経済の現状

指導者は間違える。


決して断じる。考えて決めるのではない。断じて考えるのである。なぜなら、考えたら決められない。第一勘を鍛えるのである。好球必打。初太刀こそ決断である。
決断は、経験的に鍛えていくのである。

またぞろ、自主性、自発性、相手の意思を尊重し、主催者の意思を尊重すると言い出した。
その上で一気呵成に決断となければならないと叫んでいる。
自治体や主催者の意志に任せるという。体の言い逃げである。無責任極まりない。
自治体や主催者に任せると言っていながら、自粛を要請するというのは、体の言い逃げである。任せると言いながら、イベントを開催したら、自粛なかった主催者が悪いというのであろう。やる前から言い訳を考えている。それを忖度だというのならば、忖度の意味を曲解している。
追いつめられると唐突に決断する。そのうえで他人のせいにする。

本当に決断できない。決断しなければ、自分の間違いにはならない。自分の責任にならないと勘違いしている。どちらにせよ、責任者は、結果に責任を持たなければならない。
優柔不断と言うか、はっきりしないというか。
一気呵成に、これまでにない、大胆なとか、その時になったら躊躇なくというような意味不明、心構えのような事を繰り返すばかりで何ら具体的な策を示せない。

戦後、日本の学校では、強要、強制は、いけない。指示、命令は、悪い事。服従なんて求めてはいけないと繰り返し教えてきた。この様な国は、日本だけである。指示、命令に従うこと自体が自主性を主体性を損なう行為ではない。大体、強制のない国はないし、組織は、指示、命令によって動いている。罰則のない法は法としての効力を発揮しない。罰則とは、強制である。

コロナウィルス感染防止のために都知事が自粛を要請した。それに対して多くの若者が無視した。その口実として、「自粛と言ったって禁止ではないんでしょ。」「コロナウィルスは、年寄り死ぬかもしれないけど、僕らは大したことないと聞いた。」「大袈裟なんだ。」若者たちが、感染を引き起こしていると言ったら「そんなことはないと思う。早朝、薬屋に言って長い列を作っているのは年寄りですよ」と言う返答である。この様な考え方を育てたのは、学校の先生たちである。

確かに、権力に盲目的に従うのは、危険である。だからこそ、分権制度にしたり、言論の自由によって権力を規制をするのである。しかし、だからと言って指示、命令は悪だとするのは、一種の陰謀としか言えない。我が国の敵が我が国を弱体化する為に仕掛けてくるのはまだ理解できる。それは相手が敵であるからであり、敵の手に乗るのは自分が愚かだからである。しかし、本来味方である国内のしかも、教育に携わる者が、国を否定するような教育をするのは赦しがたい。

コロナウィルスでは、多く国が都市封鎖を行っている。これは、自粛ではない。強制である。都市封鎖した結果をどう判断するか難しい。それは、都市封鎖をしなかった場合の結果は、わからないからである。反対に何もしなくても感染爆発が起きていない都市もある。ただ、カーニバルやイベントによって観戦爆発を起こした都市や国もある。しかし、これは結果である。結果が出る前に断固たる処置をとるのは、勇気がいる。しかし、指導者には、その勇気が求められる。断固たる処置をとった場合、杞憂だという批判は付きまとうし、強制されたという愉快な気持ちだけが残る事がある。しかし、勇気を持って決断するのが政治である。そのような指導者への寛容さを失った国からは、強い指導者は生れない。

我々は、本気で責任を持って解決しようとするなら、決められることから決めていけ。今、決められない事に煩わされているから決められないのだと言われ続けた。最初からできもしない事に囚われていたら決断なんてできない。試合前に、勝つためにどうしたらいいかを考えるのはいいが、試合もする前から負けた時の事を考えたり、やってみない事を言い始めたら何もできなくなる。それははじめから勝てると思っていないのである。
大体、最初から最終的判断なんて求められていない。だから、最初は、方針だけでも決める。方針も定まらなければ、部下は、仕事に着手できないのである。

組織は、細かい決断の積み重ねによって成り立っている。
最終的な結論なんて最初から求められるはずがない。大体、最初から結論が出ているなら苦労はないし、組織はいらない。
結論を出すまでに一定の手間暇がかかるから、組織は必要とされるのである。重要なのは、過程であり、その過程を共有する事で組織は成り立っているのである。
最終的結論は出せなくても、いつごろまでに結論を出さなければならない事は決められる。また、方針も決められる。最初にできるのは、その程度の事である。また、その程度の事も決められなければ、仕事は始まらないのである。
例えは、半年後までに結論を出せばいいという事がわかれば、今何をしなければならないかも見えてくるのである。
大体、どんなに些細な事でも組織的な事は最低三か月を単位に考える必要がある。そして、最初の仕事は目に見えない部分なのである。
建物が、目に見えるような姿になるのは、最終段階である。構想段階では、姿も形も何もない。仕事は姿形もないところから出発するのである。

