幸せの基準(消費は文化である)


 経済とは、生活である。即ち、経済とは、生きる為の活動である。生きる為に人は、生産をし、消費をする。人間は、生きるために必要な糧を獲得しなければ生きていけないのである。
 人間は、社会的動物である。人間は一人では生きていけない。人間が、社会生活を営むことを前提とすれば、生きていく為には、労働と分配が生きていく上では不可欠な要素となる。経済は、生きる為の活動だと定義すれば、生産と消費、労働と分配が、経済の根本だと言う事にとなる。

 人は、生きる為に、必要な活動をしなければならない。それが生活である。自由経済では、生きていく為に必要な財や用役を市場から調達することを前提とする。そして、市場から生きていく為に必要な物を調達する手段は、交換である。貨幣経済では、交換の手段は、貨幣である。
 生活に必要な生産財を交換手段である貨幣を用いて市場から調達する体制が自由主義体制である。
 市場経済、貨幣経済を前提とする資本主義体制では、人は、自分が所有する資本を投資することで、交換手段である所得を得る。資本とは、生産手段であり、資本には、物的資本、人的資本、貨幣的資本がある。

 人間は、生きる為には、消費しなければならない。つまり、消費は、生きる為の活動である。消費は、生きる為の目的ではないが、生きる為に不可欠な行為である。つまり、消費とは生きることなのである。だから、消費は人間の生きる在り方に密接に関わっている。人間の生き方は、文化を生み出した。人間の生き方、消費の仕方は、即ち、文化なのである。
 物的生産手段とは、土地や原料、機械、設備等をいう。人的生産手段とは、労働力をいう。貨幣的生産手段とは、貨幣その物と貨幣から派生的に生み出された証券や債券と言った物やそれが意味する対象をいう。

 人間には、人生がある。人間の一生は、画一的な過程ではない。また、人間には、一人一人、別々の生活がある。生活の在り方を統一することはできない。
 かつて、共産主義国の中には、国民の着る服を統一した国があった。しかし、その様なことは長続きしない。同一にしようとすればするほど、違いが際立ってしまうのである。

 国民国家におれる国民経済は、国民一人一人の人生計画や生活設計の集合の上に成り立っている。国民一人一人の人生計画や生活設計を尊重し、かつそれを支援することが、経済の民主主義の本質なのである。上から、画一的な人生や生活を押し付けることでは、経済の民主主義は成り立たない。

 経済は、生きる為の活動である。故に、経済の目的は、生きる目的である。人間の生きる目的とは、自己実現、幸福になることである。故に、経済の目的とは、人々を幸福にすることである。

 消費は文化である。

 現代の資本主義は、物質的な豊かさを追求する事を専らとしている。精神的な幸せを追求しているわけではない。幸福は、物質的な豊かさが実現すれば実現すると考えているのである。しかし、本当に物質的に豊かになりさえすれば幸せは実現できるのであろうか。幸せの本質とは何であろうか。

 幸せの本質とは、自己実現あると思う。自分が望む自分の状態が実現した時、人は幸福感を得ることができるのである。むろん、物質的に恵まれることに自己を見出す者は、物質的な豊かさが実現した時に幸せになれるのだろう。しかし、そう言う人ばかりとは限らない。自己実現という点からすればある種の達成感によって幸せは実現されるのであろう。そして、逆に、喪失感によって不幸になるのだと言える。

 現代社会は、豊かさを基準としている。豊かさを実現するために、あらゆる事を現代社会では犠牲としようとしている。家族も、友人も、愛情すらも犠牲にして、ひたすら、物質的な豊かさだけを追求しようとしている。しかし、豊かさだけでは人を幸せにすることはできない。
 経済の本来の目的は、豊かさではなく、幸せ、幸福である。いくら物質的に恵まれても幸せになれなければ意味がない。現代人は、幸せの意味を見失いつつある。

 物質的に豊かになったとしても物質的に豊かになる過程で失うものや犠牲にしたものが多ければ、喪失感の方がまさると、私は、考える。

 大都会の孤独死が問題となっている。東京のような人口が密集した地域で、孤独に死んでいく人達が後を絶たない。
 福利厚生というと、設備や建物、制度ばかりが問題とされている。人間としての価値観や、文化が蔑ろにされている。つまり、精神的な問題が置き去りにされているのである。それは道徳の問題である。

