20、経済を動かしているのは


経済では、差と率が重要な働きをしている。経済では、変化と分配が基本となるからである。差と率を見る場合、何を基数とするかが鍵を握っている。

変化は時間の関数である。
変化を起こすのは、働きである。重要なのは働きの根源にある力である。

経済は、第一に、場に働く力と第二に、組織や制度、法、仕組みといった構造的な働き、そして、第三に、個々の主体、部分、単位の働きの三つの働きによって成り立っている。

三つの働きの原動力は資金の流れであり、収入と支出という形で現れる。

貨幣経済の仕組みは収入と支出の振動によって動かされている。収支は資金の流れを創り出す。資金の流れが場の働きや構造の動き個々の主体の動きを制御している。

構造は、何らかの全体を意味し、個々の主体は部分を意味する。

収益構造は、経済体制や経済構造、経済状況を反映している。
利益だけを単純に比較しても理解できない。

同じ一億円の利益でも、所得水準が百万円の国と一千万円の国とでは、利益に働きに自ずと違いが出てくる。百万円が成り立つには百万を成り立たせている状況、環境がある。一千万円でなければならない理由がある。その前提となる条件や状況が合って利益は成り立っている。それを抜きにして利益をとやかく言うのは間違いである。先ず前提となる条件や状況を確認する必要があるのである。

同じ一万の貨幣価値を持つものでもその国の人々がどの様な生活を営んでいるのか。どんな物を食べて、どの様な家に住んでいるのか。生活環境はどうなのか。利益や収益の働きは、経済主体や経済単位が置かれている状況や環境、前提によって左右される。
先ず生きていく為に必要な物資が確保されているのか。その上でどんな生き方をしたいのかが問題となる。生きていく上で最低限必要な事そして次に自己実現の問題である。それを決めるのは、状況であり、環境であり、仕組みである。

百万、一千万、一億の持つ価値の差が問題なのであり。それは、価値観の問題でもある。単に、利益の水準や賃金の水準だけで、経済の実体を理解しようとしても無駄である。又、貧困問題も金銭的な問題だけで原因を明らかにする事は難しい。実際の生活は、金銭的な価値観だけでは理解しきれない部分が含まれているのである。

収入の手段は、会計上、負債的手段、資本的手段、収益的手段に支出は、資産的支出と費用的支出、そして、金融的支出に分類される。資産的支出は投資であり、費用的支出は、消費でもある。ただ、金融的支出は、会計上計上されない。金利は費用的支出である。

収入と支出は、経済主体の内と外という観点から見ると表裏の関係にもなる。但しこの関係は、支出は収入であるが、収入は必ずしも支出ではない。収入と収益とは違う。収入は基本的に収益によって賄う物だが、収益で不足した場合は、負債的手段、或いは、資本的手段によって補わなければならない。

国内の生産の総和を国内総生産というように、国内の収益の総和を国内総所得、国内の費用の和を国内総費用、国内の総資産の総和を国内総資産、国内の負債の総和を国内総負債、国内の総資本の総和を国内総資本、純資本の総和を国内総純資産とする。
資金の調達力が何らかの原因で、抑制されると収益力が急速に低下し、相対的に総費用の比率が上昇し、国内総資産が圧迫され、国内総負債の負担が相対的に増加する。
その結果、実物市場に資金が流れにくくなるのである。
最大の問題は、実物市場への資金の供給が遮断される事である。

貸借対照表は、基本的に残高表だと言う事である。それが貸借対照表、損益計算書から現金収支を掴みにくくしているのである。
しかし、貸借対照表も損益計算書も根底に流れているのは、現金収支である。

総資本は、収入を根拠としている。また、総資産は、支出を根拠としている。
重要なのは当期の現金収支と損益との動きが現金収支とどう関わっているかを知る事である。それが資金の動きと働きを表している。

資金には、設備投資資金と運転資金がある。
運転資金は、売上債権と在庫、買入債権の時間的な差によって生じるとされているが、実際は、それに、借入金の元本の返済資金が加味される。
収益の悪化は、これらの資金に直接的な打撃を与えるのである。
運転資金は、短期的な資金の流れを投資資金は、長期的な資金の流れをつくる。

