経済数学

2 人的経済と数学

2−5 消費について

消費とは人生を考えることである。


 人間は、物を食べなければ生きていけない。住むところも必要である。裸では、生活できない。
 人間は、生きていくためには多くの資源を消費していかなければならないのである。
 経済というのは、生きていくための活動を言う。単なる金儲けをさして、経済と言うわけではない。又、経済は、生産活動に限ったことではない。
 金儲けは、生きていくための手段に過ぎない。生きる目的ではない。
 生産は、必要に基づいて為されるべきであり、必要以上に生産することは、資源の浪費や乱開発に結びつく危険性がある。
 生きるための活動は、人生に通じる。それが人間である。
 いかに生きるべきか、それを考えるのが人間だからである。

 食べるという事は、他の生き物を犠牲にする事を意味している。飽食は、他の生き物を無駄に殺すことを意味するのである。
 だからこそ、我々の祖先は、神に祈りながら食事をしたのである。

 消費を考えることは、信仰に通じる。そして、消費は人生に通じるのである。

 生まれて、学び、働いて、結婚し、家を建て、子供を産んで、育て、そして、病み、老いて,死んでいく。その一つ一つが消費である。その一つ一つが経済である。生きるための活動なのである。その一つ一つの人生が重なり合って一つの国の経済を成り立たせている。
 消費を考えることは、人生を考えることなのである。

 現代人は、金儲けの事ばかり考えている。しかし、人生において大事なのは、金の使い方である。どんな生き方をするかは、お金の使い方に表れるからである。金儲けがいくら上手くても金遣いが荒くては、人間としての品性が問われることになる。

 情報をいくら集めたところで、その使い道が判らなかったり、使い方を間違ったら、かえって始末が悪い。大切なのは、情報を集めることではなくて、使い道なのである。

 使い道も考えずに、物を作ったり、金を稼いでも意味はない。
 それでは、物があるから使うのであり、金があるから使うという事になる。本末転倒である。

 人はパンのみに生きているわけではない。どのように生きていくかは、何をどのように消費するかに関わっている。消費の仕方が経済のあり方を規制するからである。
 ところが、現代人は、経済を金儲けや生産だと思い込んでいる節がある。生産は、手段である。消費は目的である。
 現代経済の不毛さは、目的を明らかにしないままに、手段のみを追求している事から生じる。

 又、今の人間は、物の生産の効率性ばかりを問題とする。しかし、消費のあり方は問題としない。だから、浪費や無駄遣いが増えるのである。節約、倹約などという馬鹿にされる。
 ケインズ主義者の中には、「金の使い道は問題にならないのだ。とにかく金を使ってばらまけばいい。何なら、戦争をしたって,大きな穴を掘って金を埋めてもいい。」と豪語する者まで現れる。ここまで言えば、これは犯罪に近い。金を使うために戦争を肯定することは、馬鹿げている。

 何が生きていく上で必要なのか。何が生きるために大切なのか。それは、生きるとは何かという問いに結びついていく。人生を考える事なのである。
 必要性こそ、消費の源なのである。そして、消費こそ生産の目的の本なのである。何が必要なのか、それは生き方の目的に通じているのである。
 消費を語ることは、人生を語ることでもある。こういう生き方をしたいと語ることは、自分の命や存在をこの様に使いたいと語ることなのである。
 そして、人々に必要とされる生き方こそ、我々一人一人が、追い求めていく人生なのである。誰からも必要とされない生き方は悲しい。
 必要されることは、必要とすることなのである。
 人に世話になるのも、又、人に必要されることにもなる。人と人とは持ちつ持たれつなのである。そこに経済の本質が潜んでいる。

 世は、使い捨て時代。
 物を大切にするなどと言えば、古い考え方と笑われてしまう。
 自分の物を大切に使い、丁寧に手入れをして、何度も何度も修繕をして,思い出や、愛情を込めて、他の物には変えがたい物にしていく。それは、どんなに高額の物よりも大事な宝物なのだ。しかし、この様な考え方は、愚かだと切り捨てられてきた。もったいないなんて貧乏くさいことなのである。しかし、それは心が貧しくなったからではないのだろうか。
 大量生産、大量消費。つまり、生産の仕方によって消費のあり方も制約を受ける。質より量の時代なのである。大量に作られた物は、ことごとく浪費されるか、余った物は、無駄に捨てられていく。それを効率的というのだろうか。
 使い捨てを突き詰めていくと、自分の人生をも使い捨てにする事になる。自分の肉体をも使い捨てになってしまうのである。
 本来、生産は、使う人に合わせて変化すべきものなのに、今は、物に合わせて人間の生き方も変えられてしまう。
 大量生産に合わせて大量消費型の生活をしなればならなくなる。大量生産された物は、効率化されることによって均一化される。自分に合わせて改造するなどという事は、不経済な行為とされるのである。
 自分に合わせて、自分だけのもを作る。そして、自分の物を愛着を持って大切にするという考え方は、不経済だと馬鹿にされる時代なのである。
 だから、全ての物が画一的なものになってしまう。多様性は、不経済なのである。世界中の人間が同じ物を食べ、同じ仕様の服を着て、同じ形の家に住む。それが現代経済のあり方である。
 着物が良い例である。服は、結局、何もかもお仕着せの物になってしまう。つまり、自分に合った服など創造のしようがなくなるのである。今のような状態を放置すれば、民族服のような物は、いずれは、失われてしまうであろう。
 現代人は、消費に合わせて生産の仕方を変えるなんて考えもしない。しかし、本来、一人一人の嗜好は、皆違うのである。一人一人の体型は個性がある。服に体型を合わせるのではなく。体型に合わせて服を仕立てるのが本来の姿である。物に人を合わせるのではなく、人に物を合わせるのが道理である。
 そこに現代の貧困の原因が潜んでいる。要は、精神が貧しいのである。芸術や文化は、育たない。効率ばかりを追求して、ゆとりがないのである。心に豊かさがない。
 本来、生産技術が成熟すれば、大量生産、大量消費から個人の嗜好に合わせて多品種少量生産、個性的消費へと移行するはずである。ところが、現代社会では、何でもかんでも均一にしなければ気が済まない。だから、標準化、平準化ばかりを追求する。それは、社会主義も資本主義も変わらない。
 何でもかんでも同じにすることそれが平等だと思い込んでいる。同等と平等とは違うのである。

