1.経済数学

1-8 平均

平均と平等


 色即是空。空即是色。

 自己は、一。対象は一。世界は一つ。全体は一。
 自己を空、即ち、ゼロにすれば、自己と対象は一体となる。
 二にして不二、不二にして二。
 無と有とは一体である。
 神は無分別にして空。
 分別や色は、人の側にある。
 ゼロをゼロとして、一を一とするのは人である。
 人の意識を一度リセット、即ち空すれば、すべては無となる。
 無は全ての始原、原点となる。
 統計とは、全体を全体として認識する事に始まる。
 故に、全体は統計上一なのである。

 空とは、自分の側、自分の意識の問題である。自分を空しくするとは、自己の意識を空しくする。
 色とは対象、世界である。己を空しくすれば、対象、世界全体と本質と一体になれる。
 二にして不二、不二にして二である。

 経済的事象のような社会事象は、密度が重要なのである。
 密度には、物理的な側面と統計的な側面がある。
 物理的な側面は、質と量という働きであり、統計的な側面は平均と分散という側面である。
 統計というのは、基本的に計測的な事として考えられているが、それだけでなく、直接的な働きとしても今後は考えていくべきなのである。

 平均値というのは、代表点があるという事を意味している。一つの事象を塊として捉え、何らかの点と一対一に対応しているのではないことを示唆している。平均値というのはこの点が重要なのである。平均値の背後には、何らかの塊、集合が隠されているのである。塊の均衡点、重心が平均値であなのである。平均値がなぜ重要なのかの要因もこの点にある。

 この塊は、幅を持っている考えても良い。つまり、一対一という対応が一点対一点という意味から一つの事象対一つの事象というように変化したのである。

 根本にあるのは中心極限定理である。逆に考えれば、均衡点が最初に設定され、その均衡点に対する距離に依って経済的働きを制御しているのが複式簿記なのである。つまり、複式簿記では、予め均衡点が設定されていてそれを集計する形で経済効果を測定しているのである。それがゼロ和である。

 平均値は、測定値に含まれる誤差を最小二乗法に基づいて最も小さくすると考えられる推定値でもある。それは、測定値に現れる結果ではなく、その背後に何らかの真の値が隠されているという考えに基づいている。その真の値が正規分布を構成していると考えるのである。

 平均値によって経済行為を分類することによって取引の結果の分散を正規分布にするというのが複式簿記である。

 分散が重要なのである。そして、分配を測る基準が平均なのである。

 経済を構成する要素の塊の性格を知るためには、塊を構成する要素の密度、即ち、質と量、そして、平均とバラツキを明らかにする必要がある。

 市場は、人の要素の塊、物の要素の塊、金の要素の塊が結び合って形成されると考えられる。
 そして、人、物、金の密度、平均と分散、質と量の不均衡によって経済は乱れると考えられるからである。
 人、物、金を調和させる事によって市場を制御するのが経済政策の目的である。
 その場合、人、物、金の密度が問題となるのである。
 密度を考える場合、分散と平均が重要となる。

 平均というのは、経済を構成する塊の重心を意味する。

 平均の出し方は、重心の出し方と共通している。

 経済事象の統一性を保つためには、人的要素の密度と物的要素の密度、貨幣的要素の密度の重心を遭わせる必要がある。

 貨幣経済は、定量化できる事象だけに価値を見いだす。言い換えると数量化できない事象に価値は見いだせない。例えば、道徳だの、人格だの、神だの、愛情である。しかし、経済的価値は量だけで測る事は出来ない。なぜなら、その物自体の価値を決めるのは質だからである。
 故に、密度が重要になるのである。

 量的拡大は、質的変化を伴う。

 質的な変化を伴わない量的拡大は、ただ単なる膨張に過ぎない。密度を粗にするだけである。

 所得や収益においては、分散が重要である。
 物の生産量の拡大に伴う質的な変化に従って所得や収益の密度も変化させる必要がある。

 量的拡大は質の細分化を招く。
 例えば、食糧を配給に頼る社会では、肉は、肉であり、質的な差は、左程問題にされない。しかし、所得が増えると人々は、嗜好や所得の差によって肉に質的な区分や等級を付けるようになる。それに伴って価格にも差が生じ、価格の働きにも違ってくる。
 この生産物と所得の密度の調和によって経済は正常に機能するのである。
 密度は、豊かさに関わっている。

 経済で重要なのは密度である。

 経済的事象は、人的要素の集合、物的要素の集合、貨幣的要素の集合が組み合わさる事で形成される。
 個々の集合が、すかすかで粗の状態になると経済的作用の力が発揮されなくなる場合がある。
 例えば、人口である。人口問題では、散らばり具合が重要な意味を持つ。
 人口の年齢の散らばり具合、地域的散らばり具合、所得の散らばり具合、性別の散らばり具合が経済の働きにどの様な影響を及ぼすか。また、年代の人口の散らばり具合がどの様に変化していくのか。それが経済を考えていく上では、重要な意味を持つのである。

 統計的な分析、定量的な意味での平均は、定性的な意味では割合と通じる。
 この事は平均という意味の本質を現してもいる。

 均一的状況では変化は起きない。
 複数の要素が一定の割合で分散している状況が運動を維持させる働きがある。

 物を均一に分散しても平等とは限らない。
 取得を均一にしても平等が実現するわけではない。
 なぜなら、人それぞれ、個性が違い、置かれている環境や状況も違う上、これらの状況は一定ではなく、変化しているからである。
 早い話、人は成長している。人は、成長し、成熟し、やがて衰えていくのである。その変化を前提としている。

 変化に合わせて人の働きも、物の働きも、金の働きも変化し続ける必要があるのである。
 故に密度が重要であり、密度変化が経済事象の鍵を握っているのである。

 密度が保てなくて、極端な偏りがあったり、階層があたり、分裂していたりすると経済の効率は著しく落ちる。
 明確な境界線もないままに社会が分裂、分離した状態が一番危険なのである。

 格差だけが問題なのではない、密度も重要なのである。

 極端な格差は社会を分裂させてしまう。
 極端な格差は貧者だを戦闘的にするわけではない。富者も又攻撃的になる。
 争いを生むのは極端な偏りである。
 争いや対立は、社会を分裂させ、極端な場合は、破綻させてしまう。

 分散の集合の分布は、正規分布に近づく。
 分散とは、平均値との距離を意味する。
 つまり、平均値を中心として分散の度合いと量が経済状態を左右している。

 平均値の働きで重要なのは、バラツキの法則性である。表面に現れた数値だけでは、バラツキの法則性は明らかにならないが、平均値をとることで、バラツキの法則性が現れてくるのである。それが正規分布である。

 分散も貸借も売買もゼロ和である。なぜゼロ和になるかというと初期設定や前提においてゼロ和になるように設定されているからである。
 なぜ最小二乗法のような手段がとられたか。それは分散は、ゼロ和だからである。
 分散が、なぜ、ゼロ和なのか。それは、平均からの距離を総て足した値だからである。
 この事が経済では重要な働きを持つのである。そして、正規分布の持つ意味も重要になる。それは無限に足していくと真の分布なる。その真の分布を前提としているからである。
 その場合、平均値を分散の中心とか、重心という意味で考えるべきなのである。

 分散、貸借、売買、収支はゼロ和であるのは、深い意味がある。
 即ち、平均と分散の対称性(シンメトリー)の根拠となるのである。
 複式簿記は、この平均と分散を前提として成り立っているとも考えられる。
 正規分布というのは、普通のありふれた分散という意味である。
 この一般的、ありふれた分散が普遍的な事象を秘めているという事である。
 正規分布は、普遍性や無限、一般という概念を秘めているのである。
 この正規分布という思想は、プラトンのイデアに近い。

 これまで統計的事象というのは現状を測定する目的で使われてきたが、これからは、現状を制御する目的でも使われるべきなのである。

 マスコミは、円安、石油安と盛んに煽るが何に対して安いと言っているのか判然としていない。
 日本のマスコミが円安、円安と叫ぶのには根拠がない。ただ、ドルに対する円の価値の傾向を指して円安と言っているのに過ぎない。

 石油安というのも、同様であり、石油のドルの対する価格を問題としているのである。
 石油価格がいくら下がって同時に円の価格が下がったのでは、実質的には円の価値と石油の価値が相殺されて大差ないという事なもなりかねない。
 石油と為替を別々の事として考えていても埒が明かないのである。

 何に対して円は安いのかは、石油だけではに限った事ではない。
 物価に対しても比べる必要があるし、所得に対しても同様である。
 我々は、報道機関が流す情報を鵜呑みにしていると物事の本質がつかめなくなる。
 物価が上昇していると言っても中には下落している商品もあるし、一律に同じ動きをしているわけではない。
 ある局面だけを捉えて敷衍化してしまうと全体像が見えなくなる危険性もあるし、逆の可能性も否定できない。

 そうなると物価というのも多面的に見る必要がある。物価の中心を何処に置くかの問題であり、平均の問題になるのである。
 だから、平均と分散の計算の仕方が問題となるのである。

 経済状態を比較する事は難しい。
 例えば、物価を比較すると言っても何の価格の変化を物価というかが問題なのである。
 一個のマンゴーが他国の労働者の年収と比較して同等の貨幣価値を持つとしたらそれを豊というか、貧しいというかは、価値観の問題であり、思想的問題である。現実の問題ではない。
 だから、平等という思想に直結しているのである。

 実体的な経済価値を知るためには、複数の要素の変動を総合してその平均を知る必要がある。
 好例が、通貨バスケットと平均である。通貨の価値を考える場合、特定の通貨との関係だけで捉えても意味がないという事である。

 故に、平均と分散が重要であり、平均と分散は平等に通じる概念なのである。

 何に対して何が等しくて、それらを平均したら所得と見合っているかどうか、そういったことを一つ一つ検証しなければ平等とは何かは理解できない。
 例えば、地価が安くてただ同然の家賃で生活している人と一般の労働者の年収、最貧国の労働者から見たら生涯賃金にも相当するような家賃で都会の一等地で生活する人とどちらが豊かなのか。それは価値観の問題である。例え、所得が低くても庭付きの家で質素に暮らす事を豊かだと感じるものにとって都会生活は貧しく見栄るんもしれない。
 家庭料理に価値を見いだす人から見れば、豪華でも毎日が外食では味気ない生活、不幸だと考えるかもしれない。
 田舎のネズミと都会のネズミの話があるが、何を豊かとするかの基準は所得だけでは測れないのである。
 幾つかの集合が複合される事であり、だから分散と平均が重要な指標となるのである。
 平均は平等へ繋がる思想である。それは平等の概念に直結しているのである。

 数の体系は、目的に応じて加工して使うべきなのである。設定と前提が重要になる。そして、その設定と前提にこそ平等に対する意味が隠されているのである。
 根本にあるのは、どの様な生活に価値を見いだすかであり、何を前提とするかによって平均の持つ意味も平等の意味も変わってくるのである。


平均という誤魔化し

 一塊の椋鳥や鰯の群れ。
 群れを構成する一羽一羽の椋鳥や鰯。
 一羽一羽の椋鳥や鰯の大きさや重さ。

 一羽あたり。一匹あたり。一人当たり。一個あたり。一世帯当たり。一国当たり。

 数の塊の素を考えるには、椋鳥や鰯の大群を想像してみるといい。
 夕方、椋鳥の大群が一つの塊のようにして飛び回っている光景がよく見られる。
 椋鳥の大群を構成するのは、一羽一羽の椋鳥である。しかし、それが大群になると一つの塊のように見える。そして、大群の動きを見るとそれはあたかも一つの意志を持っているようにすら見える。
 一つ一つは独立していていながら、一つの全体を持つ塊が数の素となる対象である。数の素とは数えられる要素である。

 大群を構成する椋鳥や鰯に通し番号をつければ、その通し番号が数の塊になる。
 それは、数の集合の性格を現している。
 例えば、数の位置である。数の順序である。数の集合の形である。数の集合の密度である。個々の要素が持つ数値的属性である。要素、数値の数である。

 数を数量に拡大し、数量の集合を考える場合、三つのとらえ方がある。一つは、椋鳥や鰯の大群のようなものとして捉える考え方。二つ目は、プールに貯められた水の塊のようなものとして捉える。三つ目は、岩のような塊として捉える考え方である。

 椋鳥や鰯の大群のようなとらえ方は、数の集合の素に対する考え方である。後の二つは、量に対する考え方である。量というのは、数量を連続したものとしてと捉えた概念である。

 集合の凸凹を平らに均した値を平均という。

 平均という概念は、数の集合の素を水の塊として捉え、その水面の高さを想像すると解ると思う。これは平均という意味を考える上でも役に立つ。
 水面の高さは、水を貯める器の形状に左右される。表から見ると水面は平らに見える。しかし、水面下の形状というのは、表から把握するのは難しい。どの様な考え方で平らにするのか、それが、平均という考え方では重要な意味を持つのである。
 水準という言葉は、水の高さの基準という意味でもある。つまり、平均は、設定によって定まる、前提や目的に基づく概念だという事を意味している。

 このように、平均の概念には、集合の要素を平らに均すという意味がある。
 しかし、平均には、平らに均すという意味以外に、一つ当たり、一人当たり、一個あたり、一世帯当たりと言う意味も隠されている。
 つまり、単位当たりの値も意味するのである。単位当たりの値とは、要素と要素の関連づけや相関関係をも意味する。
 関連や相関関係と結びついているという点から考えると解るように比較の概念にも平均は関わっている。
 平均は単に全体を数で平らに均した値という意味だけではないのである。

 平均は、集合を基とした概念の一つである。

 任意に我々が認識する数の塊には何らかの特性が一般的にはあると考えられる。そのような特性は、属性を持ち、属性は、値、数、順番、座標軸、位置、頻度といった要素によって分類できる。更に、数の集合は、属性によって分解できる。

