場の理念


市場(取引の場・交換の場)


A 市場取引と貨幣の働き


 先ず、貨幣は、人的概念であり、貨幣を基礎とした、金利、利益、所得、価格も人為的概念であることを確認しておく。
 豚に真珠、猫に小判と豚や猫を馬鹿にするが、本当の価値を知っているのは、人間なのか、豚や猫なのか。少なくとも、真珠や小判で、豚や猫は、殺し合いをしたりはしない。人は、パンのために生きているのではなく、人が生きるためにパンが必要なのである。

 表象貨幣とは、名目的貨幣である。名目的貨幣は、貨幣そのものに実質的な価値はない。名目的貨幣は、その時の貨幣価値を指し示す物である。
 表象貨幣は、それが発行されると同量の債権と債務を生じる。債権と債務の関係は、作用と反作用である。表象貨幣は、発行者に回収されることによって清算される。即ち、表象貨幣によって発生した債務・債権、信用は、発行元に回収されたときに解消される。故に、通貨の流量は、表象貨幣の発行元によって管理される。

 表象貨幣を考える場合、重要なのは、最初に何を担保としているかである。現在の貨幣経済が成立する時に、担保したのは、金、銀といった希少金属と、国債と言った国の借金と税である。そして、その担保した金の出所は、戦争による賠償金と植民地からの金・銀である。
 よく物語や映画に財宝が出てくるが、その時、頭に思い描くのは、金、銀、財宝であり。その金、銀というのは、主として金貨、銀貨、特に、金貨である。この事が何を象徴しているのか。本来、我々が一般に財宝として考えるのは、金貨である事を象徴している。
 また、借金と言っても返すあてのない借用証書を力ずくでおいていったようなものである。例えば、アメリカの南北戦争時において、兵隊に対する支払を支払証書で行った。それが、紙幣の始まりだといわれている。
 早い話、支払義務を、国家権力が裏付け保証をしていたのが、表象貨幣の始まりである。れも支払不能になると反故にされた場合が多々あった。
 紙幣は、成立時点で、借金、略奪、搾取、支配と言った事象によって成り立ったのである。それは、紙幣が時としてむき出しにする本性でもある。

 国債の働きを、ただ、国の借金としてしか捉えられないとしたら、それは間違いである。国債を負の作用だけで見るべきではない。国債には、信用を創出するという作用や資金を調達するという働きがある。更に、通貨を発行するための根源でもある。
 つまり、国債は、通貨を制御するための重要な手段ともなるのである。問題は、国債を発行する際の財政規律である。国債が悪いのではなく。国債を無原則に発行することが悪いのである。
 国債は、財政破綻の補填という機能よりも通貨の制御するための手段と言う事の働きの方が重要なのである。問題なのは、財政が国債本来の機能を阻害することである。財政の規律があって国債は正常に機能する。故に、財政の赤字が問題なのではなく。財政の赤字によって国債が本来の機能を発揮できなくなり、経済が混乱することなのである。

 国債は、紙幣の根源だとも言える。

 紙幣には、常に、戦争の臭いがつきまとっている。イギリスが国債を発行し、それを担保に紙幣をイングランド銀行が発行した際もイギリスとフランスの長期の戦争が原因とされている。(「国債の歴史」富田俊基著 東洋経済新報社)また、日本の紙幣の基礎となった金は、日清戦争における賠償金を基としていると言われている。(「貨幣の経済学」岩村充著 集英社)また、アメリカの紙幣の始まりは、南北戦争時における兵士への支払証明書(グリーンバック)だと言われている。いずれにしても、紙幣は、戦争という人類の惨禍を根底に抱いているという事を忘れてはならない。紙幣の成り立ち、暗部を直視しない限り、近代貨幣経済の問題点は解決できない。
 もう一つ言えることは、戦争というのは、一時的に消費と生産が爆発的に拡大する現象でもある。それが貨幣経済を成立せしめた要因の一つでもある。

 成熟した市場では、金があっても使わなくなるか、使っても無駄遣いする。貨幣が退蔵されるようになると、通貨の流通、通じが悪くなる。また、無駄遣いは、市場に偏りを生じさせ、市場を歪めてしまう。

