機能主義

会計的均衡


 財務諸表は、計算書に過ぎない。問題は、何を計算するかである。
 何を計算するのか。それは、裏付けである。つまり、会社が破綻した時に債権者に対してどの様な裏付けがあるか。また、資本家に対してどれくらいの配当が妥当か。経営者にどれくらいの報酬を支払うべきかを計算するために、財務諸表は生まれたのである。つまり、単に利益を計算する目的で生まれたわけではない。
 先ず目的や動機が肝心なのである。
 先に述べたのは、計算書を見る側の目的と動機である。逆に賛成する側の動機とは何か。この様に二元的に考えるのが、複式簿記の考え方である。
 計算する側の動機は、資金の調達である。この点を誤解しない方が良い。事業の継続にせよ、報酬を得るにせよ、資金が必要なのである。

 会計というのは、「ある」から出発するのではなく。「ない」から始まるのである。いわば最初マイナスからの出発である。だから外部より資源を内部へ取り込む手続から開始される。それが資本の原点である。

 決算書の入り口と出口は、現金である。即ち、現在の貨幣価値を実現した物である。つまり、経営とは、調達された内部に蓄積された現金によって調達した財を内部で変換して再度現金化していく過程である。
 そして、その働きは、前期末残高、入りと出、そして当期期末残高で表される。この位置と運動と関係が作用反作用と結びついて決算書を成立させる。

 取引の作用反作用は、複式簿記が好例である。つまり、一つの取引は、同量の貨幣価値を持つ二つの作用によって認識されるのである。そして、これらは、基本的に資産と費用、負債と収益に分類される。負債と収益は、入力であり、資産と費用は、出力を意味する。そして、資産と負債の差は、純資産、収益と費用の差は、利益を形成する。純資産と利益は、同じものである。
 また、一つの取引は、内と外で同量の貨幣価値を持つ二つの作用となる。つまり、売上は、買上になり、貸し付けは、借り付けになる。売掛金は、取引相手にとっては買掛金となる。受取手形は、取引相手にとっては、支払手形となる。

 取引の作用、反作用には、売り買い、貸し借り、と言ったものが代表的である。ただ、売りと買い、貸しと借りと一対一に、又は、形式的に対応させがちである。売りと貸し。売りと貸しという組み合わせや買いと借り、買いと貸しという組み合わせもある。つまり、作用反作用の組み合わせは、その時の取引の形態に準じて決まるのである。

 個々の企業の市場での働きは、企業間の取引によって成り立っている。そして、企業間に働く作用は、取引が成立した時点、時点では均衡している。この企業間で働く作用によって市場の状態や経済の状況は決まる。個々の企業の内的な働きだけでは、企業の社会的働きは見えてこない。
 決算書の分析において、内的均衡ばかりを見るために、外的均衡、さらには、経済全体の動きと企業経営が結びつかないのである。
 故に、企業の経済的働きを分析するためには、個々の取引が市場全体に及ぼす影響を明らかにする必要がある。その上で、企業収益が適切なものであるかどうかを判定するのである。

 不良債権を問題とした場合でも、資金の供給者側の問題と需要者側の問題があると言う事である。そして、どちらの側の問題がより深刻か、あるいは、どこからその問題は、発生し、その根源は何かである。不良債権問題の根源には、貸し手側から見ると地価の問題があり、同時に、借り手側から見ると資金不足の問題がある。地価の問題はどこから来ているのか。そして、資金不足は何が原因なのか、双方の事情を照らし合わせてはじめて不良債権問題は片付くのである。

 一口に、不良債権というが、不良債権は、不良債務の問題でもある。負債には、貸し手と借り手がいる事を意味している。そして、誰が貸し手で、誰が借り手かが重要なのである。つまり、全体的には、貸した金と借りた金は社会全体の負債の総額において均衡しているのである。また、貸し手側、借り手側双方に問題が生じることを意味する。貸し手側、借り手側、どちらか一方の問題を解決しても片手落ちになる。貸し手、借り手双方の問題点を解決してはじめて不良債権は解消されるのである。

 作用、反作用は、量的には均衡しているが、質的には、非対称性がある。作用は、量的には、同量の貨幣価値でも、質の違いが生じるからである。
 質的な違いというのは、作用の性格を意味する。例えば、債権と債務である。また、売上と費用などである。売上は、同量の費用を発生させる。売上の性格は、収入であり、価値の実現であるのに対し、費用は支出であり、価値の消滅を意味する。また、売上は、費用だけではなく。資産を発生する場合もある。その場合は、価値の留保を意味する。この様に作用も一律ではない。

 収益と負債、又は、資産と費用の違いは、貨幣価値が生じた時点でその価値を実現できるか否かの問題である。実現できなければ、債権と債務が派生する。収益と費用は、貨幣価値が成立した時点で実現する。それに対し、資産と負債は、その貨幣価値が成立してから実現するまでに、時間が掛かる。その間、債権と債務が派生する。その債権や債務は、譲渡することが可能であれば、貨幣と同じ効果を発揮する。

 所有権は、交換価値を発生させる。交換価値から貨幣が創造されると貨幣価値から債務と債権が生じる。債権と債務は、等価で作用反作用、即ち、逆方向の働きがある。そして、債権と債務は、一度成立すると、それぞれが独自の運動をする。運動とは、変化である。貨幣価値を実現した物が現金である。収支というのは、現金の動きの軌跡であり、損益は、債権と債務の働き言った結果である。

 貨幣価値は、価値するものと価値されるものの二つからなる。ここから貨幣は、二つの作用が生まれる。この二つの作用は、負の作用と正の作用でもある。故に、貨幣経済の拡大は、負となる部分の拡大をも意味する。

 相対的な現象には二面性があるのに、日本人は、表面に現れた一面しか見ない。例えば、借金をしたら、借金をしたことしか見ない。しかし、表面に現れた働きと反対の働きがあってはじめて均衡するのである。その二つの作用を媒介するのが貨幣の働きである。

 例えば、借金をして土地を購入した場合は、土地と負債の関係が、現金と負債、土地と現金と表現されるのである。

 我々は、借金をしたとか、土地を買ったという具合に、貨幣の動きから一面しか見ない。それが現金主義である。しかし、借金をして現金を手にしたという事であり、現金で土地を買ったという事なのである。その媒体が現金なのである。
 つまり、本来は、債権と債務という反対方向の働きがあるのである。その働きが、同時に発生するとは限らず、ある程度の時間をおいて発生することがある。その働きを媒介する媒体が貨幣なのである。そこに貨幣の本質的な働きがある。

 現金収支だけでは、この債務・債権関係が認識できない。それ故に、期間損益が始まったのである。
 期間損益を確立した意義が理解できなければ、キャッシュフローの意味も理解できない。

 収入に関しては、負債も、資本も、収益も、基本的に収入を基礎としている事に、変わりはない。ただ、返済する必要があるかどうかの問題なのである。

 もう一つ、重要なのは、元本の返済は、費用として期間損益上はみなしていないという事である。つまり、損益の均衡は、費用に対応する部分、金利に対応する部分を指して言っているのである。元本を含めるのは、収支上の問題である。

 要するに、資産、負債、資本、収益、費用を構成する個々の要素が、それぞれどこに対応しているかが重要なのである。

 企業は、儲かっている時、業績がいい時、いろいろな物に投資をする。ところが業績が悪化してそれらを維持できなくなると、結局、借金だけが残ったという事にもなる。
 企業は、年々、利益を上げているのだから、しっかり儲けを溜め込んでいるものと思いこみがちである。しかし、それは、一面しか見ていないからそう思うのであり。収益が上がっり金が一見余っているように見えても、それによって資産を買えば、結局、債務を増やすだけなのである。借金を返済しても負債が減り、金利負担が軽減するだけで、収益には、金利以上の影響がでないのである。つまり、債権と債務は常に均衡している。
 では、儲かった金はどこへ行くのかというと、消費である。消費は何かというと一つは、費用である。もう一つは、配当である。そして、税金と金利である。つまり、分配に廻されてしまい残らないのである。それが期間損益の本質である。勢い、儲かったら、儲かって分、使ってしまえ、消費してしまえとなる。
 利益は、累積・蓄積が難しくできているのである。

 それは、収益と費用、即ち、所得と消費は、常に均衡させるべきだという発想に基づいている。これは、思想なのである。債務と債権、収益と費用は均衡させるべきだと言う思想なのである。






                    


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