構     造


A 経済政策に求められるもの


 経済政策の当事者に求められるのは、消防士の役割なのか、それとも、ボイラーマンの役割なのかである。事故が起こってから対処しても遅いのである。故に、当然求められるのは、後者の役割である。第一、経済危機というのは、自然災害とは違う。経済の仕組みは人工的な産物なのである。人間が作りだした仕組みなのであるから、その制御に人間が責任を負うのは、当然のことなのである。
 万が一、事故が起こった場合も人間が善処しなければならない。
 何れにしても、経済がどの様な機構、仕組みによって動いているかを明らかにする必要がある。その上で、監視装置や制御装置を市場に組み込み、どの様に対処するかを予め想定しておく必要がある。

 大きな景気の変動、時には、経済危機のような激変は、何等かの経済政策を引き金にして起こる場合が往々にしてある。多くの場合、経済政策は、手遅れだったり、対処療法的なものになりやすい。だからといって何もしない方が良いというわけではない。

 医療業界が典型であるが、所得の体系に偏りが生じると、産業自体に不均衡を生み出す。看護、介護と言った仕事に過重な負担がかかる。この様な偏りは、健康保険の在り方や賃金制度の在り方のような制度上の欠陥によってもたらされる。特に、所得の偏りは、産業そのものを成り立たなくしてしまう。
 重要なのは、どの様な医療体制を築くかなのである。そして、必要な産業が、必要なだけの収益をあげられるようにするためには、どの様な施策を採るかなのである。結果がよければいいと言うわけには行かないのが経済政策の難しいところなのである。根本は、価値観であり、思想である。
 悪が栄える、つまり、悪徳業者が儲かるような経済体制は、それ自体、悪徳なのである。儲かればいい。儲けた奴が正しいというのは、道徳を否定していることである。詐欺師や麻薬の売人、恐喝者、ギャング、暴力を取り締まれなければ、経済の正常さは保たれない。
 現代の市場経済は、反道徳的な在り方が横行している。この様な経済体制は、人間の叡智に対する冒涜ですらある。経済は、本質的に道徳的なものである。だから、法によって支配される必要があるのである。

 これから、環境問題や公害問題、食糧問題、資源問題などが深刻になった場合、抑制的、統制的な施策を採用する必要も出てくる。
 その場合、規制をただ悪いとしていたら、必要な施策もとれなくなる。何でもかんでも規制を緩和しろ、なくしてしまえと言うのは、自由な市場を維持するという観点から逆行している場合があることを忘れてはならない。

 過剰流動性は、結果であって原因ではない。不況は、結果であって原因ではない。
 現象であって起因ではない。
 経済対策は、予防的な施策なのか。治療的な施策なのか。災害は、起こってからでは遅すぎる場合がある。人類の歴史は、自然災害との戦いの歴史でもあった。毎年のように氾濫する大河や台風、嵐、地震に対し、人類は、堤防を築き、あるいは、護岸工事をして災害を防いできた。台風や地震という防ぎようのない災害は、建物を堅牢にしたり、強風に耐えられるように工夫して対処してきた。それなのに、人工的な産物である経済にたいして、無為自然に任せればいいと言うのは、理解に苦しむ。

 何に対して過剰なのか。なぜ、過剰なのか。過剰なことのどこに問題があるのか。その点を明らかにしないで、ただ過剰だから悪い、悪いというのでは、対策の立てようがないのである。そこで問題となるのは、政策の目的である。

