2 人的経済

2-4 組織の問題

天地人


 天地人。天の時、地の利、人の和。そこに組織経済の要諦はある。

 易に太極あり。太極から両儀が生じる。

 道は、一に始まるも、一にしては、万物は、生ぜず。故に、別れて陰陽と為り、陰陽合和して、万物生ず。故に曰わく、一は二を生じ、三は万物を生ず。(「淮南子」天文訓)

 一陰一陽これを道という。

 二は、認識の始まりである。

 一とゼロからなる二進数は、あらゆる数学の原点だといえる。
 二進数は、意志決定体制や論理の基盤である。

 二進数では、負は補数である。
 二進数において、正と負は補数関係にある。正と負が補数の関係にあることは、二進数が数学の始源であることを意味する。又、この関係によって事象の均衡は保たれるのである。
 ゼロには、基準のゼロ、位取りのゼロ、無のゼロがある。
 はじめに一、二が生じ。次ぎに、ゼロ、一が生じた。ゼロが発見される以前は、一、二。ゼロが発見された後はゼロ、一。
 一と二は、個別の一と二であり、独立した一と二であり、数としての一と二である。ゼロと一は、無か、有か、或いは、ゼロから一、即ち、任意の地点までを意味する。そこから、三つの方向に数学は分岐した。離散数と連続数に分岐し。更に、是か非か、或いは、任意の基準、単位とに分岐したのである。またいずれにしても、一には、全体と部分の意味がある。

 そして、意思決定、論理の仕組み、メカニズムは、イエスかノーか、是か否か、つまりは二進法によって成り立っている。それはアルゴリズムと数学とを結び付ける原点でもある。故に、二進法こそ数学と現実の世界との接点だといえるのである。

 我々の生活する空間は、十進法によって支配されている。その為に、知らず知らずのうちに十進法を基礎とした思考に慣らされてしまっている。
 情報通信工学の世界は二進法の世界である。そして、この二進法の世界から、新たな数学が生み出されようとしている。
 実は、この事が我々の思考回路の中に重大な変化を引き起こしているのである。そして、この二進法的論理は、人間の意思決定等直接的に結びついている。
 それは、数学的な発想を我々の生活に直結する働きがある。それが情報革命の本質でもある。それは従来の数学の枠組みを越えて数学が我々の世界に入り込んでくることを意味している。それが新しい数学を生み出す原動力なのである。

 情報革命の背後には、新しい数学の出現を予感させるものがある。
 新しい数学を予兆させるのは、二進法的空間と新たなアルゴリズム、そして、階層的空間である。
 そして、この新しい数学が情報革命の裏に潜んでいる。産業革命の背景には、組織革命があった。同じように、現代進行している情報革命の根底では、組織革命が同時に進行している。

 意思決定の基本は二者択一である。その意味では、意思決定は二進法の世界である。
 真善美とは、真偽、善悪、美醜である。又、判別の基本は、是非、正否である。いずれにしても意思決定は、二者択一である。それでも曖昧な部分があると思われるかも知れない。しかし、曖昧な部分は、非決断であり、やるかやらぬか、のるかそるかと言う点で言えば二つに一つである。、
 意思決定や情報の場は、二進法的場である。yesかNoか、陰か陽か、いずれにしても二者択一的な判断を表す。
 会計空間は、二進法的場と十進法的場が階層的に重なり合って形成されている。

 世の中には、組織嫌いという人は結構いる。そう言う人は、組織を自由の対極にある。
 やってみたい仕事として、オーケストラの指揮者や外科のチームのリーダー、野球の監督、軍隊の指揮官、つまりは、組織を自在に扱ってみたいという人も結構いる。

 組織が嫌いという人間の中には、組織に縛られるのが厭だからという者がいる。私も、かつては組織嫌いの一人だった。私も、何かと規則、規則と規則によって雁字(がんじ)搦めにされるのが堪らなく厭だった。その上、手続、手続と何とも鬱陶しい限りである。チームワークもチームに迷惑をかけたくないと言うプレッシャーに押し潰されそうになったものである。
 しかし、よくよく考えてみると組織がいやだと言っても組織そのものが厭なのか、今の組織が性に会わないのか、判然としない。それに、社会に組織が付き物ならば、一人でいきていけな以上何等かの組織に関わらなくてはならなくなる。組織との付き合い方が解らなければ、結局、ひきこもりになるしか他にない。ならば、自分に合った組織を作り出す以外にない。そう覚悟を決めた。

 逆に組織が好きな人間は、何かに従属し、集団で一致団結して事業を成し遂げることが快感なのである。生き甲斐なのである。軍隊や集団競技に携わる者の中にこういう類は多くいる。彼等にとって大切なのは連帯感と規律である。そして、同じ釜の飯を食う仲間である。

 組織には、不思議な力がある。組織は、莫大な力を発揮する反面、暴走することもある。


組織とは


 組織とは合目的的体系であり、目的によって組織の形や働きは変わる。

 組織が発生する要素には、作業の同時性、並行性、共同性、統一性がある。

 組織は、体系である。
 組織は、情報系である。
 組織は、ネットワークである。
 組織は、集合である。
 組織は、機能の集合である。
 組織は、人の集合、集団である。
 組織は、権限と責任の集合体である。
 組織は、立体的である。
 組織には、評価と機能の階層がある。
 組織には、構造がある。
 組織には、垂直的構造と水平的構造がある。
 組織は、自律している。
 組織には、規則や法がある。
 組織には、統制が必要である。

