個人主義


全体と個人


 社会全体は、個人からなり、個人は、社会全体の一部を構成する。それ故に、一人一人が自立的に行動しないと全体は、保てないし、逆に、全体は、個人を尊重しないと維持できない。人間は、一人一人、社会に対して責任がある。社会は、一人一人の個人に対して責任がある。

 観念は、意識が生み出した所産である。故に相対的なものである。意識は我生み出す物は、自己の認識の作用反作用によってもたらされる。即ち、自己の認識は、外界への働きかけによって形成される。

 権利と義務は、個人の社会的存在から生じる責務である。故に、自己に対して作用反作用の関係にある。自己の権利は、社会の一員として保障された権力であると、同時に、自己に課せられた義務の根拠となる。故に、権利と義務は方向の違う同じ作用である。
 権限と責任は、個人の働きに対して発生する責務である。故に、自己に対して作用反作用の関係にある。自己の権限は、外部に対する効力であると同時に、自己の責任の根拠でもある。故に、権限と責任は、方向の違う同じ効力である。

 なぜ、組織が衰退するのか、それは、組織を構成する一人一人の責任感が消滅するからである。

 今日の社会の最大の問題は、全体と個人とを対立的に捉えることである。国家と社会とは、協調しようのない存在であるように捉えることである。特に、戦後の日本では、知識人と自称する互助集団は、反体制、反権力を標榜していれば、自分の立場は安全だと思い込んでいる。その為にも社会は、社会としての凝集力、求心力を失い、解体をはじめている。家族は、崩壊し、会社は、冷たくなり、国家は、統制力を失ってしまった。それらの現象が何を意味するのか。全体が、全体を一つのまとまりとして制御する事が出来なくなることを意味する。それを個人主義というのは、明らかに個人主義を曲解し、歪曲している。個人主義成り立つのは、個人と全体、即ち、国家と個人、経営主体と個人、地域社会と個人、家族と個人が、調和することにおいてである。個人と全体がいがみ合い、対立し続ければ、個人主義は成り立たない。それは、個人主義社会を破綻させようとしている者の陰謀である。

 企業は、経済や産業を構成する部分とみなし、その働きを明らかにすればいいのである。
 企業は、恒久的な成長を前提とすることはできない。企業の成長には、一定の限界がある。もし仮に、企業の成長に限界があるとしたら、企業の成長を前提した経済体制にも限界がある。
 企業が成長の限界に達する事を前提とする体制を考える必要がある。企業の継続的成長が望めないのならば、成長以外、企業に何を求めるべきかである。企業の働きの何を前提とすべきなのかである。
 大体、なぜ、成長を前提としなければならないのかである。
 企業に要求される働きというのは、基本的に労働と分配である。つまり、雇用を創出することと所得を分配することである。つまり、企業に要求される働きとは、利潤、所得、利子、納税である。それを過去の蓄積と経営活動によってそれぞれの担い手に分配することである。所得には、他の経営主体への支払(費用)も含まれる。
 その上で、清算時点には、債務と債権とを相殺できる体制を維持することである。そこに、金融や資本の働きがあり、金融機関の役割がある。

 全体の利益と部分の利益を個別的対立的に捉えているから均衡できないのである。国家と産業、産業と企業、企業と労働者が対立的な存在と捉えると全体的な調和、均衡は保てない。全体の利益と個別の利益を統一的、構造的に捉えることなのである。それが構造主義経済である。
 NFLとMLBの違いである。NFLは、全ての球団が黒字なのに対し、かつてMLBは、ほとんどの球団が赤字である。近年、MLBは、収益を改善し、多くの球団が黒字化した。かつてのMLBと現在のMLB、そして、NFLは、違いがどこにあるのか。
 それは、リーグ全体が目的や利害を共有しているかの違いである。相互の利益を守るために、全体の仕組みが上手く機能しているかによって個人も全体も利益を自然に得られる仕組みを構築できるか否かにかかっている。

 人間は、ホモ・エコノミクスではない。人間である。つまり、自己の効用を最大にするために、合理的な行動を選択する生き物ではない。
 人間として自立、独立して主体性を持った存在である。個人の倫理観を土台とした存在である。つまり、自己のよう効用と言うよりも自己善を実現しようとする存在である。問題は、自己善の内容なのである。自己善が、合理的、ないし、経済的効用を最大化しようと考えるものならば、ホモ・エコノミクス行動をとることになる。しかし、自己善は、自己と環境との相互作用の上に形成される体系であり、合目的的な体系であるから、必ずしも、経済的価値を至高なものとすると限定することは出来ない。むしろ、古来、多くの人は、経済的価値を至高の目的として認識しないから、経済の発展は阻害されてきたとも言える。人間の人生によって経済は、全てではないのである。むしろ、経済はあくまでも手段であって目的ではないと考える人間の方が多い。ホモ・エコノミクスは、むしろ稀なのである。問題は、環境によって好むと好まざるとに関係なく、ホモ・エコノミスト的価値観が、刷り込まれ、ホモ。エコノミクス的行動をとる一面があるという事である。確かに、人間の一生は、経済的価値に左右される。しかし、それは、一面である。人間は、多面的な存在であって一面的に判断するのは、かなり危険なことである。

