経済問題の多くは、なぜ、どうして、どこが悪いのか、ハッキリしないものが多い。ただ、悪いから悪いと言っているようなものだ。その典型が、財政赤字と産業政策である。産業政策は、どのサイドにたっているかによって、同じ問題でも、正反対の結論になる場合すらある。ところが、その結論にいたって根拠や過程が曖昧なケースが多々見受けられる。こうなるとある種の思想だと言わざるを得ない。現実に、思想に基づいているのである。ただ、当事者が無自覚なだけである。

 経済政策の是非を問う場合、結果論にすぎない場合が多い。:経済政策で重要なのは、目的である。経済政策とは、自然現象ではない。為政者が意図的に執行する策である。意図することには目的がある。その目的は、状況に基づく。目的がハッキリしない経済政策は、それ自体、自己矛盾している。為政者の責任逃れに過ぎない。

 経済における国家の役割、機能が明らかでないから、経済政策が定まらないのである。財政赤字は、悪いと言うが、ではなぜ、赤字は悪いのかというと、明解な答えを持っている人はあまり見受けられない。景気浮揚策に公共事業すると言うが、どの様な公共事業が効果があるのかハッキリしない。それは、本来経済の役割は何か。経済政策に何を期待しているかが、明確ではないからである。つまり、経済政策の目的が定かではないのである。

 経済政策の目的は、単純ではない。複雑に多様な要素が、絡み合っている。前提となる状況によって多様な要素を構造的に組み合わせていく必要がある。

 経済政策の目的には、第一に、雇用の確保がある。第二に、景気や物価の安定がある。第三に、市場の保護がある。第四に、消費者保護、受益者保護がある。第五に、産業保護がある。第六に、財の公平な分配、再分配の問題がある。第七国防や、治安、防災と言った安全の問題がある。に、第八に、環境や資源、景観の保護がある。また、第九に、子供達の影響や教育上の問題もある。第十に、国民の権利や義務の保護、労働者の権利の保護がある。
 これらを一括りにして、保護政策と決め付けるのは乱暴すぎる。難がある。また、その国の政策を無視して、他国が、圧力をかけるのは、横暴でもある。
 経済政策の目的を達成する手段として、競争をさせ、生産を維持させ、需給を調整し、 経営を継続させるのである。

 産業政策とは何か、問題はそこにある。為政者や国民が産業政策に何をもとめるかである。単純に景気対策だけをもとめているわけではない。産業は、国家経済の礎(いしずえ)である。土台である。故に、産業の在り方は、国も経済のみならず、国民生活をも左右する大事である。
 産業政策とは何かを考えると、国民生活に産業の及ぼす影響や環境問題、雇用問題など国家の国民の根本関わること、それは、どの様な国にするのかと言う問題に行き着き、最終的には国家構想にまで至る。小手先の対策のみが産業政策、経済政策ではない。

 そして、その根本には市場の問題がある。

 市場は、需要供給を調整する場である。その需給を調整する働きに支障がきたすと景気は、不安定になる。

 総生産は、販売数量と在庫に分類できる。総支出は、消費と投資、貯蓄に分類できる。生産は、供給を意味し、支出は、需要を意味する。需給の調整は、在庫量が決定的な機能を果たしている。この在庫の働きを無視しては、パレート均衡は成り立たない。

 つまり、景気政策を判断する上で、需要を喚起する為には、販売と在庫と消費と投資と貯蓄に対してどう働きかけるかが重要になる。更に、公共投資というのは、投資の中の一要素に過ぎない。
 しかも、販売、在庫、消費、投資、貯蓄の要素は、複雑に他の要素と結びあっている。公共投資だけに頼って景気を改善することはできない。
 販売、在庫、消費、投資、貯蓄の各局面に対して、どの様に働きかけるか、つまり、構造的に対策を立てることが重要なのである。

 需要と供給の均衡点は、損益分岐点が重要な意味を持つ。大きな錯覚があるのは、需要と供給の均衡点は、単式簿記と複式簿記の世界では微妙に違うと言う事である。単式簿記、即ち、現金主義的な世界では、収支の均衡点であるが、複式簿記では、損益分岐点が均衡点になる。現金主義では、現金で清算された時点時点で取り引きが成立したと見なされるが、実現主義は、取り引きという行為が認識された時点で取り引きが実現したと見なされる。故に、現金上の清算が終わったわけではない。その為には、取り引きの実現と現金による清算、決済が時間的にずれる場合がある。その為に、現金主義では残高が基準になるが、実現主義では、利益が基準となるのである。これは、実績評価に対する根本的な考え方に大きな差があることを意味している。
 故に、複式簿記を基盤とした市場経済では、損益分岐点が一つの指標になる。
 また、費用に占める固定費の比率が産業毎に違う。また、同じ産業でも業態が違うと違ってくる。生産方式、工場生産か、手作りかによっても損益分岐点は違ってくる。
 そして、この構造が景気に決定的な働きをもたらす。つまり、大量生産型、大規模の設備投資を前提とした経営主体と多品種少量型、また、小規模の設備投資の経営主体が混在した市場では、一律に需給が確定するわけではない。大量生産型企業は、損益分岐点をこえる事が最大の目標になるために、市場に対し、洪水のように製品を放出する。それに対し、小規模生産型の経営主体は、生産力に限界があるために、競争力には当然限界がある。この様な市場では、供給力が市場に対し、決定的な働きをする。

