28、競争の世界



最近は何が何でも競争させれば良いという論理が流行である。競争は市場の原理であり、競争の原理さえ働かせれば、総ては解決できると競争を絶対の原理のように提唱する者もいる。こうなると一種の宗教である。
経済的事象は相対的な事であり、自然の法則のような絶対の原理なんてありえない。元々、経済的事象は人為的な事象なのである。
更に、競争を絶対視する者は、併せて規制緩和を唱える。公正な競争をするためには、規制をなくさなければならない。公正な競争と規制緩和は、彼等にとって同義語なのである。
その結果、競争の原理を働かせるためには、規制を緩和する事であり、場合によっては規制を総て撤廃してしまえばいいと主張するメディアや学者が横行する事になる。

競争を万能だとする人、或いは、原理をするという人には、重大な錯覚がある。

大体、競争は手段に過ぎない。原理や法則のような事ではない。
また、公正な競争と規制緩和は必ずしも一体ではない。規制緩和が公正な競争を実現するとはかぎらない。

競争を原理だという人は、規制を緩和や規制を廃止すべきだという極端な論者が多い。
つまり、規制は競争の阻害要因だとするのである。

規制をなくせば公正が競争が出来るという意味が私には理解できない。
公正な競争は規制によって保障されている。
故に、適正な規制によって公正な競争を保障しろというのは理解できる。
しかし、規制を緩和すれば、或いは、規制をなくせば、公正な競争が実現するという論理は理解できない。
この様な論者が言っている事を突き詰めるとスポーツにとってルールは阻害要因だから、ルールをなくせというのに等しい。
彼等は、スポーツはルールによって成り立ち、ルールによって護られているという事を知らないのである。
良く勝負に勝てなくなるとルールを変えると言われる。
確かに、この様な事は公正さに欠ける。
しかし、それはルールのあり方の問題であって、ルールそのものをなくせという論法は成り立たない。
ルールの正当性を保つための議論は手続きの問題であってルールの是非の問題ではない。

ルールをなくせというのは無政府的すぎる。

競争は、手段である。しかも絶対的手段ではない。競争にも、利点だけでなく、欠点や弊害もある。
それを良く理解した上で、必要や目的に応じて行使する手段である事を忘れるべきではない。

むろん、複雑で整合性がなく、実情に合わなくなった規制は撤廃すべきである。
しかし、その事と闇雲に規制を緩和しろ、なくせば良いという事は同じではない。
現在進んでいる規制緩和は、単純に規制を緩和すれば景気が良くなると言っているようにしか思えないのである。
それは余り無原則すぎる。

競争という手段を有効に活用する為には、先ず、前提を確認する必要がある。
競争というのは、適正なルール、規制の上に成り立っているという事である。
そして、競争の性格は、規制によって規定される。それが前提である。

ルールのない競争というのはあり得ない。
ルールのない争いは、闘争であって、競技でも、競争でもない。

次に、考えなければならないのは、何を、どの様に競うかで、経済の様相は定まるという事である。
競争というと価格だけのように錯覚している様に思える。
競争は、価格だけで行う事ではない。
価格以外でも競う事はいくらでもある。
その場合、価格をむしろ一定の幅に収めてしまった方がいい場合もある。
それは必ずしも価格統制を意味しているわけではない。市場の取り決めの中である程度、価格を一定の範囲の中で調節できるようにすねという意味である。
入札でも最低価格を設定しておくという場合もある。

競争を原理だと考えるものは、何が何でも競争をさせればいい。
中でも価格を競争の究極的手段だと決めつけている節がある事である。
しかし、競争は価格と限った事ではない。

競争には、価格競争と非価格競争がある。
そして、価格以外の所での競争が本道なのである。
価格競争は、否定はしないが、価格競争は、究極的手段であるという事を忘れるべきではない。

価格以外の競争には、商品自体の属性、即ち、デザイン。サービス、性能、品質等による競争がある。
その他に、販売に付随した行為、例えば、修理、修繕、保守、保全と言ったメンテナンス等に関わる競争がある。

競争を絶対視し、規制を撤廃して勝手に競わせれば万事上手くいくと思い込んでいる考えが主流である。
しかし、むしろ無原則な過当競争が問題なのである。
利益を度外視した競争は、経済を混乱させ、市場を荒廃させるだけである。

特に、価格に限定された競走は、産業構造、市場構造そのものを破壊してしまう。

水は高い所から低い所へと流れるのが習いである。
お金も同様に、費用が低い事の方へ流れる習性がある。
仕事は、人件費が低い所を方へと流れる。仕事が流れ込めば、人件費は上昇し、やがて世界の水準へと近づく。そうなると競争力を失う事になる。人件費を抑制しようとすれば力尽くで抑え込まなければならなくなる。