 組織は、全体と部分から成り、それぞれに一定の役割や働きがある。
 組織の部分には、全体を維持しようとする働きがある。
 組織を構成する個々の部分の働きや役割が、組織を分業化する。
 分業化は、分権化の元となる。

 組織は、一つの法や掟に基づいて動く。組織を構成する者、全員が護るべき法に基づく一様な働きが権利と義務である。
 権利と義務は、表裏をなす働きである。つまり、義務の数だけ権利があり、権利の数だけ義務がある。又、権利と義務は、全体と部分、双方にかかる。
 全体を護るのは、部分の義務であり、権利である。部分を護るのは、全体の義務であり、権利である。
 国を護るのは、国民一人一人の義務であり、権利である。国民一人一人を護るのは、国家の義務であり、権利である。

 この様な働きを持つのが組織である。

 組織には、集権的な形と分権的な形がある。

 スケールメリットという言葉がある。規模による効能とでも言えばいいのだろうか。しかし、組織は、大きければ良いというのではない。組織は、大きくなりすぎると効率が低下する。それは、組織は、情報系であるからである。情報系である情報が流れる速度と範囲、精度(質)によって組織の効率は測られなければならない。
 情報が伝わる速度と範囲、そして精度(質)には限界がある。その限界を超えて組織が拡大すると組織の効率は著しく低下する。問題は、情報を伝える速度と範囲、精度を維持する仕組みや技術にある。その仕組みや技術が飛躍的に、今日、進歩している。しかし、だからといって全ての制約や阻害要件から解放されたわけではないのである。

 組織を動かす力は情報である。組織は、情報の網、ネットワークだと言える。
 組織の有り様を決定付けるのは、情報の持つ性格による。
 情報には一定の流れる方向がある。情報は、一定の経路を通して流れる。
 情報には力がある。情報が流れることによって組織は動く。即ち、情報には、組織を動かす力がある。
 情報は、一定の経路を伝わって流せる。
 情報の流れ方には、双方向の流れ方と一方通行の流れ方がある。

 情報の中には、強制力のある情報がある。それが指示、命令である。
 指示、命令は、権限と責任を生む。つまり、指示、命令が流れる方向によって権限と責任が生じるのである。権限と責任は、表裏をなす働きで、その本となる情報は、一つの情報である。

 指示や、命令に強制力を与えるのは権力である。即ち、権限や責任に対して強制力を持たせるのは、権力である。組織は、合目的的機構であるから権力の源は、組織的の目的である。

 情報系である組織は、点と線によって構成され、点と線によって結ばれている。
 点と線によって結ばれていない部分は、一体に見えても組織の一部ではない。

 組織には、単位がある。
 組織には、限界がある。組織の限界が組織の最小単位を規制する。組織の限界を規定するのは、情報の伝達速度と範囲である。

 情報の伝達速度と範囲が組織の規模を規制する。

 二人以上の人間が集まり、共同して何等かの作業をしようとすれば自ずと組織は生じる。逆に言えば共同作業、共同の利害、共同の目的があるところに組織は生じるとも言える。
 夫婦、親子は組織の最も原始的な形態である。

 組織の人間関係には縦の関係と横の関係がある。この縦の関係と横の関係が組織に階層を作り出す。
 組織に階層性を持たせなければ、組織の規模は限定的になる。

 最近は、フラット、水平的な組織もある。ただ、この様な組織は、情報交換、情報伝達型の組織に多く、意思決定や事業型の組織には、不向きである。


組織は情報系の一種である。


 情報、通信の世界では数学は観念ではなく現実である。そして、現実が観念より優先される世界である。故に、プログラムのような体系を数学の大系として認識する事ができないでいるのである。
 しかし、プログラム言語は、数学の一種と見なすべきなのである。

 情報や通信の世界は、論理的空間である。そして、情報や通信の世界では、集合の論理関数がごく自然に活用されているのである。

 これらの発想は、ネットワークやプログラムの技術を通じて直接的に現実の世界に反映されている。ここでは、数学は抽象的な概念ではなく。現実なのである。
 プログラムは一種の方程式である。

 プログラム言語は、数学の一つの方向を示している。数量から離れ、働きを核とした数学の在り方である。

 例えば、情報工学の世界では、関数とは、決められた処理を行う命令の集まりである。関数に関する従来の数学の考え方とはまったく異質な思想がある。

 情報工学における等号が意味するのは、同じであるではなく。同じとするである。この点にも従来の数学には見られない発想がある。
 等号の意味は、単に等しいという意味を表象しているだけでなく。代入という概念を基礎としている。そして、従来の等しいという機能は、前提条件があることによって成立する。

 又、変数とは、何等かの値を入れるための器、文字通り、空間である。値とは、数値のみを指すのではなく、象徴化された、記号化された情報である。象徴とは、対象から抽象され何等かの要素である。要素とは、性質である。
 そして、変数の性格は、変数を成り立たせている条件、要件によって決まる。つまり、変数の性格が限定、絶対化されるのではなく、条件付けられる事によって相対化されるのである。

 定数というのは、名前を付けられた値、或いは、名前によって特定された値を言う。翻って言うと定数とは、値に付けられた名前である。

 論理を構成する部分は、即ち、単位は、入力、演算、出力によって形成される。
 論理を制御する仕組みは、第一に、順序、第二に、条件、第三に、反復、繰り返しである。つまり、条件に基づいて判断し、順次に実行すると言う事と、同じ事を繰り返すという事である。部分の順序が重要になるという事は、配列が意味を持つことになる。