公共投資によって供給された資金は、負債から資産、或いは、費用へと流れ、それから、収益、および、借入金の返済の方向に流れる。資産や費用への流れは追跡できるが、借入金の返済は会計の表面に現れにくいためになかなか追跡する事が難しいのである。

投資は資産と費用に還元されされ、資産と費用は収益と借入金の返済額に還元される。
気を付けなければならないのは、借入金の返済というのは、会計上表面に出てこないと言う事である。ところが借入金の返済というのは、通常、一定額、月単位で支払が発生する。しかも待ったなしである。その為に、資金の流れのサイクルの基準になる。
負債と資本の違いは、資本は返済という資金の流れが発生しない事にある。その為に、資本の比率が高い企業は、資金繰りで優位に立てる。

経済に働く力の源泉は、第一に名目的価値と実質的価値の相互作用がある。第二に、フローとストックの相互作用がある。これらの相互作用を生み出すのは、資産、負債、収益、費用の相互作用と収入と支出、即ち、資金の流れの働きである。

場に働く力は、名目的価値と実質的価値の関係から生じる。名目的価値と実質的価値の相互作用が場の力の性格を決めている。又、場に働く力の基礎はストックにある。

経済を構成する要素には、人の要素、物の要素、金の要素がある。実質的価値は、物の要素を反映した事であり、名目的価値は、貨幣的要素を反映した事である。人の要素は、実質的価値と名目的価値を仲立ちする要素である。

会計では、実質的価値は、資産、費用に分類される。名目的価値は、負債、資本、収益に分類される。利益は資本に蓄積される。
名目と実質の違いは、名目的価値とは、貨幣としての価値しか持たない事象をさし、実質的価値とは、物としての実体を持つ事象の持つ価値を言う。

名目的価値は、表面に現れた価値と実体的な価値が一致している、のに対して実質的価値は、表面に現れた価値と実体的の価値が一致していない場合がある。例えば、地価は、会計上計上される価値と実際に取引されている価格とは必ずしも一致しているわけではない。地価のように実体的価値と帳簿上の価値が違う事象を実質的価値がある物とする。

また、ストックとフローは、流動性の問題でもある。
会計上、ストックに属するのは、資産と負債、資本である。フローに属するのは、収益と費用である。

実質的価値には、フローとストックがある。実質的価値は、フローの部分では名目的価値と基本的に一致している。問題は、ストックの部分で実質的価値は、実体と乖離しているという点である。
そして、ストックの部分の実質的価値と名目的価値との差が資金の流れる方向を定めるのである。

市場が拡大傾向がある時は、実質的価値が名目的価値を上回る事で、成長を促す。それがインフレーションの一因となる。

市場が収縮した場合、費用に対して収益が相対的に低下する。そうすると個々の経営主体は、収益を向上させるか、費用を削減しようとする。

市場全体の実質的価値が縮小すると市場に回収圧力が生じて通貨の流れは、返済方向に流れる事になる。この流れが市場を更に収縮させるのである。それがデフレーションを引き起こす一因となる。

この調整がフローの部分、即ち、収益と費用の間だけで行われれば、一時的な調整で終わる。しかし、この調整がフローの部分だけでは調節がきかなくなるとストックの部分、即ち、資産を換金化するか、資産を担保して負債を増やす事で不足した資金を調達しようとする。資産を換金化する事は収益に反映し、借入金を増やす事は、負債を増やす事になる。

運転資金までもフローの部分で調節がきかなくなり、ストックの部分によって資金を調達しようとすると言う事は、実質的価値の名目的価値に対する相対的を低下させる事を意味する。これは、実質的価値と名目的価値の相対的力関係を逆転させる。
利益は、本来、損益の関係から導き出される。しかし、損失が続くと資金不足を招いて貸借の関係に影響を及ぼす。損益から貸借に発展すると市場に働く力の方向が転換される。供給から回収側へと資金が逆流を始めるのである。
また、不況などによって収益が悪化が重なった場合、市場を環流している資金が流れにくくなる。この事によって市場から資金は排除されて金融に資金が滞留する事になる。その為に、ストックに資金が貯まって膨張する。それがバブルである。

実質的価値がある一定の限界を超えて収縮すると負の圧力が強くなって投資が抑制されるようになる。
競争を抑制して収益を向上させないと、この様な状況は脱却できない。
金融を緩和しただけでは資金は市場を循環しないのである。