 つまり、経済政策は、常に合目的的な方策であり、その目的が妥当であるか、否かが、最初の問題なのである。

 行政府は、規制によって市場や産業を間接的に制御してきた。規制は、規則であって制約とは違う。

 なぜ、経済政策は、手遅れになりがちなのかというと、一つは、認識の問題がある。現象として現れた事柄から経済危機の兆しを読みとるのは、極めて難しい。
 また、多くの場合、渦中にある者が判断することになるので、どうしても認識が甘くなる傾向がある。なるべくならば良く思いたいからである。その為に、事態を正しく認識するのに時間がかかると言う事がある。
 例えば、バブル現象は、欲に目がくらんで熱に浮かされるようにして金儲けに奔走しているのである。しかも、バブル現象が起き始める時は、誰もが、儲かるように錯覚している。また、同じように投機に走らないと儲け損ない。下手をすると破産してしまう。逆に、バブルが弾けると一斉に資金を引き揚げてしまう。その時に、投資に走っても資産価格が下がっているから、資金を回収することが難しい。結局、全体の流れに乗る以外に手立てがないのである。

 対策を立てるのに時間がかかると言う事もある。危険を察知してもその危機の原因まで認識しているわけではない。多くの場合、経済の変動を引き起こしている仕組みが解明されているわけではない。原因が分からなければ、抜本的な対策を立てるわけには行かない。どうしても、その為に、応急処置、対症療法的な対策で終わりがちになる。つまり、当座の危機を脱する事だけで終わってしまうことになる。
 また、それを実行する以前に手続に手間取るという事がある。国民国家の宿命は、行政に与えられている権限には限界があることである。抜本的な処置を執るためには、立法府の後ろ盾が必要となる。その為に、必要な手続を行うために時間が費やされることになる。
 尚かつ、指示を関係部署に浸透させるのに時間がかかると言う事がある。対策は、組織的に、かつ広範囲に亘って行われなければならない。
 更に、それが効果を上げるまでに時間がかかると言う事がある。また、即効性のある政策というのは限られている。多くの政策は、実行されてから効果が上がるまでに時間がかかる場合が多い。そうなると効果を検証することも難しい。
 もう一つは、政策の一貫性を保つことが困難だと言う事もある。問題を認識してその対策を立て、実行し、効果が上がるまでに時間がかかるために、その間に政策の変更を受けやすい。その為に、当初、予定していた効果が上げられずに終わる場合もでてくる。

 また、経済政策を執行するにあたって広範囲の合意を取り付けなければならない。その為に、経済政策は、それが潜在的な危機であるうちは、広く合意を取り付けるのが困難であり、危機が顕著にならないと対策を打ち出しにくい性格がある。
 その上、経済危機を上手くやの過ごしたとしても、それに対処した者は、評価されにくいという事がある。
 医者は、病気を治すことによって評価されるが、病気を予防してもあまり評価されることはない。同様に、為政者は、問題を解決することによって評価されることはあっても問題を未然に防いだからと言って評価されることは少ない。
 うまくいって当たり前であって失敗すると、その結果だけで、為政者は、評価されてしまう。つまり、待ったなしなのである。

 だからといって手を拱いてみていて良いというのではない。何かをしたから経済危機が発生したというのではない。それは、結果に過ぎない。経済危機は、何もしなくても起こる。むしろ何もしないという事は、最初から経済現象を制御する事を諦めていることを意味する。経済の仕組みというのは、人工的な仕組みである。人間が制御することを諦めれば必然的に制御不能な状態に陥るのである。神の力に委ねるのは、愚かと言うよりも、無責任な所業である。
 経済危機というのは、一度起きると何年もの間、経済のみならず、社会全般に社会不安のような深刻な悪影響を及ぼし続ける。場合によっては、戦争という惨禍を招きかねない。
 例え、誰からも評価されずとも経済政策は、適時、早めに対処されるべきものなのである。

 経済政策には、金融危機や経済危機のような緊急事態に対する対策とインフレーションやデフレーションと言った経済の全般的流れや状況に対処する施策の二つがある。
 いずれも、対処療法的な施策と構造的な施策があるが、諸般の事情を鑑みると経済政策、中でも、産業政策は、対処療法的な施策よりも産業や市場の仕組みを構築するような構造的な施策である方がよりよいと考えられる。

