15、お金に実体があるわけではない。


現代人は、金に囚われて金の本来の使い道を見失っている。金は道具に過ぎないのである。金はあらゆる価値を交換に特化しているのである。交換が必須でなければ金は必要でない。生きる為に必要な物を手に入れられればいいのである。金は交換手段にすぎないのである。そして、貨幣価値は、交換のための必要性から生じたのである。金は物と物、或いは、物と労働の仲立ちをしている媒体なのである。金が価値の実体を持っているのではなく金を通じて交換しようとしている対象に価値があるのである。
現代人は、金という交換手段に目が奪われて、金の背後にある交換という行為の本質を見失っているのである。金のために命を失ったら意味のない事である。人は金儲けのために生きているわけではない。
お金が機能しなくなったら、物の経済に立ち返ればいいのである。
経済学者は、ロビンソンクルーソーが好きだが、経済学的にどうこうという訳ではないが、現実に無人島で自給自足の生活が出来たら金など必要でなくなるのである。

生活するのに足りる資源、消費者の欲求を満たすのに足りる資源が生産され市場に供給されているかどうかが根本的問題なのである。その次に、生活するのに必要な資源を手に入れるのに足りる所得が消費者に配分されているかどうかが問題となる。
経済とは、生きる為の活動を言う。

贅沢が出来るのは、実際は限られた人間である。芸能人格付けという番組がある。そこで贅沢品と汎用品とを比較しているが日頃贅沢な生活をしているといわれる有名芸能人でも高級品と汎用品をなかなか見極められないものである。況んや、贅沢品と無縁な一般庶民では、贅沢品と汎用品を見極めるのは困難であろう。結局、品質なんて価格で見極めているのがオチである。つまり、価格が価値を生み出したと言える。

贅沢品を生み出しているのは、人間の意識である。

経済は生きる為の活動である。先ず生活が成り立つようにする事が前提である。生活を成り立たせるためには、生きていく為に必要な資源を必要としている人に必要なだけ提供できるかどうかが、経済の主たる目的なのである。
必要な資源を必要なだけ一人一人の消費者に配分するための手段がお金なのである。
お金のために生きられなくなるのでは、本末転倒なのである。

そういう視点でお金を見る必要がある。お金に実体があるわけではない。生きようとしている人々と人々が必要としている資源にこそ実体があるのである。

貨幣というのは、相対的な事である。
何らかの実体があるわけではない。
お金自体が何かに役立つとか言うのではない。
紙幣というのは大変な工芸品であり、芸術的と言ってもおかしくない。
しかし、紙幣は、あまりに数多く流通しているために、工芸品や芸術品に様な希少価値はない。
かといって紙幣をメモに使う者もいまい。
そういう意味では、紙幣は何の役にも立たない。

貨幣価値も実体があるわけではない。
百円と言っても百円という実体的な価値が存在するわけではない。

市場取引によって対価としてお金が支払われると支払われた対象は貨幣価値を持つこととなる。
それが貨幣価値の実体である。

価格を構成する原価も然りである。
物の価格も実体があるようでない。
原価が、その最たる事である。
原価と言っても原価という物があるわけではない。
原価計算という概念、考え方があるだけである。
原価は、会計の枠組みの中で作られた事なのである。
しかも、原価の計算方法は、一種類ではない。
原価計算の仕方は幾つもある。
そして、原価計算の仕方で利益も変わるのである。

金融工学は虚構である。

一兆円だと言われても、一京円だと言われても非現実な事であって庶民には直接的な関わりはない事なのである。
そんな事は、一万畳の部屋にすんでいるとか部屋が千室ある豪邸に住むような荒唐無稽な事柄で、私にとっては、哀れに思えても羨ましいとは思わない。
何百億円なんてお金がなくても通常であれば生きていける。むろん、ハイパーインフレに襲われて一個のパンが何億もするようになったら話は別だが。
それこそ般若心経の世界の出来事のような事である。
お金の遣り取りは、仮想現実の出来事であって、本来、金なんてなくても生きていけたはずなのである。自分達が息めた眼に必要な物を手に入れる事が本質なのである。
だからといって金の効用を否定しているわけではない。お金をなくしたらどんなに悲惨な状況になるかカンボジアの歴史が示している。
間違いは、お金にありもしない実体をあるが如く錯覚して必要以上に金に期待することなのである。
ありもしない実体があるように錯覚し幻想を追い求めて金の虜になった時、我々は、生きる事の真実を失うのである。
金は、所詮、金なのである。

一兆円とか、一京円なんて非日常的な数であり、あっても意味のない、役に立たない。
以前、この世の中には、ある有名な三馬鹿がいると言われた事がある。一人は数学者、もう一人は、電気技師、もう一人はシステム屋だとその人は言っていた。
なぜ、馬鹿なのかというと、普通、どんなに理論的に可能だとしても、造船技師は、太平洋一杯になるような船を設計したりはしないし、いくら理論的に可能でも月に届くような建物を設計士は設計したりしないが、数学者や電気技師、システムのプログラマーはやってしまう。だから、その点を良く気を付けなければいけないと注意された。
金融家にもそういう所がある。桁違いの商品を創って市場を混乱させてしまう。
金融家は、金融本来の役割を自覚し、自制すべきなのである。

