5.会計と数学

5-3 会計と集合

会計は集合の一種である



 経済は、数学である。

 資本主義というのは、会計の論理によって現された思想である。故に、会計の根本理念が理解できないと資本主義の本質は理解できない。そして、会計の論理は数学的論理である。言い替えると、会計は、数学的論理によって作られた思想だと言える。今の会計に対する議論は、最初に会計ありきという前提に基づいている。それ故に、会計が学問として確立されず、単なる技術論に堕している。しかし、会計は、経済に対する歴とした一つの思想であり、又、今日の市場経済の論理の骨格を成す理念である。故に、その根本思想や哲学から論を起こす必要がある。会計は思想なのである。そして、今の会計を単なる技術論の域で捉えていたら、会計の役割や働きを理解することは出来ない。

 会計は、数学なのである。条件や前提をかえるだけで答はまったく違った値になる。赤字が黒字になったり、黒字が赤字になったりする。故に、会計では、前提や条件をよく確認する必要がある。

 計算尽くでは、悪いという考え方があるが、会計は基本的には、計算である。計算尽くが悪いというのではなく。計算の背後にある経済的実体を忘れるから悪いのである。

 会計は、集合である。会計は、有限集合である。会計は、零を含む自然数の集合である。会計は、集合族である。会計は、可算集合である。
 会計は群である。会計は、特異な構造を持つ群である。会計は、加法、乗法に関して群である。

 会計という数学。会計とは、一つの数学の分野だと思うべきである。

 会計は、自然数の集まりである。原則として負の数字も用いない。会計上の除算の結果には、原則として少数や分数を用いない。割り切れなかった場合は、余りを出すか、端数を切り捨てるのが原則である。それは、会計が最終的に貨幣の受払を前提としているからである。

 集合が成り立つ前提は、一つの全体が存在することである。即ち、何等かの全体があるという事である。そして、その全体が幾つかの要素、部分に分割されていることである。
 閉ざされた集合というのは、その全体が有限であることを意味する。有限な全体を前提とするから、部分としての比が成り立つのである。

 市場を一つの統一された場と見るか、複数の独立した場が複合された場と見なすかが、重要となる。また、統合された場を目指すべきなのか、それとも独立された場を維持すべきなのかが問題となる。

 統一的な体系を有する法や規則は一つの場を形成する。

 場を構成するのが、場に一様に働く力だとすれば、場に働く力の根源とそれを一様に保つ仕組みが何に依存しているかが鍵を握る。市場が一様な働きを保つためには、貨幣制度、金融制度、会計制度、経済制度が一体である必要がある。
 特に、貨幣制度は、他の制度の基盤となる制度であり、一つの貨幣制度は、一つの通貨圏を形成する。故に、通貨制度を基盤として市場は形成されると考えられる。即ち、通貨圏毎に独立した市場が複合されて国際市場全体は形成されていると見るべきである。

 この様な市場は、閉ざされた場であり、有限だという事である。即ち、市場には、範囲があり、境界線があるという事を意味する。市場は、際限のない、開かれた場ではない。市場は無制限な場ではないのである。

 市場が閉ざされた場だとすれば、境界線を確定し、範囲を特定する必要がある。即ち、市場の働きを明らかにするためには、市場の規模を測定する必要があるのである。そして、市場規模を測定するときの根拠は、人的、物的経済なのである。

 会計は、比として表現する事ができる。会計は、閉ざされた空間での事象である。故に、会計内部の構造を要素間の比率として捉えることが可能である。閉ざされた空間内部での事象であるから比の働きが重要になる。

 全ての土地を分割することなく特定の個人が所有していたら、土地は、商品としての価値を持たない。逆に、土地が無限にあったとしたら土地は商品としての価値を持たない。
 土地は、分割され、尚かつ有限であることが商品化されるための前提である。

 ただ、注意しなければならないのは、商品価値と経済的価値は同一ではないという点である。商品価値というのは、市場取引の対象としての価値を意味する。商品化というのは、財に商品価値を持たせるための操作を言う。

 また、取引というのは、経済行為の一種に過ぎない。経済行為は、取引以外に、生産、消費、分配等がある。

 会計が比を前提とした体系である以上、会計を経済体制下で経済の働きを明らかにするためには、市場の規模を確定する必要がある。規模を確定するためには、範囲を特定する必要がある。

 会計では、経済現象を取引の集合として見なす。取引を構成する要素を五つの範疇、即ち、資産、費用、負債、資本、収益に分類する。
 先ず取引の認識が重要である。取引は存在したのかの確認が前提となる。

 経済現象というのは運動である。会計現象というのは、運動である。取引は、運動である。

 会計上に形成された市場経済は、資産、負債、資本、収益、費用の増減運動として現れる。経済は、資産、負債、資本、収益費用の均衡と相互牽制が鍵を握っている。資産、負債、資本、収益、費用の均衡が破れ、相互牽制の働きが利かなくなると市場の規律は失われ、経済は、抑制が出来なくなる。

 会計的構造とは、第一に、貸借と損益の比率である。第二に、固定的部分と変動的部分の比率である。

 貸借対照表を英語では、バランスシート(Balance)という。Balanceという意味には、平衡や均衡という意味以外に、差引残高という意味がある。つまり、貸借対照表は残高表意味するのである。残高表とは純額主義である。それに対して損益は、基本的に総額主義である。
 貸借が残高主義だという点は、会計が自然数の集合だという点にも関連してくる。

 会計的構造は、損益と貸借の比率であると同時に、固定的部分と変動的部分の比率である。つまり、固定的な部分と変動的な部分の占める割合が産業を性質を知る上では重要な意味を持ってくる。

 会計的にみて産業には、柔構造の産業と剛構造の産業がある。会計的にみた産業の硬度は、経済政策に重大な影響を及ぼす。
 産業構造の硬度を決める要素には、資産の硬度(流動性、固定性)、負債の硬度(流動負債、固定負債、金利)、資本の硬度、収益の硬度、費用の硬度(固定費、変動費)、会計上の硬度(基準選択の自由度、透明性)等がある。

 柔構造か、剛構造かは、重厚長大型産業か、軽薄短小型産業かにも関わってくる。

 産業や企業が柔構造か、剛構造かを測る場合、固定的部分と流動的部分が占める割合が重要になる。流動的か、固定的かの判定は、単位期間を基準として短期的働きか、長期的働きかに依存する。

 資産の硬度を決める要素には、含み損益をどれくらい持つか、あるいは、償却資産の多寡などがある。簿記上の資産価値は、減価償却の仕方や在庫の評価の仕方によって大きく違ってくる。当然、産業構造や経営判断に重大な影響を及ぼす。

 また、資産の会計の硬度を決める要素としては、歴史的原価、時価等がある。歴史的原価主義は、基本的に未実現利益を損益上に反映しない主義である。つまり、含む損益を資産が持ちやすい。それに対して、時価会計主義は、資産価値の変動、未実現損益が、直接的に期間損益に影響を及ぼす場合が考えられる。それは、期間損益主義の根本に関わる問題である。
 原価計算の仕方も資産の会計的硬度を決める重要な要素である。
 この様に、どの様な会計処理を行うかの選択によって見かけ上の利益に重大な差が生じる。

 原価計算の仕方も産業の硬度を決定付ける要因である。

 収益の硬度は、収益構造の問題であり、又、価格構造の問題である。
 収益を決定付ける方程式は、単価×数量である。
 収益構造を決める要素は、固定費と変動費の関係である。そして、これは利益構造にも繋がる。

 会計的要素には、外的要因に対して陰の働き、陽の働きをするものがある。外的な要因によって経営主体がどの様な影響を受けるかを見極めるためには、外的要因が収益に対して陰に作用するか、陽に作用するかを明らかにする必要がある。

 経営主体が内部的に処理することが可能な事象と外的要因によって決められてしまう事象とがある。それも、全ての産業が一律に同じ影響を受けるわけではない。例えば、為替の変動の影響を直接受ける産業と直接的な影響を受けない産業がある。また、円高が収益にプラスになる産業とマイナスになる産業がある。

 この様な産業の持つ性格や市場の状況に応じてとるべき政策にも差が生じる。一律に規制を緩和しろと言うのは乱暴な話である。

 経済は、発展段階や産業構造によって微分型経済と積分型経済の別がある。
 成長期の経済は、回転速度の依存した経済である。この様な経済は、微分型経済と言える。それに対して成熟期の経済は利益率に基づいた面積論的経済である。この様な経済は積分型経済と言える。

 石油価格の高騰、為替の変動と言った外的要因によって収益が悪化すると一斉に企業は、経費削減に走る。その結果、雇用や所得が圧縮される。又、消費者は、消費を控え、貯蓄に偏るようになる。それが更に企業収益を圧迫するという悪循環に陥る。経費削減にも限界に達した企業は、資産運用によって収益の不足を補おうとする。その結果バブルが発生する。バブルは、実需と資産価値とを乖離させる。そして、バブルが崩壊する。
 なぜ、収益が外的要因によって悪化しているのが明らかだというのに、誰も政策的に収益を立て直そうとしないのであろうか。
 なぜ、収益を立て直すような施策を悪とするのであろうか。
 利益は、会計を操作する事によって変えることはできるが、収益はそうはいかないのである。
 会計の目的をただ単に、企業行動の監視や利益の決定、取り分の査定に置いていると会計は、本来の働きを制約されることになる。会計は、産業構造や経済政策の根幹を左右する重要な要素を含んでいることを見落としてはならない。

 期間損益の目的の一つは収支の乱れの整流がある。収入と支出は、一定ではない。特に収入は不安定な動きをする。その不安定な収入を平均化する事を目的として成立したのが期間収益である。そして、その収支の乱れを資金の供給を調整することによって平均化するのが金融機関の役割の一つである。ところが今日の金融機関は、ともすると収支の乱れを増幅してしまう。

 経済学が依拠すべきなのは、会計であるべきなのである。なぜならば、会計は明確の定義の上に立脚しているからである。また、市場取引、市場経済の基盤を担っているからである。

 会計現象や市場で生起する現象の大前提は、会計現象は、人工的制度の上に成り立っているという事である。会計現象は自然現象ではない。
 つまり、不測の事態といったも自然現象の場合とは異質だという事である。

 また、人口的制度の上に成り立つ会計現象の会計原則や公準、基準は、合意や信認、契約に基づいている。そして、市場現象や会計現象には、合理的要因や法則以外に目的因が働いているのである。

 科学は、変化を観測して変化の中にある規則性を見出し、それを法則化することによって将来生起する現象を予測するのである。そして、その予測に基づいて、対策を立てたり、設備、装置、機械を作ったりするのである。

 科学で重要なのは前提条件である。その点は、経済も同様である。そして、経済的前提条件は、人的前提条件、物的前提条件、貨幣的前提条件の三つの要素によって構成されているのである。
 人的前提条件は、労働と分配に条件である。物的前提条件は、生産と消費に関わる前提条件である。貨幣的前提条件は、収支、損益に関わる前提条件である。

 そして、会計的前提条件は、この三つの前提条件を基として成立している。

 労働と分配は、所得や収益、付加価値に還元される。生産と消費は、費用対効果に還元される。収支、損益は、利益によって表される。

 会計的前提条件は、第一に、どの様な原則に基づいて会計制度は成立しているかである。第二に、会計がどの様な目的によって形成されたかである。第三に、会計は、何を根拠としているかである。第四に、どの様な事業を対象としているかである。第五に、個々の企業の働き、位置付けを経営者はしているかである。第六に、市場や産業は、会計的構造に基づいているかである。

 前提条件を考える場合、留意すべき事は、会計空間は合目的的で、人為的な空間だと言う事である。

 一般に会計の前提条件は、会計公準、会計原則に要約されるとされる。ただし、これらの公準や原則は任意の命題である。又、現行の会計公準や会計原則を必ずしも意味していない。本来の会計公準や会計原則は、定義によって成り立つべき命題なのである。
 つまり、会計公準、会計原則は、任意であり、合意、信認、契約を前提として成り立っているのである。この様な会計の基礎は手続によって確立される。

 現在の我が国の会計の公準は、第一に貨幣的評価。第二に、期間損益計算。第三に会計主体、会計単位の三つのようによって構成されている。

 アメリカの会計原則に対する捉え方は、日本とは少し異質で、より機能主義的である。
 アメリカの会計原則は、アメリカ会計学会は、会計原則として四つの基準を示している。第一の基準は、目的適合性の基準。第二に、検証可能性。第三に、不偏性。第四に、計量可能性である。
 これは基準や原則に対する考え方の相違だと思われる。

 ただ、いずれにしても、日米両国とも期間損益を前提としている事には変わりない。
 現金収支は、不安定であり、不確実な要素が多い。不安定で、不確実な収支を整流し、長期的な計画を実現することが期間損益の重要な役割の一つである。

 つまり、期間損益計算の目的は、収益を一定化させることで、費用を均等化し、又、長期借入金を可能とすることである。つまり、収入の乱れを調整し、支払を安定化させることに期間損益の働きがある。

 会計の原点は、現金収支、即ち、収入と支出である。収入とは、物や用役を渡す変わりに対価として現金を受け取ることである。支出とは、逆に、物や用役を受け取る変わりに現金を支払うことである。会計の基本は取引にあり、取引とは、基本的には物と用役の交換を意味している。

 負債、資本、収益は、資金調達の形態である。 

 現金とは、現時点での貨幣価値を実現した物であり、主として貨幣を指す。ただ、貨幣価値が喪失した際、煙草のような日用品が貨幣の代替的役割を果たす場合がある。

 ただ、現金収支を基本としている限り、即時的な取引の効果しか測定できない。つまり、時間の働きを認識できないのである。
 それ故に、期間損益主義では、単位期間を設定し、時間軸を取引に加えることで、時間の働きを顕現化するのである。つまり、単位期間を基準にして、長期短期、固定性と流動性の概念を会計の概念に組み込む目的が期間損益にはある。

 又、期間損益計算のもう一つの目的は、費用対効果を測定することである。
 費用は、単に、生産性や競争からだけ設定されるべき事象ではない。費用を決定する重要な要素には、社会的分配という要素があるのである。なぜならば、費用は、付加価値を生み出す元だからである。

 結局、会計の最終的な目的は、費用対効果の測定にある。だからこそ期間損益という枠組みが必要なのである。また、費用対効果が測定できればモラルハザードの抑止にもなる。
 そして、費用対効果を測定する鍵を握っているのが時間の概念なのである。

 会計単位とは、会計主体の範囲を言う。会計主体の範囲とは、内部取引の範囲を言う。会計主体の範囲を画定するのは、内部取引と外部取引の境界である。

 会計で重要なのは、第一に、勘定科目と時間との関係である。第二に、勘定科目と現金との関係である。
 経済の前提となる関係は、人、物、金の関係である。人の関係とは、労働と分配との関係である。物の関係とは、生産と消費との関係である。金の関係とは、収入と支出との関係である。
 人、物、金が会計の下地となり、借方、貸方の関係、即ち、投資と回収との関係を無為制する。
 そして、それは、フローとストックの関係に還元され、損益と貸借の基礎を形成する。

