法治主義

法と道徳


 経済活動で重要なのは、道徳である。経済秩序は、道徳によって護られている。市場経済、貨幣経済は、信用を基にして成り立っている。その信用を成り立たせているのが道徳である。道徳が信じられなくなれば、信用制度は忽ちのうちに崩壊してしまう。
 個人主義、自由主義は、個々人の道徳を信用することによって成り立っている。故、個々人の経済活動に責任を持つことが個人主義、自由主義である。故に、経済秩序は、一人一人の道徳によって護られる。
 これが、個人主義、自由主義の大前提であり、鉄則である。個人主義、自由主義の大前提、鉄則でありながら、経済行為程、道徳を保つことが難しい行為はない。如何(いか)な、聖人君主といえども、事、経済の問題となると襤褸(ぼろ)を出すものである。それは、経済は、日常的な生き方に関わる事、生存に関わる問題だからである。
 この様な自由市場経済では、経済秩序を破綻させるのは、モラルハザードである。金融危機の際も、バブルの際、恐慌の際も、問題になるのは、モラルハザードである。

 経済活動でなぜ道徳を守ることが難しいか。それは、生存活動だからである。最低限生きる為に必要な資源、物資は、確保しなければならない。それも自分だけではなく、自分の家族、係累が生きていく上で必要な分を含めてである。それが正統的な手段、合法的な手段で得られないような仕組みであれば、自分達の権利を守るか、それでも世の中の仕組みに従うかの選択を迫られることになる。そこに、経済制度の持つ重要性がある。
 経済は、道徳によって維持される。しかし、その道徳は、経済の仕組みによって維持されている。この相互関係を理解しないと法と道徳は両立できない。

 戦争も経済である。戦争は、資源が自足できない地域から、資源が豊富な国に対する侵略という形で始まる。戦争とは、生存を賭けた戦いなのである。軍事力を行使しなければ自国が、生き残れないと判断すれば、戦争は起こる。誰も戦争は望んでいない。誰も望んでいない戦争が起こるのは、戦争をしなければ生き残れないところまで追いつめられるからである。それは、ある意味で経済の問題でもある。
 要は、軍事力にうったえる前に、経済的に解決する方策を模索することである。戦争が政治の延長線にあるとするならば、戦争は、経済の延長線上にも位置するのである。

 古来、商人(あきんど)に、道徳はない。商人には、道徳がないように言われてきた。しかし、商人には、商人の道徳がある。商人に道徳がないと言うのは、経済に対する蔑視が根底にある。
 哲学というのは、何も学者や世捨て人だけが生み出すものではない。商(あきない)いにも、商いの哲学が必要である。学者や世捨て人みたいな人ばかりが哲学に携わるから哲学が、学術的な哲学か、超俗的哲学、世間離れした哲学になる。
 多くの人は、商売人の道徳には、下心が見え透いていると言うが、商人には商人の考えがある。また、道徳がある。それが市場や経済を支えてきたのである。その商人の道徳が市場に規律をもたらしてきたのである。今日、市場が荒れるのは、商人に道徳がなくなったからである。

 悪いのは、経済の混乱と硬直化である。そして、経済の混乱と硬直化を招くのは、無秩序と腐敗である。
 権力の腐敗は、経済を停滞させ、崩壊させる。それは、政治的権力に限らない。経済的権力も同様である。政治的権力の腐敗を招くのは、独裁であり、経済的権力の腐敗を招くのは、独占である。

 反権力主義者は、国家権力は悪だと言うが国家権力に従わない権力が存在することの方が恐ろしい。その権力が闇の勢力であったらなお恐ろしい。反権力者を標榜する者の多くが、何等かの闇の権力と結びついている。そして、反権力主義者の多くは、現権力を倒した後に自分が権力を掌握しようと企んでいるのである。

 価値観の変化は経済に決定的な影響を及ぼす。
 世の中が、快楽主義的、刹那主義的になれば、消費欲が高まるであろうし、勤労的、禁欲的になれば消費欲は低下する。

 独身者の結婚に対する価値観は、経済に決定的な影響を与える。結婚は、家族間でもあり、育児思想にもは進展する。少子化対策と言うが、ただ、保育園や幼稚園を増やしたとしても解決できるわけではない。独身者、未婚者の意識、思想が変わったのだから、彼等の考え方を変えない限り解決には至らないのである。

 問題は、一つの方向に偏ることである。株に対して素人で、所得の低いメイドや靴磨きまでが株式投資をした。だから、バブルが発生したのである。それは、その時代の価値観に影響されている。そして、その価値観を醸成したのも市場の雰囲気、熱狂なのである。しかし、それは根拠なき熱狂に繋がる。
 反対に、将来に希望が持てなくなれば、消費者の紐は堅くなる。大事なことは、景気の変動に左右されないような堅牢な思想を国民が持てるかどうかである。そして、その根幹となる倫理観に基づく社会体制が築けるかである。

 また、人々の価値観を左右する要素の一つが宗教である事を念頭に置く必要がある。経済に与える宗教の力を無視してはならない。宗教は、経済的価値観に確固たる核を形成する。そして、それは、社会の隅々にまで浸透するのである。必然的に社会の仕組みの原理を構成するようになる。

