貨幣経済

豊かさとは


 金というものは、時として人間を惑わす存在である。
 多くの犯罪は、金目当てで行われる。少しばかりの金を目当てに人殺しまで起こる。金の切れ目が縁の切れ目ではないが、仲の良かった人同士が些細な金で仲違いをする。私は、父親から、親しい間の人間には、金銭的な貸し借りはするなとまで教えられた。
 今の世の中、何でもかんでも金次第にしてしまう。愛も命も金に換算し、金でけりを付けようとする。金で片づかない事はない。また、金に換算できない物はないと決め付けている。金が全てだと思い込んでいる。
 全ての価値を熔解し、貨幣価値にしてしまう。あらゆる人間関係の中に入り込み。人間関係を溶かして市場という坩堝の中に放り込んでしまう。貨幣価値が過程という共同体の中に入り込み。夫婦関係や親子関係、兄弟、姉妹関係まで金銭に換算してしまう。育児も、料理も、掃除も、洗濯も、金銭に換算して外部化してしまう。
 親子関係も、愛情も、友達も、皆、金で買えると思い込ませてしまう。そうなると金のためならばどんなことでもする人間が増えてしまう。
 戦争だって金が原因であり、大統領の椅子だって金で買える。少なくとも金がなければ、手に入らない。そう考えだすのである。
 全ての価値を貨幣価値に還元すると言う事は、全ての価値を交換価値に還元してしまうことになる。使用価値や希少価値などは、従属的価値に落ちることになる。それが何を意味するのかというと、交換する価値がない物は、価値がないという事になる。

 経済とは、労働と分配である。なぜならば、その意義を考えればいい。経済の意義を考える時、労働の意義と分配の意義を考えることは、人間の人生を考えることに通じる。それに対し、需要と供給や生産と消費の意義を考えても人生の意義には結びつかない。
 問題は、労働をどう評価し、どう分配に転化するかである。労働を一律に貨幣価値に還元することが可能かである。しかし、労働は、労働の成果からのみ判断できるものではない。たとえば、その人間の能力と熟練度である。可能性をどの様に考えるかである。その人その人の持つ背景も重要である。その人の能力のみを根拠とすれば勤続年数や年齢なんてまったく関係なくなる。つまり、労働の評価というのは、人間に対する評価でもあるのである。効率とか、合理性というのは、この人間としての評価を不可能にしてしまう。しかし、それが経済であろうか。それは経済ではなく。生産性の問題である。

 労働を貨幣価値に還元すると言う事は、労働を賃金に還元することである。
 労働を賃金に還元すると言う事は、この世の中を給与所得者と資本家に分離する。もっと突き詰めると賃金労働者と資本家に分離する事を意味する。
 労働を完全に市場化してしまうという事は、全ての労働を一方で単位化し、それを時間の関数、あるいは成果の関数で一律に計算することである。そこでは、人は、数値でしかなく。数として表せない属性は全て削ぎ落とされてしまう。
 その上で、効率を追求すれば、結果は明らかである。企業は、共同体的側面を持つから、社会的機能を果たせるのである。その社会的機能というのは、分配である。労働者一人一人の持つ個性、属性をどう評価するかである。

 給与所得者の方が無責任で気楽で良い。いやになったら辞めて、転職すればいいし、定年になったら退職金をもらって後は、悠々自適の生活をするだけである。なまじ責任のある仕事をすると負担が大きくなる上に、失敗した時に責任をとらされてしまう。
 そう言った価値観を刷り込まれてもいる。しかし、責任感が欠如した社会は、自律できない。最終的には、制御する事が不可能になる。なぜならば、社会の自律性は、個々人の責任感によって保たれる。責任が、行動を制御するからである。行動規範は、責任によって裏付けられてはじめて機能する。社会的責任というのは、本質的に貨幣に換算できない価値だからである。

