10.利益を上げる目的



若い頃、松下幸之助が新規事業の事業計画の説明を聞かされている時、「それ儲かりますか」と聞き。
儲かるか、儲からないかが判ればいいんだと続けたと聞いた。また、利益を上げられない会社は、悪だとも言ったと聞いた事もある。
ただ、松下幸之助が言いたいのは、肝心な要点を言えば良くて、後の細々とした説明や思惑は説明されてもかえって焦点がぼけるだけだと言いたいのであって、儲かるか、儲からないかが判れば後はどうでも良いと言っているわけではない。しかし、儲かるか、儲からないか、つまりは利益が持つ意味はそれだけ重要、最重要だと言っている事には変わりはない。
それ程、利益というのは、現在の企業経営において不可欠な事である。
利益をこれだけ重要な事だとしながら、利益の持つ意味や役割を正しく理解している人は少ない。
利益は、重要な指標である。ただ、利益は指標に過ぎない。速度は、車を運転する上で重要な事であるが、速度だけで車の性能を判断する事はできない。同様に利益だけで経営の是非を判断する事は出来ない。
ところがいつの間にか利益が目的化してしまい、その為に本当の利益の役割を見失っている経営者が多く見受けられる。

会計の教科書においても企業経営の目的は、利益を上げる事だと公言してはばからない者が多く見受けられる。
そういう人に限って利益の真の意味を理解していない。

お客様にお宅の会社はどう言う目的で商売をなさっているのですかと聞かれた時、金儲けのためですよだなんていったら、相手は腰が引けてしまうのではないだろうか。
少なくともその会社から何かを買おうという気は失せてしまうだろう。

一方で、金、金、金と利益至上主義のような思想が蔓延し、その一方で、利益至上主義に対する拒否反応、生理的な嫌悪感まで持つ人もまた増えている。
利益に対する両極端な考え方は、社会のみならず、人間の人格まで分裂させようとしている。
仕事だから、金儲けのためだから仕方がないじゃないと自分の信念や倫理観まで歪められたりしたらたまったものではない。しかし、そうしなければ会社の一員としてやっていけないとしたら自分の節を屈せざるを得ないのか。いくら仕事だとは言え、自分の価値観や信念に反する事を強要され、それを断れない状況におかれる事が状態だとしたら、その中で自分らしさを保つのがどれほど難しいか考えてみて欲しい。
そんな大袈裟なというかもしれないが、自然環境に悪いと思いながらも開発事業を推し進めたり、大損すると解っている株を買わせたり、欠陥だらけの住宅を売ったり、嘘だと知りつつ誇大広告を出したり、大気汚染の原因なると解っていても利益にならないからと空気を清浄にする装置を設置しなかったり、汚染すると解っていても有害物質をそのまま河川に流したり、生活に困る事が解っていても社員を解雇したり、絶滅するかもしれないと知りながら貴重な資源を乱獲したり、自殺するかもしれないと思っても金を取り立てたり、信頼する人に法外な値段で売りつけたり、健康に悪いとわかっているなに売りつけたり、何の効能もない物をさも、さも劇的な効果があるかのように見せかけたりする者が後を断たない。そういう者の多くが利益のためにと言って自分の行為を正当化するのである。
それを美徳とさえするのか。
会社がいくら大きくなり利益を上げたとしてもそこで働く者が鬱々として喜ばない。それを真の会社の発展と言えるのであろうか。
逆に、働けなくなった高齢者は、どんなに困っていても見向きもされない。治せる病も金がなければ治療さえ受けられない。なぜならば儲からないからである。利益にならない行為は、どんな善行でも価値を認めようとしない。義理だ人情なんて一文の得にもならないとして斬り捨てられる。
その結果、社会をズタズタに分裂させ、挙げ句の果てに、精神に異常をきたす人間を大量に発生させている。世の中や人々から道義心がなくなり。優しさなんて金儲けの方便でしか役に立たなくなる。
思いやりなんて、金目当ての見せかけでしかない様に思えてくる。
金持ちに媚びへつらい、貧乏人を蔑む。
心正しき者も貧しければ侮られる。
利益のためなら魂までも売り渡す。
正直者は馬鹿をみる。
清貧なんて敗者の戯言。
金がなければ親も子もない。住む家もない。
教会に行くより、ビジネススクールに通う方が益しなのである。
素直だった若者も世間で揉まれると、生きる事はきれい事ではないと汚い生き方しかできなくなる。
しかし、汚い生き方を正当化し得る根拠など何処にもない。汚い生き方は、汚い生き方なのである。
金が人に汚い生き方を強いるとしたら、やっぱり、金は人間から嫌われる。

物質的に豊かになれば、幸せになれると人間は思い込んでいた。
しかし、物質的に豊かになったからといって精神的に豊かになれるとは限らない。
物質的な豊かさを追求している内に、人間は本来の目的を見失ってしまったのではないだろうか。

その典型が利益を目的化する事である。
金儲けは手段に過ぎない。金儲けは目的にはならないのである。

現代社会は貨幣経済と市場経済を下敷きにして成り立っている。その結果、お金が全てであるように錯覚している。
少なくとも経済はお金で動かされていると思い込んでいる節がある。

そして、利益とは何かと言う事、これは資本と言う事に対しても同じであるが、明確な定義もされないまま、利益は是か非かという議論をしている。

いつの間にか利益は目的化され、経営主体は利益を上げるために存在しているかのように思い込まされる。
経営主体、即ち、企業の社会的役割はどこかに行ってしまい。
企業は、ひたすら利益だけを追求する機関のように思われている。