 廉売合戦や乱売合戦も本当に消費者の為になるのであろうか。消費者の見方と安売り業者や量販店の人間は言うが、そのために、市場が荒廃したり、失われたりもしている。売る楽しさ、買う楽しさは、単に価格のみに還元できる性格のものではない。
 何でもかんでも安ければ良いという事ではない。ところが、一度,安売り合戦に火がつくと全てが価格によって評価されるようになる。そうなると良質のサービスを高価格で提供していた店が最初に淘汰されてしまう。安く売ることが善であり、高く売ることは、悪であると一律に決めつけられてしまうからである。価格だけが全てになり、適正な競争も行われなく。
 価格だけが競争の要素ではない。価格以外に内容や質でも競わせるべきなのである。
 悪貨は、良貨を駆逐するの格言のように良質のお店が淘汰されてしまい。結局、無原則な競争によって消費者も選択権を失うのである。そして、生産工程や効率のみが経済の基準を支配することになる。消費側の都合など関係なくなるのである。

 現代の市場経済は、生産的部分のみを経済として捉え、消費はあくまでも生産的部分に対する従属的な分野だと考える傾向がある。

 生産力のみを重視した結果、今の経済は、不足ばかりを問題にして、過剰や過当競争を甘く見る傾向がある。それが大量生産、大量消費型の経済を生み出しているのである。
 しかし、過剰というのは、言い換える、浪費をも意味することを忘れてはならない。かつては、節約とか、倹約を経済性という意味でも使ったけれど、今では、節約や、倹約と言う事を経済的だとは考えなくなり、浪費、使い捨てを経済的だと考えるようになってきた。
 又、今の経済評論家は、競争ばかりを煽って、協調を軽視する論調の者が多い。その結果、競争が全てを解決するように思い込んでいる人が増えている。
 しかし、無意味な過当競争は、市場の規律を失わせる行為でもあることを忘れてはならない。景気を安定させるためには、競争だけでなく、協調も又大切なのである。そこには、消費者の視点が重要になるのである。

 生産と消費は、均一の関係ではない。生産する側と消費する側は、対等ではないのである。消費者は弱者の側に立たされやすい。反面、生産も消費を前提として成り立っている。経済には、この非対称性が常に存在している。
 経済に存在する非対称性は、規模の拡大と伴って深化する。

 消費者というのは、消費者であると同時に、労働者である。即ち、消費者は、消費と労働の担い手であり、仲介者でもある。また、消費と生産、労働と分配とを結び付ける存在であり、生産と労働を結び付ける存在でもある。
 生産と消費、労働と分配は、経済を構成する基本的要素であり、消費者こそ経済の中核を担う存在なのである。
 何よりも消費者は人間なのである。
 また、経済は生きる為の活動である。だから、こそ、消費を考えることは、経済を考えることであり、文化を考えることでもあるのである。

 消費を考える場合、人の一生を考える必要がある。人の一生には、色々な変遷がある。例えば、第一に、能力の変遷である。第二に、お金の必要性の変遷である。第三に、収入(所得)の変遷である。第四に、支出の変遷である。第五に納税の変遷である。
 お金を稼げる能力がある時と、お金を必要とする時と、お金が入る時と、お金を使う時とが人生において一致していない。それが、経済で一番の問題なのである。
 人生は、これらの不一致を是正し、一生の内に均衡するように計画的に生きることが望ましい。
 その為には、長期的資金と短期的資金を区分し、それを必要な時に必要なだけ支出するように心懸けなければならない。例え、計画的に生きたとしてもいつ不足な事態が生じて急な出費を強いられる事もある。
 能力にも、必要性にも、収入にも、支出にも、納税にもピークがあり、しかも、人それぞれ違う。
 人間の肉体的な能力が最も発揮される年代は、20代から30代であろう。知的な能力は、もう少し年齢を重ねても発揮される。しかし、それでもピークは40代であろう。本来、最も、お金が稼げるのは、その年代である。それに対して、お金が必要なのは、20代後半から50代に掛けて、即ち、子育てをしている世代である。
 収入は、必ずしも一定しているわけではない。給与ならば実績と家計と年齢を加味して設計できる。しかし、個人事業主は、一定の収入が保証されているわけではない。
 支出も然りである。固定的な出費以外に変動的な出費があり、しかも、それが必要な時と収入が得られたときと必ずしも一致していない。
 税は尚更のことである。税は、人の一生など基本的には斟酌していない。所得や消費があれば容赦なく徴収する。それが現行の税の基本である。ただ、納税の基本にも年齢的な変遷がないわけではない。
 これらをいかに均衡させるかが、経済の基本的問題なのである。そして、均衡させる手段として貨幣があるのである。また、均衡させるために、借金の技術、即ち、金融が発達したのである。そして、定収入化が推進されたのである。収入と支出、貯蓄と負債は、表裏の関係にあり、又、鏡像関係にある。

 経済上に期間損益主義が導入されることによって時間価値が重要な働きをするようになった。故に、経済現象を制御するためには、長期、短期の均衡を保つことが重要となるのである。時間的価値を均衡させるためには金利の働きが重要だが、財政の不均衡、破綻はこの金利の働きを機能させなくなってしまった。それが重大なのである。
 財政問題で深刻なのは、国債が蓄積すると金利を拘束し、政策的に金利を活用することができなくなることである。それは、時間価値の機能を著しく低下させる。時間価値が働かなくなると、市場が機能しなくなる危険性が生じる。つまり、長期短期の価値が均衡しなくなるのである。
 日本は、長期にわたって金利がゼロの状態に置かれている。これはもう、時間的価値が作用していないことを意味している。つまり、金融の仕組みが壊れてしまっているのである。今は、金利を度外視したところで経済を制御していることになる。しかし、金利は、国内の事情だけで決まるわけではない。経済が制御不能な状態に陥るのは必然的帰結である。

 資本主義経済体制下では、国家も資本主義の原則に従うしかない。

 公共事業も使い方を考えないで浪費され続けている。現代人にとって使い方などどうでも良いことなのである。ただ、金を使って金を供給すれば良い,それが公共事業の実体である。その結果、国土は荒廃し、人心は荒れ果ててしまった。

 国家財政を破綻させる最大の原因は、賠償金と戦債である。国債の始まりも戦費や軍事費である場合が多い。
 しかも、これらの資金は、国外に求めることが多く、戦後にも資金の海外流出を促すことになる。