 貨幣の特性の一つに蓄積性がある。つまり、貨幣は、必要以上に流通すると貯蔵される正確がある。貯蔵されるというのは、退蔵されることを意味する場合もある。
 一般には、通貨が過剰に供給されるとインフレを引き起こすと想われているが、それは、物的市場と貨幣的市場が相互に作用することによって起こる現象であり、通貨の流通量と言う一面から判断されることではない。
 財が不足している時に貨幣が過剰に供給されれば、インフレを引き起こすが、市場が過飽和な状況では、貨幣は、退蔵され、必ずしもインフレを引き起こさない。逆に、市場が過飽和な時は、買い控えを呼んでデフレに陥る場合すらある。

 貨幣価値は、貨幣を所有しているだけでは、発現・実現しない。表象貨幣の貨幣価値は、貨幣が使用されることによって実現する。実現された貨幣価値は、現金価値と言い、その時に使用される貨幣の現物を現金とする。
 貨幣価値は、最終的には、財との交換によって、実現する。財は、潜在的貨幣価値を有する事を前提として成立する。財の貨幣価値は、人の必要性によって決まる。人は、貨幣価値を貨幣によって表現する。ここに、市場経済、貨幣経済における、人、物、金の関係が形成される。

 貨幣経済の基盤は、決済制度である。金融危機の多くは、この決済制度の障害によって引き起こされる。

 一般に、貨幣は、決済の手段、即ち、売買取引の手段、道具として発達してきたように考えられがちであるが、表象貨幣である紙幣に関しては、その端緒が預かり証、借用書という点から見れば解るように、貸し借り、即ち、貸借取引を基盤にして発達した。つまり、現代の貨幣経済の基盤は、貸借取引である。つまり、売買を基本とした損益計算は、貸借を基盤とした貸借取引の上に成り立っているのである。

 貨幣の供給、即ち、信用力は、貸し付け、即ち、融資によって生じる。言い換えると、貸し付けの増加分だけ、通貨の量は増える。
 貸し付け、融資量が減少すると実物市場に流通する通貨の量は減少する。

 貨幣価値は、物理的制約を受けない。貨幣価値は、財との交換によって清算され、解消される。それが消費である。貨幣自体は、発行元に、即ち、発券銀行、中央銀行に回収されることによってのみ清算される。

 市場では、貨幣価値は、取引によって顕在化する。取引は、市場と貨幣とを連結する役割を担っている。

 市場における貨幣価値は均衡しており、総和はゼロである。即ち、市場における貨幣価値は基本的にゼロサムである。

 次ぎに、市場取引の前提を上げると次のようになる。
 第一の前提は、市場取引は、通貨の流量の制約を受けるという事である。第二の前提は、市場取引は、基本的にゼロサムだと言う事である。

 市場価値は、市場に流通する通貨の量と財の量による関数である。市場取引は、売り手と買い手、通貨と、財からなる。売り手に財、買い手に貨幣の双方が必要な量だけ存在しないと取引は成立しない。故に、市場の取引は、財と通貨の量の双方に制約される。

 市場取引には、売買、貸借の二つがあり、売買とは、売りと買い、貸借とは、貸しと借りという逆方向の同量の貨幣価値として現れ、取引は、同量の現金によって行われる。いずれの取引も、発生した時点では均衡している。貸借取引は、同量の債権と債務を発生させ、同量の現金の遣り取りによって成立する。
 つまり、市場取引は、常に均衡しており、市場取引が、均衡していると言う事は、その時点時点の収支の総和は、常にゼロだと言う事である。
 これらが大前提である。

B 利益は、差によって生み出される


 利益は、差によって生み出される。
 利益を生み出し差には、空間的な差、時間的な差がある。空間的な差は、通貨圏や国家間、地域間における為替の水準や物価水準、所得水準、生活水準などに依って生じる差である。時間的な差というのは、時間の経過によって生じる差である。

 入りと出の点の場所や時間、価格、通貨の差が損益を生み出していると言える。入りと出と言うからには、何に対する入りと出なのかである。それは、経営主体や家計主体、財政主体であるといった経済主体である。また、その他には通貨圏などの特定の閉鎖された空間がある。その主体や空間にとって経済的価値は入りと出が決まるのである。

