5.投資について



 投資において先ず要求されるのは、資金の調達である。故に、真っ先に問題となるのは、資金の調達方法である。
 小口の資金を集めて資金調達をする方法が確立される事によって大規模投資が可能となったのである。
 それが資本の概念を確立したのである。そして、資本の概念が確立された事で資本主義は成立するのである。

 近代的投資の前提は、信用貨幣の存在である。「お金」の存在が投資の前提となる。
 投資とは貨幣的現象の一種である。これが大前提である。
 つまり、投資をする為には元手が必要なのである。この元手が資本の根源となる。

 資本というのは、返す必要のない資金と定義する人がいるがそれは間違いである。資本は、やはり借入の一種だと考えるのが妥当である。
 ただ、返済するのに期限が決められていないだけである。
 資本も借金の一種である。
 そして、投資と借金は切っても切れない関係にある。

 借金の技術が確立されると投資が可能となる。
 つまり、長期的な資金の均衡を計画する事が可能となるのである。

 投資には民間投資と公共投資がある。民間投資と公共投資は根本の考え方が違う。この違いによって、財政と市場との整合性がとれなくなっているのである。

 民間投資というのは、資金を生産手段と交換し、生産手段を活用して新たな価値を付加して販売し、支出した資金を回収すると同時に利益を上げる行為を言う。

 経営の目的は、利益の追求にあると思い込んでいる人が結構いる。それも、会計士とか、税理士とか、銀行員とか、会計や金融を生業にしている人の中に大勢いる。だから、経済が上手く機能しなくなるのである。
 りえきは、手段であって目的にはならない。利益を主目的にしたら、企業は成り立たなくなる。企業の目的は事業であって金儲けや利益を上げることではない。

 経営というのは、事業が主であり、利益の追求は副次的な事である。然もなければ企業理念は構成できない。
 医療法人や介護事業が金儲けだけを目的としたらどうなるかを考えれば一目瞭然である。金儲けだけを目的として老人ホームがあったら悪徳でしかない。だからこそ、事業理念、企業理念が問われるのである。又、事業理念を忘れた会社は成り立たなくなる。
 自動車を製造する会社には、自動車を製造する事に対する理念があり、介護をする会社には介護に対する理念がある。それを抜きにして金儲けばかりを優先させたら、本来の事業目標を見失ってしまうのてある。
 利益が経営の目的だとする者は、経営の実体を知らないのである。投資は、事業に対して為される事であって儲けに対して為されることではない。ただ利益を上げなくていいかというとそうではない。利益を上げなければ資金が調達できなくなり、経営が継続できなくなる。だからこそ利益が重視されるのである。
 最初から儲からないことが解っていて金を集めたら、それは詐欺である。事業家なら、利益が上がることを前提としなければならない。利益を上げるつもりであったのに、利益が上がらないという事はある。しかし、それは結果論である。
 もちろん、利益を上げる算段はしなければならない。それでも、最初から利益を目的としていたら、事業など成り立たないのである。

 注意しなければならないのは、金儲けと利益とは違う。儲けというのは、収入から支出を引いた残金を言う。それに対して、利益は、収益から値である。
 現金主義、即ち、現金収支中心の時代は、商売というのはいたって単純だった。その時代は大福帳、つまり、現金出納帳だけで事足りた。
 その日に売った商品の代金を集計した残りが儲けである。それから仕入れに必要なお金を差し引いて、残りで生活費を出す。金が足りなくなればどこからか借金をする。そこには投資言う発想は生まれてこない。
 しかし、それでは、巨額な初期投資を必要とするような事業は成り立たなかった。投資というのは、期間損益があって成り立つ。つまり、期間損益の根本は、初期投資を一定期間に費用として按分するのである。期間損益では、借金の意味も違ってくる。つまり、借金も投資と絡まっていくのである。

 投資では、資金の流れと投資した資金をいかに回収するかが重要になる。その根本に費用対効果があり、一定の期間に如何に費用を時系列に沿って如何に按分するかが鍵を握っている。だから事業計画、中でも資金計画が必要となるのである。資金の調達と支出の配分が重要になる。そして、支出の裏付けが収入である。資金の流れは基本的に収支に集約される。

 しかし、資金の性格として支出は確定的なのに対して収入は不確実な要素が多い。要するに収入は当てにならないが支出は待ったなしだという事である。故に、収支を均衡させる為には、如何に収入を安定させられるかにかかっている。そのためには、費用対効果を測定し、支出と収入の均衡を図る必要が出てくるのである。そのために、期間損益主義が確立された。

