18、量から質への転換


経済とは、人々が生きる為に、創造物を分け与えることである。
それが神の意志なのである。つまりは、経済は神の行いである。
故に、経済の本質は分配にある。この点を第一に考えるべきなのである。

量的拡大は質的変化を伴う。

国民に生きていく為に必要な所得を分配しておく事が前提である。
市場から生きていく為に必要な資源を収入によって調達することが前提となっているからである。

国民に生きていく為に必要な所得を分配しておく事が前提である。
市場から生きていく為に必要な資源を収入によって調達することが前提となっているからである。
経済の仕組みを考える場合、資金を調達する手段を特定する必要がある。
資金を調達する手段は、労働の対価だけとは限らない。
所得を得る手段は、労働か私的所有権である。
所得を得る手段は、売る(収益)か借りかしかない。何を売るのかと言えば、労働力か生産手段である。
自由経済では、所得は、労働の対価が基本となる。

同じ一億円の利益でも、所得水準が百万円の国と一千万円の国とでは、利益に働きに自ずと違いが出てくる。

経済の根本は、働く事、生きる為に必要な資源と、それを調達するための手段である。
生きていく為に必要な資源を調達する為に必要な所得を保証する事である。
その為には、公共投資を行ってお金を市場に供給することは有効な手段である。
しかし、公共事業で需要を喚起したら市場を活性化しないと財政は破綻する。
公共投資によって需要を喚起するのは、一種の刺激策、カンフル剤に過ぎまなん。
景気を主導するのは、民間企業である。民間企業が適正な収益を上げないかぎり資金は市場を循環しない。
民間が適正な収益を上げ、それが所得や景気に反映され順調に税金として回収されなければ財政の収支は均衡せず、財政は早晩破綻するのである。

資金は、市場を循環することで効用を発揮する。
資金の流れを制御するのが財政である。
公共投資によって市場に資金を供給し、税によって回収する。
市場に供給された資金の働きは、収益と費用によって測る。資金の働きは、生産と分配を促す。

市場を活性化する為には民間企業が利益を上げる必要があるのである。
即ち、利益を上げるのは、公平な分配を保障することにある。
利益は、公平な分配を実現する指標でなければならないのである。利益は合目的的な指標である。
利益は、正しい目的のために、任意に設定されるべきなのである。
正しい目的に基づいて利益が設定されているならば、適正な利益を上げられなければ経済は目的を果たせない。利益は、手段なのである。

利益は指標であり、相対的指標である。利益は、環境や状況、条件によって変わらなければならない。なぜならば、環境や状況、条件によって公平な分配のあり方は変わるからである。

景気を良くするためには、企業が収益を上げなければならない。
なぜ、収益を上げなければ景気は良くならないのか。それは、収益は費用の前提だからである。費用こそ景気の鍵を握っている。費用を不必要に削減することなく、利益を上げられなければ景気は回復しない。
例え収益が上げられたとしても、費用が一部の人間にのみ偏っていたのでは、本格的な景気の回復に繋がらない。なぜならば、お金は使われることで効用を発揮するからである。

分配の根源は費用にある。適正な費用が維持されなければ、公平な分配は実現できない。経済の本質は費用にある。

市場は成熟したら飽和状態になる。生活に必要な資源の量が確保されるようになったら量から質へと転換されなければならない。
経済効率は、数量、単価、利益率、回転数、そして、所得によって測られる。市場が成熟してくると生産量は頭打ちになり回転数が低下する。適正な所得を確保するためには、利益率を上昇させる必要がある。生産の効率から、分配の効率が重視されるように市場は変化するのである。
市場は、日常品、必需品、消耗品から特注品、贅沢品、耐久品と言った付加価値の高い製品を重視した場へと変化していくのである。
量から質への転換は、規模から多様性へ、集中から分散へ、一般から個性への対する変化を伴う。
それに伴って労働の質の変化する。変化することによって所得を向上させるのである。それが利益の源泉となる。単純な技術から特殊な技術や人間性を重んじた労働へと変化する。それによって労働が単に生きる為の営みから自己実現の手段へと変質する。
工業品から工芸品へと比重を移していくべきなのである。
改造、省エネ、リサイクル、ブランド、そして、高級品、高品質品、高性能品な商品へと変化することで所得と生産性を調和を保つのである。
安い物は安く、高い物は高く。それが市場が成熟することの意味である。
エネルギー高価格、省エネ時代に突入しないかぎり温暖化問題は解決できない。大量生産大量消費型の経済は、資源の保護と言う観点からも、もはや成り立たないのである。
一番、悪いのは、無原則な競争。無原則な競争がもたらすのは、現代の経済の問題は、市場の荒廃である。

時計産業が好例である。超高級品から超廉価に時計まで取りそろえてある。
親子代々何世代も亘って使用する事ができる物も使い捨てされる物もある。

競争が悪いのではない。競争の働きを明らかにしないままに、経済問題の全ての解決を競争に求めることが問題なのである。
競争を絶対視する事ではなく、過程や状況、環境、前提条件などを確認する事である。

なぜ、競争が必要なのか。第一に、経済的価値は相対的価値だからである。第二に、競争は変化を促すからである。第三は、相互牽制を働かせるためである。
適度な競争、節度ある競争は経済にとって不可欠である。しかし、規制なき競争は、競争ではなく戦争である。

ゴルフでハンディを付けるのは公平さを保つためである。条件が変われば競争力も変わるのである。対等な競争を望むのならば同じ条件で競うべきなのである。
むろん、懲罰的な規制は不公正である。しかし、公正な競争を維持するためならば規制は悪いと決めつけられない。
劣悪な労働環境や条件で低賃金で働かされている国と同条件で競争することは人道的に見ても許されない。
先ず公平さを取り戻すことが条件なのである。

今の経済は、暴虐である。
経済の問題は、心の問題です。金の問題でもなく、物質的問題でもない。
経済の問題は、最後には祈りになる。平和への祈りとなる。

自分が死ねば、自分の思想の全ては失われるであろう。自分の説が全て正しいとは思わない。
経済とは、私にとって祈りなのである。
平和に対する祈りなのである。
このまま放置すれば、世界経済は間違いなく破綻する。私が危惧するのは、その点だけである。
その結果、滅亡とは言わないまでも、戦争、飢餓、異常気象と人類は塗炭の苦しみを味わうことになる。
正しいかどうか、確証はないが少なくとも対案はある。
そして、それを信じる以外、私には残された途はない。
だからこそ、生きているかぎり、私は私の信念の基づいて行動するしかないのである。

人は、もっと神に対して謙虚にならなければならない。
人は、原子力をはじめ自然界の秘めたる力を解明した。
しかし、それは、手段を手にしたに過ぎない。
人は神の意志を理解したわけではない。
力を手に入れたとしても制御できなければかえってその力に滅ぼされるだけである。
人は神にはなれないのである。

豊かさの追求、幸せの追求こそが経済の進むべき道なのである。



       

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