 年老いた時に、物質的にはなに不自由ない生活が保証されているとしても、それだけで、幸せな晩年をおくれるといえるだろうか。ただ設備や建物を充実すれば、幸せは実現できると考えているのであろうか。
 たとえ、設備が充実していたとしても、家族から切り離されて幸せだと言えるだろうか。誰からも相手にされずに孤独に死んでいく人生を人間は、望んでいるのであろうか。

 第二次世界大戦直後の日本は、食料も物資も窮乏していた。しかし、多くの企業は復員してきた人間を解雇することなく。共に助け合って生きていこうと懸命の努力を続けた。今日、確かに、物質的には豊かになった。しかし、企業業績が悪化すると安易に人員を削減し、業績を向上させようとする。一体、どちらが経済的なのであろうか。

 戦後生まれの日本人である我々の世代は、本当に恵まれてきた。幸せであった。しかし、どれだけの日本人がそれを実感しているだろうか。幸、不幸は、自分の心の中にある。食べ物がない時代は何を食べても美味しく感じたのに、飽食の時代といわれる現代、人は貪欲に美食を競う。足らざるは、貧なり。そして、テレビでは、グルメ番組が全盛である。それを平和というのだろうか。
 しかし、我々が享受する豊かさの背後には、我々を豊かにするために犠牲になった多くの人達が居た事を忘れてはならない。

 我々は、自分達の幸せな状況を孫子の時代に残していけるだろうか。それとも、自分達の貪欲によって子供達の幸せまで費やしてしまうのであろうか。

 仮に物質的な豊かさが幸せになるための必要条件としたとしても、それを量だけで測ろうとするのは間違いである。
 貨幣経済に偏すると犯す過ちのもう一つが、全てを量によって測ろうとすることである。幸せは、数字では表しきれないものである。しかし、貨幣は、全ての価値を量化してしまう。
 生産や消費は、量だけが問題なのではない。むしろ質が大切なのである。

 権力というのは、基本的に消費を専らとする。つまり、ある意味で社会に寄生しているのである。その点を理解しないと権力の持つ意味が理解できない。

 権力機関とは、消費を専らにする機関である。だから、権力が悪いというのではない。重要なのは、消費の向けられる方向、対象である。消費の向けられる対象や方向が創造的な方向、対象であれば問題はない。国民の福利目的のために、消費されるのならば建設的である。しかし、それが権力者の欲望を満たすために、また、特権階級の私腹を肥やすために消費されるのならば、それは、犯罪に等しい。

 権力というのは、有り様一つで暴力的にもなる。権力の消費が向けられる先が武力であれば、権力は際限なく凶暴になる。武力は国民の生命と財産を守るために行使されるものである。権力者の護衛のためにのみ武力が行使されれば、破壊的で、破滅的な力になる。

 同じ技術でも原子爆弾に活用することもできれば、原子力発電に活用することもできる。国家の消費が国民の福利に向けられるのか、それとも、暴力的なものに向けられるかの違いである。

 権力は、生産的な存在ではない。権力は、消費的な存在である。故に、権力は、抑制が効かなくなると浪費的な存在になる。その行き着くところが戦争である。権力は自制しなければならない。

 社会資本を築くために、消費されるのならばそれは有益である。社会資本というのは、インフラストラクチャーを指す。インフラストラクチャーというのは、社会的基盤である。インフラストラクチャーは、自らが自己完結的な生産手段を持たずに、他の主体に生産基盤を提供する対象である。

 年金や健康保険と言った社会生活の基盤にこそ、経済の本質は隠されている。その根本は、人間、いかに生きるべきか。即ち、人生観である。それが、経済の本質である。経済とは生きることである。

 社会資本を充実するための消費であれば、国民の福利に役立つ。その様な消費は、悪い事ではない。むしろ歓迎すべき事である。消費があってこそ生産は成り立つのである。経済の要諦は、均衡である。即ち、生産と消費、収入と支出の均衡である。

