場の理念


産業の場(収益的場)


 生産の場は、職場である。職場というのは、所得を得る仕事の場である。
 消費の場は、生活の場である。生活の場であるから、住む場である。
 家計から見ると生産的労働は、外在的労働であり、消費的労働は、内在的労働である。経済主体から見て、外部にあるのが市場であり、内部にあるのが共同体である。市場は、財や貨幣の交換と流通の場であり、共同体は、財の生産と分配消費の場である。

 生産の場には、人的な場、物的な場、貨幣的な場がある。

 生産の場と、消費の場が分離する事が、市場や貨幣経済を形成するための前提となる。生産の場と消費の場の分離は、職業の場と生活の場の分離を意味する。つまり、職住の分離である。

 職業というのは、単一的、専門的、特殊、外向的、組織的な仕事である。家事というのは、複合的、総合的、一般的、内向的、自己完結的労働である。
 また、職業は、所得に関わる労働、生活は、支出に関わる労働である。
 この様な差は、労働の性格や在り方の変化になる。つまり、労働の質を決定付ける。即ち、職業は、社会的、組織的、貨幣的な性格を持ち。家事は、内向的、自己完結的、非貨幣的性格を持つ。ただし、地域社会に対する密着度は、家事労働の方が高い。その場合も、非貨幣的、即ち、ボランティア的性格を持つ。

 市場経済では、生活に必要な財は、市場における財と、貨幣の交換によって手に入れることになる。交換は、所有権を前提として成り立つ概念である。市場において、必要な財を交換するためには、貨幣が必要となる。その貨幣、即ち、金を調達する場が職場である。そして、労働力のような財を提供することによって調達された貨幣の量を所得というのである。

 プロフェショナルという言葉がある。プロフェショナルに対する言葉は、素人である。プロフェショナルと素人とを分ける要素は、その仕事から収入、即ち、所得を得ているか否かである。むろん、素人でも、賞金や商品をえることはある。しかし、プロフェショナル、即ち、職業人というのは、それによって生計を立てている。つまり、継続的に一定の収入を得ていることが前提となる。
 即ち、プロフェショナルという概念は、職業という概念に密接に結びついており、職業という概念は、収入、所得という概念と密接に結びついている。故に、プロフェショナルという概念は、市場的、外在的概念である。

 家事は、内に籠もり。職業は、表に顕れる。故に、陰陽で言えば、家事は陰で、職業は陽である。
 生活にとっては、家事が主で、職業は従である。つまり、家族が生活するために必要な所得を得るために、働きに出るのである。ただ金を儲けることが目的なのではない。生活のための原資、生計を立てるために働きにに出るのである。内が空疎になったら、働きに出ることの意味がなくなる。また、家計を成立させている根拠を失う。それは家族の崩壊を意味する。

 経済的には、職業の成果は、収益によって現れ、利益によって計られる。つまり、貨幣経済において職業を成り立たせているのは、収益である。

 収益構造にも場があり、階層がある。
 収益構造に対する認識は、欧米と日本では差がある。なぜ、この様な差があるかというとそれは、損益に対する欧米と日本との認識の差による。
 認識によって場の解釈に差があって良いのかというと、それはかまわないのである。それは、場は認識の問題だからである。とくに、収益構造は、人為的場だからである。
 場は実際にあるか、否かは、問題にならない。場が確かにあるらしいと認識できればいいのである。基本的には認識の問題である。問題となるとしたら、確からしさ、又は、確からしさの度合いの程度である。

 収益構造は、日本では、粗利益、営業利益、経常利益、税引き前利益、純利益など利益が形成される五つの場によって仕切られている。欧米では、経常利益が形成される場はなく。粗利益、営業利益、税引き前利益、純利益が形成する四つの場を指す。

 場を維持するために、重要な要素の一つに水準の問題がある。場には、場の状態を一定に保とうとする力が常に働いている。つまり、一定の水準に、安定した状態に場の状態は、収束しようとする。それが、エントロピーの増大に繋がる。

