新たなる展望に向けて


 百社中、一社か、二社が破綻したというのならば、それは、当該企業の問題である。しかし、五分の一に相当する企業が破綻する場合、前提に間違いがあると思った方が妥当である。三分の一の企業が破綻した場合は、構造に問題があると思われる。過半数の企業が破綻したら明らかに制度に欠陥がある。

 金融業界や自動車産業が好例である。リーマンの破綻に端を発した金融危機によってアメリカの五大投資銀行は、姿を消した。その金融危機のあおりを受け、アメリカのビックスリーが苦境に立たされ、GMとクライスラーは、事実上破綻した。
 金融業界や自動車業界の現状を個々の企業固有の問題だと還元、割り切ってしまうと物事の本質が見えてこなくなる。かといって、自動車業界や金融業界は不要な業界だと決め付けるのは短絡的すぎる。

 現在進行中の経済危機が解決できない原因は、問題認識の間違いにある。第一に言えるのは、現在の市場経済は、長期均衡を前提とした体制なのに、短期均衡を前提とした施策を採っている。第二に、不良債権の問題点は、名目的価値、即ち、債務と実質的価値、即ち、債権の乖離から生じているのに、実質的価値だけの問題と誤認していることである。

 資産も、負債も、資本も長期均衡を前提とした法則に基づいて構成されている。そして、損益は、長期的均衡を前提としたから成立したのである。

 長期借入金よりも短期借入金の多い金融機関は、倦厭すべきだと、世界的に著名な投資家であるバフェットは言っている。(「バフェットの財務諸表を読む力」メアリー・バフェット デビット・クラーク共著 峯村利哉著 徳間書店)
 バフェットは、長期資金を借り入れして短期資金で運用した場合、即ち、「資金の繰りまわし(ロールオーバー・ザ・デッド)」長短の金利が逆転した時に、資金が廻らなくなることを示唆している。実際、多くの企業は、不況の時に、業績の悪化を理由に、長期資金の元本の返済を要求されて破綻している。
 短期資金、長期資金、そして、資本の持つ違いをよく理解しておく必要がある。短期資金というのは、短期的な変動や運転に必要な資金である。それに対して、長期資金というのは、基礎的資金である。
 長期資金というのは、短期の運用を目的とせず。長期に寝かせておく資金でもある。その際たるものが資本である。資本と長期借入の違いは、資本は、返済を請求される資金ではないのに、長期借入は基本的に返済を前提とした資金だという点である。
 また、金利は短期的な変動と長期的な変動の違った波があり、高金利時に借り入れた固定金利は、金利が低くなると逆ざやが生じ、低金利時に貸し出した金利は、金利が高くなると逆ざやが生じる。長期的にこれらの金利差が均衡する場合は良いが、均衡できない時は、経営を継続することが困難になる。
 長期的展望を持たずに、目先の変化をに惑わされれば危うい。しかし、それが現在の市場経済である。

 借入資金は、その目的によって初期投資資金、運転資金、設備投資資金、仕入れ資金、更新資金、借り換え資金などがある。また、返済期間によって長期資金と短期資金とに分類される。また、借入金は、金利部分と元本の返済部分に区分される。

 かつて日本は、個々の資金需要の性格に合わせて金融業界を構造的に組み立てていた。電力や鉄鋼と言った巨額な長期資金や先行投資を必要とする産業には、長期信用銀行を大手の産業には都市銀行を地域の中堅企業には、地銀を、零細企業には、信用組合や信用金庫というようにである。また、好況時や不況時に応じて金融政策や融資基準を設定し、変更してきた。
 長期的国家観や産業観、事業観、展望に基づいて金融行政や金融機関の経営をしてきた。ところが、時代を経るにつれ当初の国家観や産業観、事業観が色褪せ、長期的展望が建てられなくなった。それでありながら、新たな国家観や産業観、事業観が打ち立てられないでいる。それ故に、国家観や事業観によって金融市場を再構築できないのである。それが、現在の混乱の最大の原因である。経済危機の背景として金融危機が存在するのは、金融制度の硬直性にある。