利益が経済の全てであるとか、利益は経営行為の目的だと考えるのは、間違いである。
利益は、経営状態を測るための手段である。

利益は、指標である。しかし、経営主体の行動規範を規定するだけの力を持った指標である。
利益を上げなければ、持続的な経営をしていく事が不可能だからである。
なぜ、利益を上げなければならないのか。
利益を上げなければならない意義が不明確であるかぎり、又、利益を上げる事に幾ばくかの後ろめたさを感じているかぎり、企業も経済も本質的に安定した状態は望めないのである。

利益は、期間損益によって成立した指標である。
期間損益というのは、一定の期間を単位として経済活動を測定するという思想である。
物事には始まりと終わりがある。単位期間を設定するのは、始まりと終わりを設定する必要があるからである。
物事は、始まりと終わりが明確にされているとは限らない。むしろ、曖昧に始まって曖昧なまま終わる事が多い。
会計制度が成立した頃は、当座取引が一般的だったとされる。一つひとつ航海で一回いっかい儲けを清算してきた。それが継続を前提とした事で始まりと終わりが不明瞭になった。だから、単位期間を設定する必要が生じたのである。
物事の始まりと終わりを明確にするから結果が明らかになる。終わりが明らかにされれば結果も明らかにできる。終わりが曖昧では結果も曖昧になる。始まりが明らかでなければ、目的は明らかにできない。目的が明らかにできなければ結果を評価する事はできない。なぜならば、結果は目的によって測られるからである。
始まりと終わりを設定しないと働きを測る事ができない。できる事は、結果を明らかにするだけである。結果だけでは働きを測定する事はできない。
また、現金収支は、結果だけしかわからないのである。なぜなら、現金収支は、現金の出入り結果だけを記録した物だからである。故に、単位期間を設定し、その単位間での個々の勘定の運動と位置と関係から働きを割り出すのである。
単位期間は任意に定められる。単位期間は、所与の事ではなく、任意に定められる事なのである。この点が重要な点である。

期間損益主義では、収入と支出を単位期間に分解して、収益と費用を算出する。収益に対して費用に対応させて費用対効果を測定する。費用対効果は、資金の流れの働きによって発現する。

費用と収益は、別次元で決められるという事が根底にある。
費用は、財の生産に関わる用役や資源を集計した値であり、収益は、売上を集計した値である。
売上は、市場価格によって決まる。市場価格は、需要と供給の関係によって定まる。
費用は、生産や販売過程で生じる支出を元として決まる。費用は生産手段や販売手段に拘束されている。
収益は、消費者の必要性に基づいている。
収益と費用では、根源が違うのである。
費用が生産者の必要性に基づいているのならば、収益は消費者の必要性に基づいている。
費用と収益を結びつけているのが利益である。
費用と収益が結びついていないと現金の流れを制御する事が出来なくなる。
現金即ち、貨幣単位は自然数であり、上方に開かれている。即ち無限なのである。それを有限な範囲の事象に置き換えるためには、収益と費用とを結びつける必要がある。
即ち、収益が上限を画定し、費用が下限を制約する。利益によって収益と費用は制御される。
収益は、収入、資金の調達手段の源泉であり、費用は、支出の源泉である。
収入の手段には、負債的手段、資本的手段と収益的手段があり、支出の手段には、資産的手段と費用的手段がある。

収入と支出は、貸し借り、売買による。貸し借り、売買による貨幣的効果を調節するための指標が利益である。

経済は、生きる為の活動である。
人々が生きていく為に必要な物を生産し、分配し、消費する一連の活動が経済の原点である。
そしてその根本は今でも変わらない。
世の中に有用な物や用役、権利の生産と消費、分配が経済本来の目的である。
利益も経済指標である限り、その根本から離れる事はできない。
離れるどころか、利益こそ、その根本を測るための手段なのである。
その点を見落とすと利益の目的は明らかにする事はできない。
その目的から逸脱しているが故に、利益は本来の働きを発揮する事ができないのである。

金、金、金と言ったり、金儲けとか利益というと、なぜ嫌われるのか。
それは、金儲けとか、利益の追求は生きる目的にはなり得ないからである。
それに、利益は余りという発想がある。経営本来の目的ではなく、副次的に生じたのが利益だというとらえ方である。利益、利益というのは主客転倒であり、あまり、利益、利益というと本来の目的が見失われるように思えるからである。余計な部分、余剰な部分をかすめ取っている。
例えば、飲食業なら美味しい料理を提供した結果として利益が生じるのであって、最初から利益を求めて飲食業をやっているわけではない。逆に、利益のために料理の質を落としたり、手を抜く事があったら本末の転倒だという発想である。利益は二義的、副次的な事なのである。二義的、副次的な事によって事業本来の目的が見失われてしまう事を嫌っている人もいる。彼等の多くは、仕事の目的は金儲けではないと断言している。むしろ、金に汚くなると仕事にも差し支えが出ると考えているのである。
また、利益は、本来顧客に還元されるべき部分ではないのかと言う思いが、その裏には隠されている。
費用は、生産手段(労働や原材料など)に対する対価だという考えがあり、それは、価格を構成する基本的な要素だと説明できても利益については、なかなか上手く説明がつかないという事がある。それは利益という概念が定義しにくいという事でもある。

金に汚いというのは、本来の目的を忘れて、自分の利益ばかりを追求しているという意味合いもある。
それが利益が嫌われる根本的理由かもしれない。

また、利益は、本質的に労働の対価ではない。つまり、費用から生まれるのではなく、資本から生み出される事だと見なされている点もある。事実何らかの対価を伴えば費用とされる。利益は、収益と費用の差額勘定なのである。だから、利益は資本に還元される。
つまり、価格は、基本的に何らかの対価として支払われるべきだという考えに反しているからである。つまり、利益は搾取の結果、生じるという発想から利益を否定的に捉えるのである。

