13、税について


今の人には、税に対する錯覚がある様に思える。
税は、取られる。奪われる。搾取される。収奪、劫奪、掠奪されるといった悪いイメージがつきまとう。それは、封建時代の税に対する考え方に囚われているからである。支配階級による搾取の手段という認識の名残でもある。

権力は、暴力によって人民を支配し、人民の富を奪い取る。そういう思いが税に悪いイメージを持たせるのである。

その様な税に対する先入観や偏見が、税の役割、働きに対する誤解を招き、適正な税制との構築を妨げるのである。
税は必要だから徴収すると言うが、では、税の目的は何かが明らかにされているであろうか。
税を誰が、どの様な理由で必要としているのか、なぜ、税でなければならないのかが明確にされていないのである。
税というのは、国家体制によって目的が変わる。そして、目的に応じて制度も変える必要があるのである。
その根本になければならないのは税に対する理念である。

大体、貨幣経済や市場経済が確立されたのは、税の金納が契機となっている。
税金を納めるためには、生産物を市場を通して、一旦、換金する必要がある。
それが貨幣経済や市場経済の役割を決定的としたのである。

近代的税の働きを知るためには、貨幣の働きを知る必要がある。
貨幣は、使用される事で効用を発揮する。貨幣に求められていたのは、物としての価値ではなくて権利である。要するに貨幣の価値は働きにある。
貨幣を考える場合、貨幣そのものに価値があるように錯覚している人が多くいるが、貨幣には物としての価値はない。物としての価値を必要としていないから、今日、貨幣に希少性は求めないのである。貨幣の価値を決めるのは、貨幣の流通量である。流通量は、物理的量ではなく、数値でしかない。
今の紙幣には希少性がない。希少性を必要としていない。むしろ希少性は貨幣の働きを発揮するためには障害となる。貨幣は、分配の手段である。貨幣制度が有効に機能するためには、一定の量が国民に満遍なく行き渡っている必要がある。そうなると貨幣が希少な物である事は障害となるのである。その意味で金本位制は、矛盾していたのである。金貨は、希少な物である。
貨幣の働きとは何か、それは交換と分配と保存の手段である。貨幣は交換の尺度となる。

今日、貨幣の持つ価値は、ゲーム機のコインや自販機に硬貨を使おうとした時を例に取れば解るように、コインや貨幣の重さや、形状、図柄、模様から情報でしかないのである。そして、貨幣そのものの価値は、貨幣が交換する対象との関係から生じる事なのである。貨幣は絶対的価値を持たない。それが前提である。

租税と税金は違う。
租税というのは、生産物や所有物の一部を国家に収める事を言う。
税金とは、お金で租税を支払う事である。
税金が一般的になる以前は、租税は物納が主であった。
物納が主である時代は、力で直接的に生産物を納めさせていたのである。
故に、多くの封建制度は奴隷制度、農奴制度を下敷きとしていた。

その時代の税は文字通り、収奪である。
そして、権力の本質は収奪だったのである。
そして、封建制度は力による支配を意味していたのである。
故に、一揆や叛乱、革命の直接的原因は税である事が多かったのである。

国民国家が成立し、近代的貨幣制度が確立されると税制度の目的や働きも変化した。
それによって国民国家では、納税は義務であり、権利とされたのである。

国民国家の目的は、国家の独立と安寧、そして、国民の福利にある。
税は、国家の目的を実現するための手段、経費である。
だから、税は、収奪であってはならないのである。
つまり、税は、特定の階級や家族を潤すために使われる物であってはならない。

ではなぜ、税が必要なのか。
税は、通貨制度と不離不可分の関係にある。
税の働きは、部分や局面だけを注目していては理解できない。
経済全体における働きを見る必要がある。
その意味では貨幣は交換手段であると同時に、分配手段だという点を忘れてはならないのである。

税の働きを考える場合、税が資金の循環と回収の働きをしているという事を見落としてはならない。
近代国民国家では、税は、通貨の循環の仕組みの一部を担っているのである。
そして、それが税の存在意義でもある。
単純に通貨を供給するだけなら、必ずしも税を必要としていない。
無税国家だってあり得るのである。
税を必要としているのは、通貨を循環させるという目的があるからである。

貨幣は、循環する事で効用を発揮する。この点が重要であり、税の存在理由でもある。
貨幣は、分配の手段である。この点を忘れてはならない。
貨幣の働きで重要なのは過程である。貨幣は、使われる事によって効用を発揮するのである。そのためには、貨幣を絶えず一定量、循環させておく必要がある。

現金収支だけで貨幣の働きを計測する事は出来ない。
現金収支だけでは、貨幣の働きを理解する事は出来ない。
公共投資に一千億円を投資すると言う事は、市場に一千億円を供給する事を意味する。
公共投資によって供給した資金をどの様に回収するかというと公共事業として回収するのではなく税として回収する事になる。
その為に、公共投資は、期間損益によって測られるわけではない。