 長期借入金の原資は、減価償却費と税引き後利益から捻出する以外にない。それに該当する資金は、内部留保資金に求められるが、会計制度や税制度では、内部留保の中に元本の返済資金は認められていない。元本の返済資金は、減価償却によって賄われるが、非償却資産、即ち、不動産の元本の返済資金は、減価償却資金に含まれていない。また、利益処分上も認められない。故に、不動産の返済資金は、資本に求める以外にない。また、資産が売却された時は、その期の損益に反映される。利益が上がった時は、利益に加算され課税対象とされる。

 そもそも、継続を前提とした企業を短期実績だけで評価すべきではない。その為に損益の基準があるのである。損益の基準は、黒字が常態であることを想定しているわけではない。損益の均衡を前提としているのである。
 問題は、損失の原因、内容である。何が原因で赤字になったのか、それは一時的なものなのか産業目的や長期的展望に立った判定が重要なのである。

 経済の歪みは会計制度の歪みに表れる。会計制度の歪みは、経済に反映される。会計制度の歪みは財務諸表に表れる。

 バブル崩壊後、日本の多くの企業は、過剰債務、過剰設備、過剰雇用に陥ったと言われる。しかし、これは結果論である。資産価値が下落すると相対的に債務は、過剰になる。なぜならば、債務は名目的な価値で表示され、資産は、実質的価値で表示されるからである。

 物価の上昇は、名目的価値を押し上げ、物価の下落は、実質的価値を押し下げる効果がある。

 名目的債務を裏付ける働きをしている資産の貨幣価値は、乱高下するのに対し、名目的債務は、額面で動く。
 いくら不良債権が処理されても借金(名目的債務)が減るわけではない。名目的債務は、借入金が返済されてはじめて解消される。その借入金の返済原資は、収益によって為されなければならない。借入金の返済を借入金に頼る間は、むしろ債務の残高は、累積するのである。

 いくら不良債権が処理されても借金(名目的債務)が減るわけではない。名目的債務は、借入金が返済されてはじめて解消される。その借入金の返済原資は、収益によって為されなければならない。借入金の返済を借入金に頼る間は、むしろ債務の残高は、累積するのである。
 名目的債務の性格を理解することである。
 名目的債務を裏付ける働きをしている資産の貨幣価値は、乱高下するのに対し、名目的債務は、額面で動く。

 実物市場が資金を吸収できなくなっているのが問題なのである。実物市場で資金が吸収できずに金融市場に洪水のように溢れ出し、実体経済に破壊的な作用を及ぼしているのである。

 実物市場で、重要なのは、価格である。適正な価格の維持こそ重要なのである。

 生活に必要な物資、財が満たされていれば、経済は成り立つはずである。それなのに経済が成立しなくなったとしたら、或いは、円滑に機能しなくなったら、それは、通貨の問題である。
 通貨の役割は、物と人との仲立ちである。つまり、貨幣に求められる必要な物資や財を、必要な時、必要なだけ、必要とする人に分配する仲介をすることである。その機能を逸脱してしまうことによって本来の機能を貨幣が果たせなくなり、経済が混乱するのである。
 重要なことは、貨幣は、名目的な価値を表示する物だという点である。その名目的な価値が実質的価値から乖離し、それ自体が固有の働きをすることにある。

 現代市場経済、貨幣経済とそれ以前の経済の違いは、信用制度を基盤としているかどうかにある。
 現代貨幣経済が成立したのは、信用制度が確立されたからである。その決定的な差は、借金にある。信用制度が確立され期間損益が成立する以前は、現金主義経済であった。その違いは、借金にある。

 信用制度が確立された以後の世界と、それ以前の世界では、所有に対する認識の質が変化した。極端に言えば、所有権が、借用権に近い性格のものに変質したと言える。過去においても物質的な物は、借り物にすぎないと言う思想はあった。自分の肉体ですら神からの借り物に過ぎないと言う思想、観念である。しかし、それはあくまでも観念上の物で、実質的な物ではなかった。ところが、貨幣経済が深化すると貨幣に価値が還元され、それによって全ての経済的な価値は借用によって成り立つという考え方に実務的に支配されるようになる。