 この様に個々の部分極めて単純に作られている。だからこそ、複雑な処理が可能となるのである。

 この様なことを鑑みると、情報通信工学の世界から、まったく新しい数学が生まれようとしている事が予兆される。
 それは、数量から数学が開放され、働きを基盤とした数学が、インターネットやプログラム技術と言った情報技術を通じて現実の世界の中で実現しつつあることである。
 情報産業の発達は、無形で抽象的世界にひきこもりがちだった数学に肉体を与え、新たな魂を吹き込もうとしている。

 ネットワークというのは、点と線を結び事によって成り立っている。点と線というのは、一次元、二次元の空間を意味する。又、二進法的な空間でもある。

 組織や会計、仕事、作業には、フラクタルな構造がある。

 情報系において重要な要素の一つに階層性が上げられる。
 情報系を支える数学の基礎は、群論である。群は集合であり、集合は空間を生み出す。そして、その空間が階層を形成するのである。その為に、新しい数学には、階層が重要な役割を果てしている。

 例えば、インターネットは、一般に七つの階層を持つと見なされる。第一層が、物理層。第二層が、データリンク層。第三層がネットワーク層。第四層が、トランスポート層。第五層がセッション層。第六層がプレゼンテーション層。第七層が、アプリケーション層である。
 さらに、第一層から第二層までがネットワーク・インターフェイス層、第三層がネットワーク層、第四層が、トランスポート層、第五層から第七層までがアプリケーション層を構成する。

 情報系は、空間を構成する。情報系が形成する空間は、ベクトル的空間である。ベクトル的空間であるという事は、線形的空間でもある。
 つまり、距離と時間が重要な働きをする。距離とは、単に、物質的距離を指すのではなく、価格や作業と言った観念的な距離も意味する。この様な距離を定義するのは、その場その場の前提条件、要件である。故に、情報系の定義は、原則的に要件定義となる。

 情報系は、線形的的空間を形成するため図形によって表現する事が可能となる。

 組織は、情報系の一種だと見なす事もできる。
 故に、組織効率は、情報効率でもある。そして、情報工学の発展が組織革命を促しているのである。

組織と意思決定の仕組み


 組織は、二進法とアルゴリズムのによって成り立っている。

 組織とは合目的的な機関である。機関とは、自律的仕組みである。

 組織は、合目的的な集団である。合目的的な集団とは、機関である。機関は、自律的でなければならない。自律的というのは、主体的に状況を判断し、自己の内部の力で物事を決定する能力を持つことを意味する。
 物事を決定する為には、合理的に物事を判断する能力がなければならない。それが組織的な活動である。

 組織は、全体であり、部分でもある。
 組織は、自立していなければならない。つまり、意思決定、統制、制御、保護の機能を持っていなければならない。

 組織で重要なのは、対象を分類し、且つ、関連付ける能力である。故に、並行的作用を前提とする。即ち、複数の事象が同時的な進行することを前提とする。故に、組織で、分割と統合が重要な要素となる。その為に組織に要求されるのは、制御と統制である。

 組織は、集合である。組織は、複合的集合である。組織は、幾つかの要素が複合された集合である。
 まず第一に、組織は、人の集合である。第二に、働きの集合である。働きの根本は仕事である。第三に数の集合である。第四に権限の集合だと言う事である。これらは独自の場を構成し、階層化する。
 仕事の集合とは、作業の集合である。

 組織という言葉から何を想像するであろうか。
 組織図やネットワーク、フローチャート、相関図ではないだろうか。組織からイメージされるのは、図形化された組織の姿である。
 組織は、グラフ、ネットワークと言った図形によって表現することができる。又、図形化する、即ち、視覚化することによってより組織の概念を深化する事が可能となる。

 組織を成立されているのはアルゴリズムである。アルゴリズムを定型化し、具象化したのが手続である。そして、それを管理するのが事務である。

 従来の組織では働きよりも数が基本とされてきた。組織の論理とは数の論理である。しかし、その数の論理が急速に崩壊し、数の論理から機能の論理に取って代わろうとしている。つまり、衆を束ねる長制度からそれぞれの役割や働きを中心とした職務制度へと変貌しつつあるのである。そして、その過程で近代スポーツは成立した。
 その好例が軍事である。軍は、数の力から性能と力へと急速に変わりつつある。それに伴って軍事思想も変わりつつあるのである。

 組織におけるゼロの位置が重要なのである。

 日本人は、民主主義に対して重大な錯誤がある。それは、民主主義を話し合いに仕組みだと勘違いしていることである。そして、話し合いの仕組みが成り立つ前提を話せば解るという事においていることである。
 民主主義の大前提は、話しても解り合えないという事である。だからこそ、話し合いの規則と意思決定の仕組み、仕方が重要なのである。その仕組みが会議である。
 日本人は、会議を一種の儀式だと思っている。それは、話せば解ると言うことを前提としているからである。話し合いの決着を規則に基づいてするのではなく。話し合った結果、即ち、合意に基づかせようとするから、組織的決定が下せなくなり、袋小路に陥るのである。
 そして、業を煮やした末端の部分が独断専行し、その結果を追認する形で組織が動くのである。これでは、当然統制のとれた運動はできない。

 それが、結局、戦前では、軍部の暴走を制御できなくなり。あの悲惨な結果を招いたのである。戦後、残された多くの証言を聞くと誰一人として真の原因、統一的な見解を示すことができない。ただ、その場の雰囲気に流されたとしか言いようのない状態に陥ったのである。