 資金の区分には、投資用資金と運転資金が二種類がある。投資用資金は、初期費用とも言う。長期資金、固定資金としての性格を持ち。運転資金は、短期資金、変動資金の性格を持つ。

 民間投資は、資金の流れで見ると生産手段に関わる資金を調達し、その資金を返済しつつ、原材料を仕入れて、製品を売り、その売上から費用を差し引き、利益を計上する事なのである。ここで問題なのは、初期に投入する資金と運転に関わる資金をどう区分し、どう帳尻を合わせていくかなのである。

 経済の根本は、投資と効果である。
 そして、資金の流れも投資と効果によって形成される。具体的に言うと投資に関わる資金は長期資金を形成し、運用に関わる資金は短期資金を構成する。この短期資金の流れと長期資金の流れが経済全般の資金の流れの基盤を形成していくのである。
 そして、費用は固定的部分と変動的部分からなり、長期的資金は固定的資金の根底を構成するのである。

 先ず、初期投資にどれくらいの資金が必要となるかが、産業の基礎を性格付ける。初期投資に莫大な資金を必要とする産業は、それだけ、償却に時間がかかり、固定的費用の比率が高くなる。逆に、初期投資がさほどかからない産業は、固定的費用の比率が低くなる。この様に投資にかかる費用が大きい場合、資金の運用が制約を受ける為に、資金が寝かされると表現する。
 この様に償却資産が大きい産業は、償却の仕方によって利益に幅が生じる。償却と借入金の返済が乖離するとキャッシュフローに深刻なダメージを与える事がある。又、税の与える影響も利益とキャッシュフローの関係を理解していないと正確に評価する事はできない。

 損益と収支の関係を制御する為には、単価、単位あたり量、そして、売上個数の関係が重要となる。つまり、価格をどの様に設定するかにかかっている。
 価格の設定は、固定費と変動費の関係から損益分岐点の計算をする事が重要となる。
 単位あたりの量は、原材料の計算の基礎となり、変動費の設定の前提となる。売上個数は、固定費の設定となり、単価は利益の設定の前提となるからである。これらの設定によって初期投資にどれくらいの資金を投入するかが定まる。
 ガスで言えば、単価、単位消費量、顧客件数である。

 気を付けなければならないのは、損益と収支の関係、繋がりを理解しておかないと実際の資金の流れを掌握する事はできない。どちらか一方だけを理解しただけでは限界があるのである。

 産業の性格を決める要素には、この他に、労働力の問題がある。多くの労働力を必要とする産業も固定費が大きくなる。

 公正な競争が維持されているかどうかは、産業構造を理解しないと判断はつかない。固定費が大きい産業と固定費が小さい産業とでは、同じ基準で費用対効果を測定する事ができないからである。

 投資したら、投資した資金は回収しなければならない。回収できなければ、自分の金銭的権利を失うのである。それが損である。

 投資したら、元手の部分を回収した上で、幾ばくかの利益を付け加えてもらわなければならない。それが儲けである。儲けは一種の余録である。

 高度成長時代、日本の企業は、増収増益を続ける事が求められ続けた。
 増収というのは、前年の収益以上の収益を上げる事を意味し、増益というのは、前年の利益を上回る利益を上げ続ける事を意味する。
 しかし、利益というのは、収益と費用の差額に過ぎない。常に収益の伸び率が費用の伸び率を上回り続けという保証はないのである。むしろ、増収増益というのは、経済が拡大局面にある状態に起こる特殊な事象と言っていい。この様な経済は、常に変化、それも成長という一方向の変化を前提としなければ成り立たない。しかし、市場の状況は千差万別であり、産業によっても違うし、政策や制度が変わっても変化する。一律に捉えきれないのである。

 産業の草創期には、いきなり利益が上げられるわけではなく。どちらかというと持ち出しが多い。逆に市場が縮小段階に入ると見た目の収益は悪化する。なぜならば、利益は、収益と費用の均衡の上に成り立っており、費用は、収益に対して先行的で固定的だからである。段階や状況を見ずに結果だけで判断したら、景気は制御する事ができなくなる。

 初期投資に関わる資金は、負の部分を形成し、損益の基底の部分を形成するのである。負の部分を構成するのは、資本と負債である。
 民間や家計、政府が作りだす負の部分が寄り集まって社会全体の均衡を保っていくのである。

 投資と言っても民間投資と公共投資とでは根本思想も、目的も、性質も違うのである。公共投資は、単なる支出である。
 それは、民間投資が期間損益主義に従っているのに対して、公共投資は現金主義によっている点にある。

