42、貸借と売買



貨幣経済の動きというのは、極めてシンプルである。
それは、貨幣経済がお金の動きによって動かされている事に依る。
お金の動きと物の動きを人の活動に結びつけて考えると経済の運動の基本は、単純である事が解る。

市場経済の動きを決めるのは、売りと買い、貸しと借りしかない。
つまり、売り買い、貸し借りを見れば経済は見えてくると言える。

売り買い、貸し借りが成立した後は、お金の入金と出金、物の受け渡しによって市場経済は実現する。
その上で、売り買い、貸し借りに時間軸、即ち、時間差を絡めれば経済の運動は見えてくる。
なぜならば、お金を実際に流す原動力は、経済的価値であり。経済的価値は、時間価値に依存しているからである。

売り買い、貸し借りを成立させる行為を取引という。
取引を行う場を市場というのである。
損益主義というのは、単位期間内における取引の結果を、お金の働き毎に仕分けし、集計して貨幣価値によって表現する事で経済の効用を表そうとする思想を言う。

売り買いがお金の効用を発揮させ、貸し借りがお金の供給と回収をする。ただそれだけである。
それだけで経済の仕組み動かしているのである。

電気やガスと言った物理的エネルギーが何も生み出さない様に、お金も本来何も生み出さない。何かを生産するのは、エネルギーではなく、エネルギーが流れる事によって動かされる仕組みである。同様に、経済的な価値を生み出すのは、お金ではなく、お金によって動く、目に見えない仕組みである。

金利は、お金が生み出す物という発想があるが、これは間違いである。金利を生み出すのは、金融制度という無形の仕組みである。

売り買いから生じるのが、利益であり、貸し借りから生じるのが資本である。
そして、売り買いから成立した時間価値が利益であり、貸し借りから生じる時間価値が金利と配当である。

売り買いと貸し借りの根本的差は所有権にある。
つまり、取引は所有権の転移に関する行為を言う。
そして、経済行為の根底は所有権によって形成される。

損益主義による取引は、売り買いと貸し借りの二つの作用である。
売買取引と貸借取引の基本的違いは、所有権による。
貸し借りにも物の貸し借りとお金による貸し借りがある。
所有権の転移が伴う取引は、売買取引であり、所有権の転移を伴わないのが貸借取引である。
所有権は、権利である。故に、経済取引は、権利によって成り立っている。
所有権の転移が伴う取引、即ち、売買取引は資産を形成する。

売買取引が有利か、貸借取引が有利かは、資本所得が有利か、勤労所得の方が有利かによる。つまり、借りた方が得か、買った方が得かである。
買った方が得だと思えば、買うし、借りた方が得だと思えば借りる。それはフローが生み出す所得の方をストックが生み出す所得の方が上回れば買うし、逆ならば借りる。

これは資産と負債、資本、収益、費用の基本的な関係、力関係を形作る。
地価や株価の上昇は、資産価値を上昇させ、借金をして、収益を犠牲にしてでも資産を購入しようとする為に、資産と負債の比率が相対的に上昇する。ただ、資産の購入は、費用を上昇させ収益を圧迫する結果を招く。反対に資産が下落すると収益を重視するようになり、負債に対する返済圧力がかかる事になり、資産の売却が促される。
これらの現象の背景として、市場の動向、好不況、インフレーション、デフレーションといった状況も影響し、個々の要素は、複雑な動きをする。

収益的手段、負債的手段、資本的手段によって得られた資金がどの方向に向けられるか、投資によって資産に向けられるか、返済資金として回収に向けられるのか、費用に向けられるのか、それが、資産、負債、資本、費用の力関係である。

収益は、売りで費用は買い、資産は貸し、負債は借りである。簿記では、借方は、資産、貸方は負債と位置が逆になる。これは貸方、借方が外部取引を前提としているから、外部から見た結果、鏡像対象となるからである。

売り買い、貸し借りは、所有する事による損得に関わる問題である。そして、それは資産と負債の損得にも関わっていく。
資産、負債、費用の力関係は、所有することによって発生する費用、賃貸料、返済額,可処分所得の安定性との比較対照によって決まる。