 市場の構造は、市場を構成するここの経営主体、企業によって性格付けられる。ここの企業形態は、生産方式や商品特性などによって制約を受ける。故に、設備や固定資産、労働構造は、共通した部分が多く含まれる。又、産業の成長段階に従って企業も成長する。故に、産業政策も市場、産業の状況をよく見極めた上で個別に対応すべき所と、一律に対応すべき所を区分する必要がある。ただ、現象面ばかり追っていては、産業政策は有効どころか悪影響を及ぼすことさえあることを充分留意する必要がある。
 競争の原理を絶対視し、何でもかんでも規制を緩和すればいいと言うほど愚かな話はない。

 しかも、国際的に見ると各国の市場状況や産業状況、発展段階、生活水準、民度にバラツキがある。又、インフラストラクチャーの成熟度の問題もある。そう言った市場を取り囲む状況もよく分析する必要がある。多くの経済的災害は、政治が引き起こしていることがよくある。その点も充分に留意する必要がある。

 また、国内と国外の制度的整合性、も重要である。例えば、会計制度、税制度、為替制度、金融制度、法制度等の国内外の整合性、連続性である。
 会計制度の国際基準の作成が進んでいる。経済がグローバル化するに従って国家間の会計基準を統一する気運が高まってきたのである。特に日本では、日本の会計基準に従った財務諸表に但し書きが付けられるなどと言う日本の国際信用にまで深刻なダメージを及ぼす事態にも陥ったのである。また、租税回避行為が、各国間の税制の違いを利用して合法的に行われるようになり、その対策に各国政府がおわれることになった。この様に、制度的整合性は、今後重大な課題となることは必須である。
 この様な制度的整合性をとるようにするのも、産業政策の重大な役割である。

 市場は、常に、過剰な状況か、不足した状況かにあると言うよりも、それが、前提で市場は成り立っている。市場は、常に、過剰流動性か、過剰投資か、過剰生産が、過剰需要か、過剰供給か、又、その反対にそれらが不足している状況にある。つまり、市場は均衡した状況ではないという事である。又、市場が均衡してしまうと、市場としての機能が果たせなくなるという事である。良い例が、為替市場である。固定相場制度下では、為替市場は成り立たないのである。
 市場を動かしている原理は、差、落差、格差である。差が市場価値を確定するのである。

 バブル崩壊後の日本は、三つの過剰に悩まされてきた。一つが過剰雇用、もう一つが、過剰設備、最後に、過剰債務である。ただ、この過剰自体は、結果的なものである。問題は、この様な事態をどの様な政策が招き、それをいつ認識し、そして、どの様な対策を講じたかである。そして、その前に、どの様な前提、条件、状況が現実に起こっていたかである。それらを一つ一つ検証しながら、政策を立案し、実行していくのが構造主義的な在り方である。

 産業政策上のあやまり。そして、認識の誤り、対策の誤りが、更に追い打ちをかけたのである。その為には、先ず、その前提となる、為政者がどの様な事態を想定し、又、どの様な状況にしようと意図したかである。むろん、その底辺には、国家構想や経済構想がなければならない。

 2005年、郵政民営化が、政策の争点となり、総選挙を巻き起こし、反対勢力が自民党から駆逐された上、自民党の歴史的な大勝を招いた。この選挙を振り返る時、重要なのは、郵政を民営化しようとした当事者、為政者が、何を意図し、又どの様な国にしたと考えたかである。それに対し、国民がどの様に反応したのか。この場合は、時の総理である小泉純一郎が、どの様な信念の基に、何をしようとしたかであり、それを国民がハッキリと自覚していたかである。ただ、逆らったからではなく、どの様な意図の基に、また、何を画策してとられた政策なのか、それを見極めて自分達の意志を一票に投じた時、現れるのが真の民意なのである。しかし、往々にして、その時の勢いに押されて政局は動くことがある。それを抑制・制御するのが制度である。そして、それが民主主義の仕組みである。