 数の塊を代表する値をどう求めるか、そこに平均という概念が成立する動機が隠されている.。平均とは、数の塊を代表する値の一つである。代表する値とは、その一つで、数の何らかの性格を表す値を言う。それが代表値である。
 数の塊の性格を表す値には、どの様な値が適切か、それが問題になる。その答えの一つに数の塊の中心をとう定義するかという事がある。
 数の中心という意味の中の一つに平均があり、又、中心値があり、頻度、重心などがある。
 つまり、平均というのは代表値の一つなのである。

 集合というのは、何らかの前提や条件に基づいて集められた点や数と言える。点や数の根底には、何らかの素材がある。と言うよりも集合を構成する点や数は、何らかの対象を象徴している。
 そして、集合を構成している点や数には、何らかの偏りや特性がある。
 一見、平らに見える数の集合にも凸凹がある。しかも、その凸凹には特性や偏りがある。集合を構成する点や数、即ち、要素は、現実の事象を反映したものである。

 任意の対象、事象、塊、集合から数という属性を抽出する。任意の対象というのは、何らかの集合体であるとは限らない。例えば、一人の人間の属性からも複数の数を抽出する事はできる。例えば指や目、耳の数である。これらの数に動作や行為を結びつけることで違う数を付け足すこともできる。

 この様にして抽出した数の集合に、数と数との関係によって幾つかの性格を付加する。性格を付加することによって数を分類する。
 数と対象との結びつきが数の性格を形付けていることを忘れてはならない。

 数の体系は、一つの数の体系によって構成されているわけではなく、複数の数の体系が組み合わさってできあがっている。

 平均化すると集合を構成する個々の要素の個性が一定の基準に均されてしまう事にもなる。それは、個性を消滅させることにもなる。
 この様な平均値の弊害を除く為には、平均値は、集合を代表する指標の一つに過ぎない事を忘れてはならない。そして、平均値の短所を補うためには、分散や偏りの指標も合わせて用いる必要がある。また、平均値以外の代表値、例えば、中央値や頻度なども前提となる条件に照らして平均値に代わって用いることも検討する必要がある。

 よく、平均的なサラリーマンと平均的な生活、平均的な家族などとよく使われる。この場合の平均という概念の背後には、良識や常識という概念と重なる部分がある。
 つまり、平均的な家族というのは、なんとなく漠然とした前提、暗黙の合意によって成り立っている部分があるのである。
 更に、中流意識というのもある。こう考えると平均的家族というのは、暗黙的な了解に基づく常識的な判断による中流的な階層と言う事になる。
 平均という概念は、一般に、この様に曖昧な基準の上に成り立っている。

 平均的日本の家族とか、平均的な日本人と言ったことが言われる。しかし、平均的な家族とか、平均的な日本人と言うのは、考えてみると得体の知れないものである。
 何を以て平均的というのか、何を基準、分母にして平均として言うのかが、多くの場合明確にされていないからである。
 大体、平均的というのは、あくまでも想定上でのことであり、架空の事象である。また、あらゆる要素を平均的にしてしまうと一般化されすぎ、実際には、平均的な家族などどこにも存在しないとも言えるのである。

 しかし、その平均的という言葉が一人歩きし、いつの間にか、我々の生活を支配している事が多い。平均的という言葉を常識や良識に置き換えて見ればわかる。常識や良識という意味には、平均的という意味も含まれているのである。

 人は、皆、違うと思っているはずである。誰だって自分と全く同じ人間がこの世の中にいるなんて思っていないはずである。第一、親や育った環境が違えばそれだけでも、人は、違ってくる。逆に言えば、自分と同じ、人間がいるとしたら、全く同じ親や環境がなければ成り立たない。別次元の世界があれば話は違うが、全く同じ親や環境があるなどという事は、今の世の中にはあり得ない話である。
 人は、皆、違う。それなのに、人は、平等だとか、同じだとかいわれる。それは、人間を同じ存在として認識しなければならない要件があるからである。ならば、なぜ、人は、皆、同じなのだという前提に立たなければならない要件があるのかが重要になる。そして、同じ人間だととらえる事によって何が言いたいのか、何がしたいのかが、重要な課題となるのである。

 人は、皆、違うのである。本来は、全ては皆違うという事を大前提としている。ところが、数というのは、その違いを削ぎ落とす事によって成り立っている。
 個々の要素が持つ、違いを削ぎ落とすと数だけが残る。数値とはそういうものなのである。違いを全て削ぎ落として、共通の基準を導き出すという考え方は、平均という考え方に繋がる。平均は、何らかの集合を前提とした概念である。根本的に、集合を構成する一つ一つの要素は違うのだという事を前提として平均の概念は成り立っている事を忘れてはならない。
 その上で、なぜ、平均を求めなければならないのかを明らかにする必要がある。そうしないと平均の真の意味を理解する事はできない。
そして、数は、認識上の必要性から成立した。その数を素として貨幣は成り立っている。この点を忘れてはならない。平均という概念も認識上の必要性によって成り立っている。

 平均という言葉の対極にある概念の一つが個性である。
 個性と言ったら、他人と変わったことをする、他人と違うところと、我々の世代は、学校で教えられた。
 他人と違うところや違うことをするのと個性とは、違う。
 かえって皆が同じ事をしたら個性は自ずと表れる。
 個性というのは、その人その人が持つ特徴や能力である。ならば、個性を出したかったらは自分を素直に表現すればいいのである。
 例えば、身体的特徴なら、皆が違う服を着ていたら個性はなかなか表れないけれど、同じ服、例えば、制服や体操着を着せればすぐに現れる。肥った者は、肥って見えるし、背の高い者は背が高く現れる。
皆がマチマチの服を着たら生徒の身体的個性はかえってわかりにくくなるのである。
 逆に、それぞれのファションセンスといった目に見えない性格のような個性は、好きな服を選ばせた方が表に現れる。要するに、個性を重んじた教育と言っても他人と違うことをやらせばいいと決めてかかるわけにはいかないのである。同じ事をやらせたほうが個性を際立たせることもある。
ただ集団行動や集団生活では、同じ事をやらせ、共通した部分、一人一人の能力差や個性を見極めた上で、違うこと教え、他の人と変わった事を教えた方が良い。
 つまり、個性を持たせるといっても何に、身体的なのか、考え方なのか、目的によって変わってくる。
 又、ノーマル、アブノーマルと言っても何を基準とするのかで解釈が違う。普通だとか、普通でないと言うのもその人の視点によって違う。
 前提となる条件を常に明らかにし、あるいは確認しないとその意味するところは理解できないのである。
 それに、教育は、本来、合目的なものなのである。
 殊更、人と違ったことを際立たせたり、変わったところを強調することは、当人を孤独にするだけである。それでは、どこまでいっても共鳴、共感をできなくなる。目的を共有できなくなる。
 逆の意味で平均というも単に違いを取り去った、あるいは、均(なら)したという意味ではない。
 平均というのはある意味で位置をいうのである。

 人は、平均というと標準とか、一般という事だと思い込んでしまう。しかし、数の塊は必ずしも均質一様ではない。極端な外れ値があったり、偏りがあったりした場合、平均値は、必ずしも数の集合の中心点を表しているとは限らない。中心点という観点からすると中央値(メディアン)の方が適している場合がある。

 また、平均と言っても一種類ではなく、算術平均、調和平均、幾何平均、加重平均、移動平均等があり。算術平均とか、幾何平均、加重平均と言った平均値の導き方は、母集団の性格に基づく。
 偏差を二乗したり三乗したり、すると母集合の性格を誇張し、歪度や尖度を際ださせる作用がある。

 平均とは、母数の歪みを平らに均した値と言える。母数の性格をよく表していると言える。
 平均とは、個々の部分の特徴ではなく、全体の特徴を表している。故に、平均は、個性を奪う。
 母数の歪みは密度に関係している。

 母数とは、母集団を数字的に抽出した集合である。
 母集合というのは、一定の条件によって集められた物や要素の集合である。
 この様な母集団の特性を理解するためには、母集団をから数字的特性を抽出する事が有効である。母集団から、数字的特性を抽出した集合が母数である。
 平均値は、この母数の全体の特徴を代表する値の一つである。
 母数全体の特徴を表す値を代表値といい。平均値は代表値の一つである。
 代表値とは、数の塊を代表、或いは、象徴する値である。
 代表値には、平均値の他に、中央値や最頻値がある。

 数の塊の形状や性格が数の塊が表している実体の状態を抽象している。数の塊における数の分布の状況を、ただ一つの数値で表した値を代表値という。

 例えば、所得の分布図の形状や代表値、バラツキとか、人口の分布図の形状や代表値、バラツキ等が、経済の状態を表している。代表値の一つが平均である。代表値は、分布図の形状等によって性格が変わってくる。

 平均は、英語ではアベレージ、フランス語のavarie(損害)を語源としている。つまり、そんがやリスクを均等するという意味から派生した。(「数字か?直感か?迷ったら統計を使え?」川出真清著 廣済堂新書)
 平均という概念は、経済に由来している。また、均等に負担するという事とリスクを負担するという事に関わっている。単に平らに均すと言うだけの意味ではない。
 それは代表値の働きを理解する上でも重要な事である。

 即ち、母数の元となる母集団の基盤の歪みに応じて平均にも算術平均、幾何平均、調和平均、加重平均などの別がある。また、平均値は、前提条件や設定によっては変数にもなるのである。

 物価は加重平均である。
 なぜ、物価が加重平均なのかというと、物価を構成する要素の質が一律ではなく、また、個々独立した動きをするからである。つまり、物価を構成する要素は、属性によって偏りが生じる。
 この様な物価の平均値では密度が重要な意味を持つ。
 この様な物価は、単なる算術平均によって表すことは適切ではない。この様に平均の概念は、合目的的であり、一律に規定できないのである。

 平均は、代表値と言うだけでなく。統計的に言うと基準値でもある。そして、統計に開ける基準という働きが重要な意義を持っているのである。

 平均値は、統計上、分散を図る場合の基準となる。即ち、分散は、平均からの距離として表現される。

 平均値は、代表値の一つである事に注目しなければならない。
 平均は、数の塊を代表する数値の一つではあるが、絶対的な数値ではない。数の塊の形状や性格に依って平均の性格も違ったものになる。

 極端な偏りや、ふた瘤の様な数の塊、また、外れ値がある場合は、平均値は意味をなさない。場合によっては、中央値や最頻値を使った方が目的に合致している事もある。

 数の塊を構成する要素が事実によるのか、予測によるのかによっても違ってくるのである。
 また、要素が方向性を持つベクトルなのか、単なる数値なのかによっても数の塊の性格は違ってくる。
 数の塊を構成する要素が無数にあるもの、割りきれる数で構成されるもの、幾つかの数を掛け合わせてあるか、足してあるもの、個々の要素が連続しているもの、何らかの規則や順番があるもの、自然数からなるもの等、これらの塊を構成する数の性格に依って数の塊の働きにも違いが生じる。
 幾つかの数の塊が、相互に影響し合ったり、関連し合っている場合も想定される。つまり、個々の数の塊が独立しているか否かも重要なのである。
 例えば、人口を表す数の塊と所得を表す数の塊を関連づける事によって経済の状態を表す数の塊の性格が定まるというようにである。

 我々は、数というと一つ、二つ、三つと数えられる数、しかも、一の次に二、二の次に三と順番の決まった自然数を思い浮かべる。しかし、本来、数の体系は、数えられるとか順番の決まっているとは限らない。つまり、自然数だけでもない。
 例えば、体を表す数の塊は、口は一つ、鼻も一つ、又、耳は二つ、目も二つ、腕も二つ、足も二つ、手の指は五つ、足の指は五つと、幾つかの数の集まりである。この様に幾つかの数の集まりもある。
 又、素数の集まりのように、2、3、5、7と自然数の1、2、3という並びや順序も、密度も、違う数の集まりもある。
 又、一センチ、二センチと言った長さを持つ数もあるし、一グラム、二グラムと重さを持つ数もある。一度、二度という温度を持つ数もある。
 我々は、知らず知らずのうちに何らかの数の体系を選択し、その数の体系に則って数を活用している。
 しかし、基礎となる数の体系の性格に依って数の活用方法には違いがある。

 又、自然数は、常に一プラスという性格故に、増殖を繰り返す。故に、自然数は無限なのである。どんなに大きな数でも一を足すと更に大きな数字に発展する。この様な自然数の拡大には際限がないのである。自然数の集合は上に向かって開いている。

 数の体系というのは、数の塊、集合を指して言う。しかも、数の塊、集合は有限だとは限らない。無限な体系もある。その一つが自然数である。

 そして、この数の塊の性格が数の背後にある実体の性格をあからさまにもするのである。

 更に、数の体系を番号付けられるかどうかも重要な意味を持つ。

 大きな数は、幾つかの数の塊を組み合わせる事によって成立する。組み合わせるとは、足し合わせたり、掛け合わせる事である。足し合わせたり、掛け合わせるという事は、引いたり、割ったりする事をも意味する。
 そこから、演算は、派生した。

 経済単位も複数の数の体系によって構成されている。

 平均とは、集合の要素全体を平らに均すという意味である。
 集合の要素を平らに均(なら)す事によって集合の要素を他と比較する事が可能となる。
 例えば、日本人の平均所得とアメリカ人の平均所得、中国人の平均所得を比較する事で、それぞれの国の購買力を測るのである。基本的にこのような値は、相対的な値である。
 時点時点における物価の平均を時系列的に比較する事で、物価の変動を図式化したり、予測する事が可能となる。

 なぜ、平均する必要があるのか。
 平均というのは、代表値の一つである。つまり、ある数値の集合を代表する値の一つである。集合を代表する値というのは、集合の性格の一面を表していると言える。代表値には、平均値の他に、中央値(メディアン)や最頻値(モード)などがあるが、この様な代表値は、数値の一つの傾向を表していると言える。また、同時に、集合の性格に依っては、集合の性格を表しているとは限らない。集合の構成や状況に合わせてどの様な代表とが良いのかを任意、主観的に選択しないと重大な錯誤をする危険性がある。
 代表値は、他の数値の集合と比較対照する目的や集合の特性を見る目的で計算される。代表値というのは、合目的的な数値であり、代表値の意味や役割は、目的によって規制されている。

