家計の根本は、
家族である。故に、家計を考える時、家族が、社会においてはたす役割、即ち、働きを明らかにしなければならない。
家族は、社会を構成する、最小単位の生活共同体である。
家族は。一つの単位である。生物学的に見ても、社会学的に見ても、最小単位は、家族である。
人間は、
家族がなければ生きられない、存在し得ない、存在なのである。
また、家族は、経済の最小単位である。家族の成立が、経済の始まり。つまり
、家族は、経済の母である。そして、家族は、経済の始源でもある。
家族を経済の一単位と見なすべきである。経済の最小単位は、個人ではなく、家族にある。個人に帰す家計もないわけではない。例えば、単身者の家計だが。しかし、単身者というのも、家族の在り方の一形態にすぎない。経済の最小単位は、あくまでも、家族である。なぜなら、経済の単位は、生活の単位であり、生活の場は、家庭にあるからである。
家計は、経済の最小単位である。
家内労働を金銭に換算しようという試みがあるが、それは、ほぼ所得に相当するはずである。それは、家計が、経済の最小単位であることを証明している。つまり、家内労働というのは、主に消費と支出を担っているからである。所得と支出は、経済単位の表裏を担っている。つまり、収入と支出は一致するのが当然なのである。
また、離婚すれば、慰謝料や養育費が派生するのも、家計が一体である事により必然的なのである。
ただ、支出が所得に依存するために、家内労働の従事者が、所得を担う者に対して従属的な立場に立たされるという事が問題なのである。故に、所得を担う者に対して法的な責任を重くすることによって均衡を保っているのである。
家内労働は、主に、女性によって担われている。なぜならば、出産と育児が女性固有の特性だからである。家内というのは、空白地帯ではない。家内労働には、高度な知識も技術も必要であり、総合力と指導力、平衡感覚、経済感覚、経営能力等を必要とする高度な仕事である。更に言えば、適度な教養も必要であり。さらに、母性、愛情、統合力なども要求される。家事は、料理、洗濯、掃除、整理整頓、家計の切り盛りといった複合的、統合的、万能な仕事である。近年かなり機械化されたとはいえ、決して簡単な仕事ではない。ただ、相対的に社会的な地位が低いだけである。
家内労働が、不当に低く評価されている事で、いろいろな弊害が生じている。女性が安心して出産や育児に専念できなかったり、家族が、健全な人間関係を形成できなかったり、女性、特に、専業主婦が不当に差別されたりする事である。
この家内労働、専業主婦を否定する思想が社会を支配しようとしているが、それは、家族の崩壊、社会の崩壊を促すことになる。性や道徳の乱れ、少年犯罪、引き籠もり、育児放棄や幼児虐待、親殺し、子殺しといった社会現象を誘発する危険性が高い。それもこれも、家内労働に対する適切な評価がされていないことに起因する。
また、一番重要なのは、育児と出産は、人間の尊厳であり、愛情の源だと言う事である。家内労働が不当に低く評価されることによって、人間の尊厳や愛情が健全に育まれない。そこから、歪んだ人間関係や社会が派生することである。
家族は、共同体である。家族は、経済の一単位である。故に、家族を成立させているのは、家内労働と家内分業である。この点を、しっかり把握しておく必要がある。市場経済が浸透するに従って家族が生み出す労働の成果は、外部からもたらされる収入、所得だけだという錯覚がある。しかし、所得は、家族が労働によって生み出す成果の一部にすぎない。そうでなければ、所得を獲得することに従事していない者は、何も働いていないことになる。それは、家事や育児、介護という労働を不当に低く評価しているにすぎない。極端な話、その価値を何も評価していないことになる。家内労働者を奴隷扱いするのに等しい。それでは、家内労働は、廃れるであろうし、家庭内分業もうまくいくはずがない。女性が外に働きに出ても負担ばかり増える上、子供は、施設に預けっぱなしで、育児放棄に近い状態になる。家内労働の確立と家内分業をきちんと整理しないと家庭が崩壊してしまう。もう一度、家族は、共同体であり、家内労働と家内分業によって成り立っている事を思い起こして欲しい。家計は、この家内労働と家計分業の上に成り立っている。そして、家計の本質は、非市場産業だと言う事である。