 バブルやサブプライム問題を調べてみると構造的問題であることがわかる。
 制御するためには、相互牽制装置が必要であり、その要が監視機関だが、肝心の監視機関が、監視すべき対象から報酬をもらっているという構図である。例えば、今回のサブプライム問題では格付け会社だが、過去には監査法人が問題なった。この問題は、「利益の相反」が原因であり、監視する者が監視する相手から利益を得るという構図、構造に問題がある。これらは、公と私の分離問題であり、経済政策上、常に 懸案となる事項である。
 又、市場の動きを制御する仕組みで重要なものの一つが税制である。税の在り方は、個々の経済主体の行動規範を支配している。しかも、決定的な働きを持つ。日本では、その税制の考え方と、商法、会計の考え方の基本が違う上に、制度的に連結している。それが市場に歪みを生み出す原因の一つになっているのである。
 規制に穴があるという点である。バブルの際、総量規制をしても農協系やノンバンクに対する規制が不十分であったために、規制が有効に機能しなかった。
 経営主体における収益構造である。収益は、利益+費用であるが、その費用をどの様な構造として認識し、構築するかの問題である。特に、公益事業における収益とは何か。それを明らかにしておく必要がある。
 公益事業は、過去においてモラルハザードが決定的なところで起こっている。それは、収益について明確な指針、思想が欠如しているからである。

 市場というものは、放置すれば自然に均衡するという性格のものではない。放置すれば、必ず、悪い状態になる。現在の市場は、自動制御できる構造ではないのである。大体、均衡した状況そのものでさえ市場として良いのかどうかも解らない。
 市場は、その時々の状況に合わせて変化させなければならない。

 経済政策がうまくいかない、有効に機能しない理由、原因は、第一に、状況の誤認である。第二に、対策の間違いである。第三に、タイミングの問題である。第四に、制度や組織上の不備や不整合である。構造的問題である。第五に、準備不足である。第六に、統制上の問題である。第七に、対策が散漫であったり、対策の実行が漸次、小出し、分散的になることである。第八に、志や信念、モラルの欠如である。

 これらの最大の原因は、自分達がどちらの方向に向かい、どの様な状況にしたいのか、何を為すべきかの合意が成立していない事が大きい。つまり、目的がハッキリしていないことにある。

 また、経済政策がうまくいかない理由を考えると、それは、生起した現象に対する対症療法的な施策に終始していることにある。現象は、結果であって原因ではない。経済政策が有効に機能するためには、根本の原因に作用させてる必要がある。そして、その問題点、要因に対して、漏れなく、重複せずに全て行われる必要がある。経済政策は、構造的になされなければならないのである。
 経済政策は、長期的な施策と短期的な施策がある。短期的な施策にも、暫定的、応急的、一時的な施策と正式な施策がある。
 暫定的、応急的な施策とは、非常時、緊急事態策で、対処療法的処置、緊急避難的処置である。
 経済政策は、その対象と範囲が重要になる。対象と、範囲には、第一に、世界的な施策、第二に、国家間の施策、第三に、国家的施策、第四に、地方的施策、第五に、経済主体(
財政、経営主体、家計、個人)に対する施策がある。
 経済施策の手段には、第一に、外交的手段、政治的手段。第二に、経済的手段。第三に、軍事的手段。第四に、行政的手段。第五に、財政的手段。第六に、法的手段(司法的手段、立法的手段、制度的手段)。第七に、会計的手段。第八に、物理的、技術的手段などがある。

 構造的手段には、変動する部分と不変的な部分がある。その点の見極めが重要である。

 制度上や準備不足には、漏れや重複なども含まれる。特に、政治的な抜け道の存在である。 
 また、情報不足、連絡や報告の遅滞まども決定的な要因となることがある。
 統制がとれない原因は、利害の不一致である。これらの多くの部分は、政治的問題である。

 1990年代に日本経済がバブルを引き起こした不動産向け融資の規制に、農林系、ノンバンク、住専に対する部分が抜け落ちていたことが上げられる。それが後々、重大な問題を引き起こし、住専系金融機関の破綻を招くことになる。これなど典型である。
 経済政策は、漏れなく、重複なく、全てが機能しないとかえって弊害を招く。その為には、経済のどこに問題があり、また、どの様な目的で為されるのかを明らかにしておくことが肝心なのである。

 借入に対極には、貸出がある。経済主体内部では、借入は、債務を形成し、貸出は、債権を形成する。同時に借入は、借り入れた側の内部において債権化され、貸出側の内部では債務に変換される。借り入れた側は、その内部変換によって資産を形成する。その資産の生み出す価値の変化と借り入れたとはの債務の構造と均衡によって貸借関係は形成される。そして、借りた側の債権、債務、貸し出した側の債権と債務の関係が、経済主体の基盤を形成するのである。
 住宅ローンを借りて住宅を購入したと仮定した場合、住宅を購入した側は、住宅の市場価値と住宅ローンの返済義務を形成する。資金を提供した側は、住宅ローンを受け取る権利と住宅ローンの資金の調達義務が生じる。そして、住宅ローンが成立した時点において取引によって生じた貨幣価値が確定する。この取引は、取引によって生じた貨幣価値が清算され、解消されることによって終了する。取引を終了させる行為が決済である。
 この過程で何等かの支障が生じた場合、取引は不良なものとなり、資産は不良債権化するのである。しかし、問題は、不良債権とされた資産にだけあるのではなく。四つの要素、全てに生じているのである。