 その状況は今日の日本も本質に変わりがない。

 組織にとって最も重要なのは、規則であり、規律である。そして、一体感(アイデンティティ)である。一体感の根幹は、共通、共有事項である。宗教的組織が強靱なのは、信仰を共有していることである。

 又、民主主義の本質は、意思決定のための手続にある。民主主義というのは手続の思想なのである。
 民主主義の本質を多数決だと思うと民主主義の本質を見失う。民主主義の本質は、手続なのである。そして、それは、解り合えない人間の集まりとしての社会、国家を前提としたときにこそ成り立ちうるのである。

 その前提は、個人の主体性にある。個としての自己の集合が、全体を形成することによって民主主義的体制は成り立ちのである。
 その前提としての討議である。討議を前提として規則に基づいて決定をすることが、民主主義を成り立たせている前提なのである。
 故に、民主主義における会議は、単なる儀式ではない。意思決定のための手続の一つである。

組織は人の集まり


 戦後の知識人の多くは、反体制、反権力、反権威を標榜する。学園紛争時に、なまじ体制側などに立とうものなら反動とつるし上げをくった。
 しかし、なぜ、中央政府が経済や政治を統御することが悪いのか。中央政府が経済や政治を統御できなくなれば、必然的に、経済は破綻し、治安は悪くなる。それが道理である。戦後の知識人を自称する者の言う事は、ただ、他人に操られるのは厭だと拗ねているようにしか見えない。
 志があるというのならば、ただ反対しているだけでなく。現実的な対策を示すべきなのである。現実的な対策を示せないのならば、戦前、軍部の尻馬に乗って国民を戦争に駆り立てた人間と何も変わらない。

 組織にとって重要なのは、規律と統制である。統制と規律を失えば組織は、烏合の衆になってしまう。
 特に、危機や混乱状態に陥った時、組織の存亡を左右するのは、団結力である。そして、団結力の源は、統率力である。

 組織は、人の集まりである。即ち、集団である。組織を動かすのは人である。人が系統だって動くことによって全体は、一体となり秩序だって動くことが可能となる。
 人を点だとすると組織を構成する点は、先ず人としての要素と役割からなる。組織の占める位置なよって定まる働きが職務である。職務は、仕事として実現する。仕事は作業の集まりである。

 組織の人間関係には、縦の人間関係と、横の人間関係がある。組織を保つためには、縦、即ち、垂直方向の人間関係と水平方向の人間関係の均衡、バランスが重要なのである。
 最近は、縦の人間関係に対し、否定的な考え方をする者がいる。縦方向の人間関係は、差別や格差の原因となると言うのがその理由である。
 しかし、組織を制御する為には、垂直方向の人間関係の働きを抜きにしては考えられない。
 組織は、一定の規模、即ち、情報の伝達速度と範囲によって管理の限界上の限界がある。限界を超えると組織の統制は急速に低下する。管理の限界を超えない範囲ならば、水平的な組織も機能するが、管理の限界を超えれば、垂直方向の人間関係が必要とされる。
 又、極端な格差や差別も組織の効率を著しく低下させる。
 重要なのは適度な幅の差なのである。差をなくせと言うのは、極論過ぎる。差は、位置付けでもあるのである。又、評価の基準でもある。

 人が系統的に動くためには、それぞれの役割を明確にする必要がある。組織を構成する部分の要素には、5W1Hがある。
 なぜ、何を、誰が、どの様に、何時するのか。それに費用が加わる。それが組織の一点を構成する要素である。
 なぜとは動機、動因を意味する。何時とは時間、時刻、始点、終点などを意味する。何をは、物を意味する。どの様には手段、操作、行為、作業、動作である。これらの要素が組み合わさることによって組織は統制のとれた全体としての動きが可能になるのである。

 組織はネットワークである。組織の機能は、共通、共有した部分と固有の部分とから成る。
 共有部分は、普遍的、一般、日常的、平時的、定型的、受動的、汎用的部分と言い換えることができる。固有の部分は、専門的、特殊、非日常的、有事的、非定型、能動的、合目的的な部分とも言える。

 組織が形成する階層には、場の規範部分と働き部分の二つの場ががある。働き部分では、第一に、共通部分、第二に、固有部分の二つか場が形成される。

 場の規範を形成する場は、組織を運用するための基準や決まりを定める働き。民主的組織では通常会議体を指す。
 会議体を司る役割には、会議を取り仕切る議長、記録を受け持つ書記からなる。
 法や規則の制定、改廃は、手続に則って行われる。

 企業では、資本家層、経営者、役員層、実務家層というような階層が見られる。
 働きの場を構成する第一の共通部分には、組織の仕組みを維持するための働き。共通部分の働きには、第一に、組織管理。第三に、統制、制御。第四に統一がある。
 第二の固有部分は、組織の目的を実現するための働きをする場である。

 組織は、動かなければその機能を発揮し、目的を達成することはできない。組織全体を動かすのは、組織を構成する部分の人である。個々の人の動きが組織全体の動きを決する。

 組織を実際に動かす働きには、全体(仕事、作業)の統御、人の制御、物の管理、金の運用、外部との接続がある。

 通常これらの名称は全体の統御を総務、人の制御を人事、物の管理を管理、金の運用を経理、外部との折衝を渉外(営業)等とする。

 組織には、位置と運動と関係がある。組織の位置と運動と関係によって組織を構成する部分、要素の働きが形成される。
 組織を構成する部分には、機能と能力が要求される。
 組織を構成する機能や能力は、職位、職能、職務、職制、職責、職権によって形成される。
 そして、現実の組織は、組織の土台である職位、職能、職務、職責、職権の上に現実に組織を構成する個人の能力、適正によって構成される。

