現代社会で重要な役割を果たしているのが負債、即ち、借金である。現代貨幣経済は、借金経済である。現代の経済は、借金によって廻っていると言っても過言ではない。それは、紙幣が成立した時の経緯を見ると明白になる。紙幣が成立した時点で、現在の経済が借金によって成り立つことは運命付けられたと言ってもいい。
 紙幣という計上貨幣の成立させた要素が、金と国債と言う事によって象徴される事を意味している。しかも、その借金してまで必要とされる資金の使い道は戦争である。つまり、近代貨幣経済は、紙幣と金、国債、戦争が鍵になって成立したのである。
 突き詰めてみると、紙幣というのは、金を担保とした預かり証、言い換えれば、借用証書のようなものである。
そして、借金には、本来、金利がついて廻るのである。本来というのは、現在の銀行の預金には、金利がないも等しいからである。金を借りたら、増やして返さなければならない。だから、収益をあげる必要があるのである。(「「お金」崩壊」青木秀和著 集英社新書)
 今のようにゼロ金利というのは異常なのである。しかし、これは異常な事態なのである。現在の日本の社会の異常さは、異常を異常として認識できないことである。金という物の本質的な部分に借金という性格がある。それを忘れてはならない。
 金という担保を外すと債務しか残らない。その性格が顕著に現れるのが取り付け騒ぎである。

 英国の中央銀行であるイングランド銀行は、1694年、ファルツ継承戦争の軍事費を調達する目的で、ウィリアム・パターソンの原案に基づき120万ポンドの公債を応募し、(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)その代償として公債と同額の銀行券を発行する権利をえ、それに伴って両替、為替、振替、預金と言った銀行業務一般を行う銀行として同年7月27日のウィリアム3世・メアリー2世の勅令により認可された。また、併せて証券市場の整備も行われたのである。(「東インド会社」浅田實著 講談社現代新書)

 この様に、発券業務を司る中央銀行は、公債、軍事費という要素を鍵にして成立したのである。この事は、後の金融制度に決定的な影響を与えた。

 軍資金としても国債が返せなくなったところから、実は、近代は始まったとも言える。君主が国民に借金をしたところから民主主義も資本主義も始まった。

 また、国債の歴史は、議会の誕生によって始まると言われている。しかも、国債という国の借金は、将来の税収を担保にして成り立っていた。しかし、それも君主制度下では、たびたび、踏み倒され、また、税に置き換えられた。国債の信用が確立されるのは、議会によって保障される事による。(「国債の歴史」豊田俊基著 東洋経済新報社)

 ここで重要なのは、税も議会も国債という借金の存在が成立に関わっているという事である。この事は、現代の財政問題に重要な示唆を与えている。つまり、近代の経済というのは、負の部分によって始まったと言うことである。これは、経済上の虚数みたいなものである。負であるからこそ、経済は拡大し、発展したのである。

 更に、株式会社や資本市場が確立される黎明期に起こったミシシッピ会社事件や南海バブルは、国債を新株に置き換えるという手法によって起きた事件である。しかも、ミシシッピ会社は、その後、貨幣鋳造権と徴税請負権を手に入れている。

 南海バブルの発端は、NTT株で国債を肩代わりさせたようなものである。南海会社に国債を引き受けさせ、会社は、それと同額の株式を発行できるとしたのである。つまり、負債、即ち、借金を資本化する事である。ここに資本の本質が隠されている。資本の本質は、返済を予定していない負債とも言えるのである。

 さらに、現在の経済は、信用制度を土台にして成り立っているがこの信用制度が負債の基盤となっている。言い換えると、信用取引というのは一種の借入行為である。信用取引の信用とは、与信の信であり、借金を成立するための前提となる信用なのである。つまり、借金をするために、何を担保として信用を築くかの問題である。

 つまり、近代経済を構成する主要な要素である議会、貨幣、金融制度、国債、税、資本市場、株式会社の根底を結び付けているのは借金であり、その借金の原因を作っているのは戦争だと言う事である。この点を見逃すと現代資本主義の正体は見えてこない。