トップが決断しなければ、仕事に着手できない。決断すれば、撤回も、修正も、変更も、辞める事もできる。それも決断である。
いつまでにどのような結論を出さなければならなのか、何をしなければならないのかがわかれば、早い時期から着手し、準備する事が出来る。
会議で出す結論は、会議を開かなければ解らない。試合の結果は、試合をしてみなければわからない。会議で出す結論や試合の結果を議論する暇があったら、会議の準備や試合の為の練習に集中すべきなのである。やってみなければわからない事はやってみないと解らないのである。その事で頭を悩ますだけ精力の無駄遣いなのである。況や、やる前から責任を問うのは愚かである。責任は、責任者が覚悟するばいいだけである。
それはやりたくないやりたくない、成功したくない成功したくないという仕事をして、始めかに言い訳を考えているような仕事である。
最初は、やらなければならない事か否かを見極める事である。何が何でもやらなければならない事なら、結果を考えずにただひたすら貫徹成就する事を考えるべきなのである。

我々は、遠いことほど決めやすい。近くの事ほど判断が難しくなるとも教えられた。明日の事よりも一年先になりをやるかはわかる。一年後のイベントの日は決められるが、同じ規模のイベントをいきなり明日やれと言われても難しい。予めイベントの概要が決められるから仕事にかかれるのである。
いつまでも、結論を出せずに、方針も出さなければ、組織的な仕事は何も着手できない。そして、どうにもならなくなってから決めようとするから突拍子もない決断をするのである。大きな決断は、小さな決断をそれこそ一つひとつ階段を上る様に積み上げていくのである。十日も放置すれば、階段も壁になる。一か月放置すれば絶壁になってしまう。一つひとつの会談は低くても蓄積したら超えられなくなるのである。

追い詰められ、切羽詰まってから決断しなければならなくなるから、飛躍し、場当たり的になる。人の意見も聞けなくなる。また、極端な意見やリスクの高い策を採用しがちになるのである。決める為の準備が整っていないのである。

指導者は間違える。結果がいい時だけ正しいのであって、結果が悪ければ間違いなのである。私が、歴史からどのような教訓を得たのかと言うと、指導者は間違えるという事である。間違えるというより、是非善悪は、結果から判断される事で、常に、いい結果を導き出せるとは限らない。人は神にはなれない。神が間違いを起こさないのは、神は結果を制しているからである。
人は結果から判断される。人の判断は相対的であり、絶対ではない。故に、人は間違える。指導者もまた人である。故に、指導者は間違える。
しかし、指導者が決断をしなければ、全体は守れない。
不決断は、最大の誤判断である。指導者を臆病にしてはいけない。指導者が間違った判断したり、決断に迷わないように準備するのが側近である。指導者を、後見人や補佐役が安易に批判すべきではない。それは、イエスマンになることを意味しているのではない。自分の意見は、明確に述べ。諫言すべき事は、腹を括ってい諫める。ただ、一旦決定が下ったら、粛々と速やかに、決定に従って行動する。従えない者は、黙って去る。
自分の保身のために、トップを臆病にしたり、迷わせるのは言語道断である。獅子身中の虫である。
指導者は、決断する。断じて行う。そして、後は責任の取り方を覚悟する。結果がよくても、悪くても、責任をとる覚悟をする。成功しても失敗しても出処進退を明らかにする。
細かい事は任せる。現場の事は現場に任せる。ただ、任せるというのは、丸投げすることを言えのではない。任された者も任されたと言って独断先行が許されているわけではない。任されれば、任されただけ、誠心誠意、報告する事が求められる。嘘は許されない。それが任されるという事である。

組織は、決断の連鎖によって動いている。組織の意思決定は組織的になされるのである。
チームのメンバー全員、各々立場で決定すべき事がある。
何を自分の意志も責任で決めなければならないのかを体得しておく必要がある。
監督と選手とでは、自ずと決める時や決める場所、決める事は違うのである。

