相対主義

貨幣と相対的価値


 経済は、生活である。人々が生きる為の活動と、それを成り立たせている事柄である。経済の基本は、労働と分配である。
 貨幣は、その分配のための手段、道具に過ぎない。手段、道具であるから、貨幣に求められるのは、その働きと役割である。我々は、暑さ寒さから身を護るために、服を着るのである。服を着るために、生きているわけではない。飢えを凌ぐために、パンを食べるのである。パンのために生きているわけではない。何等かの目的を達成する為に自動車を運転するのであって、自動車を運転するために生きているわけではない。
 経済の本質は、生きる為の生業である。その為の道具が貨幣である。人間は、金のために生きているわけではない。

 経済的価値に絶対的価値はない。なぜならば、経済は認識上の所産だからである。故に、貨幣価値は、相対的価値である。貨幣価値は、数値によって表現される。故に、数値によって表現される貨幣価値は、相対数である。絶対数ではない。故に、比率が重要な要素になる。経済は、根本的に分配の問題なのである。

 経済的価値というのは、絶対的なものではなく。相対的なものである。我々は、経済的価値を絶対数で捉えがちだが、実際は、相対数であり、取り分の問題なのである。経済的価値は、認識の問題なのである。

 埋蔵金伝説が時々話題になり、宝探しが始まる。時には、テレビ局まで巻き込んで大がかりな、宝探しが始まる。なぜ、その様な宝探しが始まるかというと埋蔵金、例えば小判に価値があるからである。
 実物貨幣と違って、現金による箪笥預金は、現金の価値を失わせることなのである。

 現金とは、現在の価値を指し示している。それに対して、債務も債権も将来の価値を指し示している。債務の貨幣価値は、確定している。

 現金は、債務に対して減価し続ける。つまり、現金は、行使しないと損をするようにできているのである。減価し続ける現金の働きを維持するためには、現金を流通し続ける必要がある。現金を退蔵することは、それ自体貨幣価値を否定する事を意味する。価値を増殖させ続ける債務を維持し続けるためには、経済は、常に成長し続けなければならない。
 故に、現代経済は、名目的と雖も成長を前提としなければならない仕組みになっている。しかし、どんな成長にも限界がある。つまり、市場が過飽和になり、あるいは、債務が蓄積され、返済金額が嵩み、実質可処分所得が限界に達した時が来る。その時が問題なのである。

 貨幣は、流通することによって働きを発揮する。貨幣は、使用されることによって働きを発揮する。貨幣は取り引きされることによって働きを発揮する。故に、貨幣は常に循環させておく必要がある。

 アラビアのローレンスの映画の中でトルコ軍の金庫を開けた時、証書を引き出して紙切ればかりだと騒いでいるシーンがあった。使い道のない証書は無価値なのである。

 貨幣によって生じる価値には、貨幣そのものの価値と、陽の価値と、陰の価値がある。貨幣の陽の価値というのは、貨幣が指し示す物の貨幣価値であり、陰の価値というのは、貨幣が表示する現物である。そして、貨幣は、貨幣独自が持つ価値がある。つまり、価値するものと価値されるものと、価値そのものである。

 「お金」とは何か。「お金」は、手段、道具に過ぎない。「お金」に万能の力はない。金は、神ではないのである。しかし、拝金主義という思想がある。つまり、「お金」に万能の力がおりと思い込み。「お金」を神としてしまうのである。金は、相対的な尺度に過ぎない。金は、絶対不変な存在ではない。結局、金の魔力の虜になり、物事の本質を見失い。「お金」の奴隷になるだけである。大体、「お金」は、使わなければ効力を発揮する物ではない。「お金」は、使えばなくなるのである。「お金」を使わずに祈ったところで何の神力も発せず、効果も期待できないのである。しかも現金の価値は、どんどんと劣化していく。

 経済にとって何でも怖いのは、前提の間違いである。土地や資源は無限にあるとか、成長は永遠に続く、金には万能の力があると言った前提である。そして、これらの前提に共通しているのは、認識は相対的だとしながら、無限とか、永遠とか、不変と言った概念が入り込むことなのである。無限、永遠、不変は神の領域に属すもの。人間は、限りある時間の中で相対的なら認識の上に生きている。そのことを決して忘れてはならないのである。

 問題なのは、価値の一般的前提である。価値の一般的前提とは、価値を成立するための一般的前提条件である。つまり、どの様な前提の基に、どの様な価値を形成したかである。それによって、その後の論理の展開が確定する。