 個々の場の力が均衡するところに対象の運動は、規制される。個々の部分の動きは、働きは、場の力の作用によって制約される。

 個々の場の力が、場に流れを作り、圧力を生じさせる。
 場の流れや圧力に抗するのは、相当の力を必要とする。個々の要素が単独では、抗しきれない。市場が安売り一辺倒になれば安売りに走らざるをえない。価格だけが基準になれば、市場から多様性は失われる。しかし、それは社会の価値観の力の問題である。
 民主主義も数の力だけが横行するようになると政策が蔑ろにされやすくなる。政策の力が弱まるからである。それは制度の問題でもある。

 生産の場は、共同体の場、あるいは、組織的場である。そして、幾つかの場が重層的に重なり合った空間である。

 市場経済では、生産の場は、経営単位と市場に依って構成される。経営単位とは、経営主体を指す。
 市場とは、交換の場である。生産の場は、通常、複数の経営主体や個人からなる。経営主体は、基本的に、共同体か、あるいは、組織である。

 生産の場は、経営単位の市場における位置と運動、及び、経営単位間の関係によって形成される。

 生産の場は、経営単位の内側に形成される場と外側に形成される場からなる。経営単位の外側に形成される場は、市場である。
 場に働く力は、場によって形成される空間に働く力の均衡点を求めて一様に作用する。即ち、経営単位内部に働く力は、内部の均衡を求めて、市場に働く力は、市場の均衡を求めて作用する。
 それを制御するのは、経営単位内部の仕組みであり、市場内部の仕組みである。

 生産の場は、観念の所産であるから、生産の場に働く力も仕組みも観念的なもの、即ち、法や制度と言った観念的なものを指して言う。この様な観念的な力や仕組みは、集団的、社会的な合意によって成り立つ。集団的、社会的合意は、社会的な力を背景とした、手続によって成立する。
 故に、生産の場は、権力に裏付けられた手続によって形成される。つまり、生産の場は、権力によって形成され、権力によって維持される。ただし、その権力は、国家権力に限定されているわけではない。
 場は、一定の法則によって形成される。つまり、法は、場を形成する。法や規則の数だけ、場は派生する。つまり、場は、自然の法則を土台にして、自然の法則の上に国家の法、国家の法の上に企業の法積み上がるのである。
 また、法というのは、その社会に所属する者が最低限守らなければならない取り決め、あるいは前提である。

 例えば、プロ野球に例えると、プロ野球は、複数のチームと球団に依って構成されるリーグかになる。チーム間は、試合によって結び付けられている。試合は、いわば市場である。そして、試合を商品化することによって収益をえている。個々のチームは、内部に組織という仕組みを持っており、選手に対する分配は、組織的に行われる。また、リーグは、複数の要素を階層的に組み合わせることによって構築される。
 個々の場に働く力は、個々の場の規則によって決められる。試合には、試合のルール、チームには、チームのルール、リーグには、リーグのルールがあり、一つの単位として成立しているルールの数だけ、場は形成される。

 場に働く潜在的な価値の水準が重要なのである。市場には、市場に働く力の水準、経営主体には、経営主体内部に働く力の水準がある。

 市場に働く水準で重要なのは、価格である。価格の水準は、需要と供給の水準の均衡によって成り立つ。
 また、経営主体内部の水準で重要なのは利益の水準である。また、資金残高の水準である。これらの水準は、仕事の内容、即ち、業種によって異なる。

 また、経済全体で重要なのは、通貨の流量の水準である。また、物価や所得の水準、生活水準などである。

 例えば、経営主体内部に働く水準の中で、地価の水準は、資金調達力の水準を間接的に規制する。地価の水準は、担保力の水準を意味する。担保力の水準は、上昇している時は、債務の裏付けてして作用するが、下落すると不良債権の原因となる。しかし、この様な水準の乱高下は、本来的には、経営活動と無縁な動きなのである。

 市場に影響を与える水準には、物価の水準、為替の水準、株価の水準などがある。これらは、一つの市場の内部では一定の水準を維持しようとする力が働いている。

 コストは、コストを構成する個々の課目の価格水準によって制約を受ける。また、個々の課目の性格によっても左右される。
 オイルショック以後、石油価格の水準は、世界経済に多大な影響を与えている。石油価格の上昇圧力は、世界経済の構造的変化を誘発している。この様な、水準には、為替の水準がある。ただ、為替の水準は、国家間の貨幣価値の均衡によって保たれるが、石油は、需給や国家間の力関係、投機と言った場の作用が働いている。

