標 準 化


構造経済とは何か。

 市場が成熟してきたら量から質へと転換していかなければならない。それに応じて規制と監視を強化する必要がある。

 近年、規制緩和が、大流行である。しかし、規制を緩和するという事の意味が誤解されているように思われる。近年の規制緩和の前提は、規制は悪である。だから、規制を緩和しろ。場合によっては、撤廃しろと言う極端な話まである。規制をなくして、市場の力に全てを委ねれば、万事うまくいくというのである。それは、自由主義ではなく。市場の無政府主義である。
 市場は、成長するに従って質的な変化を起こす。当然、その質的な変化に対応しきれない規制や法、制度がある。それを改める必要がある。しかし、それだからと言って規制は、悪い、規制を全廃しろと言うのは、極論である。規制を意味もなくなくすのは、市場に無用な混乱を引き起こすだけである。先ず、規制が成立した背景、歴史的経緯を確認し、その本来の目的に適合しなくなったか、否かを明らかにすることが先決なのである。頭から、規制は悪だと決め付けるのは、あまりに短絡的すぎる。

 規制緩和というと規制をなくしてしまえと言う事になる。必要でなくなった規制をなくし、必要な規制を改めて制定することを意味するのである。
 市場の質的な変化によって必然的に、規制の質的な変化が起こっているのにすぎないのである。

 市場が成長している時は、大量生産によって産業を効率化し、競争力を強化することは正しい。しかし、市場が成熟してきたら大量生産、大量消費から、多品種少量生産、計画的消費、合目的的消費、効率的消費へと変化させる事が必要となる。
 例えて言えば、ホテル業界である。多くの人を安く宿泊させると言う目的から、一人一人の所得や要求、目的によってホテルの施設と設備の質を選択できるようにすることである。
 その為に、必要なのは、高品質化である。高品質を保つためには、コストがかかる。その為には、利潤の確保が優先される。
 故に、品質を維持するためには、規制を強化すると同時に、不当廉売の監視を強めることが肝心である。
 市場の成熟してきたら、それまでの安かろう、悪かろうという市場から、高品質の市場へと転化することが要求される。その好例が、食料である。食の安全と言う事が問われるようになってきた。食の安全を保証しつつ、多様な要求に対処することが、食品市場に要求されているのである。
 また、手作りや高品質、耐久性に優れた商品を供給できる仕組みにすることが肝心である。ブランドのような付加価値を高めることも重要になる。また、中古市場やメンテナンス市場、リサイクル、リホームなどが新たな市場として成立する下地を作ることである。それによって雇用の増大を計るのである。

 消費者保護の観点からも市場は規制される必要がある。
 市場の保護と言っても、所謂、保護主義者の言うような関税を高めたり、市場を閉ざすようなことを意味しているわけではない。市場の公正な競争や秩序、規律を守りながら、消費者も保護する。その為に、市場の規制を強化すべきだと言っているのである。それは、商業道徳の問題でもある。

 ところが、現在の市場経済は、これらの方向性からみると逆行している。安売り業者の横行を許すことによって、個人事業者や中小企業が淘汰され、ひたすら、大量生産、大量消費に走っている。競争、競争、競争である。あたかも、競争だけが市場原理のように思い込ませている。

 経済は、人間の意識の所産である。意識は、相対的な基準でしか対象を認識できない。相対的基準とは、比較対照である。比較対照は、位置と運動と関係によって成立する。位置と運動とは、対象間の距離と時間的差、変化の差を意味する。つまり、差を付けることを前提して成り立っているのである。

 その為に、経済を成立させるためには、合理的、構造的な差別化、区別化をする必要が生じる。合理的、構造的というのは、能力や実績に基づく差別化、また、その人その人の働き役割に応じた区別を指して言う。即ち、実力主義である。
 それ以外の属性、即ち、人種、宗教、性別、出自といった要素に基づく差別は、社会を硬直化させるために排除されるべきである。

 対象の所得や要求、用途に応じて合理的、構造的に区分すべきなのである。

 プロスポーツの世界は、それぞれの技能に応じて一軍と二軍が別れてる。ただ、能力と技能、実績によってこの一軍と二軍との間の移動は可能である。この体制があってプロスポーツの質は保たれている。
 ただし、実力以外の要素がこれに加わると制度そのものが硬直的になり、プロスポーツとして成り立たなくなる。

