21、数と経済 A



数学は、世の中に役に立たない。
無用の用などと馬鹿げた事を言う者がいる。
数学は元々必要性から生まれたのである。

数学には、大雑把な所と繊細で厳密な側面がある。
また、実用的な部分と非実用的な部分がある。
それは、数学は、手段であって、本来、合目的的な事なのである。
数は抽象であり、数が指し示す対象によって数の性格も違ってくるのである。

数学を数字の取扱方としてしか、教えなかったら、後々、数学というのは、生きていく為に何の役にも立たないと思い込むのは、不思議な事ではない。

包丁の研ぎ方ばかりを教えて料理の仕方を教えなければ、包丁は凶器でしかない。

数学とは何も非日常的で、特別な事象ばかりを扱っているわけではない。
ごく一般的で日常的な事象の中にこそ数学の本質は隠されている。

例えば、週末にバーベキューパティーを開くと仮定する。パティーに呼ぶ人数は、三十八人だとする。内訳は、男性が二十人、女性が、十八人、その内、子供が五人居るとする。人数分の料理を用意しなければならないが、大人と子供の分量は違う。飲み物も、子供はお酒が飲めない。お酒の飲めない人が三人居る。費用は、大人数で割り勘にするつもりだが、お金は当日回収する。それまでは幹事の借りとする。

これらの事は全て数学的事象である。

大人と子供、男と女、又、料理のメニューや材料の組み合わせや人数と料理と価格の積と言った方程式が必要となる。

この様な点を考えると経済数学の根本は、数論、集合、指数、対数、順列、組み合わせ、確率、統計等であり、数学を代数、幾何、微分積分等だと思い込ませるのは間違いである。

数の性格は、大人や子供、男性と女性と言ったその時点において数が指し示す対象によって制約されるのである。
また、全体の数の要素は、全体に対する認識や設定によって変わる。

パティーのような大規模な事でなくとも今晩のおかずはどうしようかと考える事だって数学的事象なのである。

今日、数学は生活と同化してしまっているのである。

人口、高齢者、家の着工件数、所得と言った数の性格は、数が指し示す対象によって決まる。
対象というのは何らかの全体を持っている。全体を構成する要素の数は、全体のとらえ方、認識の仕方によって決まる。

一般に、数というのは、唯一の存在であり、絶対的な事だという錯覚がある。また、数学というのは、厳密であって解答は一つしかないという思い込みがある。今の学校教育でその錯誤が強化される傾向がある。しかし、数というのは、抽象的な事で、手段であり道具である。抽象的で、手段、道具である数は、その基となる対象、目的、扱い方や処理の仕方で、いくらでも姿形を変え、性質にも違いが生じる。故に、自然数、整数、実数等の差が生じたのである。
我々が数値を扱う時は、前提条件や目的を確認すべきなのである。

いくら論理的な筋道が正しくても前提がち間違ってら正しい事は出ない。
逆に論理的筋道が矛盾していなければ、前提が間違ったら、間違ったとおり答えが出るのである。
故に、前提を確認する事を怠ったら正しい答えなど求めようがないのである。

数は認識の問題であり、了解可能性の問題である。
これは大前提である。
根本合意であって神の意志ではない。
だから、科学や数学は民主主義に通じるのである。

特に、経済では、数そのものが単体で機能しているわけではない。
数は、数が指し示す何らかの対象と組み合わさる事で機能を発揮する。
数の本質は、抽象であり、働きであり、情報であり、性格である。

数は、働きが重要なのである。
数は、手段であり、道具であるから、表に現れたれ結果、事象に依ってではではなく、働きによって評価されるべきなのである。
この事は特に貨幣価値を考える上で重要となる。

貨幣は数である。故に、貨幣は貨幣単体では成立しない。

百円と言っても百円という実体があるわけではない。
百円という価値は物と物との関係、物と人との関係で決まる。
百円という実体はない。
実体のない価値を実体がないままに、目に見えるようにしたのが貨幣である。
故に、貨幣に求められるのは働きだけである。
お金はあるだけでは効用を発揮しない。使う事、即ち、なくなる事で効用を発揮する。