更に、利益というと何か賭博的な要素を嗅ぎ取るからかもしれない。利益ばかり求める事は、悪徳のように思えるのかもしれない。

利益から賭け事が連想されるのは、多分に利益が成立した過程、歴史的な部分に原因があると思われる。
投資は、当初、当座的な行為であり、投機的要素が強かった。儲けが大きいが反対に一度の航海で全財産を失う事もある。つまり、かつての投資には賭の要素が強かったのである。

利益には投機的な要素がある。利益の前提は投資である。利益の配当を受ける為には、何らかの資金なり資源なり、労力なりを提供する必要がある。つまり、投資が前提になる。その代わりに利益が得られなければ、全てを失う覚悟必要である。
投資は、予め利益が確定された事ではなく、何らかのリスクを含んでいる事である。

利益が嫌われる要素に、この賭博的な要素がある。博打から得る金は泡銭であり、道徳的でないという思想がある。

賭け的な要素を回避する為にリスクを分散する為に投資先を分散し、保険を掛けた。
投資を分散し、取り分を計算する為には、利益を算出する仕組みが必要となったのである。だから、利益は、損失と対になって考えられる概念でもある。

利益に対して否定的な考え方は、利益の持つ否定的な部分だけを強調している。
利益は、単に、余剰的な要素だけで派生するわけではない。

利益が派生するのは、一つは、正確に単価を設定する事ができないと言う事情がある。労働の対価という思想は、生産設備を必要とせず、原材料の価格が明確であるという前提に基づいて成り立っている。しかし、組織的な労働や何らかの機械設備による大量生産では、労働の成果を一つ一つの生産物に正確に反映する事が困難なのである。それ故に、全体にかかった費用から単価を類推する以外になくなる。その場合、生産量や販売量によって一つ当たりの労働費は変動してしまうのである。

もう一つは、費用の構造から必然的に派生する。つまり、費用は固定的部分と変動的部分があり、単価を設定すると一定の量の販売量を超えると必然的に利益が生じると言う事である。

又、収益は不確かであり、費用は、確定的だという性格にも依る。
景気には、変動がある。収益は、景気の変動や流行によって変動する不確かな事象だと言う事である。それに対して費用は基本的に固定的な事だと言う事である。
利益は、この収益の不確定性と費用の確定性に依って絶え間なく変化するのである。
故に、ある一定の幅が利益には必要となるのである。

これらの要素は、利益が派生する事に対する受動的な要因である。
これ以外に能動的な要素もある。
それは、利益は、借入金の元本に対する返済原資だと言う事、再投資の準備金という性格がある。また、景気変動に対する予防的領域だという点である。

利益は、資金との関係から見る必要がある。利益は、元来、資本に還元される。
利益は、投資のための目安でもある。
利益が計上されていないと、資金の調達に支障が出る。

もう一つは、利益の元は費用であり、費用こそ経済の根幹を形成するための要素だと言う事である。
費用は、裏返せば所得なのである。費用の元をたどっていくと誰かの所得に行き着く。
費用は、突き詰めると所得である。言い換えると、費用の削減は所得の削減なのである。
この費用と所得の表裏の関係が、需給関係を介して、生産と消費を調節しているのである。
費用が一定的なのは、経済の変動を安定させる目的がある。
費用は所得である。費用を一定化させる事は、所得を一定化させる事を意味する。
又、変動的な収益を整流する効果もある。
そのために、費用は固定的で硬直的な性格を持つのである。

経済の実質的な問題は、生産と消費である。つまり、必要な物を必要なだけ生産し、それを公平に分配して消費する。その過程で分配手段として貨幣が用いられるのである。

同じ一億円の利益でも、所得水準が百万円の国と一千万円の国とでは、利益に働きに違いが出てくる。

所得と費用は裏腹の関係にある。取得は収入、費用は収益に結びついているからである。
支出があるから、収入があり、収入があるから支出がある。ある人の収入はその人以外の誰かの支出なのであり、ある人の支出は、その人以外の誰かの収入となる。

所得の上昇は、費用の上昇を意味する。そして、費用を削減することは、所得を削減することなのである。支出に対して所得が不足したら誰からか借りなければななくなる。現金残高は常に正でなければならないからである。所得の上昇と貸し借りの均衡が保たれなくなれば、経済の均衡は破綻する。
経済の均衡を保っているのは偏りなのである。均衡と偏り、これが経済を動かしている原動力である。偏りを生み出し、制御するのが経済の仕組みである。経済を動かし制御するためには、偏りを人為的に創り出し、それを人為的に制御する必要があるのである。
そこで重要となるのは弛緩が生み出す歪みや差である。この歪みを是正する働きをするのが金融である。金融は、担保力があるかないかによって資金を供給するのではなく、その産業や企業が社会にとって有用であるかないかによって資金を供給するようでなければならない。その指標が、費用対効果を測定するための指標である利益なのである。

費用には、企業の内部から上昇圧力が働き、収益には市場から下方圧力がかかる。

その国の経済状態を見るためには、所得や生産の総量、増減を見ているだけでは理解した事はならない。経済の実体を理解する為には、所得の平均と分散が重要になる。つまり、偏りが問題なのである。

経済成長力は、単に、所得や生産の総量を増加すると言うだけでなく平準化するという働きを伴わなければ維持できない。経済の成長が分配の平準化を伴わなければ、格差を広げ結局生産力を抑制する方向に圧力がかかるからである。
又、質的な変化を伴わない量的拡大は、社会の変化を抑制し、真の成長を減速する。
資源に限界がある以上大量生産型経済には自ずと限界があるのである。市場は、一種の圧力釜のような者である。
量から質への転換が出来なければ、市場は爆発してしまう。