 福祉政策は、建物や設備,制度のことを意味し、人の心は忘れ去られている。
 立派な建物はできても、人の温もりが感じられない。福祉事業が発展すればするほど、人々から道徳心が失われていくのである。

 生産の現場から創造性、想像性が消え失せようとしている。滑稽なことである。生産こそ、想像であり、創造なのである。生産の現場から想像性や想像性が失われたら、残されるものは荒廃しかない。

 人々の生活から潤いが失われ、殺伐とした風景しか残されない。
 町は、何の飾りもない工場と倉庫だけが残され、生活空間がなくなる。

 消費は文化である。
 消費は豊かさを象徴している。
 現代は、飽食時代である。テレビでは、毎日のように料理番組が組まれ,贅沢な料理が並ぶ。しかし、それを豊かとは言わない。豊かさとは、認識の問題である。足らざるは貧なり。満ち足りることがないことが貧しいのである。どんな金持ちも王侯貴族でさえ、満ち足りることを知らなければ貧しい。
 心を込めて作られた食事に満たされる者は、豊かなのである。それは、想像性の問題である。消費のあり方こそ文化の源泉なのである。
 生産された物が、楽しく、愉快に消費される場所から文化は生じるのである。
 手間暇かけ,手作りだからこそ価値がある物もある。そこに価値が見いだせるからこそ文化なのである。

 経済の最小単位は、個人と共同体からなる。共同体には、家族、企業、国家からなる。そのうち、企業は生産側に属し、家族と国家は、消費の側に属する。
 消費は、家族と国家の内部の問題なのである。つまり、消費経済は、家計と財政を指す。

 消費に関わる仕事というのは、一つの経済を構成する。即ち、家事といわれる分野である。家事とは、料理、選択、掃除、育児、介護,趣味、娯楽、観光といった仕事である。これらの仕事はさらに、資源の再生、リサイクルやリホームへと発展する。ゴミ処理や地域コミュニティの仕事などが含まれる。これらの仕事は家内労働や奉仕活動として捉えられてきた。しかし、本来、家内労働も地域コミュニティの仕事、即ち、消費に関わる仕事も歴とした仕事なのである。
 料理が良い例であるが、消費の考え方(スタイル)によって千差万別の仕事が生まれる。安くて美味しい店もあれば、豪華で贅沢な店もある。それは消費者の嗜好や経済状態、心理状態等によって選択されるのである。そして、この様な仕事こそ人々に豊かさをもたらすのである。
 料理も毎日、カップヌードルやコンビニ弁当では味気ない。たまには、贅沢な食事もしたいし、デートの時は、洒落たレストランで食事もしてみたい。年に一度の記念日は、一流レストランで奢ってもいい。それが人間なのである。
 洋服でも一着限りの作業着ではつまらない。気分によって着替えたい物である。だから、ファッション業界が成り立つのである。工場生産の人民服だけでは,生きがいをなくすのである。文化は消費の側にある。
 家も改築や修繕、自動車も改造という分野が発展することによって消費者の思いが形になる。食べ物が不足している時は、ただ空腹を満たす事だけで精一杯である。服だってただ着れれば良い。家は雨露をしのげれば良い。しかし、物が満たされてきたら、その次は、自己実現へと進むのである。つまり、夢である。そこに希望があり、それが経済である。そして、そこに文化があり、人生があるのである。それを否定することは、人として生きることを否定することでもある。

 経済が成熟するのに従って付加価値の比重は生産側から消費側に移っていくのである。装飾のような一見して無駄に思えることにこそ経済の意義が隠されている。それが文化である。

 生産性が向上し,生産の効率が良くなればなるほど消費の充実が求められるのである。そして、それは、多様化が求められていることでもある。人は、皆、それぞれ好むところも、信じるところも違うのである。人、皆、違うという事を前提にした経済でなければ、人間性を重視した経済は築けないのである。

 経済というのは、都市計画のようなものである。経済は、生きるための活動である。市場は、人々が生きている空間なのである。だから、市場では、人々が生きて生活をする息づかいが感じられる空間でなければならない。

 ところが現代の市場からは、人々の喧噪が消え失せ、がらんどうの空間だけが残されたのである。

 生活空間とは、そこで生まれて、恋をし、結婚をして、子供を産み育て,やがて老いて死んでいく。その人生のドラマが演じられる空間なのである。その人生は、物を活かしていかに生きていくか。つまり、自分という存在の使い方の問題なのである。
 それを忘れたところに現代経済の病巣がある。

 現代人は、経済性という生産性とか、効率性と生産に関わることばかりを言う。しかし、我々の先祖は、節約とか、倹約と消費に関わる事に経済性の本質を見ていたのである。
 消費経済を確立しなければ、真の経済の目的を明らかにすることはできない。



経済の根本は分配にある。


 生産だけが経済ではない。消費も又、経済である。消費の基礎は分配にある。
 即ち、消費には限界があり、その限界を決めるのが所得である。所得は分配である。所得を決めるのは、労働であるのが基本である。

 経済というのは、いかに差をつけるかにある。
 所得差や価格差が経済を動かす原動力の源になるのである。故に、差をつけることが悪いのではない。差が固体化し、それが階級格差となることが問題なのである。また、差が拡大しすぎて社会の枠組みを破壊することが問題になるのである。

 経済は組み合わせで決まる。

 分配は、制約と限界、個人の持ち分と必要性、嗜好、そして、組み合わせで決まる。
 制約は、生産に関わる制約、流通に関わる制約、消費に関わる制約、財の物理的な性質に関わる制約、金銭的制約等がある。制約とは、前提条件である。特に、物理的制約は、保存性(鮮度)、或いは、外形や重量等に関わる制約などがある。
 経済的資源は、有限なのである。有限であるから、必然的に限界がある。限界は、制約を生む。そして、有限である以上、範囲が問題となる。例えば、生産の限界であり、財政の限界であり、物流の限界である。
 制約と限界の違いは、制約は、前提条件を意味し、限界は範囲を特定する。
 持ち分とは、所得である。所得差は、分配の基底を制約する。
 生活水準は、取り分を基礎にして決まる。
 生活水準は、所得格差によって生じる。所得格差は、所得を均一にしても生じる。所得を均一にしても物理的な差を解消することはできないかである。
 生活水準は、支出の配分によって決まる。配分とは比率である。所得は、支出の配分を制約する。所得の範囲が支出の限界を制約する。