 借金は、増やして返さなければならない宿命にある。金利がつくのである。これが、近代の収益の概念の元となる。そして、金利や収益は、時間的価値を経済の世界に持ち込む。この時間的な価値が、近代貨幣経済、市場経済の骨格となり、現代経済体制を形作っていく。
 しかし、右肩上がりの経済を前提とするのは、危険である。右肩上がりとは、拡大、成長を前提としているという事であり、一度、拡大や成長が止まり、市場の縮小や停滞が始まると歯車が逆回転を始める仕組みなのである。

 資本と負債は、総資本の中にある課目である。ある意味で類似した機能を持つ課目なのである。

 借金が、問題なのである。例えば、自前の金で株を買った場合と借金して株を買った場合、特に、信用取引のようにレバレッジ効果を最大限活用して株取引をした場合を考えてみればいい。
 自前の資金で株取引をしたら、一時的に損をしても、換金しない限り表に出てくるわけではないし、俗に言う塩漬けにして利益がでるまで持っていればいい。会社が倒産しない限り、損が確定するわけではないし、返済を迫られるわけではない。大体、自前の資金で株取引をする者は、生活費をつぎ込んでまで株を買っているわけではない。それに対し、借金で株取引をした者は、常に、返済におわれる。しかも、信用取引をしていた場合、損は、損が一定額を超えると追い証を支払わなければならなくなる。
 故に、自前の資金が大切になる。その自前の資金が資本なのである。

 借金があるから、事業を拡大することができる反面、借金があるから事業や資金が廻らなくなり破産するとも言えるのである。

 又、レパレッジ効果によって生み出された資金が、投資先を求めて世界の資本市場や金融市場、先物市場を徘徊する。それが、急激に流れ込んできたと思うと、流れ込んできたときと同じように、急激に逃げ出していく。その急激な変動が世界経済を震撼させるのである。

 自前の資金で成り立っているのが自己資本である。ただ、自分が持っている財産と資本とは、若干、意味合いが違ってくる。資本とは顕現化した部分であるが、財産というのは貨幣価値に換算されていない部分も含まれる。又、顕現化された分、資本にはコストがかかる。

 この様に借金の技術の発達が近代経済を育んだとも言える。
 借金の技術は、貨幣経済が発達するのにともなって進化してきた。つまり、借金は、貨幣経済の申し子とも言える。

 バブル崩壊後、経済を深刻な状態に落としたのは、不良債権問題である。しかし、不良債権問題を深刻にしたのは、不良債権の真の原因を見極められなかったことにある。単純に地価の急激上昇とそれに対する過剰貸付が原因であるという味方が体制であった。しかし、不良債権の原因はそれほど単純な問題ではない。不良債権こそ、負債の性質の本質を象徴している。

 不良債権問題は、経済に対する基本的認識に基づく考え方からきている。何が不良債券化の不変的、普遍的基準なんてないのである。不良債権を一時的な担保割れと見るのか、恒久的な担保割れと見るのかの差である。一時的な担保割れだとしたら、担保価値を取り戻すまで待てばいい。恒久的な物だとすれば、清算することを考えなければならない。いずれにしても、闇雲に資金を回収すればいいと言うのは乱暴な話である。それは、担保している資産をどの様に見るかの問題である。例えば、土地ならば、減価しても長い目で見ればある程度価値を回復する可能性が高い。
 それなのに、不良債権を何が何でも処理しろ、処理しなければならない。不良債権がある会社には、追加の融資はしてはならないという論法を、振り回す、評論家がいるが、なぜ、不良債権を処理しなければならないのか。例え、担保としてとった資産が、担保価値を割り込んだとしても返済を滞っているわけでもなし、又、業績が悪いわけでもない会社から資金を引き揚げ、無理矢理倒産に追い込むことが、本当に、景気の活性化に繋がると信じているのであろうか。
 よく金融機関は、はれた時に傘を貸して、雨が降ってくると傘を取り上げると言うが、本当に、それで金融機関、本来の、機能を果たしていると言えるのか。

 不良債権に関するキーワードは、第一に、時価、第二に、原価、第三に、借入額、第四に、担保価値、第五に、オーバーローン、第七に、逆ざや、第八に、支払い能力、第九に金利である。
 不良債権の真の原因は、債権価値と債務価値の乖離にある。そして、この債権価値と債務価値の分離から派生した言葉がこれらのキーワードである。

