個人主義


市場と個人


 個人とは、何か。個人とは、人間だと言う事である。
 個人とは、生き物であり、社会的動物であり、政治的存在である。人間は、一人では、生きられない。生まれ出ることもできない。
 人は、人の事して生まれ、人の縁によって育まれる。人は一人では生きていけない。
 経済は、人間関係の中で生まれ、人間関係を基礎として、人間関係によって成立する。人間関係の働きが経済の働きを発揮する。
 経済は、人間関係の働きによって成立する。それ故に、人間関係を前提としないと経済は成立しない。
 個人は、単独では存在しえないし、例え、存在しえても、経済的な意義はない。
 故に、経済の単位は、親と子、夫婦と言った何等かの人間関係を核として設定されるべきものである。
 人間関係を核とすると言うことは、何等かの共同体を前提とする。その場合、個として独立した場合に限り、個人を一つの単位とする。故に、所有権も、所得も、共同体に帰属する。
 また、生活の場は、共同体にあったし、現在も共同体にある。
 生活の場は、家族や社会の内側にある。人間の倫理観のベース、基礎も家族や社会の内側にある。故に、倫理的働きは、家族や社会が作り出す場の中で働く。

 市場は、社会の外にある空間、場であり、不道徳な場である。つまり、市場は、倫理的な基準によって支配された場ではない。倫理的基準が働かない、また、及ばない場である。故に、市場で酒を飲み、遊女と遊び、博打をしたのである。そして、倫理的基準が効かないが故に、市場は、法に支配されている場なのである。
 問題なのは、この様な市場の働きが、共同体の内部にまで浸透しはじめていることである。その為に、家庭内までが不道徳な場に変質しつつある。家庭内の人間関係まで法的な人間関係に置き換わりつつある。

 経済的な意味での個人とは、購買主体(買い手)、販売主体(売り手)である。そして、労働主体であり、分配(所得)の受けてである。また、生産者であり、消費者である。

 市場は、売り手と買い手とで成り立っている。売り手ばかりで買い手がいなくなれば、市場は成り立たない。買い手は、所得がなければ、購買行動は起こらない。金がなければ何も買えないのである。生産者側、売り手側の論理で、生産性や効率性の向上を突き詰め、人件費の抑制をすると買い手が市場からいなくなり、市場が成立しなくなる。生産と所得とは均衡している必要があるのである。

 個人は、市場にとって働き手であると同時に顧客でもあるのである。

 所得の受け手は、基本的には、経済の最小単位である。即ち、国家、経営主体、家計、個人である。個人は、最終的な受け手ではあるが、本来的には、家計なり、経営主体が所得を得て、それで財を購入し、分配する仕組みでなければならない。全ての所得が個人に還元されると、経済単位、即ち、経営主体も家計もその機能を失い、崩壊の危機に立つ。

 市場は、道徳的空間ではない。道徳的空間というのは、共同体内部である。故に、市場では、不道徳ではあるが、悪いことではないという事象が成り立つ。しかし、共同体内部では、不道徳なことは悪い事である。市場と共同体では行動規範が違うのである。
 最近の金融機関の行動が好例である。また、不当な安売り業者も然りである。市場の規律や本来の役割を無視して自分の利益だけを貪る。それは、エゴであり、不道徳な行為である。金融機関の本来の役割は、資金が不足しているところへ、資金が余っているところから融通することである。ところが、それにはリスクが伴う。そこで、資金が不足しているところから資金を引き剥がし、資金が余っているところに融通するような行為をを取る。それが、実物経済に資金が廻らなくなる原因であり、金融市場の混乱を招く。極めて不道徳な行為である。しかし、市場の原理では、当然の行為に映る。
 家庭では、良き父でありながら、外へ出たら、悪徳経営者というのは良く見受けられる。そう言う経営者は、法に触れないのに何が悪いと良く開き直る。法の抜け穴を捜して阿漕(あこぎ)な儲けをする。また、そう言う人間だからこそ、商売に成功する。
 マスメディアでは、どんなに不道徳なことでも、視聴率を稼げれば許されるのであり、映画も、興行成績がいいか悪いかが価値基準になるのである。かつて、子供に悪影響を与えるという理由で問題となった映画も、ヒットしたからと言う理由で不問に付された。それが言論の自由と言う事になるらしい。しかし、本来の自由というのとは、意味が違う。なぜならば、自由は、人間の意志とかけ離れて存在するものではないからである。そして、意志の根源は、道義、正義だからである。
 共同体は、道徳的社会である。故に、市場と共同体は、良く対立する。しかし、共同体も市場にも本来の役割があり、共存すべき部分である。また、市場もより大きく見ると何等かの共同体に一部であり、全く不道徳で良いというのではない。そこには、個人の良識や、見識があるのである。特に、業界を指導する役割を担う者は、徳が要求される。そうしないと市場そのものが成り立たなくなるのである。だからこそ、市場は、制御される必要があるのである。

