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Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano

 あるテレビドラマの中で中年の主人公が、長年、連れ添った女房に向かって、「俺は、外で忙しく働いているんだ。おまえは、家で楽しているんだから、何も文句は言うな。」と言う台詞があった。
 「結婚をしたら、女としてなんか見れるか。」とも言う。
 子供の事で相談したくても「子供の事は、おまえに任せたのだから、いちいち相談しなくても良いよ。」というばかり、話し相手にもならない。
 女房は、女房で「亭主も子供達も外で勝手なことをしている。それなら、私も好き勝手してやる。」そう思いこんでいる。「誰も、私のことを解ってくれないし、振り向いてもくれない。」「子育てが終わってみたら、自分の居場所がない。」これまでの私は何だったんだと思い悩み。「女として誰も見てくれない。」とこぼす。夫や子供達の為に、自分の人生は犠牲になったんだと考え出す。
 子供は、子供で「私は、望んで生まれてきたわけではない。親が、良い思いをして勝手に産んだんだ。」そう思っている。結婚してしまえば、もう、親の事など、どうでもよくなって。勝手に好きな人つくって自由にしたらといわんばかりである。
 そして、話の筋は、主人公夫婦は、離婚し、新しい相手をそれぞれ見つけて、第二の人生を歩きだし。子供達は、子供達で、思い思い自分の好きな生き方をしていくという事になりそうである。この様な生き方を自立だとマスコミは言う。
 違う。違う。これは、家族がバラバラになっているにすぎない。元々、愛がなかったにすぎない。
 しかし、マスコミは、家族がバラバラになるのを容認する。成り行きに任せればいい。それが、自然のモラルだという。そして、愛とは、自然だという。自分達の言っている事が、いかに理不尽で、不自然だと言う事を棚に上げて、それが真実の愛だという。自由だという。
 現代の男の無理解さ、身勝手さを、それが、男の性(さが)だという。自由な生き方だと推奨する。そして、日本の男は、昔からそうだったと決めつけている。だから、女も女の性(さが)に従えばいいと言う。
 本当にそうであろうか。少なくとも、昔の男は、女に対して優しかった。夫は妻を労りつ、妻は、夫を慕いつつであった。「勝手にしろ」ではなく。「おまえにばかり苦労をかけてすまないな。」だった。思いやりがあった。
 母親には、常に居所があった。お袋の座というものは、不動であったはずである。確かに、その座を巡って嫁姑の確執はあったかも知れない。しかし、少なくとも、女が、家族にひたすら隷属したというのは、語弊がある。歌にもあるように、家族にとって、母親は、太陽だった。昔の夫婦には、愛がなかったなんて、言えはしない。妻や母親に対する思いやりや尊敬心をなくしたのは、現代人であって、日本人の伝統ではない。自分達の罪を先祖の責任にして、自分達の行為を正当化するのは、現代日本人の悪しき性癖である。
 なぜ、育児や家事を賞賛する事が、男女差別になるのか。なぜ、母親の愛を大切にする事が、女性蔑視となるのか。反対に、家庭を否定する事が、女性の権利を認めることになるのか。私には、解らない。
 男女同権が、なぜ、男女同等になってしまったのか、解らない。男と女は、違う。少なくとも、肉体的には、差がある。この様で、否定していまうのは、どうかしている。トイレも、着替える場所も、同じところでしろというのは、かつては、差別の一つだった。
 そういえば、「失楽園」という小説も一世を風靡し、映画化、テレビドラマ化された事もあったけ。人妻が不幸だからといって肉体関係を持ち、愛欲の果てに身を滅ぼす事が、愛の究極の姿だとしら、その愛は、呪われている。愛は、男と女の間だけにあるわけではない。親と子、友、兄弟、自分と関わる全ての人との間にある。国や社会、動植物にも向けられる。愛とエゴとは、対極にある。
 不道徳な事、醜い事を描いて、それを美だという人間がいる。学校で、芸術を美術と教えた事による弊害である。芸術は、表現である。醜い物も表現をする。ゴヤは、戦争の悲惨さを描いた。しかし、それは、美しく描いたわけではない。悲惨に描いたのだ。醜い物は、醜く描く。それが表現である。醜い物を描きながら、美しく感じさせたら、それは、表現ではない。錯誤である。芸術を美術とした事で錯誤が生じた。本来、醜い物は、醜く描くのである。
 自分と愛する者、全てを犠牲にしてまで、そして、死をもって添い遂げようとする愛は、暴虐である。それを究極の愛というのは、間違いである。お互いを傷つけあい、破滅に導くような愛などありはしない。それは、愛などという代物ではなく。ただ、単なる欲望と快楽に過ぎない。
 愛は、人を生かす力である。愛は、許し合うことである。人を死へ至らしめ、許し合うことのできない淵へ追いやるものを、どうすれば、愛と言えるのか。
 人を愛することができない者が、愛を求めても虚しいばかりか、破滅するだけだ。おのが、性的欲望のために、相手の人生を滅茶苦茶にして何が愛か。愛は、人を生かす力。人を破滅に導く力ではない。欲望に忠実になることを、愛とは、いわない。愛する者のために自制する、それが愛である。愛する者の為に、自分の身を犠牲にすることすら厭わない。それが、愛である。相手から何も求めない、無償の愛こそ究極の愛である。
 人は、本来、愚直で不器用なものだ。だから、愛も愚直で不器用なのだ。相手によって愛し方を変えるなんて器用な真似はできやしない。
 家族の根本は、愛である。愛なくして、家族は成り立たない。子供がいても、いなくても、それが、家族だとは、言えない。同じ屋根の下に暮らしているから、家族なのだとも言えない。籍を入れたから家族なのだとも言えない。愛がなければ家族とは言えないのである。
 全ての本源は、愛なのである。愛がないのに、愛を描こうとするのは、最初から難がある。虚構である。家族や男と女の間に愛がなければ、そこにあるのは、醜悪な、欲望と快楽だけである。ならば、最初から愛などといわずに、欲望と快楽を描いたと言えば良いのである。

  

家族愛