 財政で問題なのは、会計の原理、原則となるべき部分の思想が欠落しているからである。だから、財政は、期間損益主義以前の状態に止まっているか、それで良しとしているのである。

 財政には、会計原則のような仕組みの基礎となる部分の視点が欠けている。
 確かに、財政も合目的的で、検証可能のように見える。しかし、それはあくまでも現金主義的な意味でしかない。財政的な支出がどう収入に結びつくのかという発想に基づくものではない。
 大体、貨幣価値は、絶対数として表されるのではなく。相対数として表されるものである。費用対効果、期間損益と言った一定の相対的基準がなければ、結局、絶対的な基準によるしかなくなるのである。それが単式簿記の欠点でもあり、単式簿記に依拠する現金主義の限界でもある。
 貨幣価値、経済的価値というのは、本来が相対的なものなのである。相対的なものだから相互牽制が働くのである。絶対的基準に基づいたら相互牽制の働きがきかなくなる。
 財政には、反対給付とか、対価とか、代償と言った観念が成立しにくい。それは、各人の働きと成果とを結び付けて評価する事を難しくしている。
 つまり、現在の財政の仕組みは、財政全体を抑制する働きが利きにくい仕組みなのである。
 また、財政には、最初から期間損益という思想もないのである。期間損益という発想がなければ費用対効果、利潤の追求という思想も成り立たない。資金の長期、短期の働きを明確に区分する基準も設定できない。大体、財政には、経営という思想すらないのである。
 それが財政の健全性を測る基準を曖昧にしているのである。

 財政で問題なのは、収入と支出という概念しかなく、収益や費用、資産、負債とと言う概念がないことである。つまり、経済の動きを資産、負債、資本、収益、費用の増減運動として捉えられないのである。必然的に利益という思想もない。だから国家的事業は、儲からないのである。期間損益という思想も欠如している。
 公共事業では、損になる事でも平気でやる。罪悪感もない。民間事業では、損を承知でやれば詐欺になる。これは歴とした犯罪である。
 投資なのか、臨時的支出なのか、それとも恒常的な支出なのか判別がつかない。つまり、資金の時間的働きに対する認識がない。
 財政現象の原因を知るためには、現金の出納だけでなく、その現金の出納の背後にある物を明らかにする必要がある。

 何を利益とするのか。利益の意味を知るためには、利益の範囲を特定する必要がある。
 例えば、地価の変動による含み益や含み損までも利益に含めるのかという事である。
 利益は、損益取引によって生じ、市場取引によって実現するものである。
 近年、未実現利益を含めた包括利益を利益の基準としようと言う思想が台頭している。しかし、損益取引でもなく、市場取引にもよらない利益を果たして利益として見なしていいのであろうか。

 利益や資本は差額勘定である。差額勘定というのは、いわば会計運動上の緩衝器、サスペンションみたいなものである。

 経営主体の目的は利益にあるわけではない。経営主体の目的は、継続と生産、分配にある。利益は、経営上の指標である。ただ利益をあげればいいと言う考え方は、むしろ危険である。過剰な利益はかえって経営の阻害となる。

 経営主体は内部に利益を蓄えているように思いこんでいるものが多くいる。しかし、経営主体というのは、内部に資金を溜め込むのが難しいような会計上の仕組みになっているのである。
 経営主体の役割は、分配にある。経営主体は分配機関なのである。故に、経営主体は、継続と期間利益を前提として成り立っている。経営機関は、経営活動を通じて得た収益によって費用を賄い。その費用によって分配を実現するのが主たる役割なのである。継続的に収益をあげ、その収益に基づいて資源を分配することを使命としている。元々、清算を前提としていない。その為に、清算しても何も残らない場合が多いのである。

 利益を決定付ける利益率×回転数である。
 適正な利益を確保するためには、利益率と回転数の関係が重要となる。
 回転数が低下し、収益が減少してきたら、単価を上げる。しかし、市場の働きが柔軟性が欠けると単価が硬直的になり、適正な収益を確保できなくなる。それが、景気を悪化させる原因となる。

 利益や収益を生むのは財である。利益や収益を生み出すのは、商品だと言う事である。そして、市場取引において重要な概念の一つが顧客だと言う事である。顧客という概念をどう捉えるかによって経済に対する基本的な認識に重大な差が生じる。いい例が、財政では、顧客という概念が欠落しているか、或いは、民間企業で言うところの顧客という概念と違う意味で捉えられている可能性がある。
 顧客という概念が確立されているから、顧客満足度とかもてなすという発想が生まれる。顧客という概念がなければ、行為は一方的なものになりやすい。つまり、双方向の働きや牽制が働きにくいという事になる。かつて、殿様商売やお役所仕事という言葉が意味するのは、相手のいない仕事、反対給付やフィードバックがない仕事と言う事を意味するのである。それでは相対的価値観は成立しなくなる。

 会計では等式が重要な意味を持つ。等式とは、等号によって関連付けられた関係であるが、等号の持つ働きが会計では特に重要となるのである。

 先ず、総資産=総資本。
 この式は、貸借平衡関係を表す式であり、
 左辺(借方)=右辺(貸方)つまり、取引の平衡関係を表す式が下地になっている。

 次ぎに、資産=他人資本+自己資本
 資産=負債+純資産(資本)
 これが貸借対照表式であり。

 資産-負債=純資産(資本)
 これが、純資産(資本)等式である。

 収益総額-費用総額=純利益
 費用総額+純利益=収益総額
 これが、損益計算書等式であり、これら貸借対照表式、純資産等式、損益計算書等式が会計の基礎を構成する。

 利益計算に対する方式には、資産負債から利益を認識する方式と、収益費用から利益を認識する方式がある。近代的な利益、その延長線上にある資本の概念は、元々、財産目録から端を発している。財産目録は、貸借対照表の元である。その意味では、資産負債に基礎を置く方式が原点だと言える。しかし、期間損益という観点からすれば費用対効果の測定に重きを置く収益費用に基礎を置くのが目的にかなっている。
 資産負債から経営実体に迫ろうという考え方は静態的な考え方、収益費用から経営実体に迫ろうとする方式は、動態的な考え方とされる。
 純利益を基礎とする考え方は、必然的に損益を重視することに包括利益を基礎を置く考え方は、必然的に貸借を重視することになる。

 利益は、資産と費用、負債と収益の増減運動によって生じるのである。

 変化を重視するという点では、収益費用アプローチ法は微分的、残高に基礎を置くという点からすると資産負債アプローチ法は、積分的と言える。

 純資産(資本)等式と損益等式の差は、会計の根本に対する思想の差なのである。そして、それは市場経済や資本主義経済に対する実際的な差にもなるのである。だからこそ、市場経済や資本主義経済を理解するためには、会計を理解する必要があるのである。

 企業や国家、家族と言った経済主体は、単なる機関ではない。社会的分配をになっているのである。そして、また、経済主体は、運命共同体でもある。そこには、人々の生活があり、人生があるのである。そういった人々の生活や人生を前提として利益は設定されなければならない。

 私は、国家や企業、家族は自分の為にあるとは思わない。逆に、国家や企業、家族をよくするために自分は生きているのだと思う。なぜならば、人の欲望には限りがないからである。自分の為に国や企業、家族があると思ったら、どんなに、国や企業、家族が栄えたとしても満足はしない。しかし、自分が国や企業、家族のためにあるのだとしたら、少しでも、国や企業、家族が良くなったら無上の喜びを感じる事が出来るからである。



会計の基礎は、集合である。



 会計の基礎は、集合である。集合の概念によって会計を捉えようとすることが、これまではなかった。しかし、会計は典型的な集合であり、また、集合によって会計は成り立っているとも言える。又、会計が数学としての性格を最も顕しているのも集合的な部分だと言える。

 現在、市場経済を構成する要素は、企業、経営主体である。
 経営主体の公式の行動規範の基礎は、会計である。
 会計の実務的基礎は、複式簿記である。
 複式簿記の基礎は、貨幣価値である。
 貨幣価値は、0を含む自然数の集合である
 貨幣価値の普遍集合は、0を含む自然数である。
 複式簿記の普遍集合は、0を含む自然数である。
 会計は、自然数の集合である。
 会計の普遍集合は、0を含む自然数である。
 会計の変域、範囲は、0を含む自然数である。
 自然数は稠密ではない。
 故に、貨幣価値も稠密ではない。

 貨幣価値は、貨幣という実在する物を基本にして形成される。実在する物を基本としていることによってマイナスの数という物を想定することが出来ない。
 自然数という視点に立つとマイナス個と言うのが直観的には認識しにくい。例えば、リンゴがマイナス一個というのを直観的に捉えることは困難である。
 故に、貨幣価値は、自然数を基礎とするのである。
 貨幣価値は、自然数を普遍集合とする集合である。

 自然数は、順序数である。
 故に、貨幣価値は順序数である。
 自然数は、基数である。
 故に、貨幣価値は基数である。

 順序数は、順番の概念を拡大したものであり、基数とは、個数の概念を拡大したものである。ある自然数と等しい濃度を持つ集合は、有限であり、それ以外の集合を無限という。(「数学のロジックと集合論」田中一之・鈴木登志雄著 培風館)

 会計は、残高の集合である。
 決算書は、基本的に残高計算書である。
 残高とは有り高である。
 残高、零以下の数を含まない。
 残高とは、零を含む自然数を意味する。
 残高の集合には、一となる集合がある。
 一の集合は、掛けた相手を変えない集合である。
 残高の集合には、残高を零に戻す集合が含まれる。
 零は、掛けた相手を零に戻す数である。
 零は、初期の状態に変換する数を意味する。
 残高は、基本的に零以下の数値、即ち、負の数を含まない自然数の集合である。
 つまり、足しても、引いても、掛けても、その答えは自然数の集合でなければならない。
 負の数というのは足して零になる数である。
 実質勘定に足して零になる勘定が名目勘定である。
 残高は、負の数字を含まないが、負の働きをするのが、名目勘定である。
 残高は、実質勘定が正の勘定であり、名目勘定が負の勘定である。
 つまり、名目勘定は、実質勘定に対して足して零になる勘定なのである。
 残高は加算主義であり、直接、出金を残高から引くわけではない。
 実質勘定と名目勘定の差から資本を導く出すのが、決算書である。
 残高は、交換の法則、結合の法則、分配の法則が成り立つ。

 会計は数学である。会計の目的は、価値の算出である。価値の算出とは、価値の創造でもある。その点に会計の本質が隠されている。故に、価値の有り様が重要になる。
 価値とは、認識によって生じる。故に、会計の基礎は、認識の問題である。
 会計上の価値は、貨幣価値に還元される。貨幣価値とは、交換価値である。交換の手段として交換を促す媒体が貨幣の本質的働きである。
 貨幣価値と貨幣とは別の存在である。
 貨幣価値が認識されたとしても貨幣が存在するとは限らない。
 貨幣価値の残存価値には、名目的価値と実物的価値がある。
 名目的価値とは、対象の貨幣価値そのものを言い。実物的価値とは、対象の物としての価値を言う。例えば、負債として表示されている貨幣価値、債務という権利を表す名目的価値である。それに対して、設備や在庫には、物としての貨幣価値がある。それが実物的価値である。
 実物価値は、貨幣の流れる方向によって変動し、且つ、定まる。
 残存価値とは、貨幣が流れることによって生じる債権、債務関係を表している。
 名目的価値と、実物的価値が一致しているのは、現金だけである。
 その時点における貨幣価値を指し示している物や値が現金である。
 故に、会計上の価値は、最終的に現金に集約される。現金に始まり、現金に終わるのが会計の原則である。つまり、貨幣価値が会計の基盤なのである。

 貨幣価値は、0を含む自然数の集合である。
 貨幣価値を元とする会計は、0を含む自然数の集合である。
 自然数は、加減乗除が定義できるが、必ずしも、減算、除算ができるとは限らない。自然数で、自由にできるのは、加算と乗算である。(「なっとくする群・環・体」野崎昭弘著 講談社)
 会計において加減乗除は定義できるが、自由にできるのは、加算と減算だけで、減算と除算はできない場合がある。
 会計が残高主義になる由縁である。

 2011年7月、いよいよ、テレビがアナログ放送からデジタル放送に切り替わる。巷間、デジタル化、デジタル化とデジタル化は最新技術のように騒がれている。しかし、デジタル化と言う事は、真新しい話ではない。
 貨幣価値というのは、デジタルなものである。即ち、貨幣価値は、0を含む自然数の順序集合である。
 そして、現物は、アナログな存在である。つまり、実物的価値を貨幣的価値に変換することは、アナログな価値をデジタルな価値に転換することを意味する。
 会計というのは、アナログな実物価値をデジタルな貨幣価値に変換する操作を意味しているのである。

 アナログ量をデジタル量に変換するためには、標本化と量子化の二段階の操作が必要である。

 貨幣価値は、無次元の量、自然数の集合である。
 貨幣価値は、色も臭いもない無次元の量なのである。つまり、貨幣価値は、自然数という以外の属性を持たない。
 貨幣価値と貨幣とは違う。会計は、貨幣価値を基礎とした体系である。

 自然数は、減算除算が自由にできない場合がある。故に、体ではない。
 貨幣価値は、自然数の集合である。故に体ではない。
 会計は、貨幣価値を元とする集合である。故に体ではない。

 会計は、命題代数である。会計は、集合代数である。
 会計は、有限集合である。
 会計は、上限を持たない、上に開いた集合である。
 会計は、無限な自然数の有限集合であるから高々可算集合である。

 会計は加算主義である。基本的に演算は、足し算のみである。
 故に、会計数値は可換群である。
 会計数値は基本的に、マイナス、即ち、負の数を想定していない。残高主義なのである。
 負は、足して零になる数という事が意味を持つ。
 負の概念は借金から派生したと言われる。
 借金は、金と証書のやりとりであり、物理的実体を持たない。
 故に、負債は、実体を持たない名目勘定なのである。

 会計を構成する元は、勘定である。即ち、会計は、勘定の集合である。

 勘定は、取引によって生じる。勘定は、取引の結果、成立する。

 会計上の取引とは、貨幣と財との交換によって成り立っている。財の交換は、財の得失として認識される。即ち、交換は、得失として表れる。
 財が失われた場合、交換という行為がなくとも、擬似的な交換があっとして取引として見なされる。例えば、火災などの災害によって喪失した財も、盗難や詐欺によって失われて財も会計上は、取引によって失われたものと見なされる。
 逆に財の得失が認識されないと一般に取引と見られる行為も会計上は、取引とは見なさない。例えば、契約書を交換しただけでは会計上は取引として認められない。