所得と財政の関係は、民主主義体制だけではない。
倹約家の君主の下では、民は潤わない。浪費家の君主の下では、民は疲弊する。

我々は、お金を手にするとお金の効用しか見ないで、お金が分配の手段だと言う事を忘れてしまう。
と言うより、分配の手段という働きがお金の効用の前に消えてしまうのである。そして、お金の働きの本質を見失ってしまう。
お金の本質は分配の手段である。

高所、大局から考えると税は、奪うとか、取る、徴収するというのではなく。回収を目的としている事が解る。
貨幣で重要なのは、循環と分配である。循環があって始めて貨幣は効用を発揮できる。そして、貨幣本来の目的は、分配なのである。いくらお金があったとしてもお金を使う対象がなければ意味がない。お金を使う対象は限りがある、即ち、物理的にも人的にも有限なのである。故に、貨幣は持っている多寡ではなくて、流れている量と比率、シェアが重要となるのである。
貨幣で重要なのは取り分なのである。
どれくらいの借金があるかではなくてどれくらいのシェアを占めているかが問題なのである。

故に、貨幣は、一定量を循環させる事に意味があるのであり、どれくらい所有しているかは二義的な働きしかないのである。
貨幣は、使用する事で効用を発揮するという事が前提なのである。貨幣意味するのは取り分なのである。
だから、税を考える上で重要なのは取り分である。
公的機関の取り分である。そうでなければ、紙幣はただ発行して供給すれば良い。回収する事を考える必要はないのである。
一定量を常に市場に通貨を流通しておかなければならないから税が必要となるのである。

その意味で、単に税金は、何処にどの様な目的で使うかの問題と言うだけでなく。
税の問題は、貨幣を、どこからどの様に供給し、どこから、どの様に回収するかの問題でもある。

お金の循環と回収それが財政で一番の働きとなる。
お金の循環を促進する働きの一つが時間価値である。
金利は時間価値を形成する。その意味でも財政状態は金利を介して時間価値に影響を与えるのである。
財政破綻は、機動的な公共投資を抑制もする。
財政破綻は、金利に深刻な影響を与える。正常な金利政策を制約してしまうからである。
それは税収にも打撃を与える。

何処に、どの様にお金を流し、それをどの様に回収するかは、分配の問題である。
お金の回収の働きをしているのが税であり、回収したお金を公共サービスや公共投資によって市場に環流するのである。
その時に、市場に環流するお金の量を調節するのである。
ある程度の幅でお金を配分する事は、分配を公平に行うための準備であり、前提である。
それは、分散と平均の問題でもある。

貨幣制度が浸透した今日では、お金が流れない所は壊死してしまう。
お金が流れた部位が問題なのである。

では税は何を対象として課すべきなのか。

貨幣経済を構成する貨幣的要素には収入、貯金、借金、支出の四つがある。
貨幣経済を構成する物的要素には生産、貯蔵、分配、消費の四つがある。
貨幣経済を構成する人的要素には、労働、所得、財産、生活の四つがある。

税を何処に課すかという問題は、貨幣の循環のどの部分から貨幣を回収するかの問題だと考える事ができる。
貨幣を回収するというのは、財政をどの点に均衡するかの問題でもある。

所得、即ち収入に税を課すのは入り口に税を課す事であり、消費に税を課すのは、出口に課す事である。又、貯金や取引に課すのは、分配過程に課す事を意味する。

何処にどの様に流して、どこから、どの様に回収する事が資金効率を高め、資金の循環を促すのか。
資金の効率は、回転からも求められる。
税収だけに頼るのではなく事業収益も計るべきなのである。なぜならば、回収の頻度の問題があるからである。税収は年に一度しか回収できない。資金の回転による効率が図れなくなるのである。故に、税だけでなく事業収益も計る必要があるのである。対価性の問題でもある。税は、反対給付がない取引なのである。

税をどの部分にかけるのか、所得にかけるというのは入り口にかける事であり、消費は出口である。取引というのは、過程であるが、途中の取引の過程の数によって差が生じる危険性がある。いずれにしても効率よく、かつ、公平に資金を回収する必要がある。

所得と消費の違いは、所得の根源は、労働か私的所有権にある。消費は生活の必要性に基づく点にある。
消費というのは、生活全般、つまり、どの世代に対しても満遍なく課税される。
それに対して、所得税が課税される対象は、所得のある世代に限定される。

所得税は所得にかけられる。
故に、所得税は、労働者か、生産手段を所有するものに限られる。
つまり、所得税は、基本的に勤労世代にかけられる。
この事は、税収に偏りを生じさせる危険性があるのと、所得税は、所得の再配分という性格を制度上持っているのである。

気を付けなければならないのは、利益に対して税をかける場合である。
利益と所得、或いは、収入とは別の概念である。
利益は期間損益、所得は現金主義から派生した概念である。