 何でもかんでも平均すればいいというのではない。
 平均が意味をなすのは、目的やデータの集合の形が適合している場合だけである。
 データの集合の形によっては変えて平均は、正確な判断を妨げる要素となってしまう。
 代表値というのは、合目的的な値なのである。

 先にも言ったが、何でもかんでも平均してしまえば、数の傾向が解るというものではない。
 前提となる数の塊の形や性質を見極めないと平均の働きも明らかにならないのである。
 数の塊の形を明らかにする為には図形にするのが手っ取り早い。

 数の塊を図形化するといろいろな事が見えてくる。例えば、階層性などである。数の塊を視覚化する事で、平均の持つ役割も見えてくる部分がある。

 平均の持つ危うさというのは、数の塊をグラフや図形にしてみると解る。山が二つあるようなグラフでは、平均の持つ意味が曖昧になる。
 平均が一番効力を発揮するのは、正規分布のよう数の集合であり、正規分布は事の世界でこそ、きれいに現れるのである。
 統計的な空間、物の世界ではなかなか、きれいなグラフに描ける数の塊はないのである。




何が等しいのか。何を均しいとするのか。



 自然現象の多くは、平均化する。経済現象の多くも、又、平均化する。平均化することを前提として考える事によって人間の科学も、文明も、経済も進化した。(「偶然と必然の方程式」 マイケル・J・モーブッシン著 田淵健太訳 日経BP)

 時間がたてば運は平均化される。

 我々は、普段、何気なく数字を使っている。
 しかし、数字の体系は一種類でなく、何種類かあって、それぞれの体系によって数字の性格や働きが違うのである。
 我々の生活において一番使われているのは、自然数であり、せいぜい言って整数が使えれば日常生活において困る事はない。

 経済で言えば、現金収支は、自然数を基礎としており、期間損益は、整数を基礎としている。そして、財は、実数を基礎としている。
 経済的価値は、自然数と整数と実数を組み合わせる事によって成立している。

 数は、認識の過程で生じる。認識は、認識する主体としての自己と認識される対象である物という二つの要素の相互作用の結果として成立する。
 主体の内部の事と主体の外の物によって数は成立する。

 確率は、事の世界の事象であり、統計は、物の世界の事象である。

 物の世界は有限であり、事の世界は無限である。

 自然科学が物の数学を基礎としているならば、経済は、事の数学を基礎としているのである。

 貨幣価値は、貨幣価値の対象である物と貨幣価値を定める主体、即ち、人と貨幣価値を指し示す指標である「お金」から成り立っている。

 経済で重要なのは調和である。

 経済的な調和は、人と物と金を調和させる事である。
 経済的なもう一つの調和は、取引の対称性にある。

 人、物、金は、各々独立した空間を形成する。
 金は、更に、現金主義に基づく場と損益主義に基づく場を形成する。

 物は、物の場にあり。そして、金は、事の場にある。人は、物の側面と事の側面の両方を持つ。
 物は、一つ二つと数えたり、何らかの尺度で測る事のできる空間である。事の空間とは、数の体系を準備する空間である。人は、物と事とを仲介する主体である。
 人には、人口という物としての側面、労働という働きの側面、所得という事の側面を持つ。
 物には、生産力という制約があり、有限の世界である。
 金は、貨幣の供給の仕組みの問題であり、無限の世界である。
 貨幣の流れは、循環的であるのに対して物流は直線的な流れである。

 人と物と金の調和するとは、基本的に比率によるのである。
 人、物、金の場は、各々独立していて場を構成する要素は完結して、時間的に連続しているからである。
 例えば、生産財の構成は、物の場において均衡している。人は、人の場において均衡している。金は金の場において均衡している。

 物は、生産力によるのであり、労働量と設備、資源、そして、天候のような外的環境、そして、貯蔵力による。貯蔵は、生鮮食料を冷凍するような貯蔵技術による。この様に物理的な特性に左右される。

 人で言えば、人口、労働人口、所得の均衡である。人口は、消費力であり、労働人口は、生産力であり、所得は分配力である。

 故に、人の場における構成比率と物の場の構成比率とお金の構成比率とが経済の状態を決定づけるのである。

 調和とは、それぞれの場を結びつけた上で安定させる事にある。
 生産財と人とを金銭取引、お金の遣り取りを介して結びつけ生産財を分配するのである。

 比率には、主体間の遣り取りの比率もある。主体間には空間的な構成と時間的な構成がある。
 そして、それらの均衡の指標は、期間損益の利益によって測られる。つまり、ゼロサムの関係である。

 経済的なもう一つの調和は、取引の対称性にある。
 取引は、二つの経済主体間で行われる。取引には、基本的に二つの種類がある。つまり、売り買いと貸し借りである。そして、二つの主体間において取引は、対称的である。
 つまり、売り買い取引は、売り手と買い手があって成立する。そして、売り手と買い手では、売り買いの取引は、表裏を為している。取引が成立するという事は、同量の金銭の遣り取りが派生するのである。
 貸し借り取引は、更に、同量の債権と債務が生じる。
 つまり、取引は、売り手と買い手との間では均衡していてゼロサムの関係にあるのである。
 ゼロサムというのは、市場全体では総和が取引のゼロになるという事を意味している。そして、それは、経済主体間の総和もゼロになる事を意味している。黒字主体があれば赤字主体がある。その赤字主体と黒字主体をどう調和させるかが、経済問題の本質なのである。黒字が是で赤字が否としたら、問題の本質が見えなくなる。
 そのためには、空間的均衡と時間的均衡をどう計るが、重要なのである。
 恒常的に黒字な主体ならば債権は累積し、恒常的に赤字の経済主体は、債務が積み上がる。

 又、会計上の関係は、ゼロサム関係である。それに対して、現金や物の均衡は、ゼロサムではない。マイナスが計上されないからである。
 現金収支と期間損益では、均衡や調和の意味が違うのである。

 会計や経済の原則がゼロサムだという事は、会計や経済は、確率や統計の世界に通じる部分がある事を示唆している。

 経済の仕組みとは、物を生産し、循環させる物の仕組みと市場から資源を調達する権利、即ち、現金を分配する仕組み、そして、市場から生きる為に必要な資源を調達して活用する仕組みの三つの仕組みから成り立っているのである。

 三つの仕組みの中で物を生産する仕組みや人を組織は、世界を一つの仕組みに統制する事は不可能である。世界を一つの仕組み統制できるのは、「お金」の仕組みである。
 ただ、現金を決済する仕組みと損益を測る仕組みの会計は、別である。
 なぜ、「お金」、即ち、貨幣制度だけが統一的体系もてるのかと言えば、貨幣制度は、数値に基づく体系だからだと言える。

 キャッシュフローや物の流れの基本は、出、入、残、そして、貸し、借りである。
 「お金」であれば、収入と支出、そして残金であり、過不足は、貸し借りで補う。残高は、貯蓄と見なされる。
 キャッシュフローと物流の場は、自然数を基本とした場である。

 物で言えば、生産と消費と在庫である。
 現金で言えば、収入と支出と残金である。物も現金も0以下の値はない。

 又、均衡のあり方は、拡大均衡の局面か、縮小均衡の局面かにもよる。

 拡大均衡は、支出より収入の方が大きく負債が増加している状態であり、縮小均衡は、収入の方が支出が大きく、貯蓄が増加している状態を言う。

 単位期間の損益を見る場合は、短期的収支だけでなく、長期的収支も勘案すべきである。

 経済を保つのは均衡であり、経済を動かすのは、不均衡である。

 均衡によって保たれる。
 均衡には、空間的均衡と時間的均衡がある。
 又、均衡には、拡大均衡と縮小均衡とがある。

 均衡は、ゼロサムによって実現する。

 即ち、貨幣価値は、ゼロサムを前提として成り立っている。

 整数の世界でゼロサムを均衡点としている期間損益では、黒字が是で、赤字が否なとしたら経済は調和しない。黒字と赤字が均衡する事で調和が保たれているからである。
 そして、期間損益では、空間的均衡と時間的均衡ととの調和が鍵を握っているのである。空間的均衡は、経済主体間の均衡である。これらの均衡は循環によって成り立っている。
 経済主体とは、企業と財政と家計と国家である。
 赤字主体が悪いというのではなく、赤字主体と黒字主体が固定的で調整できない事が問題なのである。
 この様な均衡と不均衡を調和させるのは、重要なのは、振動である。

 市場は、投資によって資金を供給し、消費によって資金を回収するという運動によって資金を循環させている。

 投資には、資金の調達と運用という二つの働きかせある。調達は収入(所得)となり、運用は支出となる。

 最初、政府が紙幣という形で国民に借金をして資金を調達し、公共事業をする。紙幣の担保として金を保有することを義務づけるのが金本位制である。紙幣を発行するのに際して、一般に、最初は金の様な実物を担保とする。国民から国家は、紙幣という形で借金をすることで、紙幣を市場に供給する。
 又、政府は、金融機関に国債を買い取らせて資金を供給する。最初はそのために急速に資金が市場に出回りインフレーションを引き起こす。
 投資は、国家から民間企業へ、民間企業から家計へと順次、転移していく。
ある程度、紙幣が市場に出回ると国家は、国民に対する借入を国債に切り替える。
 紙幣の原形は国債であることを忘れてはならない。

 現金の流れは、血流と言うよりも電流に近い。
 即ち、流れに乗って何らかの物が運ばれるのではなく。通貨が流れる事によって何らかの働きが生じ、それによって仕組みが動くのである。
 現金の流れは、反対方向に物の流れを引き起こす。物の流れを引き起こさない場合は、同量の債権と債務を派生させる。
 この債権と債務か、経済上の正の価値と負の価値を生じるのである。この様にして生じた正の価値と負の価値は、常に均衡している。
 現金が経済主体を移動する時に生じる波動によって経済は動いているのである。
 現金が過剰に流れる時は、負が増大する。負が増大している時は、景気は過熱する。

 格差は、所得より生じる。

 所得というのは借入によらない収入、言い換えると、借入を除いた収入を言う。

 取得に対する消費、貯蓄の比率が鍵を握っている。。
 市場に流通する紙幣の量が市場に対して一定水準に達すると紙幣に対する需要が低下する。それは、所得に対する支出と借入、そして、貯蓄の比率として現れる。
 即ち、所得+負債=支出+貯蓄という恒等式が成り立つ。そして、それが可処分所得を構成する。

 ゼロサムというのは、確率統計的空間であることを意味している。ゼロサムという事は、確率統計的には、平均を意味する。そして、平均からの距離、即ち、偏差と偏差値と標準偏差に相当する部分が意味するところが重大になるのである。
 つまり、現金収支は何らかの基準を意味し、損益は、何らかの平均を意味している。故に、現金収支では現金の実残が重要となり、損益では、利益と損失が重要となる。

 そして、経済的現象は、平均へ回帰していこうという力が働いているという事である。では、ここでいう平均とは何かが問題となる。何が等しいのか。何を均しいとするのかである。

 経済現象を分析する上で、重要な鍵を握っている事は、何が等(ひと)しいのか、何を均(ひと)しいとするのかである。

 何が為替相場を決めるのか。何が為替相場を決めるのかは、為替相場を予測する上では、重要な課題である。為替相場を決定する要因としてよくあげられるのが、購買力平価である。

 購買力平価という考え方は、物価が最終的には、為替相場を決めるという考え方である。最終的にはという意味は、長期的という言葉に置き換えてもいい。

 購買力平価という思想は、平価という概念に帰着すると言ってもいい。
 平価という考え方は、物価だけでなく、金利、即ち、金利平価という考え方も成り立つ。

 金本位制度下では、金平価が重要となる。金平価の働きは、貨幣経済における平均の働きを示唆している。

 購買力平価という考え方の背景には、「一物一価」という思想がある。「一物一価」とは、物の価格はいずれは平均化されるという思想である。

 市場経済は、いずれは、価値は、平均化される。等しくなるという事を前提として成り立っている。問題は、等しくなる事を是とするか、否とするかである。平等という思想は、等しくなる事を是とした思想である。というよりも総てにおいて等しくするという事を最優先した思想である。

 平均という思想にも静的平均と動的平均という二つの考え方がある。静的な平均とは、総てが等しい位置に置かれている状態を言う。それに対して動的な平均というのは、物事を平均化しようとする働きを言う。

 この思想は、熱力学におけるエントロピーの概念に似ている。水は高いところから低いところに流れるように価値は、等しいところに落ち着こうとする。それが自然の法則だと考えるのである。ただ、経済現象の総てを自然現象になぞらえるのには最初から無理がある。
 市場において価値が平均化されるのは、最初に、市場取引がゼロサムに設定されているからである。それは自然に成った成果ではなく、人間がした事である。

 平価にも、人、物、金がある。その中で、物が購買力平価である。金が金利平価である。ならば、人は何か。それは、所得平価である。所得平価は、収入は、一定の水準に落ち着くという考え方である。つまり、市場を支配する価格は、人、物、金の働きによって人、物、金の均衡したところに落ち着こうとする働きがあるという事である。

 物事を何らかの等しい点に落ち着かせようという働きは、経済の原動力となる。なぜならば、経済的価値は一様ではないからである。価値を平均化しようとする働きは、人、物、金、それぞれに固有の構造や性格がある。そのために、市場価値は絶え間なく変動をするのである。そして、経済的価値を落ち着かせようという働きは貨幣価値に還元され、貨幣価値の変動によって経済は動かされているのである。

