資本主義体制には、二つの流れがある。一つは、株主資本の流れであり、もう一つは、金融資本の流れである。株主資本の流れが、資本市場を形成し、金融資本の流れが、金融市場を形成してきた。この二つの流れは、互いに独立して存在するわけではなく。補完し合い、相互に影響、作用を及ぼしながら生成発展してきた。
 ただ、資本市場と金融市場とは、本質が違う。資本市場を成立させているのは、資本、即ち、証券である。それに対して、金融市場を構成しているのは、負債、即ち、借金である。故に、資本市場が重視するのは、株価の動向であり、その根拠となる収益力、資本力、キャピタルゲイン、配当である。それに対し、金融市場が重視するのは、支払い能力、担保力であり、基本的に金利である。
 資本市場の主体が投資家であるのに対して、金融市場は債権者であることによる。また、ここから納税に対する考え方も違ってくる。
 本質が違うから、構造も仕組みも違ってくる。資本市場も金融市場も会計制度の上に則ってはいるが、会計制度に対する見方や処理の仕方は自ずと違ってくる。その点を正しく理解しないと資本主義体制の仕組みを錯覚することになる。依って立つ法も資本市場は、証券取引法であり、金融市場は、商法なのである。会計基準について論議する時、この視点を欠いている場合がある。資本市場と金融市場とでは土俵が違うのである。
 株式会社は、このうちの資本市場における中核的担い手である。そして、資本主義的な論理というのは、主として資本市場を基礎としている。必ずしも資本の論理と金融の論理は一体ではない。ただ、資本主義というのは、資本市場と金融市場の二つの市場を基盤にして成り立っているのであり、いずれか一方が是か否かという問題ではない。

 故に、資本と負債は、会計制度上、総資本の部を構成する。そして、負債の部と資本(新会社法では純資産)の部の違いが、金融の論理と資本の論理の違いをよく現している。ちなみに、新会社法は、資本の部を純資産の部と改称したが、これは、象徴的な出来事である。なぜならば、純資産という名称は、金融的性格を現しているのに対し、改称に伴う資本の取り扱いは、資本市場の特徴をよく現している。

 先ず、負債は、返済すべき債務である。それに対し、資本は、返済を必要としていない。その為に、負債は、他人資本、資本は、自己資本と呼ばれることもある。いずれにせよ、負債と資本は、同根のものであることを意味している。負債は、金利をもたらし、資本は、配当をもたらす。過去において、負債の売買はできなかったが、近年ではこれが可能となった、それによって負債と資本とは、性格を更に近づけている。ただ、負債の場合、株式市場のようなオープンな市場が形成されているわけではない。それは、負債が相対契約に基づいているからである。その為に、負債は、売買が可能となったといっても負債には、何らかの制約条件があり、株のような自由な売買が可能だというわけではない。資本は、経営権に直結している。つまり、公式の株主総会等による経営に対する権利、関与が認められている。それに対し、公式には、金融市場は、経営に関与する権利がない。

 債務と債権は、信用通貨を創出する。その意味では、負債、即ち、借金も、資本、即ち、株も信用通貨を創出する。資本市場の乱脈は、通貨の流通に悪影響を及ぼすのである。
 資本主義体制下では、金融市場や資本市場は、信用の創出が可能である。これによって通貨、信用貨幣が創出され流通してきた。その典型が、銀行券である。現在通貨の発行は、多くの国家において中央銀行に限定されている。しかし、理論上は、金融市場や資本市場は、信用通貨を創出することが可能である。
 国債の発行は、通貨の供給量を増加させる。

 債務は、資産に転換される。会計学的に言うと、総資本から総資産に変換される。その過程で損益が生じる。損益の過程は、労働と分配、財の生産と資源の消費と言う行為を生み出す。その過程で貨幣価値の創出と環流が起こるのである。債務は、所得と生産の源泉である。債務が財を生み出すのである。残、出、入、残が一つの工程である。

 金利は、収益に連動しないが、配当は、収益に連動する。金利は、金融政策の影響下にあるが、配当は独立している。借入は、運転資金の様な一時的資金需要に活用できる。借入は、必要な時に必要な量、調達できる。反面、収益と関係なく一定額、また、予め、契約によって決められた額、返済しなければならない。つまり、返済は、待ったなしにくる。ゆえに、金利は、費用である。
 資本は、返済する必要のない金であり、収益が上がらなかったら、配当を払う必要がない。故に、配当は、利益処分である。