数学というと純粋数学だけを数学だと思っている人が多い。
しかし、数学本来の姿から見ると焦点がずれている。
それは多分に学校教育の影響によると考えられる。
数学というのは、元々、家畜の数を数えるとか、土地の面積を計算すると言った事に活用され、発達してきたのである。
だから、数学には、物を特定の要素や性質によって選別するという働きがある。
これは数の性格を考える上で重要な意味がある。
ところが数学を習った人達の多くは、この数の重要な性格を見落としている。
そして、数を数の背後にある集合や対象という物を見ないで足したり、引いたりの計算をしている。
その為に、経済と数学の基本的な関係が理解されないでいるのである。

経済の基本的な働きは、選ぶ、数える、分ける、集める、測る、記録する、保存するである。
そして、交換、結合、分配である。

数を数えるという行為は、共通の要素や性格を持つ対象を選ぶという働きを隠し持っている。
即ち、数は、同じ要素や性格を持つ事象の集合の存在を前提として成り立っていることを意味している。
数には、選ぶ、分ける、数える、集める、測る(比較する)、記録する、保存すると言う働きがある。
この働きは、貨幣価値にも受け継がれている。
そして、この数の働きは、経済的行為の根底を形成している。

一般的事象から特別な事象に、特別な事象から一般的な事象に変化する手段の一つが数学である。
貨幣価値というのは、経済的価値を量化すると同時に、一般化する手段でもある。
一般化する事で数学的処理を可能とするのである。

数には、目的に応じて選ぶ数、数える数、分ける数、集める数、測る数、記録する数、保存する数の別がある。
目的によって数の性格も変化する。
数の不思議さがある。
逆に言えば、目的に応じて数を選ぶ必要もある。
その目的に応じて演算もされるのである。
数というのは計算する事だけが目的なのではない。

例えば、比率を表す分数は、分数の形に働きは表れる。
分母分子に何を取るのか、置くのかによって現れる指標も変わる。
数学で重要なのは、視覚性と操作である。
視覚性と操作性があるから、複数の人間が問題を共有化できるのである。

又、数えるための数としては、専ら、自然数が用いられる事が多い。測る数としては、整数や実数が用いられる。

数学で重要な要素の一つは、形である。
故に数学は美学でもある。

変化とは時間の関数である。
関数とは、任意の変数に対応して定まる値あるいはその対応を表す式の事である。
貨幣的経済的事象は、関数である。

経済では、差と率が重要な働きをしている。経済では、変化と分配が基本となるからである。差と率を見る場合、何を基数とするかが鍵を握っている。

同じ物どうしは掛ける事はできない。
例えばリンゴとリンゴを掛けることはできない。
異質な物に足したり、引いたり、割ったりは出来ない。
リンゴとミカンは足したり、引いたり、割ったりは出来ない。

足すという演算は、共通の要素や性格を持つ対象を集めるという演算である。
それに対してかけるというのは、異種の量を組み合わせる演算であり、次元を形成するための演算である。
引き算というのは、数の状況や状態、位置を表した演算である。
割り算は、単位に還元するための演算である。

足すという計算は、同じ性質や要素を持つ対象を集めるという要素が隠されている。

足すという行為は、基本的に何らかの共通項を前提として行われる。足すためには、何らかの共通した要素や性格、働きによって対象を定義する必要があるのである。
そして、貨幣価値というのは、あらゆる対象を一旦貨幣価値に還元する事によって四則の演算を可能としているのである。

足し算引き算がゼロを基としているのに対して、割り算、掛け算は一を基としている。

ゼロと一は経済では特別な意味がある。

対称というのは、特定の操作をした時、変化しない性質や形状をその操作に対してその性質や形状をいう。
経済ではこの対称性が至る所で働いている。
それはゼロに対して対称という性格が働いているからである。
経済事象の多くがゼロ和を前提として成り立っている。
第一に、市場取引は基本的ゼロ和である。
第二に、複式簿記もゼロ和を前提として成り立っている。
このゼロ和というのは、足してゼロになる点を基準としている事を意味し、基準点を中心にして回転すると元の像と重なる事を意味している。
何らかの働きに対して不変的な要素を含むと言う事が対称の意味である。

かけるというのは、異種の量を組み合わせる事で次元をつくるという働きがある。つまり、掛け算は、次元を形成する。
長さと長さを掛け合わせると面積となる。即ち次元を変える。
長さと長さと言う同種の量を掛け合わせても次元は変わる。