 持ち分によって分配の比率は決まる。持ち分は所得と貯蓄である。
 問題は、組み合わせにある。

 経済とは、生きるための活動である。つい最近まで、生きるために必要となる資源の何割かは自家製であり、市場から調達しないでも生産することが可能であった。貨幣経済、市場経済が浸透した今日では、生活に必要な物資の殆どを市場から調達しなければならないような仕組みになっている。

 また、基本的に生産手段の私的所有権を認めていない社会主義国では、自家製の物資は存在しないことになる。資源の配分は、公的機関によって為される。

 景気の動向は、貨幣の流通量と財の流通量によって左右される。

 個々人の持ち分は、所得と貯蓄によって決められる。
 貨幣経済というのは、所得によって個人の持ち分を制限する制度と言っていい。即ち、所得がその人の生活水準を確定するのである。むろん、持ち分の中には、過去からの蓄積も含まれるから、所得だけに限定するわけにはいかない。ただ、基本的に、蓄積された持ち分は、住宅投資のような長期的な支出や病気や災害、結婚,出産と言った突発的、或いは、臨時の支出に備えて蓄えたものであり、その時点その時点の所得が日々の生活に必要な資源を調達するための持ち分と考えるのが妥当である。

 持ち分は、所得という形式によって金銭で分配され、必要に応じて財と取引によって変換される。

 経済を構成する人的主体は、その働きによって、生産者(労働者)、消費者の二つの側面を持つ。

 持ち分と資源の量によって市場の動向、即ち、景気の動向は決まる。言い換えると通貨の流量と財の流量が市場の制約,および、限界となる。
 一つの市場に流通する通貨は原則的に一様である。それに対して、財は、多種多様である。故に、個々人が調達する財は、個々人の必要性と嗜好に基づいて組み合わされる。

 財の配分は、消費者の必要性と嗜好によって決まる。

 財の性質は、一様ではなく、多種多様である。
 財の組み合わせによって消費の傾向は決まる。財の組み合わせは、個々人、固有であり、人それぞれの嗜好に左右される。
 財には、使用目的や物理的性格に依って多様な性質があり、その性質が個々の財の市場のあり方を制約している。
 生性食品は、鮮度によって市場の特性は制約される。石油のように保存がきく資源は、その特性によって市場は制約される。そして、その財の性格に依って市場の取引は、性格づけられる。財の取引は一様ではない。
 故に、取引のあり方や競争のあり方も財各々違いが生じる。何でもかんでも規制を一律にして、競争をさせれば経済は安定するというのは乱暴、野蛮な発想である。





お金に換算できない経済的価値もある。


 経済的価値には、貨幣化できない価値が多く含まれている。又、貨幣化するとかえって制約されてしまう経済活動もある。経済は、貨幣によってのみ成り立っているわけではない。

 消費するだけで生産活動に従事しない層が増えると経済的負荷が増す。
 生産的活動とは、言い換えると労働である。労働というのは自己実現の手段でもある。つまり、生産活動に従事しない者というのは、不労所得者である。働けなくなった者や働く事ができない者を除いて、働ける者に働く場所を提供するのも経済であることを忘れてはならない。
 近代人は、働く事を罪悪だと考えたり、賤しい事、或いは、奴隷がする事、隷属的な事と捉える傾向がある。しかし、労働は、手段であると共に目的にもなりうるのだということを忘れてはならない。
 労働は、むしろ、尊い。労働をせずにただ消費するだけの階層が増えれば、必然的に経済の活力は失われていく。

 自給自足ができるのならば、貨幣は必要ではない。無人島に流されたら、紙幣のみならず、金貨も銀貨も用をなさない。無人島で必要とされるのは、貨幣ではなく、無人島を生き抜く技術や手段である。
 総ての経済的価値を換金して貨幣取引によって処理しようとすると収入と支出は均衡しなくなる。
 その好例が家計である。
 貨幣収入というのは、補助的収入に過ぎないのである。
 貨幣価値は交換を前提として価値なのである。貨幣経済が浸透する以前は、生活必需品の中にの中には、多くの自家製が含まれていた。交換を必要としない経済財は、貨幣価値に換算されない。つまり、貨幣収入とは、交換を前提として収入であり、交換を前提としない経済財は、貨幣取引の対象とされないのである。ところが今日、税制や会計制度において交換を前提としていない経済財まで貨幣換算するようになってきた。その為に、収支の均衡が保てなくなっている。交換を必要としている部分は、経済の一部に過ぎない。経済の多くの部分は、交換を前提としていない、即ち、貨幣に換算できない部分なのである。

 労働、特に、消費労働を、賃金労働に置き換えると労働を限定的に捉える傾向が生じる。労働を限定的に捉えると言う事は、作業の範囲や時間を限定することを意味する。労働の範囲が限定的になる事によって、仕事に隙間が生じるやすくなる。貨幣経済の弊害である。
 貨幣的収入がない労働を公式の労働と見なさなくなる傾向を生む。その為に、労働は極めて限定的なものになる。又、労働の動機が貨幣収入に限定されることにもなる。
 育児の動機は、子供に対する愛情に他ならない。労働も時間を限定的にするわけにはいかない。
 しかし、育児を賃金労働に置き換えると母親の労働は無意味になり、母親の動機づけが難しくなる。母親は、育児や家事を放棄して、家庭外に賃金労働を求めることになる。家事一般を外注化すれば、費用は、過大となる。自分が得る所得を場合によって上回ることになる。結局、家計が破綻し、挙げ句に、育児放棄が始まる。
 家庭内労働は、育児だけではない。老人介護や家事全般がある。それらの多くは、従来、貨幣に換算することができない労働とされてきた。ところが、現代の施策は、これら家庭内労働を全て外注化する方向にある。それは、家族や地域社会と言った共同体を破壊することにも繋がるのである。
 老人介護は、只建物、施設を作って、制度を整えればいいというものではない。一番肝心なのは、愛情なのである。その愛情はお金には換算できない。
 貨幣経済と言えども、貨幣は、経済全般を支配しているわけではない。貨幣の役割を限定的に捉えないと、結局、経済を破綻させることになる。
 労働を貨幣価値や時間で測るのは、自分の人生を切り売りするようなものである。母親の価値は、貨幣価値や時間で測れるものではない。そして、経済が生きる為の活動であるならば、貨幣価値によって計測できない要素を多分に含んでいるのである。
 全ての家事労働を貨幣価値に換算したら、家計は成り立たないように、全ての労働を貨幣価値に換算したら、財政は成り立たなくなる。財政破綻の背後には、労働に対する評価の仕方の問題が隠されている。
 貨幣を必要とするのは、交換を前提とした財、即ち、交換価値を持つ財である。交換価値を持たない生産物や労働の成果も多くあることを忘れてはならない。「お金」によって手に入る物ばかりではないのである。

