5.会計と数学

5-1 期間損益の問題

経済の決定的要素は時間である


 一は、全体でもあり、部分でもある。
 唯一の一でもあり、万物の一部の一でもある。

 存在は唯一。自分は一人。人生は、一つ。
 しかし、広大な宇宙から見れば自分なんてちっぽけな存在に過ぎない。自分は、社会の一部である。
 選べる物は限りなくあっても、実際に選べる物は一つしかない。信じられるものは一つ。なぜならば自分は唯一の存在だからである。
 人生は、一路。分かれ道は多くても進むべき道は一つしかない。

 個としての一。分かたれた一。切り出された一。独立した一。特別な一。
 単位としての一。定められた一。一定の一。一定の長さの一。一定の時間の長さの一。それは、単位時間であり、単位期間である。

 一歩一歩。一つ一つ。一個一個。

 一刻一刻。一瞬一瞬に、過ぎ去っていく時間。

 時間と時刻。連続した時間と分離された時刻。
 期間と定刻。それは経済の基本単位を形成する。

 時は、連続している。変化は連続しているからである。しかし、連続している時間に対する認識は、時間を連続した流れとする認識と分離した点、時刻として認識する二つの認識の仕方がある。時間は連続時間であり、時刻は、離散時刻である。
 会計上では、連続時間による損益と離散時刻による貸借の両面へ経営の実体を写像する。

 過去。現在。未来。
 そして、今。

 取り返すことのできない時。失われた時間。後戻りできない時間。やり直すことができない時間。

 時間は、不可逆である。
 時間は、方向性を持つ量である。
 時には、前後がある。時には、順番がある。時には、新旧がある。

 仕事は、作業の順序集合である。物事には順序がある。
 最近の若い者は、子供を作って結婚をして親の承諾を得ようとする。それは話の順番が逆である。最初に親の承諾を得て、結婚をして、子を成すのである。
 組織的仕事は、決定があって指示があってはじめて作業にかかれる。決断が始まりである。結果が出てから決断をするわけではない。因果応報である。
 だから、手順、手続、段取りが大切なのである。
 この世では、人は生まれて死ぬのである。死んで生まれるわけではない。

 生病老死。
 老いは残酷である。若く華やかな時は、瞬く間の内に過ぎ去り、いくら後悔をしても取り替えせはしない。若く力が漲っている時は、怖い物知らずで、自分一人で何でもできるように傲慢になるが、老いて他人を思いやることができるようになった時は、人の助けがなければ生きいけない。

 人の一生は、時間の性格に関わる。時は無情である。時刻は、数直線を形成する。一瞬に普遍があり、時と時の間に無限がある。時空は、今、実現し、そして、過ぎ去っていくのである。万物は流転する。諸行無常。
 哀しいことに、年をとればとるほど自分の過ちを認められなくなる。それまでの自分を総て否定されるようで、怖ろしくなるからである。
 若いうちは、やり直しがきくが、年をとるとやり直すことができないと思い込むからである。
 しかし、だからといって何時までも意地を張っているべきではない。あやまちは、あやまちとして潔く認めるべきなのである。
 そうしなければ何も改まらないのである。新しい人生が始まらないのである。肉体は老い衰えても心はいつも新鮮になれる。それが時間の持つ宿命である。

 時間は変化の単位である。

 時間は、変化の単位である。変化は、運動である。運動は時間の関数である。時間が経済的価値を生めば、経済的運動は、経済的価値を派生させる。即ち、経済的価値は、変化によって生じ、時間がもたらすのである。

 損益は、運動量を示し、貸借は経済量の位置エネルギーを表している。 
 経済量は、単位時間内における単位量と回転数によって決まる。
 貸借は、調達した資金の残高を意味する。それに対して、費用というのは、単位期間に費消した貨幣価値の量を言う。費消するとは分配を意味する。

 仕事量は、運動量と距離の積である。

 貨幣の運動量は、貨幣の流量と働きの積である。
 経済的距離は、時間的隔たりである。それは、単位期間に対する貨幣の回転数として現れる。

 経済量の総量は、通貨量×回転数である。

 運動は、変位、速度、加速度によって表現できる。
 変位、速度、加速度は、時間と距離の関数である。
 距離とは、物理的空間の距離のみを指すわけではなく。量的な隔たり、幅を言う。物理的空間以外の距離には、価格、仕事、熱等がある。

 静止した状態とは、時間が陰に作用している状態を言う。

 速度は、連続した外延量である。
 貨幣的距離は、貨幣単位×数量によって求められる。
 金利は貨幣単位における加速度である。

 等速運動時において基本となる速度と加速時において基本となる速度は次元を異にしている。掛け算は、次元を変換する。

 運動の型には、第一に、放物線運動型、第二に、終端速度型、第三に、単振動型の三つがある。
 そして、これらの運動の背後には、直線運動と円運動が隠されている。

 時間は、数列である。複数の時間の数列は、構造を形成する。
 拍子。旋律。和音。
 音楽は、音と時間の数列が醸し出す構造と調和である。
 
 時は金なり。
 「お金」即ち、表象貨幣は、無次元の量である。実体はない。

 貨幣価値は、観念の所産である。観念は認識によって生じる。つまり、貨幣価値は、認識上に派生する価値である。

 自己は、認識主体であると伴に、間接的認識対象である。故に、認識上必要性から作用反作用が生じる。自己を対象に写像し、その写像を認識する事によって間接的に自己の意識を人間は知るのである。

 その媒介として貨幣が生じる。いわば貨幣は鏡である。貨幣空間と現実の空間は、鏡像対象の関係にある。貨幣は、無次元の数値である。実体はない。実体がないことによって貨幣は機能する。貨幣が実体を持つと、経済は歪む。なぜならば、貨幣は、経済の実体を写し出す鏡だからである。鏡に意志はない。
 鏡が歪めば、経済も歪んでしまう。それは、実体の問題ではなく。鏡の問題である。

経済は仕組みによって決まる。


 経済は仕組みが重要である。経済の仕組みは人工的仕組みである。人工的仕組みは設計が必要である。経済の仕組みは、目的にそって設計される。経済の仕組みには目的がある。経済の仕組みは合目的的な仕組みである。それなのに、現代の経済の仕組みは、目的を明らかにされていない。
 目的に変わってあるのは、神の意志といった曖昧な概念にすぎない。経済は、人間の営みである。それは人為の世界である。人為の世界の過ちを神の責に帰すのは怖れ多いことである。それでは人間は救われない。神事は神に、人事は人に帰すべきである。
 飛行機は、速度だけを目的としているわけではない。飛行機が速度だけを追求していたら、今日のような飛行機産業の発展はないであろう。
 経済の目的は、人を生かすことにある。現代の経済体制は、無目的である。ただ、速度だけを追求する飛行機のような設計しかされていない。だから住み難いのである。
 
 市場経済の基盤を構成する法則は、会計に基づいている。故に、会計の根本理念を明らかにしないと市場の仕組みは解明できない。ところが、今の会計に対する議論は、最初に会計ありきという前提に基づいている。それ故に、会計が学問として確立されず、単なる技術論に堕している。しかし、会計は、経済に対する歴とした一つの思想であり、又、今日の市場経済の論理の骨格を成す理念である。故に、その根本思想や哲学から論を起こす必要があるのである。そうしないと市場の仕組みがどの様な原理によって構成されているかが明らかにならないのである。

 物流と貨幣の流れは、反対方向に流れる。それが、経済の作用反作用を起こす。即ち、物の流れと貨幣の流れは、反対方向の働きを持つ。
 物の正の働きに対して、貨幣は、負の働きをする。それが債権、債務、貸し借りの形として現れる。
 貨幣の発行には必ず負の働きが伴う。即ち、貨幣の発行は、何等かの公的債務を発生させる。それは、貨幣の働きは、債権を発生させるからである。公的債務が生じると言う事は、公的債権が生じることでもある。
 即ち、貨幣の運動によって同量の債権と債務が発生する。債権と債務は決済によって解消される。
 負の働きは、貨幣の働きを有効にするために不可欠な働きであり、悪質な働きではない。

 貨幣の流れる方向は、負の部分の働きに負うところが大きい。負の部分というのは、資金の調達と回収に深く関わっているからである。負の部分の働きを解析しない限り、資金の流れる方向や力を明らかにすることはできない。負を文字通り、消極的な働き、又、否定的な働きとばかり考えていたら、貨幣の持つ働きや力を積極的に、肯定的に活用することは不可能である。
 負債の働きを規制する要素は、長期、短期という周期と流動性である。

 国債を公的な負債だけだと見ると間違う。国債は、公的債権も同時に生み出しているのである。それが貨幣発行益である。貨幣発行益の働きを明らかにしなければ、貨幣制度の働きの全貌を理解することは出来にない。国家の長期的資金需要の多くは、税収ではなく。貨幣発行に伴って発生する貨幣発行益(シニョレッジ)によってもたらされている。

 硬貨を発行する場合、金貨と銅貨どちらが儲かるか。それは銅貨である。銅貨の方が材料費が安いからである。ならば紙幣と金貨では銅貨。紙幣は発行した時に莫大な利益が生じる。即ち、それが公的債権なのである。この公的債権と公的債務が同時に発生していることを忘れてはならない。税収というのは、この公的債務と債権の回収に他ならないのである。そして、税収と公共投資とは区別して考える必要がある。回収した資金の中からどれだけ再投資すべきかの問題である。問題なのは、公的債権、債務をどの水準に収束させるかなのである。

 貨幣経済は、貨幣によって正の働きと負の働きがある。貨幣経済は、その均衡と調和によって保たれる。貨幣経済の均衡を保つのは、市場の働きである。市場は取引によって成り立っている。故に、取引は均衡する。