 情報の非対称性によって与信には限界がある。その為に、信用に制限が加えられる。信用制度を土台とした市場では、その信用制限は、借金、即ち、負債の限度を意味する。負債の限度は、将来の所得、或いは、担保する物や権利、債権に基づいて設定される。

 期間損益主義が確立する以前、現金主義時代では、貨幣は、土地や資産を取得、或いは交換するための手段に過ぎなかった。それが期間損益が確立されると全ての市場価値の基盤に借金が存在することになる。この借金の裏付けとして貨幣価値が存在することになるのである。この様な現象は、近代貨幣、即ち、表象貨幣、紙幣と紙幣が表示する名目的貨幣価値の性格によって形作られた。

 事業をはじめるにしても、清算するにしても、現金主義の時代は、比較的簡単な処理で片付いた。過大な借金がなかったからである。やり直すことも容易であった。しかし、現代社会は、違う。債権と債務が、常に、存在し、それが前提となるからである。
 バブル崩壊後の経済がなかなか立ち直れない原因の一つにこの累積した債務(名目的貨幣価値)の圧力の問題がある。

 人間は、名目的価値に囚われる傾向がある。名目的価値は、絶対額によって表示され、尚かつ表面的、あからさまに示される具体的な数値、確定的数値、デジタルの数値だからである。それに対し実質的な価値というのは、暗示的で、表面に現れない、また、現れても不確か、移ろいやすい数値、アナログな数値である場合が多い。
 実質的貨幣価値は、相対的価値である。実質的な価値が変動しても、絶対額で表示される名目的価値は、変動しない場合がある。その為に、実質的な貨幣価値と名目的貨幣価値が乖離する危険性が生じる。

 債権の問題ばかりを優先的に処理しようとすると返済圧力だけが強くなって名目的な債務が減少しなくなる。
 債権は、実質的に認識され、債務は名目的に表示されるからである。その為に、不良債権は、清算しようとすればするほど悪化してしまうのである。不良債権を解決するためには、実体経済を名目的表示されている水準まで引き上げる必要がある。それは所得の改善以外にないのである。

 かつては、金が債務の裏付けとしてあった。現在の通貨は、その担保とする実体すらない。故に、名目的な債務を抑制するは非常に難しい。かといって金本位に復帰することは、市場規模からして混乱を引き起こすだけに終わる危険性が高い。

 貨幣価値は、相対的価値である。しかし、人間は、それを絶対的価値のように認識する傾向がある。
 市場の収縮や拡大は、相対的現象である。つまり、貨幣価値の収縮を意味する。故に、絶対価額が増減が、即、経済変動の幅を意味するわけではない。不良債権の絶対額が減ったからと言って相対的価値が減少したとは言えないのである。

 家計のバランスシートは、銀行の貸付残高の減少を意味し、資本市場から金融市場への資金移動は、銀行の借入の増加を意味する。預金は、銀行が運用を前提とした借入なのである。故に、借入が増えれば、必然的に銀行は、優良な貸出先、融資先を捜し、なければつくの出さざるをえなくなるのである。
 その一方で、市場が収縮しはじめると家計も企業も債務の圧縮にはしる。それが、債務と債権の乖離現象を引き起こすのである。
 それが過剰流動性を生む前提である。

 株主資本主義というが、リーマン・ブラザースの例が示すように、その影響は、株主だけに及ぶわけではない。金融機関や取引先、従業員、そして、地域経済や国家経済全般にその影響は及ぶのである。

 では、なぜ企業は潰れるのか。それは資金繰りがつかなくなるからである。赤字だから潰れるのではない。期間損益というのは、あくまでも名目的なものであって、企業経営が継続するか、しないかは、実質的には、資金収支によって決まる。つまり、資金の供給が停止されれば、企業は成り立たなくなるのである。後に残るのは負債である。