 かつては、地理的な差が、利益に重要な役割を果たしてきた。典型的なのは、三角貿易である。英国から工業製品を積み込み、それを北米に持っていって農産物や魚に代え、西インドに持っていって砂糖や糖蜜に代えると言った貿易である。(「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」)
 今日では、為替によって生じる通貨の価値の差や時間的な差がこの差に加わっている。

 金利や利益、地代、家賃と言った付加価値は、時間が生み出す価値である。それを時間価値という。金利や利益は、時間によって増加した貨幣価値であり、増加した分だけ余剰の貨幣価値を必要とする。その余剰の価値は、空間的差、時間的差によって清算される。即ち、差が解消されると清算することが出来なくなる。即ち、利益や金利を必要とした時点で、市場は、常に、空間的、時間的な差を前提としなければならない。それに対し、市場の圧力は、常にこの差を解消する方向に働く。利益や金利を生み出そうとする力と、利益や金利を生み出す差を解消しようとする市場の力を、調整するのが市場の仕組みである。

 成長段階から成熟期に移行する段階の市場は、実質的な資金需要が減退する。つまり、投資対効果の効率が減退する。投資したほどに収益が上がらなくなるのである。
 金融側から見ると貸付金の回収段階にはいる。そうなると市場の拡大速度が遅くなり、やがては、成長の限界に達する。市場取引は、通貨の流量の制約を受けるために、実物市場に流通する通貨の量が減少する。通貨の量の減少は、実物市場の市場取引に制約を加える。つまり、負荷となる。
 それによって、実物市場において時間的価値が負に作用しはじめる。その結果、企業収益が圧迫を受け、時間的価値である利益が減少に転じる。それが成熟市場である。

 時間価値が負に作用した時、信用収縮が生じる。

 負債というのは、資金調達の有力な手段であることを念頭に置いておく必要がある。資金の調達というのは、信用の創出を意味する。借金の原点は、資金調達なのである。つまり、資金、現金を調達したから、得たから支払義務、返済義務が生じたのである。そのことを忘れてはならない。
 取引の一面しか見ない傾向が、一般にはある。しかし、経済取引は一面だけでは捉えきれない。売ると言うことも買うという取引の表裏を為す行為である様に、貸借関係にも、借りると言う事は、貸すという行為の表裏を為す行為、取引であると言う二面性がある。つまり、取引には、必ず、同量の反対取引が存在する。債務には、同量の債権が生じる。
 これを取引の作用反作用という。銀行が融資を実行すると言う事は、借りる側に債務と現金収入が生じると、同時に、貸した側に債権と現金支出が生じると言う事を意味する。そして、その元は、金融が預金者から資金を借りること中央銀行から融資を受けることなのである。
 借金というのは、反対給付のない一方通行的な行為ではない。借りたから返さなければならないのである。逆に言えば、借りなければ、返す義務は生じないのである。借りてもいない物を返すと言う行為は、返済ではなく、強奪である。
 もう一つ、借りたから、信用取引が生じるのである。売掛金も買掛金も、受取手形や支払手形も信用によって成り立っている信用取引の一種である。この信用取引が、貨幣制度の前提となる。貸借関係がなければ、現在の貨幣制度は成り立たないのである。
 国債の問題を考える時これを忘れてはならない。貨幣制度の根本は、融資、即ち、借入にあるのである。信用収縮というのは、この貸借関係が収縮することによって始まる。借入を行ったから、信用関係が生じたという事である。
 そして、返済が始まった瞬間から信用収縮は始まると言うことである。この事は、貸借関係というのは、貸し手だけでは成り立たず。借り手だけでも成り立たないという事である。優良な債務は、優良な貸し手があって成り立っているという事である。貸し手の論理ばかりが先行すると本来の信用制度は確立されない。
 金融不安の根本には、金融機関が優良な貸し手を見いだせなくなったことある事を見落としてはならない。

 もう一つ、覚えてなく必要があるのは、現金勘定というのは、支払準備を意味するという事である。支払を準備するために、現金預金が必要とされる。
 融資と言っても現実に現金のやりとりが行われる取引は少ない。多くは、帳簿上で行われ、実際には、金融機関内部での取引に置き換えられる。