生活共同体としての家族は、生産と消費の場である。そして、経済単位としても本来は、生産と消費の最小単位である。しかし、市場経済、貨幣経済の浸透によって、生活、つまり、消費の場と、生産の場が分離した。この事が、家族の在り方、ひいては、家計構造に重大な変化をもたらす。
生活共同体の本来の在り方は、自給自足体制である。自給自足することによって、経済的にも、社会的にも自立できる。つまり、一個の独立した単位となるのである。故に、市場や貨幣から得る収入は、補助的なものにすぎなかった。
市場は、余剰生産財の捌け口にすぎなかった。
自家消費労働は、共同体内部で自己完結をしている。自家消費の成果物は、市場を介さない。故に、使用価値はあっても交換価値はない。交換価値がないために、市場価値はない。
自己消費のための労働には、市場価値はない。しかし、無価値ではない。家事労働も労働である。家事労働は、自家消費労働である。家事労働は、市場価値はない。しかし、無価値ではない。
現代社会は、何でも市場価値に換算しようとする。しかし、市場価値が全ての経済価値を決するわけではない。市場価値が経済的価値の全てではない。
芸術的価値は、市場的価値で決まるわけではない。売れる絵が素晴らしいのではない。自分が見て感動する絵が素晴らしいのである。しかし、自分の価値尺度が信じられなくなれると貨幣価値(市場価値)で芸術を判断しようとするようになる。そうすると芸術が解らなくなる。つまり、本来の価値は、市場価値とは異質な価値である。市場価値は、結果的な価値である。根源、原因となる価値ではない。市場価値に全てを委ねると結果に支配されて、本質を見失ってしまう。
生活共同体としての家族は、生産と消費が一体となった体制だが、外部収入によって所得を得るようになってから、生産的部分の一部が、労働力として外在化した。つまり、家庭内の労働力を商品化したのである。この様に、高度に進化した市場経済、貨幣経済下では、家内の生産的部分の一部は、労働力の供給という形に変化し、所得の獲得に変質する。所得という形で顕在化することによって、収入が、唯一の生産的部分の代替えであるような錯覚を生み出す。しかし、本来は、生産と消費の一対となって家族は成立しており、家内労働の生産的部分は、外部収入によって顕在化した部分だけを指しているわけではない。つまり、亭主が俺の稼ぎで家族を養っているというのは、間違いである。家族全員の協力によって家族全員が生活しているというのが真実である。
家計も、企業も、財政も、経済の基本単位である。企業における外部収入、つまり、売上は、売上に、直接携わった者が、独占するものでないのは、自明なことである。国家収入の功績は、徴税官にのみ帰すものではない。なのに、家計だけは、なぜ、外に働きに行った者だけに、その成果が、帰すのであろうか。だれも、家内労働を評価しようとしなくなった。それが、社会問題の根底にあることに、誰も、気づこうとしていない。外部からの収入は、個人に帰すべきではなく、経済の基本単位に帰すべきである。
故に、市場経済、貨幣経済下では、家計は、労働力の供給源であり、最終消費者である。そして、外部からの収入は、家内労働の生産的部分の一部が労働力に置き換わって事によって成立したものであるから、家計単位で考えるべきである。
また、労働力として外部に提供された部分は、家内労働の一部にすぎない。むしろ、主たる部分は、家内労働として家族内に残されている。その代表的な部分が、家事と育児と高齢者の世話である。
この様に、共同体である家族は、所得以外に多くの労働を必要としている。そして、多くの価値を生み出している。家族は、生活の、人生の価値の源泉である。故に、経済の最小単位は、家計におかれるのである。
家も企業も国家も共同体である。共同体は、誰も守ろうとしなければ、守れない。なぜなら、共同体は、それを構成する者、一人一人の意識に根ざしているからである。家族を守るのは、家族一人一人の意識である。その家族の絆がなくなった時、家族は、崩壊するのである。その絆の根源は、愛である。故に、家族愛、愛社精神、愛国心がなくなった時、家族も、会社も国家も解体していくしかないのである。誰も護ろうとしない家族は、護るに値しない。