引き算は、負の数を前提としている。
負の数は、足してゼロになる値が隠されている。
この様な関係を反数という。

負の数というのは、状態、状況、位置を表している。
経済的な意味での負の数は、経済における負の状態、負の状況、負の位置を示している。
負と言う事を否定的に捉えるべきではない。
負というのは、ゼロの水準を押し上げているのである。
従来の経済は残高を基本としてゼロを設定していたが、負を設定する事によってゼロの基準を均衡の原点としたのである。
それが期間損益である。
負とは、反数を足すとゼロになる値でもある。つまり、ゼロとは均衡点を意味するのである。そして、均衡点によって対称的になるのが貨幣経済なのである。

ゼロと負の関係は、摂氏、華氏と絶対零度の関係によく現れている。
摂氏、華氏の零度が損益の基準のような事ならば、絶対零度は現金収支の基準のような事である。
経済的基準点が温度と違うのは、経済の負の数はそれ自体に負の働きがある点である。
経済における基準点は指標でもある。

割るというのは、単位一当たりの量を割り出す計算である。
割ると分母となる対象にの単位当たりに対する値が導き出される。
単位当たりとは、一当たりである。
分母が人ならば一人当たり、自動車の台数ならば、自動車一台当たりが導き出される。
そして、割り算は比率を意味する。
一を全体としたら全体に占める割合となる。

経済的事象では、割る目的によって結果が意味を持ってくるのである。
だからこそ、なぜ割るのかが、経済では重要になる。
そして、それこそが数学本来のあり方の一端を示している。

目的は必要性からである。
本来、数学は必要があるから学ぶのである。必要があるから生まれたのである。
その点を勘違いてはならない。
子供達も計算は必要なのである。
お小遣いで物を買ったり、スポーツをしたり、ゲームをしたりする時、計算は必要とされる。
そういう時は、子供達は嬉々として計算をしているのである。

数学が役に立たないのではなく。数学を役立てようとしていないのである。
だから、子供達が数学嫌いになるのである。

足し算引き算は、反数という概念が隠されており、掛け算、割り算には逆数という関係が隠されている。
負とは足してゼロになる値である。
ゼロだけがゼロ自身の反数である。

貨幣というのは、数を物化して物である。

貨幣は、数を物化した物である。
物化した事で、貨幣は数という属性だけでなく、物としての属性を付加される事となる。貨幣は、物化した事によって物としての属性が獲得されたのと同時に物としての制約も受けるようになる。
物としての属性には、所有する、持つ、運ぶ、見る、触れる、交換する、配る、貸す、借りる、預ける、預かる、あげる、貯める、蓄える、保管する、渡す、受け取る、譲る、廃棄する、捨てる、隠す、変える等がある。
物としての属性による制約には、負の値をとれない。小数を表せない、即ち、割り切れない物は扱えない。また、虚数、無理数を使えない。離散数となる。残高を基本とせざる得ない。有限である。数単体では機能しないという事等がある。
そして、数と物との属性が貨幣の働きを規定している。又、貨幣価値の土台となる。

貨幣には、数としての性格と物としての性格がある。近年この物としての性格が、無形の情報へと変質しつつある。しかし、それでも物としての性格を継承した上である。

貨幣だとする認識は、社会的合意による。社会的合意は、貨幣価値に対する信認に基づく。
貨幣としての認識は物としての形状による。

貨幣は何を担保しているのかというと金本位制度では金であったが、今日では、基本的に国家の威信を担保しており、国家の威信は、財政を根拠としている。貨幣は、信任を失うと同時に貨幣としての効用も失われる。

貨幣は、物の価値と貨幣が表象する数とを結びつける事で成り立っている。物の価値を数値化する事である。数値化する事で、価値の働きを数式として表現する事が可能となる。

数というのは元々、選ぶ、分ける、数える、測る、集める、記録する、保存するといった働きを基本に据えて考えるべき事象である。
そうしないと数本来の働きを理解する事は出来ない。
経済では、足したり引いたりという計算そのものに働きがあるわけではなく。
何を、何によって、なぜ足したり引いたりするのかに意味がある。
物は、基本的に割り切れない。
お金も割り切れないから余り算が基本となる。

量化する事は、質的な性格を際立たせる効果がある。人口を年齢で区分するとそれぞれの世代の違いが際立つ。表に現れた貨幣価値だけで物事を判断しようとすると経済の持つ質的側面を見落とす事になる。

自然数というのは、数える事を目的として発達した。

自然数を基礎とするから、経済の数学は、余り残であり、取捨切り捨てをどうするかが、重要となる。
経済の解は一点に集約するとは限らない。経済的解は、一定の幅や範囲、空間を形成する事もある。

