2.人的経済

2-3 労働について

労働は生き甲斐である。



 経済は、思想の影響を受ける。と言うよりも経済は、思想そのものだといえる。
 職務給、職能給の違いは、思想の違いである。

 能力主義は社会が平等な状態でこそ成立する。平等主義は、社会が不平等だからこそ成立する。
 制度の問題ではなく思想の問題なのである。

 能力給と職務給の違いは、思想的問題である。能力に応じて賃金を決めるのか、同一労働、同一賃金の原則に従って平等に支払うのか思想の問題なのである。自然の法則に従うのとは訳が違う。人間が考えて決める事なのである。
 経済は人為的な現象なのであり、自然現象とは違う。つまり、経済的成果は自然に成る物ではなく、人間が作り出す事なのである。故に、経済が引き起こす諸々の現象は人間が責任を負うべき事であって自然や神に責任を負わせるような事ではない。

 生産財の市場と労働市場を同一視するのは、危険な思想である。大体、労働市場と言うが、市場と言っていいかどうかも解らない。労働市場と今言われている場は、組織的、体系的市場であり、相対取引の場とは明らかに異質である。
 また、労働は、質の違いの問題が大きい。労働は、単純労働に還元できない部分を持っている。又、互換性がある労働とそうでない労働がある。又、単位時間と言った何等かの基準によって一律、一様に測定できるものでもない。
 労働は、単純労働だけではなく。ある程度の経験や熟練度を要する労働、又、専門知識や技術がなければ出来ない労働、個性を要求される労働、資格や免許を必要とする労働、肉体労働と知的労働、あるいは、定型的な労働と不定型な労働と、労働の成果は、一律、一概に評価測定することが困難なものである。又、労働の成果は、主観的な評価による部分も多い。
 ただ単に労働を量として捉えているだけでは、労働の本質は理解できない。労働は、量と質から捉えるべきものであり、単位時間×作業時間と言った単純な関数に置き換えることは出来ないのである。

 労働には、第一に、公的、社会的、外的、所得(収入)、貨幣的労働と第二に、私的、家庭的、内的、非所得(支出)、非貨幣的労働がある。どちらの労働も労働には変わりなく、分配を受ける権利がある。ただ、分配の手段が違うのであり、前者は、貨幣を用いて所得として行われ、後者は、実際的な物や用役を介して行われる。

 仕事や仕事場を神聖な行為、場として位置付ける事ができなくなったことに現代人の不幸がある。労働は、労働そのものに価値がある。労働は、対価によってのみ測るべきではない。反社会的に労働は、いくら報酬がよくても真っ当な労働と評価するわけにはいかない。

 外国人観光客の一回の食費やゴルフのプレー代が労働者の年収を軽く上回るようでは、道徳も地に堕ちる。

 労働は喜びである。労働は、自己実現の手段である。その労働が空疎となり、苦痛でしかなくなった時、経済は頽廃、堕落するのである。

 現代人の最大の過ちは、経済を金儲けのことだと思い込んでいることである。そして、労働を金儲けの手段だとしか認識していない点である。子供達が、勉強を試験に合格するための手段だと思い込んでいるようにである。勉強は生きる為にするのであり、労働は、生きる為の手段なのである。

 生き物にとって経済というのは、生きる為の活動である。植物は、大地から養分や水分を吸収し、光合成によって生命力を得ている。それが植物の経済である。
 草食動物は、餌を求めて移動し、肉食獣は、獲物を捜して活動をする。それ以外の時は、体を休めている。それが野生動物の経済の在り方である。

 お金の価値など人間以外の生き物には、無価値なのである。猫に小判、豚に真珠と言って猫や豚を嘲笑うが、猫や豚は、小判や真珠のために、人を傷つけたり、人殺しをしたりはしない。

 猫や豚は、金儲けを経済だとは思っていない。彼等は生きる事で精一杯なのである。それが、彼等の経済である。

 野生の鷹は、生きていく為に必要な時以外、他の生物を襲ったりはしないという。必要でもないのに、金のために動物を殺すのは人間だけである。その為に資源が涸れつつある。自分の享楽のために、貴重な資源を無駄にするのは不経済な話である。愚か者のすることである。ならば、野生の鷹と人間、どちらが愚かだと言えるだろう。人間は簡単な計算もできないのではないのか。資源はかぎりがあるのである。

 経済というと人間はお金に結び付けて考えるが、経済の根本は、お金ではない。生きる事である。経済とは生きる為の活動である。
 それを金儲けの手段だと思い違いした時から、人間は、経済の本質を見失ったのだ。
 そして、経済的行為を賤しいことのように蔑んだ。しかし、それは、経済を金儲けだと思い違いをした人間が下劣なのであり、経済が下劣なのではない。
 野生の鷹の経済は、気高く、誇り高い。厳しい自制と抑制がある。それが経済である。

 経済の本質は、人間としていかに生きるかである。つまり、経済とは、生きる為の活動なのである。

 なぜ働くのか。労働は金を儲けるための活動ではない。生きる為の活動である。人間らしく生きる為の活動が働く事なのである。

 人間の才能をどう評価すべきなのか。
 野球に例えてみれば、守備位置によって一律的に報酬を決めるが妥当なのか、それとも、成績や実績に基づくべきなのか、貢献でによるのか、経験や年齢を基礎とすべきなのか、登板回数を土台とすべきなのか。

 又、人間としていかに生きるべきか。人間らしく生きていく為には、何が必要なのかの問題でもある。

 生きる為の活動という事は、生きる為の働きと生きる為に必要な物資を調達することに要約される。それを貨幣経済では媒介する手段が貨幣であり、その範囲において貨幣は、有効であり、重要なのである。

 金に人間の一生が支配されてしまったとしたら、哀れなことである。

 貨幣の存在が、人間として生きていく為の仕組みの障害になるのではかえって貨幣の存在は有害なのである。それは一種の病だと考えるべきなのである。貨幣は、貨幣としての必要な機能を果たしている範囲内において有益なのである。
 例えば、人間の免疫のための機能が、かえって人間の生存を危うくする働きをしてしまうことがあるのと同じ事である。

 現代人は、経済的価値の集合と貨幣的価値の集合と同値、等価だと錯覚している。しかし、経済的価値と貨幣的価値は同値、等価な集合ではない。

 経済は、人間が生きるために必要な労働を創出し、必要な物資を分配する仕組みによって成り立っている。その仕組みによって経済体制は決まるのである。

 経済というのは、物を分配する仕組みであると同時に、所得を分配する仕組みである事を忘れてはならない。

 経済の一つの側面は、労働問題である。
 つまり、労働の対極に何を設定するかの問題である。それは、言い換えると所得とは何か、所得にどの様な働きを求めるかなのである。

 まず第一に、報酬なのか、生計費なのかである。労働に対する評価という観点からすれば報酬と見るべきなのであろうし、生活に必要な物資の分配という観点からすれば、生計費なのである。
 しかし、それは比率の問題であって、どちらの要素も必要なのである。


労働と分配


 労働と分配とを結び付けたのは、貨幣である。
 自由主義経済は、労働と分配が個人と直接的に結びつくことによって成立した。故に、近代貨幣制度は、近代的個人主義の成立要件の一つでもある。

 労働と分配は必ずしも結びついているわけではない。
 むしろ、労働の仕組みは労働の仕組み、分配の仕組みは分配の仕組みと分離した体制の方が一般的であった。

 貨幣経済が確立される以前では、必ずしも、労働と分配とが直接的に関連付けられていたわけではない。

 それが労働者階級と使用者階級の階級制度を形成する要因となったのである。つまり、使用者側の階級と使用人側の階級の分離である。それは、自由人と奴隷との分離でもある。

 貨幣経済の浸透は、この階級制度を市場を形成する過程で解体する働きがある。
 貨幣経済が浸透する過程で、封建体制や大家族制度と言った共同体に基づく分配の仕組みは衰退し、市場を中核とした市場経済が確立されていったのである。

 市場経済を土台とした自由主義経済は、労働と分配とを結び付けることによって基本的には成り立っている。
 労働と分配を結び付ける事で生産と消費を需給関係よって生産者と消費者を関連づけ形成されたのが自由主義経済である。

 そして、労働と分配とを関連付けるためには、私的所有権の確立を前提としている。

 自由主義経済は、貨幣を媒体として直接、個人に労働と分配を結び付けたのである。それが、結果的には、近代的個人主義の発達を促したのである。

 根本にあるのは、報酬は、労働に対する対価であるという思想である。報酬は、収入となり、所得を形成する。その所得は、消費と投資と貯蓄を生み出す。それが自由経済を構成する基本的要素へと発展するのである。即ち、消費は、収益に、投資や貯蓄は、負債や資本に転じていくのである。

 共産主義体制は、労働と分配とを分離する事によって成り立っている。
 生産物を一律平等に配分し、尚かつ、私的所有権を認めないという事は、分配において人的要素、属性を一切排除することを意味するからである。即ち、生産財の分配に際し、労働による要素が失われてしまう事は、実質的に労働と分配とを切り離すことを意味する。
 又、資本主義体制も生産性ばかりを追求すると労働と分配とが一体となった仕組みを維持することが出来なくなる。

 多くの思想は、労働と分配とを切り離して考え、働かなくても豊かな生活を営めることを理想としている。
 つまり、労働には否定的な思想が多いのである。その証拠に、多くの国では、労働時間の短縮や休日を重視した労働環境を重んじる傾向が高く、労働蔑視の価値観が多い。

 極端な思想には、肉体労働をする者は、奴隷であると言った考え方である。

 しかし、労働には、自己実現という側面があることを忘れてはならない。労働は、生き甲斐なのである。
 それが、男女同権思想の根底をもないしている。必然的に、自由主義経済では、男女同権思想が発達する傾向がある。
 少なくとも、現在の自由主義体制では、経済的自立が前提となり、その為には、労働と分配とが直接的に結びついている必要がある。底に貨幣の重要な働きが隠されている。

 貨幣が、労働と分配を結び付ける役割を果たしたのには、貨幣の持つ性格が多分に影響している。

 一般貨幣の性格は、物と物の交換を仲介する物として働きにのみ捉えられがちであるが、貨幣には、労働を測る尺度しての働きがあることを忘れてはならない。

 貨幣の働きには、第一に、物の交換価値を測る手段としての働き、第二に、権利の働きを測る手段としての働き、第三に、労働の成果を測る働きの三つの働きがある。
 第一の働きは、市場取引や私的所有権の根拠となり、資産価値を形成する基となる。第二の働きは、負債や資本の基礎となる。第三の働きは、所得の根源となる。