 現代の経済で問題なのは、家計も、企業も、財政も赤字だと言う事である。
 そして、なぜ、赤字になるのかが理解されていないことが経済現象を混乱させているのである。
 赤字の原因を考えずに、何でもかんでも生産性を上げ効率化を計れば解決できると、短絡的に考えていることにある。

 なぜ、商品が売れないのか。それは、人々が、その商品を必要としていないからである。では、なぜ、必需品は儲からないのか。それは、必需品の多くは、大量に生産され、大量に消費されているために、過剰生産、過剰消費に陥っている場合が多いからである。

 経済は、人的な場、物的な場、貨幣的な場の三つの場からなる。
 それぞれの場は、それぞれ独立した場を形成している。そして、人の動きや、物の動き、貨幣の動きによって結び付けられている。
 人も、物も、貨幣も、三つの場から受ける働きによって運動が規制されるのである。故に、経済現象にも、人的現象、物的現象、貨幣的現象がある。主として経済現象と我々が称するのは、貨幣的座標軸に写像され現象は事象を指して言う場合が多い。

 つまり、経済的な現象には、人的現象、物的現象、貨幣的現象がある。
 そして、経済的空間は、市場と経済主体からなる。市場は、場であり、経済主体は、要素である。経済は、部分(個)としての要素と全体(集合)の二つからなる。

 また、空間を構成する個々の要素の動きを触発するのは、情報と規範である。

 経済政策は、人的な場、物的な場、貨幣的な場、各々の場に対して何に対し、何を使って、どの様に働きかけるかの問題である。
 そして、その答えは、問題を設定する上で、何を目的とし、何を前提するかによって決まる。経済政策は、合目的的施策である。
 その為に、経済の仕組みを予め明らかにしておく必要があるのである。

 典型的なのは、金融危機である。金融制度は、貨幣経済の根幹をなす。金融制度の基盤は、決済制度である。金融危機の多くは、この決済制度の障害によって引き起こされる。ところが為政者の多くは、決済制度に無理解である。その為に、政策が対処療法的な対策になりがちなのである。

 経済、市場、経済主体は、生き物である。動物は、呼吸をしている。脈も打っている。栄養や水分を補給しないと衰弱し、やがては死に至る。経済や、市場、経営主体も同様である。
 経済や市場、経営主体にとって必要な物は、資金である。利益は、体温のようなものであり、体の変調を知らせてはくれるが、それ自体が経済や市場、経営主体に不可欠な物というわけではない。:経済、市場、産業、経営主体を実質的に動かしているのは資金である。その資金を取り仕切っているのが決済制度である。

 資金の増減、流れには、波がある。それは、人間が呼吸をし、脈を打ち、栄養を補給するような事である。動物にとって呼吸や脈拍、栄養、水分が命に関わる大事であるように、経済にとって貨幣の流れは、存亡に関わる大事なのである。

 例えば、通貨の発行にも波がある。波がある。月でみると上旬は、還収超(通貨の回収が発行より多い)になり、下旬は、発行超(通貨の発行が回収より多い)になる。季節の要因では、行楽シーズンの前には、発行超になり、行楽シーズン後には、還収超になる。また、夏冬の賞与の前、決算前、納税前には発行超になり、国債の利払いの季節になると還収超になる。

 資金の流れや波を金融機関が乱せば、経済、市場、産業、経営主体は死んでしまう。資金の流れを制御しているのが決済の仕組みである。
 状況は、時々刻々、変化している。状況の変化を的確に読み、適切な処置を、行政も、金融機関も、行っていく必要がある。
 金融機関がマニュアル通り、決められて事以外の判断が出来なくなれば、状況に適した判断が下せなくなり、金融市場は危機的な状況に陥り、結果的に、産業や景気を悪化させてしまう。

 当たり前なことだが、良い時は良いのであって悪い時は、悪いのである。そして、悪い時にこそ、資金を必要としているのであり、良い時は、資金は、集まってくるのである。企業が資金を必要としているから融資をするのであり、資金を必要としていないときに融資をしても意味がないのである。その当たり前なことが金融機関は解っていない。
 解っていないから、表面的な決算数字だけを問題にするのである。そして、黒字でなければ融資をしない。だから、中小企業は無理をして数字を作るようになるのである。事業をどう評価するかが肝心なのである。