 野球で言えば、攻守の別があり、守備には、守備位置があり、攻撃には、打順がある。守備位置には、守備位置固有の働きがあり、守備範囲がある。また、打撃には、打順に応じた働きがあり、性格、役割がある。その上に、個々の選手の能力や適正があって成り立つのである。個々の選手に要求される能力には、共通した部分と守備位置や打順に応じた固有の部分がある。

 人は、能力、実績、意欲があり、適正や能力は、配置によって、実績は、評価によって、意欲は、教育によって測る。
 作業を測る基準には、正確さと速度がある。

 人、物、金は、運営、管理、経営によってなされる。

 交換と分業は、経済の構造化の端緒である。

 組織や会計は、自己相似的集合である。自己相似的集合である故に、一般化され、標準化され、平準化され、部品化することが可能なのである。又、互換性もあるのである。

 組織は、合目的的体系である。組織の目的は、事業にある。事業とは仕事の集合体である。故に、仕事から組織を見ると組織は時間と仕事の関数である。
 組織を仕事という観点から見ると、仕事も一つのネットワークとしてみることができる。
 組織は、合目的的作業の集合体である。
 全体の事業は、複数の単位作業から成る。単位作業には、始点と終点がある。そして、作業には、構造と配列がある。つまり、始点と終点以外の単位作業には、前後の作業がある。
 始点は、開始手続があり、終点には終了手続がある。手続とは、定型化された一連の作業である。
 組織的作業は、複数の並行作業からなり、作業の分岐点と集合結合点が複数存在する。
 作業は、人、物、金、時間、仕事、場所の要素から構成される。これらの要素は、それぞれ独立した部分、場を形成する。

 又、作業は、自己相似的であり、順序が重要となり、条件によって処理が変化する。又、基本的には、作業は、単純、反復、繰り返しである。
 
 プロ野球を例にすると、プロ野球リーグがある。プロ野球リーグ、プロ野球球団とリーグの運営組織、審判団の集合である。プロ野球球団は、プロ野球チームとフロントの集合である。野球チームは、一軍と二軍の集合である。チームは、監督、コーチと選手集合である。野球は、ルールの集合である。野球は、守備位置の集合である。野球は、打撃の順序集合である。野球は、選手の集合である。
 この様に、プロ野球組織というのは、幾つかの要素が階層的に複合された集合である。

組織と経済性


 何でもかんでも大きければいいと言うわけではない。規模による利益のみを追求する時代は、過ぎたのである。
 アメリカは、本来、スケールメリットの追求と同じくらい分立を重んじる国である。集中と分散、一見対立した概念を統合する概念こそ、仕組みにあるのである。そして、それが民主主義の原理である。

 組織は、放置すると自己増殖し、肥大化する傾向がある。その典型が官僚組織である。
 組織は、相互牽制によって抑制されないと自己増殖を続ける。組織は、規模の拡大によって組織を管理するための機構が必要となる。そして、組織を管理する機構は、規模が拡大すればするほど肥大化するからである。そして組織が一定の限界を超えて肥大化すると組織は自分の規模を維持できなくなって内部崩壊をするか、分裂をする。組織そのものの負荷によって瓦解するのである。
 組織は全体と部分から成り立っている。組織が拡大すると部分は、部分の機能によって拡大する。組織全体のベクトルと部分のベクトルの方向が違ってくるからである。だからこそ、対価という思想が重要なのであり、フィードバック機構が必要とされるのである。
 組織が維持できる規模は、情報の伝達可能の範囲に関係する。

 例えば、百人で野球をするのと九人で野球をするのとではどちらが効率的かである。

 組織が肥大化すると部分は、全体が見えなくなる。組織は、肥大化すると自分の規模によって制御不能に陥り、自壊してしまう。それを防いでいるのが、管理組織であり、情報系である。官僚組織や官僚組織の一種でもある軍事組織が典型である。
 貨幣は、情報を伝達する媒体である。
 組織の経済性とは、情報に関連した概念である。組織を構成する個々の部分からの情報を全体に還元し、情報を還元することによって全体を制御するのである。
 自由主義経済は、会計制度によって費用対効果を測定することが可能となった。そして、費用対効果を測定することによって経済的組織は、全体を認識し、市場を制御することが可能となったのである。

 組織は、合目的的な存在である。
 組織は、目的とその目的に合致した情報の伝達範囲を元に内部分裂を繰り返す。

 組織は、情報伝達が可能な範囲において分裂を繰り返す。それが組織の経済性である。
 事務や手続は管理の手段である。管理機構は、情報伝達機構でもある。

 組織や会計、仕事、作業には、フラクタルな構造がある。
 組織がフラクタルな構造を持つのは、組織の情報伝達の仕組みや範囲、速度に関係する。それが組織効率の基礎となる。

 組織効率は、単に、生産効率ばかりに求められる基準ではない。組織効率は、生産効率、分配効率、消費効率の均衡によって求められる。そして、組織に於いて生産、分配、消費の効率を均衡させるためには、情報効率が重要な働きをしている。故に、組織効率は、規模の拡大ばかりを追求しても高まらない。組織には、適正な規模があり、その規模の範囲は、情報の伝達速度によって決まる。