 会計上、取引とは、基本的に財と貨幣との交換を意味する。それを促す媒体が人、主体なのである。貨幣は、交換のための手段、道具である。

 取引には、会計主体外取引と会計主体内取引がある。会計主体外取引とは、経営主体間、即ち、経営主体外部との取引を言う。会計主体内取引とは、経営主体内部の取引を言う。

 会計上の取引は、資産、費用、負債、資本、収益の増減として表れる。
 会計的事象は、資産、費用、負債、資本、収益の増減として表れる。
 会計上の事象は、貨幣価値の増減として表れる。
 設備の性能や商品の性能、人材の能力が直接会計上に表示される訳ではない。つまり、設備の性能や商品の性能、人材の能力は、会計的事象としては認識されないのである。
 会計上に表されるのは、あくまでも、貨幣価値の増減である。

 取引というのは演算の一種だと言える。

 二つの要素間に成立するか、否かが明確に定義されているような関係を二項関係という。(「なっとくする群・環・体」野崎昭弘著 講談社)
 会計の取引は二項関係が成り立っている事を前提とする。
 会計取引が成立するためには、貸方、借方二つの要素間の関係が成立することが明確でなければならない。そして、貸方、借方の総和は、0でなければならない。つまり、貸方の総和と借方の総和は、同値でなければならない。

 今日の会計の基礎は、複式簿記である。
 複式簿記というのは、取引の成立を借方、貸方の二方向の働きとして記録する。
 なぜ、複式簿記は、取引を二方向の働きとして記録するのかと言うと、第一に、運動を一方向の働きとして認識するだけでは、制御するのが困難だからである。基本的に運動は、正と負、二つの方向の働きとして認識する事によって制御する事を原則とする。例えば、磁力のS極とN極、電気の+と-のような働きである。
 ただし、この様な力、働きは存在の問題ではなく。認識の問題である。正と負の力や働きが存在するかではなく。正と負の力や働きとして認識する事によって全体を制御するのである。そして、この事から作用反作用の関係、貸し借りの関係が生じるのである。
 二方向の働きが確認されると二方向の働きは、座標を形成し、次ぎに、幾つかの座標を組み合わせることによって次元や空間が生じる。座標軸とは、例えば、前後、左右、上下の関係である。
 第二に、内部取引と外部取引の処理に違いがあるために、二方向の働きとして表示するのである。
 貸し借りの関係は、内部取引の必要性から生じる。
 第三に、取引には現金が介在することを示す事に起因していると考えられる。現金は、借方から入って、貸方から出ていく。現金の流れの経路を表すために入となる部分を借方として表示し、出となる部分を貸方として設定する必要があったのである。
 取引が成立した後、現金化されない取引、即ち、未清算な取引は、債権と債務の残高を生じさせる。それが貸し借りの関係を成立させるのである。この様な債権、債務、即ち、貸し借りの関係を表示するために二方向の取引の表示が必要となる。故に、会計は、基本的に残高を表示するのである。
 第四に、取引は、物的流れと、貨幣的(金銭的)流れの二つがある事に起因する。物の流れから見ると財は、貸方から入って借方に表出される。金の流れは、借方から入って貸方に表出される。物と金二つの流れの経路と働きを表すために二方向の働きを表示するのである。
 取引には、現金が入る取引と現金が出る取引がある。そして、現金が出る取引は、反対方向に財或いは効用が入る取引を意味する。
 取引には、物と金の流れがあることから、取引の対象の実物的価値を表示する、もう一方で、取引の対価としての名目的価値を表すために二重の表現をする必要があると言う点である。その結果、借方に実物勘定が成立し、貸方に名目勘定が成立したのである。

 会計は、群である。
 会計の普遍集合は、0を含む自然数であるから、会計の定義域は、0を含む自然数であり、値域も0を含む自然数である。この事から、会計は、自然数の性格に拘束されている。
 故に、会計は、加法に関して可換半群になり、乗法に関してモノイドとなる。
 又、会計は、自然数の範囲内において減法と除法が可能である。

 現代の会計は、損益主義を基本とする。

 損益主義では、単位期間内における利益の有無と量を基準とする。
 損益主義では、単位期間、即ち、時間的価値を基本とする。
 単位期間は、任意の開始日から締め日まで、或いは、期首から期末までを一期間として設定する。期間は、一年を基本とする。単位期間を設定する根拠は、資金が一回転する事である。つまり、資金の回転を経営主体は、経営の根拠としているのである。
 資金の回転と言う事は、資金には流れがあること意味する。資金の流れには、入金の流れと出金の流れがあり、各々、固有の波動、周期を持つ。
 即ち、入金の波と出金の波には、時間差が生じる。この時間差が利益を生み出す仕組みに重大な影響を及ぼしている。
 資金の流れの波を理解することは、経営計画や経済政策を立てる上において不可欠な要素である。

 経営主体は、会計上、会計主体である。

 会計主体内取引は、市場外取引であり、会計主体外取引は、市場内取引である。

 経営主体における外部取引の値は、経営主体と相手との間おいて同価である。つまり、支払側と受取手側は、同価、同値の物と貨幣を交換している。

 利益や損失は、会計主体内取引によって発生する。
 外部取引は、鏡映対称である。売上を例にとると当方の売上は相手の仕入に、当方の受取手形は、相手の支払手形に相当する。
 この様に外的取引は鏡映対象である。この外的取引の対称性が内部取引によって破られ利益が生じる。

 利益は、会計主体内取引によって生み出されるのに対して、収益や費用は、経営主体外の支配下にある。それが経営主体の自律性に重大な影響を及ぼしているのである。この様な状況に対処するために、会計制度には、ある程度の柔軟性が要求されるのである。

 なぜ、家計や財政が期間損益主義、或いは、会計の対象になりにくいのかというと、技術的問題もあるが、それ以前に、企業を構成する対象は、原則として取引を経由したことになっているのに対し、家計や財政の対象となる物が全て市場取引を経由して成立しているわけではない点がある。
 この事は、勘定の性格をよく象徴している。

 利益を生み出すのは、格差や距離である。つまり、物理的距離や時間的な距離が利益を生み出すのである。利益は差額勘定である。

 利益は、指標である。故に、利益が上がらない、即ち、損失が発生したからと言って即会社が潰れるわけではない。それを前提として会計の基準は設定されている。利益を絶対視するのは危険である。
 利益の概念には、純利益と包括利益がある。近年、包括利益を重視する傾向が高まっている。しかし、包括利益は、期間損益という主旨から逸脱する危険性があることを留意しておく必要がある。
 元々、包括利益という概念を導入する動機は、実物経済から適正な収入を確保することが困難になったことがあげられる。
 包括利益は、未実現利益を含んでいる。
 利益は、現金取引と直接結びつくことによって確定する。未実現利益は、現金取引と直接結びついているわけではない。
 未実現損益をなぜ、明らかにする必要があるかというと、長期的資金は、資産を担保して調達される部分があるからである。
 しかし、未実現損益は、原則として顕現していない。それが、投資家や金融機関に情報の非対称性をもたらしているからである。

 利益は、基本的に損益取引を通じて出される。未実現利益は、取引を経過せずに理論的に算出されるものである。未実現利益を成立させるのは、損益取引でも、資本取引でもないのである。その点にも期間損益主義の原則を踏み外す危険性が潜んでいる。
 また、未実現利益は、会社の経営活動を前提としていない。つまり、経営者の判断が入り込む余地が少ないのである。経営的な判断ではなく、相場の動向によって期間損益を判断するのは、経営という行為そのものを否定しかねない。
 況や、包括利益を課税対象にするのは、間違いである。なぜならば、包括利益は、市場取引を経由しないから資金的な裏付けがないのである。

 また、未実現利益は、財と貨幣の交換を前提としていない。つまり、現金の移動を伴わない取引である。この様な取引は仮想の取引である点を忘れてはならない。

 そして、未実現利益の元は、減価償却残高、売上債権、棚卸資産、含み資産である。いずれも評価勘定である。評価勘定というのは、恣意的勘定だという点を忘れてはならない。

 ただ、私は、包括利益を全面的に否定するわけではない。参考資料に止めるべきだと言いたいのである。企業業績の判断に経営者の経営判断が加わらない要素を持ち込むのは、本末転倒だと言いたいのである。

 期間損益計算の目的の一つは、費用対効果を測定することである。利益は、この期間損益を測る尺度、指標の一つである。
 そして、費用は、単に、生産性や競争からだけ設定されるべき事象ではない。費用は、社会的分配を決定するという重要な要素があるのである。なぜならば、費用の裏側には、人件費、即ち、所得や雇用という要素や収益という要素が含まれているのである。

 経営主体は、貨幣の循環によって機能する。貨幣が循環しなくなると経営主体は、自分の組織を維持できなくなる。

 資金を円滑に循環させるために勘定の働きは、重要な役割を担っている。

 勘定の働きとは、貨幣が流れることによって生じる力である。貨幣価値は、貨幣が流れることによって生じる働きによって成立する力である。
 貨幣と、貨幣価値とは、同一ではない。貨幣価値は、貨幣が流れることによって成立する。
 貨幣価値は、貨幣的実体を持つとは限らない。貨幣価値は、貨幣が流れることによって生じた力の大きさを示している。
 貨幣価値は、貨幣の持つ力によって派生する。貨幣の持つ力とは、貨幣の流れる方向と逆の方向に財や用役を流す力である。

 勘定の働きの基本は、貨幣の流れる方向を定めることである。

 勘定の働きや性格は、現金との関わりを基準にして考えられるべきものである。
 現金化、換金化するための時間、手順、順序が勘定の働きや性格を形作る。この様な点から、勘定の基本的性格は、固定性と流動性、或いは、固定性と変動性に求められる。
 固定という言葉から想定される働きや性格には、不変という働きと不動という働きの二種類ある。いずれも、位置と運動という概念に結びつく。そして、勘定の会計上の位置と運動が、現金にどの様に関係していくかによって勘定の働きや性格が形成されるのである。



同値関係と仕訳


 会計は、集合化と言う操作を事務作業として確立している。その作業の一つが仕訳である。

 仕訳とは、同値関係にある勘定を一定の条件や命題によって集合化する手続である。
 基本的に勘定は、論理式によって分類できる。
 例えば、実物勘定か、名目勘定か。実物勘定ならば、資産勘定か、非資産勘定(費用勘定)か。資産勘定ならば、流動資産か、非流動資産かと言うように二者択一的に分類できる。そして、それぞれを判別する基準は、明確に定義されている事が前提である。
 仕訳をするための条件は、単位期間が重要な鍵を握っている。
 例えば、単位期間内に現金化しうるか否かによって流動資産か非流動資産かを判定する基準とする。
 単位期間内に返済する予定の負債を流動負債とする。

 勘定には二項関係が成り立つ。二項関係とは、二つの要素間で成り立つか、否かが明確に定義されている関係である。
 それは同値関係にも関係する。同値な勘定どうしをまとめることによって勘定の同値類が形成される。その事務手続が仕訳である。

 勘定は、同値関係によって仕訳され、転記される。仕訳とは、勘定を同値類に分けること、即ち、類別することである。仕訳された勘定を同値類によって集めることを転記という。
 故に、何によって同値関係を定義するかによって勘定の性格は決まる。
 勘定は、同値関係によって仕分けるための条件によって性格が決まる。
 勘定は、同値関係によって仕訳され、会計は、勘定の集合である。勘定は、会計の元である。故に、会計は、商集合である。

 取引を仕訳した時、では左辺と右辺が特別な意味を持っている。それは、会計では位置関係が特別な意味や働きを持っているからである。

 勘定は、正の働きをする位置と負の働きをする位置が予め決められている。勘定が正の働きをする位置が勘定が属する領域である。そして、負の場に表れる勘定の値は、正の場の残高を超えることはない。それが残高主義である。

 現金勘定は、資産の領域に属し、資産の場に表れた時は、正の働きをし、それ以外の領域に現れた場合は、負の働きをする。それは、資産の領域に現れた時は、現金の増加を意味し、資産以外の場に現れた時は、現金の現象を意味するからである。そして、残高は、現金の増加と減少を差し引いた値であり、負の値になることはない。
 又、個々の取引においては、貸方、借方の数字は常に均衡、即ち、総和は0になるように設定されている。
 つまり、借方、貸方の値の総和は、個々の取引において常に同値、均衡しているのである。

 負債は、負の数ではない。資産から見て負の位置に位置しているだけなのである。
 負には、逆方向、反対方向、対極という意味がある。負債の働きを考える時、この方向性と位置という概念が重要な意味を持ってくる。

 借入金を単に借りてきた金、借金と位置付けるから負債の働きを間違って認識するのである。借りてきた金だから返さなければならないと言う固定観念にとらわれがちなのである。
 会計上、借入金には、負債という性格と現金(資産)という二つの性格がある。
 現金は、取引が成立すると、すぐに、田の資産や費用に置き換わる性格がある。その為に、借入金は、資産と切り離され負債だけが単独で成立しているように錯覚されがちなのである。しかし、負債の対極には常に資産が存在していることを忘れてはならない。

 勘定は、勘定を成立させた取引の履歴を根拠とする。
 会計は、取引実体、根拠に基づいた集合だと言う事である。仮想的概念による、或いは、抽象的概念に基づいた集合ではない。

 取引には、開始取引。普通取引、決算取引がある。
 開始取引とは、初期設定のための取引である。開始取引には、事業を立ち上げる際の取引、即ち、創業取引と、期始め、期首における開始取引の二つの意味がある。
 普通取引とは、期中の日常的取引である。決算取引とは、単位期間の締めのための取引、終了取引、精算取引、閉鎖取引である。
 この様に、取引には段階がある。そして、期間損益主義においては、開始と閉鎖が特別の意味を持つのである。

 簿記上の取引には、交換取引、損益取引、混合取引がある。
 交換取引とは、交換取引とも言い、利益や損失の発生を伴わない取引を言う。(「詳細簿記論」岩崎功・国田清志・松原成美・齋藤幹朗著 税務経理協会)
 損益取引とは、利益や損失に結びつく取引を言う。
 混合取引とは、交換取引と損益取引が混ざり合った取引を言う。

 基本的に収益に関わる取引は物的取引である。つまり、物と貨幣が関わっている取引である。貨幣的取引、即ち、金対金の取引は、基本的には損益に関わらない。関わることがあったとしても本来は副次的なものである。

 ここで言う、損益との引きは、会計上で用いられる資本取引・損益取引の区分の損益取引とは違う概念である。

 会計上で言う資本取引と損益取引の区分とは、資本から生じた資本剰余金と利益から生じた利益剰余金とを明確に区分するという意味で用いられている。
 ここで言う資本取引とは、資本の移転、もしくは資本そのものを原因とする資本の増減取引を言い。損益取引とは、資産の活用、負債の処理によって生じる資本の増減取引を言う。
 資本に原因があって結果的に資産の増減、或いは、負債の減少をもたらすのが資本取引であり、資産や負債に原因があって資本に増減があるのが損益取引である。(「会計学一般教程」武田隆二著 中央経済社)

 会計上の損益取引に対して簿記上における交換取引と損益取引、混合取引とは、利益に直接結びついている取引か否かの問題である。
 交換取引、損益取引、混合取引の考え方は、期間損益の根幹に関わることであり、交換取引、損益取引、混合取引が取引の中に占める割合は、景気の状態にも直接反映する概念と言える。