 資金の波は、長期的な要因と短期的な要因からなる。
 経営主体による波は、長期的な要因は、主として初期投資や設備投資からなり、短期的な要因は、運転資金を言う。長期的な資金は、固定的な要素を形成し、短期的な資金は、流動的な要素を形成する。そして、長期的な資金は、長期的な波を短期的な資金は、短期的な波を起こす。
 運転資金には、市場や産業、企業の消長による資金の拡大や収縮がある。また、季節変動に基づく資金の波がある。在庫の増減に基づく波がある。為替や物価の変動による資金の流れがある。
 個々の企業の波が寄せ集まって産業の波を作り、個々の産業の波が寄り集まって経済の波を形成する。

 長期的な波動、短期的な波動の持つ性格をよく把握して政策を立てることが重要になる。資金繰りが悪化しているときに教条主義的な政策をとって資金のバルブを閉めてしまえば、産業は壊滅的な打撃を受ける。地価が下落している時に不良資産の査定を厳しくして、生産を迫れば、かえって不良資産を増やしてしまう。デフレ期に時価会計を導入すれば、収益を圧迫する結果を招く。
 施策とその効果をよく見極めた上で、政策を立てる必要がある。前提や状況を見誤った政策は、決済制度そのものを破綻させてしまう危険性すらある。

 貸し渋りと言った現象が起こる原因は、むろん、個別的、あるいは特殊な要因による場合と、状況や融資側の行動規範による場合とがある。つまり、貸し出して言う行為を抑止する何等かの要因が働いていると考えるべきなのである。
 個別的、特殊な事由による貸し渋りは、通常の融資行為の範疇にはいる。それに対し、状況や融資側の行動規範に基づく行為は、その状況に対する認識や行動規範に問題がある場合が想定される。

 問題なのは、景気の悪化に伴い収益が低下した場合である。この様な状況化で、従前の貸出基準を適応したり、あるいは、更に厳しい基準を当て嵌めようとすれば、当然、貸出可能な企業の数は減少する。また、全ての産業を一律の規制や規則で統御しようと言うのにも無理がある。
 それは、例えば、景気の悪化によって資金需要が増大している状況で、貸出を絞ることになるような事態を起こし、景気は益々悪化させるという悪循環を引き起こしたりする様な状況になりかねないからである。
 その場合、その様な事態を引き起こしのは、融資側の姿勢に問題がある。企業の業績の悪化が、どの様な要因に基づき、また、一時的なものであるのか、恒久的なものであるのかを、個々の事例毎に融資側が行っていない、判断できないことが原因なのである。

 景気が悪化している時に、収益の悪化を、あるいは、資金繰りが苦しくなる環境の時に、キャッシュフローを理由に融資をことわったるのは、病人に、病気を理由に治療をことわるのに等しい行為である。それは、人道的な問題でもある。金融機関の人間が倫理観が欠如しているのではと言われる要因もその点にある。
 重要なのは、収益が悪化した原因であり、また、資金繰りが苦しい原因である。症状が一時的な原因なのか、慢性的な原因なのか、構造的原因なのかによって違う。また、固有の問題なのか、産業全体の問題なのか、経済状況の問題なのか、為替の変動なのか、政策の問題なのかによっても違う。また、外生的な要因か、内因的な問題なのかによっても違う。その点を見極めないと、治療法は定まらない。
 今の経済政策は、経済診断をせずに、外見や表面的上に現れた現象で判断した、対処療法的な施策に終始している。それが最大の問題なのである。
 
 金融の機能が発揮されなければならないのは、景気や企業業績が悪化した時である。その時、資金を引き揚げられてしまうのでは、何のための金融機関なのか金融機関の存在意義が問われる。