 組織を効率よく制御するためには、組織は、基本的単位に分割する必要がある。基本的単位に分割された集団を制御・管理する仕組みが組織である。即ち、組織は、線形的、階層的な集団である。

 また、分配の効率とは、労働と生産、消費をいかに効率よく結び付けるかにある。

 組織効率という観点からすると規模の拡大は、効率を低下する場合が多い。それは、管理部門の範囲の拡大と情報伝達の速度の問題に関連する。
 又、同様に、分配という観点からも組織の拡大は、効率を低下させる。合理化がともすれば人員の省略化に繋がるからである。
 大量生産型社会が必ずしも効率的社会とは言えない。
 その典型が市場の効率である。市場の効率を突き詰めてしまえば、独占、寡占に至ることがある。競争煽り、競争を過熱化させることよりも如何にして、競争状態を保つかが重要になる場合がある。

 競争にも物の価値を規定し、価格によって競争させる場合と価格を規定して物の価値で競わせる仕方がある。単純に競争を価格だけに限定する必要はない。

 市場は、取引を通して情報を伝達する場である。取引の前提は、競争である。競争が働かない市場取引は、一方的な伝達に過ぎない。競争によって相互牽制作用が機能するのである。
 競争関係を維持するためには、適正な数の競合関係が求められる。適正な数は、市場の規模と、範囲と取引量によって規制される。
 過度の競争、過当競争は、かえって市場の寡占、独占を促進する。寡占、独占は統制経済を招く。
 統制経済は、国家独占を意味し、国家独占の典型は、従前の共産主義における計画経済である。むろん、共産主義体制や社会主義体制でも市場経済を機能させることは可能である。

 組織にとって重要なのは、情報を共有する事である。自分一人、解っていればいいと言うのでは組織は動かない。組織というのは、言い換えると共同作業の集まりなのである。共同で作業するためには、共通の認識、情報を共有する必要がある。自分一人解っていて、自分一人納得しているのでは、組織は必要とされないのである。だからこそ組織は、目的を明確にする必要が生じるのである。
 その為に、一つの仕事を幾つかの要素に分解し、共同で作業をしなければならないような仕組みを構築するのである。それが分業の基本であり、分業を支えているのは、情報である。

 組織効率は、集中と分散によって計られる。集中と分散という相反する働きを調和させるのは組織の仕組み規則である。故に、組織には、統制と規律が重要な役割を果たしている。
 組織の集中と分散は、組織の在り方、即ち、集権的か、分権的かによって決まる。組織の集中度や分権度の適正は、一概に規定されるものではない。集権的な組織が是か、非か、分権的な組織が是か、非かは、組織の置かれている環境や組織を形成する目的によって違ってくる。

 組織には、目的から構築される演繹的組織と外的環境から導き出される帰納法的組織がある。
 集権的組織は、組織は、統制と規律によって制御される。集権的組織の原則は、上意下達である。軍事組織は、規律と統制を重んじる。それは、軍事組織が演繹的な組織だからである。軍隊にとって命令は絶対である。しかし、この様な軍事的組織が総ての組織に当て嵌まるとはかぎらない。
 民間企業は、外的環境に素早く適合することが求められる。その為に、個々の局面状況に合わせて自律的に判断することが要求される。この様な企業は、分権的で帰納法的組織の方が適合している。 

 貨幣は、情報を伝達するための道具である。人と人、人と物の関係を結び付ける為の手段が情報であり、その道具が貨幣である。

 現代人は、経済的組織というと金銭的な繋がりのある組織と限定しがちである。しかし、経済的組織にも非貨幣的組織は、多くある。むしろ、非貨幣的組織の方が、経済の基盤となっている例が多い。
 経済的組織というのは、本来、共同体である。その好例が家族である。
 近代という社会は、共同体を否定するところから出発している。その為に、共同体と経済とが効率よく結びついていない。
 単純に考えても、経済を構成する労働、分配、消費の三つの要素の内の一つである。消費の部分は、非貨幣的要素が強い。

組織と分配


 朝三暮四というのは、滑稽な話のように一般に思われている。しかし、経済には朝三暮四的な要素が少なからずある。つまり、経済というのは、全体の総量がある程度決まっている中で分配の割合の問題だという事である。

 つまり、経済の主要な問題の一つが分配の手段である。

 分配には、組織的分配と市場的分配がある。組織的分配は内的分配であり、市場的分配は、外的分配である。
 市場的分配は、交換行為を介した分配である。交換される物は、常に同等に価値を有するという合意が前提となる。交換的分配に置いて貨幣を介して行われる交換を貨幣取引と言い、直接物と物とを交換した場合は、物々交換という。

 内的分配と外的分配を区分する基準は、共同体にある。内的分配は何等かの基準に基づいてなされ外的分配は、取引を通じて為される。そして、交換のための手段が貨幣なのである。

 経済が社会的に未分化されていた時代は、自給自足を原則としていた。その時代には、貨幣は、基本的には、必要とされていなかったのであり、その時代の貨幣は、現代の貨幣と違う機能、即ち、交換的機能よりも象徴的機能や呪術的機能、儀礼的機能の要素の法が強かった。