 債権者も、債務者も、債権、債務が、発生した時点から乖離が始まることを前提としていない。債権者も、債務者も、債権、債務が発生した時点で債権債務の関係は完了しているとみなしている場合が多い。しかし、この錯覚が、不良債権の原因となる。債権、債務の価値は、時間的な変化に個々の債権、債務によって違いがある。しかも、同じ物でも債権と債務に時間の経過によって違いが生じる。その違いが、表される場所によって取得原価で表示されたり、時価で表示されたり、償却額や残額で表示されたり、担保価値で表示されたりするのである。特に、在庫の価値は複雑である。評価の仕方よって、収益、利益が微妙に変化するのである。

 それは、資産、負債、資本の時間的価値の測定基準がそれぞれ違うからである。

 時価というのは、最も客観的だとしたり顔で間の抜けた説明をしていたテレビキャスターが居たが、不動産価格でも一物五価と言われるくらい、基準が沢山ある。また、株のように相場が乱高下する物もあり、一日の内でもどの時点を取って価格を決定するのかによって価値が、何倍も違てくる物もある。つまり、時価というのは、客観的というよりかなり恣意的な基準なのである。故に、従来会計は、取得原価主義を貫いてきた。反面、時価というと時価以下主義、つまり、保守主義的考えから過大な評価を避けてきたのである。つまり、未実現利益は、計算に入れないできたのである。しかし、これは、土地を担保として資金調達をする含み資産経営を許すことになる。これは不良債権の布石となる。

 担保価値、特に、不動産の担保価値は、担保する物件の相場に基づいて設定される。故に、担保する物件が不動産ならば不動産の相場によって変動する。不動産相場が上昇局面で在れば、担保不足は生じないが、下降局面にはいるととたんに担保不足が表面化する。日本経済は、バブル崩壊以前は、右肩上がり、常に地価は、上昇してきたため、担保不足は派生しなかったが、バブル崩壊後、下降局面にはいるととたんに担保不足が表面化し、それが不良債券化することになる。これは、日本が債務者主義をとっていることも一因である。

 負債は、基本的に元本と金利とから成り、金利には、変動金利と固定金利があるが、元本は、額面に基づいている。つまり、基本的には、元本の貨幣価値は不変である。つまり、負債の元本の価値は、貨幣的に一定している。

 これらが複合して不良債権は派生した。

 負債は、流動負債と、固定負債からなる。流動負債は、主として仕入れ債務と短期借入からなる。固定負債は、長期借入金からなる。負債の構造は、この流動負債と固定負債、そして、資本との関係によって成り立っている。また、負債の機能は、その対象勘定である資産の性格との関係によっきまる。

 負債の構造というのは、基本的に元本と金利とから成る。金利は、経費である。故に、損益上に現れる。しかし、元本の返済は、どこに現れるのか。問題はそこにある。元本部分は、負債に現れる。という事は、元本の返済は、貸借の上で為されるという事なのである。その原資は、減価償却費と資本である。資本とは、繰越利益の中から返済の必要のない資本によって置き換えられることになる。

 元本の返済は、非貨幣性費用である減価償却費として一旦損益上に計上されその上で、現預金勘定と相殺される形で返済される。これに対応する勘定科目は固定負債と、費用性資産である。つまり、長期借入金と償却資産である。言うなれば、長期借入金は、元本の塊であり、償却資産は、費用の塊(かたまり)と言える。固定負債と費用性資産が対応している場合は良いが、時間的にズレが生じるとそこに不具合が生じる原因となる。

 また、借入金と相対する科目が非償却資産、例えば、不動産だとその元本の返済は、繰越利益、つまり、資本勘定の中から行わなければならなくなる。不動産が稼働中であったり、何等かの理由で売却益が見込めない場合、不動産投資は、オーバーローンの原因となる。つまり、不動産投資というのは、借入に頼るべき投資ではないのである。

 負債の問題の背後にあるのは、投資は何によってまかなわれるべきなのかの問題である。言い換えると資金の調達とその運用は、密接に関係しているという事である。償却資産は、借入によってまかなわれたとしても収益が上がっている限りは、元本の返済に支障をきたさないが、不動産は、返済を伴わない資金によってまかなわれないと元本の返済額を上回る収入が伴わなくなると元本の返済の支障が生じる危険性がある事になる。つまり、オーバーローンとなって不良債権化する危険性があるのである。