 取引が均衡するから、複式簿記上の借方、貸方も均衡する。

 単位貨幣間の関係は表裏をなす。即ち、為替の問題は、単位貨幣の濃度の問題である。
 
 現代の経済は、時間が重要な要素の一つになっている。経済は時間の関数だとも言える。時間の経過に伴ってどの様にして価値が形成されていくかが重要となるのである。

: 貨幣経済体制下において、経済状態を決定付けるのは経済の仕組みである。故に、経済状態を一定に保つためには、人が経済状態を制御できる経済の仕組みを構築した上で、経済の仕組みを操作する必要がある。

 市場規制する法の目的、根拠は、市場の機能から導き出されるものであり、個人の倫理観から導き出せる性格のものではない。


期間損益主義と現金主義


 
 現金主義というのは。基本的に現金の動き、出納を基本とした会計思想である。

 資金の流れには、投資に関する流れ、金融に関する流れ、日常活動に関する流れの三つの流れがあり、収入と支出、貸しと借りの間を循環している。そして、資金は、基本的に残高が問題となるのである。
 資金の流れという観点から経済では、プラスかマイナスかというとらえ方ではなく。貸しか借りか、収入か支出かという観点で計算し、尚且つ、自然数で残高を有無と多寡を計測するのが原則である。

 投資は物の効能を形成し、財務は金の価値を構成し、日々の活動は、人の効用を構成する。これら人、物、金の働きを結びつけるのは、経済主体間のお金の交換、個々の経済主体から見るとお金の出入り、出納である。

 期間損益は、現金の出納を土台にして、その上に、一定期間の生産手段、生産、効果、費用の関係をお金の単位で表したものである。

 ただ、お金の出入りだけでお金の効能は明らかにならない。そこで、一定期間でお金の効能を測定するために設定されたのが損益である。

 元手で仕入れた物を売って稼いだ現金の中から次の日の仕入の金を残して、生活に必要な物を買うためのお金を抜く。その日暮らしの繰り返しが一般的だった。
 10万円で仕入れて8万円の売れ上げがあったとする。その日の生活費として2万円使ったら、6万円を次の日の仕入に使うという生活である。一日一日の現金残高が基本となるのである。

 方程式を成り立たせている値を根という。全ての根の集まりを解という。(「数と計算のはなし1(代数編)」武藤 徹著 日本評論社)
 現金残高の推移を追跡しただけでは、水面下の未知数である根を導き出すことは難しい。

 会計は、期間損益主義であるのに対し、家計と財政は、現金主義である。
 故に、企業会計と家計、財政は、制度的連続性がない。そこが問題なのである。
 なぜ、家計や財政が期間損益主義、或いは、会計の対象になりにくいのかというと、技術的問題もあるが、それ以前に、企業を構成する対象は、原則として取引を経由したことになっているのに対し、家計や財政の対象となる物が全て市場取引を経由して成立しているわけではない点がある。
 この事は、会計の性格をよく象徴している。会計は、取引を前提として成り立っているのである。

 資本主義は、会計上の概念である資本を基礎とした思想である。この点に資本主義を難しくしている要因がある。資本主義を理解するためには、会計の根幹となる思想を理解する必要がある。そして、会計の根幹となる思想の一つが期間損益主義である。

 この事から解るのは、資本主義とは、取引を前提として成立しているという事である。

 民間の債務の性格と公共の債務の性格のどこが違うのか。それは、期間損益主義と現金主義の違いによるのである。期間損益主義と現金主義の違いがリカしされていないと民間の債務と公共の債務の違いは理解できない。
 期間損益では、短期的債務と長期的債務の区分が重要なのに対し、現金主義においては、短期的債務と長期的債務が未区分なのである。それが決定的な差をもたらす。

 忘れてはならないのは、会計制度を下敷きにした市場経済における、あらゆる債務は、国債といえ、企業の借り入れといえ、住宅ローンといえ収入に基づいて決済されるという事である。
 肝腎なのは、、適正に収入が確保されているかどうかである。債務の返済に充てられる部分の収入が適正か、否かは、期間損益による。期間損益上、収入に相当する部分は、収益である。故に、適正な収入が維持されるような損益構造、市場の仕組み、収益構造が求められるのである。

 収入と収益の決定的な違いは、収入の手段は、現金を獲得手段でもあり。現金を獲得する手段には、働くか、売るか、借りるかである。それに対して、収益は、働くか、売るかは含まれるが借りるという手段は除かれているのである。それは、収益の概念が資金の費用対効果の測定を目的とした上に成り立っているからである。

 資金の流れは、貸借上に止まっている限り、その効力は、発揮されない。収益に還元され、費用に転換されることによって、はじめて、交換という機能を発揮し、分配という役割、働きを果たすことが可能となるのである。

 大前提は、第一に、全ての部門を正とすることも、全ての部門を負とすることもできないと言う事、第二に、全ての国を黒字にすることも、全ての国を赤字にすることもできない。第三に、正と負は、空間的に均衡しているという事である。
 即ち、経済の問題は構造的なのである。

 結局どの部門を正とし、負として調整するかの問題であり、そして、全体の振幅幅をどの程度に抑えるかの問題なのである。負債が是か、否かの問題ではない。

 自国が国際市場の中で、時間的に空間的にどの部位をとるかの問題である。
 各国が、無理矢理自分だけが優位な立場をとろうとすれば、戦争になる。

 国家の借金は、駄目。民営企業の利益は、搾取だ。金は使っては駄目。費用は限りなく少なくする事。貯蓄をすることは善である。競争は、不可侵の原理で規制は悪だから全て撤廃すべきだ。公共投資は何が何でも駄目と決め付けている限り景気は良くならない。

 経済を構成する部門は、家計、企業、政府、海外に区分できる。そして、資金を投入する部門によっても経済効果は違ってくる。
 個々の部門を構成する会計的分野は、負債、資本、収益、資産、費用の五つの分野である。資金を注入する部門は、これら五つの分野の他に資金繰りがある。資金繰りとは、資金の流れを意味し、資金繰りに資金を注入するというのは、資金の流れに直接資金を投入することである。

 資金を注入する部位には、負債、資本、収益、資産、費用、資金繰りの別がある。そして、どの部分に資金を注入するかによって効果にも違いが生じる。
 例えば、負債に資金を投入すると効果は、間接的で、効果が効いてくるに時間がかかるが、反面、効果が現れる範囲は、広範囲に亘る。それに対し、収益や費用に直接、資金を注入した場合は、効果は、直接的で即効性はあるが効果が及ぶ範囲は限定的なものになる。されに資金繰りに補填した場合、応急的な処置としては効果が期待されるが、損益には影響が現れず。効果はその場しのぎになりやすい。

 資金繰りに直接資金を注入するのは、あくまでも、応急的処理であり、劇的な効果が期待できる反面、副作用も大きい。連用、多用すると中毒になる。

 家計、企業、政府、海外の各部門に資金を配分する働きをするのは、費用と利益である。費用は、消費に直結し、利益は資本の一部を形成する。費用は付加価値であり、その付加価値の原資は収益に求められる。収益の規模が、付加価値の規模を制約する。故に、適正な配分を行うためには、一定の収益が確保されなければならない。景気が良くならないのは、安定的で、適正な収益と所得が獲得できないからである。

 費用は付加価値によって構成され、消費されることによって、所得に転化される。総生産は、付加価値によって、構成される。総生産は、総所得と総支出と表裏をなす。それが意味するところをを考えると費用の働きが明らかになる。

 又、有効需要は、良質な消費に裏付けられてこそ、効果を発揮する。無意味な公共投資や国費のバラマキによる効果は一時的、且つ、限定的で終わる。乱開発は、環境破壊しかもたらさない。

 返す当てのない借金、利益の蓄積のない資本、収益に結びつかない資産、実現できない収益、収益に結びつかない費用は単なる無駄遣いである。

 そして、費用は、消費を意味している。経済行為は、消費される事によって完結する。

 だからこそ、消費の在り方から経済を見直す必要がある。
 豊かさも、貧しさも、消費の質によって決まる。物が不足するのも貧しさの原因だが、物が豊富にあったとしても消費の質が悪ければ貧しい事に変わりはない。物が豊富であればあるほど貧しさが際立つものである。
 物資的に恵まれているという日本で、孤独死、無縁死する人達が跡を絶たない。中には、餓死する者までいる。これは日本の社会の貧しさを象徴した出来事である。

 個々の部門に資金を投入する場合、個々の部門のどこのに資金を投入するかが、重要となる。
 例えば、家計における負債に注入する手段は、住宅ローンに対する減税、収益ならば、子供手当や年金と言った手当、費用ならば、扶養者控除といった税制上の優遇処置と言った事が考えられる。
 企業ならば、収益に対して公共投資や減税、或いは、状況に合わせて規制を強化したり緩和する事である。資金繰りに対しては補助金等がある。
 政府機関ならば、収益に対して増税、費用に関しては、公共投資の削減、行政改革、給付金の削減、資金繰りに関しては国債の発行などがある。
 海外には、負債には、資金の貸与があり、資金的には、海外援助、投資などがある。貿易収支を調整するためには、関税がある。資金の流出入を制御するのは金利差である。貿易収支と資本収支が為替を変動させる。

 注意しなければならないのは、資金の働きには、必ず、双方向の作用があるという事である。
 しかも、双方向の働きは、家計、企業、政府、海外の部門に対する働きと、負債、資本、収益、資産、費用の分野に対する働きがある。

 例えば、子供手当は、家計の所得に対する正の働きと政府の費用に対する負の働きがある。国債の発行は、中央銀行の資産と負債を増やすと同時に、政府の資産と負債を増やす働きがある。

 エコポイントは、省エネルギーを促進し、もって、企業収益を増加する目的で施行する施策であるが、家計の費用を減らし、政府の費用を増やす効果がある。資金は、政府から出て、企業に補填される。この資金の経路は、企業収益を上昇させ、家計の負担を軽減させる反面、政府の支出を増大させる。その財源をどこに求めるかによって財政や通貨政策に影響を与える。

