44、価 格



今日、経済の動きを複雑にしているのは、物の量の変化とお金の値の変化が合わさって表現される事にある。
価格は、物の量とお金の値の積として表される。

法則や規則は、表面に現れた現象を見ていたら本質は見えてこない。

数字には、確定できる数字と推定による数字がある。
つまりは、確かな数字と不確かな数字がある。
経済政策は、明確に数字を設定できる事を根拠に置く必要がある。
推測や憶測による数字を根拠とした場合、常に前提が不安定な状態に置かれ、前提が崩された場合、全てを構築し直さければならなくなるからである。
だから、先ず何が確かな数字であり、何が不確かな数字かを見極める事である。

価格は、物の量とお金の値の積として表される。
今日、経済の動きを複雑にしているのは、物の量の変化とお金の値の変化が重なる事で複雑な動きをするからである。物の動きを支配する力とお金の動きを支配する力は似て非なるものである。
だからこそ何によって経済は動かされているのかを明らかにする為には、物の量とお金の値の変化は分けて考える必要がある。

物というのは実体的である。金というのは、名目的である。
物の量は、正の実数であるのに対して、貨幣価値は、正の自然数である。
物の量は、下方、上方に閉じられているのに対して、貨幣価値は、下方に閉じられているが上方に開かれている。
物の量は、基本的に有形で目に見える。それに対して貨幣価値は、無形で目に見えない。
物は所与の量であるが貨幣価値は任意の値である。

経済本来の働きは、分配にある。故に、経済の実体を本質的に表しているのは物の変化である。ところが現代人は、お金の変化に振り回されている。 お金の変化は、名目的変化である。物という実体に対して独立した動きをする。その点を見落とすと経済本来の変化を理解する事が難しい。

市場は、分配を目的とした場である。
市場が機能する為には、事前にお金が分配されている事が前提となる。
分配は、市場で生産財とお金とを交換する事によって成立する。

実体のある数字は、物の量である。
貨幣は、物と結合することによって効力を発揮する。

価格は、物の量と貨幣単位の積として表される。

1981年から1990年に発生したバブルの際、日本の土地資産の総額は、1990年のピーク時には、約2,456兆円に達し、アメリカ全体の地価総額の四倍に達した。東京の地価総額だけでアメリカ全土が買えるとまで言われたのである。しかし、それがそれが如何に馬鹿げた妄想か。土地そのものの総量は大した変わりはなかったのである。
我々は貨幣価値に幻惑され、根本にある実体を見失いがちである。目が眩んで投機に走った者達はバブル崩壊後痛い眼に合ったのは言うまでもない。哀れなのは、地価の高騰で相続対策に追われた人達である。
経済の実体は、常に貨幣現象の底に隠されている。

物は有限である。地球上の物の量には限りがある。物を生産する力にも限りがある。この様な物の量の総量を測定する事は可能である。

経済統計を判りにくくしているのは、確定値と推定値が混在している。
しかも、不用意に確定値や推定値を取り扱っている場合がある。

推測や憶測に基づいているかぎり、確実な事は言えない。
推測や予測は確実な数字を根拠として為されるべきなのである。

確率や統計は事実を前提として確立されなければならない。
事実を根拠とするという為には、情報の出所を明確にする必要がある。

確率や統計は、確定値と言っても前提条件によっては信憑性に差が出る。
また、確定値と言っても誤差脱漏を計算しないわけにはいかない。
つまり、確率統計は、誤差脱漏も含めて前提が重要となるのである。

物の量は、確定値である場合が多い。
人口は、出生数と死亡者数から確定値を集計する事が可能である。

人口の変化に基づく経済の動向は、比較的明確に予測できる。

生産力と操業度によって生産量は予測できる。
市場経済は、常時、過剰設備、過剰生産の状態にあった。

それに対して物価の動向の予測は不確実である。

経済的事象は、所与、自明な値から始めるべきなのである。
経済は、人為的な仕組みのであるから帰納法的な世界はなくて演繹法的な世界である。

この点を鑑みれば、お金の動向を追うより、物の動向を追った方が経済の実体を明らかにできる事が理解できる。
経済の実体があるのは、物の経済であって貨幣経済ではない。

貨幣に関わる数値にも、確定値と推定値がある。
確定値は、銀行券の発行残高、中央銀行の国債の保有残高、国債の発行残高などである。
推定値は国民総生産、国民総所得、物価指数等である。

ゼロ和均衡は、ゼロに収束する様に設定されている。
経済価値は、全体では一定である。

経済の骨格となるのは、水平的均衡と垂直的均衡である。
水平的均衡というのは、経済主体間の均衡である。
即ち、家計、民間企業、財政、経常収支は均衡する。
又、経常収支、資本収支は世界市場に置いては均衡する。つまり、プラス・マイナス・ゼロである。
また、経常収支を構成する要素(貿易収支、サービス収支、所得収支、経常移転収支、投資収支)も水平的に均衡している。
垂直的均衡というのは、個々の経済主体において経常収支と資本収支は、均衡する。

個々の経済主体の働きは、財政は現金の供給と回収、金融機関は、資金の循環を、経常収支は、市場の規模を、民間企業は、生産規模を家計は、所得と消費を画定している。

人は、お金の動きに目を奪われがちである。
しかし、経済の実体を左右するのは、物と人の変化や動きである。
少子高齢化と言うが、人口の動向は、経済を予測する時、根底的な部分を構成している。
例え、経済が破綻しても人は生きていかなければならないのである。
経済が生きる為の活動だとするのならば、表面の現れた貨幣価値の変化だけに囚われていたら経済の本質は見失われるのである。

物量が卵の黄身なら、貨幣単位は、卵の白身のようなものである。物の量の方が確かなのである。

人は、食料がなければ生きていけないが、お金がなくても生きていけるのである。
人は、パンの為に生きているのではないが、お金の為に生きているのでもない。

自由は、生かされる事で実現するのではなく。自分の力や意志で生きる事で実現するのであり。又、人を生かす事でもある。

人は、家畜の自由ではなく。野生の自由をこそ求めるべきなのである。





       

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