 社会の制度と人間の価値観は、相互に影響し合って形成される。例えば、年金制度や失業保険制度が整っていると人間は、貯蓄よりも消費を優先的に考えるようになる。また、安定した収入が確保されるようになると長期の借入を考えるようになる。それは信用制度の根本になる。

 モラルハザードとセーフティネットの相関関係が認められる。社会の安全装置がなければ、人間は、不安から不正を働くようになる。しかし、社会の安全装置が働きすぎると自制心が失われる。何れも、モラルハザードを引き起こすと言われるのである。

 根本にあるのは人間性の問題である。人としてどうあるべきか。それが見失われた時、法も制度も形骸化してしまう。
 本来、経済は、人と人との取引、交流によって成り立つものである。今日、人間の裁量の余地を全く認めようとしない。主観的な判断は、悪だとする。しかし、人を裁くのは、所詮人間なのである。
 最終的には、人と人との信頼関係がなければ人間の社会は維持できないのである。だからこそ教育が必要とされる。教育の根本も社会思想である。その社会思想そのものを問題せずに、法や制度、そして、経済の問題を議論することが間違っているのである。

 義のない行いは、罪である。義もなく、ただ金儲けのためだけに利益を追求することは、それ自体罪である。大切なの事は、なぜと、問うことである。
 今、人類は、人類の理性、道徳を問われている。戦争、環境、資源、食料、人口どの問題一つとっても人類の未来がかかる大問題である。しかも、全てにおいて人類の英知が問われているのである。
 しかも、全てにおいて経済が絡んでいる。全てが経済問題であると言っても過言ではない。つまり、人間は、経済において、理性的であること、道徳的であること、そして、自制することを求められているのである。そこに法の根源がある。
 法は観念ではない、現実である。人間の現実的な罪を前提としている。問題は、その罪の意味なのである。
 人間の罪は、どこから来るのかである。人間の罪は欲から来るものなのか。虚栄心から来るのか。貧困の為せる業(わざ)なのか。悪魔の誘惑なのか。それを抑制できない、なにものかによるのか。そして、人間の罪をどう裁くのか。罪の根源にある人間という存在、それこそが、法の本質的な問題なのである。
 金融危機で問われているのは、人間の道義心である。金の多寡ではない。自分の行為が善であるか、悪であるかである。それは、メフィストーフェレスの独白でもある。誘惑に負けるか否かは、自分の心に問うべき事なのである。

 人間の欲望は、際限がないと言われる。しかし、人間の欲望にも限界はある。一つは、生理的な欲望は、生理的に充足すれば自ずと解消される。二つ目に、観念的な欲望である。観念的欲望は、際限なく見える。しかし、それも人間の意識、認識の範囲内に限定される。何れにしても、人間の欲望にも、限界がある。そして、欲望が充足した時、人間の欲求は、飽和的状況になる。それ以上に財を生産しても消化されずに市場に滞留することになるのである。
 人は、飢えている時は、ガツガツと何でも食べる。しかし、満腹になるとどんなに美味しい物を目の前にぶら下げられても見向きもしないのである。そして、一定の時間が経つとまた空腹になる。その周期が需要と供給のバランスの周期を生み出す。これが、最短の経済周期である。つまり、経済の周期は、一日の中にも食事の回数だけで発生している。

 この様な周期的な運動は、自然の規則やリズムの基となる。この様な規則の他に人間が作り出す規則がある。それが法である。
 経済は、この二つの規則、つまり、自然に作られる規則と人間が作り出す規則の二つの規則によって制約される。
 この二つの規則は、似て非なる性格を持つ。しかし、時として、この二つの規則は混同され、また、都合良く、あるいは、便宜的に使い分けられる。
 人間の世の中の法を自然の法則と同一の働きとして捉えたり、百パーセント、恣意的な働きだと決め付けてしまう。しかし、生理的な働きに基づく規則と人間が恣意的に作り出した規則とは、その働いている次元が違うのである。

 経済は、市場が全てではない。経済を構成する要素は、共同体としての経済主体と、市場である。経済単位の内側を内部経済とすると市場は外部経済である。外部経済である市場は、非倫理的世界である。つまり、不道徳な世界である。そこでは、金と法が支配している。
 経済は市場だけで出来ているわけではない。市場は、不道徳な世界である。しかし、経済主体の内部は道徳的世界である。しかも、不道徳な世界である市場と道徳的世界である経済主体とは補完的関係にある。故に、経済は不道徳な世界ではない。

 労働市場と言うが、労働は、完全に商品化されているわけではない。むしろ、労働に対する評価は、組織化される傾向にあり、市場化からは逆方向にある。それが最大の問題なのである。労働は、要素化され、価格化されてはいるわけではない。労働に対する評価は、多分に人間くさい、属人的な要素に支配されたものである。さもなければ、労働意欲や志気モラルなど保てないのである。

 現代の経済学者は、法を尊重するといいながら、遵法精神を前提としていない法学者のようなものである。
 それは、経済学が経済的道徳を前提としていないからである。人間は、経済学が設定としているような功利主義的存在ではない。人間は、経済においても道義的存在である。ただ、その道義的基準が信じるものによって違うのである。