貨幣、即ち、資金を調達する手段が所得であり、所得の平均と分散は、生産と消費に反映されるのである。
所得の分布に偏りがあると消費に偏りが生じるのである。
消費に偏りが生じると生産に反映にし経済構造が歪んでしまうのである。
更に、経済状態は、所得と物価が反映される。

生産性は、本来必要性から生じるべき事である。生産手段や生産力から導き出される事ではない。ところが必要性以前に生産手段や生産力が問題となる。

生産と分配の調和が経済を安定させるのである。
生産と分配を調和させる手段が所得であり金融である。
その為には所得の増減の幅を狭める必要がある。
それが定収入化である。

所得が一定、定収化すると長期的借入が可能となる。
それが経済を安定化する自動装置として作用するのである。

費用は所得を形成する。
要するに、費用とは、配分の根拠を意味している。
利益は、何に対して費用を支払ったかの妥当性の問題である。
費用を悪者にし、何が何でも費用を削減する事は善だとしたら、所得は失われるのである。
費用というのは、何が社会的に必要とされるかによって決まるのである。
それを測定するのが利益である。
だからこそ何の制約もなく費用を削減する事は経済活動を否定する事になるのである。
そして、費用と収益の関係が経営主体の経済効果を定めるのである。
その妥当性を判定するために会計がある。
そのための指標が利益である。
利益を調べる事で利益を出すための仕組みや過程、論理の正当性を評価するのである。

費用の構成が、産業や企業の仕組みや性格を形成する。
費用の構造は、産業や個々の企業事に違うのである。
費用は原価を構成する。
費用に固定的部分と変動的部分があり、これが利益の仕組みや性格の基礎となるのである。
故に、利益を出す仕組みは費用によって形作られる。
景気は、個々の産業の費用構造の働きが複合されて起こる。
故に、費用構造を理解しない者が経済政策を取り仕切る事は、運転免許を持たない者が自動車を運転するくらい危険な行為である。

費用は、否定的に捉えるのではなく、その働きから理解すべきなのである。
そして、費用という観点から利益も見直す必要がある。
費用によって経済は成り立っており、費用を裏付けているのが利益なのである。
大切なのは利益を生み出す仕組みの妥当性である。
利益を生み出す仕組みをどの様にして検証し、構築していくかが重要となるのである。

要するに利益を出す仕組みを如何に構築するかが問題なのであり。そして、その為には、社会は利益によってどの様な社会を導くのかの構想を定め。利益の目的を明らかにする必要があるのである。

利益は、経済効果を測る指標に過ぎない。
利益は、極めて会計的な指標だと言える。

会計は創造的行為である。
利益は一意的に決まる事ではない。
利益は、前提や設定によって変わるのである。

利益の目的によって経営者の行動を制約するような会計を築く必要があるのである。
そのためにも、なぜ、どの様な目的で利益を出す必要があるのかを明確にする必要があるのである。

利益は、貨幣的概念だと言う事である。

先ず、利益は、貨幣的概念だという事である。この事は大前提である。
貨幣的概念と言う事は、利益は数字によって表現され、数式的操作によって導き出される値だと言う事である。
又、利益は、貨幣価値を前提とし、貨幣価値を数字で表した結果だという事である。

利益は、収益から費用を引いた金額である。

売上も費用も、勘定に過ぎない。売上は収入ではない。費用は支出を意味するわけではない。収入を伴わない売上もあるし、売上に依らない収入もある。支出を伴わない費用もあるし、費用に依らない支出もある。
故に、利益は、収支に直接関わっているわけではない。

売上、即、儲けというわけではない。売ったから、即、儲かったというわけではない。ちなみに、儲け、即ち、利益というのでもない。
利益も儲けも差額である。儲けというのは仕入れた物に対してどれくらい売上高である。現金収支を言う。小さな個人商店や昔の商いでは、入った金から出て行った金を差し引けば良かったのである。
利益は、期間損益から費用対効果を測定した結果である。現金出納とは違う。
利益を割り出すためには、収益の意味と費用の意味を知る必要がある。

この事は、資金の流れと利益とが直接関わっているわけではない事を表している。
しかし、利益と資金の流れとは深い関係がある。そして、相互に影響を及ぼしている。
利益は、むしろ、実際の取引、即ち、財の流れに即していると言える。
それが発生主義、実現主義の根拠でもある。
実体の取引、物の効能にあわせて資金の流れをあわせていると考えた方がいい。
そのためにお金のやりとりと会計上のやりとりとの間に時間差が生じるのである。

利益は、単なる結果ではない。
利益は経営主体の行動規範に作用する。
経営者の行動規範を制約する。行動規範に抵触すると言う事は、経営主体の価値観、倫理を形成する要因でもある。
経営主体は、利益のために、法を犯したり、また、環境を破壊したり、従業員を裏切ったり、嘘をついたり、解雇したり、客に不利益な事をしたり、敵対する国を利したり、人を出し抜いたり、時には人殺しまでして、生活に必要な資源を貧しい人から取り上げたり、健康に悪いとしていながら供給したり、暴力的になったり、人を争わせたり、浪費を促したり、欺いたり、年寄りを騙したり、脅迫じみた事すらする。
ビジネスマンと言われる人達は、利益を出すためなら何をしても良いと思い込んでいる傾向がある。
それがあからさまに出たのは、リーマンショックの時である。

この様な弊害は、利益に対する目的の設定を間違っているから一人ひとりの価値観が歪められてしまうからである。
彼等の多くは、利益を単なる金儲けの手段としてしか見ていないのである。