 金融機関からの借入金と支払に充てた現金とが全く同じだと仮定した場合、金融機関が現金を支払って購入し、借り手側が使用料を支払っているという解釈も成り立つ。ただ、その場合、最終的所有権の問題が発生するが最終的に資産の所有権も移転するとなると、実体は、融資と変わりない。その実例が、ファイナンスリースである。
 この事は、借金、即ち、貨幣の働きの持つ一面を現れているとも言える。つまり、貨幣というのは、信用で成り立っていて、実際に現金という物を介さなくても成り立つのである。つまり、貨幣制度の根本は、現物の貨幣というより貨幣が生み出す信用制度だと言う事である。そして、通貨量の前提となる信用の規模というのは、負債によって成り立っているのである。
 急速な信用収縮は、金融機関の貸付金の毀損が原因となり、これは、借り手側の債務の毀損より生じる。借り手側の債務の毀損とは、貸し手が担保としている債権の毀損である。この事は、金融機関の債権の毀損を意味する。金融機関の債権を圧縮しても、金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の持つ債権を健全化したことにはならない。つまり、何等かの形で金融機関の債務を圧縮しない限り、金融機関の経営は健全化されないことを意味している。必然的に、預金の価値を圧縮することも含まれる事を意味するのである。

 空間も、時間も均衡した状態が安定した状態である。故に、空間的差も、時間的差も解消される方向に圧力がかかる。エントロピーの増大である。定常状態に市場が近づくと金利は、低下する方向に向く。
 日本は、現在、歴史的な低金利が持続的に続いている。低金利と言うよりも、ゼロ金利、マイナス金利と言ってもいい。つまり、時間的価値が消滅した状態が続いていることを意味する。
 宗教的倫理観の多くが、金利を悪と見なすが、それを意図したわけではなく。市場が欲しているのである。
 これが一体何を意味するのか。また、長期にわたってゼロ金利が続くことによってどの様な状態になるのかをよく見極める必要がある。

 市場は、時間価値が喪失した状態を放置すると、市場取引の総和は、ゼロに収束する。

C 市場取引における債務の働き


 過剰流動性とは、金余り現象を指すわけではない。金融市場に、貨幣が滞留した状態を指すのである。

 短期的な収益を基準としている金融機関は、実物市場で収益が上がらなくなり、金融機関は、資金の回収をはじめる。その結果、金融市場に資金が滞留するようになる。それが過剰流動性である。金融機関に滞留した通貨は、借りた金であるから、時間と伴に、金利が債務として増殖する。この債務を解消するために、債券を発行して、金利を稼ぎ出そうとする。つまり、金利で金利を返そうとする。
 つまり、、金融機関は、時間的価値である金利を稼がないと経営が、成り立たなくなる。その為に、金融機関は、金融商品を開発して金融市場内部で貨幣価値を増殖させるようになる。それが実体のない貨幣価値の増殖を生み出すのである。それが、バブル現象である。
 一旦バブル現象が始まると実物市場から金融市場が資金を吸い上げてしまう。その為に、名目的な市場の拡大、経済成長は持続するが、実体を伴わないために、市場が疎となり、仮需要が旺盛になる。実物市場は衰弱し、金融市場は隆盛する。
 金融市場は、潜在的資産価値、即ち、財の将来の時間価値を担保とする。それは、土地や株と言った財の時間的価値を担保とする。それは、財の将来価値と、現在価値との差に依拠する。現在価値、即ち、財として取り引きされる実質的価値と将来的価値の差が制約条件として働く事を意味する。自ずと金融商品の価値にも限界がある。将来的価値と現在的価値の管理が限界に達した時、バブルは、崩壊する。
 バブルは、財の将来価値、即ち、未実現利益を前提している。バブルが崩壊すると、巨額の負の時間価値が発生する。この時間価値は、実物市場に対して返済圧力として作用する。つまり、通貨の流通に対する負荷となる。そのために、実物市場に通貨が流通しなくなるのである。

