目先の利益だけによって巨額の資金と資源が浪費されるのである。

 計画経済も生産側に偏ったものである。しかし、本来の計画経済の在り方は、消費経済にその重点がなければならない。消費経済の基準は、必要性である。消費経済が確立されていないことから必要性の基準が失われ、浪費経済に変質しているのである。つまりは、生産したから無理矢理消費しているのである。こうなると無計画に消費は美徳になる。

 消費こそ計画的に為されなければならない。ところが現代社会は、この消費に抑制が利かない。その為に、無軌道な消費が続いている。それは、消費と言うよりも破壊である。現代社会の病巣は、破壊的消費にある。破滅的消費と言っても良い。

 好例は、都市計画である。古代から、人間は、住空間を計画的に築き上げてきた。この計画性が、産業革命以後の社会から失われつつある。都市は、無計画に作られ。これは、職住の分離によって空間的計画性が失われたことを意味する。この事が、俗に言う、都市問題、即ち、環境問題や人口問題を引き起こしている。消費経済が無計画・無軌道に為された結果である。しかし、環境問題や人口問題、財政問題は、消費が計画的に為されないかぎり、解決できない。

 消費には、計画が不可欠である。その最も典型が人生設計・生活設計である。人生設計や生活設計に基づいて消費は計画的に為されなければならない。計画の根本は、必要性である。必要性もないのに消費するのは、無駄である。

 消費労働の協業化や組織化こそが必要なのである。消費労働の協業化や組織化は、育児では一部、試みられている。しかし、本来は、政治が行うべきなのである。そして、ここで言う政治とは、地域住民が直接的に参加する政治である。

 消費者は神様だと煽て(おだて)ていながら、実際は、消費者は、馬鹿にしている。その証拠に消費に規律を求めていない。単純に規制をはずせばいいと言うのがその現れである。市場に全てを任せれば、万事うまくいくというのは、幻想に過ぎない。市場は、規制しなければならない。市場は、生産と消費とを結びつけ、調整する機関に過ぎないのである。投機的な資金が入り込むととたんに制御する事ができなくなり、市場は、暴走するのである。

 生産的空間というのは、粗野で、野暮な空間である。それに対し、消費空間は、繊細で、洗練された空間である。生産的空間は、ドライな世界である。それに対し生活空間は、ウェットな世界である。なぜならば、生活空間に働く力は、情緒的な力であり、関係は、肉親的関係が中核を担うからである。それに対し、生産空間は、あくまでもビジネスライクな関係による世界だからである。生活空間が、繊細で洗練されているのは、情緒的空間だからである。だからこそ、消費には感性が必要なのである。それに対し、生産的空間は、粗野なものになりやすい。それは、生産的空間に生活実感をもたせにくいからである。
 現代人の錯覚は、現代の問題点の本質が生産活動ではなく、消費活動であるという事を見落としていることである。儲け方よりも使い方に問題がある。つまり、現代社会の問題は、消費ではなく。浪費だと言う事である。

 消費者は、モラルを求める。消費にこそモラルが必要なのである。環境問題も資源問題も必要性から経済がかけ離れたことに起因している。意味のない浪費が、人々を苦しめている。貧困は、富の配分の歪みと浪費によってもたらされている。

 消費者は、商品を購入することによって、経済や社会を間接的制御している。それを端的に現しているのが、不買運動である。不買運動そのものの、効果は、実証できないが、心理的影響は否定しきれない。また、多くの規制が生産的規制ではなく、消費に対してかけられるのも、消費が経済に特に、モラルに与える影響を示唆している。
 その上、家計には、投資機能がある。貯蓄や投資、保険などを通じて社会に資金を供給している。貯蓄率や投資が減れば、経済に重大な影響を与えることは明白である。家内労働者は、投資活動を通じてより積極的に社会に関わっていくべきなのである。
 また、労働力の供給源でもある。消費の場は、人・物・金の内、人と金の主たる供給源でもある。この点を抜きにして、家内労働を蔑視するのは、愚かである。家内労働が廃れれば、経済は、必然的に停滞する。

 生産と消費の関係は、料理人と客に関係に例える事ができる。料理を決めるのは、本来、客でなければならない。料理の価値を決めるのも客である。ところが、客の意志を無視して料理が作られている。食欲の問題ではない。調理の問題なのである。コストの問題なのである。これでは、食欲をコントロールすることも調理をコントロールすることもできない。意味がないのである。生産は、消費が決めるのである。

 消費が生産を規制すべきなのである。市場経済を規制するのは、消費経済である。ところが現代資本主義では、生産が消費を決める。この本末の転倒が経済や社会をおかしくしている。節約や倹約、勤勉という美徳に変わって、消費、浪費、遊興が美徳とされるようになる。大量生産が、大量消費を奨励し、使い捨てが当たり前になる。上辺だけの見せかけが評価され、使い捨てが常態になる。本物や物を大切にするという事は、愚かなことと見なされる。その為に、市場は抑制を失っていく。暴走を止められなくなるのである。結果、欲望が野放しとなり、社会道徳や風俗に破壊的な影響がもたらされていく。消費は、妖怪と化していく。

 消費に規律がなくなり、生産を抑制できなくなると、欲望を制御できなくなる。市場的価値観が全ての価値観に優先する。結果的に、金・金・金の世界になる。金になりさえすれば親でも、子供でも売りかねない。モラルがなくなるのである。快楽・性欲が優先され、愛が滅びる。生活のために体を売るのではなく。遊ぶ金ほしさで春をひさぐようになる。
 
 近代は、市民社会である。ここで言う市民とは、都市住民である。彼等は、長期的展望に立って自分達の住空間を計画的に築き上げてきた。その結果、我々は、現代にも続く都市の景観を見る事ができる。それは、都市に住む住民の勝利の軌跡である。ところが、我々は、利便性の代償に都市の機能、景観を損なおうとしている。そこからもたらされるのは、暴力的とも思える環境の破壊と人心の荒廃である。
 住む者、即ち、消費者達の意志を無視して作られた近代都市は、醜悪な妖怪のような姿
を地上に現してきた。そして、環境を破壊し、資源を飲み尽くそうとしている。

 教育は、都市計画の一つでなければならない。それは、千年、二千年先を見越したものであるべきだ。その為にこそ、消費経済の確立が不可欠なのである。
 その消費経済の確立のためには、家庭内労働の社会的地位を高め。その延長線上において、公的事業を組み立てる必要があるのである。

 父親は、もっと子供の教育に関わるべきである。そうしないと、消費的空間、生活的空間との接点を失うことになる。また、二十四時間フル操業の主婦の息抜きができない。よく家内労働に対する無理解さが、俺は、外で働いて疲れているのに、おまえは、家で楽をしていてと言う心ない発言に繋がる。むしろ、共稼ぎによる家庭内労働の空洞化の方が深刻なのである。保育園をたくさん作り、働く女性の支援をするという視点、考え方において欠けているのは、ならば育児をどう考えるかである。母親の役割に対する無理解さである。家庭を崩壊させ、愛する者を犠牲にしてまで実現する自己実現とは何か。それで本当に自由になれるのか。幸せになれるのか。家庭、家族とは何か。愛とは何か。それを忘れた議論は、不毛なのである。家庭の仕事に喜びを感じられない。子供を育てることに意義が見いだせない。安心して子供の育児に専念できない。そのような環境にこそ問題があるのである。

 消費にこそ喜びがある。楽しさがある。それは、人々の生活の必要性に密着しているからである。
 

消費経済

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