22、金と犯罪



お金は犯罪を生む。
現代社会の犯罪は、金と女が絡むといわれるのもあながち根拠がないというわけではない。

手っ取り早く金を手に入れる手段は、売春、麻薬、博打、強盗、詐欺などである。
だから、金の回りには犯罪の臭いがプンプンする。
それが金銭を蔑視する傾向を生む一因でもある。

犯罪を犯すのは、人である。金が悪いわけではない。
しかし、そうは言っても金には人を犯罪に誘う魔力がある事は疑いのない事実である。

人は、金のためなら殺人だって犯す。
妻子を売ったりもする。
金のためなら、国も魂までも売りかねない。

国だって外貨がなくなれば、売春や博打を公認してしまう。
いよいよ金に行き詰まれば、他国を侵略し、戦争へと巻き込んでいく。
金の魔力は、人の世を退廃的にし、人を堕落させてしまう。

なぜ、人は金の為に犯罪を犯すのか。
言い換えれば、何処に金が犯罪と結びつく要素があるのか。
それを知っておく必要がある。

第一に、お金は、持ち運びが簡単にできるという事である。
金が生まれる前は、物を盗んだ。しかし、物を盗むと言っても限界がある。土地だの建物を持ち運ぶ事は出来ない。
又、収穫物も嵩張ってしまっておいそれとは運べない。それに運ぶにしても目立ってしまう。
生ものは腐ってしまって保存が利かないし、臭う。
貴重品というのは、貨幣価値に換算される事で価値を持つ。つまり、金がなければ、価値を測る尺度がないのである。
また、物には、それぞれ個性があって識別が出来る。
その点お金には匿名性がある。よくお金には色がないというのはそういう事である。

つまり、お金は、価値をコンパクトに纏め持ち運ぶ事が可能だという点、また、お金は交換価値を象徴した物であり、市場で何にでも交換できるという点、又、保存がきく上に、お金には、匿名性があるという点、これらが犯罪を生み出したと言える。お金は、即物的だった犯罪の性格を変えたのである。
それではお金が悪いのかというと、これらの点があったからこそ経済は拡大発展したのである。

お金は便利な物である。
しかし、同時にお金は恐ろしいものでもある。
それは文明の利器に共通した事である。文明は人を豊かにした。しかし、同時に貧しくもしたのである。
結局、人間を豊かにするのも貧しくするのも人の心である。

お金には、人を破滅させる、時には、国を戦争に誘い込み、滅亡させる魔力がある。
だからといってお金ばかりが悪いとは言い切れない。

何が事を金の魔力の虜にし、堕落させてしまうのかその正体を見極めないかぎり、金に纏わる犯罪を撲滅する事は出来ない。
金の魔力に囚われるのは悪党ばかりとは限らない。
政治家だって、役人だって、裁判官や警察官だって金の魔力には弱い。

ほんの出来心で人は、途を踏み誤り奈落の底へと落ちていく。
後で後悔しても手遅れなのである。

途を踏み誤る者の多くは、やり直しがきくと思い込んでいる。
しかし、一度犯した罪は易々とは消えないのである。
罪を犯した者は、一生十字架を負い続けなければならなくなる。

金がなかった時代は良かったなどとは言わないが、少なくとも、金のない時代には、金に纏わる犯罪はなかったのである。
金は、人を愛に背かせ、憎しみや怨みの闇へと誘い込む。

家族の温もりも、友情も、何もない。凍り付くほど非情な世界である。
多くの人が、若い頃は、不正を憎み、志もあったのに、いつの間にか金にまみれ、金のためならどんな破廉恥な事でもするようになってしまう。
金のためだと言われれば、何でも仕方がないと納得させられてしまう。
一度金を握らされてしまうと、それが弱味になんてズルズルと深みに嵌まり込んでいく。
金に汚いなんて言われたくなくて、見栄や、意地で結局金の魔力の虜になる。

直接、助け合って獲物を捕り、作物を収穫していた頃は、犯罪と言ってもより直接的な行為だった。
金のために仲間を裏切るなんて事は、したくても出来なかったのである。
しかし、金の世になった今日、金が犯罪の基、争いの元凶となるのである。