日本は、1987年から1990年に発生したバブルによって大きく傷つき、未だにバブルの後遺症に苦しめられてきた。
日本政府は、大都市圏で年収の五倍程度に地価を抑える事を目標としていた。年収の五倍程度が住宅の取得可能限度だと考えたからである。それが、88年から91年にかけて住宅価格は、年収の七倍から八倍に跳ね上がったのである。東京圏のマンション価格は、サラリーマンの年収の8.9倍に達した。こうなると投機的需要によって実需が排除され、庶民の生活に支障が生じるようになる。
バブルが発生してから破裂する過程は、所得、金利、資産価値の力関係をよく表している。年収(所得)の許容限度を資産価値が超えると実需が排除されて、投機的(金融)市場に資金が流入する。それによって実質市場が機能しなくなり、バブルが破裂する。バブルが破裂すると資産価値(実質価値)の下落に伴って相対的に負債(名目的価値)が過大となり、市場に資金が流れなくなる。市場に資金が流れないことで、景気が悪化し、収益が低下するが、負債が過大な為に資金調達が困難になるという悪循環に日本経済は、陥ったのである。

バブル崩壊後、不良債権が問題とされたが、不良債権問題というのは、不良債務問題でもある。不良債権だ、不良債権だと不良債権ばかりに目を向けると不良債務の問題が陰に隠れ、問題をかえって拗らせてしまう。
日本は、バブル末期の90年末の約2,456兆円をピークに、06年末には約半額の約1,228兆円に下落し、およそ16年間で約1,228兆円の資産価値が失われたと推定されている。これは、約1,228兆円の不良債務が生じたという事を意味している。不良債権を清算したとしても不良債務は生産されないで居るのである。しかも、不良債務は、名目的な価値である。この不良債務の負担、圧力が投資に対して下方圧力となっているのである。担保不足なのである。担保不足は、表面に現れにくいが、日本の銀行は未だに担保主義なのである。
この不良債権の存在は、お金の流れる方向に決定的な影響を与えている。巨額の不良債務が存在することによってお金は、市場の側に流れずに回収側に流れている。不良債務が新規投資の資金の阻害要因となっているのである。
しかも、不良債務は表には現れないのである。不良債務の働きは,資産価値の下落を原因とした潜在的な働きとなる。
不良債務を問題にする時、量ばかりを問題にするが、方向の方が資金の働きでは決定的な要素である。
不良債務は、担保力の低下を意味し、収益以外の資金調達を難しくしている。

いくら収益が上がっても不良債務があれば資金は新規投資に回らず、返済に向かう。また、いくら、利益が上がっても資金は不足がちになり、負債が増大し、費用、即ち、人件費は上がらない。見かけ上は好業績で現預金があるように見えても内実は、資金繰りに追われているのが実情である。

バブルの発生は、限られた地主が土地を占有している事が原因ではない。為替の変動によって収益が悪化し、それを挽回する為に、資本市場に活路を見いだそうとした結果、株価や地価が異常に上昇したのである。
問題は収益力にある。そして、その収益源として何が働いているかが重要なのである。
利益率というのは収益と費用の力関係で決まる。
つまり、売りの力が強いか買いの力が強いかである。売りの力が強ければ資産が増加し、買いの力が強ければ、負債が増加する。資産の働きは貸しであり、負債の働きは、借りであるから、売りが強いと貸しが増え、買いが強いと借りが増えるこの様に売りと貸し、買いと借りの働きは交差している。又、買いは資産の本でもある。売りは負債の本である。
この交差が利益の基となる。なぜならば、利益は売り買いと貸し借りの差を意味するからである。
この様な関係を理解しないと経済の運動と位置の関係は理解できない。

この様な債務の働きは、資産価値に下落に依るばかりではない。収益の停滞からも強まる。
つまり、成長や拡大のみを前提とした施策には己ずつ限界があるのである。なぜならば、市場が成熟するに従って収益力が低下するからである。

売り買い、貸し借りの関係で鍵を握っているのは、所得率である。
つまり、人は、所得の範囲内で売り買い、貸し借りの判断をしている。
判断の基準は、所得の質にある。
所得が一定か,変動的か。又、安定しているか、不安定か(一時的か)。
以上の事が、所得の質を決める。

労働による所得が圧迫されると資本市場から所得を得ようとする。
労働による所得ではない所得は、不労所得である。
不労所得は、生産性を伴わない。
生産性を伴わない所得は社会の効用を生まないのである。

再分配にせよ,公共事業にせよ、生産性がなかったら、ただ不労所得者を増やすだけである。
経済対策としてでも生産性を伴わない投資は、分配に偏りをもたらす原因となるから控えるべきである。
経済対策ならば、何をしても金をばらまけさえすればいいというのは、かえって社会的効用を低下させる。