 貨幣価値は、物の価値だという思い込みがあるが、貨幣価値は、所有権の価値でもあり、又、労働の価値でもある。

 貨幣は、労働の成果を数値化する働きがある。

 自由主義経済は、労働と分配とを貨幣によって結び付けることによって成立したといえる。
 つまり、自由主義経済を維持するためには、労働と分配とをいかに結び付けるかが、重要となる。

 この事から、自由主義経済にとって労働は、義務であると同時に権利でもあることを忘れてはならない。
 雇用の創出と確保は、自由主義経済にとって不可欠な要素の一つなのである。

 なぜ、労働と分配を結び付ける必要があるのか、その根底には、費用という思想がある。費用という思想は、同時に、収益という思想を基礎としている。

 費用や収益というのは、極めて、貨幣的な概念である。費用を貨幣価値に換算できるようになったことで、労働の成果を数値化する事が可能となったのである。
 即ち、貨幣は、労働の成果を数値化する。

 費用というのは一種の思想である。費用という概念が成立することで、労働の貨幣価値が測られるようになったのである。そして、費用という概念を成り立たせているのが貨幣である。貨幣が、費用を数値化する事を可能としたからである。
 費用が数値によって計測することが可能になる事で、費用という概念は費用対効果と言う関係に要約することが可能となったのである。
 そして、費用対効果という関係が労働と分配を結び付けているのである。又、費用対効果が数値的に計測することが可能となることによって財の効用を測定することが出来る様になったのである。

 自由経済は、生産財を働きに応じて分配すると言う事を前提とした経済体制なのである。その前提は、労働である。生産財は、労働に基づいて生産されると言うことである。いくら科学技術が進歩しても経済活動から労働を全て排除するというわけにはいかない。
 自由主義経済では、労働は、奴隷がする事という考え方は、近代的経済体制にはそぐわないのである。女性が積極的に労働に参画しているように、労働をより肯定的に認識する事が必要なのである。
 奴隷がすることだから、労働は、隷属的な行為であるとするのは間違いである。

 労働は自己実現の手段であることを忘れてはならない。確かに、劣悪な労働環境で、過酷な労働を強いることには問題がある。しかし、だからといって労働そのものを否定するのは、行きすぎである。労働は、生き甲斐でもある。自分の夢や自分の存在意義を実現する為の労働は大いに奨励されるべきなのである。労働を蔑視し、労働を頭から否定してしまったら、生きる事の意義は見失われてしまう。

 自由主義経済においては、働かざる者喰うべからず原則である。この様な体制では、不労所得の存在こそが問題となる。
 そして、失業や高齢者が増えるに伴ってこの不労所得者も増加し、今日深刻な社会問題となりつつある。それも労働と分配の関係を蔑ろにしてきたからである。

 また、労働を所得に結び付けて考え、女性や身体障害者と言ったそれまで労働に関わらなかった人達を積極的に労働に参加させるべきだという思想がある。
 その一方において人々を過酷な労働から開放し、極力、労働をしなくても良い社会を目指すという思想もある。その根本に、労働は悪であるという考えが底辺に働いているのである。しかも、この様な思想が企業経営の効率化という課題に働いているのである。
 つまり、機械や設備によって無人工場化、省略化していこうという思想である。人件費は、費用対効果の観点から採算が合わない。極力削減すべきであるという発想である。これが行きすぎると生産現場から労働者が排除されてしまう。
 収益力が低下すると常に削減の対象となるのが、固定費である人件費である。それは、社会全体から見ると総所得や雇用の削減なってしまう。つまり、費用と収入は、裏腹の関係にあるのである。

 労働と分配が直接結び付けられた事で、雇用が重要な意味を持つことになる。
 働かなければ、収入が得られず、収入が得られなければ、分配を受けられないからである。

 故に、自由主義経済では、単純に経費を削減して、生産性を上げれば、経済はよくなると言う関係ではないのである。即ち、土台に雇用がある。それを忘れてはならない。

 自由主義経済では、労働と分配、消費、そして、生産が相互に結びつくことによって経済の仕組みが成り立っているからである。
 自由主義経済体制下で鍵を握っているのは生産手段である。
 その生産手段が機械、装置に、単純に置き換わると人件費に影響がでる事になる。費用を構成する要素が何で、それぞれの部分がどれくらいの割合を占めているのか、それが重要になるのである。
 つまり、費用とは何か。費用の効用とは何かを明確にしておく必要があるのである。
 単純に価格を安くすれば、消費者は喜ぶから経済にとって良い効果があるという訳にはいかない。消費者を裏返すと労働者になるからである。


分配面から見た国民経済


 分配の基礎は、個人所得である。個人所得の中でも可処分所得がキャッシュフローの根底を成している。
 経済では、総額と純額、重要な意味を持つ。
 たとえば、所得全体を総額とした場合、可処分所得は、純額、粗を意味する。企業収益では、売上は総額であり、粗利益は、純額である。それぞれの意味するところや働きが違う。

 国家の経済活動は、「分配」「生産」「支出」の三つの要素を循環していると見なす。最終生産財の価値は付加価値の合計に等しい。

 三面等価とは、所得(分配、労働)と生産(付加価値)と支出(消費と投資と貯蓄)の均衡を意味している。
 これに経済主体、家計、民間企業、政府、海外部門が結びつくことによって経済の基礎構造は形成される。ただし、民間企業の中にある金融機関は、特別な地位を与えられ、又、特別な役割を果たしている。
 ある意味で、金融機関は、他の経済主体に対する鏡のような働きをしている。又、会計上も特殊な地位を反映した処理を認められているのである。

 景気の状態は、所得と生産、支出の相互関係から導き出される。

 「分配」、「生産」、「支出」を言い替えると「労働に対する評価」「収益に対する費用」「生活に必要な物資を購入するための原資」になる。

 豊漁貧乏というような事象がある。それは、所得と生産、支出の均衡が崩れることによって生じる。
 豊漁貧乏のような現象が起こるのは、必要に基づかない、労働に見合わない生産が原因となるのである。
 即ち、生産が所得や支出に結びつかない仕組みになっていることが問題になるのである。

 現代人は、経済の状態を判断する場合、生産性のみに注意を払い。財の供給量ばかりを重視する。その結果、所得の費用としての働きのみを問題視する事になる。そうなると、所得を限りなく小さくすることを目的としがちになる。当然、結果的に、総所得は、収縮することになる。
 つまり、いくら財を大量に生産しても社会は豊かにならない状態、むしろ、大量に生産すればするほど社会全体は貧しくなる事態を引き起こしてしまうのである。それが豊漁貧乏である。
 現代の日本は、その豊漁貧乏の状況にある。それがデフレーションである。所得と生産財が釣り合わない状態になるのである。それは、労働と所得の釣り合いがとれなくなることにもなる。働いても働いても貧しさから抜けられない状態である。

 所得を決める要素は生産だけではない。

 所得、生産、支出は、深く結びついている。一つ要素のみに偏って追求すると景気の均衡は保てなくなるのである。貧困は、所得と生産、支出の不均衡によって生じる。財が市場に溢れていてもそれを購入するだけの資力が、国民一人一人になければ国民一人一人は貧しいのである。

 所得には、分配という側面と支出という側面がある事を忘れてはならない。

 分配は、労働の対価を基本とする。所得が労働に見合っているかが重要となる。
 そして、それは、支出へと繋がる。つまり、支出の根底を成すのは、必要性である。

 故に、重要なのは、報酬と費用と生活費が釣り合っていることなのである。いくら、生産費用が低下してもその為に、労働者の報酬が減ったり、雇用が失われれば、意味がない。又、報酬が充分に生活費に見合うものでなければ、報酬を得る動機がなくなる。企業利益ばかりに目がいって報酬としての役割、生活費としての役割を忘れたら、経済の仕組みは機能しなくなるのである。

 所得の元となるのは、報酬である。報酬は労働の対価として与えられる通貨である。所得は、分配であり、分配の基本は、労働に対する報酬として支払われる対価である。
 故に、分配は、報酬制度の在り方によって決まる。
 報酬に対する考え方が分配に対する思想となる。

 報酬は、競争の原理だけで決まるわけではない。無原則な競争を煽るのも一種の思想である。競争を絶対視するのは、何かの法則ではなく。思想なのだと言うことを忘れてはならない。同様に、進化を絶対視するのも思想である。

 報酬の費用性のみを重視した考え方に立てば、労働の規格化が重要となり、同一労働、同一時間、同一賃金という思想になる。報酬は、属人的な要素は含まれない。
 それに対して報酬を支出、即ち、必要性から考えると報酬は、生活費に見合うものでなければならないと言う考え方になる。

 報酬を評価として捉えれば、実績主義や実力主義を重視した考え方になる。

 この様なことを鑑みると、これからの時代は、分配のための社会環境、前提条件、基準、考え方によって思想は表現される。
 分配のための社会環境や前提条件というのは、教育制度の在り方や退職制度や年金制度に対す考え方。税制度に対する根本思想、失業保険、医療保険と言った社会保険制度の根本理念を言う。

 問題なのは、労働によらない報酬、不労所得である。不労所得は、社会全体の実質的生産力を低下させる。

 報酬が労働に見合っていなければ、豊かさを享受することは出来ない。

 この事は、労働人口の在り方が、社会の生産力の期間を形成していることをも意味する。
 少子高齢化は、社会全体の生産力と個々人の報酬との関係を不釣り合いなものにしてしまうかもしれない。不労所得者と勤労所得者の割合が不均衡になると所得、生産、支出の均衡が崩れてしまう。この事によって社会全体を貧しくする原因となるのである。不労所得人口を増やすことで、生産と分配の不均衡を招くのである。

 また、生産性という観点ばかりを問題とするという事は、所得の費用性という事に所得を特化してしまうことを意味する。
 そうなると労働に対して報酬が見合っているかどうかと言う視点を欠くことになる。
 報酬が見合っているかどうかの基準は、生きいく上で必要な物資を調達できるだけの報酬が保証されているかどうかがによって定まる。報酬の基準の最低線は、生活必需品の価格の総和によって形成されるのである。

 現代経済学では、報酬の費用性ばかりが問題とされ、分配や必要性という視点が抜け落ちている。報酬は、言い替えると人件費である。人件費の生産性ばかりを重視すれば、人件費を必要最小限に抑え込もうという動機が働く。結局、報酬を最低限の水準にまで収斂させてしまう。つまり、年齢とか、経験とか、生活と言った部分は一切合切削ぎ落とされてしまう。つまり、労働における人間性の否定である。それが労働の規格化である。費用という観点だけで労働を突き詰めると最終的には、機械と人間は競争することになる。

 人件費の分配が設備投資に対する償却費に比べて相対的に低い場合、人を雇うのにゆとりを持つことが出来る。例えば、飛行機の操縦士を三人にするとかが可能である。それが、人件費が高騰し、設備投資が相対的に低下すると人員は、削減する方向に向かう。多少、安全性を犠牲にしても三人から二人、二人から一人へと人員の削減が行われる。ただ、この場合、安全性を犠牲にすると言うだけでなく、所得と支出の削減も同時に行われていることを見落としてはならない。