 家計、企業、政府、海外各部門の正負を決めるためには、資金源がどの部門かが重要となる。
 所謂(いわゆる)、失業保険、年金、子供手当と言った給付金の問題点は、本質が不労所得であり、その資金源が政府機関であるために、財政の負担を増大させる点にある。

 景気対策を施行する場合は、資金の出所と向かう先が鍵となる。市場を拡大する目的で投入した資金も返済に向けられればかえって市場を縮小してしまう。

 資金の源は、中央銀行である。施策の資金源は、政府、企業、家計、海外の四つの部門のいずれかにある。政策に基づいて資金を導入する場合は、突き詰めると、どの経路を使って資金を流すかの問題となる。

 財政を抑制する必要性は、国債の発行が通貨の発行量に直接影響するからである。

 国債残高の水準は、通貨供給量(ベースマネー)、通貨残高(マネーストック)に反映する。又、通貨の価値は、国債残高を担保する事によって維持されている。

 国営事業を民営化すれば、資金源を政府から民間の金融機関や市場に置き換えることが可能となる。資金源を民間に置き換えることで、政府財政の負担を軽減することができる。その上、資本を市場に公開することによって株の売却益を得ることができるのである。

 公的部門が儲けてはいけない、即ち、利益をあげてはいけないという発想も改める必要がある。それこそが財政赤字の根本的原因の一つでもあるからである。儲ける事、利益をあげる事は、悪い事ではない。
 政府が事業収益をあげることは、民間市場から資金を調達することを意味する。しかも、反対給付に対する対価としてである。この双方向の働きが重要なのである。

 税は、現金主義に基づくか期間損益に基づくかによって体系が違ってくる。
 現金主義に則った場合、どの局面にどの様に、どの程度かけるかによって効果が違ってくる。
 同様に、期間損益主義に基づく場合は、負債、資本、収益、資産、費用のどの局面に、どれだけ税を課すかが重要となる。

 又、期間損益は、投資と消費とを区分する。投資は、資産に、消費は、費用に仕訳される。

 税の資金の流れは、基本的に、所得税も消費税も民間から政府機関への流れである。現行の税制度は、現金主義を基盤としている。ただ、法人税だけは、期間損益主義に基づいている。
 税の働きは、資金の流れを変えることで所得の再配分をすることにある。

 ただいずれの場合でも収益は、中心的役割を果たす。収益に一旦還元されなければ経済行為は表に現れてこないからである。

 過当競争を放置し、不必要に競争を煽ったり、規制をなくして市場の規律を保てなくしたり、会計制度や税制度をいじくり廻して借金返済の原資を奪い取ったり、収益に反映しない金を補助したりして適正な利益や収益が上がらないようにしておいて、財政が破綻した、会社が倒産した、個人破産したと嘆いてもはじまらないのである。

 営利事業ならばとっくに潰れているような公共事業がなぜ存続しているのか。それは資金が廻っているからである。なぜ、民営化すると破綻した公共事業でも再生することが可能なのか。それは期間損益主義を導入するからである。そこに現金主義と期間損益主義の秘密が隠されている。又、現金主義と期間損益主義の違いは、家計、財政と企業会計の違いでもある。

 期間損益は会計的概念である。会計思想には、期間損益主義と現金主義がある。

 自由主義経済を考察する場合には、期間損益主義の視座の二つの視座からの見解が必要とされる。

 現金主義的立場で欠けているのは、費用対効果の計測、測定である。それが公共事業と営利事業の決定的な違いである。つまり、収益と費用とを直接結び付けて評価することが困難なのである。

 又、現金主義は、数値を絶対的数値として認識する事が前提となるが、期間損益主義では、数値を内包数、相対数として認識する事を原則とする。

 本来、経済規模や財政規模、市場規模を絶対額で捉えてると経済や財政の本質を見誤る危険性がある。経済も財政も拡大縮小と言った変動しているのである。経済規模や財政規模、市場規模を表す値は、外延数でも、絶対的な値でもなく、内包数であり、相対的な値なのである。
 企業経営も同様であるが、前提や産業の仕組み、企業構造、歴史的背景、市場の仕組みなどの前提によっても違い、借入限度は、何%が妥当と言った形で一様に決められる基準ではない。
 何十年と言わず、何年の前の物価や経済的数値を土台にして今日の数字を捉えようとすると錯覚を起こす。自分が十代の頃の千円の価値と六十近くなった今の千円の価値はまったく違うのである。財政規模も同じである。三十年前の財政規模と今の財政規模と三十年後の財政規模を同額で捉える程、愚かなことはない。問題なのは、時間とと伴に累乗的に拡大する数値の規模をどう調整するかなのである。そこでデノミという操作が必要とされるのである。

 投資の対極には、負債があり。経常収支の対極には、資本収支があり、公共投資の対極には、財政収支がある。これらの要素を均衡させるためには、短期、長期の時間的構造によらなければならない。
 その為にも現金主義と損益主義の二つの視座が必要とされるのである。

 財政は、民間の基準である期間損益に基づいておらず、現金主義に基づいている。その為に、会計と財政との制度的整合性はとられていない。
 会計上の規律が財政上に於いて守られないのは、財政が会計制度に従っていないからである。
 民間に於いて不正と見なされる行為も財政に於いては不正とは見なされない。民間企業が破産すれば、責任を問われるのに対して、財政や公益事業に於いて破綻しても責任を問われることはない。それは、公益事業は、営利を目的としていないと言う理由である。しかし、これは欺瞞である。公益事業でも働く者は事業によって報酬を得ているのである。

 これまで資本主義経済は、都合良く現金主義と損益主義を使い分けてきた。それが混乱を引き起こす原因となっているのである。

 民間企業と政府との決定的違いは、権力の有無である。
 民間企業では犯罪になることでも、政府がやれば犯罪どころか、功労者になる。結局、財政の規律が保ちにくいのは、外部から監視が公益事業には利きにくいからである。財政も監査されてしかるべきであり、又、経営責任も問われるべきなのである。

 期間損益というのは貸し手の必要性から生まれたものである。使い手が必要としているのは、現金収支、即ち、現金主義である。事業は、金さえ廻れば存続可能なのである。そこに落とし穴が潜んでいる。

 現金主義は、期間という概念に拘束されていない。なぜならば、期間によって数値が変わるような勘定科目を設定する必要がないからである。
 取引の都度、現金の出納を記録すればいいのである。それが単式簿記である。単式簿記の基本は、現金出納帳である。
 単位期間と言っても、単に一定は期間における現金残高を計算するための目安に過ぎない。
 それに対し、期間損益では、期間は、あらゆる勘定の基礎となる単位である。それは、期間によって勘定科目の性格が異なってくるからである。この点を理解しないと現在の資本主義やや自由主義経済を理解することはできない。

 経済は拡大均衡と縮小均衡を繰り返す。拡大均衡だけを前提とすれば財政が破綻するのは必然的な帰結である。
 拡大均衡と縮小均衡は、一定の波動となる。波動には、短期の周期の波動と中期、長期の波動がある。

 経済変動、即ち、インフレーションやデフレーションは、時間価値の変動によって引き起こされる。時間価値を構成する要素は、金利、所得、物価、地価等がある。時間価値の働き、長期、短期によって差がある。また、社会全体に一様に働く作用と社会を構成する要素に個別に働く作用がある。
 例えば金利は、社会全般に一様にかかる。それに対して、所得は、個人所得に及ぼす影響以外に、雇用等及ぼす影響がある。また、物価は、財によって時間価値の変動に差が生じる。
 時間価値がどの様な作用を社会や個々の要素に及ぼすかを考慮して経済政策は立てられる必要がある。

 現代経済は、変化を前提としている。変化とは動きである。動きによって個の位置を絶えず調整することによって現代経済は、成立している。変化がなくなれば、社会全体が硬直化し、環境や状況の変化に対応できなくなる。そして、現代の市場経済は、市場の拡大、成長、発展、上昇を前提としている。なぜならば、費用が下方硬直的だからである。
 現代の日本はゼロ金利時代が長く続いている。ゼロ金利時代が長く続くと、時間価値が作用しなくなる。金利はゼロでも、生活にかかる経費は、上昇する。人件費も上昇する。それは、家計や企業利益を圧迫し、景気の頭を抑える。財政赤字における一番の問題は、国債の残高が蓄積されは、金利を硬直的にすることにある。

 期間損益主義とは、現金主義に時間軸を加えることによって成り立っているとも言える。

 期間損益とは、人、物、金という座標軸が作り出す経済的空間に時間軸を加える事によって形成される空間を基盤としている。単位期間内の構造と単位期間と長期期間とが作り出す時間構造によって経済現象を解明し、又制御していこうという思想が期間損益主義である。

 今の経済の最大の問題点は、非常、臨時、一時的、或いは、変動、変革、不確実、不定期、拡大、成長といった変化の上に立脚しているという点にある。砂上の楼閣なのである。変化の上に立脚しているからこそ不安定であり、不確かであり、不安なのである。それは、当然の帰結である。

 短期的な均衡を求めても自ずと限界がある。それを考えると財政の単年度均衡主義を放棄すべきなのである。経済的均衡は、短期、長期の時間構造の中で調節されるべきなのである。
 その為には、単位期間における損益構造と短期、長期における現金の流れの時間構造の両面から財政を検討する必要がある。

 なぜ、現金収支だけでは限界があり、期間損益を併用する必要があるのか、それは、現金収支だけでは効用が解らないからである。言い替えると期間損益は、費用対効果を測定し、それに逢わせて資金を供給することが目的なのである。単純に利益を上げるための指標を作ることが目的なのではない。