 現在発生している経済問題は、構造的なものだと私は考える。

 産業の存亡を決するのは、市場経済、貨幣経済下では、価格である。即ち、価格構造である。価格構造は、原価構造に基礎にする。適正な価格が維持できなくなれば、価格は、(Race to the Bottom)下限に向かって収束していく。行きすぎてしまうと、原価構造を破壊してしまう。原価構造とは、付加価値構造の土台となる。付加価値の構造は、分配構造でもある。

 経済にとって重要なのは、廉価なのか、利益なのか、それとも産業なのか。現代のマスコミは、ただ安ければいいと思い込んで、安売り、価格破壊を煽り、その結果に対して責任をとろうとはしていない。
 大切なのは、適正な価格であり、利潤である。そして、それは、コモディティ産業の収益性に顕れてくる。

 産業で重要なのは、密度と構造的一体性である。産業の構造的一体性が失われると産業や市場は、分裂する。
 また、産業の構造が疎になると物流や雇用に偏りが生じ、経済が、上手く循環しなくなる。その結果、分配に支障が生じる。

: 経営主体には、経営形態によって個人事業、自営業、株式会社などの分類がある。また、企業の規模や業種による分類がある。経営主体は、経営形態や業種によって規範や構造に相違が生じる。

 雇用を担っているのは、中小企業である。不景気になると真っ先に打撃を受けるのも中小企業である。しかし、不景気な時に失業者を吸収できるのも中小企業であることを忘れてはならない。大企業というのは、身勝手なものである。と言うよりも、共同体意識が希薄である。労働者を働く仲間としてみない。単なる、経費の一部、統計的な数字でしかない。しかし、中小企業にとって社員は、働く仲間である。人情がある。だから、容易く解雇できない。それが足枷になって成長にも限界があるのである。スケールメリットと言うが規模が大きければいいとは限らない。小さいから融通がきくこともある。また、創業という点でも自営業や個人事業は、即効性がある。不景気の時には、中小企業、自営業、個人事業こそ雇用を、創出できるのである。
 景気を良くする鍵は、中小企業が担っている。金を回しているのは、根本的に日銭商売である。何れにしても、市場の密度を高め、資金の円滑な循環を促す意味においても中小企業の育成は欠かせない。
 しかし、景気の変動によるダメージを受けやすいのも中小自営業者である。不景気になると中小企業は、銀行借入が困難になる。資金さえ回れば、したたかに生き残るのも自営業者である。だからこそ、不景気には、中小企業の資金繰り対策が重要になるのである。
 中小企業を成立させているのは、経済的に自立した自営業者、市民である。ささやかな成功者である。だからこそ、政治的な影響力も大きい。また、中小自営業者は、地域経済の要でもある。
 産業的には、新興産業よりも、斜陽産業と見られている、伝統的産業、コモディティ産業である。
 一見、新興産業は、新たな雇用と、需要を生み出すように見える。しかし、実際は、新興産業には、リスクも限界もあると、我々は、考えるべきである。バブルを引き起こし、市場の混乱を引き起こしているのが、新興産業である事が好例である。
 問題は、なぜ、伝統的産業やコモディティ産業が斜陽化したかである。それは、市場にある。つまり、市場が適正な価格を維持できないことにある。