 借入、借金というと一般にあまり良い印象を持たれない。どちらかという悪いことのように捉えがちである。しかし、現代社会は、負債によって成り立っている。信用の裏付けには、負債があるのである。借入金もただ返せば良いというものではない。借入金の減少は、信用収縮を意味する場合があるからである。
 景気が悪くなりはじめると、一時的に企業の財務内容が改善されているように見えることがある。しかし、それは、資金が回収されていることを意味する。つまり、収益の多くを借金の返済に充てている結果である。信用の収縮を意味する。企業の財務内容が改善されているわけではない。
 逆に、借入を活用して利鞘を稼ぐことは、有能の証だと見なされたときもある。アメリカで、キャッシュフローがもてはやされた時代、つまり、2008年の金融危機が起こる直前は、借入によるレパレッジ効果が高く評価されたこともある。
 現金をただ蓄え、あるいは、含み資産を持つ事は、企業経営として資産を無為に遊ばせているだけだというのである。

 負債を単純に返済のための準備金のように捉えると負債の持つ能動的な働きが否定されてしまう。人は、借金をすると返済することばかりに追われてしまうが、借金は、資金調達という積極的な要素があることを忘れてはならない。もう一つの機能として、信用の創出である。ある意味で今日の信用制度は、債務、即ち、負債、借金を下地にして成り立っていると言えるのである。

 債務には、支払義務が生じる。それが信用の基盤になるのである。借金というのは、資金の調達手段という側面が先にあって、支払義務が付随的に生じる行為なのである。そして、その支払義務は、借り入れた者に対する信用に基づいて成立している。更に、それを担保する物が裏付けに在れば、信用は確立される。また、法制度がこの信用を保証することによって信用制度は社会的な裏付けも持たされる。その信用制度を基盤にして成り立っているのが今日の市場制度である。
 故に、債務は、現在的貨幣価値の実現を意味している。つまり、現金収入を実現する変わりに、支払義務を負うことを意味するのである。そして、この事が同量の貨幣価値を持つ現金と債権を生じさせるのである。

 借入金は、良くも悪くもない。ただ借入には、波があるという事だけは覚えておく必要がある。その波に合わせて資金の収支を調整するのが金融機関の役割である。
 借入金の波は、資金の波に重なる。資金の波には、現金の受け取りと支払の二つの波があり、受取による波と支払による波の間には、時間差が生じる。その為に、現金の受け取りと支払の間にある時間差を調整する必要がある。
 それが運転資金である。また、運転資金に支障をきたすと企業経営は、継続できなくなる。運転資金の調達は、一般に借入によってなされる。
 目先の利益や短期的収益だけで企業業績を判断し、運転資金を供給しなくなったり、資金の回収に走ると企業は破産する。
 景気の下降局面や上昇局面と言った運転資金の変動期におこる資金繰り倒産、黒字倒産の原因は、この様な金融機関のご都合主義や短絡的発想に依るところが大きい。
 現象だけを追いかけ対症療法的な対策では、換えって、資金の必要なところから資金を回収し、資金が余っているところに融資すると言った、逆方向の動きをしかねないのである。
 それは、金融機関だけでなく社会全体に経済のあるべき姿に対する構想が欠けているからである。

 産業は、資金を循環させることによって成り立っている。資金繰りがつかなくなれば、業績に関係なく、経営は成り立たなくなる。実物市場に資金が廻らなくなれば、消費は減退し、産業は衰退する。つまり、市場が機能しなくなり、財の分配が滞るようになるのである。その極端な例が恐慌である。

 恐慌で問題なのは、財を必要としているのに、財を購入するための資金が廻っていないという事なのである。
 故に、恐慌に対する対策は、資金を循環させることである。つまり、買い手に資金が廻るようにすることである。買い手は、財を必要としているのであるから、資金が廻れば需要は喚起される。
 その為には、雇用を作り出して、資金を供給することである。ただ、それは、闇雲に公共投資を増やせばいいと言うのではない。資金や財の環流は、市場のおける空間的差、時間的差によって生じる。

 ゆえに、公共投資による景気の浮揚は、市場の差を利用しないと効果が上げられない。なぜならば、資金を循環させ、景気を活性化するのは、市場における差の活力だからである。
 一つの産業が興隆する初期の段階に公共の資金を投入すれば、市場の所得が先行的に上がり、成長による時間的差を先取りすることによって景気は活性化する。しかし、成熟段階に在る市場に資金を投入しても新たな需要ぱ喚起されず。市場は活性化されない。むしろ、余剰の資金が金融市場に吸い上げられ、滞留して過剰流動性を引き起こす原因になる。つまり、成長が見込める産業に集中的に資金を投入しない限り、資金は環流せず。市場に偏りを生じさせるだけの結果に終わるのである。
 もう一つ重要なのは、市場に万遍なく貨幣を行き渡らせる必要があることである。その為には、市場の密度を高めるような形で資金を投入する必要がある。