期間とは思想である。


 期間というのは、一種の思想である。自明なものではない。
 時間価値は、期間が定まることによって成立する。一定の時間の長さで区切って価値を特定する。
 時間は連続量である。数量は連続量である。貨幣は分離量である。
 時間も数量も外延量であり、貨幣は内包量である。
 期間は、始点と終点を前提とする。

 時間は、連続量であり、時刻は、分離量である。
 時間は外延的であり、時刻は内包的である。
 損益は時間により、貸借は、時刻による。
 時間を時刻で切断としたのが、期間損益である。

 会計空間は、ベクトル空間である。即ち、会計運動は、量と方向性があり、初期条件、初期の位置が重要な働きをする。

 会計は、代数和の世界である。そして、同類項をまとめる事によって成り立っている。
 会計は、残高主義、加算主義である。

 会計は、時間の関数の関数である。
 期間は、時間の単位である。

 期間損益における成果を測る基準には、利子と利益の二つ在り方がある。
 利益というのは、分け前、分配を意味する。
 金利とは、時間的価値を意味する。

 金利と利益の力関係によって資金の流れ方向は変わる。金利の力が強ければ、資金は回収の側に、即ち、返済の側に流れ、利益の力が強ければ、資金は、投資の側に流れる。
 なぜならば、金利は、負債が費用に転じる過程で生じ、利益は、資産が収益に転じる過程で生じるからである。
 その意味で金利と利益の力関係を見極めることは、景気対策を立てる上で決定的な要因となる。

 単位期間を設定することによって時間の働きを陰にすることができる。
 時間が陰に作用した場合、金利の働きは単利となり、陽に作用すると福利になる。

 会計は、経営主体に対する入力と出力からなる。
 経営主体には、領域があり、境界線を境にして内と外に分かれる。
 経営主体は、取引を通じて経済活動をする。経営主体が行う取引には、内部取引と外部取引がある。
 内部取引は、内部に対して対称であり、外部取引は、外部に対して対称である。そして、内部取引と外部取引は常に会計上均衡している。
 内部取引と外部取引とは、鏡像対称関係にある。この様な鏡像対称によって複式簿記に表される取引の作用反作用の関係が成立する。

 経営主体は、人的な場、物的場、貨幣的場が階層的に重なっている。そして、それぞれの場は、人的構造、物的構造、貨幣的構造を形成する。
 経済の実体は、生産、在庫、消費の均衡をとることであり、又、労働と分配を結び付けることである。その仲介をするのが貨幣であり、その意味で貨幣は重要なのである。

損益と貸借を区分するのは単位期間である。


 損益と貸借を区分する基準は単位時間である。

 期間損益は、貨幣の長期的働きと短期的働きを区分したものである。

 長期と短期の区分によって期間損益主義は成り立っている。区分の基準は単位期間である。
 長期的資金の働きは、債権と債務を形成し、短期的資金の流れは、収益と費用を成立させる。実際の経済単位の働きは資金の収支によって動かされる。経済単位の働きは、労働と分配である。
 貨幣は、資源化されることによって資金となる。
 経済上計上される貨幣価値の量と市場に流通する資金の量とは一致しない。

 長期的な働きは、ストックを形成し、短期的な資金の運動は、フローとなる。長期的働きと、短期的運動は、必ずしも一致した動きをするとは限らない。それぞれが独自の働きや動きをする。その働きや動きの意味を読み違うと適切な対応ができなくなる。

 バブルという現象は、フローの部分は、通常の動きをしているのに対してストックの部分が異常に高騰している現象である。ストックの中でも、不動産や金融資産の部分に顕著に現れる場合が多い。また、特定の部分だけに現れることもある。ストックの部分とフローの部分が乖離することによって不整合、不安定な状態になり、格差が広がって景気が暴走し、制御不能に陥るのである。

 物価の上昇局面では、負債は、軽減される方向に、資産には負荷がかかるように働き。物価の下降局面では、負債の負担は重くなり、資産の流動性は高まる。

 資産は、生産手段、貨幣は交換手段、所得は、分配手段である。投資は、資産に関わる資金の流れを形成し、貨幣は、財務に関わる資金の流れを形成し、所得は、分配に関わる資金の流れを形成する。

 生産には、生産手段と原材料と労力が必要となる。生産手段は、初期に投資が集中し、操業が始まると潜在的な費用になる。原材料と労力は、短期的な支出を形成する。実際の支出は、支払方法に関わる。この様な事情によって資金には、短期的働きと長期的働きに差が生じる。

 即ち、経営主体に対する資金の働きには、長期的周期の働きと短期的周期の働きがある。

 長期的な場というのは、必ずしも現金の動きを伴っているとは限らない。過去の現金取引の名残や返済義務のような部分が多分に含まれている。それらが、債権や債務を形成し、資金の流れる方向を決定付けている。

 現金収支は、現実の資金の動きを記録したものであり、資金繰りは、資金の過不足を管理するための帳票である。

 資金の実際の動きを知りたければ試算表を解析した方が手っ取り早い。

 期間損益というのは、費用対効果の関係を明確にすることによって資金の流れを円滑にする目的によって形成された。故に、期間損益を真に有効たらしめるためには、貨幣の流れる方向と損益の関係を明らかにする必要がある。
 その為に、近年キャッシュフローが重視されてきたのである。しかし、現状を見るとキャッシュフローを明らかにすることの本当の意義が理解されているわけではなさそうである。それがキャッシュフロー万能の様な誤解や、又、現金収支、資金繰りとキャッシュフロートを混同する様な混乱を招いている。

 キャッシュフローを重視するのは解るが、キャッシュフローが悪いからと言って資金の供給を止めることは、血行が悪いと言って止血するようなもので、収益を改善するどころか瀕死の病人にとどめを刺す行為に等しい。それは、過失ではなく。犯罪である。

 キャッシュフローというのは、資金の働きによって資金の流れを分類したものである。
 資金の働きをキャッシュフローは、営業と投資と財務キャッシュフローに分類する。

 投資はキャッシュフロー、生産手段に対して支払われる資金の流れである。
 財務キャッシュフローが表すのは、取引や経営に必要な資金の調達と貯蔵、そして、返済(回収)として活用される資金の流れである。
 営業は、労働と分配に対する資金の流れである。

 投資は、基本的に長期的資金の流れを表す。又、財務は、中期的資金の流れを表し、営業キャッシュフローは、短期的な資金の流れを表す。

 投資や財務と言った長中期的資金の流れは、会計では、損益上に表されない仕組みになっている。しかし、これら長期的資金の流れは、経済の底流の資金の流れる方向を決定付けている。

減価償却の働き


 経済の表面に表れない、所謂、根資金とも言える長期資金の流れをどう扱うかが、経済政策を立案する上で鍵となる。
 資本主義というのは、その根資金を資本化することによって成立したのである。

 減価償却は、期間損益と現金主義、即ち、資金の流れとを変換する操作に深く関わっている。減価償却の有り様一つで利益の額は大きく左右される。そして、それは資金の流れにも重大な影響を与えるのである。

 償却資産というのは、時間の経過と伴に、減価する資産を言う。将来費用に転化する資産を指す。償却資産というのは、費用の塊と言える。
 それに対して、土地は減価しないとみなされる。それが土地という資産の会計的特徴である。
 償却資産の裏にあるのは、長期借入金の返済である。償却資産は、減価償却として費用化することによって長期借入金の返済額に対応できる。しかし、土地を借入金で購入した場合、土地は、減価償却の対象とならないために、借入金の返済額に充当できる科目がない。故に、企業は、利益の中から返済資金を捻出するか、土地を担保にして新たな資金を借入金によって調達せざるを得ないのである。担保とする土地の値が上昇している時は、良いが、一度下落に転じると忽ち資金不足に陥ることになる。

 家計における償却は、企業における減価償却と若干働きが違う。ただ根本は同じである。
 仮に、耐用年数、寿命が三十年の土地付き住宅を購入する事を想定してみる。耐久年数が三十年という事は住宅の効用は、三十年継続しているとみなされる。不動産の耐久年数は、会計的には永続的なものとしてみなされている。
 それに対して、支出は、購入時に一括的に発生する。それをローンを組んで借入金で賄えば、ローンの期間中一定額の支出が継続的に発生することになる。ローンの中には、土地代金も含まれている。また、ローンは、所得から返済されることになる。
 そして、借入金による長期的支出が長期的な資金の流れをつくるのである。

 この様な事象を会計に置き換えると土地付き建物が資産となり、ローンが負債を形成する。又、長期にわたる建物の効用が償却費の素となる。所得は収益を形成する。

 効用と資金の流れとの間にある非対称性が色々な問題を引き起こす。問題を引き起こす反面において、利益の根源にもなっているのである。

 減価償却費も借入金の返済計画は、有限数列である。減価償却費や借入金の返済は、計画数列の典型である。

 経営の実体と減価償却との関係を明らかにしようとした場合、減価償却の数列と、借入金の返済、収益構造、資産構造と言った他の数列との相関関係を明らかにする必要がある。

 例えば、減価償却に関わる科目には、利益、納税額、借入金の元本の返済額、更新資金、保守修繕費、保険料等があるが、それらの科目のどの部分が減価償却費とどの様な関わりがあり、どの様な働きがあるかを知る事である。

 減価償却の計算方法には、第一に年数法、第二に、比例法がある。第一の年数法には、定額法と定率法の二つがある。定率法は、第一に、逓減法、第二に、逓増法からなる。更に、逓減法は、定率法と級数法がある。そして、逓増法は、償却基金法を言う。比例法には、生産高比例法と時間比例法などがある。

 この様に、減価償却の手段は多様であり、その選択は恣意的である。

 減価償却は何に基づくかは、目的によって違ってくる。減価償却費の設定は、会計上の目的から生じている。会計上の目的とは、投資家や債権者に対する説明責任である。投資家や債権者は、現金収支だけでは経営の実態が把握しにくい為に、期間利益を計算することを求めたのである。しかし、その結果、利益だけが重視されるようになった。