 総額と純額を考える上では、時間の概念が重要な働きをしている。
 例えば、我々は、投資と言われた場合、物的投資、即ち、設備投資や在庫投資は思い浮かべても人的投資や金融的投資は思い浮かべにくい。そして、設備投資は、総額で捉えるのに対して人的投資は一回に支払われる賃金に還元されやすい。しかも、物的投資は、減価償却費として架空の費用を想定する。その為に、恣意的に操作をすることが可能なのに対して、人的投資や金融的投資、名目的であるために固定的なものとして会計上処理される。

 物的投資を月割りにし、尚かつ、費用対効果、又、キャッシュフローで比較した場合、人的投資は、圧倒的に不利になる場合が多い。この点は、経営効率で見れば金融投資と人的投資を比較しても同様の結果になる場合がある。労働の結果より、投機の結果の方が経営効率がよく見えるのである。
 その結果、人件費は限りなく削減され、雇用が失われ、景気が悪くなると言う悪循環にはまりこむのである。

 人件費、償却費、金融費用は、付加価値を形成する重要な要素である。物的投資の総額は、投資が決定された時点で確定する。故に、償却費や金融費用は、原則的に投資した時点で確定するのに対し、人件費は、物価や企業業績に連動し、一定期間で更新される性格を持つ。
 その為に、人件費は、変動費化したいという動機が働く。

 人件費は、物価に連動している。物価は、経済成長の影響を受ける。経済成長が続いている間は、人件費は、常に、費用を押し上げる圧力として働き、償却費は、費用を押し下げ圧力として働く。経済が縮小している時は、逆の作用が働く。

 人的投資、物的投資、金融投資の経済的効果を全体的視点だけでなく、個々の経済主体中心の視点に立って複合的に判断しなければ、投資の経済的効果は、理解できない。

 所得には、三つの論理がある。即ち、「人」の論理、「物」の論理、「お金」の論理である。
 所得は、三つの論理に均衡によって成り立っていることを忘れてはならない。

 分配である報酬を一定の幅の範囲に収まるように制御する仕組みを市場に組み込むことが求められるのである。

 支出は、消費や投資、貯蓄に転化することによって市場の規模に影響を与える。
 支出の基底を為すのは、消費と投資である。消費と投資の根本は必要性である。現代の経済では、生産力ばかり問題にされ、必要性はどうしても二の次になってしまう。

 本来は、所得と生産と支出は同等の地位を与えられるべきなのに、今日の経済は、生産に偏った体制となっている。それが経済にいろいろな不均衡をもたらすのである。

 所得は、人件費という費用でもある。つまり、所得には、報酬としての働きの他に、費用としての働きがある。
 また、所得は支出である。即ち、所得には支出としての働きがある。支出は、消費と投資と貯蓄からなる。

 貯蓄と投資と負債は、表裏一体の関係にある。

 通貨は、公的負債という形で市場に供給され、所得という形で個人に分配される。また、民間企業には、収入として供給される。個人収入と企業収入を合算した値が民間所得である。

 まず、最初に投資があり、投資の原資は、貯蓄として蓄えられる。投資は、投資先においては負債となる。例えば、家計(又は、企業、政府)において預金として金融機関に貸し付けられた資金は、金融機関から企業(又は、政府、家計)に投資され、企業(又は、政府、家計)は、金融機関からの借り入れによって設備投資をする。
 家計の部分は、企業や政府に置き換えることが出来る。
 投資は、負債によって測られ、消費、即ち、費用は、収益によって測られ、かつ、連動する。消費は、収益によって測られ、かつ連動する。

 注目すべきなのは、現金の流れである。
 現金は、先ず、集積された後、投資に廻される。投資に廻された資金は、投資元に返済される。
 次ぎに、収益として費用による現金の流れである。
 又、もう一つの資金の流れは、実際の資金繰りの流れである。
 これら三つの資金の流れが現金収支を形作っていく。

 経済的価値に対する測定、評価の仕方には、資産負債の関係に基づく経済的価値と収益費用に基づく経済的価値、収支に基づく経済的価値がある。例えば、地価である。地価を債権、債務の関係から導き出し方法、土地が生み出す収益から費用を差し引くことから割り出す方法、キャッシュフローから算出する方法がある。

 分配は、所得として表される。
 総所得≡個人所得+企業収入+租税+輸出
という式で表される。

 所得の対極に支出があり、所得=支出となる。支出は、現金残高+消費+投資、そして、政府支出、輸入になる。

 個人所得と企業収入は、現金収入である。現金収入は、消費された部分と投資に廻された部分、そして、手元に残金として残されている部分とに分かれる。個人所得と企業収入を合わせたものが民間所得である。即ち、
 民間所得=現金残高+消費+投資が常に成り立つ事になる。
 総所得=現金残高+消費+投資+政府支出+輸入
 これを所得恒等式という。
 投資の中には、在庫投資(余剰在庫)が含まれている。
 在庫投資を含まない場合には、企業は生産規模を縮小するので、所得は縮小する事になる。逆に在庫投資がマイナスの場合には、企業は生産規模を拡大するので、所得は拡大する。
 投資を在庫投資を含まないものとして定義した場合、所得規模は企業が意図した投資額と適合する規模、即ち総所得=現金残高+消費+投資+政府支出+輸入 が成り立つような規模で均衡する。
 以上を要約すると、投資を在庫投資を含めて定義すると常に所得恒等式が成立するが、投資を在庫投資を含まないものとして定義すると、所得の水準が調整されない限り、「総所得=現金残高+消費+投資+政府支出+輸入」は成立しない。
 一方、付加価値は経済主体に配分され、一部は消費となり、残りは現金残高として手元に残され、あるいは、貯蓄と納税に廻される。
 総所得≡現金残高+消費+貯蓄+租税+輸出
が常に成り立つ事になる。これを所得恒等式に当てはめると、
 現金残高+消費+投資+政府支出+輸入≡現金残高+消費+貯蓄+租税+輸出 となる。そして、
 純投資+政府支出+輸入≡純貯蓄+租税+輸出 が常に成り立つ。
 純投資-純貯蓄=財政収支+経常収支
 これを投資-貯蓄恒等式という。
 投資と負債は、表裏の関係にある。即ち、投資=負債
 更に、投資=負債=貯蓄(現金・預金)
 これらのことを鑑みると所得規模は生産規模(そして所得)の調整を通じて、企業が意図した投資額と貯蓄額が等しくなるような規模、
 純投資-純貯蓄=(租税-政府支出)+(輸出-輸入)で均衡する。
 これを投資-貯蓄均衡という。この場合の投資には在庫投資は含まれていないことに注意しなければならない。

 投資の総額は、返済された部分を除いて負債として累積する。一方において投資は、資産に計上され償却されない限り蓄積される。
 同様に、貯蓄も引き出されない限り蓄積する。
 そして、負債と預金は、各々に金利が生じる。金利は、支出に消費として計上される。
 蓄積された負債と資産、預金は、債権、債務となって長期的資金の流れを形成する。

 又、国家経済においては、
 (純貯蓄-純投資)+(租税-政府支出)+(輸出-輸入)=0
すなわち、
 貯蓄投資収支+財政収支+経常収支≡0
が常に成り立っている。

 現金収入は、一般には、手取、あるいは、可処分所得と見なされる。
 総所得から引かれるのは、公共費用(租税、及び、社会保険等)と負債の返済、及び、金利である。
 即ち、分配の基本は、可処分所得であり、この可処分所得がマイナスにならないように所得を調節するのが貨幣経済の基本である。

 故に、前提は、現金残高は、常に正の数でなければならない。
 即ち、現金残高>0
 更に、国際経済全体では、経常収支の総計は、0に均衡する。

 貨幣は、財政における投資超過額によって国家の負債勘定として供給される。そして、財政に計上された社会資本との相殺勘定によって均衡する。

 これらの恒等式を前提として考えるた場合、経済政策を検討する上において投資超過額と財政収支、経常収支の相互関係が重要になる。

 投資超過額と財政収支、経常収支は、二律背反関係(trade-off)にあるからである。
 又、経常収支=資本収支となる。

 投資は裏返してみると負債である。
 投資=負債

 総負債+資本=総投資
 総負債+資本=総資産
 総資産=総投資
 総負債+資本+収益=総資産+費用
 総負債+元金+収入=総資産+支出

 支出は、企業収入に転換される。収入は収益に、支出は費用に還元される。
 企業収益は、付加価値を生み出すことによって個人所得と租税に分配され、尚かつ、時間価値を生みだす。

 経済は、現金残高と投資超過額と財政収支、経常収支の配分と均衡とによって成り立っていると言える。消費は、可処分所得に対応し、貯蓄は投資に対応し、租税は、政府支出に対応し、輸出は、輸入に対応する。各々の過不足が現在の原動力ともなり、不均衡の基ともなるのである。
 つまり、経済の原動力は、均衡しようとすると働きと均衡を崩そうとする力の相互作用によって成り立っているのである。

 財政赤字は、通貨の供給を意味し、財政黒字は、通貨の回収を意味しいる。

 産業全体と個々の企業の総資本回転数、利益率、金利、償却費、税率、長期借入金の返済額、分配率の平均と変化が重要になる。なぜならば、これらの要素の均衡が投資の動向や経営状態、景気の動向を見極める鍵を握っているからである。
 そして、これらの要素の中における労働分配率の働きが要なのである。労働単純に分配率だを見るのではなく、絶対額の変化も見る必要がある。
 総資本回転数、投資額に対する調達した資金の回転数をあらわし、利益率とは、収益に対する費用の分配を段階的に表した比率である。
 そして、長期借入金の返済額とは、税率とは、最小利益に占める納税額の比率を、そして、長期借入金の返済額とは、利益の中から負債に返済に向ける資金を言う。また、分配率とは、粗利益の中に占める付加価値の比率を言う。
 資本の回転率は、資金の流れを意味し、利益率や金利は、資金の回転によって派生する時間価値を意味し、分配率、償却費率、税率は、読んで字の如く配分の比率を表している。長期借入金の返済額は、長期的資金の流れの方向を意味する。
 これらの指標は、企業経営の状態を表す指標であるが、同時に、景気の状態を表す指標でもある。又、企業経営のみならず、政府、家計、そして、国家全体の経済状態を表す指標にも敷延化できる。