 不良債権は、純資産価値の低下が主たる原因で起こる。不良債権とは、純資産価値の低下によって純資産の中の含み資産に頼って設定された担保価値が低下し、債権と債務が乖離することによっておこる債務超過状態を指す場合が多い。債務超過状態でなくても担保に頼っていた資金調達力が低下する。債務超過状態では、新たな資金を調達できないから、運転資金に窮したところから、倒産していくのである。新たな資金を調達する必要のない企業は、いくら不良債権を抱えていても倒産はしない。この状態では新たな資金需要は起こらないから、経済は停滞する。
 不良債権問題では、現実離れをした議論が横行している。実際の経営の現場を知らない、学者やジャーナリスト、官僚、政治家が、実務とかけ離れたところで議論をし、政策を決定していることが最大の問題なのである。
 彼等は、不況によって衰退産業は淘汰されればいいと勝手な事を言うが、では、衰退産業とは、何を指して言うのか、明確に定義がされているわけではない。
 企業が倒産する原因は、計り知れないものがある。単純ではない。真面目にやっていても資金が続かなくなれば、資金繰りに失敗すれば倒産するのである。衰退産業だから、斜陽産業だから、不必要な産業だから淘汰されるというのは、短絡的な見方である。放漫経営とか、内紛が原因というのは、皮相な見方である。大体において、経営が立ち行かなくなれば放漫になったり、内紛が生じるのである。それは、結果であって原因ではない場合が多い。真の原因は、為替の変動や資源エネルギー価格の高騰、ライフスタイルの変化、災害、新興国の台頭と言った外的要因による場合が多いのである。そして、その根本は資金力である。
 結局、資金調達力がない企業が退出せざるを得ないのであり、結果から言えば、資金調達力のない企業が衰退産業だと言う事になる。確かに、収益力を失った企業は、資金調達力は低下する。しかし、それ以上に、新興企業も資金調達力はないのである。これから、と言う所謂ベンチャー企業も一部を除いては、資金難な状態にあり、問題となっているのは、特殊な技能はノウハウを持ちながらも資金が続かない企業や、これからテイクオフしていこうと言う企業が失速して倒産していくことなのである。ところが学者やジャーナリストは、結果だけ見て、そう言う産業は衰退産業だという。彼等の言う衰退産業の中には、多くの可能性を秘めた企業が含まれているのである。
 大体、経営というのは、予測不可能だから成り立っている部分がある。経営は、当事者にしか理解できないことを多く含んでいるのである。部外者では、なかなか査定ができない。だから、元々、銀行だって、投資家だって、経営の内容を正確に理解して融資しているわけでも、投資しているわけでもない。銀行員というのは、世間で考えるほど、お人好しでも、優秀なのでもない。銀行は、元々、資産力、担保力を見て融資しているのである。だから、担保価値が低下しない限り、不良債権は、発生しにくい構図となっているのである。
 バブルの一時期、担保力を上回って融資が実行されたケースはあるが、それは、あくまでも特殊な例であり、状態ではない。不良債権大多数は、不良貸付によって生じたのではなく。純資産価値の低下がもたらしたものである。
 純資産価値の低下がもたらす不良債権処理は、不足した信用力を何等かの形で補充するか、債権と担保とを一時的に切り離すかしない限り解決しない。その対策の典型が、増資によって担保力を補充するか、債務の免除によって債権と、担保を切り離す事である。ただ、その場合でも、純資産そのものの価値の低下を補いきれるものではない。純資産価値の低下は、純資産価値が上昇しない限り、本格的な不良債権の解消には至らない。

 金儲けは悪いことでしょうかと言った投資家がいる。金儲けは、悪い事ではない。金儲けを最終目的とし、手段を選ばなくなった時、金儲けは、社会に甚大な被害を与えるのである。つまり、金儲けを目的化した時、事業は成立しなくなる。収益も、金儲けも、事業の結果であって、事業の目的が収益主義によって歪められてしまえば、事業そのものが立ち行かなくなるのである。

 私は、資本主義体制下、市場経済下において非営利団体と言うものが存在することが理解できない。その様な団体は、最初から市場主義という経済原則からかけ離れた存在である。
 市場経済下では、利益を上げるというのは、経済的に自立しているという証である。また、団体であり、組織がある以上、その団体、組織、機関で働く者がいて、彼等は、そこで得た所得で生活の糧を得ている以上、彼等も一般の労働者と何ら変わらないのである。また、その団体が、何等かの社会活動をしている以上、その仕事の内容は、他の営利団体と何ら質的な差はない。仕事は、仕事なのである。適正な対価、報酬があって成り立っている。何ら特別な仕事をしているわけではないのである。彼等が仮に無報酬で働いているとしたら、それ自体が問題となる。つまり、無報酬でそれだけの仕事ができる環境、状況であることを前提としているからである。それが可能なのは、特権階級だけである。

 公共財を扱う公共機関だとしても税収の範囲内で支出を納める必要がある。さもなければ、公共機関の規律は失われる。

 金儲けが善いか悪いかを問うているのではない。金儲けには、色がないのである。金を儲けるだけならば、人を騙してでもできる。事実、商売人を詐欺師、ペテン師のような見なしていた時代もあるのである。そうではなく、市場経済下では、収益は、不可欠な要素の一つだと言う事だけなのである。だからといって何をして儲けても良いなどと言っているわけではない。自ずとそこには、規律が求められる。その規律が失われつつあるから、問題となっているだけである。反対に、金を儲ける事は悪であり、金儲けのために、働いているわけではないと大見得を切るのもおかしいと言っているのである。利益は指標なのである。損益の問題を善悪の問題にすり替えて、自分達の力不足をシステムや制度の性にするのは、お門違いである。経営の失敗して自殺した者がいたとしても、それは、制度の問題ではなく。経営者個人の資質の問題である。

 株式会社は、資本市場の申し子である。つまり、資本主義体制から、生まれると共に、資本主義体制を確立、補強、発展させてきたのが株式会社である。株式会社は、資本主義そのものであり、株式会社の論理は、資本の論理である。それを裏付けてきたのが、近代会計制度とその基盤である複式簿記である。

 問題なのは、昨今、資本市場が賭博場と化している事である。資本市場が、実体経済から乖離し、それ自体が投機の対象となりつつあることである。株券が貨幣的価値を持ち始めている。その事が通貨の流通に影響を及ぼし始めている。

 投資なのか。投機なのか。この見極めは非情に難しい。ただ、投機的資金によって実物経済と乖離したところで株価が乱高下し、それが実物経済である為替に影響をあたえるのは、通貨の政策上好ましいことではない。

 資本市場の品位が問われているのである。即ち、資本市場の規律が求められているのである。


 Since 2001.1.6
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano

資本市場