この様な現象の例としては地価に対する地代、家賃がある。将来地価の上昇が見込める上に、地価が、地代、家賃に比べて相対的に低い場合は、家を借りるよりも土地を買って家を建てる方を選ぶ人が増えるであろうし、逆に、地価が上昇した場合は、反対に借家を選ぶ人が増える。
この様に、地価と借家、地価の予測は、相関関係にあると考えられる。
月々の返済額と月々の家賃の差が一つの目安となるのである。

重要なのは、資金の流れがどの部分にどの様な作用を及ぼし、それが場にどの様な働きをもたらすかである。

又、費用や負債は固定的なのに対して、資産や収益は変動的である。費用や負債が起点となって収益や資産を振幅させる。
この振幅が利益や資本の元となり、又、必要性の根拠ともなる。

金融を緩和しても市場が飽和状態であったり、設備が過剰だったりすると資金は、資金は市場に流れないで負債の返済へと向かう。資金をどのタイミングで、何処に、どの様に注入するかが、重要なのである。

収入は所得だけで得られるわけではない。借金からも収入は得られるのである。企業では資本的手段も活用できる。
しかし、多くの人は、借金は収入だと思わない人が多い。なぜならば借金は他人から借りた金だと思い込んでいるからである。借りた物というのは、自分の所有する物と明確に分けて考える人が多い。だから、自分が所有している現金という実感が得られないのかもしれない。しかし、借金も又収入を得るための手段の一種である事は間違いない。
この点が肝心なのである。
借金は、月々の返済が始まると否応なく実感がわかされる。自由に使える金が確実に減るからである。
自由に使える金というのは、可処分所得である。可処分所得が減ると言う事を言い換えると消費や支払に回せる現金が減ると言う事を意味しているのである。
こうやって負の部分が蓄積していくのである。

家計上の収益というのは、可処分所得の事だと思っても差し支えないだろう。
所得から固定的な資金を差し引いて自由に支払に充てる事がてる資金である。むろん、償却という思想から見ると異質ではあるが、実際的なキャッシュフローという観点から見ると妥当だと考えられる。

最近では、住宅ローンに自動車ローン、家電製品、家具と最近は何でもかんでも月賦である。
さらに、学習塾に料理教室、エステサロン、スポーツクラブ等、月謝の支払いも増えている。
それに消費者金融も発達してきたし、レンタルやリースもある。
更に、通信費や交通費も固定的にかかる。
これらは、負の空間を確実に増大させる。負の空間が拡大する事は、市場の流動性を悪化させる。

個人で言うといつの間に借金の支払いに月々の収入の殆どが当てられるようになり、首が回らなくなる。終いには、日々の生活の費用にも事欠くようになる。負の空間が確実に個人の生活を圧迫するようになるのである。
更に負債が多いと資金に余裕がなくなり、失業したり、病気や災害、事故等で急な出費があると途端に資金繰りに行き詰まる。失業でもしたら、生活は破綻してしまう。
負というのは足すとゼロになる数字である。所得の一部が常に担保されている事を忘れてはならない。

負の空間が増大すると所得から消費に回せる費用が限られてくるようになるのである。この現金の流れを正確につかんでいないと生活は破綻してしまう。これが企業だと倒産してしまうのである。
経済的観点からすると所得からどれだけ消費に回せるか。それに依って市場に流れる資金の量や質が変わってくる。市場に流れる資金の量や質によって景気の状態は左右される。

相続というのは、資産だけでなく、負債も一緒に引き継がなければならない。相続税というのは、公における負の空間を垣間見させるのである。
普段は我々は感じていないが、財産というのは、借り物なのである。
それは貨幣経済以前と決定的な違いである。貨幣経済が確立される以前は、先祖代々の土地を奪われる事は、暴力的手段以外には考えられなかったが、現代では、税という形で召し上げられてしまうのである。