 赤字、即ち、損失が発生した時、問題は、利益を上げられない原因なのである。その原因が一時的現象に依拠しているのか、構造的な問題なのかで、処方箋も違ってくる。黒字か、赤字かが重要なのではない。問題は、病根なのである。殺すことではなく。生かすことを考えるべきなのである。重要なのは、事業を継続すべきか、否かの判断である。その場合、単に、会計上に表れた数字だけでなく。その経営主体が果たしている社会的責任、例えば、事業が果たしているの社会的役割や雇用などの質的な問題も勘案する必要がある。

 減価償却費は、期間損益を計算する上での前提となる科目である。故に、減価償却費は期間損益を計算する目的や動機から設定されるべきものである。
 しかし、現実には、決算対策として利用されている場合が多い。つまり、利益を出すための方便に減価償却の計算方法が使われるのが実情である。
 その結果、期間損益の目的が見失われがちになっている。

 減価償却の計算方法というのは、期間損益を計算する上で根幹となる部分である。故に、減価償却の計算方法は、期間損益に対して決定的な働きをする。

 ところがその計算方法が実際にはご都合主義によって決められている。それが問題なのである。選択肢を与えることの是非の前に、その根拠が曖昧なのである。しかも、その様に重要な決定が無作為にされるといることが問題なのである。
 その結果に、期間損益の意義が失われつつある。利益を算出されることが優先され、損益の原因がおざなりにされているのである。その為に、外見だけ取り繕って問題は先送りされる傾向が強くなっている。

 減価償却の計算方法は、期間損益を計算する意義に関わる問題である。つまり、期間損益の本質を表している。故に、減価償却の実体は、現在の自由経済の実体を現しているとも言える。
 どの様な計算方法が妥当なのかではなく。なぜ、その計算方法を選択したかの動機が問題のである。

 経営実績が悪化した時、重要なのは、経営者の倫理や技術、知識不足、経験不足といった経営上の問題なのか、為替や原油価格の高騰、物価、地価の下落と言った経済環境、状況の問題なのか、過当競争や市場の過飽和、商品のライフサイクル、人件費の内外格差と言った構造的問題が潜んでいるかである。

利益とは、権利である。


 社会的に貢献している事が認められている企業や産業は、利益をあげる権利がある。
 問題とされるべき部分があるとしたら過剰利益である。しかし、過剰だけが問題とされるのではなく、不足しているのも問題なのである。況や損失は重大な問題である。
 又、過不足が問題となるのは、利益だけではない。資金の過剰、即ち、過剰流動性も、また、物余り、即ち、過剰生産、人余り、余剰人員、過剰労働力、逆に労働力不足も、そして、過剰徴税も問題なのである。

 デフレーションとは、物余りの状態を意味する。つまり、過剰生産がもたらした状態である。

 全ての人間が生産者や労働者になれるとはかぎらない。しかし、全ての人間は消費者である。必要な物資を消費しなければ人間は生きられないのである。
 この生産と消費、労働と消費の間にある非対称性が問題となるのである。生きる為には、消費しなければならない。消費するためには、貨幣経済では、何等かの所得が必要なのである。その所得を得るためには、労働に従事する必要があるが、全ての人間が労働に従事することは不可能である。この生産と消費、労働と消費にある不均衡が、労働力不足や過剰労働力の原因となるのである。

 問題は、この不足と過剰とを均衡することである。不足と過剰とは、偏りによって生じる。この偏りには、空間的時間的な歪みによって生じる。この歪みを調整する目安として利益があるのである。

 利益を考察する上で問題となるのは、空間的、時間的歪みによって生じる非対称性である。例えば、収益と費用の非対称性、収入と支出の非対称性、収益と収入の非対称性、費用と支出の非対称性、資金と効用の非対称性、名目的価値と実質的価値の非対称性等の非対称性が、経済や経営に深刻な影響を与えるのである。

 利益の重大な役割の一つがこの非対称性の解消である。

 例えば、効用と資金の流れの間には非対称性がある。それが減価償却の根拠になる。非対称だから現金主義と期間損益主義の経済効果を測るためには、分かたざるをえなくなったのである。
 効用と資金の流れの間にある非対称性は、利益の素である。効用と資金との間にある乖離が費用対効果を測定するための動機になっている。そして、費用対効果を測定した結果が利益なのである。
 効用と資金の流れに乖離があるから、収支を平均化する必要性がでくる。その結果が費用対効果の測定なのである。

 効用と資金、収入と支出、収益と費用、収入と収益、支出と費用の間にある非対称性、不均衡を解消するために、利益はあるのである。

 長期的資金の流れと短期的資金の流れは相互に関連しながら独自の働きを形成している。長期的資金と短期的資金で大切なのは均衡である。短期的利益のみを追求し出すと長期的資金に変調をきたす。利益は、効用と資金、収益と費用、収入と収益、支出と費用を均衡する事を目的としているのである。

 経済的価値は、質と量から成る。
 経済の発展段階では、量が重視され、経済が成熟するに従って質が重視されるようになる。つまり、経済は、発展するのに従って量から質へと重点が移動していくのである。なぜならば、市場は成熟するのに従って量的には飽和状態に陥っていくからである。飽和状態に陥った市場は、量的な要素よりも質的な要素によって新たな需要を開拓する必要が生じるからである。食料で言えば、ただ、空腹を満たすだけからより美味しい物を求めるように変化するのである。大量生産大量消費から多品種少量生産体制への切り替えが求められるのである。
 経済体制を市場が成熟するに従って量を重視した大量生産大量消費型からから質を重視した多品種少量型へと転換しなければ、過剰生産が発生するのである。
 量的技術は、深化し、質的技術は進化する。

 潜在的な部分、表面に表れない部分で働く、長期的資金の流れ。
 経済的空間や時間の歪みを是正しよう時に障害となるのは、私的利益に対する認識、考え方、特に、利益を搾取だとして罪悪視する価値観である。利益を罪悪視する思想は、特に、公共部門の人間が多く持っている。それが財政を破綻させ、民営化を煽る動機にもなっているのである。

 公的に立場に立つ者は、私的利益に対して敵意や悪意すら感じるような頑なな考え方、思想に凝り固まっているようにすら見える。それは、自由主義体制でも社会主義体制においても変わりはない。つまり、私的利益を上げる事は、犯罪行為であるかの思想である。この思想は、金利に対して顕著に現れる。

 利益に対する認識の違いは、公共事業と営利事業に対する認識の違いとして表れる。その差は、現金主義と期間損益に対する見方の違いともなる。

 利益は、費用対効果の一つの指標である。費用対効果を測定する目的は、適正な費用を割り出すためである。適正な利益に基づいて適正な収益を確保できるような体制を構築するのが、利益を出す本来の目的である。
 利益を出すことに目的があるわけではない。利益は、経営状態を計る指標の一つなのである。

 公益と私益とに対する考え方の相違は、教育に対する考え方にも及んでいる。

 事業教育や学習塾の教育は発展しているのに、学校教育は旧態依然の状態にある。それも教育に携わる者の頑なな姿勢にある。この様な、格差が生じる原因は、公教育と私的教育の差別が根底にある。

 実業教育、実用教育は卑属だと最初から決め付けている。しかし、世に役に立つ教育をなぜ卑俗だと決めつられるのか。それこそが傲慢の極みである。実業教育、実用教育は経済的だからこそ評価が定まり、進化しているのである。その指標の一つが利益である。教育にも利益があるのである。

 利益をあげることは悪い事ではない。ただ、利益をあげることばかりに血道をあげ、事業の本質を忘れることが悪い事なのである。
 利益をあげることが悪いとしてしまうから、必然的に収益力がなくなり、労働者に適正な所得を還元できなくなるのである。そして、それこそが不況の最大の原因である。

 経営に役立たない経済学は無意味である。
 又、経営者の考え方が反映されない経済学も意味がない。

 利益とは、利益を出すために任意に設定された会計的指標である。それなのに、利益を出すことが悪いとなれば、何のために、利益を計算するのか解らなくなる。公共事業は、営利事業と違うのだから、利益を出す必要はないとするのは、思想である。そして、その様な思想があるから、公共事業は利益があげられず、不経済な存在となるのである。公共事業が不経済であるから、財政は破綻し、国民経済は成り立たなくなるのである。


貨幣は交換手段


 貨幣は、交換手段である。

 貨幣は、貨幣であることによって価値がある。
 貨幣の本質は、物にあるわけではない。貨幣が表象している権利にある。貨幣が表象する権利が貨幣価値、即ち、交換価値を形成するのである。
 貨幣の機能は、貨幣の形相にあるわけではなく。貨幣の価値にあるのである。
 貨幣の機能は、働きは、貨幣の効用に求められる。

 貨幣は、物としての働きが期待できないから容易に偽造できないという特性を要求されるのである。

 貨幣の本質は、交換価値にある。故に、貨幣その物が金から紙幣へと変質しても貨幣その物の価値は変化しないのである。むしろ、物としての価値を持っていた時代よりも貨幣の価値、つまり、貨幣の効用が鮮明になるのである。

 財の効用を交換価値、即ち、貨幣価値によって数値化する手法が会計なのである。

 個人は、消費者であると同時に、労働者である。
 経済制度の単位は、国家である。一つの経済圏の範囲は、国境によって画定されている。故に、一つの経済圏を成立させている個人の単位は、国民である。
 市場は、市場経済を前提としている経済体制を構成する経済の仕組みの部品、要素の一つである。
 市場経済は、生活、即ち、生きていく為に必要な物資は、市場から調達する事で成り立っている。
 市場から、必要な物資を貨幣を用いて調達する行為を取引という。
 市場経済下において国民が必要な物資を市場から調達する手段は、交換である。その交換に必要な媒体が貨幣である。
 この様な、市場経済が成り立つためには、交換手段である貨幣が全ての国民に行き渡っている必要がある。