監督は、指図はするが、自分がバッターボックスに立つわけではないし、守備をするわけではない。監督と選手を兼務する場合がないわけではないが、その場合でも、監督は監督、選手は選手と、頭を切り替え使い分ける事が求められる。この点をはき違えてはいけない。
監督は、多くの事を決定するがそれを実行実現するのは、個々の選手であり、準備するのは、コーチである。監督の決定に従って具体的な仕事、作業に置き換えるのは、個々のコーチであり、選手である。
最近の教育では、指図だけだす指導者の態度を偉そうにしてとか、パワハラとか、横柄だとか、横暴だとか教え、強制、強要は悪だと吹き込む。しかし、強制のない組織はない。組織は、指示、命令で動くのである。指示、命令が一元化され、徹底されなければ、統制も、規律も失われ、組織は解体する。

現場では、即断、即決、即行を求められる場合が多い。いざと言う時に何も決められずに固まってしまう、立ち往生したら大惨事になる。
非常の時は、各々が予め決められたように行動しなければならない。
よく我々は、監督と言うのは試合が始まったら、決める事は少ないと言われた。実際、野球だけでなく、サッカーもラグビーも試合中は監督の出る幕は少ない。
実際に働くのは、現場の人間である。試合が始まってから作戦を立てたり訓練をしても遅いのである。それを泥縄と言う。泥棒を捕まえてから縄を編んでも遅いという諺である。

指導者の意図する処や構想を実現するのは、現場の人間である。故に、指示されたものは、指示した者の真意を取り違えたり、勝手に解釈してはならない。しかし、指示した側の者は、指示された側の人間が自分の真意を正しく理解しているかを確認する事は難しい。
指示した者が、指示された相手が指示された内容をどの程度理解しているかを知りたければ、どうするつもりか、どうしようと思っているのかを聞けばいい。空返事ばかりで、指示内容を理解していない者は、満足に答えられない。はぐらかしたり、抽象的な事しか言えずに具体的な事は何一つ言えない。酷い時は、最初から言い訳をしてくる。
人は、自分が言ったように行動する。いい加減な返事をする者は、いい加減な仕事しかしないし、曖昧な答えをする者は、いつまでも迷っていて最後は自分勝手な解釈をする。最初から言い訳をする者は、最初からやる気がない。まともに返答できない者は、最後までやらない。自分の仕事に責任を持たない。
本当にわかっている者は、わかったふりをしたりはしない。まず具体的に話を詰めて確実に実行できるようにする。
指示した内容の真意は、指示したものにしかわからない。指示された事を忠実に実行しようとすればする程、具体的な話をした詰めてくる物なのである。指示されてながら、確認も質問もしない者は、指示された事の真意を理解しようとしていないのである。 

現実の試合中は、決断するのは、選手である。試合が始まってから、何をしていいのか解らない状態にするなの躾けられた。
親父たちは、それまでどんなにリラックスいていても敵襲と言われた主管に臨戦態勢に入る。直前まで、世間話をしたり、遊興にふけっていたり、居眠りをしていてもジャンと金がなったら戦闘態勢をとる。
いざ戦いとなったら迷っている暇はないのである。一種の迷いが命取りとなる事を知っていたからである。
仕事と言うのは、例えば、会議を開くと言われたら、会議が出来るように、トップが間違った判断をしないように準備する事だ。だから、決定されてから仕事は始まるといつも言われ続けた。
そして、その時は、迷わずに決断し、行動に移せと。なりふりかまうなと…。
バッターボックスに立った者は、自分の意志でバットを振るのである。一度もバットを振らずにアウトになるなと言われた。
常に真剣勝負なのである。常在戦場。

組織にとって最も重要なのは、忠誠心である。忠誠心とは、盲目的に従う事を意味しているわけではない。それは、盲目的に従うのは隷属であり、忠誠ではない。隷従するのは、奴隷根性であり、忠誠心ではない。
忠誠心とは、誠を尽くす事である。誠心誠意む、組織、全体に尽くす。たとえむ、組織の人間すべてが反対しても信念を貫く。それが、忠誠心である。
戦後、日本人は、叛逆を美徳だと刷り込まれてきた。陰謀だと言ってもいい。しかし、それを頭から信じ。裏切り、反抗、抵抗、背信、欺き、革命を善だとする思想がはびこった。
従うにしろ、叛逆するにしろ。一番、重要なのは、信じるところ、何を自分が信じるかである。自分を見失った人間は、自分の意志で従う事も逆らう事もできない。されは、単に見せかけの事に過ぎない。
従うにしろ、逆らうにしろ、先ず、己の心根をしっかりと持つ事である。



       

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