景気が悪くなり、社会全般の収益力が低下すると必然的に負の負担が大きくなる。

社会全般の収益力がなくなると資産の担保余力が失われ、負債の返済圧力、回収圧力も強くなり、投資や費用に回す資金の余力がなくなる。しかも、往々にして不況になると過当競争に陥り、収益力を更に低下させる。負のスパイラルが始まるのである。不況時に過当競争に陥るのは、市場自体が飽和状態になり、拡大する余地がなくなるからである。少なくなった余地を巡って多くの企業が取り合うからである。こうなると実物市場に資金が流れる経路が狭くなり、資金が金融に滞留するようになる。この様な資金は捌け口を求めて資産市場に流れ込む。それがバブルである。
問題は実物市場に資金が流れなくなり、分配の機能が働かなくなっている事なのである。
この様な状況では、競争を抑制して市場の収益力を取り戻すようにすべきなのである。いくら公共投資をしても市場が資金を吸収できなければ、かえって公共投資も弊害である。資金量が不足しているのではなく。資金が流れにくくなっている、或いは、逆流しているのである。

市場が荒廃しているのである。

資金の流れが悪くなり、実と負の均衡が乱れているのであるから、資金が良く流れるようにした上で、実物価値と名目的価値の均衡を取り戻すような施策をうつべきなのである。

市場経済を動かしているのは、お金の環流である。お金が市場を絶えず環流している事で市場は動いている。
お金が環流しなくなると経済体制は崩壊する。お金の流れに偏りが生じると社会は分裂してしまう。
経済政策は、お金の適正な環流を維持し、制御する事にある。

お金の環流を促す働きがあるのは、変化と労働である。変化は時間の関数である。故に、お金を環流させるのを促す働きがあるのは時間価値である。時間価値は、付加価値によって生まれる。時間価値が働かなくなるとお金の流れの速度は低下する。
付加価値を活用する事で、お金の流れを制御するのである。

気を付けなければならないのは、負の働きである。
借金の返済は消費には回らない。
お金は使ったからといって消えるわけではない。
預金を取り崩してたからと言って預金が減るとは限らない。むしろ、預金が滞留している方が問題なのである。
預金が市場に環流し始めれば、それだけ、所得税も消費税も増えるのである。
また、預金と言っても企業に貸し出しされるのである。
いずれにしてもお金は使われないと効用を発揮しない。
お金が実物市場に流れなくなると資産市場や金融市場に流れ込みストックの働きとフローの働きを乖離させる。
それが実質的価値と名目的価値とを乖離させ、景気の振幅を大きくして景気を不安定にするのである。
景気を制御し、市場の健全性を保つためには、金融機関に滞留しているお金がどの様な働きをしているかを正確に把握しておく必要がある。資産市場や金融市場でお金が正常な働きをしているかどうかを見極めるためには、金の流れに沿ってお金の働き具合を解明していく事が大切である。

市場の健全性を保つためには、資金の流れに偏りが生じさせない事である。
お金の流れに偏りを生じさせるのは、生産手段(資産)や所得の偏り。即ち、極端な格差や階級と言った分配構造の歪みである。

近代では権力は、何らかの一族によって支配されるのではなく、仕組みによって支配されているのである。
国民が、第一に、問題とするのは、自分達の生活が成り立つかどうかである。その点を忘れてはならない。いくら政治的指導者が清貧を粧っても自分達の生活が成り立たなくなれば、国民を納得させる事はではない。政治家が多少贅沢な生活をしても自分達の生活が潤っていれば、国民を納得させる事は出来る。
むろん限度はあるが・・・。腐敗は経済を堕落させる。経済の堕落は、分配に偏りを生む。
問題は仕組みなのである。故に、権力の根源は、法であって人ではないのである。
中立的な法の下に、公正な分配と所有を保障する。その為の指標が利益なのである。

競争は、目的ではない。手段である。何でもかんでも競争させれば解決できるというのは幻想に過ぎない。
公正な利益を保障する手段として競争があるのであり、適正な利益を上げられなくなるほど競争を煽るのは間違っている。

だから、先人達は、寡占独占に繋がるような協定を禁じると同時に不当な過当競争も禁じたのである。

現在の経済では、規模の経済性が働いている。
規模の経済で重要な事は、集中と分散が重要な鍵を握っている。
固定費、変動費と一口に言うが、現在の損益分岐分析で言う固定費、変動費とは、全体から見て固定的、変動的というので、これが単位当たりに変換すると逆転する。
ただ、ここでは、通例に従って全体的に見て一定な費用を固定費とし、変動的な費用を変動費とする。