 市場が成立し、市場に貨幣が用いられるようになると交換が促進され、分業化が深化した。交換は、社会的分業を促すのである。
 建設業なども、つい最近まだ、半農の従事者が多くいた。建設の仕事があると建設の労働に従事する。仕事がないときは農業するという具合である。問題は、建設の仕事が、一時的、臨時的な仕事か否かである。建設の仕事が恒常的な仕事に転化すると専業者が出現するのである。
 何も建設業だけではなく。かつては、出稼ぎが一般に行われていた。今でも季節工のような仕事がある。
 かつての農民は、税も物納か使役で納めていた。貨幣が一般に交換の手段として定着したのは、比較的近い時代のことである。
 貨幣が定着する以前の組織というのは、非貨幣的集団である。

 かつての日本では、狩りに行って捕った獲物を皆で分配し、家を建てるときは、村中総出で建てた。それ以前は、家そのものも複数の家族で集団生活をしてきた。それが経済の原点なのである。組織とは、本来生活共同体の側面を持っている。その上での機関なのである。
 近年、組織が単なる機関に化してしまった。それが組織効率を低下させている要因の一つなのである。
 経済には、貨幣に換算できない部分が多くある。早い話、家事労働を総て外注すれば家計は成り立たなくなる。財政も同様である。国家の仕事を総て貨幣に置き換えたら、財政が破綻するのは必然的帰結である。

 組織は、分配のための手段でもある。市場経済において市場だけが分配のための手段だと思われがちであるが、分配のための手段は、市場にだけあるわけではない。組織的手段も市場と同じくらい重要な役割を果たしている。

 そして、組織は的分配は、人の評価に直接的に結びついている。評価によって組織の効率は一段と違ってくるのである。
 評価は、人と人との関係に影響を与える。評価の仕方が悪いと、組織は求心力を失い分裂をしてしまう。逆に評価の仕方が良いと、結束力が高まり、組織は、大きな力を発揮する。
 分配の手段としては、組織的手段の方が先である。組織的な評価にして得た収入に基づいて市場から必要な物資を調達することで、分配は、完結するのである。
 その意味で組織は、その人の成果や能力を直接的に評価する手段であり、市場による評価より、より直接的な評価といえる。

 組織は、人的組織と機能的組織がある。人的組織というのは、評価を人の主観を中心に行う組織であり、機能的組織というのは、評価を制度によって客観的基準に基づいて行う組織である。

 人的組織というのは属人的組織である。人間の恣意に従って動く。

 人的組織には、世襲的組織と非世襲的組織がある。近代以前の組織の大多数は、世襲的組織である。

 近代的組織は、機能的組織を前提とする。組織は、腐敗する。それが近代以降の組織の大前提となる。

 機能的組織では、規則や評価基準が重要な働きをする。機能的組織は、基準を基礎とした組織といえる。ただ基準が厳格すぎると組織は硬直的となり、柔軟さが失われる。基準が厳格と言う事は、手続が厳重だと言う事にも繋がる。機能的組織とは、手続に基づく組織だとも言える。

 評価とは、所得に差を付けることによって、結果的に分配に差を付けることである。差を付けると言う事は、位置付けを意味する。
 評価を付ける際、問題となるのは、何を根拠に、誰が差を付けるかである。それが評価基準の基になる。
 差を付ける根拠に妥当性がなければ、人は組織に従わなくなる。故に、根拠が重要となる。
 根拠となるのは、第一に、報酬、即ち、労働に対する対価である。第二に、必要性である。必要性は、組織に属する動機に遡る事になる。又、必要性は生活費でもある。第三に貢献度である。貢献度は、報賞という性格を持つ。報賞の基準は、実績や成果、能力である。
 基準を構成する要素には、質と量がある。質には、難易度や危険度という労働の性格が影響する。量には、労働量や成果物、時間等がある。

 評価の基準と組織上の機能とは必ずしも一致していない。評価の基準は、組織における働きに対する能力(技術、知識、経験、資格等)、実績、適正、人望などに基づく。これらの基準は必ずしも計量化できる性格のものではない。
 評価は、最終的には報酬に帰結する。即ち、評価基準は分配基準であり、組織上の評価は、分配に結びついている。

 スポーツを例にとって評価を考えてみる。プロ野球やプロサッカーを例にすると第一に、プロ野球やプロサッカーに関わる者の給与を、全員、一律にしてしまうと言う考え方がある。第二には、一つのチームの職員の給与を一律にする。第三には、経営者、スタッフ、事務、選手によった分野に分ける。第四には、守備位置、職務によって分ける。第五には、働き×単位時間によって計算する。第六には、実績や成績を基準とする。第七には、経験年数によって評価する。第八に、管理職と一般選手といった階層を設けて評価する。第九に、家族構成や生活費を基準にする。第十に、収益や利益を元にすると言った考え方がある。いずれを採用するかは、思想の問題なのである。故に、評価は、思想の問題である。つまり、組織は思想なのである。

 極端に格差が拡大すると経済効率は、著しく低下する。格差の拡大は、意欲の低下を招くうえ、不経済の部分を拡大するからである。

 逆に極端に格差をなくしても意欲の低下を招き効率を低下させる。格差がないという事は、自分の仕事が評価されていないという事に繋がるからである。つまり、やってもやらなくても同じであり、何をしたらいいのかが理解できなくなるからである。又、やってもやらなくても同じならば、一番、効率の悪いところに合わせる傾向が出てしまうのである。

 高額所得者の給与ほど報賞的性格が強くなり、低額所得者の給与ほど生活給的性格が強くなる。中間的所得者の給与は、報酬的性格になる。

 評価とは、グループ分け、分類の問題である。

 民主主義は人間不信の思想である。ある意味で性悪説に則った思想である。
 友愛とか、自由とか、連帯と言った言葉に惑わされがちだが、実際は、民主主義というのは、個人に絶対的の信頼を置かないと言うのが大前提である。