 個々の企業が人員を削減して収益率を高めたとしてもそれが景気の回復に役立つとは限らない。人件費は、所得の本でもあり、支出の本でもあるからである。
 労働分配率だけでなく、一人当たりの所得が一定の水準を保っているのか、人員が定員を満たしているかどうか、雇用の水準はどうかと言った要素を複合的に捉えて判断すべき問題なのである。
 単に赤字か黒字か、、又、表面に表れた値だけを見ていたら、経営の実体も、経済の実体も理解できない。その数値の背後にある状況を見極めないと経済政策の是非は問えないのである。

 今日の貨幣経済を動かしているのは、現金の流れである。基本は、現金収入にある。しかし、現金残高は、必ずしも経済の働きを測る指針としては適切ではない。それ故に、利益という概念が考案されたのである。その点を忘れてはならない。

 利益は、期間損益主義から生じた概念である。期間損益主義は通貨の長期、短期の働きを区分し、長期的展望に立って経済を均衡させようと言う思想である。
 長期的資金の働きは、長期的均衡を計る。その上で短期の働きの意味を設定するのが期間損益の原則である。

 経常収支と資本収支の関係は、資金の長期的働きと短期的働きを交換することによって成り立っている。
 貸借と損益の関係も同様である。

 国際経済においては、長期的均衡を前提とし、その時点その時点での各国や経済主体の位置や役割を確定し、その上で、各々、置かれている経済状況や発展段階に応じた施策を講じる様にする事を原則とすべきなのである。
 その前提は、投資とキャッシュフローの整合性にある。

 経済上の過不足、又、単年度における赤字、黒字を是非善悪の基準で測るのではなく。それぞれの置かれている位置や役割によって測り、全体的、又、長期的均衡を目的とすべきなのである。

 経済の仕組みの最終的目的は、労働と分配にある。故に、問題となるのは労働の質と人、物、金と言った資源の分散と平均にあるのである。

 百円亭主という言葉がかつてあったように、個人の収入や支出は、一般に限られている。かつては、百円と言われたが現在では千円、月額で三万円程度であろう。この差は、物価の時間的価値を反映している。
 いずれにしても、その限られた範囲で何に配分するかが決められる。それが現実である。それが集計されて景気の状態を決めているのである。個々の小さな動きが寄り集まるとどの様な働きをするのか。それが景気の動向を予測する上では決定的な要素となる。
 例えば、月の小遣いの中に占める酒や煙草の比率は高い。それに食費を入れれば、ほとんどなくなってしまう。なくなってしまうどころか赤字だろう。この様にして決められた金額の中を配分することで、亭主の支出傾向は決まる。この支出傾向に合わせて亭主族を対象として産業は成り立っているのである。

 社会には、この様な百円亭主が他の収支形態だけでなくいろいろな収支の型を持った層が多くある。
 そう言ったいろいろな収支の形態の人口の占める割合、そして、範囲と規模、そして、小遣いの平均と分散がその国の経済の基礎を形成しているのである。そして、その基礎の変化が経済の有り様の変化を決めているのである。その点を見落としたら経済の本質を見極めることは出来ない。
 雇用形態の変化は、その国の経済の本質をも変えてしまう。



お金と報酬の関係


 ソビエト連邦の崩壊、ベルリンの壁の崩壊が象徴するように共産主義体制の多くは崩壊し、あるいは、計画経済、統制経済を放棄し、市場経済への移行を余儀なくされた。
 考えてみれば、人間の理性を信じ、合理的な判断の基に計画経済を行うことの方が、てんでんバラバラ、自分達の欲望に身を任せることよりも、一見合理的に考えられ。それなのに、結果は、一人一人の欲望に委せた方が経済はうまくいくのである。
 なぜ、個々人の自由意志に基づく市場の方があらゆる面で計画経済より効率的なのか。そこに経済の仕組みの謎がある。
 理性よりも欲望が優る。それは又、経済が人間が生きるための活動であることの証でもある様に思えるのである。

 最近、ひょんなキッカケで二宮金次郎の伝記を読み始めた。二宮金次郎は、戦前は日本の小学校の校庭に必ずと言ってあるほど日本人の鏡とされた。それが、戦後は一転して日本の歴史から抹殺されようとしている。
 二宮金次郎は、疲弊した日本の農村を幾つも立て直した日本の農政の立て役者である。
 二宮金次郎の伝記だけでなく、多くの倒産した企業の再建の話を見ると疲弊し、道徳観も失せ、物理的の意味だけでなく、精神的な意味でも荒廃し、頽廃した人々がやる気を出して農村や企業を立て直していくのが大筋である。
 では、倒産し掛けた企業と再建を果たした企業とはどこが違うかなのである。荒廃した社会や企業では、このまま怠惰な生活をしていたら駄目になるというのが解っている。理屈では解っているのに、何も出来ない。
 このままでは生きていくこともできないと言うが解っていても多くの人は行動を起こそうともしない。実際は、それが深刻な問題なのである。それがたった一人の人間が意識改革をするだけで見違えるように変わっていく。
 それは今では、日本の社会の問題にもなりつつあるのである。今の日本に必要なのは意識変革なのである。
 二宮金次郎や企業再建劇では、与えられている条件が同じなのに、物理的にも精神的にも荒廃していた農村や企業が劇的に変わっていく。どこに違いがあるのか。それが経済を良くするための鍵を握っているのである。

 同じ条件のはずなのになぜ、一方は、荒廃し、又、なぜ、もう一方では、成長するのか。その差はどこにあるのか。それはその社会や個人の中にある意識の問題なのだと思う。意識を変えるためにはどうしたらいいのか。認識を変えることなのである。
 この認識を変えるために、「お金」の果たす役割は大きいのである。それを裏返すと現在、市場経済で起こっている現象の原因の多くは、認識の問題から来ると思われるのである。ここにお金の効能の重大な要素が隠されている。
 つまり、お金は、認識を変えるのである。

 現代人の多くは、お金の有難味という物を人間は、なかなか認めようとしない。むしろ、「お金」のマイナスの面ばかりを強調する。
 「お金」というのはも不浄で、汚らわしい物、人の心を惑わす物であると思い込んでいる。「お金」の話をすることは賤しくて下品なことである。お金儲けは下賤な者のすること仕事であると長い間されてきたのである。それが端的に現れたのが、「士農工商」の身分差別である。
 お金のことばかり言う人間を金の亡者とか、拝金主義、守銭奴といって蔑んでみるか、お金そのものを汚い物、又、悪徳として排斥する傾向が博く世界各地にみられる。

 無論、過度にお金に依存したり、お金が全てである様に考えたり、異常に金に執着するのは、間違いである。間違いと言うより、それこそ金の魔力に取り込まれてしまうことになる。
 しかし、だからといって金を賤しい物と決め付けて、金銭感覚を磨かないのも間違いである。
 一般には、経済的に自立しなければ、一人前の社会人としては認められないと考えられている。経済的に自立すると言う事は、一人前の所得を自分の働きによって稼ぎ自分の稼ぎで家族を養える様になるという意味が裏側に隠されている。
 お金を稼ぐことは決して悪い事ではない。一人前の大人になりながら、自分の力でお金を稼げないことの方が問題なのである。
 かつての支配階級は、権力によって生活に必要な者を下級階級から強奪してきた。つまり、反対給付のない所得を得ていたのである。つまり、力によって庶民の収穫の一部を奪い取っていたのである。彼等からすれば、金の力に頼るのは、弱いことを意味するのであろう。しかし、その様な封建的な体制から、国民一人一人が平等の権利を有する国家、国民国家を国是とする国に生まれ変わったのである。
 「金」を蔑視するのでも、又、「金」を絶対視するのでもなく、「金」の持つ本来の効用を正しく、理解する事が肝要なのである。

 市場経済と貨幣経済、言い替えると市場と貨幣は、不即不離の関係にある。ただ市場と貨幣とは必ずしも一体ではない。

 市場には、市場の働きや歴史があり、貨幣には、貨幣の働きや歴史がある。
 市場と貨幣は、一体的に発達したわけではない。別々の発展過程をしてきた市場と貨幣が一体する事によって、今日の自由経済体制は成立したのである。
 この歴史的過程を理解しないと自由主義経済の本質は理解できない。

 市場経済によらない経済体制、つまり、社会主義経済や統制経済、計画経済が円滑に機能しないのは、貨幣と市場との関係を理解していないことにある。
 貨幣と市場との関係を理解するためには、個としての人間の働きを、人間の主体性を正しく前提とする必要がある。
 分配が、個人の外部の力による強制に基づくのか内的な主体性に基づくのか、つまり、強権よるのか自由意志によるのか、その差が重要となるのである。

 貨幣の働きには、個人の欲求を満足させるという効能がある。この点を多くの人が見逃している。単に見逃しているというのか、それとも故意なのかそれは判然としない。

 「金」の効用というのは、自分の所持する範囲内であるならば、市場において自分の欲しい物を自分の意志で選択肢、選べる権利を保証していると言う事にある。
 例えば計画経済や統制経済において貨幣が流通していたとしてもいわば、配給権のような物にすぎず、自分の選択権が行使できる範囲は限られているのである。市場に出回る物は、数も少ない上に種類も限られている。欲しい物が市場に出回っていなければ、いくら金が流通していても貨幣は死蔵される。そして、必要な物を手に入れるためには、長い行列に並ばなければならないか、長時間自分の順番が回ってくるのを待たなければならなくなる。
 貨幣の効用を考える場合、事故の欲求を満足させるための手段という貨幣の働きを無視してはならない。無視すれば、インフレーションやデフレーションの原因も理解できないし、市場経済を動かす原動力も理解できなくなる。
 市場経済を動かしているのは、消費への欲望と金儲けに対する熱情なのであるからである。

 なぜ、人々は、「お金」を欲しがるのか。それは、お金を手に入れれば、何でも自分の欲しい者が手にはいる、人の愛情ですら手に入れることが出来ると思い込んでいる。あるいは信じているからである。この思い込みが、お金の効用を有効にしている。又、経済を動かしているのである。

 自由主義経済では、「お金」と所有権は、自己実現の有効な手段の一つである。そして、「お金」が所有権の根拠であるからこそ、「お金」が市場経済の原動力となりうるのである。

 人々が「お金」を欲しがる動機が底に隠されている。人々が「お金」を欲しがる動機こそ「お金」の効用の源泉なのである。

 経済の本質は、最終的には、個人所得に帰結するのである。経済の基礎を形成しているのは、個人所得の集合である。経済の行き着くところは、個人所得の平均と分散である。

 経済の基準となるのは、所得である。所得は、購買力になる。購買力は、消費や投資、貯蓄活動の源泉である。そして、消費や投資、貯蓄は生産活動の根拠にも動機にもなる。そして、所得の水準は、生活水準を決まる。生活水準は、物価の基礎となる。所得は、平等と格差の根拠となる。所得の偏りが貧富の原因となるのである。
 即ち、所得の平均と分散がその国の経済状態を決めるのである。