 四つの要素で重要なのは、借りた側の債務では、返済の在り方である。債権では、使途の性格、状態である。貸し手側の債務では資金の質であり、債務では、貸出条件、貸出前提である。

 資金の質とは、資金の信頼性である。信頼性は、第一に、資金源である。資金源には、収益、負債、資本がある。第二に、資金に対する制約条件である。制約条件は、第一に、収益力の変化。第二に、返済を必要とするかどうか。返済を必要とした場合、返済条件。第三に、資本規制である。
 貸出の前提条件とは、第一に、何を担保とするかである。担保とするものには、第一に、将来の収入。第二に、担保した物の名目的価値。第三に、担保した物の実質的価値である。貸出の前提条件の第二は、貸し出した時点での状況である。貸し出した時点での状況、前提条件とは、金利動向、相手の信用力、保証、保険等である。
 返済の在り方とは、第一に、月々の返済額である。第二に、返済期間である。第三に、元本と金利の関係である。第四に、返済不能に陥った時の処理の仕方である。これらは、契約内容の根本でもある。
 第四に、使途の目的と対象である。使途の目的とは、第一に、使途が消費に向けられる物なのか、資産に向けられる物なのかである。消費に向けられる物ならば、消費によって得られる効果や代償である。資産に向けられれば、資産の実質的価値である。そして、使途の対象とは、最終消費者なのか、投資なのかである。
 四つの要素どう関連付けられ、また、相互どの様に影響、作用を及ぼしあっているかが重要になる。
 例えば、貸出の前提条件の変化に返済の在り方がどう影響しているかである。
 そして、経済政策は、これら四つの要素に、構造的に働きかけることによって成就する。例えば、金融危機に際しては、資本を注入すると同時に、支払原資の確保のために公共事業を増やし、返済の猶予を働きかけ、資金援助を行うと伴に、収益の向上策を立てるというようにである。

 資金が不足する原因はいろいろある。景気が拡大しているから資金は足りていると思い込むのは、危険である。景気の拡大期には、信用取引も拡大する。信用取引の拡大は、収入と支出に時間的なズレを生じさせる。その為に、資金繰り倒産を引き起こしやすい。それでは、デフレ期は、資金不足を起こさないのかというと、運転資金の縮小を招くために、短期の借入金の返済の必要性が生じ、しかも、この返済は、損益上に現れない、また、貸借上においては、負債の減少としてしか現れない。
 よく景気の後退期と好転期に倒産が起こりやすいと言うのは、資金繰り上に時間的なズレが生じるからである。
 資金が不足する理由や原因は、時と場合、状況によって違うのである。その原因や理由に即して個別に、かつ、複合的に対策を立てる必要がある。

 問題点が固定的な部分で起こっているのか、変動的な部分の問題なのかも注意する必要がある。例えば、貸借上の問題か、損益上の問題かを見極めることが重要である。その場合、注意すべきなのは、一見して流動性の問題に見えても、実際の原因は、ポジション、位置付けの問題であったりすることがあることである。

 市場原理主義者は、競争のことしか頭にない。競争は、手段に過ぎない。原理でも、目的でもない。実際の経済政策は、それほど単純ではない。経済は、生活なのである。ただ、市場取引を活発化すれば良いというわけには、いかないのである。

 政策は、一面だけ捉えているだけでは、正当な評価は出来ない。どんな政策にも良い面と悪い面がある。作用には反作用がつきものなのである。副作用もある。
 良い反応と悪い反応の両方が現れるのである。どちらか一方の反応を取り上げて良し悪しを言うのは片手落ちであり、正当な評価はされない。良い面、悪い面どちらにしても一方が見落とされると過大な評価を招き。事後の対策、処理に悪影響を及ぼす。重要なのは、どちらの反応が決定的な作用を及ぼしたかである。それによって、次ぎに何をすべきかが、決まるのである。
 また、良い方に作用する部分と悪い方に作用する部分がある。良い方に作用する部分に対しどの様な施策をすべきか。悪い作用をする部分にどの様な対策を講じるかが問題なのである。
 危険なのは、一つの方向に傾くことである。何よりも大切なのは、均衡であって、一つの方向への偏りは、全体の働きを制御できなくしてしまう。その典型がバブルという現象である。
 一つの政策は、相反する二つの作用を発生させる。と言うよりも、一つの運動の働きを認識するためには、相反する二つの働きを想定する必要がある。つまり、位置も運動も関係も相反する二つの働きによって相対化され認識される。
 運動で言えば押すと引く、上がると下がる、増えると減る。位置で言えば高いと低い。関係で言えば引力と斥力である。運動を認識するための前提であり、経済的働きは、特に、認識によって発生する力、働きだからである。
 上がると言った場合、何に対してどれくらい上がったかが問題なのである。上がると言う事は、相対的に下がるものがある事を前提していることを忘れてはならない。