世の中では、人々が生きていく足に必要な資源を公平に分配できるだけの通貨が流通していればいいのである。

お金は、取引によって生成される。

ある人が土地を持っていると仮定する。その土地を一億円で売ってくれと言う人が現れたとした場合、買い手し一億円を所持している事が前提となる。仮に、買い手が一億円というお金を持っていないとしたら、この取引は、本来、成立しない。しかし、その土地を担保にして一億円の金を貸してくれる者が現れた場合は別である。土地の売買取引が成立する。取引が成立するとその土地に一億円という貨幣価値がつくのである。こうして一億円という貨幣価値が成立すると同時に一億円という現金が流通する事となる。その一億円の現金はどこから来るのか、仮に、その一億円を貸してくれたものが一億円を発行する権利を持っていたとしたら一億円という現金は、自由に創り出す事が出来る。それでは困るので、発行権を持つ者は、国家から借金をする。国家は、発券者から借金をする。それが紙幣である。
紙幣というのは、融通手形みたいなものである。

現代人は、金儲けを生きる目的のように錯覚している。
確かに、金さえあれば日々の暮らしに事欠くこともない。
ただ、生きていくだけなら、結婚なんかしなくても良い。
結婚なんて独身生活を謳歌している者とって鬱陶しいだけかもしれない。
女性にしてみれば、子供を産んで家族を持つ事は、仕事をする上で足かせになるだけなのかもしれない。
しかし、だとしたらなぜ、お金を儲ける必要があるのか。
汗水垂らしてお金を稼ぐのは、自分が護るべきものがあるからではないのか。
ただ、自分が生きる為に生きるのか。
年老いて、誰もいない家に帰った時、それが例え如何に豪邸であろうと、否、豪邸であればある程人生の虚しさを感じざるをえなくなるのではないのか。哀しいすぎるではないか。
金儲けは手段にしかならない。
いくら財産があっても、地位や名声を得ても、伴に喜びを分かち合う者達がいなければ、虚しいばかりである。
我々は何か大切なことを忘れているのではないのだろうか。
孤独死、家庭崩壊、老人の一人住まい、独身主義、それが生きた果てに待ち受ける現実だというのか。
何のために、誰のために働くのか。仕事とは何か。
自分が命掛けても護るべきものをえられなければ、いくら金があったも虚しいのである。
それを正しく理解していないから金に振り回されるのである。
結婚をすれば苦労する事は解っている。一人でいた方が楽である。
しかし、その楽である事、自分の好き勝手ができる事の裏にある罠に気がつかなければ、本当の金の価値を理解することは出来ない。
愛する者のために苦労をするのは本望なのである。愛する者のために苦労をする事にこそ生きる事の実体、真実がある。
なぜ、何のために働くか。誰のために仕事をするのか。自分のためにだけ生きたところで、孤独の闇しか残らない。
あくせくと働き金を貯め、豪邸を作っても、一人、家に戻り、扉を開けた時、寒々とした暗闇しかなかったとしたら金儲けなど何になろう。肝心なのは生きる真実である。生き生きと生きてこそ生きる真実がある。
生きる為の真実に目覚めた時、金儲けの意味が理解できる。

お金は道具なのである。
お金は、使いようによっては、毒にも薬なもなる。
お金は虚の世界にある。
お金は負の空間を構成する。本来は、表に出ているのは、実の世界、正の空間でなければならない。
しかし、現実の世界は複雑怪奇である。
実体的な世界をより正確に知るためには、裏側から見た方がわかりやすい場合もある。
価値や実体的世界の動きを知るためには、数値的空間を形成するお金は便利な道具なのである。

お金は何らかの実体を反映した物である。
お金それ自体単独で成り立っている物ではない。

貨幣価値は、お金と何らかの物やサービスを交換することによって成立する。
お金は、数値を象徴した物である。
貨幣価値というのは数値情報である。
つまり、数である。

貨幣が実体から乖離し、それ自体が何らかの働きをすると経済は虚の部分が膨れあがる。それがバブルという現象である。

お金が何らかの理由で実物市場に流れにくくなると金融市場や資産市場に滞留する事になる。

金融市場や資産市場にお金が滞留すれば虚の部分が膨れあがる。
それがバブル、泡である。
政治は経済に介入すべきではないと言うが、放っておけば圧力が異常に高まって爆発しそうなタンクを放置する事を正当化する理屈は何処にもない。
自由放任というのと、何もしないと言う事は、同じ事を言っているわけではない。

お金を野放しにしたら虚無の世界が広がる。

「お金」は、数である。数には限りがない。人の一生には限りがある。人の世にも限りがある。限りない事を限りある世界の中に納めようとすれば、納まりきれるものではない。「お金」は実体から乖離すると際限がなくなる。「お金」は、無制限なのである。

「お金」を巡って親子兄弟、姉妹が争ったり、憎み合ったり、挙げ句に家庭崩壊、殺し合うなどという事になったら本末転倒である。「お金」の為に友を失い、仲間を裏切ったらお金に魂を奪われているのである。「お金」の為に人生を棒に振るなんて馬鹿げている。
なぜ何のために「お金」が必要なのか。
「お金」は、虚構なのである。

「お金」は、人を幸せにする為の道具に過ぎない。
「お金」の為に、不幸になるのでは本来の目的に逆行している。

愛を求めていながら、金のために愛する者に背を向けるのならば、「お金」の奴隷に成り下がるだけである。





       

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