14、現代経済は、労働を基礎としている。


経済の根本は、生きる為に必要な資源と、それを調達するための手段である。そのために働くのである。
どの様な生き方をするのか。又、社会は、どの様な生き方を保証するのか。そして、そのためにどの様な資源を必要とするのか。先ずそれが肝心なのである。その上で、どの様にしてその資源を手に入れるか。働いて得た金で手に入れるのが原則である。
しかし、全ての物が金によって手に入れられるわけではない。
金によって手に入れられる物は金によって手に入れられる物に限定されているのである。

家族が好例である。家族の本質は金では手に入れられない。家族の本質は愛情である。
家族を実現し、維持するために働いて金を得るのである。
そこに労働の意義がある。
だから生活するために必要なだけの所得を得る事と安定した働く場を用意する事が国家、社会に要求されている事なのである。

経済の根本は、働く事、生きる為に必要な資源と、それを調達するための手段である。
働いてお金を得て、そのお金で生活費を賄う。この過程が貨幣経済の根幹なのである。

間違えてはいけないのは、生きていくために働いているのである。金のために働いているわけではない。
金儲けは、生きていく為の手段である。
しかし、今日の社会ではお金がなければ生きていけないのも事実である。

故に、生きていく為に必要な資源を調達する為に必要な所得を保証する事である。

考えてみると重要な事は、労働と所得(お金)、資源の三つである。
働いて得た所得で生活に必要な資源を買う。
この三つが保証されているか、いないかが、経済では重要なのである。
働く事で所得が得られる時は良い。しかし、実際は、自分の働きで所得が得られる時代は限られているのである。
ところが、人は皆、働ける時のことばかりを問題とする。
問題は、働けなくなった時、働けても所得が得られない時が問題なのである。
所得が得られなければ生きていけないのである。
だから、金が問題となるのである。
必要な時に、必要なだけの金がないから問題なのである。

経済で重要なのは、人生である。
人は一般にどの様な人生を送るのか。
故に、経済の根底に流れるのは、生病老死の問題である。
生病老死は、将に収支の問題である。
生まれた時、病になった時、おいた時、死ぬ時、人は所得が得られないか、不足するのである。

所得は、労働と私的所有権から発生する。
所得とは収入である。

生活は、所得に制約される。
生活水準の上昇は、所得に反映され、人件費の上昇を招く。
生活水準は市場の規模を制約する。生活水準に上昇は、市場の拡大を促す。

同じ一億円の利益をあげるのでも、所得水準が百万円の国と一千万円の国とでは、利益に働きに違いが出てくるのは当然である。
それを一律に判断するのは間違いである。

現代の経済は、資本主義も、共産主義も、社会主義も労働を基礎としている。
しかも、根本は、賃金労働を基本としている。

つまり、現代社会は、働いて得られる現金収入を元として生活をしていく事を前提として成り立っている。
そして、その現金収入を定収化する事で、経済活動を安定化する事が根本思想である。
故に、賃金労働、即ち、報酬を予め定められた基準に従って計算し、通貨で支給する事を原則としているのである。
ただ、あくまでも一つの方向性として賃金化があるので、現在全ての労働者が賃金労働に統一されているわけではない。

働いて現金収入が得られる事が前提となる。
ところが生計の単位を個人に置いた場合、無収入に陥る危険性が生じる。
基本的には、就労以前、未成年の時は、働いて収入を得る事は出来ないし、失業時も働いて収入をる事が出来ない。
定年退職後も再就労できない場合は、無収入となる。失業の理由も多くある。例えば病気である。
働く事を前提とし、個人を経済単位とした場合、無収入時の生計を如何に保証するかは、国家保障の問題である。
働けなくなり現金収入が得られなくなった者にたいする対策がなければ成立しないのである。
働く事が出来なくなった人の収入を保証できなければ棄民政策となる。

歳をとって働けなくなった場合、私的な蓄えを頼るか、公的な支援に依るかを予め決めておく必要がある。
現代の福祉国家は、働けなくなった人に対して最低限の生活は保障する事になっている。
しかし、それを所与の事と考えてはいけない。それは任意の契約に基づいているのである。
国民と国家の契約、合意の下に成り立っている事である。
仮に、働けなくなったら国家が生活の面倒を見るという取り決めがなければ、家族が世話を見ない限り、働けなくなった者は野垂れ死にするしかない。福利政策が確立される以前は、個人の道徳に依存していたのである。だからこそ、親孝行は、儒教では最高の徳目だったのである。