 不良債権というのは、貸し手側から見ると、回収が困難な債権を意味する。不良債権を借り手側から見ると返済が困難な債務である。つまり、不良債務である。

 不良債権、債務で重要になるのは、何によって企業は、成り立っているのかである。企業を成り立たせているのは、資金の流れである。
 不良債権、不良債務が問題になるのは、資金の調達が困難になるからである。
 資金が調達できなければ、企業経営は継続できなくなる。逆に言えば、何等かの形で資金を調達できれば企業は継続できる。資金の供給を断たれると、企業は、存続できなくなる。その意味では、企業は生き物なのである。

 実際には、金利に対する支払い能力、収益力ではなく。元本に対する返済能力、担保力を問題にされるのである。

 また、個々の企業、個々の産業、個々の国には、それぞれ固有の事情がある。それに、その年その年にも固有の事情がある。その様な固有の事情と経済や市場全体に共通した前提がある。それらをよく吟味、斟酌して経済政策は立てられなければならない。
 良い例が為替の変動である。円高で被害を被る産業もあれば、利益になる産業もあるのである。しかも、総じて利益が上がっている産業は沈黙している場合が多い。公平に見て、何が悪くて、どこに利があるかを探ることである。

 大きな景気の変動、時には、経済危機のような激変は、何等かの経済政策を引き金にして起こる場合が往々にしてある。多くの場合、経済政策は、手遅れだったり、対処療法的なものになりやすい。だからといって何もしない方が良いというわけではない。

 なぜ、経済政策は、手遅れになりがちなのかというと、一つは、認識の問題がある。現象として現れた事柄から経済危機の兆しを読みとるのは、極めて難しい。また、多くの場合、渦中にある者が判断することになるので、どうしても認識が甘くなる傾向がある。なるべくならば良く思いたいからである。その為に、事態を正しく認識するのに時間がかかると言う事がある。
 また、対策を立てるのに時間がかかると言う事もある。危険を察知してもその危機の原因まで認識しているわけではない。多くの場合、経済の変動を引き起こしている仕組みが解明されているわけではない。原因が分からなければ、抜本的な対策を立てるわけには行かない。どうしても、その為に、応急処置、対症療法的な対策で終わりがちになる。つまり、当座の危機を脱する事だけで終わってしまうことになる。
 また、それを実行する以前に手続に手間取るという事がある。国民国家の宿命は、行政に与えられている権限には限界があることである。抜本的な処置を執るためには、立法府の後ろ盾が必要となる。その為に、必要な手続を行うために時間が費やされることになる。
 尚かつ、それを指示を関係部署に浸透させるのに時間がかかると言う事がある。対策は、組織的に、かつ広範囲に亘って行われなければならない。
 更に、それが効果を上げるまでに時間がかかると言う事がある。また、即効性のある政策というのは限られている。多くの政策は、実行されてから効果が上がるまでに時間がかかる場合が多い。そうなると効果を検証することも難しい。
 もう一つは、政策の一貫性を保つことが困難だと言う事もある。問題を認識してその対策を立て、実行し、効果が上がるまでに時間がかかるために、その間に政策の変更を受けやすい。その為に、当初、予定していた効果が上げられずに終わる場合もでてくる。

 また、経済政策を執行するにあたって広範囲の合意を取り付けなければならない。その為に、経済政策は、それが潜在的な危機であるうちは、広く合意を取り付けるのが困難であり、危機が顕著にならないと対策を打ち出しにくい性格がある。
 その上、経済危機を上手くやの過ごしたとしても、それに対処した者は、評価されにくいという事がある。
 医者は、病気を治すことによって評価されるが、病気を予防してもあまり評価されることはない。同様に、為政者は、問題を解決することによって評価されることはあっても問題を未然に防いだからと言って評価されることは少ない。
 うまくいって当たり前であって失敗すると、その結果だけで、為政者は、評価されてしまう。つまり、待ったなしなのである。