利益は、経営の実体を測るための手段である。
利益には、利益を測定する目的がある。
黒字には黒字の赤字には赤字の理由や原因がある。
それが重要なのである。利益は結果だけが問題なのでない。
結果だけを問題として資金の供給を決めるから会計上の利益は、極めて不利益に事になるのである。

利益の出る仕組みを会計的につくる必要がある。

利益の目的は、金儲けにあるわけではない。
利益が目的化すると経済本来の生産や消費、分配に支障をきたす事がある。
その結果、格差の拡大や戦争、貧困、環境破壊が起こるとしたら本末を転倒している。
重要なのは、利益の必要性である。
利益は手段であって目的ではない。

利益の結果は、最終的に資金の流れに還元される。
利益の結果を見て資金を供給する者は、資金を供給するか、回収するかを判断するからである。

利益は、一意的に決まる事ではない。
利益の出し方は、一意的に決まるわけではないのである。

利益の出し方は、個々の産業や企業によって違いがある。
利益を出す仕組みの事を近年ではビジネスモデルなどと言う。
そして、ビジネスモデルによって同じ産業でもまったく違ったやり方で利益を出している場合がある。
それは、個々の企業が置かれている状況が例えば企業規模だとか、市場の占有率だとか、後発だとか、資金量が違うだとか、どこかに部分に特化しているとかによって違ってくるからである。

利益の出し方に違いがあるからと言って個々の経営主体が利益を上げる根拠や要因に不正があるとか、妥当性がないわけではない。

問題なのは、利益の目的が明確ではない点にある。

人を騙したり、誤魔化したり、欺いたりそうしなければ利益を上げられない仕組みになってしまうのである。
利益を上げると言う事で総てが正当化されるというのに、利益を上げなければならない目的が明確に示されていない。
利益を上げると言う事で総てが正当化されるわけではない。
利益を適正に設定しないと豊作貧乏や大漁貧乏のような事態が引き起こされるのである。
問題は、利益の設定が世の為、人の為になっているかである。つまり、社会的効用と合致しているかなのである。

利益の目的が世の中のため人の為に合致しているか、それは費用との関係で決まる。
費用は、利益の源である。利益の源泉は、収益にあるわけではなく、費用にある。
この点にも重大な錯誤がある。

現代の経済では規模の経済、スケールメリットが働いている。
そして、スケールメリットを成り立たせているのは、大量生産、大量消費である。
大量生産は、生産手段、設備に対する初期投資を前提としている。
最初に巨額な初期投資をして、それを長い期間掛けて回収する事を前提として成り立っている。
巨額の資金を調達するためには、予め一定の利益が見込めなければならない。
利益が想定されていなければ資金調達はできない。
利益は契約の前提となるからである。
そして、一定の利益を織り込む為には、費用と収益を平準化する必要がある。
そこで成立したのが減価償却という思想である。

減価償却費を資金の流れと切り離して考えるたら、費用対効果が正確に測定できなくなるからである。
第一に、減価償却費は生産手段の劣化から生じる費用である。
第二に、元本の返済原資と言う働きがある。第三には、更新設備の準備金と言う意味もある。

利益の働きと減価償却の関係は、資金の流れを介して表裏の関係にある。
なぜならば、利益と非償却資産(土地)、そして、税が利益配分の重要な部分を構成している上に、借入金の元本の返済をの原資は、利益と償却費の和から求められるからである。
そして、収益が悪化した時、この資本を担保として資金調達が図られるからである。そのために、利益がある。

つまり、利益の目的は、収益による必要な費用の確保と収益が悪化した時、更新投資のための準備資金を蓄えるという事が含まれるのである。
中でも、費用対効果を計測して必要な資金を調達すると言う事が重要となる。つまり、費用が利益の根拠となるのである。

利益に対する無理解から、利益は余剰資金であるかのような錯覚をしている人が多くいる。
その為に、利益を全て外部の人間や機関に放出すべきだと考えている。
法人税や配当金、経営者の報酬によって利益を配分し、内部留保を残さない事が正しいというのは重大な錯誤である。
しかし、利益には資金的な裏付けがあるわけではない。むしろ、利益は、資金の流れとは無縁である。利益を対象にして課税をすれば、税金を納めるために、企業は、借入を起こさなければならなくなる。
なぜならば、利益は、借入金の元本の原資だからである。
かつて政府は、利益を蓄積する事自体悪い事だとして、内部留保に課税までしようとした。この事は、利益や資本に対する基本的認識が欠如しているからである。
この点で言えば、償却が終わっていながら、借入金の元本の返済が終わっていない場合、費用が計上されずに利益が生じる。この利益に課税をした場合、資金的裏付けがないために新たな借入金を起こさないかぎり、納税資金を賄う事ができなくなる。これが黒字倒産の一因でもある。また、この様な納税資金は、設備の更新資金を奪う事になる。
減価償却費、資金計画、税金の関係は、資金の流れと絡めて考える必要がある。利益があるからと言って儲かっているとは限らないし、赤字だからと言って儲かっていないとは限らないのである。

この辺の絡繰りが解っていない為政者や金融マンは、自分達は、正しいと思ってやった事が、善良な企業を破綻させる原因を作っている事にもなる。

利益は、経営効果を測る手段である。
では、人は、どの様な目的で、何を、どの様にする事によって利益を測定しようとしているのか。
その点を明らかにしないかぎり、利益本来の意味堀解する事はできない。

経営主体を実質的に動かしているのは、資金の流れである。
そして、資金を経営主体から回収し、資金を再循環させる働きをしているのが税金である。
税には、又、経営主体の経営活動の結果を社会に還元する働きがある。
経営主体の働きは、費用対効果として表される。