 つまり、貨幣経済が成り立つためには、交換手段である貨幣が所得という形で国民に行き渡っている必要がある。それも単に行き渡っているだけでなく。継続的に分配される必要がある。即ち、供給され続ける必要がある。
 また、所得が消費に連なるためには、貨幣が供給されているだけでは消費が一時的な行為で終わってしまう。所得が、消費に連なるためには、交換手段である貨幣だけでなく、動機が必要なのである。故に、景気浮揚策は、消費者の動機を刺激する必要があるのである。単にお金をばらまくだけの対策は、愚策である。

 交換手段である貨幣は、消費者である個人に所得として分配される。所得は、何等かの価値を持つ対象の対価として支払われる。対価には何等かの実体を持った代償が必要とされる。
 所得には、人を根源とする所得、即ち、人的所得と物を根源とする所得、即ち、物的所得と、金を根源とする所得貨幣的所得がある。人的所得の根源は、労働であり、物的所得の典型は、地代家賃であり、貨幣的所得の根源は、金利である。

 全ての国民が所有する代償物は、自己の肉体、即ち、労働である。故に、全ての所得の源泉は、労働に求められるべきだというのが、今日の経済思想の大前提となりつつある。問題は、不労所得である。そして、労働をいかに定義し、評価するかである。

 現代の自由主義経済では、消費者が受け取る金利や地代家賃には制限が加えられるのが常である。

 金利や地代、家賃に対する制限は、物的所有権や貨幣的所有権から発生する所得は制限されるべきであり、所得の源泉は労働に求められるべきだという自由経済思想に基づいている。この思想は、社会主義にも共通している。社会主義は、更に、所有そのものにも制限を加えようとする。必然的に不労所得は制限を受けることとなる。

 貨幣経済、市場経済を基盤とする自由経済体制では、働かなければ、生活ができない仕組みになっているのである。それは、貨幣の循環が社会を動かす原動力であり、貨幣が循環しなければ、市場は成り立たなくなるからである。貨幣経済下では、貨幣は貯めているだけでは、効用を発揮しない。効用が発揮できないような仕組みになっているのである。

 だから、所得の偏りは、貨幣経済を破綻させる原因となるのである。

 貨幣経済では、総て最後は現金化される事によって決済される。

 そして、最終的には、消費と結びつくことによって完結するのである。その消費に結び付ける貨幣の働きの最終手段が所得である。

 労働の対価として所得が支払われ、それが、消費と貯蓄にまわされる事によって貨幣は循環する。所得は、労働の質と量に対する対価として支払われる。

 故に、自由経済体制では、労働の場が確保されることが絶対的前提となるのである。

 そして、消費は収益に、貯蓄は投資に、環流される。

 最終的には、経済は、所得の問題に還元される。そして、所得の問題は、労働の分配をいかに均衡させるかの問題であり、労働と分配を均衡させるためには、生産と消費、そして、貯蓄をどの様に調整するかの問題となる。

 所得は、収益と費用、費用対効果という関係からも導き出される。所得は、収益でもあり、費用でもあるからである。

 飛行機や鉄道、船といった交通機関は、旅客が居なければ成り立たない。百人乗り飛行機は、満席であろうと、十人しか旅客がいなかろうとかかる費用に大差はないのである。ならば、なるべく多くの旅客を乗せた方が効率的なのである。
 問題は、価格と所得の釣り合いなのである。飛行機を利用したいと思えるような価格の設定と、飛行機を利用できるだけの所得がなければ飛行機を利用する者は増えない。その意味で、一定の水準の所得層の存在がなければ航空会社の採算は保たれないのである。かといって無原則に所得を振りまくわけにはいかない。そんなことをしたら、貨幣の供給量を制御する事ができなくなるからである。所得を分配するためには、所得に見合った労働を前提としなければならない。
 つまり、所得対策こそ最終手段であり、それは所得の裏付けとなる労働を維持することなのである。

 所得が最終手段であり、雇用が重視されなければならない事態なのに、費用対効果ばかりが優先されている。それが市場原理主義者の錯誤である。経済効率と、経営効率とを同一視していることが原因なのである。
 経済の本質は、労働と分配にあるのである。

税と貨幣


 今日本では、財政赤字が積み上がり、深刻な社会問題として騒がれている。騒がれているが、財政のどこが、どうして悪いのか、どうしていいのか、明確な答があるわけではない。ただ、このまま、放置すれば、累積赤字が途方もない数字になってしまう、(或いは、既にとんでもない数字になってしまているのかもしれないが。)事だけは確からしいと言うことだけが政治家も国民も薄々感じているようである。
 なぜ、、どうして、どこが財政状態をこんな状態にしているのか。又、どうすれば、改善できるのかは、財政を現金主義から期間損益に置き換えてみないと判然としない。ただ、収益構造、又は、貸借構造に何等かの欠陥があることは明らかである。そして、それが貨幣の流れをおかしくしているのである。
 財政の問題は、貨幣の流れの問題である。貨幣の流れを方向付けている仕組みの根底を成すのは税制である。
 期間損益によって貨幣の流れの歪みを明らかにした上で税制の根本を変える必要がある。

 債務を返済するためには、一定の収益が確保されていなければならない。
 規制をなくし、会計をいじくり廻し、競争を不必要に煽って収益が上がらないようにしておいて、景気が悪いと言っても始まらないのである。それでは、債務は解消できない。国債も減らないのである。

 特許や著作権のような知的所有権にしてもブランドにしても権利が護られているから利益があげられるのである。俗にコモディティ産業が構造不況業種と言われるの様な状況に陥るのは権利が守られていないからである。自分達の権利が守られていながら、他人の権利を否定するようなことは戒めるべきである。

 経済は、数学の本である。数学は、経済の礎である。
 獲物や収穫物を分け与えることから数は、必要とされた。また、生産物や収穫物、獲物を交換する必要性や人や家畜を管理する必要から数は生まれ。
 又、距離を測るために、土地を分かつために、高さを知るために、量は生まれた。
 この様に、数学は、数える数と測る量の二つから発達した。
 数は、数を数えるという行為から派生した、概念である。数を数えるという行為は、第一に、管理する、第二に、分配する、第三に、交換すると言う三つの行為を前提として成立した。つまり、数えるという行為は、生きる為に必要な行為、経済的行為である。
 測る量というのは、第一に、時間を測る暦、第二に、長さや高さ、幅、厚みを測る尺度、第三に、体積、容積を量る分量、第四に、重さを量る重量、第五に、熱さを測る熱量等がある。
 測る量も、生活の必要性から派生している。測るという言葉には、測る、量る、計る、図ると言う意味がある。即ち、測るという行為、量るという行為、計るという行為、図るという行為から数学は発展したのである。
 数える数と測る量は、任意に単位を設定することによって本来、不連続な数と連続した量とを結び付けることによって数学の基礎は成立した。
 単位が設定されることで不連続な数に連続性が、連続した量に不連続性が付け加えられた。それが数量である。

 数の礎である管理、分配、交換。量の礎である測る、量る、計る、図ると言う行為こそ経済の基礎でもある。また、時間、長さ、高さ、重さ、熱さの単位が経済を成り立たせている要素である。これらの外延的量から、速度や濃度と言った内包的量が導かれ、経済と数学は形成されていったのである。

 中でも税の成立が経済や数学の発展を促した。税とは、権力を必要とする。税は、支配の動機であり、手段である。故に、数学の原初は、支配のための手段として成立したのである。

 税というのは、一方的な行為ではない。税金を取られる者がいれば、税金で生活をしている者もいるのである。そして、税が成立させる動機は、取られる側にあるのではなく。取る側にあるのである。いかに、民主主義といえども税が必要となる原因は、取る側にある。だからこそ、税を取る側の人間は、税を取られる側の人間と利害を一致させるように努めないと税を取られる側の人間から反撃をくらうことになるのである。
 そして、税は取られる側の人間から取る側の人間へ、取る側の人間から取られる側の人間へと循環しなければ効力を発揮しない。この点を鑑みると税というのは、再分配の一形態だと言う事が解る。
 この様な税の有り様こそ、経済の有り様を規定し、貨幣の生み出すことにもなるのである。貨幣の原点は、税にある。

 貨幣の原点が税に求められるのならば、物納から金納への変化は、貨幣の在り方に決定的な影響を与えたと言える。
 物納から金納への変化は、経済の本質をも変えたとも言える。

 物納というのは、生産物や収穫物と言った物を課税対象としている。それに対し、金納は、収入、所得、利益、消費、売上、取引と言った貨幣価値、即ち、交換価値から派生した概念を課税対象としている。
 物納から金納への変化は、物の価値から、貨幣価値への変遷を意味する。
 物の価値から貨幣価値へ、それは、物の経済から貨幣経済への変質をも意味する。
 経済の重点が生産から交換へと移行している事を意味しているのである。それは、生産という実体ではなく、交換という取引、或いは交換価値が成り立てば経済的価値が成立してることを意味している。逆に、生産という実体があっても、交換という名目がなければ経済的行為として認識されないのである。それが近代税制の本質でもある。
 この事は、物という実体から経済的価値を乖離させることにもなる。

 更に、利益というのは、会計的概念であり、利益を課税対象とした時から税は、会計制度の影響下に置かれる事となる。
 それは、現金主義から期間損益主義、単式簿記から複式簿記の論里への転換も意味する。
 現金主義は、現金の出納、入りと出に関わる思想であり、直線的な認識に基づく、期間損益主義は、単位期間における費用対効果を基とし、複線的な捉え方である。