 だからといって手を拱いてみていて良いというのではない。何かをしたから経済危機が発生したというのではない。それは、結果に過ぎない。経済危機は、何もしなくても起こる。むしろ何もしないという事は、最初から経済現象を制御する事を諦めていることを意味する。経済の仕組みというのは、人工的な仕組みである。人間が制御することを諦めれば必然的に制御不能な状態に陥るのである。神の力に委ねるのは、愚かと言うよりも、無責任な所業である。
 経済危機というのは、一度起きると何年もの間、経済のみならず、社会全般に社会不安のような深刻な悪影響を及ぼし続ける。場合によっては、戦争という惨禍を招きかねない。
 例え、誰からも評価されずとも経済政策は、適時、早めに対処されるべきものなのである。
 経済政策には、金融危機や経済危機のような緊急事態に対する対策とインフレーションやデフレーションと言った経済の全般的流れや状況に対処する施策の二つがある。
 いずれも、対処療法的な施策と構造的な施策があるが、諸般の事情を鑑みると経済政策、中でも、産業政策は、対処療法的な施策よりも産業や市場の仕組みを構築するような構造的な施策である方がよりよいと考えられる。

 経済の仕組みは、合目的的なものである。必然的に経済政策も合目的的なものである。経済の仕組みの目的の根本は、分配にある。故に、経済政策の基本は、公平な分配の実現であり、その為の再分配である。極端な財の遍在やハイパーインフレや恐慌は、経済政策の失敗とシステムの破綻によってもたらされる。つまり、経済の目的からの逸脱である。財の遍在やハイパーインフレ、恐慌を避けるためには、経済目的を明らかにすると同時に確認をする必要がある。また、国家観や国家構想がなければ、経済の長期的目標を実現することができない。と言うよりも、最初から目標が存在しない。どの様な国を目指すのかに対する国民的合意の形成こそ経済目的の実現に不可欠な要素なのである。

 財政問題もこの分配の問題から考えられるべき問題である。つまり、財政は、公正な分配を促すための再分配の手段の一つである。だからこそ、財政部門と非財政部門との経済的連続性が重視されるのである。その為には、財政規模は、絶対額ではなく、相対的な基準に基づかなければ確定しない。故に、水準と比率が重要な鍵を握ってくるのである。公務員給与の額は、それ単独で確定するのではなく、民間企業の給与水準との整合性がなければ確定できないのである。さもなければ、公正な分配という経済目的を逸脱してしまう。しかし、だからと言って無原則に民間企業の賃金ベースを参考にするわけにはいかない。故に、民間と同じルール即ち会計原則に則る必要があるのである。

 政策には、意図が大切なのである。つまり、どの様な状況にしようとしたのかである。結果的にこうなってしまったでは、政策担当者とはしては資格である。長期的なビジョンに基づいて、ある程度、予測の上に立って政策を立案する必要がある。
 
 経常収支のアンバランスを是正する円高になる。円高不況を避けるために、低金利政策をとる。低金利政策をとったために、地価や株かが暴騰する。地価や株価の暴騰によって引き起こされたバブルを抑制するために、地価対策と高金利政策がとられる。地価対策と高金利政策によってデフレになり不良債権が派生する。デフレや不良債権対策として低金利政策がとられるといった具合に現象を後追いする政策では、問題の抜本的解決には結びつかない。この様な場当たり的な政策によって財政赤字が拡大して、ますます、政策の選択肢の幅を狭める結果を招いている。

 競争の原理をあたかも、所与の原理、自然の法則のように捉え、何が何でも競争の原理に委ねればいいと言うのは、暴論である。競争原理は、何でも解決する特効薬のようなものではない。その様な考え方は、短絡的で、安直的すぎる。
 経済政策というのは、合目的的なものでなければならない。市場が停滞してきたから競争原理を導入し、企業の効率を高めたいとか、不況で企業の体力が弱ってきたので、カルテルを結ばせ、体力を付けさせようと言ったようにである。いずれにせよ、競争力を付けさせると言う目的は変わりないのである。状況が変わっただけである。

 規制緩和をあたかも万能薬のようにもてはやす傾向が現在ある。しかし、市場の原理を導入すれば、何でもよくなると言うのは、短絡的な発想である。なぜ、規制を緩和するのか。規制を緩和すれば、競争力はつくのか。それは、戦争をしない軍隊は、弱い、だから、戦争をしなければという議論に似ている。規制を緩和するには、規制を緩和するなりの目的がある。それと同時にその前提がある。規制が強くて自由な経済を妨げられることもあれば、過当競争によって必要な資源を削がれ、競争力を低下させることもあるのである。規制を緩和させるかどうかは、環境や状況、条件によって違ってくるのである。前提となる環境や状況、条件を無視してただ、何が何でも、やみくもに規制を取り除けばいいと言うのは、乱暴な話である。粗雑な議論である。
 市場の原理を導入すれば、競争力や技術力、開発力がつくとは、限らないのである。