 所得と物価は、豊かさの基準である。豊かさというのは、相対的な基準である。豊かさというのは、主観的な認識によって形成される感情である。
 経済の目的は、人民の福利、即ち、幸福の実現にある。そして、幸せも相対的なものであり、主観的な感情である。幸せになるために、豊かさは、必要条件であるが、絶対条件ではない。
 豊かさは、幸せを測る物差しの一つである。しかし、幸せは、豊かさだけで計られるものではない。物質的な豊かさの度合いと、精神的な幸せの度合いは、同じ基準では測れない。
 消費は文化である。消費は、生活を基礎としている。生活は、文化の源泉である。文化は、生活水準に依拠している。故に、消費は文化によって決まる。消費の有り様は、その社会の文化の有り様を具現化した状態である。故に、消費は文化である。
 貨幣経済において消費を支える要素の一つに、負債がある。負債は、貨幣価値に時間軸を加える事によって経済的価値を増幅する。或いは、多次元的にする。負債は、金融制度に依拠している。故に、消費は、金融によって下支えされている。消費金融は、消費の基盤を形成する。消費金融制度によって貨幣経済は拡大する。また、消費文化の密度が高まることになる。
 そして、消費の構成は、社会制度や文化、風俗、習慣、環境の影響下にある。

 制度は、物価の枠組みを形成し、消費は、物価の構成を確定する。

 消費は、価値観によって決まる。貨幣経済下では、価値は、貨幣に還元される。貨幣は、貨幣価値を指し示す指標を表象化した物である。貨幣価値は、財に基づく。財の根本は、有形、無形の物である。その為に、貨幣経済下では、物質的価値が優先される。また、貨幣価値は物質的にしか評価されない。
 貨幣価値は、量的価値である。故に、貨幣経済下では、価値は、量的な評価が強くなる。質的な価値は、評価されなくなる。幸せは、量では計れない。

 消費の構成によって生活の有り様は現れる。生活は、支出の在り方によって構成される。
 第一に、地代、家賃は、長期固定的支出を形成する。第二に、家具や、家電、自動車のような耐久消費財は、周期的更新支出を形成する。被服費のような消耗品は、年間や月間といった一定の期間の固定的支出を形成する。食費や光熱費、燃費、交通費は、日々の消費を形成する。
 そして、一生を通じて必要とされる資金には、出産、育児、教育、結婚、住宅、老後資金などがある。
 また、病気、災害、事故といった不要不急の支出にも備えておく必要がある。それらは、臨時費、一時的出費、緊急時の為の蓄えとなる。
 人生にとって自己実現、人生目的も重要である。人間、何のために生きているのか、それは生き甲斐だからである。それ故に、自己への投資も大切である。
 また、たまの外食、観劇といった生きる楽しみ必要である。それは潤いだからである。趣味や道楽と言った事は、生きる喜びを与えてる。幸せは、単に生きているだけではなく。人としていかに生きるかに関わることだからである。
 そしてそれらは、遊興費、図書費、贅沢費、嗜好品を形成する。
 そして、これらの支出の構成が物価の基盤や景気の流れ、周期を形成することになる。

 消費に対する構成が、物価を構成する。消費は、生活である。

 物価は、一律には決められない。物価は、普遍的な基準ではないのである。物の価値は、市場によって決まる。市場によって決められた貨幣価値は価格になる。価格は、その時点その時点の需給によって決まる。また、市場を構成する参加者の思惑や所得に左右される。
 生鮮食料が安く、耐久消費財が極端に高い地域があれば、逆に、生鮮食料が高くて、耐久消費財が安い地域もある。和服のように、基本的に日本市場に需要が特定されている財もある。

 アメリカに比べて日本では、高率のガソリン税がかかり、ガソリンが割高となっている。しかし、日本人は、普段生活する際に、日米間の差を意識することはない。

 つまり、物価は、生活実感に基づくものであり、その場の生活様式が基礎となる。高い安いは、生活している場の環境は状態によるのである。単に所得だけで比較できる物ではない。何よりも価値観の問題である。

 イスラム教徒やヒンズー教徒、ユダヤ教徒では食べる物が違う。食べる物が違えば自ずと物価の構成も違うのである。

 住居にどれくらいの費用をかけ、着物にどれくらい出費し、余暇にどれくらい金をかけ、教育にどれ程投資し、食費にどれ程かけるか、冠婚葬祭のためにどれだけ使うかは、その人の価値観、その土地の風俗習慣、その社会の文化の有り様によって決まる。そして、それを解き明かすのが経済学なのである。欧米流の生活感や文化をもって他国に押し付けるのは間違いである。

 価格を変化させる要素が各々の財によって違ってくる。例えば、石油価格のように原油価格や為替に連動している財もある。また、労働力のような原則的に国内や地域の相場に基づく財もある。輸入品のように為替に連動している財もある。

 経済は、人口構成と職業分布、消費性向によって決まる。
 つまり、経済の基盤は、生活にあるからである。生産手段に経済の基盤があるわけではない。必要があるから、欲求があるから生産をするのである。むろん、生産力がなければ欲求は満たされない。だからといって無理矢理消費をさせるわけにはいかない。たとえ、無理矢理消費させたとしてもいつまでも続きはしない。いつかは、破綻するのである。