 雇用を担っているのは、中小企業である。SBAの資料によると、2004年現在、アメリカの全雇用企業数に占める中小企業の比率は、99.7%にのぼり、民間部門就業者数に占める比率は、50.9%、民間雇用者所得に占める比率は、44.3%をそれぞれ占めている。それを考えても景気を良くする鍵は、中小企業が担っている。また、金を回しているのは、根本的に日銭商売である。また、景気の変動によるダメージを受けやすいのも中小自営業者である。逆にしたたかに生き残るのも自営業者である。
 中小企業を成立させているのは、経済的に自立した自営業者、市民である。ささやかな成功者である。だからこそ、政治的な影響力も大きい。また、中小自営業者は、地域経済の要でもある。
 産業的には、新興産業よりも、斜陽産業と見られている、伝統的産業、コモディティ産業である。
 一見、新興産業は、新たな雇用と、需要を生み出すように見える。しかし、実際は、新興産業には、リスクも限界もあると、考えるべきである。バブルを引き起こし、市場の混乱を引き起こしているのが、新興産業である事が好例である。
 問題は、なぜ、伝統的産業やコモディティ産業が斜陽化したかである。それは、市場にある。つまり、市場が適正な価格を維持できないことにある。
 市場にいかに差を作り出すか、また、差を維持するのかが、重要な鍵を握っている。成熟期の市場の差は、市場の仕組みによって維持される。つまり、何等かの装置によって維持されるのである。

 重要なことは、産業や企業を保護することではなく。市場を保護することである。
 いつの時代でも夢は、町工場から生まれた。

 アメリカでは、中小企業は、銀行借入が困難で、規制が厳しいという日本の研究もある。何れにしても、市場の密度を高め、資金の円滑な循環を促す意味においても中小企業の育成は欠かせない。

 実際的なところ景気が悪化した時、雇用を創出している余地があるのは、中小企業や自営業、個人事業である。
 不景気になると大企業は、すぐに人員削減を打ち出す。それは、大企業にとって人件費はコストでしかないからである。それに対して、中小企業にとって人件費は人である。また、大企業にとっては、人件費は下方硬直的な費用であるのにたいし、中小企業では、柔軟性がある程度、保たれるからである。それに誰も雇ってくれなければ、自分で事業を興すしかなくなる。いずれにせよ、景気が悪化した時に市場の緩衝材になるのは、中小企業や自営業、個人事業である。

 大多数の人が財の将来価値が上がると考えれば時間的価値はプラスに作用し、下がると考えるとマイナスに作用する。市場の成長や拡大が期待できる内は、将来的価値が上昇すると判断して投資する。しかし、将来的価値が下落すると考えるようになると投資した資金を回収する方向に動く。
 では、その変化の分岐点は何か。それは、支払い能力に求められる。支払い能力というのは、所得から固定的な支払を差し引いたもの、即ち、可処分所得が基本となる。
 人は投資する場合、手持ち資金か、手持ち資金が足りない場合は、借金、即ち、負債に頼る。負債というのは、将来的価値の先取りである。今、買って、後から払うと言う事を意味する。つまり、返済が生じるのである。この返済は、固定的な出費であるから、所得からこの固定的出費を差し引いた額が可処分所得である。この可処分所得の範囲内で生計費を納める必要がある。故に、可処分所得の限界が個々の人達の臨界点になる。負債は、累積するために、固定的な出費も嵩んでくる。それがある臨界点に達すると投資に陰りが生じ、市場は、収縮を始める。

 時間的価値において、何が重要なのか。それは、希望。希望である。

 2008年に始まる金融危機の背景にもアメリカの住宅市場の乱高下がある。それは、住宅価格の上昇期待が失われた事と支払い能力の限界を超えたことが原因なのである。

 市場は、拡大と収縮を繰り返している。その拡大と収縮の繰り返しが、経済の循環運動と周期運動を引き起こしている。市場の拡大と収縮の運動を前提とした市場の仕組みを構築しないと、経済は制御できないのである。