競争には、競争の条件を均質化しようという働きが働くのである。

価格競争を維持できるのは、価格以外の部分で差が付けられる産業だけである。
価格以外の処で差が付けられなければ、価格競争は、際限のない競争に陥る。
それは単に市場を荒廃させるだけである。

価格以外の処で商品の差別化が可能なのは、例えば、食品のように個人の好みが明確な事に限定されてしまう。いずれにしても、競争に何もかも委ねれば万事上手くいくと結論づけるのは短絡的すぎる。

市場を荒廃させるのは、無原則、無軌道な闘争である。
現在の市場を荒廃させ、経済を停滞させているのは、過度の価格競争である。
価格競争は、価格戦争という様相まで呈している。

現代の市場経済にとって競争的手段は不可欠である。と言うよりも市場は、競争的手段によって成り立っているといえる。

競争は、有効な手段であるが、使い方によっては、市場や産業と言った経済の仕組みを根底から破壊してしまう危険性がある。
なぜ、競争が必要なのか。競争という手段を有効に活用するためには、競争の必要性を明らかにしておく必要がある。

経済制度の主目的は、生産と分配にある。
分配の手段には、組織的な分配と市場的分配があり、市場的分配の手段の一つが競争である。

人的分配は組織的手段により物的分配は市場的手段による。いずれの手段も「お金」を仲介とする。
組織的分配は、恣意的な分配である。
恣意的分配というのは、何らかの権力や権威の裏付けがあって可能な事である。
これは、共産主義的に全てを均一に配給したとしても同じ手働きをする。組織的な分配というのは、権力的な分配を意味するのである。この様な、組織的分配は格差を拡げる性格がある。格差は、組織を統制するための手段に用いられるからであり、一度、与えられた権利は既得権益化するからである。
この様な弊害を除くために、市場的手段が用いられる。しかし、市場的手段は、消費者に満遍なく通貨が行き渡っている事が前提となる。通貨の分配は、組織を基礎とした社会では、組織的手段に依らざるを得なくなる。
故に、複数の経済主体、組織による競争によって階級化による差別や格差の拡大による弊害を抑制しているのが自由経済である。

組織的分配は、恣意的な要素を多く含んでいるのに対して、市場的分配は、客観的な取引による。恣意的な手段である組織的な分配にばかり頼ると分配に恣意的な偏りが生じる。その結果、組織的分配は、階級差別を生み出す傾向がある。

公正な分配を保つためには、市場的分配を併用する必要があるのである。
故に、一概に競争が悪いと言っているのではない。競争を絶対視すべきではないといっているのである。
競争は、合目的的な事であり、相対的な事である。また、競争の正当性は、規制と手続きによって保証されている。
この点を常に留意しておく必要がある。
競争の有効性を保つためには、競争の目的や働きを良く理解しておく必要がある。

競争が是か否かの問題ではない。
それ以前にどの様な経済状態が経済にとって最適化が問題なのである。
具体的な構想もないままに、無原則、無目的な競争を煽る事が問題なのである。
競争は、合目的的な手段である。
競争を促すためには、競争をさせる目的を明確にする必要があるのである。
即ち、何をどの様な目的で、どの様に競わせるかを規定しておく必要がある。
その為には、競争にはどの様な働きがあり、又、どの様な副作用、弊害があるかを良く理解しておく必要がある。
そうしないと競争による副作用ばかりが働く事になる。
競争は万能薬ではない。競争は劇薬である。使い方によっては毒にもなるのである。

目的を明確とするという事は、どの様な経済状態を目指すかという具体的な構想がなければならない。
市場に多様性を求めるか画一性を求めるかによっても違ってくる。
市場に多様性を求めるか、画一性を求めるかによっても競争政策は違ってくるのである。

多様な市場に是とするか、画一的な市場が是とするかは、市場の置かれている状況や商品の特性にも依る。
寡占、独占的市場では、市場の多様性は、保障されない。
また、商品に特性が少なく個々の商品が差別化できない、コモディティ商品は、画一的になりやすく、無原則な価格競争に陥りやすい。

競争の形態も一様ではない。多種多様な競争の形態がある。
競争の形態も市場の目的や役割、前提条件に基づいて選択すべきなのである。
市場も開かれた市場ばかりではない。むしろ閉ざされた市場の方が多いのである。何でもかんでも市場を開いてしまえと言うのは無謀である。

市場にも拡大成長型、横ばい停滞型、縮小衰退型市場の別がある。これは、産業や商品のライフサイクルの影響を受けている。この様な市場の状態によっても競争のあり方は違ってくる。当然、市場のルールにも違いが生じる。