 ただし、いずれにしても財政では、交換取引、損益取引、混合取引の発想はない。また、資本取引、損益取引の区分も明確でない。なぜならば、財政は、期間損益主義でなく、現金主義だからである。それが今日の財政問題と経済政策の障害になっているのである。

 税制にしても税の働きが、どの部分、資産、費用、負債、資本、収益のどの部分に、どの様な、どの程度の負荷や障害がかかるのかを計算しておかなければならない。しかし、それが、今の税制では、困難なのである。それは財政が、期間損益主義に基づいていないからである。
 例えば、法人税は、税引き前利益を課税対象としている。しかし、税引き前利益は、長期借入金の返済原資でもある。法人税が税引き前利益の働きを理解していないと長期資金の働きに過重な負荷がかかり、資金繰りに支障をきたすことになる。また基本は、収益であり、いくら補助金を出しても会計上においては、負荷は取り除けないのである。

 又、税には、反対給付や対価、代償という思想がない。この点も費用対効果を量る基準が設定されていないことを意味する。

 取引は、要素を勘定に分解され、類別される。
 勘定は、取引が成立した時点で貸方の領域と借方の領域に分類される。
 取引が成立した時点における取引を構成する貸方勘定の総計と借方の勘定の総計は等しい。

 勘定は、科目と貨幣価値の部分からなる。貨幣価値とは、数値として顕される。
 貨幣価値は、0を含む自然数の集合である。
 貨幣価値は離散数の集合である。
 会計は、基本的に残高を集計した計算書である。
 残高とは、貨幣が流れたことによって生じた残存価値である。

 科目は、勘定の働きや性格を表し、貨幣価値は、勘定の規模、大きさを表している。
 勘定は、変数を含む述語である。

 勘定は、ツリー構造を持っている。

 勘定は、会計の真部分集合である。
 勘定は、類(class)を構成する。
 勘定は、資産、費用、負債、資本、収益のいずれかに属する。
 資産、費用、負債、資本、収益は、属する勘定で外延的に規則によって定義される。即ち、資産、費用、負債、資本、収益の定義は要件定義である。
 言い換えると、個々の勘定は、資産、費用、負債、資本、収益の類を形成し、いずれかに属する。
 資産、費用、負債、資本、収益は、会計の真部分集合である。
 資産、費用、負債、資本、収益は、会計の部分体である。
 資産、費用、負債、資本、収益は、互いに素である。
 貸方勘定、借方勘定は互いに素である。
 損益勘定、貸借勘定は互いに素である。

 又、勘定は、貸方、借方いずれかの場に属する。
 借方、貸方は勘定の集合である。
 会計に対して借方、貸方は、集合族である。
 資産、費用、負債、資本、収益は集合族である。
 借方、貸方は、会計の真部分集合である。
 借方は、貸方の補集合であり、貸方は借方の補集合である。

 資産、費用は、借方の真部分集合である。
 負債、資本、収益は、貸方の真部分集合である。

 更に、勘定は、貸借勘定か損益勘定のいずれかの領域に属する。
 貸借に属する勘定は、総資本、総資産のいずれかの領域に属する。

 資産、負債、資本は、貸借の真部分集合である。
 収益と費用は、損益の真部分集合である。

 勘定の働きにおいて重要な役割を果たす要素が時間である。
 ただし、単位期間の設定は、一様ではなく、任意に設定される期間である。
 会計期間は、一年以下で、開始日から締め日までの期間を会計主体が任意に設定する。
 会計期間以外に、固定資産の減価償却期間、収益や費用のワン・イヤー・ルールと営業循環基準、経過勘定の基準、負債における借入金の返済期間と勘定それぞれに単位期間が設定されている。
 これらは、勘定の流動性に関連して重要な働きをしている。

 単位期間は、資金が一回転する期間を基礎とすると考えられる。しかし、減価償却費の償却期間を見ても対象の資産よって大きく違う。ダムのように償却期間が80年に及ぶ物まである。一般に、固定資産とは、会計期間を越えて効用が働くものを指して言う。

 勘定の働きは、時間による働きよって仕分けられる。

 損益と貸借の違いの基準は、時間である。又、固定性と流動性(変動性)の違いも時間である。つまり、会計上の価値の働きに、時間の働きが大きく関わっている。

 損益計算書は、単位期間内に決済、清算、費消される貨幣価値である。貸借は、単位期間を越えて残存する貨幣価値である。貨幣価値とは、交換価値である。

 貸借とは、貨幣が流れることによって生じた働きの単位期間を越えて残存的している力を集計した計算書である。つまり、残高計算書である。
 損益とは、貨幣が流れることによって生じた働きで効用を費消した力を集計した計算書である。
 利益とは、残存している効用を意味し、損失とは、不足している効用を意味する。

 資産は、現金を支払った代償として受け取った効用、或いは、将来現金を受け取る権利である。
 費用は、現金を支払うことによって受け取る効用、或いは、代償である。

 資産は、将来、収益に転換する権利を有する勘定である。
 資産とは、単位期間を越えて貨幣価値の働きを及ぼす勘定であり、尚かつ、実物勘定を元とする勘定の集合である。

 負債は、現金を受け取ったことによって生じる将来、現金を支払う責務である。

 資本と利益は、差額勘定である。
 資本とは、一定時点における資産と負債の差である。利益は、期間収益と期間費用の差である。

 費用というのは、現金価値を単位期間内に取引によって費消した勘定をいう。
 収益とは、現金価値を単位期間内に取引によって実現した勘定をいう。

 費用とは、単位期間内に貨幣価値を費やしてしまう勘定であり、尚かつ、実物勘定である。

 収益とは、単位期間内に営業活動を通じて獲得した現金、及び、現金同等物、債権を言う。

 収益とは、財を売り渡すことによって受け取る、現金、或いは、現金を受け取る権利である。

 貸方の領域の勘定の総計と借方の領域の勘定の総計は、等しい。
 期中における勘定の計算は、常に同一の勘定間で行われる。
 勘定には、正の領域と負の領域がある。
 個々の勘定の残高、即ち、総和は、常に正の値をとる。

 総資産と総資本の値は等しい。総資産と費用の和と総資本と収益の和は等しい。

 総資本は、経営主体に当期末までに供給された資金の残高である。

 生の経営状態を最も表しているは試算表である。そして、資産表に表されているのは、経営主体に供給されている資金の量である。
 当期に供給された資金の量を表したのが残高試算表である。当期に供給された資金の量を表したのが合計試算表である。

 残高試算表に依って集計された勘定は、精算表によって期間損益に変換され、更に、損益計算書、貸借対照表に分割される。

 貸借対照表にせよ、損益計算書にせよ、決算書は基本的に残高計算書である。そして、現金残高が喪失した時、経営は破綻するのである。

 資産、負債、収益、費用の総計は、常に正の値を取る。

 資産と収益は、正の働きをし、負債と費用は負の働きをする。資本は統合の働きをする。

 借方、即ち、正の部分は、資金の運用を表し、貸方、即ち、負の部分は、資金の調達、即ち、貨幣の供給を担う。故に、負の部分が悪いのではなく。負の部分の規模が問題なのである。
 この点は、企業会計のみならず。財政も同じである。

 勘定の働きは、性格は、勘定と現金との関係、又は、勘定が現金に及ぼす影響によって定まる。

 勘定が現金に及ぼす働きは、現金が流れる方向による。即ち、現金が市場に対して供給の方向に流れるか、回収の方向に流れるか、どちらに働くかによる。

 市場に流通する通貨の量が足りないことが問題なのか。通貨の流れが悪いことが問題なのか。通貨の流れる方向が問題なのか。それを正しく見極めないと正しい政策は打ち出せない。
 もし、流れがつまっているとしたら、量を増やすことは、危険な行為である。流れがつまっているのに、大量の資金を供給すれば、破裂してしまう。
 表に表れた状態から背後に潜む原因を明らかにし、その上で、診断を下さなければ、それは医学ではなく、魔術魔法、占いと変わりないのである。

 会計空間はベクトル空間である。

 会計は、簿記の記録として表される。簿記上に表記される取引記録とは、現金と財が流れる道筋と方向と量である。即ち、ベクトルである。故に、会計空間とは、ベクトル空間である。

 会計空間には、現金の働きに対して正の領域と負の領域がある。現金の働きに対して正の領域を借方と言い。負の領域を貸方という。

 現金残高が枯渇すれば会社は、破綻する。

 かといって現金を現金として保有するだけではかえって減価する仕組みになっている。なぜならば、第一に、現金を保有するだけで管理費用がかかると言う点。第二に、現金をそのまま保有していても時間価値は生じないと言う点である。
 故に、経営主体は、極力、現金を保有しないように心懸ける。

 貨幣には、負債的な働きをする貨幣と、資本的な働きをする貨幣がある。前者の典型が紙幣であり、後者の代表が、金貨のような実物貨幣である。財政を考える場合、この二種類の貨幣の働きを熟知しておく必要がある。

 総資産から総資本の方向に資金が流れれば、総資産は縮小し、総資本から総資産の方向に資金が流れれば、総資本は拡大する。
 資産価格が下がれば、相対的に負債の及ぼす力が増大する。その結果、総資産から総資本へ資金を引く力が強まる。

 収益は、外的分配、又は、社会的分配であり、費用は、内的分配、即ち、私的分配である。
 費用の要は、人件費である。なぜならば、人件費は、所得に転換されるからである。

 収益の増加は、負債を圧縮し、現象は、総資本の増加を促す。
 費用が上がれば負債を増加させる圧力が強まる。その結果、費用の増加は、負債の増加に結びつく。

 過剰な投資は、市場占有率争い、過当競争を招く。国力以上の国防費を費やせば、国家は、侵略的にならざるをえない。侵略戦争は、国力を更に蕩尽する。それが経済である。

 市場では、資産、負債、費用を収益によって均衡させようとする力が常に働く仕組みになっている。
 その為の指標が利益である。
 利益は、会計上の目的ではなく。利益は、会計上の指標である。

 利益があるから経営が成り立っているわけではなく。資金が廻っているから経営は成り立っているのである。

 貨幣の必要量を算出する根拠や基準が定かでない時には、負債を安易に増やすべきではない。なぜならば、必要とする貨幣の上限が明らかでなければ、流通する貨幣の総量を制御する事が困難だからである。

 収益の根源は、価格である。価格の単位は単価である。
 問題は、価格を決める仕組みである。市場価格は、市場取引によって決められる。統制価格は、何等かの権力によって決められる。独占価格は、統制価格に極めて近い。

 財政が悪化するのは、要は、財政が儲かる仕組みになっていないからである。景気が悪化するのも、市場が儲かる仕組みでないことによる。

 現代社会は、分業によって成り立っている。分業は、全体を部分に一旦分割し、分類した上で再度全体を再構築することによって形成される。
 その時威力を発揮するのが集合である。

 例えば、人の要素である。
 人は、皆、違う。人には、個性がある。人の個性を生かしてこそ、経済は活性化する。

 人の個性を決める要素は、第一に、能力がある。第二に、適性がある。第三に意欲がある。そして、この能力と適性と意欲には、各々、身体的、知的の別がある。即ち、身体的能力、知的能力、身体的適性、知的適性、身体的意欲、知的意欲である。

 身体的な部分は、訓練や修行によって磨き。知的な部分は、学習や研究によって発展させる。

 この様な人それぞれの個性を分類することによって経済は組織化される。その為の手段として集合は有効である。また、経済を組織化するためのリテラシーが会計なのである。

 現在、会計の目的に対する認識は、利害関係者に経営状態を報告し、監視することにあるとされている。しかし、会計が本来の力は、人、物、金の働きを調整し、調和させるときに発揮される。
 経済は、人、物、金の働きが調和した時、円滑に機能する。人とは、欲求、即ち、需要である。物とは、生産である。金とは、交換の手段である。問題なのは、各々の規模である。
 つまり、需要と供給と貨幣の量が調和した時、経済は、安定する。需要には偏りが生じる。供給にも偏りが生じる。貨幣にも偏りが生じる。その偏りを是正する手段として会計がある。

 需要とは、人の関数として表される。需要の背後にあるのは、第一に、消費である。第二に、労働である。これらを貨幣に結び付けているのが、支出と所得である。
 供給とは、物の関数として表される。供給の背後にあるのは、第一に、生産である。第二に、分配である。これらを貨幣と結び付けているのが、投資と収益である。

 会計というのは、人、物、金、そして、時間の関数である。
 会計空間は、人、物、金の座標軸が作り出す空間に時間軸を加えた空間である。この様な空間を損益空間とする。
 会計は、時間軸の上に成り立っている。資産や負債、資本は、時間軸によって成立している。即ち、債権、債務関係は、時間軸があって成り立つ概念である。
 故に、現金主義では、時間の働きが有効に機能しにくい。
 債権、債務関係は、損益分岐点上の固定費・変動費関係の下地となる。

 供給と需要には、変動があり一定していない。供給は、供給力の変動によって変化する。需要も一定していない。需要と供給によって現金の必要量も変化する。
 即ち、現金収入には、波がある。その現金収入の波を整流し、一定化することによって支出を一定化、即ち、費用化するのが会計の重要な役割である。
 つまり、収入と支出を一定化、平均化する役割が会計という仕組みである。

会計は、取引の集合体である。


 会計は、取引を前提として成り立っている。
 経営主体は、取引を通じて利益をあげる。取引とは、利益を前提とした行為である。

 会計は、取引の関数、写像である。会計を構成するのは、関数、写像、個々の取引における対応関係である。

 取引の領域には、借方と貸方がある。

 取引の勘定の働きは、借方には、資産の増加、負債の減少、資本の減少、費用の発生が含まれ。貸方には、資産の減少、負債の増加、資本の増加、収益の発生が含まれる。

 個々の取引を構成する借方の貨幣価値の量と貸方の貨幣価値の量は、等しくなるように設定される。借方は実物勘定を構成し貸方は、名目勘定を構成する。

 個々の取引は、複数の勘定によって構成される。
 取引を構成する勘定は、借方、貸方双方に表れ、その値は、均衡するように設定されている。

 取引に用いられた資金の現金価値(現在的貨幣価値)が名目的価値を形成し、取引に用いられた財の実物価値が実物価値を形成する。
 現在的貨幣価値とは、その時点において実現した貨幣価値を言う。
 個々の取引は、会計事象と一対一の関係にある。

 取引は、財と貨幣の流れる方向を定める。

 取引は、財と貨幣の交換行為である。この事は、取引は、財の流れる方向と貨幣の流れる方向を定めることを意味する。即ち、取引とは、財と貨幣の流れを促し、成業する働きがある。そして、会計は、との引きを前提として成り立っている。取引の不可能、或いは、取引の事実がない事象は、会計の対象とはならない。ただし、この場合の取引とは、会計上において定義された取引を指す。
 会計は、簿記の記録として表される。簿記上に表記される取引記録とは、現金と財が流れる道筋と方向と量である。即ち、ベクトルである。故に、会計空間とは、ベクトル空間である。
 現金が流れる方向にそって取引は、決済され、清算される。