 単式簿記的考え方と複式簿記的考え方の違いで重要なのは、単式簿記というのは単次元的な物の捉え方なの何対し、複式簿記は、二次元的な捉え方をしているという事である。つまり、単式簿記では、現金の出入に基づく単次元的な捉え方しかできないのに対し、複式簿記は、債権債務、正負、長期短期と言った二次元的、或いは、時空間的な捉え方ができると言うことである。
 そこから、経済が多次元的な事象に変質したのと、潜在的価値を表象化する事が可能となったのである。

 貨幣価値を考える場合、もう一つ重要なのは、シニョリッジの問題がある。特に、シニョリッジがどこに帰属するかである。
 シニョリッジというのは、通貨発行益である。通貨、即ち、貨幣を発行した時、通貨の発行機関に通貨の発行高から通貨の原価を差し引いた額だけ利益がでる。特に、紙幣は、原価などしれている。故意にかこの通貨発行益について誰も触れようとしない。
 確かに、通貨発行益をあからさまに出したら、財政の規律は失われる。それは、通貨とは、即ち、対極に公的債務が生じるからである。

 政府が直接貨幣を発行すれば、政府にシニョレッジが発生すると考えられる。しかし、貨幣は、交換価値を表象した物であることを忘れてはならない。貨幣というのは、貨幣価値が表象する価値と同等の経済的対象、即ち、対価がなければ信認を得られない。
 最初から交換性を持たない貨幣を発行しても、市場の信認は、貨幣本来の価値である交換価値を発揮することはできない。経済的価値を有する何者かと交換することが可能である事を前提として信用貨幣は成り立っているのである。そして、その交換を国家権力が保証することによって貨幣は、成立する。それは、国家における債務保証であり、貨幣の発行は、それが如何なる形態であろうと貨幣その物が価値を有する場合を除いて公的債務を増やす行為なのである。

 シニョッリッジは、貨幣が物の価値を持ち合わせていた時代から純粋に貨幣価値の特化する過程で重要な働きをした。
 金貨のように、貨幣が、貨幣としての価値だけでなく、物としての価値を持っていた時代がある。貨幣が物としての価値を持つことによって貨幣は、貨幣としてだけ機能するのではなく。それ自体が交換価値を持つことになる。貨幣が交換価値を持つと言う事は、シニョリッジが発生しない反面、交換価値を権力が保証する必要がない。この事によって、貨幣は、貨幣その物の価値によって流通することが可能だったのである。しかし、物としての価値を貨幣その物が保証するためには、貨幣の数量は、物の保有量、例えば金ならば金の保有量に制限される。
 貨幣の数量によって市場規模も必然的に制約を受けることとなる。
 貨幣以外の物々交換が併用されている時代は、それでも間に合うが、市場規模や交易の範囲は限定的なものにならざるをえない。また、市場の統制も難しい。その為に、貨幣は、貨幣として純粋に特化してきたのである。この様に物としての価値を削ぎ落とし、貨幣価値にのみ特化した貨幣を信用貨幣という。貨幣制度は信用制度を土台として成り立っている。
 兌換紙幣、不兌換紙幣は市場の信用を基とした信用貨幣である。
 歴史的に見ると金貨、銀貨の時代から本位制度、兌換紙幣の時代に、そして、不兌換紙幣の時代へと変遷してきたのである。その結果、過渡的に財政の資金不足をシニョレッジによって補填されてきた。反面、信用貨幣は、悪性のインフレーションの原因にもなったのである。

 シニョリッジは近代貨幣経済が立ち上がる時に発生する。多くの場合は、財政上の資金不足を補う形で派生する。また、国債が貨幣に変質する過程でも派生する。その為に、貨幣の急速の増加に繋がりやすく。悪性のインフレーションを引き起こすことが多々ある。この点をよく考慮しながら、貨幣制度は検討される必要がある。

 税というのは、所得の再分配を意味する。その意味では、再分配の方向性が重要なのである。財政を立て直そうと思えば、再分配の在り方を問題にせざるを得なくなる。結局、増税をしてでも再分配を促進すべきか、それとも、再分配を抑制して増税を防ぐかの選択になる。それは、最終的には、国家理念、国民の国家思想の問題になるのである。




会計と税


 我々は、生まれた時から税金を納める事が当然であるかのように思い込まされている。つまり、税金は、所与の事柄なのである。
 納税は必然としてそれを大前提で考えるように躾けられている。
 ではなぜ、税金を納める必要があるのか。本来、税を考える場合、その点を明らかにしないと論点は定まらないのである。そして、なぜ税金は必要なのか答えは、その裏腹に何に税金は使われているのか、或いは、本来何に税金は使われるべきなのかの問題が隠されているのである。
 税がなぜ必要かである。
 それを理解するためには、物納と金納の働きの違いを理解する必要がある。

 国民国家に於いて税は義務である。しかし、国民国家が成立する以前は、税は、権力者に奪い取られる物、搾取の手段だったのである。
 そして、税が国民の義務とされた時から税の本質は変質したのである。この点を正しく理解して置かないと税の持つ働きを正しく理解する事はできない。また、税を根底とした貨幣制度の意味も理解できない。
 税は、権力に強制的に奪い取られる物から、国民の義務として拠出する物に変わったのである。そして、納税を金納、つまり、「お金」でする事で、経済の仕組みを根本から変えてしまったのである。税を「お金」で納める事、税金になった事で、単に、国家の仕事に対する対価と言うだけでなく。貨幣を循環させ、通貨の量を制御するための重要な手段、仕組みの一つとなったのである。そこから、税制度のあり方というのを捉えなければ、税の制度は設計できない。

 税制は、財政を実現する為の仕組みの一部である。財政は、宮廷官房をその始まりとする。つまり、財政は、君主の生活をまかない、人民を支配するための道具手段だったのである。民衆は、財政は民衆の生産した物を搾取するための手段だという思いが未だにぬぐい去れないでいる。それ故に、民衆は税金は安ければ安いほど良いと言う思いがある。また、税を絶対額で捉えようとする。
 しかし、今日、税の多くは比率で表現される。そして、人頭税のように額で表される税の評判は極めて悪い。
 それではなぜ、今日、税は額ではなく、率で表されるようになったのであろうか。
 この事は、税の変質の本質が何処にあるのかも示唆している。つまり、税というのは、何らかの基本があって、その基本に対する比率、割合を基礎としているという事である。その基本は何か、何にすべきなのか、それは税の本質に関わる問題である。
 ある任意の全体があって、そして、その全体を構成する一部分が税だという事である。その全体の働きと部分の働きが重要となるのである。そして、この様なとらえ方の背景にあるのが、分配である。税は、分配の一種である。

 税の発生は、権力者の財政を担う必要から派生した。税は、当初、第一に、国王とその親族、一族の生活を賄うための資源。第二に、人民を支配するための資源。第三に、外的から自分達の領土を守るための資源の三つの要素に基づいて何らかの基準によって徴収された。
 この様な税は、支配階級と被支配階級が存在する事によって生じる。つまり、税は、支配階級が、被支配階級を支配するための手段だったのである。
 そして、初期の租税は、物納であった。物納である場合は、信用制度を基礎とする必要はない。単純に必要な物資や用益を徴集して自分達が自分達のために消費すればいいのである。 現代では信用貨幣であり、信用の裏付けさえとれれば税に依存する必要はない。また、公共機関自体が収益事業をしても税に依存する必要はない。なのに、なぜ、税に依存する必要があるのか。その原因は、貨幣の働きにある。その点を理解しないと税制のあり方を規定することはできない。 それは今日の経済の仕組みが分配を基礎としていて税制度も分配のための仕組みの一部だからである。
 つまり、税は、その使用目的だけでなく。分配という目的が加わったのである。

 物納というのは、収穫物や生産物、使役を市場を通さずに、直接、生産者が納めるのに対し、金納というのは、市場を一旦通して換金した上で納める事になる。この事によって直接生産に携わっていない物からも税を徴収する事が可能となる。
 また、市場を経済の基盤に据える事にもなる。市場経済が確立される事によって商業も勃興する事となる。
 それは、市民階級の形成にも影響するのである。
 それまで土地のような生産手段に縛られていた個人を生産手段から切り離し、自立できるようにも促す事となる。主たる生産手段であった土地と労働力の繋がりを断ち、労働者を土地から解放したのである。それは、農業や漁業と言った第一次産業から製造業、工業といった二次産業や商業と言った第三次産業へと産業形態を移行させる契機にもなったのである。
 税の金納は、貨幣経済と市場経済を不利不可分に結びつけ、社会の基盤に浸透させる効果がある。また、国民に均等に税を課す事にも繋がる。均等に税を課す事は、社会を構成する単位を家族から個人へと変化させた。この事が重要なのである。

 近代貨幣制度が確立されてからの税制度とそれ以前の税制度では機能が違う。その点を理解しておかないと今日の財政の働きを理解する事はできない。
 近代的貨幣制度が確立される以前は、税は、宮廷と兵隊を養うための費用として徴収されていたのである。そこで重要視されたのは絶対額である。そのために、税で不作する部分を補うために国債が発行されたのである。
 今日の財政制度は、貨幣を市場に供給し、それを循環させるという働きが基礎にある。その一翼を担っているが税制度である。だから税を徴収する必要があるのである。そのために、重視されなければならないのは比率である。つまり、民間と財政、海外との均衡が重要となるのである。投資と、所得と消費の均衡でもある。
 物納の段階では、税と国債、貨幣制度とは必ずしも結びついているわけではない。税と国債、貨幣制度は財政を統一的に管理しようとする過程で結びついていくのである。

 物納から金納への変化は、絶対額から比率へと変化させる事になる。また、貨幣を介する事によって特定の資源に偏っていた産業構造を多様な構造へと変化させたのである。それが近代産業国家への土台となったのである。この様な前提によって産業革命の下地は作られていったのである。