D 市場(いちば)と市場

 一口に市場と言うが、市場には、物理的空間を意味する市場(いちば)と抽象的空間を意味する市場(しじょう)の二つがある。
 段々に、我々の頭の中から物理的空間にある市場(いちば)が消えて、抽象的空間である市場(しじょう)に頭の中が占められつつある。
 抽象的空間の市場は、抽象的基準である貨幣、そして、貨幣から派生する貨幣価値に重きが置かれる空間である。抽象的空間に支配されることが意味するのは、物理的概念が抽象的観念に置き換えられることを意味する。
 つまり、物的経済、実物や現物、実体と言った概念が、貨幣的観念にすり替わっていくことをである。それは、現実的世界が観念的世界に、仮想的空間に置き換わり、その仮想的空間に現実の空間が支配されてしまうことを意味する。

 また、重要なことは、物理的空間である市場(いちば)には、物理的限界があるのに対し、抽象的空間である市場(しじょう)は、論理的には限界を持たないという事である。例えて言えば、食料の生産量は、物理的に限られているのに対し、食料価格は、際限なく上昇する事も、下降する事も可能だと言う事である。そして、貨幣空間に支配されるようになると価格が生産量や消費量を決定するようになる。

 市場は、本来、物理的制約の範囲内でしか機能しない。市場は、物理的制約によって保護、維持されているとも言える。

 市場は、一律、一様な空間ではない。
 市場は、一般に思われているほど単純な構造をしているわけではない。
 現代人は、市場経済と貨幣経済を一体のものとして捉えがちである。しかし、市場は、貨幣が成立するずっと以前から存在した。
 食料や衣料と言った日常的な財には、伝統がある市場が多くある。そして、伝統的な市場には、多くの仕来りや掟があるものである。
 また、市場を考える上では、物的側面も重要なのである。市場価値を検討する時、貨幣単位で考察する傾向があるが、物の単位も重要である。

 市場価値は、需要と供給だけで決まるわけではない。それに、需要と供給の均衡点が適正価格を形成するとも限らない。

 消費や投資の根源には、動機が隠されている。つまり、消費や投資を促す要因である。その要因の妥当性が経済の活力となる。
 消費や投資の動機は、金銭的動機が主たる要因ではない。金銭的動機というのは、二義的、付随的、副次的な要因である。消費や投資は、もっと直接的で生々しい人間の欲求にに基づいている。なぜならば、消費や投資は、即物的、現物的欲求、欲望から派生するからである。
 本来は、「お金」が欲しくて消費や投資をするのではない。「お金」は、自分の欲求、欲望を充足、実現するための手段、権利を留保したものだから「お金」を欲するのである。その証拠に「お金」はその権利を行使しなければ何の価値もないのである。

 物の価値という物が見失われ、ただ、貨幣価値だけが世の中を動かしている。
 市場では、金の単位ばかりが問題にされて、物の単位が忘れられている。しかし、実際に経済を動かしているのは物なのである。この大原則、大前提を忘れてはならない。貨幣は、あくまでも物の動きの影なのである。その影に操られるようになってから物の動きは怪しくなった。

 本来、経済というものは、物を基礎にして成り立っている。市場も当初は、物と物との交換の場であった。だから、経済現象の根底は物の流れによって引き起こされる事象であった。物には、物固有の属性がある。その属性によって個々の市場の性格や構造が形作られた。
 現代では、経済は、金の動きが全てであるような錯覚があるが、実際は、物の動きによって支配されている部分が数多くある。好例がオイルショック時の物価の高騰である。それでなくとも、買い占め、売り惜しみによって物価が上昇したり、また、暴落するような現象は歴史を見れば枚挙に遑がない。需給は、恣意的に調整できるのである。