 合成の誤謬とは、自分の視野の狭さの言い訳に過ぎない。語彙性の誤謬というのは、目先の現象にとらわれて全体の状況を見落としているのである。木を見て森を見ずである。

 市場というのは、人為的な場である。人為的な場というのは、人工的に作られた空間に、人工的に作られた働きや力が作用している場だと言う事である。市場は、天然自然にある空間とは違う。それは、スポーツのフィールドのように人間によって作られ人口の空間なのである。
 人為的空間である市場には、人為的な範囲がある。人為汽笛な範囲は、法や要素が影響を及ぼす範囲を指している。国家は、国法の及ぼす範囲であり、必ずしも物理的空間に拘束されているとは限らない。つまり、それは観念的な空間であり、契約に基づく空間である。
 即ち、人為的空間は、有限な空間である。また、人為的な場も有限な空間である。これが物理学的空間との決定的な違いである。

 国家間には、制度的な歪みがある。典型的なのは、税制や会計制度、金融制度である。この国家間の歪みの是正は、経済政策上、重要な条件である。

 また、経済を現象は、情報によって引き起こされる。経済にとって情報は、重要な要因である。

 情報に基づいて結論を出す場合は、その情報と結論との因果関係をよく見極める必要がある。ある結果が出た時、その結果の原因となったのが、自分達が発信した情報という事さえあり得るのである。
 重要なのは、目的であり、手段ではない。手段は、目的に規制されるべきものなのである。手段によって目的が歪められるのは本末転倒である。
 格付けによって倒産する会社があるという事である。つまり、本来は、倒産を予測するはずの基準が、倒産の原因になるという事である。それによって倒産の予測値がよくなったとしても、それを精度が上がったと言いきれるかどうか。自分が事故を誘っていて事故の発生原因を突き止めたとしても事故を予測する精度が高くなったというのは、詐欺に近い。ウィルスを蔓延させて、そのワクチンを売るような行為である。

 倒産を予測することも大事だが、それ以上に大事なのは、倒産を防ぐ手立てを講じることである。

 人的な場である市場は、人間の手が加えられなければ、無秩序な空間である。
 つまり、自然の空間、ジャングルと変わりがない。支配するのは、個々人の力、暴力による力関係である。この様な力は、市場を偏らせたり、経済体制に歪みを生じさせたりする。
 むろん、だからといって、ただ、規則を定めただけ、そのまま放置し続けるならば、一定の水準に均衡してしまう。

 歪みや偏りは、産業間の収益格差や経営主体内部の所得格差として現れる。
 収益の格差は、貨幣価値体系に歪みが生じるさせてしまう。貨幣価値の体系の歪みは、人間の価値観、倫理観にをも歪めてしまう。拝金主義が好例である。
 楽をして金を儲けることばかり考えて、汗水垂らして働くことを厭うようになり。金を儲けの為ならば、どんな悪事をしようとも平気になり、人間としての誇りを失う。何が、人生にとって必要で、何が生きていく上で大切なものか、人間として何を守らなければならないのかを忘れてしまう。
 本来は、必要性が高い財ほど、価値が高ければならないはずなのに、不要な物、特殊な物、異常な物に高い価値が付けられたりする。
 つまり、産業間の収益力の差をなくすことは、経済政策の重要な指標、目的の一つである。

 価値観の歪みは、経済の選好に偏りを生じさせる。この様な偏りは、産業の収益力の差となって現れる。
 問題は、この歪みを必然的な結果として予防的な処置をとっていないことにある。
 産業の収益力は、一律に決まるものではない。個々の市場が持つ特性や環境、状況によって収益力に差が出る。その差を是正するのは、規制である。
 例えば、成長段階にあるIT産業と成熟産業である繊維産業や生鮮食品産業とでは、市場の環境も状況も全く違う。