 破産してみると過去の利益や土地が消滅して借金だけが残っている。その様な状況に陥る。破産した者や取引先からしてみると狐に鼻をつままれたような感覚に襲われるものである。

 なぜ、その様な状況に陥るのかである。それは、債務が名目的な価値であり、債権が実質的な価値だという事と経済の基準が名目的な価値におかれているということが原因なのである。
 実質的にどんな価値があったとしても名目的に価値が表示されていなければ、表面的には無価値なのである。 

 あるべき価値がない。債務は名目的、明示的価値であるのに対し、債権は、実質的価値、暗示的価値である。故に、人々は、債権を問題にする。しかし、いくら債権を処理しても名目的な価値が変動しなければ、取り引きの決済は完了しないのである。

 例えば、地価が下落し、担保割れしたから土地を売って借金の返済に充てたとしても土地を売った収入が、借入金の額に相当しなければ、借金は残るのである。残った借金は、所得によって返済しなければならない。返済することができなければ、金融機関は、それを貸し倒れ処理しなければならない。しかし、その原資は、行き着くところ、預金なのである。預金は、名目的な価値が貯められたものである。
 この場合に、何が問題なのかというと、借金の返済は、本来、収益を基礎として為されなければならないと言うのが建前、前提である。しかし、その返済額は、収益から引かれるわけではない。つまり、費用ではない。だから、借金を返済しても収益には反映されない。ただ、借金の返済額は、収益には、反映されないが、借金を返済しようとして資産を売却したとき生じる損益は、収益に反映されるのである。
 ところが、収益が不足すると元本の返済まで求められるようになるという事である。先にも述べたように、元本の返済は、税引き後利益から捻出せざるをえない。元々、収益が不足しているところ元本の返済まで求められれば、経営は立ちいかなくなるのである。
 故に、企業が倒産する名目的原因は、収益であり、実質的原因は、資金繰りなのである。収益が改善されない限り、資金繰りは改善されず。結局、多くの企業は成り立たなくなると言う悪循環にはまりこんでしまうのである。

 現金主義の時代には、儲かったら、早く借金を返して楽になろうとする。今でも、現金主義の家計では、そうである。しかし、これが期間損益主義になると話が違ってくる。儲かったらと言って借金を返すとすぐに金が廻らなくなる。なぜなら、借金の元本の返済は、期間損益に反映されないからである。つまり、元本を返しても金利負担は減るかもしれないが、元本の返済部分は、利益に反映されない。ただ、資金的に苦しくなるだけである。

 実業にとって資産は、本来潜在的価値である。多くが売りたくても売れない物、即ち、流動性が低い物である。例えば、都心に工場があって工場の敷地の土地が高騰したとしても操業を止めるか、違う場所に移転でもしない限り、営業には無縁である。かえって、資産にかかる税や相続税の負担が増すだけである。逆に、地価が下落すると含み損になりかねない。

 不景気になると企業収益が悪化するために、金融機関は、一斉に資金を引き揚げようとする。それは債権の保全という名目だが、実際は、債権を保全することはできない。それは、貸借を毀損してしまうからである。貸借は、名目的価値で表示されているのである。いくら債権を処理しても債務は残るのである。そして、そのことによって金融機関から資金が枯渇するのである。

 重要なのは、借入金の元本部分は、ストックに相当する部分だと言う事である。金利や所得、費用というのは、本来、フローの問題だという事である。そして、通貨の流量の問題もフローの問題だという事である。フローというのは、市場の表面を流れている貨幣、通貨である。そこに広範囲に亘ってストックの部分が流れ出せば、通貨が不足する。必然的に実物市場に流れる資金が薄くなるのである。
 つまり、フローの問題がストックの問題に転化した途端、通貨の流量が不足する事態が発生するのである。つまり、名目的な「お金」は余っているのに、実質的な「お金」が不足するという事態である。