資金の流れと税、利益は密接な関係がある。ところが、資金の流れと利益、税の構造とが結びついていない。
それが経済現象を歪める原因となっているのである。
それは資金の働きと利益の働き、税の働きが理解されていないからである。

利益というのは、全て余剰な事だから、分配してしまえと言う考えもある。しかし、利益は余分な事ではない。利益というのは何度でも言うが指標である。利益を全て分配してしまえと言うのは乱暴な話である。
利益には長期的な働きと短期的な働きがある。長期的な働きは資本として蓄積される。

経済の拡大局面では、費用が梃子の働きをして、収益を押し上げていく。逆に、縮小局面では、収益が梃子の働きをして、費用を押し下げようという力が働く。
また、拡大局面では、負債が梃子との働きをして資産を押し上げ、縮小局面では、資産が梃子の働きをして負債を削減しようとする力が働く。
経済は拡大と縮小を繰り返している。
拡大局面は良くて、縮小局面は悪いと強(あなが)ち決められないのである。
拡大も、縮小も一つの局面である。縮小局面は、停滞とも言えるし、成熟とも言える。市場が縮小しているのは調整局面だと言えるのである。
その時に間違った施策を採れば経済の仕組みを壊してしまう事がある。
拡大局面で景気を過熱させたり、縮小局面で景気を悪化させるのは為政者や金融機関である。

収益というのは、変動的なのに対して、費用は固定的で硬直的である性格がある。

費用には、固定費と変動費がある。
付加価値と言われる部分は、主として固定費の部分を指す。
固定費には時間価値が関係する部分が多く含まれる。
この費用が下方硬直的である事が利益を圧迫するのである。

収益が変動的で不確実な事象であるのに対し費用は変動的で確定的だと言う事を前提として、外部環境を考慮した上で利益の状況を判断しなければ、利益の指標としての働きは無意味である。
赤字だから悪くて、黒字だからいいと短絡的に判断したら利益を測定する意味はない。
なぜ、赤字なのか、なぜ黒字なのかが問題であり、それによって資金を供給すべきか、取引を継続するかを決めるべきなのである。

ところが、現代の日本の金融機関は、支払能力、即、担保力でしか利益の意味を理解していない。
そのために、資金が不足している時や場所から資金を回収して余剰の資金を持っている時や所に供給するなどと馬鹿げた事を平然と行うのである。
それは、利益の目的や意味、働きを正しく理解していないからである。

利益は、任意の前提によって導き出される指標であって、経営の目的ではない。経営の目的は、別にある。重要なのは前提にある。では、どの様な目的に対して任意な前提は設定されるのか。その点が重要なのである。
民間企業では、利益というのはあくまでも会計上の概念である。会計は、会計原則に基づいているが、利益は、収益と費用の差額を意味しているだけで、経営の目的は設定されていない。それ故、利益が経営の目的であるような錯覚を起こさせている。しかし、利益を目的とすると利益のために利益を出すという矛盾が生じる。

問題は、何を目的として利益を設定するかである。利益が目的なのではなく、利益を出す目的は何かなのである。
さもないと、経済は単なる金勘定の結果になってしまう。経済の目的は、人間らしく生かす事にある。経済とは生きる為の活動なのである。

公共事業は現金主義である。それ故に、公共事業と民間企業との間に制度的な連続性はない。

それは、公共事業は、公的な事業であり、私企業は、私的な事業であると言う前提に基づいている。故に、公的事業は、利益を前提とする必要がないという前提に立つ。その為に、公的機関に働く者は、経済的功績に対して報酬が支払われるわけではない。公共事業では、報酬と経済的功績は切り離されているのである。故に、賄を受けると責任を問われるが、経済的に失敗しても責任を問われるわけではない。それに対して私的企業の経営者は経営に失敗すれば、財産を失う。
公共事業が破綻しても責任者は責任を問われる事はなく、退職金も年金も支給される。場合によっては、同情されて慰労金まで出される。それが権力である。物事の基準が違うのである。

公共事業は、営利を目的としていないと言う事が建前である。利益という概念そのものを前提としていない。故に、赤字という感覚が乏しい。
財政で言う赤字というのは収支上の問題であって利益に対する事ではない。

財政は、資金の働きを計測する手段を持たないのである。
故に、財政は破綻する。破綻しても財政を立て直す事は容易ではない。それは、財政が資金の働きを計測する手段を持たないからである。
財政を立て直すためには、公共事業も期間損益に基づく仕組みを導入すべきなのである。
ただ、国防や警察、消防の費用対効果を、何を基準として測るのか。それは容易な問題ではない。
しかし、国防や防災事業で問題となるのは、発注元である国は現金主義で、受け手である企業は、期間損益主義だと言う事である。発注元が経済効果を測定できないのに対して、受注先である企業は、期間損益主義なのである。
公共機関、財政の働きを民間企業と同じ次元で語る事はできない。しかし、国防を如何に抑制するかは、国家の死活問題なのである。国家の使命、役割を理解しなければ、国防予算は作れないはずである。然もなければ国防産業は利権集団に成り下がる。そうなると戦争もただのビジネスに過ぎなくなるのである。何から何を護ろうとしているのか、そこに財政の成立基盤がある。

かつて、ある映画が倫理的に問題があるとされた。しかし、その映画が当たると儲かるからいいじゃない、経済効果があるから良いじゃないとその映画の倫理的な問題は、消えてしまった事がある。
根本には言論の自由とかなにか、又、道徳とは何かという問題がある。それを儲かったからいいではないか式に問題を片付けてしまったら、それは決して表現の自由を擁護した事にはならない。