 日本の金融機関は、国内で貸し渋りをしながら、海外の金融機関に、巨額の投資をしている。それは、市場の仕組み問題がある。金融機関の本来の役割は、資金が余っているところから、資金が不足しているところへ資金を融通することである。しかし、多くの金融機関は、市場において道徳的な判断はしない。市場というのは、不道徳な場なのである。そして、多くの金融機関は、不道徳な存在なのである。本来は、資金が不足しているところへ資金を廻すべきなのだが、それでは、短期的に利益を上げることができない。目先のことで言えば、利益を操作できる相手と、資金を転がした方が利益を上げることができる。故に、実物市場に資金を廻すより、金融市場で資金を廻した方が、リスクが小さく確実に利益を上げられると考えるのである。しかし、長い目で見れば、それが経済を衰弱させ、融資先を失わせるのである。根本に思想や構想、志がないから目先の利益に目がくらむのである。

 誰が見ても、異常なことは、異常なのである。汗水垂らして働いている実業の世界に金が廻らず。本来実業を支援しなければならない金融界に資金が滞留している。何も生み出さない産業の従業員が、実業の労働者の一生どころか、何回生まれ変わっても、手に入れることのできないような所得を受け取っている。商売するにしても、住むにしても、高価すぎる地価、これらは、実用という観点からして異常なのである。
 社会の利益に反することが明らかだとわかっていても、法を犯していないから、不正ではないと言う考え方は、不道徳なのである。

 不道徳な金融機関は、環境の変化や状況の変化を考慮せず、また、その産業や企業の働きや社会的役割を考慮せずに、ただ、計数だけで融資の判断をする。それでは、金融機関本来の役割を果たすことはできない。重要なのは、国家又は、地域社会の一員として、共同体の一員としての判断である。

 市場の歪みが腐敗を招き無法地帯や裏社会を育む。それは、元々、市場は、共同体としての社会の掟や規制の力が働きにくい場だからである。充分この点を留意して市場は管理されるべきなのである。

 市場は、人為的空間である。人為的空間の典型と言えば、スポーツのフィールドである。フィールドを例にして、人為的な空間の在り方を考えてみたい。

 人為的空間は、範囲、空間を確定する必要がある。人為的空間は、自己の意識の範囲内で形成される。つまり、個人的に意識することによって形成される。故に、個人主義的空間は、何等かの宣言をもって始まり、宣言をもって終了する。また、個人主義的空間の範囲、定義によって為される。

 時間も人為的な概念である。故に、時間も変化を意識することによって成立する。時間の範囲も空間に準ずる形で定義される。

 人為的な空間は、人為的に管理される必要がある。例えば、野球を例にとると、野球のルールが作用するのは、フィールド内だけである。ボールがフィールドから飛び出すとそのボールの動きや作用は解消される。つまり、ボールデッドである。
 これは、市場にも言えるのである。つまり、市場の作用が及ぶのは、市場のルールが及ぶ範囲に限定されている。問題は、その境界線にある。
 通貨が、その通貨の機能を有効とされるのは、その通貨が有効とされる範囲いないに限られている。その範囲を越えれば、有効とされる通貨に両替する必要が生じる。この様に、人為的空間には、範囲があることを忘れてはならない。