 所得に対する支払い手段は、財と権利からなる。財は、物と用役からなる。即ち、所得に対する支払い手段は、用役、物、権利からなる。これを言い替えると用役は人、物は物、権利は貨幣である。即ち、人、物、金を意味する。、

 人、物、金の時間的変化を司る要素は、人件費と物価と金利です。その根底は、所得と、生産、支出です。それは、人、物、金に還元されます。

 変化には、発散的変化と収束的変化の二種類がある。発散的な変化には、線形的変化(算術級数的変化)と指数的変化(幾何級数的変化)がある。収束的変化は、基本的には、回転運動である。回転運動は、基本的に、循環運動であり、周期的変化である。周期運動は、波動であり、又、上下運動である。

 人や物は、収束的変化である。人の人生は、成長があり、衰退がある。物にもライフサイクルがある。それに対して、お金は、発散的な変化をする。しかも、指数的な変化である。
 この人や物の変化と貨幣価値の変化の差が経済にいろいろな現象を引き起こすのである。

 結局、今の経済の話というのは、お金の儲け方と使い道についての話なのである。

 現在、所得、報酬は、お金で支払われる事を前提としている。お金以外で報酬が支払われることを現物支給という。貨幣制度が浸透する以前は、報酬は必ずしもお金で支払われていたとは限らない。
 江戸時代は、現物支給が基本であった。それが、武士階級を困窮させる原因となった。市場の拡大が、貨幣経済の拡大を意味したからである。つまり、物からお金の効用が優るようになったのである。物が通用する範囲が狭まり、その分、お金が通用する範囲が拡大したのである。

 報酬が現物支給されていた時代には、租税も、物で納められていた。租庸調などが典型である。
 この税の形態は、経済の根本形態でもある。食料と衣料、そして、用役が経済の中心だったのである。そして、直接、これらを交換する、即ち、物と物とを直接交換する物々交換が基本の社会である。

 現代社会では、所得の大半を「お金」で得る。そして、お金があれば、市場から自分が必要とする物を手に入れることが出来るという認識を前提としている。この認識が前提とされなければ、「お金」の価値は、数段下がることになる。
 お金がいくらあっても自分が欲しい物、必要な物が市場から手に入れることが出来ないとしたら、何の意味もないのである。
 第一に言えるのは、「お金」を報酬として受け取る前提は、「お金」によって市場が必要な物、欲しい物を手に入れる事ができると保証されていることである。第二に、市場に、自分の欲しい物、必要としている物があるという前提である。この二つの前提が成り立たなければ、誰も、報酬をお金で貰おうとはしない。
 ここにお金の働きの意味が隠されている。
 お金があれば、欲しい物や必要な物が市場から手に入れることができると言うことに気がついた時、お金は、人々の労働意欲を刺激するのである。それは、決して品のないことでも、賤しいことでもない。あくまでも認識の問題なのである。
 そして、一度、お金で報酬を得るようになるとお金以外の報酬を受け取らなくなるのである。なぜならば、お金ならば、自分の好きな物に交換することが出来るが、お金以外の物では、自分の好きな物と交換が出来ないからである。つまり、お金という物は、人間的な物なのである。

 お金の大切さが解らない者が博打や投機をするのである。お金があれば何でもできる。お金があれば何でも許されると言った誤った認識がお金に対する道徳観をも蝕むのである。
 自由主義経済では、所得は貨幣によってもたらされることを前提としている。所得は、基本的に労働の対価、報酬として支払われるものである。
 汗水垂らしてえた報酬は尊いという考え方が根底になければ成り立たない。それは、お金を得るためには、どんな手段を用いても許されるという事ではなく、報酬を得るための手段が重要であることを意味している。お金を得る手段こそ価値観の根底を成しているのである。



所得は、分配の手段。




 個人所得の水準が低い国には、インフレーション圧力がかかり、個人所得の水準が高い国には、デフレーション圧力がかかる

 月収50ドルで成り立つ社会と月収5,000ドルで成り立つ社会とを同じ基準で考えるべきではない。単に、月収50ドルだから貧しくて月収5,000ドルだから豊かだとは言い切れない。仮に、5,000ドルで成り立っている社会で50ドルしか所得がなければ、生活が成り立たずに、餓死するであろう。50ドルで成り立つ社会では少なくとも50ドルで生活が成り立つ経済なのである。
 所得を成り立たせているのは、社会的背景である。どの様な社会的な背景に基づいて所得が成り立っているのかを明らかにしないと所得の適正な量は語れない。

 出稼ぎがなぜ成立するのか、それは、国によって生活水準や物価の水準が違うからである。この点をよく理解しないと国際化した経済を制御する事は出来ない。単純に労働費だけを比べても経済格差を解決することにはならないのである。
 同じ百万円でも国によって価値が違うのである。それは単に額面だけの問題ではなく、百万円で買える物の違いでもあるのである。
 仮に所得が十分の一の国から出稼ぎに来たとして、その国の生活水準に合わせた生活をしながら、お金を貯めて帰っても母国の物価水準からして充分に大金を手にすることが可能なのである。逆に、出稼ぎを迎え入れた国の労働者は、同じ給料で働いたら、自分の国の生活水準が高いために生活が成り立たなくなるのである。単純に低い人件費と言うだけではなく、生活水準の問題なのである。

 経済の基本は、物の生産量と通貨の流通量、そして、消費者の必要性によって決まる。

 経済制度の土台は、個人所得にある。経済の基本は、分配である。故に、分配率の変化が重要になるのである。

 今日、社会が近代化されることによって所得の絶対額は上がってきている。それが豊かさに結びつくかどうかは、分配の問題でもあるのである。

 一般に人は、自分の経済的価値基準を自分の収入、解くに月収を基準単位として考える傾向がある。会社がいくら儲かっているか、即ち、会社の利益率も自分の月収に基づいて判断することが一般的である。つまり、会社の規模を土台にして利益率を言われてもピンと来ないものである。それより、自分の給料に比較して自分の会社や国の状態を測る人が多い。この事は、個々の国の企業利益を考える上で重要な意味を持つ。その意味では、社員一人当たりの所得を基本にして利益率を考える必要がある。利益率を測るにしてもその国の状態を前提とする必要があるのである。

 人件費の高低に関しても企業が属する市場の規模や範囲によって差が生じる。例えば、国際的な市場を基盤とする企業では、人件費を比較する相手は、世界中に拡がる。それに対して、ローカルな市場を基盤にしている産業では、特定の地域の中での人件費が基準となる。市場の規模や範囲によって労働条件も違ってくるのである。

 格安業者は、好んで革命的という言葉を使いたがるが、社会を根底から覆し、自由主義を破綻させるという意味出なら、なるほど革命的と言えるかもしれない。格安が成り立つにせよ、成り立たないにせよ、それなりの理由があるのである。その理由を明らかにしない内は、その是非を論じる事は出来ない。

 分配の手段には、内的な手段と外的な手段がある。内的な手段は、組織的な手段であり、外的な手段は、市場的な手段である。
 組織的な手段を担うのは、何らかの共同体である。
 所得の最終的受け手は、経済における最小単位である。経済の最小単位には、個人、家計、法人、公共機関、国家がある。

 個人所得は、本質的に分配の問題であり、雇用の問題でもある。
 しかも、消費や貯蓄、収入や支出と表裏をなすものなのである。そのうえ、家計や財政とも連関しているのである。

 世帯数が増えれば所得も増えなければならないのである。

 通貨の流通量は、個人所得を基準にして所得の平均と分散によって決まる。また、総所得は、世帯数の増減に左右されるのである。

 所得は、労働の対価でもある。

 労働をいかに分配に結び付けるか、それが所得の問題である。
 所得とは、労働を分配に結び付けるための貨幣的手段の結果である。

 資本主義経済というとあたかも、全てが市場によって決められているかのように錯覚しがちだが、経済との引きの多くは、組織的に決められている部分が大きいのである。

 組織や共同体の存在を無視したら、資本主義の本質は理解できない。組織的分配は、需給という関係からだけでは導き出されないのである。

 雇用を労働市場という観点からだけで捉えていたら経済の実体は見失われてしまう。また、景気対策を誤ることにもなる。
 なぜならば、組織的分配というのは、需要と供給という面からだけでは捉えきれないからである。

 それこそ、生産と消費という面からも考察しなければならないし、また、必要性という観点からも考えなければならないからである。
 人は、必要性から働くのである。雇用問題は、単純に需要と供給という面からだけでなく、生きていく為に何が必要なのかが重要な鍵となる。

 又、労働は自己実現の手段でもある。所得は、労働の対価である。
 自分の労働の成果、実績がどの様な評価を受けるかは、経済性という観点から重要な要素となる。
 プロ野球選手の働きを守備位置や時間で計測することは妥当ではない。
 プロ野球の選手は、実績によって評価されることで、経済性が発揮される。その場合、所得は報酬という側面を持つ。

 家内労働に対する対価は、所得として支払われる性質のものではない。だからといって家内労働は、価値がないというわけではない。貨幣価値の換算されないと言うだけである。この点は、出産や育児も同様である。

 配慮すべきなのは、貨幣経済体制では、所得を得るものが圧倒的な力を得る。家庭内では、絶対的地位にたつ。それが、家庭内で所得を得る者と所得を得ない者との間に隷属関係を生み出すことに繋がる点である。その場合は、個人の所得であっても家族という共同体全体の所得に還元すべきなのである。

 家計は、非貨幣労働の場でもある。つまり、所得の中には、非貨幣労働である家内労働の評価を、どの程度、加味すべきなのか重要になる。つまり、一家の所得の中には家内労働に対する部分も含まれているのである。

 だからこそ、一概に、所謂(いわゆる)市場の効率性からだけで人件費を割り切ることができないのである。

 所得は、労働の対価という性格の他に、報酬、そして、生活費という側面を持つのである。

 所得を労働の対価、単なる報酬だと割り切ってしまえれば計算は簡単である。つまり、単位時間×単価、或いは、数量×単価で良いのである。
 しかし、所得には属人的な要素を多分に含まざるをえない。その点を忘れてはならない。経済の本質は、労働と分配の問題なのである。

 この様なことは、賃金体系に端的に現れている。つまり、賃金体系というのは、経済の縮図であり、国家理念を体現する体系でもある。だからこそ、一企業単独では決められないのである。それを市場の原理だけに委ねるのは乱暴であり、国民国家の趣旨に反する行為なのである。
 ならば国家は、人件費を支払っても尚利益が上げられる体制を維持することが責務になる。

 自由主義経済は、貨幣経済と市場経済を基盤にして成立している。この様な自由主義経済下では、生活、即ち、生きていく為に必要な物資は市場から貨幣によって調達することが原則となる。
 その為には、貨幣をどこかで、先ず、調達、つまり、稼がなければならない。金を稼ぐと言う事は、所得を得ることを意味し、基本的に働く事を前提としている。