 貨幣を考える上で、紙幣と紙幣以前の紙幣とでは、本質が違うというという事を念頭に置いておく必要がある。金貨や銀貨は、実物貨幣である。それに対して、紙幣は、表象貨幣である。実物貨幣ではない。
 近代の貨幣経済は、紙幣を基盤として成り立っている。紙幣は、表象貨幣である。表象貨幣の成り立ちは、紙幣の成立による。つまり、近代の貨幣経済は、表象貨幣を基盤としているのである。
 では、紙幣とは何か。紙幣の成立させた要因は、一つは、金に対する預かり証である。第二は、国債である。即ち、借用書である。第三は、有価証券である。第四は、約束手形、支払手形である。第五は、為替手形である。第六は、小切手である。第七に、質券である。何れにしても証書である。
 この様な紙幣の成り立ちは、紙幣の持つ特性をよく表している。第一に、預かり証だと言う事は、金や預金と言った何等かの実体的裏付けを前提としているという事である。更に、、預金は本来、貯蓄手段でもある。
 紙幣が、金の預かり証だったと言う事は、金地金の預かり証は、常に、紙幣化する可能性を持つことを意味している。
 第二の、国債というのは、負債を根拠としているという点である。第三の有価証券というのは、資本を根拠としているという点である。第四の約束手形というのは、信用手段を意味し、支払手形というのは支払手段を意味している。第五の為替手形と言う事は、決済手段を意味している。第六の小切手という事は、交換手段であることを意味している。
 この様な紙幣を成立させた要因は、現在の貨幣の基本的機能を意味している。つまり、紙幣には、金の預かり証(資産)、借用書(負債)、有価証券(資本)、約束手形、為替手形、小切手(現金)の六つの物が持つ働きが隠されているとえるのである。貨幣経済を維持するためには、貨幣の持つ機能が発揮されることが、前提となる。
 財政赤字で最大の問題となるのは、貨幣の機能の一部が財政赤字によって圧迫され、あるいは毀損されることによって機能しなくなる場合である。財政赤字の本質は、貨幣の機能に求められるべきなのである。

 紙幣は、原則、融資によって発生する。貸し付けによって信用は生み出される。そう考えると金融機関の融資残高・貸付金残高の総和がその時点における信用の量の総和だといえる。
 融資によって信用は供与される。つまり、融資と言う行為がなければ、信用は創出されない。
 近年も消費的融資が増加している。好例が住宅ローンや自動車ローンである。消費的融資は、消費的債務や債権を発生させる。それは、消費経済の基盤を形成する。つまり、消費者ローンの在り方は、消費者の生活の在り方を根底から変えてしまう。

 近年、消費者向けの貸し付けは、いろいろな社会問題を引き起こしている。借金が払えずに、全財産を失ったり、あるいは、人生を破滅させ、自殺する者まで現れている。これらの問題を解決するには、最初に、何を前提とし、その前提とのどこが変化し、どこが崩れ、どこが問題なのかを正確に見極める必要がある。

 何を前提とし、何を担保していたかである。
 住宅ローンは、本来何を前提とするのか。地価なのか。返済能力なのか。ローン、即ち、借金は、本来、返済能力を土台にして設計されるものである。
 返済能力には、所得と資産がある。通常は、返済能力は、所得を基本とする。
 ところが、当初、所得を基礎にした貸し付けだったのが、不景気になると資産、即ち、担保力に信用の基盤を変更され、下落した地価を根拠に、一括返済を求められると、充分に返済能力があり、それまで、返済を滞った事もない者まで、生活や経営が破綻してしまう事になりかねない。
 しかも、その時には、担保力まで低下しているのである。最悪の時に最悪なことを要求する。だから、事態はますます悪化するのである。
 金融機関は、本来、資金が不足している者に資金を補填することが大前提である。返済が滞ってもいないのに、担保価値が目減りしたからといって返済を強要することは、金融が金融本来の機能を金融機関自体が否定したに等しい。

 不良債権問題を債権、債務、現在価値の問題に分解すると、債権は、住宅価格の問題であり。債務は、住宅ローンの問題です。そして、現在的価値は、返済資金の問題となります。
 サブプライム問題を解決するためには、返済資金、つまり、現在実現しうる貨幣価値を債権、債務の両面から捉える必要がある。その時、債権の裏付けである資産の変動性と負債の固定性をどう調和させて現在価値に集約するかが鍵となる。
 不良債権と、債権処理だけで解決しようとしても解決できるものではないと私は考えます。