現代の経済現象を理解するためには、全体的な視点と部分的な視点が必要である。
現代の産業は、組織的生産であるか、大規模、かつ、全体的であるか点が、決定的な意味をしているという事である。
現代の市場では、個としての仕事がなかなか成立しにくい環境にある。それが個人として自立した事業が衰退した原因となっている。
そして、それがサービス業や流通業もその傾向が現れている。

現代の産業は、大規模な設備を前提としているものが多い。その為に多額な設備投資を必要としている。多額の初期投資のために、資本がなければ成り立たなくなっている。資本を特定な個人の出資ではなく、不特定多数による小口の出資を前提として成り立っているのが今日の株式会社である。

この様な産業は必然的に量販へと傾く。初期投資が大きければ大きいほど生産効率は上がる。又、大量に販売すれば販売するほど単位当たりの固定費は低下する。
それが大量生産、大量販売の伏線になるのである。
この損益の関係を理解していないと現在の経済事象を理解する事は出来ない。

規模の経済性を左右する要素は、数量と単価、そして、固定費、限界利益である。
第一に、予定販売数量をどれくらいに設定するかによって単位当たりの固定費の分量に違いが出る。それによって単価の設定にも違いが生じるのである。数量は、市場の占有率に対する予測にも影響するし、初期投資の額にも影響する。
販売数量が多ければ多いほど単位当たり固定費の額は下がる。必然的に、単価に占める固定費の割合も下がるからである。
第二には、固定費を回収するために量販に走りやすいのである。
第三には、価格が極めて販売数量に左右され、流動的だと言う事である。
これらの事から一度値崩れが始まると止められなくなる傾向がある。

重要なのは、損益分岐点を何処に何によって設定するかである。損益分岐点の問題は、単に利益という点だけでなく、資金という観点からも考察しておく必要がある。多額の利益が上がっているからと言って資金繰りが楽になっているとは限らない。むしろ、深刻な事態に陥っている場合もあるのである。
あくまでも、初期投資の段階では、収益は見込みなのである。
収益は不確実であるが、固定的費用は、確実に出ていく。故に、利益を想定していないと投資は出来ないのである。気を付けなければならないのは、固定的費用と言っても即支出だとは限らない点である。損益、収支、税これらの三つの流れを理解しておかないと経済の動向を予測する事は出来ない。

価格は両刃の剣である事を忘れてはならない。売り買いは表裏なのである。売りは収益であると同時に買いは、費用となるのである。収益は所得に還元されると同時に費用にも反映されるのである。費用を削減する事は、全体から見ると所得を減らす事になる。
価格だけの競争、低価格競争は、生産者だけでなく消費者も、双方の首を絞める結果を招く。

今日のように大量生産型、大量販売型の市場では、巨人によって市場は無軌道に荒らされてしまう。大企業は、生産量、販売量が総てなのである。質より量が優先されてしまう。メディアも安ければいい、安くないのは企業努力型ないからだと価格に競争を特化してしまいがちである。

しかし、競争は、価格だけに限定されてしまうと質的な側面が失われてしまう。
例えば、自動車は、燃費とか、最高速度、安全性と言った性能やデザインという面でも競うべきなのである。しかし、価格だけに限ってしまったら自動車の持つ経済的効果を計る事は出来ない。そして、自動車は個性を失って単一化されてしまうのである。それは経済的とは言わない。

本来市場が成熟してくれば量より質が重んじられ、それによって価格が維持されるはずなのである。ところが無原則な競争は、質を度外視させてしまう。結果的に安かろう、悪かろうという事になってしまう。それが企業収益を悪化させ、個人所得を低下させ、景気を悪化させてしまうのである。
何によって競わせるかを忘れれば、結局、価格競争に追い込まれてしまうのである。その結果は、底なしのデフレーションである。

人口問題は、生産と消費両面から見る必要がある。
第一に生産に関わる人口と消費に関わる人口は違う。生産人口というのは限られており、消費を専らにする人口があるのである。
その違いが人口にどの様な影響を与えているかを良く理解しておく必要がある。
第二に、世代によって生産にせよ、消費にせよ、志向が違うという点である。
第三に、生産は所得や供給に影響し、消費は、支出や需要に影響する。
故に、生産、消費両面から捉えないと景気の動向を見極める事は出来ない。









       

このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2014.12.1 Keiichirou Koyano