 公共投資は、収支という側面だけでしか経済的効果を測定できないのである。それが財政の健全化を阻んでいる原因の一つである。

 公共投資では資金の流れと時系列に沿った按分が捉えきれないのである。

 公共投資には付加価値という思想がない。だから支出は、即、消費なのである。つまり、反対給付を前提としていない、対価が考えられないのである。だから、相互作用が生じないのであり、貨幣の環流を促さないのである。つまり、一方通行に流すだけになってしまう。費用対効果が測定できないのである。
 公共投資で一番問題なのは、費用対効果が測定できないという事である。又は、最初から費用対効果を損呈する事を想定していない事である。故に、公共投資には費用という概念が欠如している。公共投資では費用ではなく、単なる支出なのである。公共支出であって費用ではない。費用という概念は支出とは違う。要するに、時間軸即ち単位期間による分類、仕分けという操作がされているのである。公共事業においては、効果という概念もないのである。最も、軍事や治安の効果をどうやって、どの様な基準で測るべきか。それは容易ではない。容易ではないが、経済的な費用対効果を測定できなければ、国防費は、歯止めを失い無制限に増加するのである。

 しかし、税で賄う部分と反対給付によって賄う部分があって然るべきである。
 公共事業には、元々、対価、反対給付という発想がない。対価、反対給付という思想があってはならないと決めつけているようである。だから、財政は歯止めを失って暴走するのである。

 投資の目的を金儲けだと思い込んでいる人が多くいる。特に投機家に多くいる。
 しかし、投資の根本は事業である。金儲けは手段である。

 顧客に経営の目的を聞かれて金儲けですと言ったら納得させる事ができるであろうか。経済価値の本質は、消費者、即ち、顧客が何に価値を見いだすかによって決まる。消費者が何に価値を見いだすかは、その時の経済状況に左右される。価格だけに価値を見いだすという前提に立ったら、経済の本質を理解する事はできない。安ければいいというのではない。

 個々の企業には、個々の企業固有の目的がある。利益を一律に求めているわけではない。
 最初から順風に成功をした企業というのは希である。多くの事業家は、血の滲む思いをして事業を興しているのである。創業期には金も人材もないのが一般的なのである。だから、投資家や融資家が必要とされるのである。投資家や融資家、本来事業家の同志でなければならないのである。金がない時にこそ投資家は必要とされる。

 今日一流と言われる松下、トヨタ、ホンダ、ソニー、京セラ、出光、皆、創業期には金がなくて苦労をしたのである。そして、彼等を育てた金融があったのである。

 どんな事業も創業期には壮絶な苦労をするものである。簡単に事業が成功するわけではない。自動車にせよ、飛行機にせよ、一つの事業が成功する為には、何千何万もの失敗や破綻が隠されているのである。
 殆どの創業期には、金もなく、技術もなく、人材もいない。未知の事業、技術に挑戦する事を意味する。最初から成功が約束されているわけではない。成功者の話は、後付けに過ぎなく。一人の成功者の背後には無数の敗残者が隠されている。
 成功者の話は持て囃されても、失敗者の話は忘れ去られるのである。失敗は成功の母と言われるように、失敗を怖れていては、新たな事業は興せないのである。だからこそ、今日の経済は投資を下敷きに成り立っているといえるのである。事業者精神がなければ投資は成り立たないし、創業者の事業者精神に賭けるからこそ投資は意味を持つのである。
 投資は、潤沢に資金を持っていれば成功できるというわけではない。なぜならば、投資は挑戦だからである。
 創業者の苦労を知らずにただ成功者としての結果だけを見ていたら投資本来の意味は失われる。
 これは金融も然りである。成功者の影には、成功者を支えた投資家や金融家がいるである。余剰の資金を資金が不足したところに配分するのが金融の本質的役割である。ところが、今の金融は、お金が不足している所から資金を引き揚げお金が余っている所に資金を注ぐと言われ。昔から銀行は、晴れた時に傘を貸して、雨が降ってきたら取り上げると言われ続けている。

 ただ儲からなかったら、経営を継続できない。経営を継続するための指標が利益である。利益は指標に過ぎない。
 投資は利益に対して為される事ではない。投資は事業に対して為されることである。事業を忘れた投資は投機である。将に博打である。
 それは、競馬のような事である。スポーツは本来自分が健康の為や娯楽の為にやったり、観戦する楽しみでお金を使う事である。スポーツの勝負に金を掛け、儲けることを目的としているわけではない。スポーツ本来の目的が失われれば、それは、スポーツではなくてギャンブルに過ぎなくなるのである。そうなるとスポーツ本来の目的は失われスポーツの健全さはなくなる。

 生きる為に食べるのであって、食べる為に生きているわけではない。
 この事を忘れたら投資本来の意味は失われる。





       

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