 間接金融によって信用は創出されている。
 現在の金融危機の原因として、間接金融から直接金融へと言う流れが、市場経済の質的変化を引き起こした事が考えられる。貯蓄から投資へと消費者の選好が変質したことにより、信用の創出に陰りがでてきたことが背景にあると思われる。その為に、金融機関は、レパレッジ効果によって貸付残高を水増しせざるをえなくなる。それは、裏付けのない信用を前提としたものになる。
 2008年リーマンの破綻に端を発する金融危機の本質は、在りもしない信用を融資によって作り出し、ばらまいた事に端を発している。この様な金融機関の行為は自殺行為に等しい。

 もう一つ重要なのは、金利の存在である。金利は、貨幣価値が増殖したものであるが、その信用の裏付けは存在しない。つまり、貨幣の自己増殖なのである。故に、その分が信用不足を引き起こす。その不足は、新たな借入を起こして補う必要が生じる。その結果、発生した金利分、清算できない債務が累積することになる。
 金利が存在する限り、債務、債権の清算は不可能なのである。つまり、一定の債務の存在を前提としない限り、資金は循環し続けない。つまり、現在の貨幣経済は、借金、即ち、債権、債務が、一定量、常に存在し続けることを前提とした体制である。問題は、その債務の残高の水準である。

 貨幣経済が成立するためには、貨幣市場のが確立されていなければならない。貨幣経済が成立する要件は、第一に、貨幣の存在である。第二に、貨幣が社会に万遍なく浸透していることである。第三に、貨幣の価値が確立され、保証されていることである。第四に、貨幣の流通していることである。貨幣が流通しているという事は、貨幣が循環していることでもある。第五に、貨幣に基づく取り引きの存在である。つまり、貨幣が機能していることである。

 貨幣の生産者、発行者には、第一に、政府、第二に、中央銀行、第三に、中央銀行以外の金融機関、第四に、軍や中央政府以外の政府機関、第五に、それ以外の権力機関などである。

 現在は、一般に中央銀行が銀行の中枢、センター機能を持たせることによって金融の仕組みが構築されている。中央銀行は、紙幣の発券を独占している場合が多い。先ずなぜこの様な中央銀行を中心とした体制が敷かれるようになったかを考えてみる必要がある。

 政府が直接、貨幣を発行する権限を持つ制度も可能である。現実に、実物貨幣の時代には、よく見られた形態であり、また、有効であった。
 ただし、貨幣が紙幣が中心になり、実物貨幣から表象貨幣中心の仕組みに変化してくると、政府が通貨を直接供給する仕組みでは、通貨の循環や流通量を制御するのが難しくなる。
 政府が直接、貨幣を発行した場合、発行した貨幣の量だけ流通することとなると言う点である。貨幣を発行するだけでは、貨幣の流れを一方通行なものになる。何等かの回収機関がなければ、貨幣は循環しない。政府が、貨幣を回収する名目は税である。しかし、政府が税収を前提として貨幣を発行した場合でないと税と貨幣の供給は連動しない。
 貨幣が循環していないと通貨の流量を制御する事が困難になる。

 貨幣経済では、物価を安定させるためには、通貨の流量を管理、制御する必要がある。
 よって物価を安定させるためには、通貨の流通量を制御するための何等かの仕組みが必要となるのである。

 また、物価を安定させるためには、貨幣の信認が前提となる。

 貨幣の流れが循環しないと貨幣の流通する範囲が限定的となる。貨幣の流通する範囲が限定的となると貨幣を市場に浸透させるのが難しくなる。
 貨幣が市場に浸透しいないでその流通している部分や範囲が限定的なものであると貨幣の信認にも制限が生じる。
 それでも、実物貨幣のように貨幣の素材そのものが価値を持つ場合は、良いが、不兌換紙幣のように、貨幣が実質的価値を持たない場合は、紙幣の信認を得るのが難しい。

 物価の安定という点からも貨幣は循環している必要がある。
 貨幣の循環を促し、供給量を制御するためには、政府が直接通貨を発行する仕組みではなく。通貨を発行する主体を政府以外の主体においた方が機能的になる。そこから中央銀行は発生し、また、そこに中央銀行の役割機能が隠されている。

 つまり、中央銀行に紙幣の発券の権限を集中、独占させることは、通貨の流量を制御させることが、主たる目的なのである。

 余談だが、紙幣の信認を得るためには、貨幣価値の裏付けが必要となる。その為に、紙幣の価値の根拠は金が想定されていた。つまりも金を担保とした制度が金本位制なのである。金を担保としない不兌換紙幣制度では、国家権力による裏付けのない紙幣の貨幣価値は不安定なものにならざるをえないのである。