まず、利益は、期間損益によって成立した指標だと言う事である。
期間損益というのは、一定の期間を単位として経済活動を評価するという思想である。
なぜ、単位期間を設定するのか。それは始まりと終わりを設定する必要があるからである。
企業は、最初は当座企業で会った。船と船荷を購入し、船員を雇って航海をし、一つの航海毎に清算をした。しかし、継続を前提とした企業には、終わりがない。故に、終わりを人為的に想定する必要が生じたのである。
物事には始まりと終わりがある。しかし、明確に始まりと終わりが認識されているとは限らない。曖昧に始まって曖昧なまま終わる事が多い。
物事の始まりと終わりを明確にするから結果が明らかになる。終わりが明らかにされれば結果も明らかにできる。終わりが曖昧では結果も曖昧になる。始まりが明らかでなければ、目的は明らかにできない。目的が明らかにできなければ結果を評価する事はできない。なぜならば、結果は目的によって測られるからである。
始まりと終わりを設定しないと働きを測る事ができない。できる事は、結果を明らかにするだけである。結果だけでは働きを測定する事はできない。
また、現金収支は、結果だけしかわからないのである。なぜなら、現金収支は、現金の出入り結果だけを記録した物だからである。故に、単位期間を設定し、その単位間での個々の勘定の運動と位置と関係から働きを割り出すのである。
単位期間は、税計算においても重要になる。単位期間は、課税対象を決める場合の基礎となる。また現金収支を計算する上での基礎となる。
但し、この課税期間によって、利益も、所得も、現金残高にも微妙な差が生じる。

利益は所得ではない。法人税は所得税ではない。
所得というのは、貨幣の流通過程で生じた結果である。
利益や収益は、貨幣の流通による働きを計測する際の指標である。
どちらも差であり、幅が意味を持つ点は変わりがないが、収支は自然数でなければならないのに対して、利益は整数を基本としている。
利益に税を課す事と所得に税を課すのは同じ事ではない。利益は所得ではないのである。

お金が流れていない所から税を徴収するというのは、例えば、相続税で資産に税を課す事は、資産を売買して換金する事を前提としなければ成り立たない。それは、市場取引を介してお金を強制的に流す事を意味する。
また、物納という形で、物の経済の名残もまだまだある。人頭税のような事は人の経済の名残である。
ただ、この様な即物的な税は、貨幣の循環を生み出さない。
今日の貨幣制度における根本はお金の循環を促すのが税の働きである事を忘れてはならない。
強制的に税によって換金を促す事は清算を意味している事もあるのである。
それは、富の再分配を目的としている事だと言う事を念頭に置いておく必要がある。
富の再分配をどの様に行うかは思想の問題である。

経済の自由化は、集権的体制を前提とする。自由な交易、統一的法や制度を前提とするからである。自由市場は、民主的体制を促す。

経済の根本は、働く事、生きる為に必要な資源と、それを調達するための手段である。
生きていく為に必要な資源を調達する為に必要な所得を保証する事である。
その為には、公共投資を行ってお金を市場に供給することは有効な手段である。
しかし、公共事業で需要を喚起したら市場を活性化しないと財政は破綻する。
公共投資によって需要を喚起するのは、一種の刺激策、カンフル剤に過ぎまなん。
景気を主導するのは、民間企業である。民間企業が適正な収益を上げないかぎり資金は市場を循環しない。
民間が適正な収益を上げ、それが所得や景気に反映され順調に税金として回収されなければ財政の収支は均衡せず、財政は早晩破綻するのである。

公共投資が税収に結びつかない事態になれば財政赤字は慢性化する。
それは、財政の問題と言うより経済の仕組みに欠陥があるのである。
課税対象を利益や所得においているのならば、利益や所得が安定的に計上できるようでなければならない。
利益が上げられないような市場の構造では、安定的な税収は望めないのである。

市場を活性化する為には民間企業が利益を上げる必要があるのである。
即ち、利益を上げるのは、公平な分配を保障することにある。
利益は、公平な分配を実現する指標でなければならないのである。利益は合目的的な指標である。
利益は、正しい目的のために、任意に設定されるべきなのである。
正しい目的に基づいて利益が設定されているならば、適正な利益を上げられなければ経済は目的を果たせない。利益は、手段なのである。

利益は指標であり、相対的指標である。利益は、環境や状況、条件によって変わらなければならない。なぜならば、環境や状況、条件によって公平な分配のあり方は変わるからである。

景気を良くするためには、企業が収益を上げなければならない。
なぜ、収益を上げなければ景気は良くならないのか。それは、収益は費用の前提だからである。費用こそ景気の鍵を握っている。費用を不必要に削減することなく、利益を上げられなければ景気は回復しない。
例え収益が上げられたとしても、費用が一部の人間にのみ偏っていたのでは、本格的な景気の回復に繋がらない。なぜならば、お金は使われることで効用を発揮するからである。

分配の根源は費用にある。適正な費用が維持されなければ、公平な分配は実現できない。経済の本質は費用にある。






       

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