 市場は、人為的な空間である。その現れが、仮想的空間に成り立つ経済である。つまり、実体的な市場ではなく。実体、実物から離れた市場の急速な拡大である。その代表的な市場が金融市場であるが、その他にも、映画や音楽、ビデオ、ゲーム、インターネットと言った娯楽市場、エンターテイメント市場である。これらの市場は、かつては存在しなかった。少なくとも市場としては成立していなかった。この他には、リゾートや観光などがある。
 この様な市場は、人工的に作られた市場である。しかも、経済状態を左右するほどの巨大な市場へと急成長している。エンターテイメント市場と金融市場は、今やアメリカ経済を支える大黒柱にまでなっている。
 この事実は、世界経済の未来を占う意味では重要な意味を持っている。
 つまり、経済というのは、ますます、人為的な度合いを深めていくだろうと言う事である。それでありながら、いまだに、経済を自然現象の一種であり、人為を排除しようとする頑迷な考え方が蔓延っている。それが、経済の混乱に拍車をかけているのである。
 経済は、一種の構造物、機械、仕組みである。それは、入念に分析され、その上で設計されなければならない。それが市場である。
 エンターテイメント産業というのは、必需品ではない。それがなければ生きていけないと言う性格の産業ではない。しかし、その利益は、また、経済に対する貢献度は、必需品市場を凌いでいる。それは、エンターテイメント市場には、どの様な役割、社会的要請によって形成されたのか。つまり、それは雇用の創出、すなわち、所得と消費、分配という機能による要請である。ここに近代産業、経済の本質が隠されている。
 経済の本質は、労働と分配である。仕事や仕事場を作り出し、所得を生み出すことによって分配を効率よくすることにある。雇用を創出することが出来なくなった産業は必然的に衰退せざるをえなくなるのである。
 これは、現代社会の在り方からすると矛盾している。この矛盾が、経済の歪みを生み出しているのである。
 つまり、一方で労働を軽視し、機械化を進め、人員を削減する。つまり、仕事をなくし、仕事場を奪っている。その反面で、消費を煽る。つまり、所得が減っているのに、消費を煽れば、借金が増えるのは道理なのである。そして、多重債務が社会問題化するとしたら、その問題のそのものが社会に仕組まれていることになる。

 現代の市場は、人を中心、基盤とした体制ではない。物や金を基盤とした体制である。つまり、物や金を基盤とした体制である。つまり、物や金に支配された、隷属した市場である。支配されるという事は、所有される友言える。つまり、物や金に人が所有されているというおかしな体制なのである。
 その証拠に、景気が悪化すると物の生産性や金銭の効率性が重視され、人員が削減される。その為の社会全体の所得が減り、反対に、財が過剰に市場に供給される。その結果、景気が螺旋的に悪化していくという悪循環を引き起こしてしまう。あるいは、実物市場に資金が環流しなくなり、資金の過剰流動性を引き起こす。
 生産の速度を緩め、財の品質を向上させたり、競争を抑制して、適正な価格を維持するというような発想は生まれてこない。ただひたすらに効率を上げて、金儲けを追求する事ばかり考えるようになる。

 それは、経済本来の目的や市場本来の機能を忘れ、個々の部分の効率のみを追求するからである。全体を見ずして、部分の最適ばかりを求めるからである。木を見て森を見ていないのである。

 部分は、全体と調和してその機能を発揮することが出来る。部分の機能を抑制するのは、全体である。部分と全体を対立的にしか捉えられなければ、全体と部分との調和は図れない。物事を対立的にしか見られないのは、現代社会の根深い病根の一つである。

 仮に、市場が人為的な空間であるとしたら、市場の問題は、人為的に組み込まれた物である。当然、その矛盾も人の手で解消すべきである。自分達で原因を作っていながら、解決だけを神の手に委ねるのは愚劣な行為である。神が愚かなのではなく。人間が愚かなだけである。
 経済を人間の叡智の賜物としながら、恐慌のようなことを災害と片付けるとしたら、人間の傲慢以外の何ものでもない。
 経済の矛盾は、人間の手で正さなければならない。





                    


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