 経営主体の役割には、一方において財を集めて要素の働きに応じて分配すると言う働きがある。この働きが実物勘定を形成する。
 他の一方において資金を集めて要素の働きに応じて分配すると言う働きがある。この働きが名目勘定を形成する。
 それを仲介するのが人の働きである。人の働きとは、労働である。

 取引には、借方から貸方の方向に資金が流れる取引と貸方から借方の方向に資金が流れる取引の二種類の取引がある。

 取引は、認識の問題であり、存在の問題ではない。
 つまり、取引をどの時点で認識するかが、重要になる。例えば、売上は、売上が実現したと認識した時点で取引が成立する考え方を実現主義といい。費用は、費用が発生したと認識した時点で取引が成立したという考え方が発生主義である。また、固定資産は、原則的に取引が成立した時点の価格をもって簿価とするのが原価主義である。

 会計は、市場取引の集合である。

 取引の形態は一様ではない。
 まず、取引には貨幣取引と非貨幣取引がある。
 会計の前提は、貨幣取引である。故に、現在は、貨幣取引以外の取引を取引として認識しない傾向がある。しかし、取引の中には、貨幣を介さない取引も存在する。

 税も金納と物納では経済に与える影響の本質が違ってくる。税の金納は、税金を支払うためには、一度市場を介して貨幣に換金する必要がある。つまり、貨幣取引を介することによって市場取引は、定着するのである。

 また、取引には、市場取引と非市場取引がある。
 取引にも一般に言う市場内取引と市場外取引、市場を通さない取引、例えば、相対取引がある。

 会計主体外取引は、市場内取引であり、会計主体内取引は、市場外取引である。

 また、市場の有り様、仕組みも一様でははない。
 市場間環境や状況も一様ではない。
 市場を成り立たせている前提や仕組みも千差万別である。
 その上、前提や条件が違えば、市場の有り様や仕組みも変わらざるを得なくなるのである。

 市場空間にも物理的空間と情報的空間の二つがある。

 私は、市場取引の是非を論じているのではない。会計取引が何を前提とし、何が欠けているかを明らかにしたいだけである。
 会計が市場取引を前提としているからと言って市場取引が絶対だと言いたいわけではない。むしろ、そこに現行の会計制度の限界があると私は考える。

 国や地域によって収益構造は違うのである。それは、収益構造の基盤となる貸借や損益の在り方、市場や物価の水準などが国や地域によって差があるからである。構造的な差が国や地域に存在する以上、国や地域の差を解消するような市場構造を構築しなければ、公正な取引は望めないのである。

 市場取引の基本は、売買取引である。市場取引には売買取引以外に物々交換がある。

 市場取引は、売買取引が基本である。売買取引は、売買という行為を通じて単位量と単価を掛け合わせ、財を貨幣価値に変換する事である。

 価格には、市場価格、協定価格、独占価格、統制価格がある。
 市場価格の弱点は、単価が安定しないと言う点にある。
 統制価格、独占価格は、供給者、需要者、双方向の力が働かない点にある。その為に、環境や状況に適合しにくい。
 協定価格は、市場価格と独占価格の丁度中間にある。何を協定するかによって価格の性格に違いが生じる。
 ただ、会計においては、市場取引を前提とする。故に、市場価格以外の価格も原則として、市場価格として見なす事によって会計処理はされる。

 経済において、市場価格が全てではない。又、市場価格が全てではない。
 市場取引を絶対視するのは危険である。実際の市場では、状況に応じて市場価格や協定価格、統制価格、独占価格を組み合わせる事が必要とされる。

 会計は、全体集合や部分集合に対する加減乗除が可能である。ただし、加算、乗算には制限がないが、減算、除算には制限がある。
 例えば、為替の変動に対する演算として掛け算の演算が可能である。
 石油価格が変動した時、為替レートと輸入数量を掛け合わせることで、国内価格に変換することが可能となる。自国の通貨と相手国の通貨を変換することが可能なのは、演算可能な集合だからである。

 数と量をかけて数量とする。量に数を重ね合わせて数量に変換する。それが価格であり、貨幣価値の量である。

 物々交換が、物と物とを直接交換する取引を言うのに対し、売買取引とは、貨幣を仲介とした財の交換行為を指して言う。

 単価とは、価格の元(もと)である。価格と取引は一対一の対応である。

 価格は、経済財の経済的価値を貨幣価値に置き換えた値である。価格は、一回一回の取引によって定まる数値である。

 価格は、需要と供給、そして費用によって定まる。価格は、需要と供給だけで決まるわけではない。
 よく、空気は、無尽蔵にあるから、財、即ち、価格を形成する対象にはならないといわれるが、実際は、無尽蔵にあるからだけではなく。空気を活用するために、費用がかからないと言う前提があるからである。水や、水中の酸素を思い浮かべればいい。いくら無尽蔵にあっても活用するために費用がかかれば、その費用によって、価格が構成されるのである。
 そして、ここに価格の本質が隠されている。費用は経済的価値を生み出すのである。

 費用は、経済的価値の核になる。費用を賄えるかどうか、何を費用として認識するかが、経済的価値を形成する要因となる。

 人件費を単純に労働の対価として捉えるだけでは、経済の本質は理解できない。人件費は、所得と言う側面を持っている。所得というのは、生活費の原資でもある。
 経済は、生きる為の活動であり、その意味では、生活費こそ経済の根底を成していると言っても過言ではない。
 つまり、人件費は、経済思想の根底を成すものだと言ってもいい。この点を見落とすと人件費という費用の意味を理解できなくなる。
 所得の有り様は、社会思想の根底を成しているのである。
 所得は、生活費の原資である。
 生活は、家計消費に密着している。故に、消費の形体は、生活の形態による。生活の基盤は、家族にある。故に、消費の形体は、家族の在り方に左右もされるのである。
 独身者と妻帯者では、消費の在り方が違う。妻帯者でも、子供の有無や人数によっても違いがある。また、所得を得る人数によっても消費の在り方が違う。
 所得の在り方が消費の在り方と対になるのであるならば、一律に所得を決める事は出来ない。
 全ての条件を一律にしたら、独身者が優位に立つことは明らかである。現在、結婚をしない、生涯独身を通す人が増えているのは、所得に対する社会思想の問題が色濃く反映している。
 消費や生活の在り方という観点から所得の在り方を考え直さなければ、家族の在り方が歪められ、最悪の場合、家族の崩壊を招いてしまう。
 人件費をただ、経費という視点からだけ捉えていたら、知らず知らずのうちに社会の崩壊を招いてしまう危険性があるのである。

 会社や産業の競争力という観点から見たら、会社や産業を構成する労働者の年齢構成が競争力に決定的な働きを及ぼすことも考えられる。
 経営者側に、合理的な人員構成を選択する余地がなければ、公正な競争など望めないに等しい。これは、単に経済の問題と言うよりも思想的問題なのである。思想的問題ならば、経済的問題にすり替えずに、思想的次元で解決すべきなのである。人件費というのは、一律の条件で費用として片付けられる科目ではない。

 人件費の例を見ても明らかなように、需要と供給だけで経済状態を判断するのは危険である。経済的価値は、本来、需要と供給だけで決まるものではない。経済とは、生きる為の活動である。それは生活である。生活である以上、その地域地域の風俗や習慣、因習、仕来り、伝統や規範に制約されている。経済は、需要と供給だけで割り切れるものではないのである。

 売買取引とは、財を貨幣価値に還元する操作である。財が貨幣価値に還元される事によって経済や市場、翻って言えば会計を、一つの集合とすることができるのである。

 会計というと一般に個々の経営主体の経営状態を分析することを目的としていると思われがちだが、経済という観点からすると個々の経営主体間の関係、及び、取引によって生じる資金の流れが重要となるのである。
 そして、個々の取引においては、取引当事者である経営主体間は、鏡像関係によって結び付けられているのである。
 即ち、A社とB社の間に取引があった場合、A社の売上は、B社の仕入に、A社の売掛金は、B社の買掛金に、受取手形は、支払手形に、入金は、出金になる。そして、A社とB社は均衡している。また、A社内部もB社内部も均衡している。

 つまり、受取手側と支払側の経済的価値は、等しいのである。利益や損失は、内部操作、内部処理、内部過程で生じる。

 売買取引とは、財の受払と貨幣の受払が一組となって構成される交換行為である。

 会計は、群である。会計で重要なのは、貨幣の働きである。貨幣の働きによって会計は、集合となるからである。即ち、財を市場価値に還元する貨幣による操作が、会計を成立さているのである。故に、会計は群である。

 複式簿記を基盤とした会計制度では、取引を反対方向の働きを持つ、同量の二つの事象として認識する。二つの事象は、独立した働きを持つ事象であり、各々、固有の性格を持つ事象である。
 会計上では、取引を構成する事象を、勘定とし、勘定科目に分類して取引毎に表記する。

 故に、会計は、勘定科目を元とした集合である。

 地価が下落し担保価値を割り込んだからと言って、現に、稼働中の土地を返済が滞ってもいないのに処分を強要するのは無法な話である。
 家のローンに例えれば、地価が下がったらローンの支払いが滞ってもいないのに、処分してしまうようなものである。これでは無法社会である。
 この様な事は、長期的資金と短期的資金の働きを正しく理解していない事によって生じるのである。
 問題の真因はどこにあるのか、何が原因であるかを先ず明らかにすることなのである。地価が下落したとしても収益が悪化していなければ、問題はないはずである。収益が問題ならば、先ず収益の改善を優先すべきなのである。
 仮に病気や怪我によって働けないのが原因で支払が滞ったならば、先ず、怪我の快復を待つべきなのである。
 地価の下落と怪我とは、直接の因果関係はないのである。
 同様な事は、不良債権処理にも言える。地価が下落したと言うだけで不良債権の処理を強引に推し進めれば、市場の健全な部分までおかしくしてしまう。
 勘定の何がどの様に、どの部分に作用しているかを正しく見極めた上で、対策を立てるべきなのである。

 人は、結果でしか判断しない。しかし、真の問題は原因にこそ求められるべきなのである。なぜ、経営者は、不可抗力で起こった事象の結果にまで責任を負わなければならないのか。
 営々として築き上げてきた利益も、為替のちょっとした変動や石油価格の高騰によって消し飛んでしまう。
 会計は、本来、その原因を明らかにして真の責任を明確にするためにある。経営者を責めるためでも、また、会社を潰すことにあるわけでもない。何が原因であり、どう言う政策をとることが最善なのかを知るためにこそ会計は役立てるべきなのである。

 薬の多くは、毒である。無原則に服用すれば副作用が生じる。一度きいたからと言って馬鹿の一つ覚えに症状や状態の変化にかまわず同じ処方を繰り返して良いわけがない。それで自分は、アスピリン派だとか、モルヒネ派だと争うのは愚の骨頂である。病気の原因や症状に合わせて診断も治療も変えるのが当たり前なことである。時には、手術を施す必要もあるのである。こんな事は医学では当たり前なことである。ところが経済学では、この当たり前な発想がない。

 経営主体や経済を、ただ、監視するだけでなく制御する事が会計の目的である。

 現在の市場経済は、競争、競争と言うが何を競わせようとしているのが不明瞭な中で闇雲に競争を強いているようなものである。自動車レースで運転の技能を競わせているのか、それとも自動車の性能を競わせるのか明らかにしていないうえ、制約を加えることは公正な競争を妨げるとしている。馬車であろうと、人であろうと、最新鋭のレーシングカーであろうと同じ土俵で競わせている。
 何の制約もなく、無目的で競争を強いることを公正な競争とは言わない。それでは、市場の制御機能が働かないのである。



会計と制御



 今、経済主体に対する認識において一番の間違いは、経営主体の目的を利益において、会計の目的を経営主体の監視としていることである。その為に、会計は、外的制約のように作用している。
 経営主体は、経済全体の部分を構成し、経済の仕組みの部品だといえる。そして、会計の目的は、経営主体や経済を内的規範に基づいて制御する事にある。

 会計に求められる働きは、経営主体や経済の制御である。 

 制御とは、特定の主体の変化や運動を一定の状態や範囲に収まるように調整する働きや操作をいう。

 言い替えると、制御というのは、ある一定の状態や範囲を設定し、その状態や範囲の内に変化や運動が収まるように調整しようとする働きや操作を言う。
 会計における利益の働きとは、経営主体を制御するための指標だと言える。つまり、利益は、経営主体を制御するための指標なのである。

 又、制御とは、変化や運動に制約を掛けることを意味する。

 制とは、抑えることであり、御とは自分の思う様にと言う意味がある。つまり、自分の思う様に相手の動きを抑えることを制御というのである。

 制御という言葉に、統べ、即ち、全体を一つにまとめるという言葉を結び付けると統制、統御という言葉になる。つまり、統制とは、全体が一つにまとまるように抑えるという意味であり、統御とは、全体が一つにまとまるように収めることを意味する。

 暴れ馬を制御するというと解りやすいかも知れない。荒馬を乗りこなし、自分の思う様に動かすことを制御というのである。
 シェークスピアの作品に「じゃじゃ馬馴らし」と言う作品がある。ただ、抑えるという意味には、抑制とか、制覇という意味が含まれるため、今日では、人に向けられると良い意味にとられない。その為に、制御という言葉は、今日では、主として、物や金に対して使われる。

 制御という働きには、制御しようとする何等かの意志が働く。意志が働くと言う事は、その意志の背後にその意志を持つ主体と目的が潜んでいる。制御の前提には、何等かの主体とその主体が制御しようとする目的があるのである。
 故に、制御は合目的的な働きである。

 この事から明らかであるように会計とは、主体的な行為であり、体系である。又、合目的的な体系である。

 故に、会計の制御においては、初期条件、初期設定が重要となる。会計、そして会計の前提となる市場をどの様な思想に基づいてどの様な前提によってどの様に設定するかが、重要な鍵を握っている。この点は、実務的な問題と言うよりも思想的な問題である。つまり、どの様な社会を目指しているかの基盤となる部分になるのである。そして、基本思想が確立することによって制御思想は、その効果を発揮できるようになるのである。基本思想が不明瞭な制御は無意味である。無意味どころか弊害である。

 経営主体における制御、制動の根本は自制である。なぜならば、主体は、独立、自律を前提としているからである。

 最小の資金量で経営主体を制御するのが会計の目的の一つである。経営主体を成り立たせているのは、資金の流れである。利益は、指標に過ぎない。資金が流れている限り、経営主体は成り立つのである。利益を目的とするのは、間違いではないが、利益にのみ拘泥すると経営の本質を見失うことになりかねない。
 ただ、だからといって利益を軽視して良いというのではない。赤字が続けば、必然的に資金の流れに悪影響を及ぼすからである。

 経営主体を制御するためには、基準量、制御量、操作量を定義し、設定する必要がある。基準量の代表的なものが利益である。
 会計では、総合的な指標として基準量を利益におき、制御量を収益、操作量を費用に設定している。これが期間損益の原則である。