 労働を忌むような考え方は、奴隷制度の名残である。生産活動を伴わない消費するだけの人間が階級化し、労働者階級と対峙するという構図は、奴隷制度以外の何ものでもない。
 また、評論家や経済学者の中には、付加価値の高い労働のみを奨励し、付加価値の高い産業に転移するように促す者もいる。しかし、総ての国民を付加価値の高い、システムエンジニア、金融技術者にするわけにはいかない。又、肉体労働や単純労働に従事する労働者も必要なのである。その様な考え方の背景には、肉体労働や単純労働に対する差別がある。
 付加価値の高い仕事が増えれば増えるほど、むしろ、肉体労働や単純労働に適した労働者を今後どうするかの方が深刻なのである。そうなると、重要なのは、労働の質と量、即ち、密度の問題である。

 人間が目先のお金に目を奪われ、経済は生きる為の活動だと言う事を忘れれば、国に見捨てられ、職場から見捨てられ、家族から見捨てられ、自分の人生からも見捨てられてしまう。

 会社は誰のものかという事がよく問題になる。しかし、これも冷静になれば単純なことである。会社は誰のものかという前に、会社が果たしている社会的役割を考えればいいのである。
 会社は、即ち、職場、仕事場である。労働が基本であり、雇用の場でもある。そして、労働と分配が企業の主たる働きなのである。それを考えると会社が誰のものかは自明な事である。

 そして、貨幣経済で核となるのは、所得を得る手段と場である。それを忘れてただ効率、効率と生産性ばかりを追い求めると雇用の場や機会が失われる結果を招くのである。

 今日の経済は、大量生産を総ての根本とすることで、成長や拡大を基礎としている。そして、競争を唯一の原理としている。つまり、時間的価値の増大を前提とし、競争だけが企業の成長の原動力だと錯覚している。その為に、企業は、成長し続けなければならない。
 企業が成長し続けると言う事は、増収増益を続けることが要求される。増収増益を果たさないと企業は淘汰される側に廻ることになる。

 費用の一部、特に、人件費が下方硬直的である。なぜならば、人件費は、所得という側面を持ち、所得は、消費に関わる変数でもある。故に、削減が困難な要素なのである。人件費を無闇に削減することは、総所得の現象を招き、或いは、消費の減退を招く。処が、目立った変化がなければ、人件費を上げ続ける原資の確保がおぼつかなくなる。

 必然的に、経済が成熟し、成長が止まると途端に経済が立ちいかなくなる傾向がある。経済が一様に成長し続けるのではなく。状況によっては、経済は成熟し、或いは縮小することもあり得るのだという前提に立たないと、経済は停滞が始まった時、破綻する運命にある。

 成熟した市場では、利益率を重視した経営をすべきだとしながら利益重視の経営を国や世間が許さない。過酷で、ルールなき競争を利益がなくなるまで強いられ続ける。

 かつては、街の定食屋が結構、流行っていた。最近は、街の定食屋をあまりみかけなくなった。街の定食屋は、跡を継ぐ者がいなくなり、多店化しなければやっていけなくなったのである。多店化すると常雇いの店員を増やさなければならない。店員の年齢が上がるにつれて更に店舗を増やし、或いは、チェーン化しないと生き残りなくなる。
 街の定食屋や喫茶店は、多店化に始まって、いつの間にか、チェーンとなる。気がついてみると街には画一的なブランドのチェーン店しかなくなっている。街の定食屋は、街の定食屋でいることが許されないのである。そして、どんどんと老舗は姿を消していったのである。

 時間的変化がない老舗の存在は、現代経済では無用の長物と化すのである。結果、経営主体は一様となる。多様性は現代の市場から嫌われるのである。これを経済の発展と言っていいのであろうか。

買い物難民


 私の知り合いが、バブルと言われる時代に縁があって地方の中堅都市に家を買い。秋に盛大な祭りが催されるので祭り見物に、毎年行くのが、恒例になっているが、今年、行っておどろいた言っていた。
 何におどろいたと言うと、この一年で街の様相がすっかり様変わりしている。
 ガソリンがなくなったのでガソリンスタンド給油しようと思ったら去年まで開いていたガソリンスタンドの多くが店じまいし、以前、長いこと住んでいて土地勘があるはずだったのに、どこで給油したらいいか解らない状態になっていたと嘆いていた。
 夜、近くスーパーに食料を買いに出かけたら、去年まで開いていたスーパーが、閉店していて歩いて二十五分もかかる隣のスーパーまで行かなければならなくなった。そのスーパーも店の中が暗いので不審に思って店員に聞いたら、スーパーの敷地の中で百円ショップが広い部分を占めているが、その百円ショップが近々撤退する事になっているとの由、このスーパーもいつ閉店に追い込まれるか解らない。
 それ以前に、八百屋や魚屋は成り立たなくなり、商店街は、シャター街と化している。
商店街だけでなく、うち続く円高攻勢によって町工場街も衰退し、先日も浜松の部品街がシャター街になっていることがテレビで報道されて話題になっていた。
 
 買い物難民と言われるが、自分の身に降り掛かってきてはじめて実感したとこぼしていた。車の運転ができない年寄りには住み難い街に変質してきている。
 かといってバブル期に買った高額の資産を売却することもままならない。家の価格は、バブル期からみると十分の一になっていて売ったとしてもローンの支払いが残るだけである。

 小売業は為替の変動に対して、本来、中立的であるべきなのである。為替が変動するたびに安売り業者が跋扈し、利益率を圧迫するようでは小売業は成り立たなくなる。
 独占を許すか、協定するか。それは、独裁か、連立かの問題である。自由を重んじるのならば、規律を無視することはできない。乱れれば、独裁の道を拓くだけなのである。