 物納の段階では、税と国債、貨幣制度とは必ずしも結びついているわけではない。税と国債、貨幣制度は財政を統一的に管理しようとする過程で結びついていくのである。

 今日の税制の一番の問題は、税制の仕組みと期間損益の仕組み、実際の資金の流れとの間に不整合なところがある事である。

 特に、利益に対して課税する仕組み担っている税制度を設計する場合は、利益と現金収支との関係を正しく理解していないと、勘定合っての銭足らず。最悪の場合、黒字倒産を引き起こしかねない。利益があっても現金があるとは限らないのである。

 一般に償却が終わると莫大な利益を上げられるようになる。しかし、それが必ずしも現金の残高を増やす事に繋がるとは限らない。元本の返済が表面に現れないからである。また、法人税などは、課税対象額が利益を基として計算されている事にもよる。そのために、利益が増加する事によって資金繰りがつかなくなり借金が膨れあがる事さえあるのである。その様な状況や構造を理解した上で税制度は設計されなければならない。

 経済状態によって利益の持つ働きに違いが出てくる。即ち、デフレーション下における利益の働きとインフレーション下の利益の働きには質的な差が生じる。それが税金の働きにも質的な差を生じさせる場合がある。

 名目的価値と実質的価値の相関関係によって景気動向の傾向が定まる。即ち、名目的価値が実質的価値の下限となるのか、上限となるのかによって市場に正(ポジィティブ)な圧力がかかるか負(ネガティブ)な圧力がかかるかの違いが生じるのである。それによって負債の負荷がかかる方向に違いが生じる。
 名目的価値と実質的価値の相関関係は、市場の基礎的要件を定める。
 名目的価値と実質的価値の関係は、市場が縮小均衡に向かうのか、それとも拡大均衡に向かうのかを定める。市場が拡大均衡に向かっている時は、名目的価値は、実質的価値の下限となり、資産価値は膨張し、負債は、相対的に圧縮されるのに対し、市場が縮小している時は、名目的価値は、実質的価値の上限となり、資産価値は縮小し、負債は、相対的に膨張する。
 利益の働きは、市場に働く力の傾向によって質的な違いが生じる。

 この名目的価値と実質的価値の相関関係は、期間損益や現金収支、納税額の動きに重大な影響を及ぼしている。

 現代の税制度は、期間損益主義、現金主義、現物主義が混在している。その点を前提として考える必要があるのである。

 一般に投資というのは先行投資なのである。即ち、最初に投資、つまり、出資がある。投資とは、最初にお金の拠出が前提となる。これは借りが前提でもあり、借りる以上貸し手の存在も前提となる。

 投資は物の効能を形成し、財務は金の価値を構成し、日々の活動は、人の効用を構成する。これら人、物、金の働きを結びつけるのは、経済主体間のお金の交換、個々の経済主体から見るとお金の出入り、出納である。
 投資は債権の元となり、財務は、債務の元となる。債権と債務の状態は、日々の活動によって定まる。債権と債務の関係によって資金の流量は規制される。また、資金の流量によって債権や債務の状態は定まる。

 ただ、お金の出入りだけでお金の効能は明らかにならない。そこで、一定期間でお金の効能を測定するために設定されたのが損益である。

 問題なのは、資金の流れと損益の間に時間的なズレが生じている事である。

 更に問題を難しくしているのが、税制がこれらの資金の流れや損益とはまったく違う原則によって形成されている事にある。

 今の税制度は、歴史的な経緯によって形成されており、必ずしも個々の税の働きを計算されて築き上げられたとはいえない。しかも、課税計算は、期間損益主義に基づくのか、現金主義に基づくのか、現物主義に基づくのか、必ずしも統一されているわけではなく、徴税当局独自の見解に基づいて設計されている。
 その結果、期間損益主義、現金主義、現物主義が無原則に混在する事になったのである。

 今日の税制度は、幾つかの独立した税制度が寄り集まり、組み合わされる事によってできている。税制度を構成する個々の税制度は、その課税対象もその比率も、納税者も違う。当然、税制度全体を構成する個々の独立した税制度には、その課税対象によって性格や働きが異なってくる。
 例えば、所得税は、収入を基礎としており、法人税は、利益、消費税は収益、固定資産税は、資産というようにである。

 期間損益主義からすると市場経済は、収益を中心にして、資産、費用、負債、資本の増減運動してい現れる。また、現金主義からすると経済現象は、現金の流れによって引き起こされる。実物主義では、物の生産や,或いは、需要と供給によって経済活動は引き起こされる。
 そして、それは、経済を構成する個々の局面から見れば正しい。
 この様な個々の要素を組み合わせることで、景気の変動や資産価値の変動に左右されない、安定した歳入を確保すると同時に経済を自動制御できるようにする。そけが、税の根本理念である。ただ、現在の税制度は、部分的な整合性は保っているが、総合的な意味では、個々の部分の働きに基づいて全体を構築している訳ではない。それが最大の問題なのである。
  税の効果を知るためには、キャッシュフローと償却費、課税対象の関係を見なければならない。
 第一に、現在の市場経済は、借金経済だという事である。
 そして、第二に、経済主体を動かしているのは、最終的には現金だという事である。

 現金の流れが生み出す振動によって市場や経済主体を動かされている。
 現金の流れから派生する働きでは、特に、負の働きが重要になる。負のはたきは、マイナスや裏、陰という意味がある。
 期間損益では、負債と赤字の働きが半分の働きを担っている。

 市場経済を実際に動かしているのは、現金だという事を忘れてはならない。期間損益というのは現金の流れを円滑にするための仕組みなのである。それを忘れると経済の本質を見失うことになる。
 現金を資源化した物が資金である。資金の流入、流出、流れが経済や経済車体を動かすエネルギーなのである。

 ただし、会計上でいうキャッシュフローというのは、資金の流れを表してはいるが、資金の働きを表してはいない。故に、期間損益を測る必要が出てくるのである。
 期間損益で重要になるのは時間軸である。
 また、期間損益で大切なのは、平均化である。平均化は、定収入の前提となる。定収入は、長期借入金を成立させるための根拠となる。つまり、導入部分を構成する。

 期間損益で重要なのは比率である。しかし、現金主義は、差が重要となる。なぜならば、期間損益では、整数を基本としており、負の数が認められているが、現金主義は、自然数を前提としており、負の数が認められていないからである。

 期間損益では、負債と赤字の働きが半分の働きを担っている。その対極にあるのが資産と黒字である。負債は、金の勘定であり、資産は物の勘定である。金の勘定は、会計上、名目的価値を形成し、物の勘定は、実質的価値を形成する。

 第一の問題点は、現在の市場経済体制は、現金主義と期間損益主義が混在している事である。
 第二の問題点は、現金主義に基づく制度と期間損益に基づく制度が明確に区分されておらずに、制度的な整合性が取られていない点にある。中でも最も問題なのが税制との整合性である。

 損益構造と収支構造が非対称である。
 そして、税制が現金主義と期間損益主義の折衷だという事である。それが資金の流れを圧迫し、歪めている。
 そのために、現金収支と利益とは非対称の関係になる。
 負債と資産、資本の関係をも歪める。
 損益主義と現金主義、そして、税制の整合性を保つためには、税制の基礎を損益主義と現金主義のどちらに置くのか、また、何によって調和させるのかを明確にすることである。
 それは、課税対象の問題でもあり、納税の原資の問題でもある。

 問題なのは、減価償却と借入金の元本の返済の整合性が取られていないという点にある。
 減価償却と借入金の元本の返済額が非対称であり、利益を課税対象として税を課した場合、資金繰りに重大な支障を生じる可能性がある。この様な状態は、一経済主体だけでなく、経済全体にも深刻な支障を来す可能性がある。
 この様な障害を回避するためには、赤字(損失)の働きを理解する必要がある。赤字にも働きがあるのである。つまり、赤字は悪いとは決めつけられない。
 大切なのは、個々の局面における赤字の働きなのである。
 仮に赤字が悪いとしたら黒字も悪いのである。それはその時点の赤字の働きや性格、方向性、時間的推移が問題なのであり、赤字自体が悪いのではない。赤字の是非を論じるのならば、対極にある黒字の是非と各々の働きを理解した上でなければ意味をなさない。

 これらの関係を数式に置き換えると、
 収入-(減価償却費+支払利息+その他経費)=利益
 収入-(支払利息+元本返済額+その他経費)=現金残高
 現金残高-利益×税率=手取り現金。
 手取りの現金がマイナスになる事は、許されない。経済的に破綻することを意味する。それを回避するためには借入金を増やす必要が出てくる。
現金残高を納税が上回り、税金によって黒字倒産する場合もありうるのである。

 貸し、借りと収益、費用の均衡が経済の有り様を構成する。ただ問題となるのは、減価償却と長期借入金の元本の返済額が非対称であり、それが、表面に現れる貸借、損益に与える影響である。
 表に現れる部分は売り買いであり、物の部分である。それに対して、裏にあるのは、貸し借りであり、金、即ち、金融の部分である。
 損益、収支、課税対象が差額を基礎としているのに、基礎となる要素と差し引く要素がそれぞれ違う上、納税額が比率によって算出される。これが通貨の円滑な流れを妨げているのである。

 資金の流れには、投資に関する流れ、金融に関する流れ、日常活動に関する流れの三つの流れがあり、収入と支出、貸しと借りの間を循環している。そして、資金は、基本的に残高が問題となるのである。
 資金の流れという観点から経済では、プラスかマイナスかというとらえ方ではなく。貸しか借りか、収入か支出かという観点で計算し、尚且つ、自然数で残高を有無と多寡を計測するのが原則である。

 期間損益は、この資金の流れに立脚した上で別の面理で動いている。故に、期間損益とこの資金の流れの整合性を計った上、経営主体が継続的に事業ができるように税制は配慮しなければならない。




       

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