 財政で一番問題となるのは、期間損益という考え方が欠落しており、財政の健全さを測る基準がないことである。その為に、制御量と操作量の設定ができないのである。

 会計で重要なのは最適値である。何でもかんでも、少なければいいと言うのではない。ただ単に経費を削減し、生産効率のみを追求すれば景気は悪くなる。

 費用と支出とは違う。会計の概念では、費用とは、単位期間内に費やされる貨幣価値を言う。それに対して、支出とは、取引によって生じる資金の流出をいう。
 例えば、資産の取得に伴って発生する資金の流出は、即、費用になる、つまり、費用化されるとは限らない。

 故に、利益を圧縮する動機で資産を購入しても支出の割に対して費用化される割合は低く効率が悪いのである。逆に、長期にわたって固定的な費用が発生することにもなる。

 指標である利益には、多分に、恣意的な操作が可能な部分が含まれている。特に、仮想的費用である減価償却費を操作することで、期間損益を加減することは可能である。それに対して人件費のような固定費は、操作が難しい。
 故に、費用を野放しにすれば公正な取引や競争は保証されないのである。例えば、労働主役型の企業と資本集約的な企業では、資本集約的な企業の方が有利な立場に立ちやすい。
 重要なのは、費用と資金との関係である。例えば、本来、長期借入金の元本の返済計画と減価償却費、非減価償却資産の関係、或いは、減価償却費と固定費との関係である。
 これらの関係の有り様によっては収益構造に歪みが生じる危険性がある。その結果、産業自体が構造的に利益をあげられない、即ち、構造的不況業種に陥る可能性があるのである。大切なのは、適正な収益をいかに割り出し、維持させるかである。不当な廉価は、産業自体の健全性を失わせることを忘れてはならない。

 会計や簿記は、経営主体を制御するのが目的であり、監視するのは、副次的な事である。監視することのみに会計の目的を置くと、経営主体は、かえって制御する事が困難になる場合がある。

 会計の基本は、取引の記録である。取引の記録を通じて経営主体の状態を明らかにし、経営を監視することにある。ただ、それが、税制や資本市場と制度的に結びつくことによって実効力を持つようになったのである。この点が重要なのである。

 会計上の制御を考える上でで重要な鍵を握っているのは、同値関係と順序関係である。

 会計における制御の根本は、均衡である。その原動力は差である。資金を循環させる原動力は、位置エネルギーに基づく、位置エネルギーの源は差である。
 基準量、制御量、操作量は、必然的に会計的な位置と関係してくる。
 特に、正と負の働きの位置付けが大切になる。

 会計は、0を含んだ自然数を普遍集合とした集合である。自然数には負の値がない。
 負(マイナス)の概念がない空間においていかに負の数の働きを表すかである。マイナスという表記ができないのならば、位置によって表すしかない。

 制御に対する考え方の一つにシーケンス制御がある。このシーケンス制御に、「順序制御」、「時間制御」、「条件制御」の三つの考え方がある。この三つの考え方は、制御に対する考え方をよく表している。

 会計の基礎は、シーケンス制御である。会計が経営の仕組みに結びつくことによってフィードフォワード制御やフィードバック制御が実現するのである。

 シーケンス制御というのは、予め、順序や手続、条件を設定することによって制御する事である。
 例えば、経営主体は、予め、会計手続きや帳簿組織、管理業務を設定することによって経営全般を統御しようとする。この様な制御の手法をシーケンス制御という。
 また、月次月次の締めや決算手続と言った時間制御、そして、会計原則に則るという条件制御によって会計の制御機構は成り立っている。

 シーケンス制御以外にも制御の手段、やり方は、幾つかある。そして、それぞれの手段は、他の手段を排除しない。
 故に、一般に制御の手法、仕組みは、幾つかの手段を組み合わせることで成り立っている。

 制御の思想は、大別すると事前に変化や運動を予測し、その予測に基づいて対処の仕方を予め設定する思想と、何等かの変化や運動を察知して、それに合わせた対応をするという思想に大別される。
 前者の制御の仕方の代表的なのが、フィードフォワード制御、即ち、事前制御の思想であり、後者の仕方の代表的なのがフィードバック制御、即ち、事後制御の思想である。
 更に、変化や運動の過程を予測、或いは設定し制御する仕方がある。ただしこれは、フィードフォーワード制御の一種と見なす事もできる。
 会計は、基本的にフィードバック制御を原則とする。それが決算主義である。しかし、実務においては、シーケンス制御を用いる。又、予算や管理会計では、フィードフォワード制御がよく活用される。
 この様な過程を管理する制御法には、シーケンス制御、プロセス制御がある。
 モデルを作ってそれに基づく制御をするモデルベースト制御は、フィードバック制御とフィードフォワード制御を巧みな組み合わせた制御と言える。
 又、何等かの補助機関や機構を使ってする制御がある。コンピューター制御等である。
 それから、変化の状態や変化の仕方を誘導することによって制御する手法がある。例えば、ファジー制御である。
 また、構造や機構の強度を増すことによって変化や運動を抑える制御法がある。ロバスト制御などである。
 又、その他にも制御に対する考え方には、「適応制御」「非線形制御」「ハイブリット制御」等がある。(「制御工学の考え方」木村英紀著 講談社ブルーバックス


 これらの手法や考え方は、会計制度の中に至るところで取り入れられている。

 例えば、経理事務管理、決算手続などは、シーケンス制御の一種と言える。
 また、管理会計の多くは、フィードバック制御だと言えるし、予算管理は、フィードフォワード制御と言える。
 仕組みとしては、市場は、フィードバック制御機構を組み込んだ仕組みだと言える。
 重要なのは、変化や運動をどの様に制御するのか、その目的に適合した制御手法を用いると言う事である。

 予算方式が良いか、決算方式が良いかという議論は、馬鹿げている。予算方式も、決算方式も、相手を排除するような性格のものではない。それぞれがそれぞれの役割を果たせばいいのである。
 ただ、財政上の予算方式は、予算に強く拘束され、環境の変化に対する適応が硬直的だから、問題なのである。予算は、フィードフォワード的だと言っても、硬直的では、制御と言う思想から元々外れている。制御という思想そのものが欠如しているのである。それは予算制度と言う事よりも予算に対する思想の方が問題なのである。

 帰納法は、演繹法との相互関係において成り立っている。帰納法も演繹法もそれ単独では成り立ちにくい。統計学というのは、帰納法的な手法であるが、演繹的な手法との補完関係があって立証されるべき手法である。それに対して、現在の経済学は、統計から演繹的な手続きを経ずにいきなり、結論を導き出そうとする傾向がある。つまり、現在の経済学では、統計的資料は、それ自体、単独で成り立っているかのような振る舞いをするのである。それでは、その資料の正当性を検証する手段がなくなる。

 会計は決算主義を原則とする。決算主義における制御の考え方、思想は、フィードバック制御である。それに対して、財政は、予算主義である。予算主義の制御思想は、フィードフォワード制御である。

 フィードバック制御の中でもPID制御は代表的な制御であり、会計の制御にも取り入れられる。

 単価と数量、売上の関係は、比例制御である。会計的事象には、単価と数量、売上の関係以外にも比例関係が多く見られる。例えば、単位当たり賃金と労働時間、人件費の関係等である。
 減価償却は、積分的制御である。減価償却費と長期借入金の返済計画などは、量的な問題として捉えるべきである。
 成長率は、微分的制御である。成長率や回転率は速度的な問題であり、微分的制御と言える。

 会計は、情報系である。故に、会計を制御するためには、伝達関数が重要な役割を担っている。それは、市場を制御するためにも伝達関数が重要であることを意味している。
 伝達関数関係とは、入力、出力、伝達関数のいずれかか2つが解れば、残りの1つは、理論的に算出できる関係を言う。
 会計で言う入力とは入金であり、出力とは出金である。つまり、会計主体を制御するとは、入金、出金を制御する事に他ならないのである。そして、入金と出金を制御するためには、資金の伝達過程を把握する必要があるのである。
 勘定が成立する裏には必ず現金、又は、現金同等物の存在がある。

 経営主体、会計主体を動かしているのは、資金の流れである。利益は指標に過ぎない。故に、会計が制御しなければならないのは、基本的に資金の流れである。
 つまり、入金と出金の経路、流れる速度、入金量と出金量の時間差などである。その為の指標として利益は有効なのである。
 特に、入出金の時間的関係が会計においては重要な働きをしている。入出金管理の本質は時間管理である。

 経営主体、会計主体を制御しているのは、会計だけではない。経理という仕組みにかぎっても、複式簿記の上に帳簿組織がのっかている。更に、管理会計や業務の体系、そして、組織の体系がある。それら全体が経営主体を制御しているのである。会計は、帳簿上の計算だけを指しているわけではない。

 会計制度だけでは、市場の変動に対応することは不可能である。又、会計制度がなければ、経営の実体を市場の変化に適合することはできない。

 利益は、会計主体内取引によって生み出されるのに対して、収益や費用は、経営主体外の支配下にある。
 つまり、利益は、会計主体の内部取引だけでは捻出できない仕組みになっているのである。
 会計主体外部の変化に対応するために、会計の仕組みは、ある程度、会計処理の選択肢に幅を設けているのである。

 経済の実体は、現物にある。経済は、財の供給と労働、そして、分配にある。貨幣は、あくまでもそれを仲介するのが役割である。経済の本質は、貨幣的事象にあるわけではない。貨幣的事象はいわば経済の影である。経済の実体を知るためには、現物の動きを明らかにする必要がある。

 会計に要求されるのは、センサーの働きである。つまり、経営主体を取り囲む外部環境の変化や内部の異常をいち早く察知し、経営活動に還元することである。その為には、センサーが重要な働きを担っている。そのセンサーの働きをするのが、会計である。故に、会計では、監視というのが重要な働きであることは間違いない。しかし、監視するだけでは会計は、本来の働きを発揮したことにはならないのである。

 経営主体には、収入と支出の波を整流するという働きがある。
 収入というのは、景気や市場といった外的環境の変化に依って左右されると言う性格がある。つまり、収入は、一定しておらず、絶えず変動している。しかも、収入を得る時点も一定ではない。収入というのは、予測が困難な事象なのである。
 支出は収入に比べると固定的な部分が多いが、それでも、何等かの変動を伴う。
 また、支出には、波があるものが多い。その波にも、一日単位の波、週単位、月単位、年単位の波、或いは、季節の変動に伴う波など多彩である。更に、不定期で、まったく予測がつかないような収入もある。
 また、収入は、支出と関連しているから支出の波に伴って支出と同様の波動が派生する。
 この様な波があると生活は安定しない。収入が予測できなければ、計画的に生産量を制御して設備に投資するのも難しい。
 故に、経営主体を媒体とすることによって収入と支出を一定化させ様と先人達は、目論んだのである。それが企業であり、収入と支出を整流化するための補助機関としての金融機関である。
 金融機関は、資金の流れや長期、短期の働きを社会的に制御するのが役割である。金融機関の利益は、資金の流れや長期短期の働きの差から求められるべき性格のものである。
 経営主体を経由することで、定収を確立し、同時に、長期の借入金の保証を可能としたのである。
 この事は、貨幣価に時間軸を加えることを意味している。そこから、長期短期の働きが成立し、期間損益が確立されたのである。
 現金主義的な体制では、資金の長期、短期の働きを制御するのが困難である。それは、現金主義においては、時間の働きを計算することが難しいからである。財政が制御しにくいのは、財政が現金主義の上に成り立っているからである。
 期間損益が確立されるに伴って収入は、収益に、支出は、費用に変換された。そこから、単位期間内の費用対効果の測定が可能となったのである。
 言い替えると収入と支出を平準化するために収益と費用は設定されている。収益と費用の平準化は、言い替えると利益の平準化でもある。
 現在の会計の考え方に利益操作を全否定してしまう考え方がある。しかし、それは会計の本質を否定する事にもなる。利益操作で悪いのは、不正や業績を粉飾するために行われる行為である。一定の期間内に収益と費用を按分するために行われる操作まで、利益操作とするのは、木を見て森を見ないのと同じ行為である。

 兌換紙幣は、金に対して価値が下落することはある。不換紙幣は、何に対して価値が下落するというのか。そこに、制御の問題が隠されているのである。

 金本位制度というのは、金という物を基本とした貨幣制度である。つまり、金と言う物の価値の裏付けがあって成り立っている制度である。故に、金という物の価値に対して貨幣価値は定まるのである。故に、金に対する貨幣価値が下落すれば、相対的に貨幣価値も下落するのである。
 それに対して、不換紙幣制度は、信認を基本として成り立っている。信認の根源は、国家そのものに対する信認である。
 それに対して為替は、通貨間の力関係によって貨幣価値は決まる。つまり、国家間の津から関係によって貨幣価値を制御していると言っていい。金本位制度のように全ての貨幣価値が下落してしまうという事はないのである。

 貨幣を民間で発行することは、今でも可能である。問題は、発行した貨幣が貨幣として機能するかである。貨幣として機能するためには、信認が必要となる。現在、民間が発行する疑似貨幣は、結局、公の通貨制度を裏付けとして成り立っている。だから、結局、貨幣を民間で発行したとしても制度として確立できないのである。

 問題なのは、貨幣の信認である。ところが、貨幣の信認が失われた場合、どの様な事態に陥るのかについて明確にされているわけではない。問題はそこにあるのである。どんな状況に陥るのかも解らないまま、ただ、信認が失われたら大変だという議論だけが先行している。だから、信認が失われる前兆現象も、また、信認が失われたらどうなるのかも解らないのに対策だけ立てようと悪足掻きする事になるのである。
 貨幣の信認が失われると言うが、貨幣の信認が失われた場合、どの様な現象が起こるのかを明らかにする必要がある。それも因果関係を含めて立証する必要がある。

 為替の変動は、通貨圏の購買力と販売力に影響する。購買力というのは、買う力である。販売力というのは、売る力である。そして、これらの力は、インフレーションやデフレーションを引き起こす力でもある。
 為替というのは、結局、売ると買うという相互牽制によって制御されているのである。
 即ち、売りという行為と買うという行為に、交換の手段としての通貨を媒介する事によって相互牽制が働き。その結果、市場の均衡を制御しているのである。これは取引の原則でもある。

 為替の変動、石油価格の変動、原材料価格の変動、農産物の生産量の変動、地価の変動、株価の変動、と言った市場環境の変化が外部取引にどの様な影響を及ぼし、内部取引をどの様に歪めるか(特に、資金の流れに対し)を解析し、それが個人の所得や雇用、企業の収益や業績、産業や財政にどの様な影響が出るのかをよく時系列的に分析をしてとるべき経済政策を決める必要がある。
 その際、目安となるのが、所得と雇用、そして、企業利益である。
 なぜならば、一定の所得や収益が維持されることで、負の働き、即ち、借金や債務が成り立っているからである。
 正と負、両方の力が拮抗して始めて経済は安定するのである。