 なぜ、日本が長い不況からなかなか抜け出せないのか。その根底には、未実現損失の問題が隠されている。
 経済が流動的になる背景には、未実現損益の存在がある。未実現利益は、資金の源となるが、同時に、過剰流動性の原因ともなる。
 未実現利益は、資金調達の担保となるが、未実現損失は、逆に、資金調達を阻害する働きがある。
 資産価値が高い時、借金をして買った土地や株を価値が下落したときに売ると損失が出る。この様な損失は、売買をしなければ、未実現な損失であるから、塩漬け状態にして面に出さないようにする。その為に、土地や株の流動性が低くなり、結果的に市場取引を不活発にする。

 負債が過剰であるか否かは、負債の絶対額で決まるわけではない。損益の状態や反対勘定にある資産の状況によって左右されるのである。つまり、負債が過剰か、否かの判断は相対的なものなのである。
 この点を見誤ると有効な経済政策がうてなくなる。負債が何に対してどの様な働きをしているかを見極めることが重要なのである。資金の働きや流れる方向に対してどの様な作用を及ぼしているかが重要となる。

 負債の絶対額ではなく、水準、比率とその変化が重要ともなるのである。それは、国家の債務も同様である。

 多くの人は、借金のことを考えると借金のことばかりで頭が一杯になるものである。つまり、木を見て森が見えなくなるのである。
 しかし、取引は反対勘定があって成り立つ。売り手は買い手があって成り立つ。貸し手は、借り手があって成り立つ。売り買い、貸し借りは表裏の関係にある。
 借金と言って対極には資産があるのである。借金を返すためには資産価値を上げる算段も大切なのである。
 
 借金は必ず返さなければならないと言う訳ではないのである。返せない借金、返す必要のない借金、返してはならない借金、返されては困る借金もある。一例を言えば、貨幣の根源は、支払われるあてのない借用書なのである。

 商売が成り立たなくなったり、腕のいい職人が生活できなくなることが問題なのである。博打打ちのような投機家や相場師がもてはやされ、真面目にこつこつと働いて正直に生きようとしている善良な人々の生活が困窮するような社会は、まともな社会とは言えない。
 一攫千金の夢を抱いて、金のためならば何でもする。年寄りを騙して老後の蓄えを騙し取り、長い間営々と築いた財産をかすめ取る。そんな生き方が奨励されるような社会に正義など存在しない。
 信用制度によって立つ銀行家が詐欺師、ペテン師と言われるような仕事をしていたら。銀行員は、本来謹厳、実直、誠実、堅実を旨とすべき職業なのである。
 金融業という本来、信用を最も重んじなければならない仕事に勤める者が率先して人を騙したら。信用制度など根底から瓦解してしまう。
 それは、人間としての生き方を否定する事である。つまり、文化を否定する事でもあり、道徳を否定する事でもあり、生活を否定する事でもある。
 街に息づく人々の息吹に様なものが感じられない無機質な社会を望むというのか。人は物ではない。

 極端な話し、世界中の料理屋の食事の味が均一となり、総て工場で生産されている状態を理想的というのであろうか。

 単に平準化し、標準化し、画一的な社会を目指すのならば、結局の処、自由主義も共産主義も行き着くところは同じだと言うことになる。

 消費の多様性、生産の多様化が経済の成熟の本来の姿である。量のみを追求し、消費や生産が一様になるのは、むしろ、経済の退行を意味する。しかも、市場から余剰の貨幣が溢れ出し、市場を攪乱するようになれば、それは、経済の仕組みが破綻したことを意味する。

 経済を生産と消費と分配の均衡だとすると、合理化や機械化は、必ずしも経済的だとは言えない。雇用という側面からみるとなるべく人ができることは、人にやらせるべきなのである。機械化や合理化が進めば人手がいらなくなる。それは、必然的に雇用問題を引き起こすのである。ただ、生産性を高めることだけが経済性を意味するわけではない。

 経済を活性化するのは、差である。差を付けることが悪いのではなく。差の付け方に歪みがあったり、偏向があることが問題なのである。また、差の範囲が大きすぎたり、区分の仕方が曖昧であったりすると差はかえって経済を混乱させてしまう。

 毎年、経費が上がっていく今日では、定食屋だけでは生活ができなくなる。競争に勝たなければ、生きていけない仕組みになっているのである。

 小売りや個人事業者の集まりである商店街が廃れつつある。定食屋のように小売業が成り立たないのである。小売業は、スパーやデパートのような大型店舗によって成り立たなくなり、スーパーやデパートは、コンビニや公害の大型ショッピングモールに取って代わられつつある。そのコンビニも乱立してディスカウントに押され気味である。気がついてみたら、歩いていける距離から生活に必要な店が消え、ゴーストタウンのようなシャター街が不気味に増殖しているのである。その一方で失業者も増え続けている。

 商店主や個人事業者は、贅沢な生活や派手な生活を望んでいるわけではない。堅実で、地道な生活を望んでいるだけである。そう言った人々のささやかな幸せを奪い取ってでも生産性や効率性を追求すべきなのか。また、商店主や個人事業主を賃金労働者に追いやるべきなのか。先ず、人間の幸せとは何かを再認識する必要がある。

 競争に勝つためには、借金をして店を年々大きくしいかなければならなくなる。店を大きくし、増やせば、それだけ人を雇わなければならなくなる。借金が増えれば、それに見合った収益を上げなければ淘汰されてしまう。負担に耐えられなくなった店から消えていき、結局、市場は独占され、店も仕事も個性を失い標準化、平準化されてしまう。世界中どこへ行っても同じ店で、同じ味のコーヒーしか飲めなくなることが市場の成熟なのであろうか。
 経済、即ち、生きる為の活動は、多様化することによって活性化するのではないのか。画一化は、逆行であるように思える。市場が貧相になっているのである。

 経済にとって貨幣は、道具、手段であって目的ではない。経済の目的は、人々の生活を成り立たせることであり、その為の手段、目的の一つが貨幣なのである。
 経済で重要なのは、人々の生活に必要な物資や用役を公平に分配することであり、貨幣経済では、その為に不可欠な道具として貨幣があるのである。貨幣は、重要だけれど目的ではない。そして、経済問題の核心は、生産手段と分配の仕組みをいかに結び付けるかにある。そこに貨幣の問題が鍵を握るのである。
 貨幣の問題を中心にして人々の生活を生産手段を従属的うのは、本末の転倒である。だから、尻尾に犬が振り回されるような現象が経済におい茶飯事となるのである。