 ところが日本では、含み経営が常態化したために、また、物価の上昇率や地価の上昇率、経済成長率が元本の返済額を上回っていたために、オーバーローンが表面化することはなかった。しかし、地価が一転して下落し、経済上昇率が鈍化するとオーバーローンが表面化してきたのである。それが不良債権の実体である。

 融資は、本来、土地に対してされるものではなく、事業に対してなされるものである。ところが、担保主義は、担保に価値を見出すために、土地に融資をしているのと同じ事になる。

 近代会計は、資産による支出と負債による収入を、収益と費用から除外することによって成り立っている。問題は、コスト・パフォーマンス、即ち、費用対効果の問題である。しかし、ここで言う費用とは何かである。効果とは、成果である。その成果をもたらすために費やされる、又は、使用され、転移される財貨を費用というのである。そして、費用は、発生した時点で認識される。それが発生主義である。
 会計的価値は、認識によって確定される。故に、認識時点と認識事項が重要なのである。
 取引によって負債には、債務が、資産には、債権が生じる。債務や債権の中で長期的な物は、期中に処理するとその期に費やされる財貨と成果とを結びつけることができない。故に、それらが機能する期間で按分するのである。それが非貨幣性費用である。この非貨幣性費用の概念が成立したことが近代会計制度と資本主義を成立させた。

 取引とは、資産、負債、資本、収益、費用の増減を引き起こす行為である。また、取引とは、基本的に貨幣を媒介として、資産、負債、資本、収益、費用の交換を前提として行為である。

 取引によって債権と債務が生じる。この債務と債権は、それぞれが独自の価値を生み出し、そして、債権価値と債務価値は、時間とともに分離するのである。ここで重要なのは、時間の要素である。債権、債務に関する時間価値の違いが負債の性格を決定付けている。

 我々は、経済的価値を絶対額で捉える傾向があるが、経済的価値は、相対的な価値である。そして、この相対性は、時間と環境に強く関係している。

 問題なのは、債権価値と債務価値が時間とともに分離することである。それを解消するためには、債務者主義から、債権者主義へと変更する必要がある。つまり、債権、債務関係は、それが成立した時点で完成されている必要があるのである。債権者は、担保を設定した時点で、リスクも負担すべきなのである。そうすれば、担保物件をあてにした安易な融資は減る。そして、事業収益、フローを重視した収益還元法が基本となる。それが本来の融資の姿勢である。収益以上の投資は、危険を伴うのである。借り手も同様である。

 バブル崩壊後の不良債権というのは、地価の下落に伴って担保価値が下落しのに、負債の元本は貨幣価値が不変で一定している。その為に担保価値が不足した。いくら金利が低下してもこの担保不足は解消されず、例え、土地が下げ止まっても担保不足に変わりはない状態となる。しかも損が確定しない限り、収益によって補填することもできない。不良債権を売却することによってはじめて解消されたのである。

 この様に、貸借対照表上の毀損から生じた不況なのでバランスシート不況ともバブル崩壊後の不況は言われたのである。

 しかし、これが債権者主義の立場をとられていたら話は違っていたのである。

 債権者主義においては、不良債権は、会社が倒産し、清算されないかぎり、表面化しない。つまり、債務価値の下落は、債権者が負担するために、債務者は、それを担保不足として表面化する必要がないのである。それは、貸し手のとっても借り手にとっても都合の良いことである。
 債権と債務は、それが成立した時点で解消されない限り、符合することはない。
 考えた見れば、家を担保してローンを組みながら、ローンが支払えなくなったような事態が生じた場合、家を取り上げられた上に、ローンの残債も残るというのは不合理である。貸しては、ローンが支払不能になったときの担保として家を担保したのであるからである。