 産業や個人を同じ物として一律に規制するのは、重大な過ちである。この世にある物は、基本的に違うのである。極端な話、平均的産業とか、平均的な人というのは存在しないのである。
 違う物から共通の要素を抽出し、それを象徴させる事によって言葉や文字、数というのは成り立っている。ただ、根本は違うのである。
 同じ人間はいない。同じ人間はいない事を前提にして、人間とは何かを識別しなければならない。そのために、人間に共通した要素や性格を抽出して人間という存在を特定するのである。その一つの手段が平均である。
 しかし、実際に何らかの判断や策を講じようとした場合、平均的とか、一般的という概念で一括りしていたら重大な過ちを犯す事になりかねない。その点を十分に注意して平均値を求める必要がある。

 経済を動かす原動力は、不均衡によって生み出される。



平均というのは合目的的な概念である



 平均は、集合を前提とした概念である。
 平均は、集合を前提とした概念である以外に、というよりも、集合を前提としているが故に、統計や確率にも重要な役割を果たしている。

 統計も確率も数の塊、即ち、集合を前提として成り立っている。

 統計が、自己の外にある物の世界の事象ならば、確率とは、自己の内部にある事の世界の事象である。

 統計や確率のデータにおいて重要なのは、平均と分布である。
 統計や確率における平均や分布では距離と位置が重要となる。この位置と距離の均衡が、ゼロサムやゼロ和、複式簿記の均衡に繋がる。

 平均というのは、データの形相の中心であり、内心であり、重心である。何を中心と考え、内心と捉え、重心とするのか。それによって平均という概念も違ってくる。故に、平均は任意な定義に基づいて定まるのである。

 これらから平均の意味は、第一に均衡点、第二に、基準点、第三に、中心点、第四に、根拠、目安などがあげられる。

 何を知りたいのかが鍵を握っているのである。何を知りたいのかによって統計に対する有り様、翻って言えば統計の有り様が変化する。何を知りたいのかという事は、何から何を推測したいのと言い換えられる。

 要は何を中心とし、どれくらいの幅で、どのくらいのバラツキがあるか。又、収めるかの問題である。

 平均の働きを考える上で鍵を握っているのは、データの構造である。データの構造を知る上では、必要な要件は、データの数、同じデータが出現する頻度、データの位置などである。
 例えば、平均と言っても平均を境にして平均以上のデータの数が平均以下のデータの数と同じとは限らない。平均より大きいデータの数が平均より小さいデータの数より多かったり、逆に少なかったりする。データの数が等しくしたい場合は、中央値の方が適しているのである。データの位置とは、数によって決まる。

 平均化しないと比較できない対象もある。

 データの分布をグラフに表した時、現れる形が重要な意味を持つ。データの分布をグラフにした時、現れる形には、一様な形、L型、J型、そして、釣り鐘型の正規分布などがある。ただ、必ずこの四つの型に当て嵌まるのでは担い。この四つの型は、代表的な形だと言う事である。
 四つの型の中でも、正規分布は重要である。

 経済において最終的に求められるのは、一人当たりの所得、一人当たりの生産量、一人当たりの消費量、一期間当たりの売上高である。
 つまり、単位当たりの値が基本となるのである。

 平均と言う概念は、思想的な概念である。つまり、何に対し、何を基準として平均を出すのかによって平均の持つ意味がまったく違ったものになるからである。
 そして、平均の出し方は、現代経済に重大な影響を与えるからである。

 平均の定義、平均の出し方が思想だというのは、平均の定義、出し方が何等かの基準に結びついているからである。その基準の中には、正常か、異常かも含まれている。
 だからこそ、何をもって平均とするのかは、一種の思想だといえる。そして、時には、何を平均とするかによって経済の有り様や生活水準が定められていくからである。
 平均的な家庭とは何を意味するのか。平均的な所得とは何を基準とするのか。平均的な寿命を導き出すことで何が解るのか。平均的日本人像が解ったら、どの様な政策をとるのか。
 平均は、標準の根拠となり、標準は、経済や政治の施策の基準となるからである。

 何を何によって平らに均すのか、それが重要なのである。
 その真意を理解しないと平均という言葉に誤魔化されてしまう。
 何を前提としているのか。何を目的としているのかによって平均の意味も、計算式も、値も変わるのである。
 平均は、合目的的概念である事、また、偏りやバラツキと合わせて考えるべき概念である事を忘れてはならない。平均値だけでは、平均の意味は理解できないのである。

 論理の前提は言葉の定義であってどの定義を採用するかは、主観的、任意な選択によるのである。数の体系も同じである。数値で表されたものは一見客観的に見えるが、前提の取り方によって現れる結果は全く違うものになり、解釈もそれによって全く違った結論、多様な結論になるという事を見落としてはならない。統計は、基本的に主観的な認識の下にあるのである。

 合目的的な事象は、前提となる条件や事象が所与とするか、任意とするかによって論理的展開が違ってくる。
 物理的事象が所与の命題を前提としているのに対して、経済的な事象の多くは、任意な命題を前提としている。

 平均値を決める定義や前提は、任意なものである。それがあたかも所与の原則であることのように扱われ、平均的であるか、否かによって、正常か、異常かが判断されてしまっている。
 平均という基準は、あくまでも、任意な前提の上に成り立っていることを忘れてはならない。そして、平均の基準等に対する定義は、事前の合意に基づかなければならない事象なのである。つまり、結果から遡及されるべき値ではないのである。

 平均の持つ意味や役割を知るためには、平均値が、なぜ必要とされるのか。平均を導き出す必要、目的を明らかにすることが先決となる。
 即ち、何に対し、何の平均を出すのかである。それは、平均値を出す為の母となる対象、集合、空間を意味し、又、その範囲を特定する事を意味する。

 何を中心とするのか、その定義によって平均の持つ意味も変わってくる。
 ここで重要となるのが、平均との位置と距離である。

 どの様な目的によって統計学を用いるのかによって平均値を用いるのが適切か、中間値を用いるのが適切かが決まる。この様に、統計学とは合目的的な学問であり、又、平均という概念も合目的的なのである。その意味で、統計学においては、検定という事が重要となる。(「P値とは何か」アンドリュー・ヴィッカーズ著 竹内正弘監訳代表 丸善出版)

 平均に類似した概念に普通、一般、正常という概念がある。そして、普通、一般、正常の対極にある概念を思い浮かべると平均の概念の意味が見えてくる。
 普通の対極にある概念は、個性とか、独創である。一般の対極は、特別とか、特殊である。正常の対極にあるのは、異常とか、偏向である。
 平均は、これらの概念の対極にある概念だと考えていい。

 一般というのは、平均を表した概念の一つである。
 平均とか、一般的というと当たり前な事だとか、当然の事と決めつけてしまう傾向がある。そして、それは、普遍的な事だと思い込んで、検証しようともしなくなる。実は、その思い込みが危険なのである。
 平均という事自体、ある種の虚構である。平均とか、一般とかの概念で、説明したり、説明される場合は、どのような立場で、何を基準とした時、それが一般的で平均的なのか、その点を、常に、確認する必要がある。

 データの値を足してデータの数で割る。それが平均値である。ただ、必ずしも単純にデータの値を足せばいいと言うのではない。どの様に足してどの様に割るかによって平均に対する考え方、思想が現れる。数学とは、定義と論理によって表す思想なのである。
 平均は、何と何を足し合わせるのか、そして、何の数によって割るのかが、重要になる。第一に、それは任意である。つまり、平均は所与の値ではなく、任意の値である。
 つまり、平均値は一つではなく、平均に対する考え方で決まる値だと言う事である。

 答は、一つだとは限らない。ただ、事実は一つである。

 学校の試験の答は基本的には一つである。しかし、現実の社会では答は一つだとは限らない。物の値段だって一つだとは限らない。
 つまり、学校の勉強には、正解がある。しかし、社会には、正解と言える答はない。答は一つの見解に過ぎない。
 人生に正解はない。答は一つではないのである。人生において、答は、結果でしかない。
 又、答は、前提条件によって違ってくる。故に、何を前提としているかが重要なのである。

 常識や良識ほど厄介なものはない。常識とか、良識と言っても確たるものがあるわけではない。常識や良識と言っても個人差があり、人それぞれ違いがある。
 それに、一歩間違うと決め付け、偏見や先入観みたいなものになる。現に、過去においては、固定観念のようにとらわれて排斥されたこともある。しかし、常識や良識がなくてもいいのかというとそうではない。常識や良識がある程度なければ社会としてのまとまりや規律が守れなくなる。公序良俗がいい例である。
 普通とか、一般、標準というのも同様である。普通の人というのは、どの様な人を言うのか。一般的なこととはどの様なことをさすのか、何等かの基準があるわけではない。普通とか、一般、標準と言っても明確に定義されなければ前提とはならない。しかし、明確に定義をされると、我々の実感とはかけ離れてしまうこともある。

 平均を定めるのは目的である。平均というのは、元来、合目的的な指標なのである。データには、形相、構造がある。平均とか偏差というのは、このデータの形相や構造を表す概念である。

 平均を出す目的は、多様である。

 平均を出す目的として第一に比較することがあげられる。例えば、子供の成長を年齢別に見る為に、学年毎に平均身長を出すとか、また、学力を他の学校と比較するために、成績の平均値を出すと言ったことがある。
 第二に、基準値の設定である。例えば、会計では、在庫残高を確定するために、仕入額の平均を出すと言った事が求められる。
 第三には、予測や推測があげられる。過去の平均気温から将来の気温の推移を予測すると言った事がある。

 平均値とは、特定のデータの集まりの傾向を見るために計算された代表値の一つである。平均値を導き出すための元になるデータの集まりの基準が不明確だと平均値を出す意味がない。(「統計、確率のほんとうの使い道」京極一樹著 じっぴコンパクト新書)
 例えば、国語と数学の試験の平均点を出したとしても受験生の傾向は掴めない。
 つまり、平均は、元データをどの様に特定するかが、重要となるのである。




平均に対する考え方




 民主主義的思想を構成する要素とし、自由、平等、友愛の三つがあげられる。中でも自由と平等は根本理念とされる。

 現代経済は、定型化する事によって成立したともいえる。その典型が収入の定収化である。
 定型化、定式化するとは、平均化、標準化でもある。そして、何に基づいて平均化、標準化するかが、経済の体制に影響を与え、経済の下部構造の形成を左右したともいえるのである。
 そのようにして形成されたのが市場構造であり、貨幣制度であり、会計制度である。
 平均化は、経済制度の形成にも重要な役割を果たしたのである。その根本が、平等であり、自由の概念である。自由や平等の概念は、観念的な概念と言うより、実体的、制度的概念、すなわち、現実の制度や仕組みに反映される事で表現される概念である。同様の概念に資本の概念がある。

 それ故に、平等や自由の概念が明確に、言葉によって定義されているわけではない。その為に、いろいろな自由や平等に対する解釈が発生している。
 中でも、平等という概念は、捉えにくく、平等を同等や均一と言う考え方で括ってしまおうとする人達が多くいる。
 しかし、平等は存在に関わる概念であり、同等や均一という概念で捉えきれるものではない。
 この同等や均一という概念の背景には、平均という概念が隠されている。
 そして、それが平均的日本人とか、平均的サラリーマンと言った発想に結びつくのである。

 しかし、一口に平均的と言っても、根本的な考え方によっては、まったく違った結果が導く出される。

 平均の概念は、統計で言う、代表値の一つである。
 代表値というのは、何等かの数値集合の特徴を表す数値を言う。
 代表値は、次数で分類される。次数で分類するというのは、例えば一次の代表値はデータを二乗、三乗、四乗しない表される代表値であり、典型は、平均である。一次の代表値には、他に、最大値、最小値、最頻値(mode)、中央値(median)、平均偏差などがある。
 二次の代表値には、標準偏差、分散がある。
 三次の代表値には、歪度(わいど)がある。
 四次の代表値には、尖度(せんど)がある。

 最大値、最小値、最頻値、中央値、平均は、要素の位置を表す代表値である。
 偏差や分散は、要素のバラツキを表す代表値である。偏差には、平均偏差と標準偏差がある。
 歪度は、要素の偏りを表し、尖度は、要素の集中度を表す代表値である。

 統計的概念で重要な概念は、平均と分散である。平均と分散は、平等と格差の根底を成す概念である。

 統計の元となる数値は、数以外の意味があるわけではない。数以外の意味は、数値の実体の背後に隠されている。この事を前提としておかないと統計から導き出された規則や法則、関係の持つ意味を正しく理解する事ができない。

 数学的な世界というのは、数値によって表現された世界である。数値というのは、ある意味で平等である。つまり、富む者も、貧しい者も、体重とか、身長とか、寿命と言った表面に現れる数値は平等に表現される。金持ちだから、幾分、身長が高めになると言うわけではない。
 平等でないのは、数値の背後にある現実の世界である。そして、表に現れた数値から裏にある不平等な部分や歪んだ部分を洗い出すことが重要なのである。
 そして、現実の世界は、数学の様に足して二で割ればいいと言う世界ではない。割り切れない不平等な世界である。
 故に、平均と分散が重要になるのである。平均と分散によって社会の歪みや偏りを炙り出すのである。

 我々が、日常、目にする世界は、規則的な世界でも、規格化された世界でもない。外見から見ると不規則で無原則な世界である。
 単位は、対象を平均化する過程で生じたと言える。
 つまり、何等かの対象を選んで、その長さとか重さを一定の値に標準化して、それを一定の単位に定めることによって単位は成り立っている。

 この標準化という操作は、平均化に通じる操作である。そして、平均化は、平等の前提ともなる概念である。

 何等かの集合を、特に、何らかの人の集合を平均化することによって平等の概念の前提が確立される。
 しかし、現実の社会は、分散や偏りのある世界である。この分散や偏りを平らに均す事によって平均という概念は成立する。そして、平均化された部分の一部が単位へと発展するのである。