 経済の表舞台は、生活の場にある。即ち、人々の生存の場、消費の場である。生産手段は、消費を支える基盤に過ぎない。あくまでも、中心は消費にある。
 故に、先ず消費経済を確立する必要がある。証拠では、何が必要なのかが、一番重要となる。どれだけあるか、どれだけ生産できるかではない。
 現代社会では、ある物は、あるだけ、できる物は、できるだけ作ってその全てを消費してしまおうとする。それを消費の美学というのはお門違いである。それは貪欲な姿であり、あさましいだけである。決して美しい消費の姿ではない。見苦しい事である。
 野生の動物達には見られない姿である。
 その結果が環境破壊であり、資源の枯渇なのである。我々は、神が与えられた自然の恵みを感謝することも忘れて強欲に消費している。その結果として天罰が降ろうとも、それは、自業自得である。

 支払手段である貨幣を持っているだけで需要が生じるわけではない。重要なのは、動機である。動機の本質は必要性である。

 需要は、単に、購入手段である貨幣を分配しただけでは成立しない。必要だと感じる財がなければ、需要は成立しないのである。

 必要性と可能性とは違う。できると言うことと必要だという事は違う。昔は、必要だけどもできないことが多かった。現代では、できることだが不必要なことが増えている。現代社会は、可能性の追求を優先し、必要性の問題を度外視してきた。それが、大量生産、大量消費を生み出してきたのである。そして、必要性という制約から解き放たれた大量生産、大量消費は、大量開発や大量破壊、そして、大量虐殺を生み出してきたのである。

 人間が生きていくために、そして、子孫が将来も飢えや寒さ。災害に苦しめられないためには、何が必要なのか。それが経済の根本になければならない。今、手にはいるからといって浪費し続ければ、人類に未来はないのである。その為には、生活設計、消費の在り方を確立することなのである。そしてその根底には、人生観や国家観が必要となる。つまり、哲学である。消費とは、文化、哲学の問題なのである。そして、道徳、倫理観の問題でもある。

 少子高齢化が社会的問題となっている。しかし、一方で人口爆発や食料やエネルギーの自給問題が喫緊の問題として深刻に捉えられている。世界的に見ても日本は自給率が低く。一度、国際市場で問題が起こると甚大な影響を受けてきたのである。

 なのに、第二次世界大戦後、日本人は、国際的な、特にアメリカの善意をあてにして国防について蔑(ないがし)ろにしてきたのが実情である。
 自分達が無防備でいれば、誰も攻めてはこないとまるで、捨て身の思想、宗教的確信だけで経済や国防を考えるのは危険な思想である。
 我々は、外敵や飢えから家族を守る責務があるのである。ただ、人が善いと言うだけでは家族を護ることはできない。我々は自ら期待をすべきである。あてにしてはならない相手の善意を期待し、裏切られたと騒ぎ立てるのは愚か者のすることなのである。

経済は文化であり、消費も文化である。


 かつて日本人は、質素倹約を消費の美学としていた。「もったいない」は国際的な言葉として認知されているほどである。古い物を大切にし、再生を前提として生活をしてきた。捨てる物など何もないと誇らしげに語っていたものである。
 しかし、今の日本人は、浪費を奨励し、使い捨てを美学だと思い込まされている。
 その結果、飽食の時代が訪れ、金があるからと言って貴重な資源を食い尽くそうとしているのである。それは餓鬼のようである。

 先ず、現実を直視すべきなのである。そして、何から何を守らなければならないのかを明らかにし、自覚することである。そして、護るべきものを護る為には、何が、必要なのか、何が求められているのかを明らかにすることである。
 誰も守ろうとしない国や家族は、護りきれるものではない。

 人的経済を考える上で基礎となるのは、日々の生活を営むために必要な物資は何で、どれだけの量が必要なのか、又、それを一生に換算するとどれだけになるのか、そして、それを貨幣価値に置き換えたら、どれくらいになるのかといった事である。

 経済の目的は、人々を養うことにある。金を儲けることにあるわけではない。金を儲けるのは家族を養うための手段であり、金のために家族が崩壊したのでは意味がない。家族を養うために、働くのである。そして、社会は、人々が飢えや寒さに苦しまないようにするために、生活に必要な物資を調達し、生産し、流通させ、保存するのである。それが経済の仕組みである。企業も金銭的利益ばかりを追求し、人々も「金、金、金」と金儲けばかりを追い求めていたら、経済の本質は見失われてしまう。大事なのは、何の目に金を儲け、何のため、誰のために働くかなのである。

 経済は文化である。消費も文化である。消費の基本は、衣食住にある。そして、それに自己実現が加わる。更に近年では、石油と電気、即ち、そこから派生した自動車や家電、情報、通信などが加わる。いずれにしても、消費は文化である。

 消費とは、生活である。人は、何等かの資源を消費することによって生きている。言い換えると、何等かの資源を消費しないと生きていけない。生活とは、生きる為の活動である。言い換えると、人間は、何等かの資源を消費することによって生活をしており、資源を消費しなければ生活ができない。つまり、消費は生活のために必要不可欠な行為なのである。
 これが前提条件である。

 為政者がお金の動向にばかり目が奪われて、本来の人々の生活を忘れていることが経済を難しくしているのである。
 どんな災害時でも、戦争下でも、革命下でも、恐慌やハイパーインフレ時でも、人々には生活があるのである。そして、生活が成り立つように懸命の努力をしているのである。
 混乱の裏側にも生活がある。人々がどんな暮らしをしてきたかを観察すれば、経済の実体が見えてくるのである。

個人所得が自由経済の基盤を形成する。


 生活の場は家庭にある。つまり、消費の場は家庭が中心である。

 消費の基幹は家計にある。
 家計は、基本的に現金主義である。
 家計は数直線として表すことが可能である。

 消費の基盤は、家計である。家計の基礎は、家族構成と人間として最低限の生活を維持するために必要な資源の確保である。そして、その為の必要な所得、収入である。

 自由主義経済を突き詰めていくと個人所得になる。自由主義経済を成り立たせているのは、私的所有権と個人所得である。
 つまり、自由経済の根底は個人所得である。個人所得を基盤として自由経済は成り立っている。経済の源泉は、個人所得に還元されると言ってもいい。
 問題は、個人所得が経済事象に占める割合なのである。
 経済は、生産と消費から成る。現代の経済学は、生産を重視するが、生産と消費は両輪であり、生産の対極にある消費の経済も重要となる。消費の原資は、個人所得である。つまり、消費の基礎は、個人所得だと言える。
 そして、個人所得は、見方を変えると色々な側面を持つ。即ち、個人所得とは、収入であり、人件費であり、労賃であり、人件費であり、生活費の原資である。この個人所得の様態の変化、変様が自由主義経済の多様性の源なのである。