 物の生産と消費を制御できなければ、環境問題も、資源問題も。貧困問題も解決することはできない。

 価値は、財の寿命や生活習慣、風俗、価値観、宗教、文化によっても違ってくる。
 ブランド価値は、需要と供給だけに左右されるわけではない。ブランド価値も市場価値を形成する需要な要因の一つである。
 その上、情報の非対称性の問題もある。市場価格が公正、公平を実現するとは言い切れない。
 需要と供給と言っても物の需要と供給があり、「お金」の需要と供給、労働力の需要と供給がある。
 また、価格が需要と供給に左右されるとしても需要と供給を支える要素が重要な役割を果たしているのである。
 例えば、供給を決定する要素には、生産手段の問題がある。生産の仕組みの問題がある。また、支払手段や支払い能力、支払方法なども需要を決定する重要な要素の一つである。

 また、市場と言っても天候に左右され、鮮度を重視される農作物のような物を扱う市場と工業製品を扱う市場とでは基本的構造が違う。

 石油やガス、貴金属、鉄と言って資源は、地質的な要素、地理的要素、また、必然的に地政学的要素や技術的要素、費用的要素によって市場構造は左右される。

 また、石油のように埋蔵量が決定的な要素となる市場もある。

 日本は、資源が少なく、エネルギーの大半を輸入に頼っている上に、食糧自給率が低い。故に、市場は、原材料の価格の変動や為替の変動による影響を受けやすい構造になっている。また、それに見合った金融市場を形成することが要求される。
 石油や米のような日本の国家の生命線を握るような物資は、備蓄を義務づけている。しかし、その経済的効果や市場への影響を充分に考慮する必要がある。さもないとたとえ、備蓄しても効果的に石油を市場に放出することができない。

 物の経済の仕組みを理解しないと経済の実相を制御し、資源を有効に活用することができない。

 鉄道や空港、港湾、通信と言った市場は、地理的な要素によって制約を受ける。
 深海や宇宙、南極、北極の開発は、技術的な制約がある。必然的に衛星や海底油田、環境などの市場は、技術的な制約がある。

 有毒物質やガス、原子力、化学製品といった危険物を扱う市場や建物、設備、自動車と言った構築物を扱う市場は、保安上や耐久性、廃棄手段、環境上の制約がある。

 また、原子力や航空機と言った先端的市場には、研究開発上の制約がある。

 生産量や在庫量は、経済活動に決定的な役割を果たしている。
 それは、市場の有り様まで変えてしまう。例えば、冷蔵倉庫が、建設されたことによって、生鮮食料市場の基本的構造が変化した。また、交通機関の発達も生鮮食料市場の構造を根本から一新させてしまった。

 この様に、市場は物や財による制約を受けている。その制約条件によって市場の有り様に変化が生じる。

 物の経済は、生産力、消費者、物流、在庫、保存といった実体的な要素によって構成されている。

 人の経済は、市場と言っていいかどうかも解らない。人の経済で重要な要素は、生病老死と言った人の一生である。そして、人間関係である。つまり、社会、組織の在り方である。その人の働きと報酬のバランスである。また、人の評価、役割である。人格である。だから、労働市場と単純に割り切れないし、単純化もできない。
 しかし、その人間と仕事、職業の有り様が、市場の有り様を決定する。

 この世は、「お金」だけでは片付けられないのである。市場は金だけが全てではない。

 人的な経済には、人間としての能力、人間性、人間の尊厳がある。

 そして、人間は、生物学的な限界の範囲で経済活動を営んでいるのである。人的市場は、生物学的制約の範囲内で成立している。人間は、死ぬのである。そして、人間は、生きる為に食事をしなければならない。生活の場を確保する必要がある。住む家が必要である。人間は、働かなければ生きていけない。人間の人間としての基本が人的な経済の土台にある。それを忘れては、経済は成り立たないのである。

 市場は一律一様な空間ではない。市場を支配するのは需要と供給関係だけではない。市場に働いているのは競争の原理だけではない。市場というのは、多種多様な構造を持っている。そして、それ故に市場は成り立つのである。市場から多様性を奪えば、市場は、本来の機能を失う。市場は、多種多様であるから、文化たりえるのである。そして、経済は文化である。市場が文化だから、市場は経済であり得るのである。
 むろん、需要と供給関係は、市場を構成する重要な要素であることに、違いはない。また、競争の原理も需要な働きの一つである。しかし、需給関係や競争の原理だけで市場を特定するのは間違いである。




                    


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