17、色即是空(負の世界)



色即是空。
空即是色。

自己は、一。
対象は一。
世界は一つ。
全体は一。
自己を空、即ち、ゼロにすれば、自己と対象は一体となる。
二にして不二、不二にして二。
無と有とは一体である。
神は無分別にして空。
分別や色は、人の側にある。
ゼロをゼロとして、一を一とするのは人である。
人の意識を一度リセット、即ち空すれば、すべては無となる。
無は全ての始原、原点となる。
統計とは、全体を全体として認識する事に始まる。
故に、全体は統計上一なのである。

空とは、自分の側、自分の意識の問題である。
自分を空しくするとは、自己の意識を空しくする。
色とは対象、世界である。
己を空しくすれば、対象、世界全体と本質と一体になれる。
二にして不二、不二にして二である。

借金は、負の存在である。
勘違いしないで欲しい。
負だから悪いと言っているのではない。
借金は、負の空間にあると言っているのである。

負の存在というのは、目に見える存在ではない。
手で触れる事も出来ない。
匂いをかぐ事も出来ない存在。
借金はそういう存在だと言いたいのである。

負の存在は、観念上にある存在であって実体があるわけではない。
借金をしたとしても借金という物があるわけではない。
確かに、借用証のような物があったとしてもそれは借金をした相手が持っているのであって当人の手元にあるわけではない。借金というのは目に見える物ではないのである。
それが悪いのかもしれない。
借金をしてもなかなか借金をしているという実感が持てない。今日のように自動振り込みが浸透していると月々の返済額が自動に差し引かれていく。そんな感じである。
しかし、約定を違えると俄然表に現れてくる。
自分が大切にしていた物や財産が差し押さえられたり、借金取りに追い回されて生活が滅茶苦茶になったり、働けなくなったり、家族がバラバラになったり、最悪な時は、命まで奪い取られる。
借金の恐ろしさを思い知らされる。
しかし、きちんきちんと約定通り返済されていれば何ら問題はないのである。
そして、現代社会では、借金は生活の一部になっている。
期日が来れば口座から返済額が差っ引かれる。
所得から借金の返済額が差し引かれた金が手取りである。
言い換えれば、自分の自由になる金は手取りしかない。
つまり、借金した部分は自分の自由にならなくなるのである。
負とはそういう事である。
これは個人に限らず会社だって国だって同様である。
借金が増えれば段々に自由がきかなくなる。
借金の行動の範囲が制約されるようになるのである。
負とはそういう事である。

会計的に見て負の働きをするのは、負債だけでなく、資本や収益も負の働きをする。
負の働きというとすぐに負債かと思いがちであるが、収益も負の存在である。
収益は、言い換えると売上だが、売上という実体はない。売上の結果生じた事象は、現金の増加とか受取手形とか、商品の減少という形、資産勘定として現れる。そう実体には形がある。収益には費用のような明細、区分があるわけではない。
負債、資本、収益は、資金の調達手段とよく言われる。
しかし、資金の調達手段と言われても具体的な事は何も定義されていない。
むしろ、名目勘定と言った方が良いかもしれない。

負債も、資本も、収益も見る事も触る事も嗅ぐ事も出来ないのである。

経済上の負の存在は、「お金」である。
お金は、負債とか、資本とか、収益と同じ働きがある。
お金というのは実体がないのである。

百円と言っても百円という実体があるわけではない。
百円という価値は物と物との関係、物と人との関係で決まる。
百円という実体はない。
実体のない価値を実体がないままに、目に見えるようにしたのが貨幣である。
故に、貨幣に求められるのは働きだけである。
お金はあるだけでは効用を発揮しない。使う事、即ち、なくなる事で効用を発揮する。
つまり、お金を役立てようとすればするほど、お金はいつの間にか消えていくのである。だから、負の存在なのである。
金を儲けても、金を儲けるだけでは空しくなる。

お金は空なのである。実体はない。
実体は、この世の出来事である。
生きる事に実体があるのであり、金儲けには実体はない。
ただ、この世の出来事を投影し、見えない力で、人々の位置と運動と関係を秩序づける働きがお金にはある。
このお金の働きを理解しないと人間は金の持つ見えない力で支配されてしまう。
それが負の力の怖さである。
注意しないと、気がつかないうちに人は、金に操られるようになってしまうのである。

この世の出来事は、お金にしてしまうと空である。
お金で、人生を知る事は出来ない。
ただ空の働きを知れば、この世の事象の位置と運動と関係を理解する事が出来る。
人の世は法と縁と識によって動かされている。