 貨幣価値に全てを還元してしまうと人間の恣意が働かなくなる。人の融通がきかなくなり。裁量の余地がなくなる。そうなると、人と人との関係や人間としての評価は出来なくなる。かといって恣意や融通だけで、即ち、情実だけで人を評価しても、人は、動かなくなる。問題は程度であり、限界をどこに定めるかである。市場と共同体、各々が機能して市場の健全性は保たれる。

 豊かな世界というのは、効率的な部分と非効率な部分が混在している社会である。純化されてしまった社会ではない。

 付加価値というのは、ある意味で効率の悪い作業である。効率を良くすると言う事は、極端な話し人手を省くことを意味する。先端技術を駆使し、最新鋭の設備を備えた工場を建設しても、それが無人な工場であれば、地元経済に与える影響はほとんどないのである。

 効率を追求すべき市場、効率を追求してはいけない状況、競争を促進すべき市場、話し合いで解決させるべき市場、それらが混在しているのが経済である。話し合いも競争も一つの手段であって絶対的な原理ではない。市場は、競争によってのみ成り立っているわけではない。

 経済主体、即ち、企業、家計、国家の内側に働く経済を内部経済と言い。外側で働く、経済を外部経済という。基本的に共同体や組織内部に働く経済を内部経済と言い、市場経済を外部経済と言うが、国家や企業は、一部市場を内包する。と言うよりも、市場経済が内部経済を浸食していると言ってもいい。

 かつて、市場というのは、限られた範囲にしか存在しなかった。市場も貨幣も、近代に入ってから確立された概念である。微分、積分程度の歴史かないと、ロバート・L・ハイルブローナーは、彼の著書で述べている。(「入門 経済思想史 世俗の思想家たち」ちくま学芸文庫)

 本来、外部経済であるべき市場や貨幣価値が共同体内部を浸食し、共同体をドロドロにとかし始めている。そのために、家族も企業も崩壊しつつあるのである。

 市場や貨幣の力が弱く、共同体によって構成されていた時代は、共同体の弊害が問題となった。しかし、今や市場や貨幣は絶対的な力を発揮しようとしている。共同体内部の経済を外部化し、内部構造を外在化しようしている。その結果、内部構造の人間関係の崩壊である。今や、親子関係、夫婦関係、兄弟、姉妹と言った愛情関係まで金銭化、数値化し、市場化しようとすらしている。

 全ての経済主体が市場経済に取り込まれ、貨幣価値に還元されてしまうことは、全てを一元的な価値に熔解することを意味する。

 貨幣価値というのは、交換価値を表象したものにすぎない。貨幣に換算できない価値はいくらでもある。金は大切である。しかし、金が全てではない。
 貨幣経済は、貨幣に対する正しい認識の上に成り立っている。なぜならば、貨幣を正しく認識していなければ、貨幣の働きを制御する事が出来ないからである。

 今、アメリカで老人の立場が極めて弱くなっている。福祉国家を標榜する国でも、老人は介護の対象としてみていない。尊敬心や敬意をもって扱われているわけではないのである。単なる社会的費用、負担でしかない。

 貨幣価値によって表象される以前の人間は、人間でしかなかった。全く人間でしかなかった。この事実が大切なのである。一番の問題は、生身の人間としての生き様であった。今は、そう言った人間性が削ぎ落とされ、物として、また、数値としての存在しか問題とされない。いわば、確立統計の対象でしかない。人間としての尊厳も、品位も、名誉も、道徳も関係ない。その究極的な思想が唯物主義である。そう言う世界では、生産性の低い、老人や子供が冷遇されるようになるのは、当然の帰結である。しかし、人間は、人間である。人間の実体は人間でしかない。その人その人の、人生であり、生きてきた軌跡である。生きるという事である。それを失った社会は、もはや人間の社会ではない。人間性のない経済は、経済ではない。経済は、人間の文化である。

参考

「国債の歴史」富田俊基著 東洋経済新報社
「お金の崩壊」青木秀和著 集英新書
「閉塞経済」金子勝著 ちくま新書





                    


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