 平均に対する考え方には、算術平均、幾何平均、調和平均、荷重平均等があり、どの考え方に基づくかは、平均値を出す目的に依る。故に、平均というのは、合目的的概念であり、思想なのである。
 平均は、空間と範囲、時間に関わる値だと言える。

 算術平均は、線形的な平均であり、幾何平均は、指数的平均である。時間的平均を考える上で、幾何平均は重要な意味を持っている。

 平均の出し方も、多様である。

 平均には、空間的平均と時間的平均がある。

 空間的平均の出し方には、相加平均、相乗平均、調和平均、中間項平均、加重平均などがある。(「統計・確率のほんとうの使い道」京極一樹著 じっぴコンパクト新書)

 また、時間的平均、時系列的な平均の出し方には、移動平均というやり方もある。移動平均には、単純移動平均、加重移動平均、指数移動平均、三角移動平均、正弦移動平均、累積移動平均などがある。平均の出し方と言っても単純ではないのである。初期設定によって全然違った値にもなる。

 平均を空間的、時間的な値だとすると、平均は、単に、単次元的な値として捉えるだけでなく。多次元的な値として認識する必要がでてくる。故に、平均値の出し方は一律に規定できないのである。

 平均化するためには、平均化が可能でなければならない。平均というのは、あくまでも量的な概念である。つまり、平均化するためには、対象が数値化されている必要がある。それが前提である。

 平均とは、数値を根本とした空間で意味を持つ値である。現実の社会では、平均という概念は、あまり実体的ではない。良い例が、食料である。いくら平均したところで現実に食糧が不足した時間が長ければ意味がないのである。
 それはお金でも同じである。必要な時に必要なだけのお金がなければ意味がないのである。

 平均という概念は、必ずしも実体を反映している数字ではないと言う点を忘れてはならない。

 反面、貨幣という数値的価値を基盤とした社会においては、平均という概念は重要な役割を担うことになる。




数値の魔力



 数の世界、その最たるものが教育であり、経済である。教育では、何でもテストの成績で測ろうとする。経済社会では貨幣価値が全てである。つまり、学校ではテストの成績によって人格まで測られてしまうし、経済社会では、金、金、金である。つまり、数値で表された評価が全てである。その為に、教育や経済では、数値に表せない部分が評価されなくなるのである。

 かつての教育は、人格の陶冶を目的としていた。教育本来の目的は、社会人としての人格形成にある。特に、国民国家においては、国民としての権利と義務を正しく理解させることに教育の目的がある。
 しかし、一度、成績が数値化されると、数値が一人歩きするようになる。試験の点数だけが問題とされるようになり、教育は、単なる試験のための技術指導に成り下がる。そこには、教育の理想など欠片もなくなる。その結果、教育の現場から倫理観が消え失せてしまうのである。
 苛めが悪いと言うが、では苛め問題の背後にある問題な原因とは何か。その原因が明らかにされずにただ、表面の現象ばかり負っても問題の根本的な問題には結びつかない。

 多くの社会問題や教育問題、経済問題の対策が、因果関係を現象の解析や予測に直接結び付けていない。多くが観念的な理念や憶測を本としている。
 それが教育現場、経済現場をより一層混乱させる原因となっている。
 大体、経済の変動に対する処置は急を要する事象が多くある。ところが、対策を立ててそれを実行するのに、今の国の仕組みでは、時間がかかりすぎる。また、その効果が現れるのにさらに時間がかかる。効果が現れる頃には、何の目的で施行されたのかも解らなくなっている場合が多い。
 重要なのは、時機を得た施策なのであり、適切な時機に施策を打つためには、現象の背後に潜む、仕組みを知る事なのである。
 石油など輸入原材料価格が上昇している時に、キャッシュフローの値が悪化したところに融資を控えるように金融機関に指示をするのは、中小企業を潰すような施策である。なぜならば、石油や輸入原材料の価格が上昇すれば、中小企業の資金繰りが悪くなるのは必定だからである。
 収益がいつ、どの様な環境、前提によってどの様な傾向や数値を示すのかが解らないで政策を決めるべきではない。

 数値は、現代人に対し、ある種の魔力があるように思われる。数値で示されると多くの人は、射すくめられ反論できなくなる。
 私の父は、最近の若い医者を信用しようとしない。なぜならば、最近の若い医者は、パソコンの方ばかり見て、自分を見ようとしないと言う。初老の町医者は、自分の顔を見て診断してくれる、信頼している。この信頼や安心と言う事がどれだけ常用なのかを最近の医師は忘れている気がする。
 数値は、方程式が与えられていれば初期設定によって決まってしまう。つまり、実際に重要なのは、方程式以前の問題、前提条件をどの様に設定し、何を問題とするのかなのである。

 かつては、中道的な生き方が理想的な生き方とされた。中道的な生き方というのは、言い替えれば、平均的な生き方という事であり、突き詰めてみると普通の生き方と言える。しかし、この普通の生き方というのが考えてみれば難しい。
 平均的という意味には、一般的とか、普遍的という意味もある。
 今の若い者は、普通に金持ちなんて言うが、金持ちという事自体が既に普通ではない。反面、普通に貧しいというのも普通ではない。
 人間誰しも自分のことを普通だと思っている。自分の事を普通ではないと思っているとしたら、確かに、それ自体異常である。
 そうなると自分の考え方と違う人間は悉く普通ではないという事になる。
 ここに、常識なり良識と言われる事柄の落とし穴がある。普通なり、一般的と言う概念の前提となる客観という立場自体が損なわれてしまうのである
 所詮、普通とか、一般的と言ったところで、主観的なものなのである。
 結局、平均という概念は、合目的的なものに過ぎない。ならば何が目的かが、重要となる。

 数学を成り立たせた要因には、物理的な要因と、社会的要因がある。社会的要因の中でも経済的要因が果たした役割は大きい。ところが、現代の数学では、社会的要因、動機が忘れ去られている。その為に、数学は、役に立たないと言った偏見が持たれているのである。また、数学者は数学者で経済や社会にかかわる計算なんて愚にもつかないことだとなめてかかる傾向がある。
 しかし、数学というのは生きた学問であり、現実の社会で数字は、生きていく為に欠かす事のできない必需品、道具なのである。
 経済に数学を生かすことは、数学、経済、両分野の人間の使命だとも言える。

 平均とか一般的と言った概念は、明確なようで曖昧模糊としている。

 一般で言う平均というのは、単純平均を言う。だから、平均というと、総計をデータの数で割ったものと簡単に思い込んでしまう。
 しかし、平均という概念は、それほど単純なものではない。

 何をもって平均というのかは、前提に左右される。特に、その前提となる対象と認識によって定まるといっていい。故に、平均という概念は、合目的的概念だと言える。
 対象となるのは、何等かの集合である。

 平均、あるいは、平均値というのは、集合の性格を表す、代表値の一つである。故に、平均の概念を明らかにするためには、その前提となる集合を明らかにする必要がある。

 対象となる集合は一定の前提条件によって制約されている必要がある。さもないと平均を出す意味がなくなるからである。
 いい例が、国語と算数の成績が混ざり合った集合の平均値を出しても意味がないのである。

 平均という概念は、統計的概念だと言える。平均というのは、代表値の一つである。代表値というのは、基となる集合の性格を表す値を言う。故に、平均は、基となる集合が、何等かの社会現象を表した数値の集合である場合、基となる社会の性格を表している数値だと言える。

 統計は、ある意味で数学の本質の一面を表していると言える。統計は、純粋数学が失った部分を持つが故に、今、現実の世界で実際に役に立っているのである。確かに、統計は、純粋数学の持つ洗練さや優雅さ、美しさを持っていないかもしれない。統計は、純粋数学から見れば、粗野で、粗削りで、泥臭く、生臭い、不完全なものである。だからこそ、数学的だとも言える。

 純粋数学は、数式という概念に特化し、数式以外の属性を削ぎ落とす事によって成立している。その為に、数式に現れてこない属性というものが欠落している。しかし、物事の本質の多くは、数式には現れてこない。現実は、数式とその背後に潜む実体とを照らし合わせることで明らかになってくるのである。
 人格は、試験の点数だけでは推し量れない。苛めの背後にあるのは、数値絶対主義である。
 むろん、試験をなくしたとしても苛めがなくなるわけではない。しかし、苛めの解決の糸口は見つけやすくはなる。なぜならば、苛めの背後にある因果関係を求めやすくなるからである。原因の多くは、点数では推し量れない属性にあるからである。そして、その属性を明らかにしようとした時に威力を発揮するのが統計である。だからこそ、統計は、数学のある一面を象徴していると言えるのである。

 平均という概念は、均衡という概念にもなる。均衡とは、安定した状態である。平均化というのは、この安定した状態を作り出す条件にもなる。安定かというのは、取り方によっては、不活性化にもなる。故に、安定と活動というのは、なかなか結びつかないのである。

 企業分析でも成長性と安定性は、二律背反の関係としてみられる場合もある。ただ言えるのは、是々非々の問題ではなく、前提条件、即ち、どの様な環境を前提としているのかの問題だといえる。

 平均には、数の集合の値は、平らに均すという意味がある。それは、一定の値や直線に回帰させるという意味にもなる。平均と言う概念の延長線上に回帰直線や回帰分析がある。
 この事から平均を求めるとは、集合の偏りや傾向を明らかにする事にもなるのである。

 現代社会において平均は、世の中の中心の所在や偏りを測る上で欠かせない概念だからである。
 平均の所在によって事象や現象の中心や偏りが測られる。それが意図的に為されれば、平均によって社会や経済の中心や偏りがつくられることになるからである。何を基準に、どの様にして平均を決めるかは、現代社会を考える上で重要な意義を持っているのである。

 率直に言うと平均という概念が成り立たなくなると経済体制の基盤が揺らいでしまうのである。それくらい平均という概念は、重要な機能を現代社会では、果たしている。

 ところが、それだけ重要な概念である平均が、常に、成り立つとは限らないのである。

 平均というのも一つの思想だと考えるべきなのである。その前提に基づいて平均の意味を定義する必要がある。自明な事のように平均という言葉を使われると平均化の意味と弊害を見落とす危険性があるからである。

 何を基準に、何に対して平均化するのかという事を明らかにするのが、平均化をする上での前提条件となるのである。何を分母とし、何を分子とするかが重要なのである。

 平均というのは合目的的な概念であり、何を前提としているかによって平均という意味も違ってくる。また、平均という概念そのものが成り立たなくもなる。
 平均というのは、何等かの基準を共有している集合に対してのみ成り立つのである。
 また、集合と言っても何でも成り立つわけではない。国語と数学を合わせたテストの平均点をとっても意味がない。また、国語のテストといって違う問題のテストの平均をとっても成り立たない。
 日本語と英語のテストの平均点をとっても意味がないのである。
 また、平均と言ってもピークが二つあるような集合でも平均を出す意味がない場合がある。つまり、平均は、正規分布である集合を前提としている場合が多いのである。



経済的な意味での平均


 経済を考える上で平均化というのは、重要な意味がある。
 例えば、収入を平均化することで、今日の経済は成り立っていると言える。収入を平均化するとは、定収入化を意味する。一定の収入が保証されていることで、長期的な借入を実現することが可能となったのである。そして、長期の借入が可能となったことで、資金の有効活用も、又、可能となったのである。
 収入が平均化されるという事は、平準化されることを意味する。
 収入は、本来、不安定なことである。給与所得は、その不安定な収入を安定化する働きがあり、景気の変動の影響をやわらげる効果がある。

 定期的に支払われるお金が、生活や景気、経済の一定のリズムを作り出す。さながら、鼓動や呼吸のようなものである。それが一定の金額であれば、尚更、安定的なリズムになる。現代経済は、この定期的に、支払われる一定額の所得を基準にして形成されている。だからこそ、平均という概念が、現代経済では重要な意味を持つのである。
 一人当たり、一所帯当たり、一定時間、一社当たり、一事業所当たり、一キロ㎡当たり、一㎏あたりと一つの単位当たり値が重要な意味を持つのである。
 それが貨幣価値に要約されると単価になる。

 平均化という概念から、標準化、平準化という概念が派生する。その標準化、平準化が現代の経済の鍵を握っているともいえる。
 又、平均化は、一般化にも通じる。この様な平均化には、偏りをなくし、格差を是正しようとする働きがある。

 物事は、平均化されることによって安定化をえる。
 現代社会は、平均化されることによって安定した社会の上に成り立っているとも言える。

 一例を上げると、現代社会は、収入が平均化された事よって成り立っているとも言える。

 収入や支出をいかに平均化するかと言う事は、現代経済を考える上で重要な課題である。
 経済体制を構築していく上で、何を基準に、何に対して平均化するのかという事の前提条件となるからである。
 それは、期間損益を確立する上での前提となるからである。つまり、収入を平均化することによって期間損益は確立されたのである。

 そう考えると、収入や所得の平均化と言うのも一つの思想だと考えるべきである。そして、平均化の前提は、経済的価値の数値化と一元化である。経済的価値の数値化と一元化の為の手段が貨幣なのである。

 収入を平均化するという事は、経済的価値を平均化することに繋がる。それが期間損益を成立させるための前提となる。経済的価値を時間的に平均化することは、時間的価値の単位化に繋がるからである。

 収入の平均化は、収益や所得の概念の前提となる。

 収入の平均化を実現するために、先ず、大前提になるのは、経済的価値を貨幣価値に一元化すると言う事である。つまり、貨幣、即ち、「お金」を現代経済の前提条件とする事によって成り立つのである。
 それが、貨幣価値と経済的価値を同一視したり、貨幣価値が経済的価値を決定しているかの錯覚をもたらしているのである。金に換算されないものは、現代経済体制では経済的価値を持たない。
 経済的価値が貨幣価値に一元化された事に伴って経済的価値の性質も変わった。経済的価値は、量の問題に転化したのである。
 又、貨幣の質も変化したのである。この貨幣の質的変化に現代人は無自覚である。つまり、貨幣は、それ自体が価値を有するのではなく。経済的価値を数値によって表す表象、指標でしかなくなったのである。