競争の形態や市場のあり方の違いは、サッカーや野球、テニス、ゴルフの違い程あるのである。
一律に規制緩和の是非を論じる事自体、実情から掛け離れている。

市場は、商品特性にも左右される。
市場競争を左右する商品特性には、商品のライフサイクル、製造特性、産業特性、販売特性、市場特性、労働形態等がある。

この様な市場の特性は、当然、競争のルールにも影響を及ぼす。
何でもかんでも規制を緩和し、競争をさせればば良いという発想は、乱暴を通り越して野蛮ですらある。

更に、価格は、個々の店の販売政策や仕入れ政策の影響も受ける。個別の販売政策として利益を度外視した目玉商品として扱われる事もある。この場合、まったく生産者の意図は踏みにじられる。
また、産業構造、特に損益分岐点構造によっても競争は左右される。値下げ競争がエスカレートすると限りなく限界費用に近づき、採算がとれなくなる危険性もある。

生産者は、市場に対して弱い立場に立たされる場合があるという事を十分に留意する必要がある。

むろんだからと言って規制を強化すれば良いというのは、同様に野蛮な事である。
規制も、実情にそぐわなくなったり、目的に反したり、時代の変化に伴う要請に合わなくなったりした事は、速やかに改善、変更、撤廃をするべきなのである。

競争の働きには、第一に、技術革新を促す。第二に相互牽制を促す。第三に費用削減を促進する。第四に、適正価格を規定する。第五に、市場の拡大を促す。第六に、無駄を削減する。第七に、価格を平準化する。第八に経済を活性化する。

競争の弊害は、第一に、収益を圧迫すると言う事がある。第二に、倒産や破産を促す。第三に、独占、寡占を招く。第四に雇用を減退させる。第五に、デフレーションやインフレーションを招く。第六に、投資を減退させる。対七に、市場を荒廃させ、品質の劣化を招く怖れがある。第八には、保安やメンテナンスの劣化である。

市場が独占寡占状態に陥る事は、市場の多様性を奪う事にもなる。それは消費者の選択肢の幅も狭める。
また、市場が荒廃し、個々の企業の収益の悪化は、雇用や所得の減退にも繋がる。
本来、景気は収益力によって保たれるべきなのである。

過当競争は、デフレーション、不況の原因となるだけではない。インフレーション、時には、ハイパーインフレーションの原因にもなる。
競争の作用が働くのは売り手市場だけではない。買い手市場にも働くのである。

多くのメディアや知識人は、消費者の味方を気取るが、消費者は同時に、生産者であり、労働者だと言う事を忘れてはならない。
労働分配率もここ十年近くは七十%近くを維持している。
収益は、所得であり、労働分配率の分母になるのである。過当競争によって収益が圧迫されれば、所得も減少するのである。
労働分配率が変わらないという事は、所得の絶対額も変わらないし、むしろ減少しているとも考えられるのである。

競争を煽る者の中には、利益は悪だと言った妙な道義心を働かせる者がいるが、企業が利益を上げる事は、経済的合理性の問題であり、倫理観の問題ではない。

際限のない競争は、企業収益を圧迫し、新規投資や雇用、所得の減退を招く。それが連鎖する事によって景気の悪化させる。最悪の場合、多くの企業の倒産、連鎖倒産を招く事にもなりかねない。事実、日本は、長い不況に苦しめられているのである。
メディアの問題もある。安売り業者を無定見に褒めそやす事は、真の経済の発展を阻害する事である。大切なのは経済効率なのである。単に安ければいいというのは無責任すぎる。
無原則な競争は、収益を圧迫させる。利益を確保するためには、何らかの費用の削減をせざるを得なくなる。手っ取り早く経費を削減しようと思えば、保安やサービスにかかる費用を削減する事である。目に見えない所で品質が劣化している場合があるのである。また、極端な合理化によって技術の継承が出来なくなる事もある。

マスメディアには、コストダウンが出来ないのは、企業努力が足りないからだと事情もわからないままに決めつける者もいるが、必要以上のコストダウンには何らかの裏がある事も留意しておくべきなのである。必要な経費まで削ってコストダウンをしている場合がある。また、下請けにしわ寄せが行く事で、中小企業が負の部分を背負い込ませられる事もあるのである。

無原則な値下げ競争は百害あって一利ない。

重要な事は、どの様な産業を育成したいか、又、市場にどの様な秩序を持たせたいかである。

競争には、産業の損益構造によっても性格に違いが生じる。
変動費と固定費の比率によって産業の収益構造に違いが生じる。
限界利益率が高く、固定費の比率が高い産業は、固定費型産業とし、限界利益率が低く、変動費の比率が高い業種を変動費型とする。
それによって競争のあり方にも違いが生じる。
固定費型産業と変動費型産業とでは、売上が利益に与える影響の度合いに差がある。
固定費は稼働率、操業率によって単価に占める割合は大きく変動をする。
初期投資によって販売数量をどれくらいに設定するかによって稼働率が変わり、その為に固定費が変化することで、単価は大きく影響されるのである。
初期投資がかかる割に商品を差別化しにくい業界は、量販に走りやすく。乱売合戦に陥りやすい。この様な業界は、価格の下落に歯止めがききにくく、抑制が効かなくなる危険性がある。
競争によって定まった価格は、常に適正な貨幣価値を表しているとは限らない。
規模の経済性が働くと操業率が高い方が固定を下げてしまうために、明らかに性能が劣っているのに、大量が売れている方が安くなると言うような現象が起こることもある。