 労働と分配をどう結び付けるかが、経済の最大の問題である。
 この労働と分配を結び付ける拠点が、経済主体である。企業と家族と国家なのである。

 その意味で事業体というのは、生きる為の活動の場の一種であり、主となるのは労働と分配であり、利益というのは副次的な指標に過ぎない。

 分配と言っても一律均等というわけにはいかない。寒冷地と温暖な地方では必要とする物資に質的な違いがある。個人差や個人の趣向を同一に語ることはできない。選択の自由の本質は、自己実現、人間の尊厳の問題なのである。機械的に処理すべき問題でも強制できる問題でもない。根本は、人間の意志の問題であり、主体性の問題である。

 利益をあげることが目的なのではなく、人々を養うのが目的なのである。
 優秀で能力のある人間や特殊な技能を持つ者ばかりではない。多くの人間は、平凡な技能しか持ち合わせていないのである。
 単に能力や成果だけで人間の価値を測れば、自ずと雇用は限定的なものになる。無能な者は切り捨てられてしまうのである。
 かといって人間の能力の差を認めなければ、自己実現はできなくなる。
 いずれにしても、人件費から属人的な要素が削ぎ落とされてしまうのである。

 ある意味で非効率な産業ほど雇用を創出できる。その意味では非効率だけれども経済性のある産業の育成が雇用には重要になる。この場合の経済性とは、収益力等を言う。非効率だけれども経済性のある産業というのは、機械化や合理化が出来ない、あるいは、出来ない部分を含む産業である。




労働と価値



 一般に労働市場という言葉が使われる。しかし、労働市場は、商品市場とは異質な市場である。労働力の需要と供給を商品市場と同じように捉えるのは危険である。それは、労働の価値は、商品価値とは違う基準によって測られるべきだからである。

 労働の価値は、単純に、交換価値に還元できる性格のものではない。即ち、労働の価値には、交換価値よりも分配価値が含まれるからである。むしろ、交換価値よりも分配価値の性格の方が強いと言える。

 交換価値と、分配価値の違いとは、分配価値は、分配による効用が色濃く反映していることである。分配の効用とは、有り体に言えば、生きていく為に必要な資源といえる。つまりは、生活していく上での最低必要条件である。
 この点を抜きにして労働について語ることはできない。

 労働は、最初は、個人的な行為であった。分業という言っても、家族内の分業に過ぎない。男は、狩猟し、女は、家事や育児をすると言った単純な分業である。狩猟のような労働は今日で言えば生産的労働を言い、家事のような労働は消費的労働を言う。つまり、分業といっても、生産的労働と消費的労働くらいでしかない。

 つまり、初期の労働というのは、自己完結的な仕事であり、個人的、即ち、私的な労働である。労働の形態は、統合的な労働であったと思われる。
 それが発達したとしても当初は、自給自足的な労働である。

 社会が成立するのに従って分業も高度な形態に発展していく。分業が発展するに従って労働の社会性も深化していった。

 分業は、仕事を幾つかの単位、要素に分解することによって成立する。労働は、統合的、総合的な労働から単純労働、単一労働へと置き換えられていく。

 又、分業が深化するに従って管理業も派生する。即ち、分業が、管理的仕事を生むのである。

 分業も最初は、家内分業が主だった。その頃は、自給自足を前提とした組織である。社会と言っても閉ざされた社会である。

 自給自足的な仕事は、私的な仕事といえる。社会的な仕事というのは、社会に対して開かれた仕事である。

 仕事は、単位作業に分割できる。単位作業が成立することによって分業が確立される。分業が確立されることによって組織が形成される。

 労働には、貨幣性の労働と非貨幣性の労働がある。貨幣性の労働とは、貨幣所得に還元される労働を指し。非貨幣性労働とは、貨幣所得に還元されない労働を言う。
 私的労働は、非貨幣的労働である。なぜならば、私的労働は、社会性、即ち、市場性がないからである。

 社会が成立しても自給自足的な社会である限りは、貨幣所得は生じない。貨幣所得が生じるのは貨幣経済が成立した後である。自給自足体制では、分配や交換は物によってなされる。

 社会が拡大し、共同体間における交易が成立すると市場経済が派生する。共同体も閉ざされた共同体から、開かれた共同体へと変化する。そして、交換手段としての貨幣が確立されると市場経済は、貨幣経済と融合していく。そして、市場経済や貨幣経済は、労働の社会性をより深化させる。

 労働は、所得に還元される。つまり、所得の在り方が労働の在り方を規制する。故に、労働の在り方を考察するためには、所得の在り方を明らかにする必要がある。

 所得は、組織的な仕事か、個人的な仕事かによって違いがある。
 組織的な事業による所得は、第一に、分業を前提としていると言う点。第二に、組織的な分配手段に基づいているという点が大切なのである。
 それに対し、個人的な仕事というのは、自己完結型の仕事を言う。自己完結的な仕事というのは、例えば、農業や職人仕事のように一人で原料から加工までを一貫して行う仕事を言う。
 大量生産社会とは、個人的な仕事から組織的仕事への移行している。自己完結型の仕事から、組織的な仕事へと移行する過程で個々の労働は単位化され標準化されてる事によって変質している。

 所得を構成する要素は、第一に、仕事である。第二に、個人、労働主体である。第三に、評価である。第四に報酬である。

 仕事の在り方は、所得の在り方を規定する。
 仕事とは、労働を客体化した対象である。故に、仕事の在り方は、労働の在り方によって制約される。

 労働には、質と量があり、故に、労働の評価は、密度の問題である。
 仕事は、労働の質によって規制される。

 仕事の分類方法には、第一に、形態による分類(事務、軽作業、熟練作業、流れ作業、反復作業、現業)、第二に、機能による分類(管理、営業、会計、製造、開発)。第三に、成果物(海産物、農産物、工業、サービス等)による分類。第四に、労働形態、勤務形態(会社勤務、工場勤務、個人事業、海員、軍人等)による分類。第五に、肉体労働か、頭脳労働かによっても分類される。仕事の内容が統合的仕事か、単位仕事かによっても分類される。第六に、直接的仕事か間接的(補助的、補完的)仕事かの分類もある。第七に、生産的な労働、消費的な労働の分類も重要である。
 この様な仕事の分類は、労働の質に影響する。

 基本的に生産的な仕事と、消費的な仕事があるが、今日の経済では、生産的仕事ばかりに偏向し、消費的仕事が軽んじられる傾向がある。

 その結果、生産性ばかりが重視され、消費上の問題は軽視されている。生産と消費の違いは、生産は、生産効率の観点から、単一化、均一化、標準化を重視し、大量生産型になる傾向があるのに対し、消費は、消費者の嗜好の多様性から、多品種少量生産を前提とした仕事の構成になる傾向がある。

 元来、消費者の欲求、嗜好は、多様であり、それに併せて消費者側の産業は、多品種少量、加工、改造を主とした構造にならなければならないのに対して、生産者側は、生産効率を高めるためには、生産手段の単一化、単位化、標準化が重要となる。ただ、市場は、本来、需要に支えられて成り立っている事を忘れてはならない。市場が成熟するに従って本来、大量生産型経済構造から、多品種少量生産型市場に変化していくのが自然なのである。

 労働主体とは、労働者を言う。労働主体の問題は、個々の労働者固有の属性である。

 労働主体を構成する前提要素は、能力、経験、適性、技術、知識、資格、年齢、性別、履歴等である。

 評価は、第一に、評価基準、第二に、評価手段、第三に、評価者、第四に評価対象が問題となる。評価の基準は、第一に、実績、第二に、将来性などが重要となる。

 評価は、認識、基準、判定の問題である。仕事を評価するためには、先ず仕事の内容を認識する事が前提となる。行為や労働を仕事として認識した上で、それを基準に照らし合わせて、仕事を程度を判定することになる。
 仕事の評価の根拠は、行為と成果である。行為と成果物というのは、労働と労働の成果を意味する。
 評価を所得に還元する事は、数値化する事を意味する。数値化するためには、視覚化する必要がある。視覚化は、有形化を意味する。仕事を有形課する必要があるというのは、無形な仕事もある事を意味する。

 報酬は、単に労働に対する対価という意味だけがあるわけではない。生活費という意味もある。故に、単なる市場原理だけで報酬を捉えていたら労働市場の働きを誤解することにもなる。

 報酬が、貨幣所得の基礎を形成する。

 報酬には、支払形態による分類、支払手段による分類、支払対象による分類、取得形態による分類等の分類方法がある。
 賃金労働における支払手段は、専ら貨幣のよってなされる。貨幣以外にも、物や用役がある。
 貨幣で支払われる場合の支払形態としては、賃金の形式には、固定給と歩合給がある。
 支払対象とは、何に対して報酬が支払われるかを意味する。例えば、労働の対価として支払われるのか、それとも、労働の成果を対象とするのか、生活上の必要性に対して支払われるのか、何等かの権利のに対して支払われるのかである。
 取得手段は、支払手段と表裏の関係にある。どの様に支払われるかは、どの様に取得するかの対極にあるからである。例えば、報酬を、利益処分として取得するのか。給与として取得するのかは、仕事に対する考え方の根本が違うのである。

 費用の中でも労働の価値が占める部分は大きい。また、労働が占める割合は、費用の働きに対して決定的な役割を果たしている。
 労働分配率によって市場の構造や性格は、変わってくる。特に資金の流れの方向には決定的な役割を果たしている。労働装備率の高い産業は、所得や消費を通じて市場の側に資金を供給し、資本装備率の高い産業は、借入金の返済を通じて回収側に資金を流す。
 この様な産業の持つ特性を活かした経済政策は立案されるべきなのである。

 本来、品質の良い品をより長く使うことを経済的と言ったのである。それがいつの間にか低価格の品を使い捨てすることを経済的と言うようになってしまった。その為に、節約とか倹約という言葉は、経済性と言う意味から失われ、浪費や無駄遣いが節約や倹約という言葉に取って代わった。そして、大量生産が効率性の代名詞となり、安物が経済性の代名詞となったのである。そこには、消費者の好みや意志など入り込む余地がない。
 消費者の嗜好や意志が無視され、供給者側の都合だけが優先された結果、優秀な職人芸や匠が失われたのである。それは文化の喪失でもある。
 建物からは、優美な装飾が剥ぎ取られ、四角い器に過ぎなくなり、デザインと言っても幾何学的な形でしかなくなってしまった。
 労働の価値も貨幣価値でしか測られなくなり、労働の質は問われなくなったのである。仮に、それを平等というのならば、平等の概念自体が間違いになる。平等というのは、存在において、或いは、主体性において平等なのである。平等は必ずしも均一、同一を意味しない。なぜならば、平等は個としての主体性を前提として成り立っているからである。