貨幣は、自然数の集合であるから、貨幣の正確には、ペアノの公理が活用できる。

経済で重要となるのは、数論と集合、線形代数、指数、数列、順列、組み合わせ、統計、確率等である。

数は、数えるという働きから測るという働きへ、そして、今日では働きそのものへと重点を移してきた。
今日の経済では、数の働きが重要な意味を持ってきている。

数は、働きによって定数、変数、未知数に区分される。

更に、数には、その性格から連続数、離散数の別がある。
離散数は、数えるという働きに基づき、連続数には測るという働きに基づく。

貨幣というのは、自然数を基礎としている。
貨幣は自然数を基礎としているから、貨幣は、自然数の持つ性格が前提となる。
例えば、自然数である貨幣は離散数の性格を持つ。
この点を理解しないと数学を経済に活用しようとした時の障害になる。

貨幣は数である。故に、貨幣は貨幣単体では成立しない。
貨幣価値は、貨幣の指し示す数値と対象の持つ物としての量との積で表される。

貨幣は数であり、物は量である。貨幣価値は、貨幣の指し示す数値と物の持つ量との積である。
貨幣価値は、貨幣の持つ離散数の性格と物の持つ連続数の性格を併せ持っている。
また、貨幣価値は、金と物を掛け合わせる事で金の軸と物の軸からなる二次元の空間を形成している。

貨幣は、数を物化した物である。

貨幣の重要な働きの一つが価値の一元化がある。対象の量に貨幣を掛け合わせる事で貨幣価値を設定し、貨幣価値に換算する事で経済量の四則の演算を可能としたのである。
自動車の量と労働の量とを比較できるのは、自動車の価値と労働の価値を貨幣価値に換算するからである。
貨幣価値に自動車の価値と労働の価値を換算するから自動車の価値と労働の価値を足したり引いたりする事が可能になるのである。

ただし、貨幣価値に換算するためには、対象を量化する必要がある。それが貨幣経済の前提である。
例えば、労働を量化するための操作が貨幣価値を構成するための前提となる。

市場経済が成立するためには、貨幣が市場に浸透している事が前提となる。

市場と賭場とは類似点が多い。賭場が成立するためには、予め、参加者にコインやチップが配られている必要がある。コインやチップは、数値的指標である。市場も貨幣が参加者に事前に配分されている必要がある。問題はその配分の仕方と配分の仕組みである。配分の仕方と仕組みによって経済体制は決まる。

市場と賭場の違いは、市場では物と金との交換によって取引は成り立っているが、賭場では、権利と金との遣り取りでなり立っているという事である。

公共投資というのは、貨幣を市場に満遍なく配分するための手段としては有効である。

しかし、市場に通貨が過飽和な状態であり、満遍なく行き渡っている状態では、なかなか効果は発揮できない。それは、不景気の原因が通貨の不足による購買力の低下ではないからである。むしろ、購買力はあっても買いたい物がない事に起因している場合が多い。市場が成熟しているのである。
その様な状況で貨幣を供給しても市場に通貨が流れないで、金融機関に資金は滞留する。そして、それがバブルを引き起こす要因となるのである。
この様な状況では、市場の無原則な競争を抑制する事によって収益を上げやすい環境をつくる事である。収益の向上でしか、市場の荒廃を改善する事は出来ない。

市場が飽和状態だと公共投資も思うような効果を発揮する事は難しい。
投資が投資を呼ぶような環境でないと公共投資の効果は、多くは望めない。それは、投下した資金が、収益や費用に還元されずに金融に滞留するからである。

経済では不変量が重要となる。不変量というのは変わらない数という意味ではない。基礎となる絶対量であり、全体量である。
全体を一としたら、一が不変量である。この様な不変量は、表面に現れると相対量に変化する。
貨幣で表現される量は、絶対量ではなく、相対量である。
全体を一とした場合、絶対量そのものの意味はなくなる。
全体とは総てであり、総ては一に集約されるからである。

経済とは、物を生産し、配分する手段であり、市場経済という仕組みが計画経済という仕組みに勝っていたと言うだけなのである。
しかし、その市場経済も経済の仕組みそり練りに対する理解がなければ、破綻する運命にある。

唯一絶対とは神であり、自己である。
神と自己とは一対一の関係にある。
神は存在の全てであり、自己は認識の総てである。


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