 法さえ守っていれば何をしてもいいという考え方が横行している。確かに、道徳的には問題があるかもしれないが、違法行為ではないのだから許されるではないかという考え方に通じる。しかし、それは信用制度の根幹を揺るがす発想である。
 その様な前提に立つ者は、法治主義本来の考え方を理解していないのである。

 内的規範は善悪の基準、即ち、道徳であり、外的規範は、賞罰の基準、即ち、法である。内面の規範と外的規範は、相互に補完的関係にある。どちらか一方だけでも成り立たない。現代社会は、内外双方の規範を前提として成り立っている。
 道徳と法の相互作用によって国家は形成されていくのである。
 ただ、内的規範は、主体的なものであるから国家はこれに介入しないと言うのが原則だと言う事であり、内面の規範がなくても善いという事を意味するのではない。個人の思想・信条を尊重し、そのうえで、個人の道徳律を信じるからである。罰則に対する恐怖を前提として成り立っているわけではない。
 基本的には人間一人一人の持つ道徳観を基礎とし、そのうえに国民的合意によって社会の規範法を定めるというのが法治主義の大前提である。
 個人の道徳に信を置かなければ成り立たないのが、個人主義社会の法体系である。
 経済もまた然りである。国民一人一人の道徳観に対して信を置いているから経済は成り立つのである。それが信用制度である。

 国民一人一人に道徳、規範が信用できなければ、経済制度は成り立たない。契約や約束がその典型である。約束や契約が信用できなければ、経済は成り立たないのである。契約や約束を守るのは、契約や約束を破ったとき科せられる罰を畏れるからではない。個人の思想、信条を信じるからである。その思想。信条の根拠としてイデアやコモンセンスのような概念を置くかどうかは、問題ではない。つまり、何を信じるかではなく。何に従うのみを問題としているのである。一人一人の倫理観を前提としているのである。
 もし仮に、個人のの倫理観に信をおけないとしたら、どんな綺麗事を言っても、厳罰主義にならざるをえない。法を維持できるのは、罰以外期待できなくなるからである。
 同様に、経済に対する道徳を前提としなければ、経済秩序を維持することは出来ない。利己心だけで市場の規律が保たれると思い込むのは、傲慢なことである。

 この点に関して、日本人の姿勢は、どちらにしても中途半端である。倫理観というのは、常識や良識というのとも違う。明確な価値基準である。また、罰則というのは、罰を前提としている。罰則を言うのならば、根拠なく、例えて言えば可哀相と言った情緒的な根拠ではなく。根本的な思想に基づく手続でなければならない。

 法の根源は、神にある。それは、人間存在にあるからである。しかし、神は、無分別な存在である。善悪の基準は、相対的であり、神は絶対的存在だからである。故に、善悪の判断の基準は、人間の側にある。善悪の基準は、人間の合意に基づく。それは、神との契約によって普遍化される。それ故に、手続が必要であり、重要なのである。

 つまり、法を守ろうという意志は、神を本源とする。その意志に基づいて法や掟を定める。法を守ろうという意志があって。法ははじめてその効力を発揮する。誰も守ろうとしない法は、効力を発揮しない。それが法治主義である。

 犯罪は、法によって作られる。法がなければ犯罪は成立しない。それが法治主義である。そして、法は権力によって守られる。権力は、唯一公的に認められた暴力である。権力の正統性は、建国の理念、国家理念に基づく。宗教的権威に基づく国家は、神に、君主制は、血統に、国民国家は、国民の意志に正統性が求められる。正統性は、手続によって証明され、儀式によって知らしめられる。

 法は、倫理観によって裏付けられ、倫理観は、法によって強化される。法は、倫理観によって形成され、倫理観は、法によって矯正させる。法は、倫理観によって変革され、倫理観は、法によって正される。

 法の単位は、国家であり、国家には一つの法体系しか認められない。逆に言えば、法の数が国家の数を決める。法は、論理である。法は、定義による。法は、言葉で表された命題である。現代の法は、成文化されたものである。

 法は、定義である。定義は、複数の命題によってなる。科学の定義は、自明なるものに基づく。しかし、法の命題は、基本的に任意なものである。

 法は、ルールの問題(会計、スポーツ)である。規則が定まることによって社会的空間は、成立する。ルールは、認識の問題である。それ故に、相対的である。法は、絶対的な物ではない。絶対的なのは、その背後にある法の本源、国民国家であれば国民の意志である。

 その根源にあるのは、国家、国民の在り方に対する構想である。

 多くの日本人は、近代国家や近代文明は、神の否定の上になりたっていると錯覚している。それは、違う。神を信じるが、故に、近代国家も近代文明も成り立ちうるのである。なぜならば、神を信じることは、人間を信じる事だからである。神がファウストを信じたようにである。

 法は、法のみで成立するものではない。国民国家における法は、国家と国民に対する信によって成り立っている。国家、国民に対する信がなければ法は成り立たないのである。それは、国民国家が、国民の道徳心に依拠した体制だからである。それが個人主義の本質でもある。





                    


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