 次ぎに格差の是正である。大幅な格差は、分配構造を歪め、組織のストレスを高めてしまう。最悪の場合、社会構造そのものを破壊してしまう。故に、社会の格差を一定の幅に納める必要がある。
 その為に、所得の再配分と、最低限の生活保障が必要になる。

 また、経済の単位を確立し、複数の経営主体による自律的活動を保証する必要がある。経済単位の確立とは、必要に応じて幾つかの経済主体(共同体)に分割して自律的機能を持たせることを意味する。プロ野球でいえば、チームであり、球団である。
 組織の単位化は、第一に、個人にとっては、選択の自由の保障にもなる。第二に、組織の自律性を維持させる。第三に、機能を分散化し、独裁的権力を抑制する。第四に、適切な規模の維持を目的としいる。適切な規模とは、最も効率的な規模を指して言う。第五に、市場の原理を働かせ、相互牽制作用をもたせる。第六に、格差を抑制する効果が期待できる。

 中小企業の役割を軽視すべきではない。適正な規模の経済単位、即ち、自立的経営主体の働きが経済を活性化してきたのである。中小企業の衰退は、経済を不活性化する。

 もう一つ大事なのは地域社会である。
 社会は、経済的関係だけで成り立っているわけではない。治安上からみても、福祉からみても互助関係が働かく必要がある。老人や弱者の面倒は、本来、地域社会や親族がみてきたのである。そう言った地域社会の果たしてきた役割を無視しては経済は成り立たないのである。それが金銭的関係だけに経済的関係、人間関係を矮小化してしまったために、本来の意味の治安や福祉が形骸化してしまったのである。
 以前は、スーパーは、客ではないと維持もとの商店を優先する風潮があった。その思想は、ある意味で本質的である。全てを価格だけに還元することは、経済を不活性化してしまう。
 重要なことは、その社会の在り方に対する幅広い合意である。

 国家や地域社会には、固有の決まりがある。例えば、自動車の右ハンドル、左ハンドルである。日本では、外国からの輸入車を左ハンドルと表現していたことがある。輸入車が国内の仕様に合わせなかったからである。それに対し、日本は、外国に自動車を輸出する際、相手国の仕様に合わせて自動車を生産した。それが、日本車が輸出先の国に受け容れられた要因の一つである。標準化というのは、個々の国の事情を無視することではない。また、一様にすることでもない。
 言語や文化、風俗、風習の違いなどは決定的な違いである。その様な違いを一律に捉えて何でも標準化してしまえと言うのは、乱暴な話である。何を標準化し、何に、互換性を持たせるかは、国家や地域社会にとっては、重要な戦略である。
 また、進出する国や企業が、自分達の国や企業の仕様を相手国に押し付け、標準化しようと言うのは、横暴であり、相手国の反発を招くだけである。

 皮肉なことに、本来、地方経済を活性化するはずの交通機関の発達が、地域経済を衰退に導いてしまうことがある。交通機関の発達は、国家が意図したわけではなくても、大都市に人口を集中させたり、一極主義的な経済構造を現出させてしまうことがある。また、産業の誘致が必ずしも地域経済の活性化に結びつくとは限らない。産業をなぜ誘致するのか、その目的意識を明らかにしないと、却って、地域の財政に過剰な負担を掛けることにも繋がる。充分にその点を留意して経済構造は、想定されなければならない。

 かつて、沖縄のスタンドは、過剰サービスで問題となった。スタンドに勤務する人間が多いというのである。しかし、沖縄には、産業が少ないために、スタンドが雇用の受け手になっていたという事実もある。沖縄のスタンドは失業対策にもなっていたのである。それを市場の効率によって淘汰することが経済的なのであろうか。

 地域住民は、働き手であると同時に、顧客でもある。資本の論理だけで効率化を計ることは、市場を枯らすことになる。それは、資本の側にとっても自殺行為なのである。生産者側の論理だけを押し付け、消費者側、顧客の意志を無視することは、市場経済にとって致命的な行為であることを忘れてはならない。

 典型的なのが、NFLと、MLBである。アメリカのプロ・スポーツの在り方、それは、地域住民との関わり合いも含めて、一つの経済の在り方を我々に呈示している。

 これが構造経済である。





                    


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