 貨幣価値が数値的価値であることによって経済は、数値的な現象、経済的価値は、数値的価値だと言う思い込みを生み出したのである。

 そして、貨幣価値への変換は、価値の数値がだと言う事を意味する。経済的価値が貨幣価値に一元化された時点で経済は数学化されたと言っていい。そして、経済は、数学的現象として捉えられるようになったのである。数学的というのは、抽象的事象だという意味もある。つまり、数学化は、経済の抽象化も意味する。

 賃金、即ち、労働を貨幣価値に置き換えることによって所得の平均化が計られた。その反面において、労働の抽象化が進んだのである。労働は単なる時間の関数でしかなくなりつつある。つまり、労働から個性が失われつつあるのである。労働は、きわめて人間的な行為だというのにである。近代経済とは、数値的経済なのである。

 支払手段である貨幣が一定の所得と言う形で定期的に支給されるという体制は、経済を考える上において重要な意味を持つのである。
 一定の収入が定期的に支給されるという事実は、経済の仕組みにおける核となるのである。それによって借金や消費と言った生活の基盤が計画に構築できるようになる。
 又、近代税制も確立されたと言える。
 その背景にあるのは期間損益という思想である。

 期間損益は、収入と支出を平均化するための必要性から生じた思想である。

 以外と見落とされている企業の機能が、収入の平均化という働きである。企業経営者が利益を平準化したいという動機は、収入と支出を平均化するという企業の働きにもよるのであり、あながち否定的にとらえることとは言い切れない。

 即ち、企業には、経済現象を整流化するという役割があるのである。不安定な収入や支出の流れを一定な流れに整流する働きが企業にはある。そして、一定の幅に資金の流れを調節することによって経済の仕組みを極端な変動から保護しているのである。
 そして、一定の幅に整流化された所得を基盤にして税制度や金融制度は成立しており、又、金利や地代、家賃、配当と言った時間価値は構築されているのである。

 月給取り、給与所得者は、貨幣経済の成立によって生まれた。
 日本で言えば、明治維新以後である。それまでは、武士は俸給を受け取っていたが、それは、家禄であり、月給というのとは違う。
 月給、給与を成り立たせている要件は、第一に、契約に基づいているという事である。第二に、労働に対する対価だという点。第三に、貨幣によって支給されているという事である。第四に、一定の基準によって定期的に支払われているという事である。第五に、最低限の支給額が保証されているという点である。第六に、一定の期間の雇用が保証されているという事である。
 つまり、契約によって長期的に一定額の賃金が定期的に支払割れる仕組みが確立されているという事が重要なのである。そして、この様な分配機能を前提として経済の仕組みの基盤が構築されているのが近代の経済体制なのである。
 今日では、総理大臣も、個人事業者も給与所得者と見なされる。それは、給与所得が社会制度の前提になりつつあるからである。

 この様な雇用体制が確立されることによって信用制度の基盤が整い、住宅ローンや割賦と言った長期、短期の借入制度が可能となるのである。又、所得税を課すことも可能となる。保険制度や年金制度、医療制度と言った社会保障制度も可能となる。

 安定した所得が維持されなくなった時、税制も金融制度も破綻し、財政や企業、家計が成り立たなくなるのである。それが信用不安である。

 この様な事を鑑みると、所得の水準が経済に決定的な影響を与えていることは明らかである。
 又、給与の構成が重要となるのも頷ける。給与明細を見て明らかなように、支給額と手取に差があり、手取と可処分所得にも差があるのは、意味のないことではないのである。

 期間損益というのは思想である。期間損益という思想によって今日の経済は、支配されている。重要なことは、期間損益が基盤としているのは、収入と支出ではないという事である。期間損益を成り立たせている収益と費用という概念と収入と支出という概念は別のものである。
 そして、期間損益の基準にそって収益や費用の値が導き出され、期間損益計算によって導き出された数値に基づいて所得が設定されているという事である。しかも、課税対象や投資、投資の基準が所得や収益におかれているのである。
 この点を正しく理解しておかないと現代の経済現象を解明することはできない。

 未実現利益や減価償却費は、内部取引、即ち、架空取引であり、外部取引、即ち、市場取引の実体を伴わない。実際の貨幣の移動がないのである。この様な取引は、数学的操作にすぎないのである。

 収益という概念も収入という概念とは違う。現金収入という点からすれば、借入金も収益と同様、収入になる。それでは、借金と売上の見分けがつかなくなる。だからこそ期間損益が生まれたのである。財政には、この借金と収入の区分が明確にされていない。だから、財政赤字と国債残高の関係が判然としないのである。

 会計的な観点から平均という概念が与える影響を見ると、在庫評価などは、平均と言う思想が重要な役割を果たしている。また、減価償却も費用の平均化の手段といえないこともない。
 いずれも、科目や基準を変更するといった操作で、巨額の利益が出たり、損失が出たりする。また、会計と税制との乖離が問題にもなる。
 なぜ、この様なことが問題となるのかというと期間損益は、実際の資金の動きに連動しているわけではなく。単位期間の収益と費用を平均化したものだからである。それ自体が問題なのではなく。平均化の持つ意味と効用、影響を理解せずに、企業を経営したり、或いは、経済政策や金融政策を講じていることなのである。
 平均化の影響は短期的視点からだけでは理解できない。目先の利益をおって長期的な平均化の影響を理解していないと収益と費用が均衡しなくなり、長期的に安定した利益を確保することができなくなる。平均化というのは、長期的均衡を前提とした操作なのである。

 費用の平均化という事を正しく理解していないと、企業の資金繰りや景気の変動に深刻な影響を与えることがある。

 期間損益というのは、この様に抽象的概念から成り立っている。即ち、数学的、会計的思想なのである。

 また、経営や経済では、変化における平均が重要となる。変化の速度と方向が経営や景気の動向に重大な影響を及ぼすからである。

 統計的思考で重要なのは、平均と分散である。
 平均と分散は、平等と格差の本となる概念である。

 経済的に見て、平均と分散は、静的な平均と、動的な平均があり、静的な平均は、空間的平均、動的な平均は、時間的平均に置き換えてもいい。
 動的な平均で重要なのは、確率の幅、つまり、変動率(ボランタリティ)である。この変動率は、経済を推定、予測する上で重大な鍵を握っている。
 変動率の中心は、平均変化である。この平均変化の軌跡と変動率が経済予測を左右する。
 変動率は、時間的な分散を意味する、空間的な分散を計る尺度の一つに標準偏差がある。

 変化の平均は、微分に依って表すことができる。変化の総量は積分によって計算できる。

 経済的価値には、名目的価値と実質的価値、あるいは、実物価値がある。
 名目的価値とは、取引が成立した時点における貨幣価値を言い。実質価値、あるいは、実物価値とは、その時点における財の取引相場の貨幣価値を言う。実物価値には、物価上昇に伴う時間価値が加わる。故に、実質価値に換算する場合は、その時点、その時点での物価を考慮して換算する必要がある。また、地域や季節によっても物価の水準や構造には変動や差がある。この点も考慮する必要がある。

 時間や地域による物価の変動を平らに均さないと経済の実質的な変化を見極めることは出来ない。

 一年当たりとか、一人当たりと言ったように数値を一定の単位に要約する必要がある。その様な過程で対象が平均化されてきたのである。

 一年当たりという単位に平らに経営状態を均(なら)そうとする手法が期間損益である。

 平均をどの様に定義するかは、経済にとって重要な意味を持つのである。その典型的事例が在庫の評価である。

 統計や確率は、濃度、密度の問題だとも言える。
 貨幣価値も濃度や密度が重要となる。つまり、平均と分散が重要となる。
 インフレーションやデフレーションは、貨幣価値の濃度、密度の問題に還元することも可能である。

 経済で重要な操作の一つに平均化がある。標準化、平準化は、平均化の手段の一つである。

 経済的な平均を測る基準には、ノーマル、アブノーマルがある。つまり、平常か異常かである。平常も平均の概念の一つだと言える。

 期待値というのは、統計的に見て平均を意味する。期待値というのは、企業経営をしたり、経済政策を立案する上で重要な役割をする。
 期待値は、当然、収益予想や投資予想に結びつく概念だからである。
 経営状態を考える上では、正常か、異常かを測る基準は重要な意味を持つ。そこでは、同業者の平均と期間平均が重要な指標となる。

 平均は、統計的な概念でもあり、集合を前提として成り立っている。

 経済的な統計においては、平均と分散が重要な意味を持つ。平均と分散を見る上では、図形が重要な意味を持つ。つまり、平均と分散を考察する上では、その元となる集合の形が重要な意味を持つのである。
 留意しなければならない事は、確率の分布には、形があるという事である。
 その中でも、正規分布は重要である。

 正規分布は対称的な分布である。しかし、現実の分布は非対称的なものが多い。ただ、経済や取引には、随所に対称性が現れる。故に、正規分布が重要となるのである。

 特に、会計は対称性を持つ。この対称性は、複式簿記からきている。会計において重要になるのは、平均と分散である。
 会計における空間的平均の考え方には、単純平均と加重平均がある。また、時間的平均では、移動平均が重要な意味を持つ。

 経済においては、時間的平均と時間価値の関係が重要となる。
 時間価値があるから、貨幣価値は、時間的変化と伴に上昇する。そして、貨幣価値の時系列的変化の基本は指数的な変化である。

 平均を確定するためには、範囲を設定する必要がある。また、平均の意味を定義する必要がある。それらが前提条件である。

 平均と標準とを混同しないように注意しなければならない。そのためには、平均と標準の意味を明らかにしておく必要がある。
 平均というのは、特定の集合の代表値の一つである。集合の数値を平らに均しくする事を平均という。
 標準というのは、基準、判断のよりどころ、或いは、あるべき形、手本、又は、普通、一般という事を意味する。
 標準は、あるべき形を意味している。あるべき形は、一般とか、普通をも意味する。そして、それは判断の基準である。故に、平均という概念に結びつく。しかし、平均と標準とは意味が違う。
 標準で大切なのは形である。標準とされる形と現実の数値の差が、全体の歪みを表している。
 標準の前提は、標本である。標準というのは、あるべき形を意味する。即ち、標準は構造を持つ。
 標準に対する歪みを見いだす為には、ここの標本となる集合の平均値、分散、それと誤差である。平均値は、集合を構成する値を平らに均しくした値であるから、土地で言えば整地したようなものである。しかし、平らにすれば、それが標準になるかというと必ずしもそうとは限らない。標準というのは、いろいろな要素が絡み合って形成されるものである。特に、母集合ではなく、部分集合や標本である場合は、他の部分との関係によっても標準は変化する。
 売り上げの平均とか、社員数の平均と、借入金の平均と言った事を調べても、それが、何らかの対策や解決策に結びつかなければ意味がない。
 平均も、ただそれだけでは、対策や解決策に結びつくものではない。その点、基準や手本、即ち、標準は、全体の歪みを見いだす為の手段として有効であり、また、歪みや偏りを正すための目安にもなる。
 その意味では、標準を設定することが第一に求められることである。ゼロサム関係にある集合体には、標準が重要が意味を持つ。なぜならば、ゼロサム関係は、それ自体が閉じた空間を成立させるからである。




人生数学


 人の一生は、一様ではない。一人一人の人生にも波があり、浮沈がある。平坦ではないのである。

 平均的な生活とか、平均的な生き方と言うけれど、平均的な生活というのは、どんな生活を言うのであろうか。

 平均的な人生というのは、現実にはないのである。平均的というのは、全てを足して個数で割った値を言うのである。つまり、計算した結果であり、平均値と一致する対象があったとしてもそれは偶然に一致したに過ぎない。

 しかし、我々は、社会現象を鳥瞰視しようとすると人の人生を平均化してしまう傾向がある。
 経済の実相を理解しようとしたら、何をどの様に平均化するかが重要となるからである。
 平均とは、ある種の基準でもある。つまり、目安、指標の一種だと言える。

 平均化というのは、平均を知ると言うだけでなく。平均化しようとすること自体に特別な意味があるのである。その延長線上に標準化や平準化がある。

 また、平均の意味や働きを知るためには、何に対して平均なのかが重要となる。
 つまり、何を分母とするのか。何を全体とするのかが鍵を握っているのである。
 全体をどの様な部分集合に区分するかそれによって平均の持つ意味も違ってくるし、そこから採られる施策も違ってくる。平均を活用するためには、グループ分けが肝心なのである。

 仮に、人の一生を収支を基準にして三つの期間に分けて考えてみる。自分の働きによる収入によって生活している時期と、自分一人の働きによる収入によっては生活できない時期とに区分できる。
 産まれてから成人に至るまでの時期を第一期とし、成人してから引退するまでの時期を第二期とする。そして、引退してからに死に至るまでの時期を第三期とする。この一つ一つの時期に何によって生活の糧を得るのか、それが、経済の根本を形成している。つまり、社会経済の縮図がある。

 第一期を仮に二十年とする。第二期を20才から定年の年の60才とする。第三期を60才から80才とすると、自分の働きだけで生活できる期間というのは、ほぼ、人生の半分にしか過ぎない。

 第一期を人生には、自分に対する投資と、それ以後の人生は、投資した資金を回収する時期として分けることもできる。

 自分が働ける時期にどれだけ稼げるかによってその人の生涯賃金は決まる。働ける時期にどれくらい稼げるかは、その人、その人が置かれている経済環境、才能、雇用条件、健康などと言った要素によって決まる。

 働ける期間と働けない期間とでも違いが生じる。働ける期間は、生産的期間である。それに対して働けない期間は、非生産的期間であり、専ら、消費することになる。それは、社会に対する負荷の差としても現れてくる。社会において非生産的な部分が拡大するという事は、それだけ、生産と消費の均衡が崩れると言う事を意味しているからである。