 物価というのは、支払い能力に依拠している。支払い能力、資金の調達力に依拠している。資金調達の基盤は、一つは、所得である。今一つは、財産、資産である。もう一つは、借入である。そして、所得は、消費、債権、債務に転換され、資金は循環される。
 所得は、収入を意味する。財産は、債権を意味する。借入は、負債、債務を意味する。この三つの要素が、貨幣経済を構成する根元的要素である。
 貨幣経済は、所得も、債権も、債務も貨幣単位として表される。貨幣単位で表されると言うことは、貨幣に還元され、通用することを意味する。それが、貨幣経済における市場経済の原則である。

 物価は、支払い能力、特に所得の範囲内で形成される。そこで重要になるのが可処分所得である。

 支払い能力というのは、言い換えると、資金の調達能力でもある。資金の調達源は、第一に、所得である。第二に、借入である。第三に、資産である。第四に蓄えである。この四つの要素を調整する事によって支払い能力は構成される。そして、支払い能力の範囲内で物価は形成される。支払い能力を支出が超えれば経済は、破綻する。破産である。逆に言えば、収支が均衡しているかぎり、とりあえず、経済は成り立つのである。

 主たる資金源は、所得である。基本的に資産の売却や蓄えは、一時的、臨時的、緊急的支出のために備えておくものである。

 日本の税制では、所得を、第一に、利子所得、第二に、配当所得、第三に、不動産所得、第四に、事業所得、第五に、給与所得、第六に、退職所得、第七に、山林所得、第八に、譲渡所得、第九に、一時所得、第十に、雑所得に分類している。

 所得には、俗に定収入と言われる固定的所得と臨時収入、一時収入と言われる変動的収入の二つがある。
 所得の定収入化が、金融を発達させた。つまり、定収入が借金の裏付けてなって金融技術は発展したと言える。金融技術というのは、借金の技術とも言える。安定した固定的収入が経済的価値を高めたのである。そして、この金融技術の発達によって物価の有り様も変化したのである。

 生産者の利益と消費者の利益をどう両立するかが重要となる。そして、それをどの様にして所得に反映するかである。

 安売りをマスコミは、奨励し、安売り業者を英雄扱いする。しかし、量販店や安売りによって市場の秩序や規律が失われ、多くの良心的な業者や製造業者が淘汰されていることに目を向けようとしない。
 価格で重要なのは、適正な価格であって。ただ安いことではない。不当に価格をつり上げて過剰な利益を上げるのは問題だが、同じくらい、不当に安売りをするのも、長い目で見た時、消費者の利益になっていない場合がある。

 2002年2月から始まったとされる景気拡大は、2007年11月まで続き、69ヶ月に及んだ。いざなぎ景気を抜いて戦後最長と言われているが、一方で実感なき好景気と言われている。それは、好景気なのは、大企業の収益だけで、大企業の収益の好転は、人員削減や合理化と輸出によってもたらされたものだからである。それは、国内の雇用や消費の拡大に必ずしも結びついていない。
 生産者の利益が消費者の利益に結びついていないのである。

 受け取る側からすれば、所得というのは、多いに超したことはない。しかし、支払う側からすれば、労働費は、費用である。費用が上昇したら、上昇しただけ価格に反映せざるをえなくなる。費用を削減しようとしたら、労働費の単価を下げるか、人員を削減するしかない。
 所得、即ち、賃金を上げれば収益が価格が上昇する。しかし、所得を減らしたり、削減すれば、需要は減退する。生産者と消費者双方の利益の均衡を保つことが市場に求められる役割なのである。

 金融の発達は、支払い能力を高めた。支払手段の選択の幅を広げた。それが現代の消費生活の幅を広げたのである。つまり、消費者金融は、消費社会のインフラストラクチャーを形成した。それでありながら、消費者金融は社会的な認知度が低い。金融というと、企業を生産的な部分だけが重要視されている。しかし、現代社会は、生産と消費との均衡の上に成り立っている。金融もまた然りである。

 特に、住宅ローンや自動車ローン、割賦販売などは、消費の在り方や生活水準その物を変え、市場の規模を劇的に変化させた。また、消費者金融の在り方は、消費に対する思想や考え方、道徳にまで影響を及ぼすことになるであろう。消費経済を考える場合、その点を充分に考慮する必要がある。