 アメリカのサブプライムローン問題で、ノンリコースローンが問題となっている。ノンリコースローンというのは、担保物権以上に返済責任を負わないローンである。つまり、債権者主義に立ったローンであり、アメリカでは、一般にノンリコースローン(非遡及型融資)である。それに対し、日本は、基本的に債務者主義、リコースローン(遡及型融資)である。サブプライム問題が深刻化したのは、ノンリコースローンでノンリコースローンは、無責任ローンだと言った記事が一部の週刊誌に載ったが、それは、錯覚である。(「週刊現代」2007/12/15号 講談社)ノンリコースローンは、あたかもリスクがないような記事であるが、ノンリコースローンでも返済が滞れば、処分されることにかわりがない。ただ、債権額の上限が決められているローンのことであり、債務の放棄や免除意味しているわけではない。
 記事の内容を見るとサブプライドローン(低所得者向け住宅ローン)を、土地の値上がりをあてにして証券化し、不動産ファンドとして売り出したことに問題があるのである。
 大体、投機やギャンブルの目的でノンリコースローンを活用するのは、邪道であり。借金をする場合、最初から返済計画や収支計画が明確でなければならないはずである。サブプライドローンで住宅ローンを組んだ者は、基本的に自分の家を購入しているはずである。自分の持ち家である以上ローン返済は大前提であり、返済ができなくなった場合を前提としていない。問題は、返済が滞る事態が発生することである。それは、基本的に景気の悪化による雇用問題である。また、土地の値上がりによるキャピタルゲインを目的としてローンを組んだとした場合、これは論外である。それがなぜ問題化したのかというと、ローンの最終責任を直接投資たものがとるのではなく。不動産ファンドに投資した者がとるという仕組みなのである。そうなると、最終責任を負う者と最終的に責任を果たす者との間に直接的な関わりがなくなる。結局得をするのは、その間に立った者なのである。ノンリコースローンというのは、貸し手が、借り手を厳格に審査することを前提としている。その前提が守られていない例を挙げてノンリコースローンは、無責任ローンだというのは無責任である。
 それよりも、なぜ、アメリカではノンリコースローンが一般的であるかを考える方が大切である。

 もう一つは、証券化の問題である。証券化、セキュリタリゼーションは、画期的な仕組みであり、資金調達に新たな選択肢を増やした。しかし、同時に、それだけのリスクも増したのである。リスクがあるからと言って臆病になるのではなく、重要なのは、証券化のルールをしっかりと確立することなのである。

 サブプライム問題は、債権者主義か、否かという問題よりも、利益を得る者と損失を被る者が同一でないと言うことに問題がある。要は、モラルハザードの問題である。証券化の問題もしかりである。証券化の是非を問題とする以前に、どの様な仕組み、制度でも悪用しようとすればできると言うことである。そして、その様な悪用をどの様にして防ぐかが重要なのであり、ただ、証券化を悪用する者がいるから、証券課は止めてしまえと言うのは、短絡的で、乱暴な話である。(「サブプライム問題の教訓」江川由紀雄著 鰹、事法務)

 人の一生には、波がある。良い時も悪い時もある。会社の経営も同じである。常に一定の業績を上げられるとは限らない。企業業績が悪化したからと言って、解雇されたら安心してその会社に勤めることができない。また、業績が悪化したからといって資金を引き揚げられたら経営は成り立たなくなる。悪い時だからこそ、雇用を、資金を必要としているのである。
 銀行は、晴れてる時に傘を貸して、雨が降ってきたら返せと言うと言われている。それでは、金融機関、本来の機能を果たせない。金融機関は、環境の変化を適切に捉え、その環境に合わせて金融活動、融資行為を行うべきなのである。環境が悪くなっきたから返せと言うのでは、役に立たない。問題は、企業業績が悪化した時、それが外部要因、即ち、環境の変化によるものなのか。それとも内部要因、つまり、経営責任によるものなのかを見極めることである。又、一時的な問題なのか。それとも恒久的な問題なのかを見抜く目を養うことなのである。
 借金というのは、将に、金に困っているからこそするのである。問題は、なぜ、金に困っているかである。金融機関は、金貸し業である。金に困っている人間がいるからこそ成り立つのである。困っている人間に金が融通できなくなったら、金融業は成り立たなくなる。それが負債の本質なのである。

 不良債権問題を短期に均衡させようと言うのは間違っている。不良債権の本質が貸借上の問題というならば、経営をしっかりと見極めるべきなのである。担保価値が劣化したからと言った資金を引き揚げられたら、企業経営は継続できない。元々、経営というのは、継続を前提したものだからである。そして、経営を継続していく上で何よりも重要なのは、資金の供給と資金計画である。その当てができなくなれば、企業の存続が危ぶまれるのである。一時的な企業業績の悪化は防げない、その時にこそ、企業は金融機関に助けを求め、融資の効果が上がるのである。それを企業業績が悪化したからと言って闇雲に融資を中断、資金を引き揚げるのは、病人の息の根を止めるのに等しい行為である。
 

負債構造

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