それは、金の世界が、ただ数値の世界でしかないからかもしれない。
数は非常である。
現代に感じる冷たさの元凶には数の論理がある。
数は冷徹非情である。

人が、数を数として扱っていないからである。
数を性格付けるのは、数の背後にある人である。
数が成り立つためには、数を成り立たせている人や物がなければならない。
数を冷徹非情にしているのは、人である。

温もりや思いやりは、お金にあるわけではない。
お金を使う人の側にある。
お金は使いようによっては困っている人を助ける事も出来るのである。
お金は使いようなのである。使う人の問題なのである。
お金というフィルターを通してしまうと価値はただの数になる。

金にしてしまったら慈悲も思いやりも値としてしか表現できなくなるのである。

贈り物として何がいい。
結局金が一番だ。金は何にでも化けるからであると言う人も居る。
そういう人にとって、お金は、万能なのである。
お金であれば何にでも変える事が出来る。
でも、お金は何にでも化けるから心がなくなるのである。
結局、便利主義でしかない。
人に物を贈るのに、あれこれと相手を思いやる。
金に換えてしまえば、考える手間暇が省けるし、受け取る方もなんだかんだと相手を思いやる必要がなくなる。
その結果、贈り物から愛情も温もりも消えてしまう。
それが金である。
でもなぜ、人に贈り物をするの・・・?

サンタクロースも札束を蒔けば良いというのか。

贈り物から心をなくさせたのは、金ではない、人である。
金を隠れ蓑にして人が己の非情さを隠しているのに過ぎない。

数を非情にしているの人間である。
数は本来、負なのである。数は陰なのである。
陽なのは人と物である。

犯罪の影には、金がある。
だからといって金を否定すれば、もっと悲惨な事になのは、カンボジアの例を見るまでもない。
金は、麻薬のような物でもあるのである。

特に借金は中毒性がある。
一度、借金の味を覚えるとなかなか抜けられなくなり深みにはまる。
それが犯罪の温床にもなる。

貨幣というのは、確かに、負の存在である。
お金というのは、元々、負の働きを基としているのである。
しかし、お金があるから自由にもなれたのである。
お金には、お金の効用がある。
今更お金を否定しても始まらない。
問題なのは、お金の正体を知らず、お金の魔力に振り回される人間なのである。
人間は、お金には、だらしがない。
自分の不行跡をお金の性にして自分の行為を正当化しようとする。
しかし、お金が原因だとしても罪を犯すのは人間である。
その点を忘れてはならない。

なぜ、お金は、犯罪を誘発するのか。
それは、お金が抽象的な数値だと言う事と、お金の匿名性が一因していると思われる。
お金の本質なんて、目で見る事も、触る事も出来ない。
美味しいとか、懐かしいとか、楽しいなんて事は何もない。
お金を見て楽しいという人は居ない事はないが、それはちょっと本質とずれている。
つまり、お金は質的な側面が削ぎ落とされ、量として表現されるのである。
お金は値に過ぎない。後は何もない。空なのである。
お金そのものは無意味な事だから、お金に纏わる諸々の出来事は総て隠蔽されてしまうのである。

お金をどの様にして、どの様な手段によって獲得したかは、お金からは判断できない。
お金が表しているのは、お金の持つ力以外のに何ものでもない。
お金を使う段に置いては、お金からは、そのお金を得るために、人を殺したり、阿漕な手段で人を騙したり、或いは逆に血の滲むような思いで稼いで金だというような事は一切解らない。

しかも、代償となる事が相手にとってどの様な意味を持っているのかもわからない。
金は金なのである。金の持つ力、働き以外は問題とならない。
金を介すと直接相手と対面する必要もなくなる。

相手の苦痛や悲しみなど感じなくてもすむ。
今日のようにインターネットや通信が発達すると尚更の事である。
オレオレ詐欺のように、年寄りのなけなしの金をだまし取っても良心の呵責に苦しめられる事はない。
金が実体から乖離した物だからである。
金は金なのである。





       

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