 偏りが発生する原因は、過当競争、不当廉売、急激な技術革新、資金力の差(設備投資の差)、寡占・独占、闇協定・闇提携、人件費の差等である。しかし、これらの原因は、視点を変えると市場や経済に必ずしも負の働きをするというわけではない。一つは、捉え方問題であり、状況の問題なのである。大前提は、経済や市場をどの様な状態に保とうとしているのかである。そして、市場や経済の状況を維持しているのは、市場や経済の仕組みである。

 何が、正しくて、何が間違っているか。是々非々の判断は、その産業がおかれている状況や環境、前提によって違ってくる。設備投資に莫大な投資を必要とする鉄道やエネルギー産業と個人の能力に依存するソフトウェア産業とでは、採るべき政策が違うのが当たり前なのである。それを何でもかんでも闇雲に規制をなくし、自由に競争させれば、予定された調和に至るという発想は野蛮である。大体、調和に達することが本当に良いのかどうかも怪しいのである。

 市場原理主義者の中には、何が何でも規制は悪い者だと決め付けている者がいる。規制緩和という言葉にも、規制を単純に緩くすると言う意味合いしか感じられない。しかし、規制を緩和すると言っても、実際には、規制の一部を変えたり、また、規制を変更しただけに過ぎない場合が多い。なぜならば、規制を単純になくしたら、市場の規律は、保てなくなるからである。

 市場が飽和状態に陥っているのに、産業構造を抜本的に変革をしないと過剰生産、過剰消費、過剰債務、過剰雇用、過剰設備を生み出す原因となる。そして、余剰な財を社会に溢れさせる。
 競争原理を働かせて仕事の効率を図る、それは、無原則な競争を放置することではない。
 無原則な競争を放置する事は、伝統的産業や生活必需品の低廉化を招く。社会にとって必要な仕事、必需品を生産する産業が、コモディティ化し、人手不足に陥り事になり、反面、贅沢品の産業に人手が過剰に集まる事になる。

 市場を制御するのは、市場の仕組みである。市場の仕組みは、制度や規制、罰則、報償という観念的な仕組みを言う。

 経済政策とは、この市場を制御する仕組みを使って伝達され、発動される。行政府は、市場の仕組みを使って経済を制御するのである。

 市場原理主義者の者には、(よく彼等を市場至上主義者という言い方をするが、市場の機能、働きを正しく理解していないので市場市場主義者というのには、語弊がある。)規制を全て撤廃しろと言った乱暴な考え方をする者がいるが、それは、市場そのものを正しく理解していない者である。彼等が市場を重視しているというのは、とんでもない誤解であり、彼等こそ、市場を軽視しているか、無視しているのである。

 経済の円滑に機能しないとしたら、規制そのものが悪いのではなく。規制の在り方が、状況や環境に不適合なのである。

 硬直的な規制や偏った規制が問題なのである。規制が良いか、悪いかのが問題ではなく。適正な規制であったか、否かが問題なのである。その場合、規制の目的が基準となる。

 規制は、市場の自由な働きを阻害しているというが、では、自由な市場とは何かと言うことである。

 自由な動きを阻害する規制は不適合だと言う事は出来ても、規制が自由を阻害しているというのは、間違った認識である。
 規制は、規則であって、阻害ではない。
 それは、法が罪を作るのだから、法がなければ罪が生じない。だから、法をなくせと言うのに相当する。確かに、法によって罪は定められる。しかし、法を否定してしまったら、自由主義社会は成り立たないのは、自明な事である。
 規制が経済を作る。それは、事実である。だから、規制をなくせと言うのは論外である。問題は、規制の在り方なのである。
 また、自由が全てではない。仕組みとは、自由を抑制することによって成り立っている部分もある。問題の焦点は、経済の目的であり、規制がその目的に適合しているかなのである。

 付加価値、付加価値と新興産業ばかりに収益の偏りが生じると農業や漁業と言った伝統的産業や生活必需品、消耗品の産業が衰退してしまう。それは、伝統的産業や必需品、消耗品は、技術革新の速度が弱まり、産業の標準化、平準化が浸透しているからである。
 基幹産業が貧者の産業化してしまうのである。








                    


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