法治主義


法による方向性


 法は、人間一人一人の価値観に作用して、人間の行動を方向付ける働きがある。
 故に、法や規則によって人の行動を一定の方向に流れるように仕組むことが可能である。それがベクトル、方向性である。

 行動を制約するのが、法や規則の働きである。法や規則は、場に働く力である。

 要は、方向性の問題である。人間の行動は、当事者が得だと思う方に流れ、損だと思う方向を避ける。

 財政赤字が問題になると決まって官僚機構の不効率性が問題になる。また、共産主義体制の崩壊も突き詰めてみると官僚制度の欠陥に至る。しかし、それでも官僚制度は健在である。なぜ、多くの欠陥が指摘されながらも官僚制度は、健在なのであろうか。
 それは、官僚機構を規制する法の影響、方向性にある。その最も重要な部分は、経済や組織に対する規制である。

 お役所仕事という言葉がある。何でもかんでも民営化してしまえと民営化ばやりである。役所の仕事は、不効率で、採算がとれないという事である。
 しかし、なぜ、公共団体は、不効率で不採算な仕事しかできないのかの原因は問題とされていない。
 人間性とか、道徳観の問題にすり替えている場合さえある。しかし、役人というのは、生まれついた時から役人根性を持っているのであろうか。また、欠陥人間ばかりが官僚になるわけではない。むしろ官僚というのは、選び抜かれたエリート集団である。また、欲得ずくだけで官僚になれるわけでもない。
 なぜ、民間人と役人とでは、価値観に相違が生じるのかについては、何も検討されていない。となると、これは一種の差別である。
 重要なのは、官僚機構というのは、収益や採算に基づいて動機付けされているのではなく。予算によって動機付けられているという事である。

 また、予算の財源である税というのは反対給付がない収入である。故に、税の使い道に対しても無責任になりがちなのである。なぜならば、税の使い道を評価する仕組みが存在しないからである。そして、税の使い道に対する監視機関が機能しなければ、既得権益に結びつき利権の温床となる。

 官僚は、予算を消化する方向にインセンティブされており、民間人は、利益を上げる方向にインセンティブを見出す。その様に仕組まれているのである。

 勘違いしてはならないのは、官僚組織も一個の独立した共同体だと言う事である。つまり、運命や生活を共有した集団だと言う事である。
 共同体というのは強固な組織であり、対抗する集団を弱体化させるためには、共同体制を削ぐことが最も効果的なのである。この点は、国家組織と雖も同様である。
 しかも、国家組織というのは、内部に組合のような反体制的な組織をも包含しているという事である。その為に、権力抗争は複雑の様相を呈する。それぞれが自分の組織の温存を計るように活動するからである。
 共同体の構成員は、運命も生活も共有する組織に忠誠を誓う。その為に、かつての軍部のように、国家を危機に陥れても組織を守ろうとする。官僚機構も本来は国家機関であるが、官僚機構の利益を優先する傾向がある。それは、その内部に働いている力の方向性に依るのである。

 官僚制度の特徴は、第一に、規則にある。先ず、官僚は、国家公務員法、地方公務員法と言った法に依って支配されている。支配されていると言っても同時に保護されている。
 第二に、規則や法を裏付ける手続によって統制されている。第三に、手続を構成する文書による管理である。第四に、予算による管理である。
 また、第五に、上意下達の縦割りな組織である。そして、縦割りの組織は、ヒエラルヒー、ピラミッド型の組織に集約される。
 第六に専業制である。一定の権限の範囲で職務、職権が確定しているという点である。
 第七に、資格任用制度である。第八に、横並びの評価である。第九に、身分保証がされていて、倒産することがないという事である。

 この様な組織の在り方が官僚の内的規範を形成する。つまり、意思決定や行動の方向性を規定するのである。 

 官僚機関というのは内向きな組織である。本来、国家国民に目を向けるべきところが、国家国民による直接的な支配を受けていない、つまり、自分の働きの評価は、官僚組織が、組織のない気に基づいて下すために、組織内部の評判を一番に優先するように内的な力が働く。しかも官僚組織は、自己完結的な組織である。結果的に、官僚機関は、自律的で閉鎖的な組織になる。
 また、必然的に保守的な組織である。減点主義的な組織である。ただし、減点主義というのは、余計なことをした場合に関してである。その為に、官僚は、どうしても保身になる。結果的に、事なかれ主義、日和見主義が蔓延する。
 自分の権限の獲得、権益の拡大を最優先に計るようになる。当然、既得権益に固執する。

 また、権限や権益の源、裏付けとなる権威、権力を重視する結果、権威主義的、権力主義的になる。高級官僚には、エリート、選ばれた者意識が強い。それは、国家を統治する物、支配するものという権力意識から生まれる。