 正社員と非正規社員、派遣社員とでは、獲得できる生涯所得に大きな格差が生じるのである。
 転職や失業期間によっても生涯所得には違いが生じる。もう一つ重要なのは、借金が保証される金額にも差が生じると言う事である。借金というのは、長期的な資金の運用手段の一つである。故に、獲得所得だけでなく、資金の運用手段も定収入が確保されているない者は制約を受けることになるのである。

 働ける期間がかぎられている上に、労働の質や内容にも一定の波がある。
 当然、働ける世代が人口に占める割合、労働人口のように人口のバラツキも経済には重大な影響を及ぼす。

 この様に、人に一生における生産的期間と非生産的期間の有り様は、個人の問題であると同時に、社会の問題でもある。
 つまり、私的負債が雇用形態によっては制約を受けると言う事になる。

 収入も一定していない。景気は需要と供給に左右されるし、農産物の生産は、天候にも左右される。石油のような資源は、戦争のような社会情勢や政治にも影響を受ける。
 個人の収入もその年、その年の健康や運、不運も左右される。波風のない年の方が少ない。

 お金の使い道も一様ではない。毎日毎日生活する上で必要な費用と子供の出産費用や結婚費用といった一生涯に一回、或いは、数えるほどしか発生しないが多額の資金を必要とする費用もある。又、教育資金や老後の資金と言った長期にわたって一定額支出される資金もある。
 家の建築資金のように人生を賭けた事業資金もある。病気や不慮の事故、災害に対する臨時の出費にも備えなければならない。
 この様に支出も一様ではない。

 所得は一様ではない。支出も一様ではない。時間的にも空間な的にもバラツキがある。そのバラツキを平均化する作用が金融の働き、企業の働き、政府の働きに求められているのである。

 ではどの様な働きが求められているのかというと、金融機関は、借金を通じて支出を平均化することが求められている。企業は、定賃金によって収入の平均化が求められている。そして、国家は、所得の再配分によって所得の平均化が求められているのである。

 この様に、時間的、空間的平均化を計る仕組みが自由経済の特徴である。

 一生涯で獲得できる収入の波を平均化し、また、一生涯で支出される費用を平均化することによって年間の収支を一定にする。それが自由主義経済の基盤でもある。その為には、企業や家計、財政の安定した収益を保証される事が大前提とされるのである。
 その点を忘れていることが現代経済の混迷を招いている。儲けることばかりが能なのではない。

 国家の役割を考える時、時間的に、空間的に、何を、どの様に平均化するかが、重要な鍵を握っているのである。その点を忘れ、目先の均衡ばかりを追求すれば、国家の安寧は、保たれないのである。

 何が重要なのか、それは、人々が安心して一生を過ごせるようにすることなのである。平均化とは、その為の法則であり、その上に立脚してはじめて平等の概念は、実現できるのである。
 その前提は、現実は、一様ではないと言う認識である。一様ではないからこそ、如何にして平等を実現するかが、重大な問題となるのである。

 その為には、所得の分散と平均をいかに調節するかが鍵を握っている。そして、上限と下限とをどこに設定するかが、重要となるのである。

 将に、人生設計は数学的なのである。何を確かな物として計算し、何が流動的かを見極めることが肝心なのである。



物価と平均



 単純平均というのは、データの総和をデータの個数で割った値である。
 しかし、平均という概念は、単純平均を指しているわけではない。なぜ、平均という事は単純平均に統一できないのか。そこに平均の持つ意味と役割が隠されているのである。
 平均という概念の中には、加重平均という考え方がある。そして、加重平均という考え方は、平均の持つ役割や働きを考える上で重要な示唆を与えてくれる。

 例えば物価である。物価は、物の価格の平均値である。しかし、物の価格といって価格の本となる物は無数にある。
 全ての商品の価格を調べて平均するという事は、現時点では技術的に不可能であり、仮にできたとしても費用対効果で費用負担が大きすぎる。
 物価と言っても、幾つかの商品を何らかの基準で選別し、その平均価格から導き出す以外にない。

 個々の商品の価格も全て同じ動きをするわけではない。値上がりする物もあれば、値下がりする物も、暴騰する物も、暴落する物もある。
 しかも、流通量も物それぞれに違う。

 しかも、物には、物自体が持つ固有の特性がある。例えば生鮮食料は、一定の期間で価値がなくなってしまう。価値がなくなるだけでなく、処分する為の費用負担が増える場合もある。又、洋服や装飾品のように流行、廃りが激しい物もある。或いは、石油のように商品の差別化がしにくいものもある。
 安いけれど重量や外形が大きい物あるし、その逆の物もある。
 サービスや権利のように無形な物もある。その物、一つ一つが物価を構成している。物価の動きは、そのもの一つ一つで違う。
 この様に、物を価格によって一括りにする事はできない。

 それ故に、物価は加重平均によって設定される。

 物価は、景気の動向を表す重要な指標の一つである。
 しかし物価の動きを理解する為には、物価を算出する前提や条件、数式を理解しておく必要がある。さもないと重大な錯誤を引き起こす事がある。

 物価を考える場合、価格の背後にある物自体の性格が重要な働きをしている。それを忘れてはならない。単純に数値を個数で割るだけでは、物価の動向を予測することはできない。
 物の数は、無数にあり、その一つ一つの物の性格から物価の動向を予測するのは大変な時間と労力を必要とする。コンピューターが発達した今日でも難しいと思われる。ただ、物の価格に動向には、幾つかの形があり。その形から類似した物を集めて、全体の動きを想定することは可能である。
 ここの物にウェイトをかけて全体の物価の平均的動きを測定するのが加重平均である。

 このことは、平均という概念と平均値の働きを考える上で示唆に富んでいる。
 平均には、この他に、相乗平均、調和平均、一般化平均、相加平均、算術平均、移動平均等の考え方がある。

 平均値といっても、一定、不変の値をいうわけではない。

 価格は、需要と供給の関係だけで決まるわけではない。
 長期的に見て価格は、平均コストと「消費者が支払っても良いと考える価格」との間で決まる。(「クルマは家電量販店で買え!」吉本佳生著 ちくま文庫)

 平均コストは一定しているわけではない。
 累積の生産性が増えるに伴って平均コストが下がる現象は、経験的な経済性と言われている。

 働きは、比率と対比と差とした現れる。

 表面の価格が同じでも、価格を構成する要素や要素の比率によって働きに違いが生じる。その働きが、価格の働きを規定する。
 費用の金額は同じでも、費用を構成する要素や要素の比率によって費用の働きに違いが生じる。その働きが、費用対効果を規定する。
 表面に表れる数値が同じでも数値を構成する要素や要素の比率によっ数値の働きに違いが出る。その働きによって表面に表れた数値の働きを規定する。

 この点をよく加味しながら、平均値を活用する必要がある。

 貨幣価値というのは数値である。故に、数値の働きや性格に依る運動が重要となるのである。つまり、表に現れた数値の動きばかりを問題にするのではなく。数値の働きや性格を見極める必要がある。
 数値間の相互作用が肝心なのである。



貧困と平均


 貧困とは、所得の偏りによって生じる認識である。

 富む者がいれば、貧しい者が出る。貨幣的な意味での貧困とは、相対的な事象である。
 確かに、物理的な意味での貧しさは、絶対的な要素が含まれる。それは生きていく上に絶対的に必要な物資の量があるからである。物理的な貧しさには、常に、生存のための限界が存在する。
 しかし、貨幣的な意味での貧困は、所得によって決まる。所得は、相対的な量であるから、貨幣的な意味での貧困も相対的な事象なのである。

 貨幣経済を動かす力は差から生まれる。差は比と組み合わせて考えないと理解できない。比の働きは、分母と分子の構成に隠されている。分母と分子の働きは、足し算からなる。足し算を構成する個々の要素は、かけ算によって成立している。このように貨幣経済の大本には、四則の演算が隠されている。故に、貨幣経済の本質は数学なのである。

 貧困は、平均と分散が重要な鍵を握っている。

 統計は、データのあり方によって記述統計、推測統計、多変量解析の三つに分類される。記述統計とは、データの傾向や性格を導き出すための統計であり、推測統計とは、一部のデータから全体を推測するための統計であり、多変量解析とは、一度に複数のデータを処理するための統計である。

 そして、各々の統計によって平均の持つ意味も役割も違ってくる。
 第一の記述統計では、平均は、分散との関係によってデータの性格や偏りを見るための指標であり、第二の、推定統計は、平均は、部分の平均を比較する事によって全体を推測するために用いられる為の標本平均である。

 また、分散は、平均からのバラツキを見た値である。

 例えば、記述統計では、試験の成績の平均に対してどれくらいの位置にいるのかとか、営業員の売り上げの平均に対して達しているかどうかと言うように平均は、分散と一緒に活用される場合が多いのである。

 統計の背後に何が隠されているか。
 それが問題なのである。
 統計情報は、全ての事象を網羅しているわけではない。
 確かに、中には、全ての情報をもれなく数値として収集できる事象もある。しかし、それは、きわめて希な事象である。
 失業者数や需要、物価などは、全数を把握しようがないのである。このように、統計は、全体の数字を表しているのではなく、一部の数字しかとらえていないという事を前提とすべきなのである。
 又、全数を把握できたからと言って答えが出るわけではない。例えば、生産量の全数を把握できたとしても、不良品の数を全数予測できるわけではない。
 故に、統計は、予測や推測に基づいてこそ有効なのであり、予測や推測、検証のための手段が確率なのである。
 だからこそ、統計と確率に不離不可分の関係が生じ、また、平均値といった代表値の役割があるのである。
 特に、この関係は、経済において重要な意味を持つ。

 統計からその背後にある何ものか、例えば、法則や実体を導き出すための手段には、第一に、推移。第二に、構成比。第三に、交差比。対四に、他者比の四つがある。
 また、指標は、推移という考え方の一種である。一定時点の値を基準とする。一定時点値を基準とするという事は、一定時点の基準を単位とするという事である。単位とするという事は、一とする事であり、一とは、百パーセントである。
 いずれも百パーセントという基準が用いられる。パーセントと、比率を表している。比率とは、比である。
 比は割り算を基本とする。故に、有理数が生じる。
 比率という基準は、対象の構造や構成を知るための手段である。

 比率の根本に何を一とするかがある。何を一とするかは、何を平均とするかに繋がる。
 だから、平均の意味を知る事が重要となるのである。平均の概念にもいろいろある。平均は、何を一とするかである。そして、平均とは、基準の一種であり、何をもって平均とするかが平均の意味を決めるのである。つまり、平均の概念は、前提と目的が重要となるのである。

 仮に、人口を二百、生活できる土地の広さを二千とし、一人あたりの適正な土地の広さを十とした場合、人口の内の十パーセントの人間が、半分、すなわち、一千の土地を占有し、次の二十パーセントの人間が四分の一を占有し、その次の二十パーセントの人間が八分の一を占有したら、後の人間は、適正な土地の広さを確保するのが困難になる。
 仮に、土地を平等に分配すれば、各自に適正な広さの二倍分配する事ができる。
 ただし、均一に分配したら、個々の条件の差に適合する事はできない。条件の差は必要性の差によって決まる。しかし、必要性というのは、個人差の問題であり、多くは、個人の主観、極端に言えば嗜好の問題となる。

 又、通貨を循環させる力は差から生じる。すなわち、所得差、時間差、価格差、地域差、品質差、速度差、能力差、生産量の差等が通貨を循環させる力となるのであり、差をなくしてしまえば、通貨は潤滑に流れなくなる。故に、差をなくせばいいという事にはならない。問題は程度なのである。

 均等に分配する事は、一人一人の個性は無視する事になる。個性の否定は個人の否定であり、人間性の否定でもある。ここに分配の問題の難しさがあるのである。そして、それこそが経済の根本的問題なのである。分配のあり方の問題は、国家のあり方の問題であり、貧困へと繋がる問題でもあるのである。
 貧困は、全体と平均と、分散から見ないと判定できない。貧困は、豊かさの対極にある概念、すなわち、相対的概念だからである。
 だからこそ平均と分散は、経済の根本の課題だといえるのである。

 全所帯数に対し超富裕層、富裕層、準富裕層を合わせると全体の7.4%となるが、この7.4%の世帯が日本全体の約35%弱の準金融資産を所有しているという調査結果もある。
 同様に、アメリカでは、1パーセントの富裕層が42パーセントの金融資産を保有していると言われる。

 中国では何千万元という所得を得るものがいる一方で一万元にも満たない所得層が増加していると言われている。そして、その間隙を埋めるように地下経済がすさまじい勢いで成長していると考えられている。(「中国の地下経済」富坂 聡著文春新書)

 しかも、地下経済がどれくらいの規模であるかは、日本、アメリカ、中国、いずれの国でも統計では正確な数値ははじけだせない。できたとしてもたとしても推測、憶測の域を出ないのである。

 何千万元も稼げる世界と一万元に満たない所得でもかろうじてではあるが生活できる世界が共存している事になる。共存できる内は共存できなくなった時、社会は分裂し、無秩序へと向かっていくのである。

 生産量と所得とが結びつけられ。さらに、所得と消費が結びつき。消費が価格に反映されて生産が制御されるという仕組みができて貨幣の流通量は、制御される。そして、生産と所得とを結びつけて計測する指標が利益である。

 公共投資、公共事業、公共支出は、生産と所得、投資と貸借、労働と所得との結びつが希薄なために、貨幣の流通量を抑止力が働かないのである。特に、反対給付のない事業、国防の費用は、測定のしようがないのである。

 二つの世界が一つの体制の中に共存するという事は、体制内部のストレスを高める事になる。そのために、国家は、内外に敵を作る事になる。
 その結果、治安維持のためのコストと軍事的コストの上昇が制御不可能な状態に陥る危険性をはらんでいる。