言うなればお金の価値は、色即是空、空即是色。
お金の裏には同じだけの借金が隠されている。
お札は、元々、国の借用証書、預かり証なのである。
国が潰れればお金も忽ち無価値になる。
お金で買える実体が色ならば、お金は空なのである。

お金は手段である。しかし、最終的に困らされるのはお金の問題である。逆にお金の問題だからこそ難しいのである。
お金の問題だから他人に相談するのも難しい。
そこにお金の問題の難しさがある。
結局、最後は金なんだと短絡的に決めつけても物事の抜本的な解決にはならない。
なぜなら、お金は手段にすぎないけれど、お金がなければ片付かない事がある。
手段であるお金に振り回されて心ならずも目的を逸脱してしまう事さえある。
兎角、この世はままならぬのである。

現代人は、お金でしか人の一生を測る術を知らないのだ。
親孝行だとか、年寄りをいたわるとか、思いやりとか、愛情なんて一文にもならない。
だから、親孝行なんて何の価値もない事になる。それに変わって、財産とか、所得とか、保険金などが価値を持つ。
結果、独居老人だの、孤独だの、高齢者倒産だの、年寄り相手の詐欺みたいな事が起こる。
高齢者問題は、介護制度か、介護施設の問題に限られてしまう。
親孝行なんて問題にもならない。
これは意識のなせる業(わざ)である。

お金からその人の一生が見えてくるわけではない。

人は、負というと何か悪い事のように捉える。負というと、消極的とか、否定的とか、減じるという意味に捉えがちである。
しかし、負というのは、正の対極にある働きを意味するので、善悪とか、是非とは無縁である。

負の空間は、人の意識が作り出した空間である。
負の空間は、人の心の中ある。
負の空間は、目に見えない空間である。
負の空間の有り様は、人の意識の有り様で決まるのである。
負の空間を悪くするのは人の心である。

金を儲けるために生きる事は空しい。
愛する人が居るから、生きる事は、家族となって実体を持つ。
金でしか生きる事が測れなくなれば、女房と娼婦との見境もなくなる。
愛なのか、金なのかそれを決めるのは人である。

負の事を知るためには、負の対極にある実体を知らなければならない。

愛は空しい。愛は、愛する事によって実体を持つ。
愛する人を抱擁し、愛する子を抱きしめた時に愛は、実現する。
愛されたい、愛されたいとばかり、愛を求めれば、愛は空しい。愛は実体を失う。

どれほど多くの人を愛したところで、己に実がなければ、愛は空しくなるばかり。
愛すれば愛するほど相手を傷つけ、自らも傷つく。
愛は負なのである。
愛が悪いのではない。愛を忘れるから悪いのである。

自分の人生があってお金がある。
人は金儲けをするために生きているわけではない。
生きる為に金儲けをするのである。
金儲けだけを意識したら生きる事は空しくなる。

己は空しい。
生きようとして生きる時、己は己としての実を持つ。

思い出してみよう。幼い頃の事を・・・。
幸せだった頃の事を・・・。
愛し合った時の事を・・・。
人生の真実は、生き様にある。
どれだけ儲けて、どれだけの資産をの事ではない。
本当の遺産は、残された人々の記憶にあるのであって遺した物にあるわけではない。

人は、この世に生まれた時に多くの人に借りをする。
生まれた時に両親に借りをつくり、愛する事で、愛する人に借りをつくる。
人生は、その借りを返し続けるようなものである。
人々への借りを返しつつ己に実を持たせるからこそ、人は、生きられるのである。
だとしたら、借金が悪いのではない。借金がある事を忘れるから悪いのである。

借金の本質を知り、借金と上手くつきあう事、それが経済なのである。

取引が成立した時点で価値は均衡している。即ち、ゼロである。
ゼロから始まりゼロに終わる。

等号は、正と負の働きを逆転する働きがある。
等号は、均衡点であり、即ち、ゼロであり、境界点をも意味する。

市場はカジノに似ている。客は、カジノに現金を預けて、同額のチップをカジノから借りる。借りたチップをゲームに投資して儲かったら、チップを返して現金を受け取るのである。預けた金と受け取った金の差額が利益になる。実物市場との差は、カジノには実体が伴わないことである。
賭けるのも、原則的に数に関わる事象に対してである。
カジノの取引は空疎なのである。人々は、実体のない取引に踊らされている。「お金」だけの世界は空なのである。

空に始まり、空に終わる。
貨幣が生み出す場は、空なのである。
貨幣が生み出す場が空だからこそ負の力を必要としているのである。

色即是空。空即是色。






       

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