封建時代では、養えなければ殺す。間引きや姥捨てという哀しい歴史がそれを物語っている。

一生の中で現金収入を得られる期間というのは、限定されている。
労働によって収入が得られる時代というのは、職業のあり方によって違ってくる。
例えば、自営業者、職人に定年退職というのはない。自分が働ける内は、自分の腕を買ってくれる者がいる内は働いて収入を得る事が出来る。この点は、自作農も漁師も同じである。
それに対して、月給取りは違う。定年退職をしてしまうと収入の途は限られてしまう。
今日、高齢倒産や独居老人、孤独死などが社会問題化している。
働けなくなれば社会から見捨てられるそれが現実なのである。

人の一生は、養育期、前期勤労期(独身期)、後期(勤労期)、老齢期におおむね大別され。
一つの期は、おおよそ、二十年とすると勤労期間は、おおよそ人生の半分の期間に相当する。つまり、人生の半分は、無収入期間となる。
女性の場合は、更に、出産子育て期が無収入期になる。
半分の無収入期間をいかにして現金を調達するかが、経済の根本問題なのである。

収入がないというのは、必ずしも勤労意欲とは結びつかない。勤労意欲があっても無収入になる事はありうるのである。
貨幣経済下では、無収入というのは、人格まで否定されかねない。
生きていく事自体が出来なくなる。
それが個人主義社会である。家族という共同体が成り立たないのである。

例えば、先祖代々の家、親が建てた家でも子に引き継がれ住み続けていくとなれば、家を建てる時の借金も子に引き継がれていくが、子供が独立して家を建ててしまえば、ただの空き家になり、借金の残高を支払う者もいなくなる。遺産を相続する者がいなくなるのである。
つまり、死んでしまえば何も残らないのである。家族の痕跡も残らない。

この様な社会では生き甲斐とか、生きる意義など意味がなくなる。
要するに、収入を得るために、お金を得るために働いているのであって、出世以外に働く事の意義失われてしまうからである。
つまり、労働というのは、報償を得るための代償でしかない。労働そのものの価値など失われてしまうのである。
月給取りとして一律に括られてしまう。仕事の内容は関係なくなるのであり、報酬でしか仕事は評価されなくなる。

それに対して、職人は、一人ひとりが自分の仕事を持っている。
仕事によって評価される。報酬は、仕事の代償なのである。

貨幣経済では、貨幣に換算できない労働は、無価値なのである。
典型は家事労働である。だから、女性は、専業主婦を無価値な労働だと思い込む。
しかし、この世の中で最も価値ある仕事は母親である。

現代社会は、経済の土台を労働においてる。
現代人は、故意か、無意識かは別にして、労働をどの様に評価するかは思想によるという事を前提とせず、技術的な問題として処理しようとしている。しかし、現代哲学が最も取り組まなければならないのは、労働をどの様な基準で評価するかである。
労働をどの様な基準で測るかは、思想によって決まる。
例えば、第一に、客観的基準によるべきか、主観的判断に依るべきなのか。
第二に、相対的基準によるべきか。絶対的基準によるべきか。第三に、実績に基づくべきか、能力に基づくべきか、必要性に基づくべきか。
何を原則とするかによって国家体制も、経済体制も変わってくる。
何を前提とするかは国民に選択権がある。

また、労働を測る手段としては、時間、成果物、技術、経験、資格、年齢、必要性、利益配分、成功報酬、権利、契約等がある。
現代の自由主義社会では、複雑に複数の基準を組み合わせて使っているのが実情である。しかし、それも思想である。
どの様な形でも柔軟に取り入れていくという事を制度的に保障するのが自由主義の原則だからである。

同一労働同一賃金は、一つの思想である。しかし、どの様な局面でも当てはまるとは限らない。
プロ野球を例に取れば、守備位置と出場時間で野球選手の時給を一律に計算すべきなのであろうか。
野球選手の年俸の査定はそんなに単純な事ではない事は歴然としている。

どの様な基準で人の働きを査定するのか、それは思想上の問題でもある。

財政と所得は緊密な関係にある。
財政と所得は表裏の関係にあるのである。
所得と財政の関係は、民主主義体制だけではない。
倹約家の君主の下では、民は潤わない。浪費家の君主の下では、民は疲弊する。

現代人は、お金でしか人の一生を測る術を知らないのだ。
親孝行だとか、年寄りをいたわるとか、思いやりとか、愛情なんて一文にもならない。
だから、親孝行なんて何の価値もない事になる。それに変わって、財産とか、所得とか、保険金などが価値を持つ。
独居老人だの、孤独だの、高齢者倒産だの、年寄り相手の詐欺みたいな事が起こる。





       

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