販売数量が決定的な働きをする事が、量販店に有利に働き、資本力の小さい零細業者は市場から駆逐されてしまう。

悪貨は、良貨を駆逐するというのと同じ現象を引き起こす危険性があるのである。

又、同じ、固定費型産業でも労働集約型産業と資本集約的産業では、利益の算出において差が出る。資本集約型産業は、減価償却費の処理の仕方によって利益に差が生じる。即ち、合法的な利益操作が可能だからである。

原価計算の仕方、基準の取り方は個々の産業固有の構造があり、一律に捉える事は不可能である。
利益も減価償却費の取り方によっても操作する事が可能である。

在庫をどう評価するかによっても原価は違ってくる。

競争を一律に規定したり、絶対視する事は危険な事である。

値下げ競争は、一度火がつくと規模の経済性が働いて抑制することが困難になり共倒れ状態におちいりやすい。規制をせずに無原則な政策をとるのも政府の介入の一つである。価格競争が起こったら何らかの協定を結ぼうとするのも自然の流れである。話し合いを禁じるのは公権力の介入である。

特に価格競争は、価格競争の原因によっても本質的な差が生じる。

価格競争の原因には、第一に、為替の変動。第二に、低賃金国からの参入。第三に、産業構造の変化。第四に、技術革新。第五に、原材料費の低下。第六に、操業度の低下。第七に、過剰生産。第八に、過剰在庫の存在。第九に、市場が飽和状態になる。第十に、製品のライフサイクル。第十一に、稼働率、操業率に依る事。第十二に、市場の占有率争いから生じたもの。第十三に、規制緩和等政策的に競争を誘導した場合などが考えられる。これらの事象の多くは、個別の企業の段階では対処する事が出来ない事を多く含んでいる。

これらの点を加味して政策を決めないと破滅的な価格競争を招く事がある。

為替の変動や原材料の乱高下は、価格に直接影響し、場合によっては産業に壊滅的な打撃を与える事もある。又、産業の空洞化を起こし、雇用形態に劇的な影響を及ぼす事もある。

価格の決定的な影響を与えるのは、安い労働力である。つまり、海外の安い労働力に依存すると言う事は、国内の劣悪な労働環境や労働条件を海外に移転すると言う事を意味する場合がある。それは、貧困や劣悪な労働環境を海外に輸出すると言う事を意味しかねない事を忘れてはならない。

垣根をなくせば公正な競争が出来るというのは短絡的すぎる。
むしろ、相手国の経済事情に対する配慮も必要である。
相手国の対する配慮は自国の労働環境や労働条件にも影響する要件である。

生活水準も、労働条件も、環境も、物価もそれぞれの国にはそれぞれの国独自の事情がある。
何の規制もない競争が公正な競争だと言われても、以上に述べた様な本質的な差がある以上、規制をなくせば公正の競争を実現できるという保障の限りではない。
会計操作で如何様にも変わりうるのである。
競争、競争と競争を絶対視するが、経済市場で公正な競争が行われた試しは一度たりともない。

一律に競争しろというのは、大人も、子供も、老人も、自動車も同じ基準の下に競争しろというような事である。一歩間違えば虐待以外の何ものでもなくなる。

公正な競争というのならば、同じ条件でなければならないはずである。最初から条件に差があるのを承知していながら競争させるのは不公平である。公正な競争を実現したいなら、最初に条件を揃えるべきなのである。

安売り、安売りと煽るのは、いいが、その結果、どの様な状況になるのかをまったく考えていないとしたら無責任きわまりない。働いている者は、皆、生活がかかっているのである。

競争を無用に煽れば、良質な産業を破綻させてしまう事を忘れてはならない。
競争を煽る前に、どの様な市場、どの様な経済を望んでいるのかを明らかにする必要があるのである。

経済学は、人を幸せにする事を考える学であるはずだ。経済の目的は、平和で豊の社会を実現する事で人を幸せにする事である。戦争や争いによって経済が活性化したり、正常化するなんて言うのは、明らかにおかしい。それでは経済本来の目的に反している。人間は、戦うべき相手を間違っている。戦うべき相手は、地震や津波、台風、干魃といった災害、火事や自動車事故と言った事故、貧困や差別と言った偏見、戦争と言った争い、そして、自分自身の中にある際限のない欲望でなのである。






       

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