 個人に絶対的信頼を置かない理由は、第一に、人間は変わるという事を前提とする。特に、権力の座に着くと人間は変わる。どんな聖人君子であろうと、一度権力を握れば人格が変わる。
 人間は、欲望や誘惑に弱くて、だらしがない。人間は、神の様な存在にはなれない。人間は、堕落しやすい存在だと言う事を前提とする。
 第二には、例え、稀に意志に強く。清廉潔白な人間が指導者になれたとしても、次の指導者が同じように清廉潔白な人間だとは限らないし、永遠に、徳のある人に権力が継承され続けるという保証はない。むしろ、不可能である。
 理想的な人間を基本とするのではなく。一般的、平凡な人間を基礎として考えるという思想である。
 第三に、性悪な人間が組織の中に入り込まないとは限らない。全ての人間を信じ切るわけには行かないと言う前提に立つ。性悪な人間が一人でも入り込み、故意に不正な情報や指示を流しても組織全体に影響が及ぶ危険性がある。故に、民主主義は、手続を重視するのである。
 第四に、これは一見逆説めいているが、人間は、大勢には逆らえないと言う点にある。この考えは両刃でもある。民主主義の強さでもあり、弱さでもあるからである。
 第五に、人間は、何等かの勢力や団体の利益代表だと言う事である。人間は、全知にも、全能にもなれない。だとしたら、何等かの偏りがある。その偏りは、自分が所属する団体や勢力に対する偏向の元となる。
 第六には、清廉潔白な人間は指導者にむいているかという事がある。指導者というのは、臨機応変にその場状況に適合していくことが求められる。ある意味で融通無碍でなければならない。何等かの信条に囚われていたり、教条主義的な人間では務まらない。また、とかく、清廉潔白な者は、禁欲的で、国民全体に高い節制を求めがちである。しかし、社会の活力は、欲にある。故に、あまりに無欲な者が指導者になると社会の活力が損なわれてしまう。
 更に言えば、権力者の多くは、欲深いものである。つまり、あくどいからこそ権力者になれたという者が多い。
 善良な者だけが指導者になれるとは限らない。善良さというのは、指導者になるための絶対条件ではない。
 暴力団にだって、強盗団にだって親分、棟梁はいるのである。
 指導者に善良さを求めても、善良さによって指導者になれるわけではないのであるから所詮絵に描いた餅なのである。権力者の善良さとは、権力を掌握するための方便にすぎないと言われても仕方がない部分がある。
 この様に、誘惑や欲に弱くてだらしない人間を前提とする以上、世の中の仕組みや法、制度に重きを置く以外にない。
 それが民主主義の大前提である。
 故に、どの様な弊害があろうと効率が悪かろうと、制度や仕組みによって人間の弱さを補わせるというのが民主主義の根本理念である。その上での自由であり、友愛であり、平等である。だから、権力には任期があり、その任期は厳格に守られなければならないと言うのが民主主義の原則となるのである。
 民主主義的意思決定は、会議による多数決を原則とする。というのは、全員一致は、困難だという前提による。つまり、民主主義は、話せば解る、話し合えば全員一致に至るという考え方を放棄したところに成立している事が解る。
 話しても一致が見られないから会議による規則、手続に基づく議決を前提とするのである。それが民主主義的手続である。民主主義的組織というのは、機能的組織を原則とするのである。

 組織は、指導者の在り方によって決まる。
 だからこそ、指導者には、高い節操と強靱な意志が求められるのである。
 驕慢は罪である。指導者は謙虚であらねばならない。権力の頂点立つ者は、自らを諫める者がいなくなる。どんなに若い頃に理想に燃え、節操のある者でも、歳をとれば自制心が弱まるものである。又、長い間には、過ちを犯すこともある。むしろ、過ちや失敗を絶対に認めないと言う方が残酷であるし、その様なことをすれば人は過ちを隠すようになる。指導者の最大の任務は決断にある。必然的に決断する機会が増える。決断の回数が増えれば増えるほど必然的に過ちを犯す可能性も高まるのである。
 だからこそ、権力は分散し、相互牽制を効かせるべきなのである。又、法を定めて権力者は、自らを縛るべきなのである。
 指導者が恐れるべきは自分なのである。指導者は、自制、自戒しなければならない。又、指導者に多くを期待してはならない。

 人は神にはなれない。人は、ただひたすらに神を恐れるのである。人の上に立つ者は、尚更、ただひたすらに神を恐れるのみである。

 組織を活性化し、向上させる力は、欲にある。意欲こそ、組織の活力である。しかし、欲は、時として抑えがたく、組織を暴走させ、場合によっては組織を破滅へと導いてしまう。

 欲は、石油、電力、ガス、原子力のようなエネルギーである。欲は、組織を動かすエネルギーである。エネルギーは、剥き出しでは危険物である。エネルギーは、エネルギーは仕組みや容器があって活用できる。
 欲もエネルギーである。欲も欲を活用する仕組みがあってはじめて活かされるのである。欲を活かす仕組みこそが組織なのである。

 組織は、相互牽制が聞いてはじめて維持できる。相互牽制が効かなくなれば内部に向かって押し潰されるか、外に向かって発散する。
 組織というのは、人による相互牽制の仕組みである。


       

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