 近代経済を象徴する産業とは、所謂、エンターテイメント産業や金融業だと言えるかもしれない。
 エンターテイメント産業や金融業は、虚業と言われる。鉱工業や農林水産業のように実物による産業を実業とすると、実物に依らないから虚であり、虚業だと言うのである。確かに、エンターテイメント産業や金融業には、虚業としての側面がある。だから、今日<隆盛をきたしているとも言える。つまり、現代経済は、人間の観念の上に成り立っており、エンターテイメント産業や金融業は、人間の観念が生み出した産業だからである。
 根本的に実業と違いエンターテイメント産業も金融業も生きていく上に絶対に必要だという物ではない。人間は、本来、金がなくても生きていけるのである。しかし、金がなければ生きていけないのが現代社会なのである。
 エンターテイメントというのは、映画やテレビ、劇場、ゲーム、ビデオ、音楽といった架空の世界に成り立つものである。つまり、現実の世界に存在する空間ではない。いわば仮想空間である。エンターテイメント産業は、仮想空間において擬制的価値の上に成り立っている産業といえる。。
 この様な空間の基盤の一つにインターネットがある。インターネットの発達は、仮想空間を爆発的に拡大している。この仮想空間が、経済の成長や雇用を担い。実業の世界を押し退けようとしている。
 つまり、これからの成長市場の担い手は、虚業なのである。問題は、この様な仮想空間でしか利益が上げられなくなりつつあるという点である。それが現代社会の病巣なのである。
 在りもしない世界に在りもしない現実を作り出し、それが経済を実質的に牽引している。それが現代である。虚無である。
 エンターテイメント産業が悪いというのではなく。経済が実体を失いつつあることが問題なのである。
 確かに、市場は人為的な空間である。しかし、実業は、物的空間の裏付けを持っていた。だからこそ、物的限界によって制御されてきたのである。現代、物的空間より以上に仮想的空間の法が発展してきた。仮想的空間には、物的な裏付けがない。つまり、抑止する存在がない。それが実物市場を支配した時、実物市場も制御する事が難しくなるのである。それが2008年に起こった、石油や一次産品の高騰の一因なのである。
 つまり、架空の空間で起きた仮想的現実によって実体的世界が大混乱をきたしたのである。

 かつては、必要性が一番価値があった。現代社会では、必要性は価値を持たなくなりつつある。その為に、必要な産業が成り立たなくなっている。そして、不必要な産業が成長産業としてもてはやされている。必要性は、価値の全てである必要はないと私は、考える。しかし、だからといって必要な産業が成り立たないのも困る。
 現代社会の最大の問題点、必要性に価値を見出さなくなったことである。

 なぜ、虚業が成り立ち、また、栄えるのか。そこに貨幣経済、市場経済の絡繰り(からくり)が隠されている。つまり、経済の根本は、労働と分配なのである。労働と分配を関連付けるために、貨幣が働いていると考えると解る。
 貨幣経済、市場経済では、自給自足の生活は成り立たない仕組みになっている。一つは、社会的分業が進んでいて、孤立した閉鎖的な空間では、生きていけない仕組みに社会が出来上がっているからである。もう一つは、所有権が確立しており、所有権を得るために、何等かの社会的コストが必要となるからである。
 そして、貨幣経済、市場経済では、市場で生活に必要な差性を手に入れるためには、貨幣を所有していることが前提となる。その貨幣、即ち、お金をうるのは、所得による。所得には、労働による所得と不労所得がある。不労所得は、何等かの生産手段を所有し、それを貸すことによっ得られる所得である。不労所得は、何等かの生産手段を所有している事が前提となり、その様な層は限られている。故に、大多数の人は、労働によって所得を得ている。
 つまり、何等かの仕事が社会に存在することが前提となるのである。つまり、市場経済、貨幣経済において、重要なのは、どの様な生産財が必要なのかではなく、労働の素である仕事そのものの存在が重要となるのである。社会を構成する者は、何等かの形で所得を得る手段を所有している状態、それが、市場経済の大前提なのである。
 つまり、仕事が実体的な生産に関わっているか、否かが重要なのではなく。多くの金を集められるか、否かが一番の問題なのである。多くの金を集めるのは、小口でも不特定多数から集金することが可能な産業が有利になる。
 また、擬制的価値の上に築かれた市場は、物的な制約から開放されている。実体的価値の上に築かれた実物市場は、物的制約があるために、限界がある。それに対して、偽装空間上に築かれた世界には、制約がない、その分、重要を創造することが出来るのである。それが、虚業が、一見、無制限に成長可能だと錯覚するのである。しかし、物的な制約から開放されていても人的な制約から開放されているわけではない。虚業は、人間の欲望を土台としているのである。人間の欲は気まぐれである。飽きてしまえば幻のように消えてしまうのが、虚業の作りだした市場である。
 それが市場経済の本質なのである。






                    


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