 乗数効果というのは、資金の回転によって生まれる。通常に融資行動によって利益が確保できなくなった金融機関は、資金の回転率を高めることによって利益を上げようとする。その結果がレバレッジ率を高めることになるのである。

 また、借入金の元本に対する返済資金は、純利益から調達しなければならない。所得が減っている時に、元本の返済を迫られれば、破綻をするのは必然的帰結である。つまり、潰さんが為に返済を迫るようなものである。かといって、資産を処分すれば、その利益は、所得に加算され、利益には税金が課せられる。かくして、倒産が激増し、失業が増え、所得が減少する。

 家計を例にとると通常、我々は、自分の手持ち財産を基礎にして家計を計画する。失業のしたりして所得が不足した場合は、家計を取り崩して生計を成り立たせると言う。この場合の家計は、財産を指して言う。つまり、蓄えであって借金ではない。もし、仮に日常の生計が借金を基礎としていたら、所得が不足したら一遍に破綻してしまう。
 ところが企業経営は、負債を基礎としている。故に、所得が不足すると、即、経営は危機的な状況に陥る。よく、企業の死活は、金融機関が握っているというのは、金融機関が負債を仕切っているからである。しかし、金融機関も同様である。金融機関の負債というのは、預金である。金融機関が破綻する原因は、預金の取り付けである。

 現代経済は、借金、即ち、借入金を基礎にして成り立っている。つまり、資産を基礎としているわけではない。借入金というのは、名目的な価値である。つまり、現在経済の尺度は名目的な貨幣価値である。
 負債が基礎となることによって資産価値も名目的な数値として表示される。それが貸借原則である。

 そして、最終的に行き着くのは、社会的債務である。
 社会的債務の大本は、預金と国債である。故に、預金残高と国債残高の和が社会的債務の土台となる。

 問題を解決するためには、所得を改善するか、名目的価値を減じるかしかない。名目的に価値を減らす為には、所得から資金を生み出す以外にないのである。結局、所得を改善し、実質的価値を名目的価値に近づける以外に解決策はないのである。
 そして、所得を改善するためには、市場の規律を取り戻すことが大前提である。つまり、無意味で不必要な競争を一時的に抑制し、企業の体力を取り戻すことを優先することである。

 金融機関は、預金という借入金の返済を要求されることも想定していないし、また、一斉に貸付が返済される事態を想定していない。しかし、時としてその前提が働かなくなる。その時にどの様な判断をすべきかが重要なのである。
 預金も、貸付金も、明示された貨幣価値があるという仮定の上に成り立っているものであることを忘れてはならない。また、その仮定が成り立つのは、貸付金も預金も名目的な価値に依拠しているからである。

 金融機関は、預金は、一定量の残高があること、蓄積があること、堆積があることを前提として成り立っている。つまり、一定の預金量が確保されていることを前提としている。それが一斉に返済を要求され、消失するのが取り付け騒ぎである。金融機関が一番怖れている事態である。
 一定量の預金残高を維持する事を前提とし、尚かつ、顧客の返済要求に応える為の準備資金を用意しておく事が前提となると、金融機関は、一方で一定の流動資金を確保しながら、一方で資金を運用し続けなければならない宿命にある。
 資金運用を前提とするならば、資金は、一定の量以外銀行にはないのである。いくら預金残高が銀行の決算書に記載されていると言っても、それは名目的なものであり、記載されただけの資金が金融機関にあるのではない。逆にあったら金融機関は立ちいかないのである。