 現代の経営者の多くは、目先の利益の追求に負われ、会計本来の目的を忘れている者が多い。忘れていると言うより、最初から理解していないと言う方が正しいかも知れない。利益は、一つの指針に過ぎない。しかも会計基準の有り様でいかようにも変化する。基準を誤れば一企業の問題に止まらず。経済全体の仕組みを歪めてしまうのである。最悪の場合、経済を破綻させてしまう。
 会計で重要なのは、経営主体や経済や市場の制御である。

 現代の市場や会計に欠けているのは、制御という思想である。


会計構造は三層からなる。


 会計は、三層の構造を持っている。最下層には、貸方と借方の二つの領域からなる。中層は、資産、費用、負債、資本、収益の五つの領域からなる。最上層は、貸借、損益の二つの領域からなる。

 会計を構成する各層は、会計の部分集合である。

 各階層は、会計手続き、操作によって連結されている。取引は、仕訳によって下層の二つの領域に振り分けられる。そして、転記よって中層の五つの領域に集計される。そして、決算仕訳と締め処理によって損益と貸借に分類され、期間損益が算出される。

 会計の結果は、一つの全体集合、即ち、決算書として表現することが可能である。
 借方、貸方、二つの部分集合は、お互いに独立している。貸方、借方を、各々、集計した値は、常に均衡している。
 更に、借方は、資産と費用の二つの部分集合からなる。貸方は、負債、資本、収益からなる。
 借方、貸方を構成する五つの部分集合は、相互に独立していて共通部分を持たない。

 会計上の取引には、内部取引と外部取引がある。内部取引によって個々の勘定は消化され、外部取引によって決済、清算される。
 取引は、相殺取引によって内部勘定を解消し、最終的に外部取引によって現金化して取引を決済、清算する。

 会計は、会計主体が取引を認識する事によって会計行為を認識した時点から始まる。故に、会計は、認識の問題なのである。

 取引とは、財の交換と貨幣の交換が並行する行為である。つまり、取引には、財の交換と貨幣の交換という二つの事象が同時に進行していることを意味している。

 現金主義は、貨幣の受払が実現した時点を取引の開始と見なし、貨幣の受払が完了した時点で終了したと見なす。即ち、現金主義は、取引が成立した時点で取引は終了したと見なす思想である。
 現金主義では、取引とは、財と貨幣の一対一の交換行為を意味する。財の受払は、貨幣の受払と同時に行われることを原則としている。つまり、財と貨幣との交換された時点で取引は、完了したと見なすのである。
 純粋の現金主義においては、貨幣その物が、財としての価値を持つことを意味している。

 現金とは、貨幣価値が実現した事象、貨幣価値を実現する物を意味する。貨幣価値を実現する物とは、貨幣その物を言う。

 それに対し、期間損益では、貨幣の交換と財の交換を別の事象とし、二つに分けて認識する。その上で、財の交換と現金の受払を前提とした合意が成立した時点を取引の開始として見なし、現金の受払が成立した時点を取引の終了と見なす。

 現金の受払によって取引を完了する行為を決済とする。

取引は、五つの要素に仕訳される。


 会計情報は、取引の集合である。

 仕訳は、複式簿記の基幹を成す処理であり、本質は、会計思想である。仕訳は思想である。
 仕訳という処理によって複式簿記は、基盤となる概念を形成することが可能となったのである。
 仕訳によって個々の取引は、債権と債務に分割される。一つの取引によって派生する債権と債務は、同量で反対方向に働く。故に、債権と債務は常に均衡している。

 債権と債務に区分された取引は更に、資産、費用、負債、資本、収益に分類され、集計される。この仕訳が期間損益主義に基づく市場経済の枠組みを築く。この枠組みに則って資本主義は形成される。

 会計上の取引は、財と貨幣の移動を伴う行為を言う。
 財か、貨幣かのいずれかの移動が認識された時を取引の開始とし、財と貨幣の双方の移動が確認した時点で取引は完了する。

 取引が発生したと見なされる事象を認識した時点から取引が開始されたとする思想を発生主義といい。取引が実現したと見なされる事象を認識した時点から取引の開始された見なす思想を実現主義という。

 現金は、取引が成立した時点での貨幣の運動量を示している。取引よって生じる貨幣の運動は、同量の債権と債務を生じさせる。
 単位期間内で清算される債権が収益であり、次の単位期間まで繰り越されるする債権が資産である。単位期間内で清算される債務が費用であり、次の単位期間まで繰り越される債務がが負債である。

 取引は、発生した時点で、借方、貸方、二つ方向の要素に分解される。取引が発生した時点での貸方、借方の集計数値の差は零である。取引は、貸方、借方双方に、同量の貨幣価値を生み出す。

 さらに取引は、仕訳によって五つの部分集合に振り分けられる。

 即ち、取引を構成する要素は独立した要素、即ち、勘定科目に仕訳される。

 勘定科目は、要件によって定義される。勘定科目は定義されることによって要件を満たすことが可能となる。故に、勘定科目は、合意に基づいて任意に設定される命題であり、所与の命題ではない。合意に基づいて任意に設定されるとは、手続を前提としている。つまり、勘定科目は、手続によって設定される集合である。この様に会計は、手続を必要とした、前提とした集合である。

 取引は、取引の内容によって予め定められた基準に従って勘定科目に振り分けられる。取引を構成する勘定科目は各々独立した動きをする。
 この勘定科目間の取引を内部取引という。

 仕訳上は、同じ勘定科目間でしか加減計算はできない。そして、個々の勘定科目の結果は原則的に正でなければならない。即ち、残高が問題となる。負の残高は、資本勘定以外、前提とされない。故に、会計は残高主義である。

 会計運動は、勘定科目の増減として現れる。売掛金は、売掛金とのみ、現金は、現金とのみ、売上は、売上とのみ加減ができる。そして、個々の勘定科目の総和は、常に正の零を含む自然数である。つまり、残高は正である。

 会計は借方、貸方の二つの部分集合からなり、二つの部分集合は各々の合計の差は零である。会計は、日々行列演算を業務として繰り返している。

 会計を加減乗除に関して群だとすると、借方、貸方は、会計に対して部分群である。資産と費用は、借方の部分群であり、負債、資本、収益は、貸方の部分群である。

 個々の勘定科目は、会計空間上に、固有の正の位置と、負の位置がある。勘定科目は、正の領域にあるときは、正の働きをし、それ以外の領域にある時は、負の働きをする。
 勘定科目のこの様な働きを成立させる領域には、資産、費用、負債、資本、収益の五つの領域がある。

 資産とは、資産領域を正の位置とする勘定科目を指して言う。費用とは、費用領域を正の位置とする勘定科目を言う。負債とは、負債の領域を正の位置とする勘定科目を言う。資本とは、資本領域を正の位置とする勘定科目を言う。収益とは、収益の領域を正の位置とする勘定科目を言う。例えば、表記上、負として表記される勘定科目があるが、負とした表記される位置が本来の科目ではない。勘定科目は、正の位置の領域が本来の位置である。

 資産、費用、負債、資本、収益は、会計に対して真部分集合である。資産、費用、負債、資本、収益は、相互に独立しており、共通部分はない。

 勘定は、正の領域の内側にある場合は、正の働きをし、正の領域の外にあれば負の働きをする。
 即ち、取引による勘定が正の領域の外で発生したり、移動した場合、その勘定に対し負の働きをする。
 又、一つの勘定が他の領域に移動する場合は、同量の反対勘定が生じる。
 ただし、個々の勘定の残高が負(マイナス)になることはない。又、負(マイナス)にならない様に制御される仕組みになっている。

 この事から、取引には、勘定の働きに対して順な方向の働きと逆の方向の働きの取引がある。

 会計内部における資産、費用、負債、収益の勘定の総和は、常に正であり、負の残高はない。 

 資産上の問題なのか、収益上の問題なのか、負債上の問題なのか、費用上の問題なのか、何に属する科目かが重要である。属する科目によって取引の性格と位置付けが決まる。

決算処理


 決算とは、一定期間内の取引残高を集計し、その期間内で完了したと認められる取引を損益に表すと同時、未了の取引を貸借に残高として表すことである。決算書とは、損益と貸借の一覧表である。

 決算を構成する要素と取引とは、一対一の関係にある。故に、決算の結果に従って辿れば、決算の元となった取引にたどり着くことができる。それが追跡可能性である。原則として、会計の仕組みは追跡が可能であることを原則としている。つまり、記録を前提としているのである。

 決算という操作は、単位期間内での最終損益を確定する操作、作業である。

 仕訳という操作には、通常の仕訳と決算仕訳の二種類がある。通常の仕訳は、日常業務において発生する取引を勘定科目に振り分ける操作であるのに対し、決算仕訳とは、期間損益の原則に従って単位期間内の実績を表すための仕訳を言う。

 決算仕訳というのは、内部取引である。
 会計の内部取引は、仮想的取引、仮想的運動であり、必ずしも現金の動きを伴うとは限らない。

 会計主体は、利益を目的とした存在ではなく。均衡を前提とした存在であることが解る。つまり、利益が上がらなくても会計主体は存続できるが、貸方、借方の均衡が失われた時、つまり、何等かの負の残高が生じた時、破綻するのである。
 この事は、会計主体本来の役割を示唆している。会計主体は、生産や消費、労働と言った経済行為を組織的に行うことを通じて、財や貨幣を社会に循環させることなのである。利益のみを目的化してしまうとこの肝心な部分を見落としてしまう。そして、会計主体で最も重要なのは、社会的役割を継続的に果たしていくことなのである。一時的に莫大な利益をあげたとしてもその収益は、企業活動の中で消化されてしまう。又、利益をあげる事だけに汲々として雇用や価格を破壊し、安全や環境を忘れてしまえば、企業としての社会的役割が果たせなくなるのである。

 この様な会計主体が正常な働きをするための決定的な要素は時間である。
 均衡を前提とした会計主体が資金繰りを円滑に行うために、決定的な働きをするのが時間だからである。

 会計とは、資金が会計主体の内部を循環することによって機能を発揮する仕組みである。会計の機能とは、財と貨幣の分配にある。

 資金が会計主体の内部を循環するためには、内部の財が流動化されている必要がある。

 流動化とは、現金化である。現金化とは、貨幣価値の実現を意味する。
 流動性とは、単位期間内での現金化の可能性を言う。

 資産、費用、負債、資本、収益の領域の範囲を画定する基準は、単位時間である。又、利益は、時間価値の一種である。

 取引で決定的な役割を果たすのは時間である。

 時間価値は、正と負の境界線上に生じる。

 貸借対照表と損益計算書は、残高の集合である。つまり、貸借対照表は、ある一定時点の資産と負債と資本の残高を集計したものであり、損益計算書は、ある一定期間の収益と費用を集計し、収益と費用の差を計算した数値である。

 利益というのは、一つの指標である。利益が出ない、損失が出たからと言って企業経営が、即、破綻するとは限らない。しかし、資金が尽きたら企業経営は、破綻する。即ち、負の残高が生じることが問題なのである。いくら過去の蓄積があったとしても資金繰りかつかなくなったらお終いなのである。

 多くの人間は、企業の目的を利益に置いている。それが企業の役割の本質を見失わせているのである。なぜ、過去、好業績だった企業が、突然に業績を悪化させ、清算されてしまうのか。それは、企業本来の役割と時間の働きに対する無理解が原因である場合が多い。つまり、現代企業は継続を前提としながら、継続可能な体制におかれていないからである。
 企業経営にとって、会計にとって時間は決定的な働きをしている。即ち、時間をどの様に捉えるかが、現代経済の鍵を握っているのである。

 会計というのは、貨幣によって動かされる仕組みである。会計という仕組みを実際に動かしているのは、貨幣である。ただ、貨幣価値で示されているからと言ってそこに、貨幣としての現金があるわけではない。決済上に表示される貨幣価値は、現金を除いて潜在的貨幣価値を現したものにすぎない。貨幣価値が示されるからと言って現金の存在を意味するのではない。そして、それが、現行の貨幣経済の本質である。

 資金には、流れる方向がある。流れには、投資の側への流れと回収の側への流れがある。流れに方向付ける要素は、債権と債務、及び、費用と収益である。債権や費用は、投資の側への流れを促し、債務や収益は、回収の側への流れをつくる。

 貨幣は、貨幣が過剰なところから、貨幣が不足したところへ流れることによって物流を起こし、機能を発揮する。貨幣は、循環することで機能を発揮するのであり、貨幣の流れが滞留するといろいろな弊害、障害が発生する。

 表面に現れる貨幣価値の総量よりも、問題になるのは、資金の流量なのである。そして、この貨幣の流れが市場の貨幣や財の流れを生み出し、労働と分配の働きを結び付ける。それが市場を形成し、経済全体の状況を形作る。

 市場取引の内容は、貨幣の流れる方向を定める。資金の流れる方向には、投資の方向と回収の方向の二方向がある。投資の方向に資金が流れれば、市場は拡大し、回収の方向に資金が流れれば市場は縮小する。

 資金の動きや方向、財の動きや方向、取引の働きに順な働きをする規制や政策と、逆の働きをする規制や政策がある。
 規制を闇雲に強化したり緩和するのは、市場や経済をやたらに混乱させるだけである。規制が是か否かの問題ではなく。個々の規制や政策が、資金の動き、財の動き、取引の働きにどの様に作用するか、しかも、時間的、空間的要素も加味しながら、個々の市場や産業の状況に合わせて考えるべき問題なのである。

 会計を数学の問題として扱ってこなかったことは、数学者の怠慢以外の何ものでもない。数学者の怠慢によって人類がどれ程の災難、損失を受けたか計り知れない。これは、人類に対する犯罪行為に等しい。
 数学が役に立たない学問などと考えるのは、とんでもない話してである。ただ役に立たない研究ばかりに数学者が精力を費やしたと言うだけである。
 純粋数学を無意味なものだとは言わない。しかし、実用を重んじない学は、道楽に過ぎないのである。

 数学と会計、経済が融合し、統合された時、経済は科学となるのである。

産業と集合



 経済というのは、色々な集合体によって構成されている。例えば、市場は取引の集合体である。市場自体も小さな市場の集合体である。
 経済をどの様な要素の集合として見なすかが重要となる。

 産業は企業、即ち、経営主体の集合体である。産業は経営主体の集合だが、経営主体を元として産業を定義することは困難である。なぜならば、経営主体は、一様な要素で構成されているわけではないからである。企業自体、単一の業態で一括りにすることはできない。例えば、ソニーは、本業以外に金融部門を持っている。また、家電業界にも総合家電会社もあれば、単一の部門、例えば、音響部門に特化した会社もある。又、製造から販売まで一貫して行う企業もあれば、製造に特化した企業もある。また、総合と言っても家電以外に充電部門まで含んでいる企業もある。
 この様に、産業自体、単一の業種として特定できない場合が多いのである。それが、経営主体の業績を測る上での障害となっている反面、この様な、経営主体の多様性が市場経済を成り立たせているとも言えるのである。

 この様な、産業が経済にどの様な影響を与えるかを解析するためには、産業を、何を基準として捉えるかが重要な鍵を握っている。

 産業は、企業の集合であるが、単に、企業の集合体としてのみ捉えていたら、産業の事態を解明することはできないのである。産業の構造を知るためには、産業の構成要素によって分類する必要がある。また、産業の働きを知るためには、機能の集合として捉える必要がある。