 経済制度も経済政策も合目的的であり、複合的で、構造的な効果を発揮する。それ故に、どの政策がどの様な経済的効果を与え、経済現象を引き起こしたかを、常に、検証する必要がある。特に、どの産業にどの様な形で現れたのか、それを会計上、損益構造、貸借構造のどの部位に現れたかを解明していく必要がある。

 経済政策に使われるのは、第一に、金利。第二に、金融政策。第三に、国債。第四に、公共投資。第五に、為替政策。第六に、規制(カルテル、地価)。第七に、税制。第八に、会計制度の変更などがある。

 外的な要因には、湾岸戦争のような政治的危機が挙げられる。第二に、ニクソンショックの様な貨幣制度、為替政策の変更。第三に、オイルショックのような急激な資源、エネルギー価格の変動などがある。
 財政上の問題は、赤字国債の発行や財政赤字などがある。

 金融再編が一段落ついた。結果的には、幾つかのメガバンクに収斂してきた。多くの銀行が淘汰された。また、大手の証券会社、幾つか清算された。有名なのは、山一証券と三洋証券である。問題なのは、最初から、金融政策、金融行政を担ってきた者が、この状況を望んでいたのかである。自分の行った政策の結果、こうなったでは済まされない。
 教育は、合目的的なものである。自分達は、どの様な目的で、どの様な人間を育てようとして、どの様な教育をすべきかが、明らかにされなければならない。少なくとも、教育行政を担う者は、教育に対する考え方、国家、社会に対する構想を明らかにする責務がある。同様に、経済行政を担う者も、どの様な国家社会にするかを予め明らかにする責任がある。やった結果、こうなってしまったというのは、無責任である。
 金融再編は、銀行の自己資本率という制度的拘束率があり、それに低金利政策、不良債権問題、株価や地価の下落(地価や株価の抑制政策)、税効果、減損会計と言った会計制度の変更があった。それが、貸し渋りという現象を引き起こし。

 どの様な経済状況を目指すのかが重要なのである。
 九十年代初頭には、二十三行あった都市銀行、信託銀行、長期信用金庫が、たった十年足らずで三菱UFJ、みずほ、三井住友の三大メガバンクグループに、それに、りそな、三井トラスト、住友信託を加えた六グループ、これに外資系の二行を加えて八グループに収斂してしまった。石油業界も十六社から新日本、コスモグループ、出光興産、ジャパンエナジー、昭和シェルグループ、エクソンモービルグループの四グループ、それに、九州石油、太陽石油を加えても六グループに集約してしまった。それは、規制を緩和し、市場原理、競争原理を導入した結果である。しかし、もともと、寡占独占体制を市場原理論者は嫌っていたはずである。だからこそ、市場の秩序を重んじ過当競争が起こらないように市場を規制してきたはずなのである。ならば、市場の原理を重んじた結果、市場の原理に反する結果を招いてしまった責任を誰がとるというのであろうか。
 誰がこの様な事態を望んだのか。また、予測したのか。国民は、この様な事態を望んだのか。では、政府は、金融当局は、利用者は、望んだのか。また、銀行や石油業界が寡占、独占体制になることのメリット、デメリットは何なのか。それを予(あらかじ)め想定していたのか。為政者は、こんな筈(はず)ではなかったという事は許されないのである。

 経済問題の是非が、なぜハッキリしないのか。それは、経済問題は相対的だからである。経済政策の是非を論じる時、公共投資が、是か非かを、論じたところで意味がない。経済政策の是非は、経済環境や状況に左右されるからである。
 一つの症状が出ても、その原因によって、処方箋は変わる。問題は、何が原因でその症状が現れたかである。熱が出たから、熱冷ましを飲ませればいいと短絡的に判断すべき問題ではない。前回効いたから、今回も大丈夫だろうという安易な考え方は、危険だ。そのような対症療法では、問題は、解決するどころか、かえって悪化させてしまう可能性がたかい。問題は、その症状を引き起こしている構造である。今を見て、過去の全てを、否定できるであろうか。今が悪いからと言って、過去の全てを否定するのは愚かな事である。

 戦後の日本の経済政策は、失敗だったと、果たして、断言できるであろうか。失敗だとしたら、日本は、なぜ、経済大国となりえたのだろうか。

 現在の経済政策は、成長型経済を前提としている。低成長又は、成熟した経済を前提とした経済政策になっていない。そこに問題があるのです。内部環境や外部環境が変わったのです。それに応じて政策も変えるべきなのです。政策を変えると言うより、前提条件を変える必要がある。そして、政策も構造的なのです。経済構造の変化、前提条件の変化、市場や産業構造の変化、利益構造の変化、そして、それに対する経済政策の構造的変化です。
 先ず、経済政策を立てる時、前提条件を構造的に変更します。次に、市場や産業の在り方に対する構想をたて、それに対する法や制度、規制の在り方を設計します。それに基づいて、法や制度を変更します。その上で、予算の配分や公共投資によって経済のてこ入れをします。この様に、経済政策そのものも構造的なのです。

