個人主義

個人主義

 日本人は、個人主義に対して錯覚がある。個人主義社会というのは、個人が、バラバラに存在する社会を言うのではない。個人が社会の仕組みの中で自分の位置を与えられ、関係付けられ、働き(運動)が明らかにされ、かつ保障されている社会を指して言う。

 個人主義は、社会全体と社会を構成する個人との関係によって成り立っている社会である。また、全体の働きと個人の働きの調和によって、国家社会は成り立っていると考える思想なのである。競争の原理の原理も全体と個人の調和の範囲内で成り立っている。スポーツで言えば、スポーツは、ルールの範囲内でならば、スポーツとして成り立っているが、一旦ルールの範囲を逸脱したらそれは競技ではなく、喧嘩、争いになる。スポーツというのは、ルールがあって成り立っているのである。

 この場合、ルールがスポーツを確定するのであって、スポーツがルールを確定するのではない。言い換えると、法が社会を確定するのであって、社会が法を確定するわけではない。

 個人主義とは、個人を基礎とした思想である。個人とは、自己を客体化したものである。故に、個人主義とは、自己を基礎とした思想である。

 自己は、唯一の存在である。自己は、全ての存在の前提である。自己とは存在である。肉体も意識も属性に過ぎない。
 自己は主体的存在である。自己は間接的認識対象である。間接的認識対象である自己認識は、外的環境や状況の影響を受けやすい。人間の認識は、自己の内部と外部に対する作用反作用の結果として形成される。
 自己の肉体は、自己の肉体の外部から、栄養を摂取しないと存続できない。即ち、生きていく為に必要な養分は、外部から摂取しないと人間は生存できずに死ぬ。
 自己は、自立的した存在である。故に、自己の意識は、自己完結している。

 個人とは、この様な自己を客体化した実在である。故に、個人は、自己の性格を基本的にしている。
 この事から、次のことが導き出される。対象は、個人が意識することによって認識される。個人が意識することによって生み出される者は相対的である。故に、観念的所産は、相対的である。個人は、主体的存在である。同時に、間接的認識対象である。故に、個人の自己認識は、間接的な認識よって為される。個人の自己認識は、自己と対象、即ち、個人と環境との相互作用によって形成される。個人の価値観は、自己認識を基礎にして為される。故に、自己の価値観は、相対的であり、同時に、内面と外部との相互作用、即ち、作用反作用によって形成される。個人と環境とが相互作用によって認識されるという事は、自己と外界、個人と環境との関係は、一対一、かつ、作用反作用の関係にある。

 個人主義は、私的所有権を前提として成り立っている。なぜならば、それは、自己の経済的自立を保証する権利だからである。

 個人主義は無政府主義ではない。即ち、全体を否定する思想ではない。むしろ、個人の働きが調和したところに全体の最適な状態があるとする思想である。
 また、私的所有権を否定する思想でもない。また、格差も否定はしない。

 しかし、同時に、身分的格差は否定する。なぜならば、身分的な格差は、社会を硬直させ、機能不全に陥らせるからである。格差は、それが、働きを促し、関係を強化するのに役立つから意味があるのであり、位置を固定し、運動を低下させてしまうのならば意味がない。構造を維持させるのは、運動であり、運動を維持させるためにこそ格差は意味がある。即ち、構造的格差は有効でも、身分的格差は、構造を崩壊させる阻害要因でしかない。

 個人の働きは、社会全体における個人の位置、立場、そして、個人の働きと社会との関係、あるいは、個人、個人との関わり合いによって決まる。
 それは、個人の権利と義務、権限と責任を規定する。この様な個人と全体との関わり合いを構造化するのが構造主義である。
 対立関係によってのみこの様な構造は築けない。個人が自立できない環境でも構造化は出来ない。引力と斥力の均衡によって国家構造は、保たれるのである。






                    


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