言論の自由が問題とされる時、一番先に問題とされるのが猥褻の基準である。しかし、言論の自由は、猥褻に限った事ではない。しかし、猥褻が真っ先に問題とされる背後には営利主義がチラつく。要するに儲かるのである。
こんな事を許していると全ての価値観が貨幣価値に支配される事になってしまう。
問題は、利益を追求する事ではなくて、利益を追求する目的と社会の厚生が一致していない事なのである。
だから、利益を追求すればするほど、人も社会も不健康で退廃的になるのである。
それは利益自体が悪いのではなく。
利益の設定の仕方と、利益に対する解釈の仕方に問題があるのである。
利益を一概に悪だと決めつけるのも、利益をいたずらに追求する事も結果として同じである。
人を不幸にするだけである。
正しく利益を認識し、設定する事が求められているのである。

映画が発展した頃、テレビが普及した時、我々は、それが仮想社会の出来事だと知りながら妙な現実感(リアリティ)を持ったものである。その結果、映画俳優に憧れ、テレビの主演女優に恋をしたりもした。仮想社会と現実との見境がつかなくなってしまったのである。それが、IT社会になるとより深化されていくのであろう。物事が現実から乖離し、仮想社会の方が現実感を持ち始める。
貨幣社会というのは、そういう仮想社会に先行して現れた現象である。貨幣は、仮想的物でしかない。貨幣社会は貨幣という虚構の上に成り立っている。利益は、その仮想的社会における指標である。しかし、本来虚構であるべき利益が、現実性を帯びて人の社会や行動を支配するようになる。本来、利益はどの様な目的で、どの様な意味を持って設定されたのかの記憶は失われ、今の利益に振り回される。いつの間にか、利益は神代の時代から存在してたかの様に錯覚をし、自分達が自分達の都合で生み出した事を忘れてしまう。
時々その事に気がついた者だけが、自分達に都合の良いように解釈をして、他の人間を支配しようとする。
しかし、利益も目的を逸脱すれば虚構に戻る。結局人の手に負えなくなるのである。
ならば、今の利益を自分達の利益に適合するように作れ直し、設定し直せばいいのである。
少なくとも、利益の目的は、神が定めた事ではないのだけは確かである。
拝金主義に陥れば、利益の本来の目的も働きも見失われるのである。

なぜ、資本家の評判が悪いのか。それは、資本家は、金のためならどんな阿漕(あこぎ)な事でもやってのける。資本家は、金のためなら人を騙すのも平気だし、信用のおけない連中だと思い込まれているからである。
しかし、商売の根本は信用であり、信用制度の上に則って金融機関も経営も成り立っている。
これは一体どういうことなのか。最も信用のおけない人間が信用制度に則って行動している。
元々、信用がおけないわけではない。利益の目的を間違っているから、信用のおけない人間になってしまっているだけなのである。
そして、利益の設定が間違っているが故に、会計制度か歪んでいるのである。

利益は所得ではない。
法人税は所得税ではない。
所得というのは、貨幣の流通過程で生じた結果である。
利益や収益は、貨幣の流通による働きを計測する際の指標である。
どちらも差であり、幅が意味を持つ点は変わりがないが、収支は自然数でなければならないのに対して、利益は整数を基本としている。
利益に税を課す事と所得に税を課すのは同じ事ではない。利益は所得ではないのである。
ところが現在の税制は、利益と所得とを明確に区分しているわけでも定義しているわけでもない。
所得と利益を同列に扱って課税をし、その是非を論じているのである。

税制だけでなく、資本主義体制のあり方を考えるためにも、利益とは何か、改めて整理してみる必要がある。
利益は、目的ではなく、指標だと言う事である。
利益は費用対効果を測る指標である。
なぜ、費用対効果を測る指標が必要なのかと言うと、現金収支だけでは、現金の働きを分析する事はできないからである。現金収支というのは、現金の出入りを記録した物に過ぎない。現金の出入りは必ずしも売買による事とは限らない。貸借に関わる事象も含まれるのである。支出も消費に関わる物だけとは限らない。また、生産手段に関わる支出もあれば生産物に対する支出もある。つまり、収入や支出というのは現金の流れを表しただけで現金がどの様な働きをしたのか、その結果どの様な形になったのかを表してはいないのである。それ故に、一定の単位期間を定めてその単位期間で資金の働きを測定した指標の一つが利益なのである。この様な指標は、利益以外に、資産、負債、収益、費用などがある。

利益は何によってもたらされるのか。
利益をもたらすのは、収益なのか、費用なのか、資産なのか、負債なのか、資本なのか。
これらの要素はそれぞれ利益を導き出す誘因を持っている。
これらの要素の相互作用が利益を生み出していると言える。どれが欠けても利益は生み出せないのである。
そして、これらの要素の背後には、収入、支出、生産手段、生産物、消費、労働、財産と言った要素がどう結びついているのかが、経済の仕組みを知る鍵を握っている。

指標に過ぎない利益には現金収支の裏付けはない。その指標である利益をさも貨幣的実体のある事に見せかけて税と役員に対する報償、そして、出資者に対する配当として全てを配分してしまうのは、経営の健全性を保つ事を困難にしてしまう。
利益は、非償却資産に対する借入金の元本の返済原資でもある。景気の変動に対する備えでもある。又、減価償却費と資金繰りの歪みを是正する為の資金でもある。そういう利益本来の働きを理解しておかないと企業の体質を脆弱にしてしまう。

会計は、貨幣的現象を記録したものである。

赤字か悪いというのではない。原因もわからないまま赤字が続く事が悪いのである。

利益は、会計の枠組の中で算出された結果である。枠組みも変われば結果である値も変わる。黒字が赤字、赤字が黒字になる事もある。しかし、会計の論理が理解できない者にとっては赤字は赤字、黒字は黒字なのである。
利益の目的は、枠組みの有り様も変える。