 つまり、物価を構成するのは、消費者の所得構成と分布、消費者金融、消費者の生活水準である。
 消費は人口の有り様に関係する。故に、人口の有り様を明らかにすれば、物価の有り様も解明できる。
 人口の構成や分布、生活様式が経済を予測する上にも、また、経済構造を構築する上でも重要な要素となる。

 消費は人生である。人は生まれ。育ち。独立して家を出て。結婚をして、新たな家を建てる。そして、家族を育て、やがて死んでいく。その時々に消費がある。
 労働は喜びである。労働は、自己実現の手段である。故に、幸せを実現するための手段である。しかし、貨幣経済下では、労働は、所得を得る手段にのみ還元される。そして、労働は苦役となる。また、生産性によって計られる。労働から喜びは失われ。人々は労働から遠ざけられる。休日を増やし、労働時間を削り、なるべき早く退職をし、仕事のない生活をするように強いられる。ここでも、幸せを実現する手段と豊かさを実現する手段は相反する物にさせられてしまう。
 また、所得を得る労働以外の労働は、労働として認知もされなくなる。その結果、育児や家事に関わる労働の価値は失われ、専業主婦は辱められる。しかし、自己実現という観点からすると育児や家事は、本源的な労働である。なぜならば、それは献身的な労働であり、根幹に愛があるからである。そして、更に、過去から受け継いできた伝統や文化を次世代へと伝承していく尊い仕事だからである。そして、何よりも家族がいる。家族の温もりや団欒がある。幸せの核がある。

 どれ程立派な家を建てても一緒に生活する人がいなければ、虚しさを深めるだけである。伴に食べる者がいてくれるから食事も美味しく食べられる。何よりも愛する人がいるから人生は豊かになる。ただ高価なブランド品に囲まれるだけの生活空間のなんと空疎なことか。広いだけが、幸せの尺度を決める物ではない。要は内容である。

 肯定的に捉えるか、否定的にとらえるかは別にしても、血縁関係を抜いては、人間関係や、社会の在り方を検討することはできない。大体、幸せの根源は家族にあるのである。家族との関係を前提としないで、社会や経済の在り方を考えるのは欺瞞である。現実性が乏しい上に、社会や経済の基本的問題を最初から外していることになる。

 人間をものとしてしか見ない。量的なものとして統計的な対象としてしか認識できない。そこに現代社会の欺瞞がある。血の通った体制が築けない原因がある。
 それを科学的というのならば、明らかに科学には欠陥がある。しかし、それは科学の問題というより、人間の心の問題だと言える。
 高齢者の介護にしても、少子化対策にしても、ただ設備を予算化すれば事足りるとするのが通例である。高齢者には、介護設備を作り、少子化には、幼稚園や保育園を増やすといった物の話ばかりが先行している。しかし、根本、自分の親や子供に対する愛情の問題なのである。
 家族を忘れて育児、出産を考えることほど愚かなことはない。収入を考えれば、女性が働きに出ることを奨励するにこしたことはない。しかし、支出、消費を考えた場合、生活の実態を考えた時、必ずしも、母親が外に働きでることが良いとは言いきれない。
 第一に、女性の社会進出というのは、働きに出ることばかりを指すのではない。何よりも、子供や家族にとって何が一番良いかを考えるべきなのである。仕事は何のためにするのか。その点を忘れて、外にばかり仕事を求めるのは無意味である。出産育児というのは、それほど楽な仕事ではない。育児や家事は、また、無意味な仕事でもない。
 何のために外に働きに出なければならないのか。保育園や幼稚園を作れば、少子化は、防げるのか。それに、少子化対策をなぜする必要があるのか。少子化を叫ぶ一方で、人口爆発や産児制限が叫ばれるのはおかしな話ではないか。
 家族を忘れているから、離婚率が高まり、また、未婚率、非婚率が高まっている。その点を考えないで、ただ、幼稚園や保育園を増やしたところで虚しいばかりである。家族の問題を「お金」や物の問題にすり替えているだけである。
 そこには、本当に、それで幸せは実現できるのかという本質的な疑問が欠けている。物の豊かさだけを社会や国家の目的とした結果である。社会も国家も人間の集まりで成り立っていることを忘れてはならない。

 現代人は、豊かさの中で幸せとは何かと言う問いを、どこかに、置き去りにしているのである。
 人々の幸せを置き忘れた時、経済は、その本質を失うのである。




                    


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