 人間には、人心と道心がある。人心というのは、人間の五感に基づく心であり、道心というのは、人間の倫理観に基づく心である。心というのは、人間の行動の源である。

 官僚機構は、人間を臆病にする。なぜ、臆病にするのかと言うと第一に、重大に過失さえなければ、一生が保証されているという事。第二に、所得が保障されていること。第三に、仕事の成果と報酬とが、即ち、実績と評価が結びついていないという事。第四に、組織が大きすぎて、責任の所在が曖昧になりやすいという事。第五に、規則によって行動が規制されているという事である。
 最大の問題点は、減点主義にある。成功しても。何の評価も受けられず。ひどい場合は、余計な仕事を増やしたと同僚に非難されることさえある上、ちょっとした過失は罰せられる。反面、何もしなくてもある程度の所得は保証されていて、やっても、やらなくても、たいした差がないと言うような体制は、言われた仕事以外、余計な仕事はするなという体制である。この様な組織体制は、効率化を望む術(すべ)がない。責任感をもって仕事をした者が報われるどころか、非難されるような組織である。人間の尊厳に対する侮蔑に等しい。正直者が馬鹿を見る体制である。

 官僚機構は、人間の意志を前提としていないのである。だから、人間を生かすことができない。ただの部品にしてしまう。意志とは、善を志す感情である。意志の力が働くから組織は、組織として機能する。人間は、部品と化すと人間としての道心をすら失う。魂を抜かれてしまうのである。自分が一体、何をしているのかもわからなくなる。モラル以前に自分の価値観そのものを喪失するのである。大切な事は、意志の力を引き出すことである。部分が機能しなければ全体は、統御できない。全体が機能しなければ、部分を抑止できない。

 官僚機構は人間を傲慢にもする。

 この様な、官僚機構は、革新的、能動的な機能には向いていない。防御的、受動的な働きに向いている。

 国家が、環境や外部に能動的、積極的に働きかける必要がある場合には、官僚機構というのは、不適切な組織である。特に、組織が大規模になると官僚機構の弊害が目立つようになる。

 近代的農業は、大規模農業を志向している。近代企業も大企業を志向している。自作農や自営業者は、どちらも排除することによって成り立っている。
 大地主か、公営農場か、企業農場であり、何れも大規模農場、大資本農場であり、働く者は、要された労働者を意味し、経済的に自立した中小の自作農には否定的である。
 大企業から見れば、商店主のような個人事業者、自営業者は、非効率、非生産的な存在の極みなのである。

 しかし、それは、経済的に自立した個人を否定する事にも繋がる。経済的に自立した個人を否定する事は、政治的に自立した個人を否定する事でもある。

 資本主義にせよ、共産主義にせよ、大組織主義であることに違いない。資本主義と共産主義は一見対立しているように見えるが、その行き着く先は、似ている。資本主義で言えば、賃金労働者と会社という組織からなる社会である。それは、労働者と国家からなる共産主義社会と機構的にみると変わらない。

 現代社会は、合理化を旨としている。しかし、その合理化の大前提は何であろう。その前提は、効率化であったり、生産性という側面に限定されてないだろうか。社会を構成するのは、人間である。社会の合理的前提は、人間の欲求、意志でなければならないはずである。だとしたら、単に生産性や効率性におくのは、明らかな誤謬である。前提に間違いがあれば、それ以降がいかに論理的に正しくでも間違いである。
 合理的な社会を志向するならば、その前提を人間の幸せ、欲求におかなければならない。そして、それは、労働と分配、雇用や家族の問題に集約される。

 何でもかんでも合理化、機械化してしまえば良いというものではない。機械化が、人間から働く機会や職場を奪うとしたら、それは不合理な話である。
 機械化しない方が良い、機械化しなくてすむ仕事は、機械化しない方が良いのである。例えば、政治家や経営者、裁判官、警察官の様な仕事を機械化するのは問題がある。スポーツを機械化したら意味がない。銀行の窓口業務のような売り子のような対面してやる業務や手作りの方が良い仕事である。

 大きな範囲や機構を単一の組織によって制御するのは、小さな池に鯨を泳がすようなものである。巨大な組織機構というのは、必然的に統制力を失う。特に、行政のように地域地域によって、前提や環境、状況が違ってくる場合、単一的な組織では換えって効率が悪くなる。

 巨大な組織は、自らを管理する管理機構の増大によって押し潰される。また、組織の巨大化は、垂直方向への増大せざるを得なくなる。その結果、垂直的対立と、階層の深さを招く。その結果、階級が構成され、階級間の闘争が激化する。
 組織は、適当な規模でなければならない。その適当な規模で自律した組織を一つの単位として、社会は、構成されるべきなのである。

 現代人は、組織効率を考える上で重要な過ちを犯している。組織効率は、意志の疎通の範囲で測るべきであって、規模で測るべきではない。組織というのは、基本的には情報系であり、情報を処理することの出来る範囲で意思決定は為されるべきなのである。

 つまり、巨大な鯨に市場が呑み込まれた構造ではなく。適正な規模の経済単位が、市場の海に散在しているような状態がいいのである。
 野球のチームは、一チームでは試合が成り立たないし、二チームでは、面白くない。かといって百チームでは、経済的に成り立たない。10〜12球団ぐらいが適当ではないのかというのが現状である。どれくらいの球団が適正化を図るのは、サッカーリーグや野球のようにいろいろな仕組みがあり、一概に、どの仕組みが良いかは決められないが、ただ、それを判断する機構や仕組みが必要だと言う事は確かなのである。その全体を構造化するというのが構造経済である。





                    


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