 市場の働きを知るためには、個々の取引を構成する要素の組み合わせが重要となる。例えば、交換には、物と金の交換。労働、サービスと金との交換。物と物との交換。交換には、どの様な要素の組み合わせが成り立つかが重要となるのである。その有り様が経済の仕組みの本質を決定するからである。その上で、個々の要素の働きを明らかにするのである。
 物には、どの様な物があるのか。金にはどの様な種類があるのか。労働やサービス、に対する報酬はどの様に為されるのか。そして、これらの要素には、どの様な組み合わせが成立するか、それが、市場取引の有り様を決めるのである。故に、重要なのは、集合の定義なのである。

 経済に与える経営主体の影響や関係を知るためには、経営主体を機能によって分類し、再構築する必要がある。

 単位要素に分解し、再構築するのである。

 現在、一般に、経営主体の実体を分析する際に短期的業績に基づいて為される。それが間違いの元なのである。期間損益というのは、元来、長期的均衡を短期的に置き換える目的で発達してきたのである。それがいつの間にか、長期的均衡を喪失し、短期的均衡のみに注目するようになった。その為に、長期的な均衡が破られてしまっているのである。

 長期的均衡というのは、資金的な問題に置き換えることが出きる。即ち、設備投資と運転資金との均衡問題である。すなわち、キャッシュフローの問題である。

 それは、負債と資本、長期負債と短期負債、流動資産と固定資産との関係にも現れる。
 調達された資金が何に投資され、どの様に費用化されて、どの様にして収益に結び付けられるかである。そして、どれくらいの期間をかけて負債や資本に転化されていくかである。この循環が経済の源なのである。

 一つは、資金の流れである。今一つは、費用対効果、即ち収益と費用の関係である。
 資金の流れは、初期投資、設備投資にかかる資金をどこから、どの様に調達し、それを何によって、どの様に返済するかである。
 費用対効果は、設備投資にかかった資金を単位期間に費用として、いかに按分し、単位期間にかかる資金の量、即ち、費用と収益との関係を明らかにする事である。そこで働くのが減価償却という思想である。
 ただ、気をつけなければならないのは、費用対効果を基とした期間損益と実際の資金の流れとは別だという事である。その為に、費用対効果に併せて資金の流れを作り出す必要が生じるのである。
 その為に、費用対効果の関係を利益として表現するのである。利益とは、費用対効果の結果である。
 この場合も収入と収益とは違うことを見落としてはならない。収入というのは、実際に資金の授受を前提としている。それに対して、収益は、取引の成立とそれによって資金が獲得されると認識されるた事象を前提とする、即ち、認識の問題である。

 金の手に入れ方が貸方に記載される、手に入れた金の使い道や手に入れた物が借方に記載される。
 負債、資本で資金を調達し、収益によって回収する。資産によって財を生産し、費用によって分配する。

 経営主体は、期間損益と収支は、長期的に均衡することを前提としいて成り立っている。なぜ、期間損益を、即ち、費用対効果の測定が必要なのかというと入金と出金との間に時間的なズレが生じるからである。そして、いくら収益が見込めても資金の不足は経営主体の経営を破綻させてしまうからである。
 又、当座的企業を前提とした場合では、一回、一回、事業の精算がされてきたが、継続企業が前提とされるようになると、無限という概念が長期的均衡の上に加わったのである。その結果、資本に対する概念が大きく変質したのである。つまり、資本は返済を前提とする資金ではなくなったのである。

 借入金は、借入金単体で見れば借金である。しかし、それを出金側と対照することで負債となるのである。これによって借入金の働きを測るのである。

 家を建てるという選択肢の他に家を借りるという選択肢がある。
 持ち家にするか家を借りるかの選択は、結局、所有権が誰に帰属するかの問題に行き着くのである。即ち、家を誰が所有するかの問題なのである。

 所有権の問題は、金利、元本の返済方法、地代、家賃、又、配当をどう考えるかの問題なのである。長期借入金のの元本の返済に当てられる部分は、減価償却費と税引き後利益である。税引き後利益というのは、利益処分において税額を控除、即ち、差し引く以前の値である。税引き後利益は、一般に、配当と役員報酬に充てられる。即ち、長期借入金の返済原資とされていないのである。つまり、長期借入金で、減価償却に相当しない部分の返済原資は確保されていないのである。この部分の多くは、不動産、即ち、土地、及び、金融資産である。これらは、売買益によって清算されることを前提としている。しかし、多くの土地は、それを使用しているときは、売却することを前提としていない。つまり、この部分は、返済を前提としていない負債である。この様な負債は、限りなく資本に近い。逆に、負債は、他人資本、資本は、自己資本と言われるが、自己資本と言っても資本にも配当があり、金利以上の費用が見込まれる場合もある。
 この様なことを勘案すると負債と資本は、同質の勘定と言う事になり、総資本という括りの中に入れられるのである。それが、会計上、総資本という集合を形成するのである。

 例えば土地に価値があるのであってそれ以前に貨幣価値があるわけではないはずなのである。

 財政を考える場合、紙幣や国債の根本に貸借関係が潜んでいることを見落としてはならない。紙幣や公債問題を考える時、公に民が貸すのか。公が民に貸すのかが紙幣の根本にある。
 貸借問題の基本は、貸す者がいるから借りることが出きるのであり、借りる者がいるから貸すことができるという関係である。つまり、借金は、貸す者と借りる者双方が存在しなければ成立しない事象なのである。
 売買も同じである。売り手と買い手が存在しなければ成立しない。
 取引というのは、交換を前提として成り立っており、交換は、単独ではできない行為なのである。それが、取引の作用反作用の前提となる。

 紙幣は、貸し借り、決済の手段として成立した。
 貸し借り、売買は、取引である。取引は、交換である。交換は、同価値の対象という当事者の認識の基に成立する。
 では利益とは何か。利益とは、価値が附加されることによって生じる。それが付加価値である。
 付加価値を生み出すものの一つに時間がある。
 同じものが時間の経過に伴って価値の変化があるとしたら、それは、時間の経過が何等かの価値を附加したことになる。この場合、必ずしもプラスの価値とは限らない。マイナスの価値である場合もある。
 この様な時間の経過によって附加される価値の典型が地代、金利である。

 現金主義である家計では、住宅ローンは、純粋な借金として認識される。返済額や返済方法が確定している借金である住宅ローンは、固定的支出を形成する。
 所得から固定的支出を差し引いた部分を可処分所得とする。

 政策的に家計を救済しようとした場合、所得、即ち、雇用を創出するような政策をとるべきなのか。それとも、資金の補填を考えるべきなのかその点が重要な鍵を握っているのである。

 この事は、家計の問題だけではない。企業も財政も同じである。いくら、資金を補填したとしてもそれが継続的な収入に結びつかなければ続かないのである。

 景気の動向を判断する上で重要になるのは、消費者の動向である。消費者動向を見極めるためには、先ず消費者がどの様な行動規範によって意思決定をしているかが、重要となる。次ぎに、消費者の行動や意思決定に対して何が影響をしているかを明らかにすることなのである。
 消費者の行動に決定的な影響を与えるものの一つが所得、収入の動向がある。

 収入、即ち、人件費や所得に結びつかなければ、景気対策は効果が現れない。人件費というのは、言い替えると、雇用である。収入に結びつかなければ、消費が活性化しないからである。
 人件費の側に資金が流れないと消費は喚起されずに景気は良くならない。
 また、人件費は、偏りが大きすぎても、又、均等でも効果がない。
 景気対策は、資金が、所得の側に、ある程度のバラツキをもって流れるように仕込む必要がある。

 結局、重要なのは、所得、収入と支出の均衡なのである。しかし、収入と支出が結びつかない限り、収入と支出の関係の妥当性を評価することはできない。そこで費用対効果として単位期間に還元したのが期間損益主義である。

 消費は、消費だけ見れば支出に過ぎない。支出によって獲得した収入と対照することによって費用となりその効果が測定できるようになるのである。

 この様な、費用対効果を基として長期的資金の調達を計れるようにすることが会計本来の役割なのである。その会計本来の役割が見失われ。単に企業の成績表の基準に会計が堕してしまい。その結果、会計が本来の働きをしなくなっているのである。

 ところが、現在の企業実績は、単年度の業績のみに拘泥している。その為に、経済における長期的働きと短期的働きの均衡がとれなくなっているのである。

 この事から負債と資本、収益は、入金の側を意味し、資産と費用は出金の側を意味することが判る。つまり、試算表は、収支表なのである。
 いずれにしても期間損益と収支は長期的に均衡することを前提としているのである。

 費用の水準に対して収益の水準が問題なのであり、資産の水準に対すして負債の水準が問題なのである。それを測る目安、基準が利益である。故に、経営主体は、利益がないからと言ってすぐに、経営が破綻するわけではないのである。

 現金主義によれば借金は、借金、土地は土地であり、儲けは儲けでしかない。それに対照する勘定科目と結びつかなかったのである。
 複式簿記は、勘定科目間を対照することによって入金の因子と出金の因子を結び付けたのである。

 負債と資本、資産、費用、収益の働きで重要となるのは、水準なのである。その水準が何によって影響を受けているかを解明することが、経済の状況を知り、制御するためには不可欠なのである。

 これらの関係を知るためには、産業の構造と機能を明らかにする必要がある。構造や機能を明らかにする決め手が会計を構成する要素、即ち、勘定科目なのである。

 負債、資産、収益、費用、キャッシュフローの関係からバブルは引き起こされる。この関係、構造を理解しないとバブル現象の真の理解はできない。
 バブルの前提となるのは、市場が成熟し、飽和状態となり、実需の上昇に限界が見えてきているという点である。ただ、市場には、潤沢に資金や財が供給されていて見かけ上は好況を保っているという二点である。
 市場が成熟するに従って収益水準の上昇速度が相対的に減速している。それに対して、費用水準の上昇、速度は続いている。その為に利益が圧迫されている。反面、見かけ上の好況によって資金は潤沢に市場に供給されている。つまり、過剰流動性が発生している。余剰な資金が資産市場に流れ込んで、土地や有価証券の価格水準を押し上げている。この様な状態が前提となる。
 資産価値の上昇と資産を購入することによる収益、金利の様に、資産を購入するにあたって発生する費用、元本の返済計画のような借入金に伴う資金計画、これらの収支が合理的に合えば、借金をしてでも資産を購入する動機となるのである。
 第一に言えるのは、負債と資産の関係である。資産、即ち、実質的価値の上昇が負債、即ち、名目的価値の上昇を上回っている。資産の未実現利益によって資金の調達が、即ち、資産を担保として借入を実行する事が、可能な状態だと言う点である。
 第二に、金利、即ち、費用の負担がキャピタルゲイン、即ち、未実現収益によって賄われる。即ち。利益の水準の上昇速度が費用の水準の上昇速度を上回っている。
 第三に、過剰流動性、即ち、余剰資金が市場に出回っている状態では、借金をしてでも資産を購入した方が得である。
 第四に、資産税、相続税の在り方、又は、法人税の在り方である。
 法人税における課税対象は、利益である。現在の法人税は、利益処分によって税額が決定する。また、長期借入金の元本返済の原資の一部は、利益処分の中に見込まれる。それなのに、長期借入金の元本の返済に相当する科目は利益処分の項目にはない。しかも、資産の売却益は、収益として見なされる。
 資産価値が上昇していて、余剰の収益が見込まれる時は、資産を購入して資金が不足したときに、未実現利益を利用することによって資金調達の準備をしたいという動機が経営者に働く。
 又、一度、資産価値の水準が上昇しはじめると資産税、相続税の負担も過大になってくる。個人資産の多くは、売却することを前提として所有しているわけではない。また、現行の税制は、一部、物納を認めているとはいえ、原則的に金納だと言う事である。現に住んでいる土地、又、先祖代々受け継いできた土地などが課税対象となり、一時的に多額の金銭を必要とされた場合、それに見合う収入や蓄えがなければ、資産を売却するしかなくなるという事である。それを回避するためには、資産に相当する負債を背負う必要が生じる。その為に、借金をして資産を購入するという行為に拍車がかかる。世の中には、資産家の貧乏人がいくらでもいるのである。資産と所得の不均衡が背後には隠されている。これは所有権に対する思想の問題でもある。相続税が高いと資産価値の上昇は、納税圧力を増すのである。
 以上のような条件を備えた状態に陥ると資産は、実際的価値を上回って上昇する。一旦、市場の圧力がバブルを膨らませる方向に向かうと、市場の構成する経済主体は、資産価値の上昇に対処しなければ経営や生活が成り立たなくなるために、経済主体は一方向に向かわざるを得なくなる。それがバブルを膨らませる圧力を加速するのである。
 この様な状態が一定期間続くと資産価値、即ち、実質的価値と負債、即ち、名目的価値が乖離する。そして、一定の時点を超えると資産や収益と言った実質価値が実需と乖離して市場の実態と適合しなくなる。
 又、バブルが発生すると過剰設備、過剰負債、過剰人件費が発生し、収益を圧迫するようになる。これらの要素が経済の実情に合わなくなるとバブルは破裂する。
 その結果、資産、負債の関係が逆転し、或いは、費用対効果の関係が成立しなくなる。そうなると今度は、バブルが崩壊し、急激に景気が後退する。
 この様なバブルやバブルの崩壊と言った急激な変動を避けるためには、産業を構成する要素の働きを理解しておく必要がある。
 この様に、経済現象は、構造的問題であり、又、思想的問題なのである。
 特に、税制の在り方が経済に与える影響は無視できるものではない。

 資産価値の水準、負債の水準、収益の水準をよく観察し、市場の仕組みを調節することによって景気を制御すべきなのである。

 資産価値というのは、絶対的な値ではなく、相対的、構造的な値である。即ち、前提条件や設定条件によって変わる認識上の値なのである。この点を理解しておかないと資産価値の意味や働きを見間違うことになる。
 不良債権、不良債権と昨今問題視するが、何を基準にして不良債権とするのか、その根拠を明らかにしないで、問題視している場合が多い。
 資産価値を測る尺度としては、取得時の価値を根拠とする考え方(所得原価主義)、取引相場(時価主義)を根拠とする考えた、収益水準を基準とする考え方(収益還元方式)等がある。又、その他に、清算価値を根拠とする考え方などもある。
 この様に、資産価値というのは一律には断定できないのである。土地は一物五価などとも言われている。

 産業の構成要素によって分類するためには、会計の構成要素に基づくのが妥当である。

 また、産業を機能の集合体として分類する場合においても会計の構成要素の働きと構成比を知る事が不可欠である。

 経営主体を経済環境の変化に併せて適合させていくためには、構成要素を機能によって分類し、産業全体に対して環境や状況の変化が資金的にどの様な影響を与えるかを解明していく必要があるのである。

 その為には何に元として産業を集合化させるかが、鍵を握っているのである。


       

このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2009.12.20 Keiichirou Koyano