 国家の根源は、公式に認められた暴力である。つまり、権力である。国民国家において権力は、法によって実現し、軍と警察によって実現する。それ故に、官力機構の働きを保証する力は、権力から発現する。必然的に官僚は、権力志向となる。権力は、力によって維持される。力を維持するために、権力者は、何よりも強大であろうとする。
 故に、官僚機構は、スケールメリットを常に追求する。つまり、官僚機構にとって大きいことはいいことなのである。しかし、行政には、地域に密着した仕事と、国家、世界に向けた仕事の両面がある。それを両立しようとすれば、ただ規模を拡大すればいいという事にはならない。

 官僚機構では、決められた事をやればいい。決められた事をやればいいと言うよりも決められた事以外はやってはならない。その為に、官僚は、予め定められて範囲内でしか自分の行動を決することは出来ない。実際にやってみたら明らかに間違いだと判明しても独自の判断で変更することは出来ない。その為に、決められた事を忠実に実行したかどうかが問題とされ、その結果は、二の次になる。故に、官僚の仕事は、実績と評価が結びつかないのである。その反面、決められた事、即ち、条文の解釈には、長けることとなる。そして、客観的に見ると勝手に解釈、また、実体に合わない、現実離れした解釈をして自分達に都合の良いように決定事項を歪曲してしまう場合がある。また、こった条文を作ることが得意にもなる。
 更に、一度決めた事は、なかなか改正できない。特に、それが、既得権、利権と結びついている場合は、変更できない。
 所謂天下り問題の本質も官僚機構に内在化されている。

 特に、日本では、予算が既得権益化している。予算を使い切らないと次年度の予算が付かなくなる。そうなると、予算を使い切ることが一つの動機付けになる。こうなると経費の削減は空文化する。しかも、予算における各省の比率は、ほとんど確定していた時期もある。

 国家に経営と言う思想はない。むしろ経営的思想を卑しむ傾向がある。国家、国民は経営する者ではなく、統治するものというのが暗黙の前提としてある。統治、統制するためには、集権的である方が都合が良い。国家は、集権的な体制をとろうとする。単一で単純な機構の方が操作しやすいからである。つまり、力で抑え込んだ方が、国は統治しやすい。その為にも権力志向になりやすい。
 
 民間企業で事業に失敗すれば、全てを失う。それこそ、身包み剥がされるのである。しかし、公共事業において、失敗しても責任を問われることはない。よしんば、責任を問われたとしても、全財産を没収されると言うことはない。特に、経営で失敗をしても責任は問われない。責任を問われないどころか同情されるのがおちである。それは、国家には、統治という思想は、あっても経営という思想がないからである。
 経営という思想を受け容れることは、利益という思想を受け容れることである。

 官僚制度というのは、国家機関であり、国家の役割、機能を現実に執行する部分である。その官僚制度が、皮肉なことに、国家を破綻させてしまう。それは、国家機関である官僚制度が国家を代表しなくなるからである。つまり、国家、国民の要望や実体から乖離し、官僚機関という自分達の組織のためにしか機能しなくなるからである。国家を基礎とし、国家によって成り立っている官僚制度という仕組みが、あたかも国家に規制するようになる。癌細胞のようになって国家を蝕むようになる。それが、国家滅亡の最大の原因である。
 しかし。それは個々の官僚が悪いのではなく。官僚機関の基礎にある行動規範の方向性に問題があるのである。官僚一人一人は、最善の選択をしても根本の価値基準が、組織本来の目的と矛盾していれば、結果的に、目的に反することになる。現在の官僚組織の価値基準、また、それに基づいて構築された制度では、費用対効果という発想は生まれない。せいぜいいって予算の適正化である。その為に、官僚機構の自己増殖を止めることは困難であり、また、財政の膨張を抑制するのも難しい。第一に、経営という思想が根底からないのである。

 重要なことは、ただ、財政の問題も景気の問題も解決しようとしても、その根底に流れている規範の方向性を合目的的に正さなければ解決できないということなのである。
 その為には、経営という思想を官僚機構に持たせる必要がある。それは、与えられた範囲内の権限ではない。責任に裏付けられた権限を持たせることなのである。元来、権限と責任は、作用反作用、表裏の関係にある。責任のない権限は、それだけ実効力を持たない。

 官僚が官僚制度を自分達の力で変えようとしなければ、早晩外部の力によって倒されることになる。それが革命である。あるいは、内部に自壊する。巨大過ぎる組織は、自分の組織を管理機構の重さ、負担に耐えられなくなるのである。
 問題なのは、その時、国家・国民も巻き添えにされるという事である。

 我々は、年金制度を問題にする前に、自分達の国をどうするかを考える必要がある。自分達が、自分達を生み育ててくれた人々にどう報いるのかを考えずにただ制度の議論ばかりをしても本末の転倒に過ぎない。

 仏を作っても魂をこめていないのである。






                    


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