 預金、金融資産、資本と言っても「お金」、現金があるわけではない。これらは名目的な価値を表示した科目である。その名目的でしかない資金がさもあるように錯覚し、或いは前提とするから、貸し渋りや貸し剥がしという行為が横行するのである。つまり、融資に向けられる資金を銀行はどれ程確保しているかが、重要なのである。見かけ上の資金が潤沢に見えても実際には資金が不足している場合もある。
 銀行にいくら預金の残高があっても、それは、貸付金として運用されているのである。その貸付金が劣化していたり、回収ができない状態に陥っていれば、実際に銀行が運用できる資金は不足するのである。また、貸し付けたくとも、企業収益が悪化していれば、優良な貸付先が見いだせなくなるのである。しかし、資金を運用しなければ、預金者に対する返済ができなくなる。その為に、資金を金融市場や資産市場で、即ち、ストック市場で運用せざるをえなくなるのである。
 この様な経済状況下では、借金の返済や預金を抑止し、消費を奨励する政策が必要となる。ところが実際には、この逆の政策がとられがちである。即ち、不良債権を処理し、預金をして、消費を控える。その為に、資金は益々市場に流れなくなる。
 バブルが崩壊した後の日本においてとられた処置が好例である。
 資金には、流れる方向がある。その流れる方向をよく見極めて政策は立てる必要があるのである。

 不良債権処理の問題を検討する際、債権の処理方法ばかりが検討されて、債権と債務の関係や市場の側の問題が取り残されている場合が多い。
 不良債権は、資産の下落が原因で発生している場合が多い。故に、資産の下落を引き起こしている市場の仕組みや債務を返済するための収益をいかに確保するかの問題が取り残されている。

 個々の企業で言えば、不良債権を処理をしても、借金は、残るのである。しかも裏付けのない借金である。後は、ただひたすらに借金の返済に追われることになる。借金の返済に追われて、新規投資の資金の余力もなくなる。
 更にそれに追い打ちを掛けるのが、景気の悪化に伴う収益力の低下である。収益によって借金を返済しなければならない時に、市場環境が悪化し、競争が激化する。或いは、市場が飽和状態になり、売上が減少する。それが企業の体力を徐々に奪っていくのである。
 金融機関にしてみれば通常の状態では融資を渋る対象ばかりになる。つまり優良な融資先が減少することになる。その為に、金融市場や資本市場、先物市場、商品相場において、手っ取り早く利益を上げようとする傾向が強くなる。それが、バブルの種になるのである。

 金融政策を問題とする際、金利のことばかりを問題とするが、現実は、資金不足が最大の問題なのである。問題なのは資金の確保、つまり借入なのである。資金繰りがつかなくなればどんな高利でも手を出しがちなのである。故に、資金繰りがつかなくなる原因は、元本の返済なのである。つまり、急に元本の返済条件を変えられたり、借り換えができなくなったっり、運転資金の手当てができなくなることなのである。新規投資の資金に困るからではない。経営活動のベース、基盤にある資金が不足することなのである。だから、貸し渋りであり、貸し剥がしなのである。

 よく負債と資本の違いは、資本は、返す必要がない資金であるのに対し、負債は、返さなければならない資金だと説明される。その返さなければならないと言う意味は、金利を指して言うわけではなく。元本部分を指して言っているのである。ところが、元本の返済に相当する部分が利益計算の上には出てこない。その為に、問題が顕在化しない。原因が掴めないのである。それによって黒字倒産、資金繰り倒産などと言う事態が発生する。

 しかも、返済に充てる資金は、市場から調達するのが原則である。その市場が、バブル崩壊時や恐慌時は、機能しなくなっているのである。

 金融危機やバブル崩壊、恐慌というのは、市場の仕組みが壊れたのであるから、先ず市場の仕組み、機能を回復することがやるべき事なのである。
 それでなくとも企業は、資産価値の下落で傷ついているのである。収益の確保が最優先である。それを資金繰りで更に痛めつけるのは愚の骨頂である。
 担保主義から収益主義へ転換し、一時的に競争を抑制して市場の規律を取り戻すことである。つまり、市場を養生させることが大切なのである。

 金融機関で固いのは、預金額である。預金額は、銀行の地盤であると同時に、負担でもあるのである。
 金融危機で最も障害となるのは、この預金の硬直性である。その為に債務残高が減少しないのである。