 又、貨幣経済下で、家計が確立されるためには、一定の貨幣収入が維持されることが前提となる。つまり、定収入が確保されることによって生活は安定する。
 貨幣経済が発展したのは、低賃金という貨幣による収入の手段が確立されたことにある。そして、この貨幣による定収入化が更に貨幣経済を深化させた。その好例が借金の技術、金融制度の発展である。
 同時に定収入が確保されることによって借金の技術も発展したのである。

 消費の裏側には、所得があり、費用がある。単純に、経費削減を促せば、企業収益が上がり社会の景気が良くなると考えるのは短絡的なのである。費用削減に雇用の削減や賃金の削減が含まれれば、消費の減退を招くのである。
 費用というのは、社会全体から考えるべきものなのである。費用は必要な支出なのである。費用があるから利益が生じるとも言えるのである。かといって費用が硬直的になれば、経済的均衡は失われる。重要なのは、費用と収益、利益、所得の相関関係を掴むことである。

 資金の流れには、即時的な流れ、短期的な流れ、長期的な流れがある。借金の技術や仕組みは、この資金の流れの周期によって設定される。そして、この設定が時間的価値の基となるのである。

 借入金の元本の返済と預貯金は、負債に、投資は資本に、消費は収益に転化する。そして、消費に使われるのは可処分所得の範囲である。問題、資金の流れる方向と働きである。どの部分がどの部分に伝播し、どの様に流れていくかが経済の動向を作用する。

 市場が有限だと仮定された場合、所得は分配を意味する。

 土地を例にとれば、日本で人間が有効に活用できる土地に限りがあると仮定すれば、土地を購入するために準備される貨幣は、分配のための手段だと言える。それが地価の形成するための前提となる。分配の手段だからこそ需要と供給の関係が成り立つのである。
 つまり、所得の働きは、分配のための比率である。
 仮に全ての所得を何者かが独占したり、逆に、全ての土地を占有したら、所得の持つ働きは、消滅してしまう。独占は、経済的価値を消失することなのである。

 市場経済にとって偏りが一番よくないのである。なぜならば、市場は均衡に向かう性格があるからである。

 経済情勢、経済環境は、消費者の必要量と製品、物の生産量、在庫量、流通量、そして、貨幣の流通量によってきまる。

 貨幣は、分配のための手段なのである。所得や財産の偏りは、貨幣機能の効率を著しく阻害する。つまり、貨幣は、流通し、財と交換する手段として有効なのである。偏りは、貨幣の流通を阻害すると同時に、貨幣価値にも偏りを生じさせ、交換行為を妨害する事にもなる。貨幣は交換する権利を保留した証券なのである。貨幣は、貨幣のためにあるわけではない。貨幣は、交換を仲介する手段として機能することによって効力を発揮するのである。要するに使わなければ貨幣は役に立たないのである。

 経済において大切なのは、必要最小限度の水準をどこに設定するかである。江戸時代においても飢饉の被害は、全国的な物ではなく、特定の地域に限られていた。なぜ飢饉のなったのかの原因は、物不足だけでなく物量の問題が大きかったと言われている。肝心なのは、いかに必要なところに必要な物資を必要なだけ供給できるかの仕組みである。

 企業会計、家計の構成等も比率が決定的な役割を果たす。産業の構造は、消費の構成、即ち、家計の構成を反映している。

 この様に比率が重要になるのは、個人所得が全体に対する部分を意味するからである。

 比率には、全体に占める割合という意味と、変化の度合いという意味がある。

 経済数学では、量だけでなく質が重要となる。

 経済とは現実である。現実の対象から数を抽象化する事によって対象を無次元化し、演算を可能とする。しかし、そのままでは、現実に適合しない。故に、経済数学は、抽象から具象化することが、最終的に要求されるのである。

 車と家は足し算ができない。しかし、貨幣に換算すれば足し算が可能となる。貨幣は無次元の数なのである。

 物は、連続量であり、貨幣は、分離量である。

 経済的価値は、単位量と単価、そして、需給によって決まる。
 そして、それらの要素は、物価を形成し、最終的には、生活水準に帰結する。
 生活水準は、その社会の人々の生活観、行動規範、風俗習慣、文化によって形成される。

 経済的価値には、量だけでなく、質がある。消費経済で問われるのは、質である。

 経済には、数字で現れない部分があることを忘れてはならない。

 市場は成熟するに従って量から質への転換が要求される。さもないと市場そのものが貧しくなる。貧相になるのである。それは消費の質の向上が伴わなくなるからである。
 物のない時代は、兎に角、物を充たすことに専念する。物が充足してきたら、質より量から自分にあった良い物を大切にする、ゆとりのある生活に代わる必要がある。大切なのは選択の余地を持つこと、持たせることである。さもないと市場が貧相になり、ただ意味もなく物が回転しているだけの状態に陥る。
 市場が成熟すれば消費者も賢くなる必要がある。良い品をより長く使うのは消費者の知恵である。質が向上するば、消費者の見る目も向上しなければならない。それは、消費の場が自己実現の場に変わるからである。消費者こそ市場の質、即ち、その国の経済の質を決めるのである。

 経済には、質と量がある。経済の実体は、量だけからでは伺い知ることはできない。生活や経営の質は貨幣価値、金額からだけでは明らかにできない。お金はかかっていないが良質な生活をおくっている人は沢山いる。反面、お金ばかりかかってはいても無駄遣いばかりしていることである。
 建築物が良い例である。金ばかり掛けても成金趣味、悪趣味と言われる家もあれば、たいしてお金を掛けていなくても清潔で趣味の良い家を建てることはできる。
 消費では消費者の品性があからさまになるのである。つまりは、趣味の問題である。

 元々、世間は、生々しい世界である。生々しい部分を避けて経済だの政治だのを考えたら、残されるのはドロドロとして生臭い部分である。一番、醜悪で汚い部分が解決できないままに残されるのである。

 だからこそ、自制心、即ち、道徳観が問われるのである。





       

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