 日本の経済政策の特徴は、構想を持っていたという事である。明治維新の時は、富国強兵であり、戦後は、傾斜的政策である。日本では、殖産興業、つまり、産業の育成に政府が最初から常に深く関わってきた。こんにち、それが、否定されている。否定されるようになってから、経済が、上手く回らなくなってきたと感じるのは、私だけであろうか。
 日本経済は、国家が描いた構想の力によってのみ成功したとは、思われない。むしろ多分の偶然と幸運に恵まれたと言っても過言ではない。しかし、それでも、産業の育成や市場の制御の必要性や有効性を否定するのはおかしい。

 産業や商業は、過去において多くの国で卑しいものとして軽んじてこられた。近代国家だけが、産業政策を否定的に捉えたわけではない。民主化される以前の世界でもというより、封建的世界の方が、尚、産業や商売に手を出す事をためらっていた。官房学が、いい例であるが、産業や商売に国家が手を染めるのは、卑しい事だという認識が根強くある。この意識は、日本の官僚にもある。しかし、その反面、殖産興業という言葉が示すように、近代日本を作り上げてきた多くの先人達は、商売や産業をすすんで起こそうとした者も多くいたのである。
 近年でも、日本の総理大臣は、トランジスターのセールスマンのようだと揶揄された。この様に世界の風潮に対し、日本人は、どういうわけか、上杉鷹山、島津斉彬をはじめ産業の育成に務めた指導者達が多くいた。日本の経済発展に彼等が、多大な影響を及ぼしたことは間違いない。

 特定の企業を国家が、肩入れするのは、おかしいという認識があるが、それは間違いである。特定の産業を国家が独占することを考えれば、どれ程、良いか。

 民間企業が国営企業に劣るというのも、旧国鉄や特殊法人の経営実態を見れば解る。第三セクター方式でも成功するのは難しい。
 電力やガスのように公共性が高い事業を民間企業がやっても、まだ、公共機関が経営するよりもましである。
 根本的な価値観を変えない限り、官営事業は上手くいかない。国王の道楽、武士の商法にすぎない。つまり、金儲けは、悪いという思想だ。それが、官の論理であり、それを改めない限り、経済は立ち行かなくなる。日本人以外の国では、宗教的な価値観によって金儲けは、悪いという事になる。しかし、その点、日本人の価値観は、そこまで行っていない。せいぜいいって士農工商の身分である。しかも、この身分も曖昧である。だから、経営に詳しい藩主が出てきたりする。国家は、より積極的に産業育成に取り組むべきなのである。

 日本は、明治以降の殖産工業政策によって、経済のインフラ整備ができた。その土台ができたところで、戦争になり、その戦争によって旧秩序が破壊されて欧米、特にアメリカの最新的な経営技術が導入された。更に、農地改革や財閥解体は、経済構造を効率的な構造へ変革したのである。それが戦後の高度成長を支えた。ある意味で、意識せずに経済の構造化がされたのである。ただ、そのとき組み込まれたのは、成長型経済構造である。それが、市場や産業が成熟する事によって機能不全、それどころか、マイナスに作用し始めたのである。

 むろん経済政策が完璧なものだったなんて言わない。むしろ弊害があるものも多くあった。しかし、だからといって経済政策全てを否定するのは、行き過ぎである。

 重要な事は、経済政策の目的は、効率や生産性の向上ばかりにあるわけではないという事である。雇用の創出やそのための産業保護も目的の一つである。

 国有化やカルテルが一概に悪いとも言えない。経済政策は、モラルではない。モラルだけでは割り切れない。要は、国民の幸せに、どう、資するかである。牛を殺して角を撓める式の政策は、愚かである。産業を破綻する事が、目的なのか、再建することが目的なのか、それによって、とられるべき政策は決められる。市場が荒れたり、産業が荒廃している時は、一時的に、競争状態を休止する事も必要な処置である。責任問題は、別の次元の問題である。その場合も官僚機構にいる者は、護られて、官僚機構の外にいる者は、罰せられるようでは、規律は、保たれない。重要な事は、国民が、どのような状況を望んでいるかである。

 経済政策は、農業に似ている。つまり、産業の発育段階、成長段階や市場環境に合わせた政策がとられるべきなのである。その意味では、農耕民族である日本人には、適しているのかもしれない。

 また、産業を育成するためには、市場環境も重要な要素である。地理的条件も重要な要素である市場環境や地理的条件をよく加味して、経済政策を決定していく事が、重要なのである。



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