 預金も、借金も貨幣価値と時間の関数である。預金というのは、見方を変えると銀行の借入金なのである。預金は、預金者から見ると貨幣価値の後払いを意味する。それに対して、借金は、先払いである。預金は、流動性が高い反面、財を所有し、活用する事が後回しにされる。借金は、財を所有し、活用する事を前倒しする効果があるが、反対に流動性が低く、しかも、責務が生じる上、使用目的が硬直的になる。ただ、預金も借金も貨幣価値と時間との関数であるという点においては、同質だという点を忘れてはならない。そして、いずれも、名目的な数値として表示される。
 そして、銀行の債務を構成する大きな要素が預金なのである。つまり、預金の残高が銀行経営の鍵を握っているのである。金融危機や金融問題を検討する場合この点を見落としてはならない。つまり、貸付金残高と預金残高の均衡が問題なのである。

 産業は、一年やそこらで収益が見込めるという前提で成り立っているわけではない。儲かる時もあるし、儲からない時もある。それが大前提である。常にも受け続けなければならないという事を前提としてはいなかったはずである。そして、儲からない時は、儲からないからこそ資金を必要としている。当然金融機関からの資金を必要としているのである。その時、金融機関が、資金を供給するどころか、引き上げたらどの様な結果になるかは、明らかである。
 住宅ローンをくむ時、十年、二十年先の所得を担保とする。ローンの月々の支払は、硬直的で、一生の多くの時間をその支払に充てる。しかし、だからといって、人の一生を読み通すことはできない。一寸先は闇である。金を確実に返せるという保証はないのである。
 一生のうちには、失業したり、災害にあった時、金に困る事が、誰しもがあり得るのである。金がある時に金を融資する、それでいて、金に困っている時に金を融通せず、身包みを剥ぐのでは、悪徳と言われても仕方がない。こうなると人間が悪くなる。悪徳金貸しと言われても仕方がない。
 それは金融機関が金融機関としての使命を理解していないからである。金融機関の役割というのは、金が余っているところから金の不足しているところへ資金を融通することなのである。一時的に、しかも、原因が明らかで支払が滞ったらどうするのかである。たとえ、相手の苦境が理解できたとしても、人助けをすることが許されない仕組みになっている。だから、金融機関は、自分の役割を果たせないのである。

 人の一生もまた、時間の関数である。そして、経済の根本には、人生がある。一人一人、人の生き方がその社会の経済の在り方を決めるのである。
 そして、人と人とが助け合い、かばい合うから社会が生まれる。それが経済の大元である。生病老死。そこに経済の根源がある。

 人間の経済を考える上で重要な要素の一つが面倒を見るという事である。親や子供の面倒を見る。他人の面倒を見る。助け合うという事である。
 子供や年老いた親の面倒を見るという行為から家族が産まれ、分業が生じたのである。それが経済の原点であることを忘れてはならない。家族こそが経済の源である。その家族が解体し、ただ金銭だけに象徴される関係に堕している。それが現代の経済を危機的な状況にしているのである。経済は、「お金」ではない。状況である。経済とは生きることそのものであり、生きていくのに必要な環境を指しているのである。

 企業収益が改善しないと景気は回復しない。しかし、景気が悪くなると価格競争が激しくなる。そして、益々景気は悪化する。
 いずれにしても企業業績が改善しない限り、家計も、財政もよくならないのである。その為には適正な価格を維持できる体制をいかに構築するかが鍵を握っている。

 何を前提とするかの問題である。何を目的としているかである。

 なぜ、ここに、この産業があるのか。それが問題なのである。産業が存在するのは、ただ物を作って売るためにだけではない。物を製造し、販売する過程に経済があるのである。

 貨幣というのは、人間が生み出した物である。貨幣経済というのは、人間が生み出した貨幣の上に成り立っているのであるから、当然、貨幣経済も人間が生み出した世界である。人間は、自分達が生み出した貨幣に振り回されている。
 貨幣が必要とされるのは、貨幣の効能によるのである産業もまた、然りである。
 先ず、なぜ、何のため、誰のためにあるのかを明らかにしない限り、経済の実相は見えてこない。



                    


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