所得率というのは、何によって所得を得るのかその割合で決まる。つまり、何を分母とし,何を分子とするかによって決まるのである。所得率の分母は、資本所得と労働所得の和である。
収入源には資本と労働がある。
故に、所得率は、資本を分子とした資本所得率と労働を分子とした所得率がある。
所得率というは、収入源の働きに応じて決まる相対的な比率である。
故に、所得率は、資本と所得の力関係によって決まる。
所得率は、個々の要素の変化に対応する相対的値であり、絶対的値ではない。

我々は、家を買うか借りるかについて常に悩まされてきた。
そして、その迷いの本にあるのは、その時その時の経済環境や経済政策である。そして、その結果が資産や資本、負債の有り高に影響し続けているのである。

バブルの時代は地価の上昇を期待して土地を買い、バブルが崩壊したら家賃と金利の関係から家を買うか借りるかの選択をしてきた。
つまりは、経済は、投資か、実用かの問題でもあり、ストックか、フローかの問題でもある。

家を買うか、借りるかを決める為の要件は、第一に、どれくらいの所得があるか。第二に、手持ちの資金がどれくらいあるか。第三に、月々の支払がどれくらいになるか。第四に、拘束期間である。第五に、家を所有した時に生じる利益、効能である。
つまり、収入と支出、それと資産価値を買った場合と借りた場合とを比較し効用が大きい方を選択する。
家を所有した時の効能には、持ち家に対する思い入れの度合いもあるから、最後は、思想の問題であるが、お金の問題に限定すれば、実際のところは、金利と家賃の問題である。

なぜ、現金主義ではいけないのか。
取引の基本は、売買と貸借であるのに対して、現金の流れは入出金にある。物流は、受渡である。
現金主義では、現金の出入りを解るが、現金の効能は理解できない。故に、経済的働きを明らかにする為には、現金主義には限界があるのである。

家計は、現金主義を基本として損益の基準で経済的判断を下しているわけではない。
家計はお金と物の入りと出を基本として形成されるのである。

家計の基本は、お金を手に入れたら欲しい物、必要な物を買う。余った金は手持ちにするか、預金にするか。ただそれだけである。
土地以外の物は、買ったら後は陳腐化する。土地と言っても多くは、住宅として自分が使う。
つまり、自分のものというのは自家用であり、商品としての価値は持ち合わせていない。
商品は、基本的に労働の成果として得られる。つまり、商品を構成するのは、最終的には人件費、或いは、人件費の集合、塊である。
原価の中に含まれる経費は、人件費を集積した値だと言える。
お金は、使わないかぎり、名目的な価値は変わらない。

物を買うと言う事は、物を手に入れるという事である。
物を手に入れると言う事は、所有権を意味する。

物の貸し借りというのは、物そのものを直接的に貸し借りする場合と、お金を借りて物を買うのかの違いである。
手持ちの所得の範囲内で買うのには限界がある。金を借りてでも買う事で投資の幅が広がる。

買うか、借りるかの選択肢は、その後の経済の有り様を変える。
バブル以前は、土地の値段は右肩上がりに上がったし、家賃より、土地の値上がり率の方が良かった。だから、人は、争って土地を買った。借金までして土地を買った。その為に、地価は又上昇した。ところが、バブルが崩壊して地価が下がり始めたら、価値観はあっという間に逆転した。今は、家は、買うよりも借りた方が良い。得である。
そうなると社会全体では、資産より負債の方が増える。

つまりは、売り買い貸し借りは所有権の問題となり、資産と負債の問題となる。

経済は、所得、即ち、収入と支出の問題に還元できる。
ただこの二つを切り離したら経済の働きは、理解できない。
それは家計のように限られた空間においては認識できるが、企業や財政では、収入は、収入、支出は、支出として各々独立した事象としてとらえがちである。それが経済の本質を見えなくしているのである。
お金の働きは、対極にある働き収入なら支出、支出なら収入、債務なら債権、周期と費用、資産なら負債とを結びつけて考え名手と見えてこない。
だから一意的に流れだけしか計測できない現金主義には限界があるのである。

家を買う事を例に取ると自分の所得とローンの返済額、家賃とを見比べて家を買うか、借りるかを決める。その時決め手となるのが、収入に占める支出の割合、そして、ローンの返済期間、ローンを支払いおえた時の資産価値である。

実際の資金の動き、流動性という観点からすると可処分所得が重要になる。つまり、実際に売り買いに使われるお金の量である。

いくら通貨を市場に供給しても実物市場に資金が流通しなければ、流動性は高まらない。流動性の罠である。

この様に、経済を動かしている働きは、売り買い、貸し借りと至ってシンプルな事なのである。






       

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