 貧困の原因は、絶対量の不足によるのか、分配の偏りによるのか。そこが経済の根本の問題である。
 ただ、いずれにしても経済は分配の問題なのである。そして、分配の問題を考察する上で、平均は、重要な意味を持つのである。

 かつて日本人は、総中流意識と言われた。中流意識というのは、平均的な生活水準に基づく意識である。
 つまり、平均と中流意識は相通ずる部分がある。
 生活水準で重要にのは、平均、バラツキ(分布)、偏りである。貨幣経済体制下では、生活水準は、所得によって決まる。つまり、生活水準で重要となるのは、所得の平均とバラツキ、偏りである。
 所得は、消費と貯蓄に振り分けられる。消費は、短期的な効用として消化され、貯蓄は長期的に効用を発揮する。

 貨幣経済は、ゲームで言えば、ブリッジの様に積み上がっていくようなものではなく。麻雀のようなゼロサムゲームである。

 バラツキというと分布であるが、分布図で有名なのは正規分布である。しかし、世の中の分布は必ずしも正規分布になるとは限らない。むしろ、歪な分布をしている場合が多い。
 そして、この分布の歪さが、格差の不均衡、即ち、貧困の原因の一つだと考えられる。

 貨幣経済は、所得を通じて万遍なく消費者に貨幣が行き渡っていることを前提に成り立っている。だからこそ、平均とバラツキが重要なのである。所得の変更は、市場の歪みをもたらすからである。
 そして、所得は、労働によって獲得することを原則とする。故に、所得の均衡は、労働の質と量と密度に関係する。

 貧困は格差によって生じる。ただ格差が悪いというのではない。何もかも同等にしろと言うのは、一見平等に見えてむしろ不平等である。
 人間には個性がある。人は皆違うのである。違いというのは何も、性別や人種、階級、家柄のことのみを指しているのではない。差には能力的な差。身体的な差。住んでいる場所による環境の差。年齢による差、仕事から来る差等、差には、色々な要素がある。
 その違いを無視して一律同等に扱えば、それも又、一種の差別になる。

 問題なのは、極端な格差がもたらす貧しさである。又、格差をもたらす要素に正当性のない場合である。
 一方において使い切れない富を誇る者がいて、その対極に、生きることさえ許されないような貧しさ、人としての尊厳も保てないような貧困、抜け出すことが不可能な貧しさが存在することが問題なのである。これらの貧困の背景に極端な格差が隠されていた場合が問題なのである。
 そして、女だからとか、黒人だから、平民だからと言った言われない根拠によって拭い去れない格差が生じ、又、人間としての尊厳も保てない事が問題なのである。

 人は皆違うのである。その違いを前提とした場合、平均が重要な基準となる。

 経済は、この様な人の個性の分布状態に左右される。それは、個性の差は生活実態に反映されるからである。

 経済状態を知るためには、分布の形が重要な意味を持つ。例えば、財の分布の形、所得の分布の形、労働者の分布の形、人口分布の形、労働時間の形である。そして、これらの形の相関関係が経済に対して重要な働きをする。

 平均と言っても対象の状態や形状、また、平均を求める目的によってどの様な指標、基準に基づくべきなのかを明らかにする必要がある。単純に平均値をとればいいというのではない。

 分布の状態を知るためには、分布の形やバラツキ度合いが重要となる。分布の形やバラツキ度合いから傾向や特性を導き出すためには、中心を知る必要がある。
 平均値以外にも中心の取り方の考え方にもいろいろある。
 中心的考え方の指標として代表的なのが代表的なのがモードとメディアンである。
 モードは最頻値であり、メディアンは中心値である。

 貨幣経済とは、貨幣の循環によって財を分配する仕組みである。

 司馬遼太郎の「坂の上の雲」がNHKでドラマ化された。アジアの小さくて、貧しい国と言うことがでてくる。問題の根本は、日本の貧しさにあるのである。現代の日本のその貧しさに無自覚な事が問題なのである。
 日本が発展できたのは、日本は小さな国で資源に乏しい国だという自覚があったからである。しかし、日本を大国で、豊かな国だと錯覚したら、今日の生活水準を保てるか、否か、それは、甚だ心許ない。
 景気が回復し、企業業績が上向いている。だから、日本の経済は向上しているという論調が多い。しかし、多くの日本人は景気の好転を実感できないでいる。
 日本経済で問題なのは、実際は、貧困化が問題なのである。日本は、豊かなはずなのに、なぜか、安売り業者が横行し、失業者が街に溢れ、セルフサービスの店が増えている。これで、本当に日本は豊かになったと言えるのであろうか。
 早い話、国民は、分配の手段がなければ貧しくなる。分配の手段とは雇用である。格差の拡大というのは、言い替えると貧困化なのである。
 貧困というのは相対的な問題である。一部の人間や企業業績が上向いたからと言って国民が、豊かになったとを言えないのである。
 国民が貧困か否かは、単に、所得水準だけでは見極められない。物価水準や生活水準と言った他の要件とも引き比べてみなければ判定できない。また、所得水準と言っても統計やバラツキなどを見てみなければ実態は把握できない。
 例えば、他の国の年収に相当するような果物を買えるのは、豊かなのか、それとも法外な値段の果物を買わされているのか、単純には決められないのである。
 全体主義国で、一部の特権階級が飛び抜けて資産を持っている場合がある。しかし、その様な国々の多くは国民が貧困に喘いでいる。貧しい国のなのに世界有数の金持ち、国家財政に相当するくらいの資産を持つ独裁者が居たりする。
 それは、貨幣という分配の手段を持っていながら、一部の人間に偏っていることが原因なのである。貨幣が国民に浸透していなければ、国民は総じて貧しいのである。

 経済が国際化すると一定の水準に所得は収斂していく。そうしなければ、国際市場における公正な競争力が働かなくなるからである。所得は、購買力を意味する。

 経済を動かす力は、歪みから生まれる。均衡しようとする力と均衡を阻もうとする力による歪みが経済の原動力となるのである。
 歪みそのものを否定したら力は発揮されない。問題は、歪みの大きさ、規模なのである。歪みが大きすぎれば、発生する力によって仕組みを破壊しかねないのである。

 経済にとって重要なのは分配である。所得の分配力は、適度な差と分散によって決まる。平均化しようとする力と分散化しようとする力の均衡によって経済は、動かされている。

 所得を平均化しようとする力と差を付けようとする力の相互作用が、経済を活性化させる。全てを均一化しようとすれば、経済は、停滞する。かといって格差が広がりすぎれば市場に偏りが生じ、貨幣効率は低下する。

 購買力平価という思想がある。物価は、購買力によって決まるという考え方である。この購買力の基礎は、所得である。国際化が進むと所得の平準化も進む。この所得の平準化が、景気の変動に重要な影響を及ぼすのである。
 それぞれの国や地域、業種の所得の平均が重要になる。それが、生活水準の標準になるからである。その上で、分散が問題となる。なぜならば、それが市場の偏り、消費の偏りを生むからである。つまり、平均、標準、分散が重要となる。
 いずれにしても購買力によって物価は収斂していくという思想が購買力平価である。

 貨幣価値は名目的価値である。名目的価値は、相対量である。つまり、実体を持たない抽象的値である。例えば物は、リンゴが一つ、二つ、社員が一人、二人というように人や物は、絶対量で測られる。それに対して、値段は、市場取引によって決まる相対量なのである。

 増加額という絶対値で表すか、成長率と言ったパーセントで表現するのかで意味が違ってくる。同じ、パーセントで表現された数値でも、成長率か、占有率かで意味が違ってくる。

 名目的価値だからこそ、単純に絶対量ばかり見ていると数字の意味がわからなくなる。だからこそ、成長率とか、分配率と言った比率が重要となるのである。また、数値が指し示す意味や働きが重要になるのである。
 又、名目的価値であるから貨幣価値は、暴走すると抑制が効かなくなる。故に、相互牽制が効く仕組みが必要となるのである。

 また、どこの国の通貨単位、即ち、基準によって測るかによって表示される値段も変わる。貨幣価値は、相対的な量なのである。

 所得の平均化と分散の度合いが経済においては重要な意味を持っているのである。

 通貨の流通量は、個人所得を基準にして所得の平均と分散によって決まる。また、総所得は、世帯数の増減に左右されるのである。

 GDPは、個人所得を基準にして決まる。最終的に個人所得は、一定の水準に回帰しようとする。
 その為に、個人所得の水準が高い国では、デフレーション圧力がかかり、個人所得が低い国では、インフレーション圧力がかかることになる。

 個人所得は一つの目安である。

 予測可能な人生を望むのか、予測不可能な人生を望むのか。それが問題なのである。決まり切った人生はつまらないものであるが、お先真っ暗な人生も生きづらい。結局、多くの人は、ある程度、先の見える人生を望んでいる。又、社会体制も然りである。
 現代の経済は、借金経済でもある。借金が可能なのは、ある一定の期間の収入が予測つくことを前提としている。ところが、景気変動は、その前提を危ういものにしている。それが経済そのものも危うくしているのである。
 ただ変化や競争ばかりを望んでいるわけではない。安定や協調も大切なのである。



理想と平均


 理想的な生活というのは、どんな事を言うのであろうか。平和で、安定した生活。理想的な生活というのは案外、そんな平凡な事を指して言うのかもしれない。
 しかし、その平和で安定した生活を実現するのは、思いのほか難しい。

 平穏で均衡し安定した状態。しかし、この様な状態は、静止した状態であり、運動や変化に乏しい状態である。
 現状を維持しようとする圧力による安定に対する緊張、保守的な緊張が過度にかかった状態である。

 安定した状態への回帰していこう、戻そうという傾向は、多くの現象に共通してある。
 それが、平均への回帰とか。平凡への回帰とか、一般への回帰と考えられる事象である。

 この様な傾向を回帰分析は成立している。

 現代の思想に欠けているのは、理想である。理想という考え方に取って代わってのが平均という思想である。平均という思想の背後にあるのは、標準という考え方である。そして、そのもっと深層的部分にあるのは平等である。
 しかし、この場合の平等という思想は、同等という思想を根っ子に持っている思想であって、本来の平等という意味とは、異質な考え方である。
 平等というのは、主体的存在において平等という意味である。いうなれば、死の前の平等である。
 人間というのは、何もかもが同じ条件であるというわけではない。人間一人一人は、違うのである。個々人の違いを前提として平等という思想は成り立っている。個々人が成り立っている前提条件が違えば、必然的に、全ての人間を同じ扱いにするという事自体、不平等になる。つまり、不平等というのは認識の問題である。平等というのは、絶対的な事であり、それは、存在としての平等を意味する。認識上の問題ではない。人は皆、神の前に平等なのである。それが、本来の意味での平等という思想である。
 つまり、人間は、主体的な存在として平等なのである。
 人間の、外見の違いは、認識の問題である。認識の問題であるが、間接的認識対象としての自己は、自己を鏡に写った像によって認識する。自己を客体化した存在である個人は、には個性がある。認識上に生じる個人は多様な存在であって単一な存在ではない。そこから不平等は生じるのである。つまり、不平等は認識の問題である。

 認識上に置いて生じる価値は、相対的な基準である。

 現代社会では、理想に対して否定的である。理想的な社会、理想的な人物、理想的な指導者にたいして否定的であり、容認しようとしない。理想主義に替わって現実主義や写実主義が取って代わったのである。そして、ただ、現実をあるがままに受け容れる事、醜い部分も悪い部分も一切合切を受け容れる事、それが真実だとなり、科学的だというのである。その根底には虚無主義がある。根底には何もないのである。神も理想もない。あるのは、ただ確かめようのない事実のみである。

 そうなると、理想に替わって平均が重要となる。平均から発展した概念が、標準である。平均的家庭、平均的所得、平均的社会、平均的学歴。そして、平均は、標準へと昇華される。何でもかんでも標準的な存在が善となる。しかし、それは、社会を均一化し、単一化する方向に向ける。誰もが同じ服を着て、同じ物を食べ、同じ家に住む。それが、理想に取って代わっていくのである。
 なぜか、一頃、未来社会を描いた映画に出てくる登場人物は、同じ服を着ていた。それが象徴している。多様性の否定である。それが、進歩であり、機能的だというのである。
 標準という考え方を突き詰めると、何でもかんでも同じでなければ気にくわなくなる。だから、着る物だって、食べる物だって、住む家だって同じでなければいけないということになる。その典型が中国の人民服である。要するに、全ての国民に制服を強制することである。それが、学生服を否定して廃止した連中の本性である。
 この様な発想は必然的に全体主義に繋がっていく。
 しかし、一口に、平均と言ったて色々な考え方がある。何を前提とするか、即ち、何を平均とするかによって違ってくるのである。
 何を平均とするかそれは思想の問題である。その根本に標準という思想があり、平等の定義があることを見落としてはならない。
 本来、社会は、多様な存在である。多様な社会は、個々人の差を認めることによって成り立つのである。

 平均や標準というのは、社会や経済を分析する上で重要な基準である。しかし、平均や標準を強引に平等と言った思想に結び付けある種の原理みたいに捉えるのは危険なことである。それは、競争を絶対の法則のように捉えるのと同じぐらい危険な行為である。そして、それを制度的なものにまで結び付けてしまったら社会を硬直化させてしまう原因となる。

 自由主義経済において平均の概念が重要な意味を持つのは、会計制度が期間損益主義に基づいているからである。
 その為に、一定の期間に在庫の価値や資産価値、費用の価値、負債の価値を平均化する必要があるからである。
 また、期間損益主義における平均の意味には、二つある。一つは単位期間内における平均化という意味ともう一つは、単位期間を超えた期間における平均化の意味である。
 単位期間内における平均化の典型が在庫価値の平均化である。そして、単位期間を超えた期間、即ち、中長期間の平均化の例としては、減価償却費と負債の平均化である。
 そして、この費用の平均化と負債の平均化が別の方程式に基づくことによって資金収支と期間損益の間に資金的なズレが生じるのである。



       

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