インフレーションになるか、デフレーションになるかは、利益の設定の仕方、利益の目的、利益に対する考え方によって変わってくる。
なぜならば、利益に対する考え方は、収益や費用、資産や負債に対する考え方によって決まるからである。
そして、それは費用対効果をどう認識するかの問題でもある。
費用や負債を負の勘定だとして頭から否定していたら経済の抜本的な施策は打てない。

経済の自由化は、集権的体制を前提とする。自由な交易、統一的法や制度を前提とするからである。自由市場は、民主的体制を促す。

全国的にシャッター街と言われるゴーストタウンのような商店街が増殖している。
以前は大手スーパーが下町に進出するのは容易ではなかった。それはコンビニでも言える。
その理由は、下町の人間にとってスーパーは、自分のお客にならないからという事である。お互い様というか、持ちつ持たれつという関係が過去の商店街では生きていた。だから商店街は存続できたのである。
以前は、売るだけの関係、買うだけの関係は成り立たなかったのである。
売り買いという相互関係があって商売は成り立っているのである。
市場の置かれている状況を無視して競争ばかりを煽れば市場が荒廃してしまう。

何でもかんでも競争をさせれば良いというわけではない。何を競うかの問題である。
競争をさせる目的が何か、それを明らかにしないで、無闇に競争を煽るのは無責任である。
競艇や提携によって秩序ある競争が保たれている側面もあるのである。
価格だけで競わなければならなくなるから経済から質の面がなくなるのである。
協定や提携が一概に悪いと決めつけるのは早計である。
量的な部分のみで競争を促せば利益は失われる宿命にあるのである。

無原則な競争を容認すれば利益は失われる。
利益は、元々、限りなくゼロに近づく性格を持っているのである。
利益は、収益と費用の差額である。
収益と費用は常に均衡しようとする。
それは、収益と費用とを均衡しようとする働きが市場にはあるからである。
市場取引自体がゼロ和を前提としている事も影響している。
一定の利益を確保するためには、何らかの規制があるか、市場を寡占、独占する以外にない。
表面的には、寡占、独占を取らなくても、カルテルや闇協定を結んで裏で提携する事で価格を維持しよう。
また、市場には規模の経済が働くからである。
それは、資本力がある者や大規模な業者に有利に作用するような仕組みになっているのである。
市場に規模の経済が働くのは、費用の性格による。
損益は、費用の性格に依るところが大きい。
物的資源や手段を元とした費用と、人的資源や手段を元として費用、貨幣的資源や手段を元とした費用がある。

物的資源に基づく費用は変動費としての性格が強い。物的手段による費用は、減価償却費と非減価償却費からなる。
人的資源に基づく費用は、下方硬直的で市場競争に感受性が鈍い。また、物価の影響を受けやすい。
貨幣的資源に基づく、費用は金利をさし、名目的価値によるため、市場や物価の影響を受けにくい。又、元本の返済は、費用計上されない。
この様な費用の性格は、競争原理が働いている場合、償却資産が大きければ、大きいほど価格を柔軟に決める事が出来る。
価格には規模の経済が働くのである。零細な企業は競争力を失って淘汰されてしまう。結果的に市場に競争の原理が働かなくなるのである。

金儲けは、悪いことのように言う者がいるが、金儲け自体が悪いのではない。
ただ金儲けは目的にはならない。金儲けを目的としたら、かえってお金の働きを疎外する。
お金は、使われる事によってその効力を発揮するのである。
金儲けが悪いのではない。金儲けを目的化することで生きる目的を見失う者が悪いのである。
企業は利益を上げる事が目的なのではない。
利益は、費用対効果を測定するための指標である。
収益と費用の設定の仕方で同じ事象も赤字になったり黒字になったりする。
問題は、利益の目的である。
損益と善悪の基準は別である。
良い意味でも悪い意味でも損益と善悪の基準を同一視することが混乱を招くのである。
利益の目的を正しく知る事でしか、損益と善悪の基準をとの違える弊害を取り除くことは出来ない。

利益に対する間違った認識が、現在の経済をおかしくしているのである。
利益をどの様に定義し、設定するかによって市場経済は、まったく違った様相を呈する。
利益を利己主義的に捉え、肯定したり、否定したりするのはお門違いである。
利益は、設定の仕方で利己主義的な事にも個人主義的な事にも変わるのである。
そして、経済の目的を明らかにすれば、利益が目指す目標も定まるのである。
闇雲に利益を上げなければと言っても意味がないのである。
問題はどの様に利益を設定するかにある。
利益は所与の事象ではない。
利益こそ思想を代弁した事なのである。
どの様に利益を設定するのかは、思想の問題である。偶然の所産ではない。
利益の設定の仕方で資本主義も変質するのである。
そして、利益は、本来公共の福祉を目的として設定されるべき事なのである。
利益が上げられなくなり、経済的手段が働かなくなると人は、政治的手段に訴える。政治的手段も働かなくなると、最終的手段として暴力的手段を行使する事になる。
それが、戦争であり、叛乱である。
適正な利益が保証されるから経済は正常に機能するのである。
競争を絶対視し、無原則に規制を緩和する事は、市場を荒廃させるだけである。
特定の産業や企業だけが利益を得るような仕組みが悪いのである。
それは、利益の設定に問題があるのである。
利益そのものが悪いわけではない。
利益は、自由や平等、博愛を実現するための手段、指標なのである。

利益の目的には、どの様な生き方を奨励すべきかという根本思想が前提とされているのである。





       

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