36、井戸端会議と会議とは違う



最近の人は、井戸端会議や茶飲み話、立ち話と仕事上の打ち合わせ、会議と見分けがついていない。
日本人は、民主主義は話し合いだと錯覚している。だから、話し合いを続ければ民主主義を実践していると思い込んでいる。民主主義は法である。手続きである。その点を理解しないと民主主義は、理解できない。民主主義の本質は法である。法の下の自由であり、平等である。だから、話せばわかるというのは大間違い。
話してもわからない。話し合っても全てにおいて合意に達する事は難しい。全員一致は難しい、或いは、あり得ない。だから、法を定めて会議を開き、手続きに則って結論を出す。法の定めに従って出された決定に対しては無条件に従うそれが民主主義である。
キリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒、多神教、無神論者といった信じる神が違う者同士は本質的には理解し合えない。この事を日本人は、解っていない。
日本人は、自分達が、一番異端視されている事に気がついていない。そして、一番の民主主義、自由主義の理解者だと思い込んでいる節がある。
ある意味で、キリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒の方が日本人よりわかり合える。
なぜなら、相手を信じる事は出来なくても相手の信仰心を信用する事は出来る。故に、契約なのである。契約というのは、人と人との間にされる行為ではなく、自分と自分の信じる神との誓約である。例え、相手を人として信じられなくとも、信仰心を信じる事によって神に誓うから信用するのである。
だから、無神論者が一番信用されない。
日本人は自分を信じてくれと言う。しかし、自分を信じてくれとする根拠が乏しい。保証がないのである。それは逃げ場のない狭い社会にすんでいる日本人だから通用する論理である事を忘れてはならない。
世界には通用しない。

責任者や担当者を決めていない会議は、会議としては認められない。
誰が、どの様に、何を、責任を持って決めるかが肝心なのである。
結論も出ないままに、ただだらだと話し合いを続ける人は無駄である。
肝心なのは、何をどの様に決めるかである。
一番多いのは、責任者を決めてそのものに決めさせる。或いは決め方を決めさせる事である。
後は、多数決とか、全員一致とか決議をとるやり方である。この場合、予め決議の仕方を決めておく必要がある。
他には、くじ引きとか、ゲームで決めるというやり方もあるし、スポーツや賭け事のような勝負事で決着を付けるやり方もある。又は、裁判や審議会、委員会のような第三者機関に委ねる事もある。

いずれにしても意見の相違する者達の意見を一つに纏めて決着を付けるための手段が民主主義なのであって、何でもかんでも話し合えば良いというのは民主主義ではないし、むしろ民主主義の主旨に反している。

会議とは


       

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