労働問題とは、働き口の問題でもある。


 現在、経済の主たる題材は、生産に関連したことであるが、経済にとって所得も生産に劣らないくらい重要な問題である。そして、所得の問題で、肝腎なのは、所得の源泉であり、それは、労働の問題でもある。所得には、労働による所得と不労所得がある。又、所得の支払い形式には、貨幣によるものと、現物によるものとがある。賃金には、出来高と定収とがある。
 定職があって定収入が得られる。つまり、職業と収入は不離不可分関係にある。職業に形式によって収入の形式も変わる。
 職業、即ち、仕事に対する思想が問題となる。
 仕事に対する思想の根源には、誰のために、何のために働くかという事が重大な問題となる。

 生産的労働か、消費的労働か。生産側の労働に分布しているのか。消費側の労働に分布しているのか。
 何を国の産業の要とするのかが国家観において最も重要なのである。生産側の仕事によるのか、消費者側の仕事によるのか、それによって国家の有り様は根本的に違ってくる。それは、国家は、産業の有り様を、産業は、労働の有り様を土台としているからである。

 労働には質がある。労働の質に応じて仕事にも質がある。労働の質を無視しては、経済は語れない。

 産業には、大雑把に工業と商業があり、工業は、生産的産業、商業は消費的産業といえる。そして、生産的産業と消費的産業を結び付けているのが、流通産業であり、全産業の基盤(インフラストラクチャー)を構成する産業と基盤(インフラストラクチャー)を建設する産業があるというのが経済構造全体の構図だと言える。
 生産的産業、基盤産業の構造は、資本集約型の産業が大勢を占め、商業は、労働集約型産業が大勢を占めてきた。そして、その中間に位置するのが、流通業や建設業である。
 資本集約型産業、特に、基盤産業は、長期的資金の流れを形成し、労働集約的産業は、短期的資金の流れを構成する。

 何かと付加価値労働、付加価値労働と言うが、付加価値の高い労働に適正のある者ばかりがいるわけではない。
 付加価値、付加価値という者の多くは、単純肉体労働を蔑視しているか、嫌悪している者である。
 根本的に労働というものを理解していない者か、或いは、働くことがきらいな者の考えである。

 コンピュータ立国、金融立国など馬鹿げた妄想に過ぎない。
 第一、金融技術というのは、特殊な技能を前提とした技術であり、当然、金融業界に所属する者は、特殊、専門技術を要求されることになる。この様な技術は、万人が等しく修得できる技術ではない。第二に、金融市場、及び、その周辺市場だけで全人口の雇用を充たすことは不可能だという事である。

 労働とは何かを突き詰めると人間性に行き着く。つまり、人間とは何か。人間はなぜ働くのかという根源的な問題に行き着くのである。

 その証拠に労働を一定の単位で単純に割り切ることはできないのである。

 人間には、個性があり、適正がある。その人、その人の個性や適正をいかせるように職業を選択することができる仕組み作りが経済の根本の問題なのである。能力も好みも違う。違うと言う事において平等なのである。一人一人の違いを前提としたところに平等は成り立っている。
 人間の個性や適正を押し殺し、人は皆平等だと叫ぶのは、平等の真の意味を理解していない。人間は存在において平等なのであり、自分らしい生き方を選択できるという点で平等であるべきなのである。一人一人の違いを無視したら平等なんて成り立ち得ない。男と女は違う。それを前提としたところに男女の平等は成り立つのである。

 単純反復的肉体労働賀が適している者もいる。しかし、そのことは、その人間を差別する理由にはなれない。それに、単純反復的肉体労働は、誰にもできるという労働ではない。向き、不向きの問題である。日本中の労働者をコンピューター技術者や銀行員にする必要はないのである。需要なのは、世の中にとって必要な仕事であることである。必要な仕事ならば、仕事の成果に応じた報酬を受けるのは当然の権利である。

 人件費は、単価と時間、又は、成果物で単純に割り切れるような性格のものではない。人件費の裏側に生活が隠されているのである。労働は、生きていく為の権利を構成する。
 人件費を単純に労働費と規定できないのは、労働以外に属人的な特性が人件費には隠されているからである。

 労働問題では、単純労働の方が問題なのである。

 単に人件費を費用としてしか見ないような経済的合理主義を突き詰めると単価×時間、或いは、単価×成果物だけで評価することが妥当になる。
 対極にあるのは、妥協なき実力主義をとるのか。
 いずれにしても仕事の問題を考える時は、人間とは何かと言う人間存在の根本に対する問い掛けがなければならない。
 人間の本質を競争だとしてひたすらに競争を煽るのは人間を愚弄している。
 人間は、確かに競争を好むかもしれない。しかし、それは、向上心を高める手段においてである。競争は、人生の目的、生きる目的にはなりえない。

 競争、競争と言うが、競争に何を求めるのか。経済効率を低価格にのみ求めるのは思慮に欠けている。
 経済の目的は、低価格を実現する事にあるわけではない。競争は手段に過ぎないのである。
 経済の目的は競争にあるわけではない。生きる事にある。それも人間らしく生きる事にある。どうすれば人間らしい生き方ができるかを考えるのが経済学である。
 その根底は、倫理である。金儲けのために、人間として堕落せざるを得ないような経済体制には必ず、どこかに欠陥がある。
 人間として自己実現ができるような仕組みこそが真の経済体制なのである。

 企業再生や産業の再編が単なる会計上の問題か、物理的生産性の問題としか捉えられていないのは、不幸なことである。
 企業再生は、人的問題であり、人道的問題であり、道義的問題である。つまり、会計上の問題である以前に哲学的問題なのである。
 人間を無視して経済を語ること自体、不道徳な事であり、また、不経済な事である。経済の本質は、労働と分配である。むろん、お金は大事だけれど経済の変質は、お金の問題ではない。むしろ、金のために、経済の本質が失われるのが怖い事なのである。

 雇用問題を考える時、仕事に対する錯覚が一番の禁物である。仕事があるというのは錯覚である。仕事にするのである。仕事は、自然にある事象ではない。作り出していく事象なのである。
 共同体内部に於いて仕事がなければ、分配は受けられない。だから、仕事を作って分配の権利を生み出す必要があるのである。生産性ばかりに偏るとこの点を忘れてしまう。

 競争力だけを追求し、価格の低減化ばかりを優先すれば、労働の基準は単価に収斂する。
 労働費も単位時間×単価に還元されてしまう。そうなれば、量として換算できない質的な部分は切り捨てられることになるのである。

 かつて、沖縄では、石油スタンドは、量も過剰で、サービスも過剰だと言われた。しかし、裏返してみるとそれだけ、雇用を生み出し、サービスの質の向上を計っていたという事にもなる。それが規制を緩和し、過当競争を煽った結果、石油スタンドの数は激減し、サービスもセルフ化された。元々、沖縄は、失業率が高く、石油スタンドは、雇用対策にもなっていたのである。しかも、過当競争は、スタンドの経営そのものまで成り立たなくしようとしている。
 なぜ、そこまでして安売りを強要する必要があるのか。そこに経済に対する錯誤がある。経済的に求められているのは、適正な価格であり、安ければ良いという短絡的な発想ではない。その地域社会が経済に対して、価格に対して何を期待しているかなのである。過当競争は、結局、市場の寡占化、独占化を招く。それは市場の終焉をも意味するのである。市場原理主義者が市場経済にとどめを刺すのである。

労働は生産的な行為である。


 労働は、本来、生産的なものである。同時に労働は生き甲斐でもあり、自己実現でもある。自分の仕事に誇りの持てない者は不幸である。労働に喜びを見出せず、苦役でしかない環境が悪いのである。それは経済の問題と言うより、社会や政治の問題である。

 金の儲けかたばかりを問題として、金の使い方を考えていないから労働の本質が見えてこないのである。

 生活があって金を儲けるのであって、金を儲ける為に、生きていくわけではないのである。あくまでも、生きる為に金を儲けるのであり、その為に働くのである。つまり、労働の本質は生きる事にあるのである。

 人間は、生きなければならないのである。生きなければならないから働くのである。

 経済を維持するために必要な費用の維持にある。そして、その費用の核となるのが人件費なのである。

 労働の持つ経済的意義を知るためには、労働が生み出す価値を知ることが肝心なのである。
 労働の生み出す価値には、労働を提供することによって生まれる価値と労働によってもたらされる価値の二つがある。労働を提供することによって生まれる価値とは、財を意味する。労働によってもたらされる価値とは、所得を意味する。
 財は、資産を形成し、所得は、現金収入になる。一定の所得が長期に渡って保証されることは、長期の借入の保証となる。この事は、資金の長期的需要を構成する。長期的資金は、固定的な資金の流れを作り出す。
 また、日常の必需品、消耗品は、生計を形成する。この様な生計によって消費が形作られる。消費は短期的資金の流れを形成する。消費の水準が物価を形成する。短期的資金は、流動性を生み出す。
 流動性で重要なのは、可処分所得である。
 支出にまわされない資金は、預金として金融機関に投資される。

 重要なのは、生活していく上で必要最小限、どの程度の資金が必要かである。それは、労働条件を構成する重要な要素となる。

 又、労働が生み出す財は、実物経済を形成する。生活に必要な財を生産し、社会に供給する。それが労働の持つ社会的機能である。

 つまり、労働は、生産と消費を結び付ける重大な役割を果たしている。

 なぜ、労働の果たす社会的役割が重要なのかというとそれは、労働が権利を生み出す本となるからである。働かざる者、喰うべからずと言う格言があるが、それは、裏返すと労働者の権利を意味していることでもある。

 しかも、働くと言う事は、賃金労働、即ち、貨幣的労働だけを指すのではなく。非賃金労働、即ち、非貨幣的労働も含まれているのである。即ち、労働と所得はイコールではない。

 又、労働と生産力の関数でもある。
 結局は、人口密度と生産力の相関関係の問題に帰結するのである。
 それは、人口問題という人類の根源的問題に行き着くのである。

 国際分業と言っても物質的に恵まれている地域とと貧しい地域があることを忘れてはならない。

 そこに住む者が地域の特性を生かして経済体制を構成していく必要がある。何もかも一緒、同じというわけにはいかないのである。

 経済の究極的目的は、完全雇用の実現と言うが、完全雇用は、未だに実現したためしはない。なぜならば、完全雇用という概念そのものが曖昧だからである。完全雇用という概念は、雇用関係を前提としなければ成り立たない。雇用関係というのは、賃金労働が前提である。ところが、労働は、賃金労働だけを指しているわけではない。元々、賃金労働というのは補助的な労働であり、家族や主従と言った共同体を中心とした人間関係に重点があったのである。