 また、貨幣経済が確立されるためには、貨幣だけが公認された交換手段である必要がある。
 不兌換紙幣は、国家権力以外なんの裏付けもない。この様な貨幣が、交換手段として働くためには、何等かの強制力が必要となる。言い換えると貨幣は、交換手段としての強制力を持たないと機能しないとも言える。
 その為には、貨幣は、国家が正式に承認した唯一の交換手段だと言える。逆に言うと国家が承認した交換手段を貨幣というとも言える。それが近代貨幣経済における貨幣の定義である。
 そして、この様な貨幣の性格から、発券主体は、統一され。今日の中央銀行方式が確立されたのである。

 中央銀行は、近代貨幣制度の要である。紙幣の価値を維持するために、中央銀行は機能していると言っても過言ではない。

 近代貨幣経済は、国民国家という枠組みの中で成立し、機能した。不兌換紙幣は、国民国家だからこそ成り立つのである。なぜならば、紙幣は、国民的合意と信認の上でのみ成立する制度だからである。

 近代貨幣経済のリテラシーは、近代会計制度である。近代貨幣経済は、近代会計制度の文脈の上に経済現象として表される。

 経済の歪みは会計制度の歪みに表れる。会計制度の歪みは財務諸表に表れる。利益に対する考え方は、一種の思想である。利益が上がらないのは、利益に対する考え方のどこかに歪みがあるのである。利益は、放置された結果ではない。創作された結果である。利益を生み出すのは会計原則、会計基準である。
 スポーツにおいてルールが決定的役割を果たしている。同様な会計原則や会計基準は、経済の在り方に決定的な役割を果たしているのである。

 利益に求められのは、緊急時や不況の際に備えた蓄え、設備の更新や新規投資の時の資金、元手、元本の返済資金である。本来は、この様な目的の基に利益は設定され。その利益を上げられるような経済体制を敷くべきなのである。ルールが先にあってスポーツが成り立つのであり、得点が先にあってルールが作られるのではない。ゲームはルールの則って表れるように市場経済、貨幣経済の経済現象は、会計原則に則って表れるのである。

 結局のところ、経済の実体は、最終的には、物的市場にあるのである。ところが、現実の市場は貨幣の振る舞いに振り回されている。アメリカの産業を象徴する自動車メーカーのGMが経営に破綻し、事実上国営化された。アメリカの自動車産業の再建は、良い自動車を作ることに尽きるのである。しかし、現在、語られているのは会計的問題である。しかし、その場合でもルールがおかしいとは誰も言わない。なぜ、アメリカの製造業が衰退したのか、それは一企業の問題として片付けられる問題ではない。
 金融でいえば、窓口業務や事務処理、融資業務やシステム開発という基幹業務よりも巨額な「お金」を動かした方が利益が上がるようになる。労せずして大金をえられれば、地道な基幹業務が軽んじられ、疎まれるようになる。それが第一のモラルハザードである。それが高じると基幹業務が衰退する。それが第二のモラルハザードである。
 製造業でも最初は、本業を補う目的ではじめた財テクが、いつの間にか本業になり、本業が衰退してしまう。しかし、それは長い目で見たとき堕落に過ぎない。その典型が自動車や電機である。
 金融市場への傾斜は、実業から虚業へと変質させてしまったのである。


参考

(教えて!にちぎん http://www.boj.or.jp/oshiete/outline/01401005.htm)
Q.  銀行券が日本銀行のバランスシート上、負債となっているのはなぜですか?
A.  日本銀行が設立された当初、日本銀行の発行する銀行券は、金や銀との交換が保証されていました。こうした制度の下で、日本銀行は、銀行券の保有者からの金や銀への交換依頼にいつでも対応できるよう、銀行券発行高に相当する金や銀を準備として保有しておくことが義務付けられていました。このような銀行券は、いわば日本銀行が振り出す「債務証書」のようなものだと言えます。このため、日本銀行は、金や銀をバランスシートの資産に計上し、発行した銀行券を負債として計上しました。

 その後、金や銀の保有義務は撤廃されました。一方で、銀行券の価値の安定については、「日本銀行の保有資産から直接導かれるものではなく、むしろ日本銀行の金融政策の適切な遂行によって確保されるべきである」という考え方がとられるようになってきました。こうした意味で、銀行券は、日本銀行が信認を確保しなければならない「債務証書」のようなものであるという性格に変わりがなく、引き続き負債に計上しています。このような取扱いは、米国や英国の中央銀行など、主要中央銀行において一般的となっています。




                    


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano