数値化

 現代社会の特徴の一つが数値化である。つまり、数の力である。この傾向は、欧米、とくにアメリカに強くある。
 近代社会の基礎は、数値化によって築かれたと言っていい。また、近代社会の土台は数字によって形成されている。
 数値化という行為がこれ程博く浸透している今日、数値化の意味を避けて通ることはできない。数字の持つ意味、長所と欠点、特性をよく理解しておく必要がある。

 そして、数値化は、科学、会計、民主主義、近代スポーツの四つの要素にも共通した性格である。と言うよりも数値化によって成立されたと言っても良い。数字は、近代という時代の鍵を握っている。

 例えば、野球で言えば、試合に出場できる選手の数は、一チーム、九人であり、一試合九回を単位として九回で同点の場合は回を延長することができる。一回の攻守の交代は、スリーアウトとすると言った具合にルールの基本は、数字で事細かに決められている。

 民主主義は、選挙、即ち、数の力によって決まる。それ以外にも、民主主義は数の力が大きく作用している。

 数値化とは、第一に、抽象化である。第二に、量化である。第三に、単純化である。第四に、単位化である。第五に、単一化、均一化である。第六に、標準化である。第七に、平均化である。第八に、情報化である。第九に普遍化である。

 数値化と、数学化とは少し意味が違う。数値化は、数学化の前提ではあるが、数値化された者が全て数学的かというと必ずしもそうとは言い切れない。とにかく、数値化というのは、対象から量的な要素を抽出することを意味するのである。
 数値化の前提は、単位化と単位の統一である。物理学的な単位の統一は、度量法の確立をもってする。単位が確立されると尺度が成立する。つまり、単位を定義することは尺度を確立することを意味する。
 つまり、数値化の基本は、単位の統一にある。そして、一定の単位が確立され、統一されることによって基準、尺度は統一される。
 その点、貨幣単位は、確立されているわけではない。それが市場経済、貨幣経済を不安定なものにし、共通の場の確立を阻害している。

 数値化の意義は、計数化、計測化にある。数値化することによって対象を数えたり、測ることできるようになる。即ち、数字によって計測することが可能となることを意味している。この事は、即ち、対象の四則の演算を可能とすることも併せて意味する。

 数値化とは、量化でもある。量化というのは、定性的属性を剥ぎ取り、量的なものに特化することである。それによって対象の定量化が可能となる。反面において質的な部分が無視されたり、考慮されなくなったりもする。一つの仕事でも、仕事の成果よりも価格や費用の面だけが問題とされて、できばえや質が考慮されない場合がある。

 価値の数値化は、価値の抽象化である。それは、価値の単一化でもある。数値化は、対象の象徴化である。象徴化とは、記号化でもあり、情報化である。情報化は、信号化をも可能とする。

 価値を単一化すると異質な物を足したり、引いたり、掛けたり、割ったりすることができるようになる。
 例えば、土地と労働と設計といった抽象的概念、情報、時間と言った異質のものを、合計することが、できるようになる。また、時間だの、費用だの、能力だの、権利だのと言った本来、分割できないような対象を分割することが可能となる。
 我々は、まったく性質の違うものを、足したり、引いたりすることに何の違和感も感じなくなった。
 考えてみれば、おかしな事なのである。有形なものと無形なものを足したり引いたり、目に見えるものと、目に見えないものを、掛けたり割ったりするのであるから。しかし、それによって現代の経済は、市場を成立させることが可能となったのである。

 そして、数値化することは、対象の一般化でもある。普遍化でもある。一円という価値は、どこに行っても一円という価値を持つと言う事である。ただ、ここで言う価値は、貨幣としての価値である。
 貨幣化の意味は、価値を数値化する事による価値の単一化である。価値を単一化するから、異質の価値の演算が可能となるのである。

 数値化することによって数学的技法や数学的論理が、経済や政治に持ち込まれることになる。最近では、金融工学という分野まで確立されるほどである。つまり、数値化は、数学的な論理による支配でもあるのである。
 数値化すると数式化する事が可能となる。それは数学的な認識や考え方の影響下にはいることを意味する。その結果、何でも数字、数字となる。数字が万能の力を発揮し始める。

 ただここで勘違いをしてはいけない。数字というのはあくまでも抽象概念であって、それだけで成り立っているものではない。対象となるものから価値を抽出することによって成り立っている。また、その価値に意識が意味を持たせることによって意味が生じる価値なのである。つまり、意識が創り出したものであって、意識が働いていない世界では貨幣価値は、存在しないという事である。

 不良債権の多くは、金融機関が生み出している。不良債権として認識されることによって不良債権化する。不良債権として認識することによって不良債権化していく性格がある。それは貨幣価値が認識の問題であることを象徴的に示している。貨幣価値は、認識によって生じるのである。

 数値化の最たるものが貨幣である。貨幣は、数値情報である。即ち、数である。貨幣は、対象の交換価値を量的に抽象化した物である。ただし、価値は時間と伴に変化する。故に、貨幣価値は、現在の貨幣価値を現している現金と、貨幣が指し示している物と貨幣価値を認めている主体とによって構成される抽象的概念である。

 この事から貨幣価値は、基本的には、見かけ上の価値である事がわかる。また、貨幣価値は、相対的価値であり、貨幣が指し示す物と貨幣価値を認める主体とに依存する価値であり、貨幣単独で成立する価値ではない。

 それ故に、貨幣は、貨幣のみでは、実体的価値を形成することはできない。貨幣価値は尺度に過ぎないのである。数字を成立させている実体がなければ成り立たないのである。数字だけが一人歩きし始めた時、数字的価値は実体を失う。貨幣は、貨幣そのものの価値と貨幣が指し示す物の価値、そして、その価値を認める者の三つの要素のよってはじめて成立するのである。この三つの価値が、常に一体で一致していれば問題ないのであるが、この三つの価値が乖離し、バラバラに変動することがある。それが、経済現象を複雑にしている最大の原因である。
 数値化によるリスク、それは、価値と実体との乖離である。その典型が貨幣価値である。そして、貨幣価値が、それ自体が価値として振る舞うことがバブルと言った現象の原因となるのである。

 この様な貨幣価値は、必然的に、相対数である。絶対数ではない。価値が指し示す対象によって規制されている。どんなに値段が高騰しても対象となる財には変わりがない。貨幣価値が上昇したから品質が良くなるとか、増殖すると言う事はない。また、財の総量が変化するわけではない。ただ、価値上昇が情報となってその価値を認識する者の価値判断が変化するだけである。
 相対数と言う事は、結局比率の問題であり、取り分の問題に還元されるのである。石油価格が高騰することで、産油国、石油会社、消費国の取り分に変化が現れるだけである。そして、その取り分が格差の本質なのである。格差は、取り分に現れる。また、格差は、価値を細分化する。価値がなかったものが価値を持つようになる。格差がなかった時は、牛肉の差はほとんどなかったのに、格差が広がると銘柄牛が価値を持つようになる。つまり、ブランドが重要になるのである。しかし、それは牛肉そのものが価値を変えたのではない。ただ価値を認める者が現れたことによって貨幣的に差がついただけである。

 貨幣経済が進んだ社会は、数値化が浸透した社会でもある。貨幣的価値というのは、数字的価値に他ならない。故に、金というと、いくらいくらと数字で表現される。そのことに何の違和感がなくなるくらい貨幣的価値は、世の中の隅々にまで浸透してしまっている。

 数値化された物は、数字の性格によって普遍化される。故に、貨幣価値も普遍化され、国際化される。

 貨幣価値というのは、数値的価値である。言い換えると10進法を基本とした数という属性以外、何ものも持たない価値だと言える。極端な話し、情報化してしまえば、何等かの記号化、信号でしかなくなってしまうという事である。そして、この数という属性以外、何も持っていないが故に、博く普及したし、また、普遍的な価値にもなったのである。数という属性以外を持たないという事は、純粋に相対的な価値だという事である。貨幣にはいろいろな種類があり、また、国によって違う。しかし、数以外の属性を持たないという点で共通している。共通しているが故に、国家間の取引が可能になったのである。

 金融工学には、誤魔化しが多い。先ず何を前提とするかが、重要なのである。物理学者は、数式に全てを委ねたりはしない。しかし、経済学者は、全てを数学に委ねてしまった。元々、経済は、人間の意識が生み出したものである。仮定を絶対視すれば、結果は自ずと明らかである。それこそ、神を冒涜することである。
 現実に基づいて数式はたてられる。数式によって現実は作られるものであってはならない。
 どんなに、複雑に見える数式も前提と原則に基づいて展開される。故に、何を前提とし、何を原則としているかが重要なのである。

 貨幣価値は、関数として表せる。貨幣価値の単位は、単価である。単価は、単位あたりの財と単位あたり価格を掛け合わせた物である。この単価に数量を掛け合わせたのが、貨幣価値である。

 経済空間は、財によって形成される場と貨幣によって形成される場からなる。その場を結び付けている媒体は、個人の意識である。そして、これらが創り出す空間に時間軸が加わる。

 財には、質と量が関係してくる。貨幣は、量だけである。そして、この関係を:決定付けるのが意識である。意識は、時間によって変化する。

 景気、不景気によって我々の生活は左右される。しかし、不思議なのは、物の世界では、大きな変化がないのに、景気が大きく揺れ動くことがある。確かに、農産物は、天候に左右される。しかし、生産量に大きく変動がない。あるいは、収穫量は減っても、充分蓄えがあるはずなのに、景気が大きく揺れ動くことがある。財の場は、変化がないのに、景気に変動があることがある。それは、貨幣の振る舞いによるのである。

 貨幣の振る舞いとは、数値、数式に依拠している。それが重要なのである。数値を絶対視するのは、人間である。数値の問題ではない。しかし、数値は、実体ではない。影である。それも人間の意識が生み出した影である。
 数値や数式を過信してはならない。数学は万能ではない。数学を、手段、道具として使いこなせたら絶大な力を発揮する。しかし、数学によってこの世を支配できると思ったら、数学は必ず報復する。数学こそ、神の恩寵である。不可思議な体系なのである。
 ベトナム戦争において、数学によって戦争を支配しようとアメリカは、試みた。その結果、アメリカは、ベトナム戦争という泥沼から抜け出せなくなったのである。クラウゼビッツは、戦術は、算術だと言った。それは、戦略目標や政策が明確な時にこそ威力を発揮する。しかし、最後に決するのは、人間の意志であることを忘れなければである。同様のことは、金融工学にも言える。金融技術によって破綻したのは、人間の業である。金融工学が悪いわけではない。
 数値や数式を過信する者ほど、悪い結果が出た時に、数値や数式の責任にする。数式の結果や数値は、前提が変わればいかようにでも変わるのである。

 人間は、自分の限界をなかなか認めようとしない。自分を全知全能の存在だと錯覚している。科学によって全ての謎を解き明かすことが可能なのだと思い上がっている。人間は、人力の及ばない存在があることを認めなければならない。
 数学によってこの世の何もかもが支配できるというのは、思い上がりである。その思い上がりが経済の混乱を引き起こしているのである。
 金融の世界は、数値によって支配されている。それは、金融が貨幣市場であり、貨幣価値という数値的価値を土台としているからである。しかし、貨幣価値というのは、本来表象的価値である。貨幣価値は実体を反映した影に過ぎないのである。
 現実の世界は、結局、人間の力を超えたところに存在していることを忘れてはならない。そして、それは神の賜物なのである。




                    


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