 余剰の労働力は非貨幣的な場に吸収されていたのである。故に、失業率と言っても見かけ上の数字でしかない。

 貨幣経済が確立される以前は、労働と分配を直接、生産物や用役によって行っていた。
 以前は口減らしの目的で奉公に出された。その時代は、兎に角、寝る場所と食べ物を与えられていれば満足していたのである。

 労働の成果物を全て貨幣価値に換算することはできない。貨幣に換算できない労働の成果物もあるのである。
 その最たる労働が家事労働である。家事労働以外にもボランティア活動の様な労働もある。全てをお金で計れると思うと経済の全貌を見失うことになりかねないのである。


労働は自己実現の手段。


 金でばかり評価されるのが労働ではない。見返りのない、無報酬の労働もある。古来、無報酬の労働こそ尊ばれきたのである。全ての労働を金でしか評価できなくなったからこそ経済は行き詰まったのである。つまり、労働の目的が金儲けでしかなくなってしまったのである。だからこそ深刻な疎外感が生じた。労働は生きる事であり、労働に生きる事の意義や生き甲斐が見出せなくなったからである。

 歳をとるとなるべく早く仕事を辞めることが求められる。それが、当人にとっても社会にとっも良いことだという。欧米人は、遊んで暮らすことに価値を見出しているようである。しかし、日本人は、働く事に生きる価値を見出してきた。そして、働く事によって仲間や家族との絆を作ってきたのである。その絆が強制的に断ちきられ、人生を中断させられてしまう。

 働く場所を失った人間は惨めである。運命を共有する仲間を失った者は哀れである。行き場所も居場所もつまりは生きる場所を失ってしまう。
 母親は、死ぬまで母親である。子供が独立したら、親子の絆まで失ってしまうとしたらあまりにも哀しい。
 世の為、人の為に働く事ができてこそ人間は、自分の存在意義が確かめられるのである。現代経済の愚かさは、労働を否定したことにある。労働を否定し、何でもかんでも、機械化してしまえと言う思想がどれ程野蛮な思想かを理解していないことにある。

 働く事の権利を守ることこそ国家の使命である。雇用が重要なのではない。働く場が確保されることが重要なのである。そして、それが生きる事であり、経済なのである。

 福利的事業は、あくまでも補助的なものとすべきなのである。基本的には、所得は、労働の対価と考えるべきである。福利的事業は、所得の偏りを是正するための所得の再分配の一環として捉えるべきである。不労所得は、社会に多大な負担を強いることを忘れてはならない。経済の本質は、労働と分配にこそあるのである。

 なぜ、何のために、そして誰のために働くのかは、なぜ、何のために、そして、誰のために生きるのかと同じ事である。

 極端な所得格差は、結局、国家も、国民も、疲弊させる。貨幣経済が発達する以前は、農民は、自分の収穫物で生活をしていたのである。必要な物は自給自足し、その中から納税もしてきたのである。何等かの原因で生活に必要な物が得られなくなり、その結果、土地を取り上げられても、必要な物は自分達で生産してきたのである。それが叶わないとき、金に頼った。賃金労働者というのは、社会の最下層に属していた。
 それが貨幣経済が発達することによって全ての収穫物は一旦現金化し、それを賃金として支払われる様になった。それは、貨幣収入が全てであり、その為には、賃金労働だけが労働であるかのような幻想をもたらしたのである。
 この様な状況で格差が広がれば、分配に偏りが生じるのは必然的帰結である。
 大地主のような富裕層にとっては、土地はタダのように安い物でも、貧困層にとっては、一生働いても手に入れられないほど高価な物になる。そうなると物は動かなくなり経済は停滞する。格差が拡大して得する者はごく限られた特権階級だけである。そうなると経済は活力を失い。停滞する。

なぜ、何のため、誰のために働くのか。


 なぜ、何のために、そして、誰のために働くのか、その答えこそ経済の本質を表しているのである。そして、その答えを自分として選択できるようにするそれが自由経済の本意である。その為に経済的自立を保障するのである。

 私の父は、縁という言葉を大切にしろと私に常々言う。縁とは、人と人との関わり合い、結びつき、絆である。そして、一緒に仕事をする人達とよく同じ釜の飯を食った仲間ではないかと励まし合ってきた。そして、最後に頼りになるのは家族なのだと言い聞かされてきた。
 親兄弟にも言えないことを話せるのが仲間であり、遠く離れていてもいざという時、助け合えるのが、親子、兄弟、姉妹なのである。仲間と家族、それが経済の核となる主体である。
 愛し合い、信じ合い、助け合える仲間と家族、それが経済の原点なのである。その根幹に夫婦、父母、友達がいる。
 経済の中心となる主体は、仲間と家族である。その本質は、友愛であり、家族愛、夫婦愛である。つまり、経済の本質は愛なのである。そこに経済の持つ公共性の意義がある。それを失った時、経済は、不毛なものとなり、市場は修羅場と化す。市場は、自分の欲望を満たすためだけの醜い争いの場となるのである。その様な市場で勝ち残れるのは、金を儲けるためならば、親子兄弟、仲間を売ることのできる者だけである。争いだけを市場に求めるのは愚かなことである。金儲けのために、道徳を犠牲にすることは、経済の本義でない。
 不景気になった時こそ、仕事仲間は一致団結すべきなのである。不況だからと言って仲間を切り捨てるのは不経済な話である。それは経済の目的が金に移った証拠である。苦しいからこそ、仲間を見捨てることができないのである。
 経済とは、生きる為に苦楽を共にする覚悟をすることなのである。決して金儲けのための手段ではない。金を儲けることは、仲間を守り、家族を守るための手段である。金儲けのために仲間を売り、家族を捨ててしまうのでは、金を儲ける意味がない。経済の本質が失われているのである。金儲け主体の経済は、魂のない肉体のようなものである。タダ、醜悪なだけであり、いわば怪物である。
 経済は、世の為、人の為にある。だからこそ、働く事に意義があり、喜びが見出せるのである。
 金そのものには意味がない。金は、使い道によって意味が生まれるのである。自分の邪悪な欲望を満たすために金を使うか、人を助け、家族の幸せのために使うかを決めるかは、金を使う者の側の問題である。
 貧しいか、豊かは、金の問題ではなく。心の問題なのである。
 現代社会の病根は、経済を金を儲けることだと錯覚したところにあるのである。経済とは、生きることであり、その人の人生そのものである。如何にして金を儲け、どの様に、金を使うかは、その人の良心の問題である。
 労働の価値は、その人の生き様によって測られるものなのである。

 なぜ、何のために、そして、誰のために働くのかの答えを金に求めることほど愚かなことはない。答えのない問い掛けを、無限に繰り返すことになる。生き甲斐を金に求めても意味がない。金儲けは手段なのである。目的にはなりえない。勉強は手段なのである。目的ではない。勉強のための勉強は、目的を持ち得ないのである。同様に金儲けも手段である。目的にはなりえないのである。金を儲けてもそれだけでは幸せにはなれない。経済の目的は生きる事なのである。

 貨幣は、非道徳的な物である。市場は非道徳的空間である。神は善悪を超越した存在である。貨幣や市場に道徳を求めるのは愚かである。道徳は、貨幣を使う側にあるのである。道徳を求めるのは家庭や社会である。善悪を決めるのは人間である。その結果に対して責任を持つのは自分である。

 いつから人間は、これ程、働く事を嫌うようになってしまったのであろう。労働を卑しむあまり、労働者と奴隷との見分けもつかなくなってしまったようだ。兎に角、遊べ、休めである。休日をとらずに働こうとすると強制的に休もうとする。先日も、馬鹿な首長が率先して休むと宣言をしていた。
 私は、遊びと労働とは、本質的な違いはないと考えている。要は、楽しんでいるか、金を得ているかの違いである。金儲けは、辛く哀しい、だから、金をもらっているのだと金儲けの言い訳にしているだけに聞こえる。アマチアは、楽しんでいるのだから金をもらう資格はない。プロは苦しんでいるのだから、金をもらう資格があると言いたいのだろうか。
 だから、同じスポーツでもアマチアでいる時は、気楽に楽しめるけれどプロになったら、苦しいだけだと言う事になる。練習が厳しいことは、プロもアマチアも違いがないと私は思う。
 オリンピックでさえ、プロとアマとの境目が判然としなくなり、結局なくなってしまった。オリンピックは、参加することに意義があると言われたのに、金をもらうようになると勝負に拘るようになった。プロは仕事であって、アマチアは遊びだからか。仕事としてやるのは悪いが、遊びなら良いのか。
 つまりは、金を儲けるという手段が生きる目的として目的化してしまったから、問題なのである。そして、スポーツの本質が忘れられてしまったことである。
 勉強も試験に合格することが目的化され、受験は、競技化されてしまった。子供達は、なぜ、何のために勉強しているかの意義が解らなくなった。大人が、子供達になぜ、何のためにと言う問い掛けさえ許さなくなったしまったからである。
 どうして学問の質を問題にすることができようか。
 労働は、喜びである。仕事場は、自己実現の場である。仕事は、生き甲斐である。働く事によって自分が世の中、社会、家族から必要とされていることを実感することができるのである。だから、働く事は権利である。職業を選択する自由は、保障されなければならないのである。

 問題は、労働が苦痛にしかならないような環境や条件である。勉強が子供達にとって拷問でしかないような環境や仕組みが問題なのである。

 我々の祖先は、山の木を切る時、山の神に祈りを捧げ、神の許しを請うた。そして、切り株には、枝を添え木したのである。それが経済である。経済とは、神聖な行為である。それは生きるための活動だからである。その根本にある労働は神聖な行為である。故に、日々働けることを神に感謝し、神に祈りを捧げたのである。それを経済というのである。労働を卑しむ者は、自分の人生を卑しむ者である。

 経済的自立とは、自分の持つ労働という資源を活用して生活に必要な資金を得ることにある。そして、その機会を保障するのが国民国家の役割とするのが自由経済の鉄則なのである。

 経済の本質は、人と物にある。
 今日のように貨幣経済が発達する以前では、日々の糧を得た時に神に感謝し、日々の糧を消費する時に、又、神に感謝した。賃金、給与として貨幣によって労働の対価が支払われるようになると人々は、神に感謝することを忘れた。そして、驕慢になったのである。

 しかし、経済の本質に何ら変わりはない。日々の糧は、神の恵みであり、人々が汗、水垂らして働いた賜物なのである。経済の実体は、人と物にある。金のことばかりに思い煩う現代人は、貨幣という影に怯えているだけなのである。
 我々は、生かされているのである。我々は金によって生かされているわけではない。日々の糧を与えてくれる存在によって生かされているのである。神に対し感謝しながら、日々精励する姿勢を失わなければ生きることの本質を見失うことはない。そして、それが経済なのである。




       

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